他の方々の関連諸論稿

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初出年月  執筆者名    表       題   備    考
1949.11 斉藤  正 都市行政における企画機関のあり方 企画業務の心すべきこと
2000. 6 清水  武彦 自治の時代のパートナーシップ 自らの体験から現代的公務員像を提示
2002.10 梶    宏 ドキュメント 京都市政 戦後京都市政をあやなす人々の記録 次代に伝えるために
1996.3 竹村 保治 大都市行政区再編成の研究 主に大阪市行政区の分区、合区の歴史的研究

 

都市行政における企画機関のあり方

斉藤  正(元京都市企画局長)

<解説>

都市行政における企画調整業務に
関する古典的文献として

 ここでは都市行政を問題としているものの、企画業務というのはどのような組織団体にも不可欠なものである。しかし、この業務ほど難しくかつ生臭いものもまたないといえよう。それは、組織内における権力の形成に密接に関係しているからである。
 企画業務というのは、個別の具体的な事業に対する権限を持つものではない。それだけに、机上における抽象的なプランに終わるはかないものとなる可能性がある。したがって、何か具体的な権能を欲しいという声は、過去幾度か聞いてきた。その反面、個別事業の位置付けも総合企画の中で行われなければその具体化が図れないということから、そのやりようによれば、企画のセクションの長はトップ、すなわち市長に次ぐ権力を持つに至ることになる。場合によれば助役を凌ぐ力を持つこともある。
 企画業務は、あくまでトップのリーダシップによって進められ、その成果はトップと組織全体に帰するものでなければならない。ここに紹介する論稿は、企画業務を軍隊における参謀に比定し、その役割と心得を的確に指摘している。企画業務の担い手は、優れた見識と広く、深い視野並びに建前でない本当のところの情報収集の能力を要求される反面、その成果は自分自身のものにしてはならないのである。その心得をはずしたとき、企画組織そのものがトップの参謀役から並ある事業部門の一つに過ぎなくなるのである。過去京都市において、その必要性がいわれながらも20年ばかり企画部門の設けられていない時期があったが、その原因には、こうした企画部門の難しさと共に、それを担い得る適格なる人物の選定にためらいがあったものと考えられるのである。
 ここに紹介する論稿は、1949年11月開催の第11回全国都市問題会議の研究報告としてまとめられたもので、その執筆者である斉藤正氏は、すでに故人となられているが、その晩年の付き合いから、同氏の論稿の活用については私にゆだねられているものと考えているし、お許しもあるものと考えている。
 斉藤正氏は、戦前、北京の華北総合調査研究所で若き日の情熱を傾けておられたが、敗戦により日本に帰り、京都市の統計課長となり、以後昭和38年に京都市を退職されるまで、京都市の企画行政の形成に自ら当たってこられた。企画室をつくり、さらには企画局長として、「京都市総合計画試案」を策定された。昭和43年、地方自治法に自治体の「総合計画」策定の必要性が規定される数年以上前の総合計画であった。しかし、同氏の退職によって、その後総合計画はいわば棚上げとなり、長期開発計画というハードプランのみの計画策定に移行していく。それと共に企画行政そのものがなくなり、何らかの形で復活したのは昭和60年、総務局に企画調整室が新設されることによってであった。企画調整室はその後同名の局となり、現在は総合企画局となっている。
 なお、原文で使われていた旧漢字は、現行漢字に改めた。

 

 軍事組織における、参謀本部的性格を行政に導入するゆき方は、第二次大戦前、各国で広くおこなわれて、日本においても、広田内閣が内閣調査局を創設したのが濫觴となり、企画院の全盛時代を経て、今日の経済安定本部に至る迄、多くの迂余曲折を過した。これに倣って、他の中央官庁・地方庁も企画という名を負う機関を氾濫させ、都市自治体においても、企画局・部・室・課・委員会等が出来たり解消したりした。
 記憶するところでは、東京市が一九三七年企画局を設けたのが、都市として早い方であるが、兎に角この種の機関の誕生消滅が頗る目眩しいものであったことは、事実である。という訳は企画という名に魅力を感じて、一応担当機関をつくって見たものの、実績が挙らず幾許もなくして廃止し、そうかと思うと、又施策が行詰ると打開の名案捻出の機関として、再び採り上げられることが繰り返されているからである。一体都市において、企画を専門とする特殊機関が必要なのかどうか、又必要でありとすれば、そのあり方は如何という問題について以下考えよう。
 少なくとも大都市にあっては、諸般の行政に当り、それの基礎となる全体計画がなければ、無計画にバラバラに運営され、偏向したゆき方を採り易いので、これの策定と、これから派生する各実施部門業務の連絡調整が、根本的な作業となっている。勿論、各実施部門ではそれぞれの業務計画を有っているが、全体計画に現わされた、所謂市是とか財政計画とか睨合せの上の地位を与えられるべきであろう。ここに全体計画はすべての行政部門を含めた場合と、若干の関連部門のみに止まる一部の場合と両方考えられる。いずれにせよ、こういう総合計画は、最高理事者として是非有たねばならなぬところである。なお各実施部門がそれぞれの部門について企画力を具えていなければならぬことは、都市行政にあっては、複雑多岐に亘る業務部門が多角経営の形で包括されているので、軍事組織の場合の参謀本部と実戦部隊の如く、企画と実施とが截然と区分され得ないからである。このことより、全体計画に織込まれた部分計画の地位及び実施に際しての全体計画とのマッチ、並に実施部門間の連絡につき、強力な統制が各実施部門に加えられねば、調和を破る可能性が多分に伏蔵されている。
 元来かかる総合企画は、一都市の市是、施策の具体化であるから、最高理事者によって発動され、その決定意思として各実施部門に指示されるものであり、企画専門機関は、かかる最高理事会の作業に、内面的補助者として参画することを職能とするもので、従って各実施部門との関係は、すべて最高理事者を媒介としてのみつけられるべきものである。即ち最高理事者の内面補助参謀で、直接表面に立って各実施部門に対して事務として、総合作用を展開すべき性質のものであってはならない。なぜならば、前述の如く企画、実施の二面の敢然と分化し難い都市行政にあって、総合作用を優位に置くために、等しく最高理事者の幕僚たるにも不拘、実施部門の長よりも企画専門の長を優位に置いて、幕僚間の対立相克を招き、徒なる摩擦を来すの愚はさけなければならぬ。企画専門機関は最高理事者の命を承けて、その直接補助機関として大綱丈けの立案企画に任じ、その方針の下に、実施機関をして具体的計画を執行せしめる様委ねて差支えないのである。
 従来の例によれば、企画専門機関が企画した結果を、各実施機関が忠実に実行することを保障する手段として、人事・財政・監査の三部門をもこれに結合せしめて、強力なる統制方策を講ずる優位を確保しようとする考えもあるが、これなどは、企画の実現性を希望するの余り、行政機構分化の原則を無視したやり方である。確保の手段に不安を感ずれば、遂に全機関を挙げて包括せざるを得ないことになるであろう。
 次に、企画担当機関の事務組織の問題がある。各実施部門と並立するとなれば、これに匹敵する構成の事務組織を要求するであろう。若しも企画機関が各実施機関と牽制均衡関係にあらねばならぬとするならば、そのスタッフも各実施部門の業務を十分にこなし得るものを部門毎に備えて、いわば市行政機構の縮図の如きものでないと不都合であろう。然し実際問題としてこの様な適材を集め得るものか。各実施部門ではそれぞれ専門家を必要とし、割愛を好まないであろう。そうなれば、部門事業について充分な経験も知識もないスタッフを擁し、基本的資 料も有たず、折角の企画も現業から浮いて何々案の樹立という作文に止まり、企画機関の鼎の軽重を問われる次第となろう。企画院でも経済安定本部でも、主要スタッフを任期を限って各官省又は民間より簡抜し、適時交流される様な事情は、人材に限りある都市の場合おこない難い。たとえ各実施機関より出向させ得ても、まかり間違えば各機関の利益を代表して闘争する形になり易い。従って企画機関に各実施機関の能力を巧みに活用して労少なくして、効大なる方法を探らなくてはならない。
 それには企画局・部制の如き課係を含む膨大な事務組織を探らず、最高理事者の信任する練達の行政家極少数を調査役とし、その補佐として一名宛の職員を配する程度に止める。最高理事者は、調査役を補助者として自ら企画業務を発動し、調査役は、担当部門に応じて最高理事者の名において、各実施部門との連絡折衝に当たる。勿論資料の提出その他協力関係に、最高理事者の名において要求するものである。かくすれば企画機関内において、通常の縦の系統を擁し起案決裁の段階的手続を繰返し経ることによる、立案の棚ざらしが無くなり、横の関係では実施部門との対立感情による無用の摩擦が解消し、基礎資料の提供その他協力関係が円滑化する。実施機関側にあっても夫々の内部の企画スタッフの不足による業務企画の不充分について、企画専門機関の協力を求める様、積極的態度に出る機会を与えられることになる。
 なお総合連絡調整の手段としては、委員会制度の活用が望ましい。即ち最高理事者を委員長とし、各実施部門の長が委員として参加し、先任調査役は、委員会の委員兼幹事として恰も閣議における官房長官的役割をおこない、実施機関の長をして、行政長官よりも国務大臣的地位で企画に協力せしめ得る様、居中斡旋すれば効果を発揮し得る。之と共に、企画委員会の下に必要に応じ各種専門委員会を設け、所属に不拘、専門的知識経験を有する者の意見吸上げの手段とする。
 在来、或いは企画局・部として法規・文書・統計等をも含め、寧ろ総務局・部ともいうべき内容の組織を擁して虚名をつらねた例、或いは企画室として職務を企画に限定しながら、最高理事者の内面補佐の枠を外れ、実施部門との衝突により行語っている例、或いは企画課として偶々各実施部門の所管に属せざる新規業務を押しつけられている例等、比々として、企画機関本来の職能を果し得ず、無用の長物視せられている場合多き現状に鑑み、この種機関の活用の途は上述の様に転換することより他にはないのではあるまいか。
 嘗て企画院が比較的長期に亘って一応命脈を保ち得たのは、行政計画の単なる企画に止まらず、物動計画という企画よりも実施に近いものを把握して睨みを利かしていたからであり、今日又経済統制の転換期に当って、経済安定本部の動向が云々されていることを考えれば、かかる強力な統制作用を必要とせぬ、都市行政における企画機関のあり方については心すべきであろう。(了)


 

自治の時代のパートナーシップ
住民の側に立つ
公務員像を求めて

清水 武彦(元京都市経済局長)

   

  著者は、高山市政の3期目、1960年代初期の労使関係の厳しい時代に京都市職員組合の書記長に就任されるなど、戦後京都市政の民主化のために尽力されて来れれましたが、京都市職員としても、民生行政を振り出しに、文化行政、企画、都市計画行政や環境行政、さらに労務行政や経済行政と多分野に渡って先導的な施策を進めてこられた幹部職員でした。特に、私の記憶の中で大きかったのは、1967年に誕生した富井革新市政の秘書課長として、市政の保守から革新への180度の転換にあたっての中心的な役割を担われたことです。この時の秘書課は、単なる秘書業務にとどまらず、政策的な側面をも担うことになっていたのですが、こうした政策秘書課長というのは、この時が最初で最後だったでしょう。
  現在京都市において策定作業が進められている21世紀グランドビジョン(京都市基本構想・基本計画)の前身となる総合計画試案や長期開発計画、まちづくり構想(20年後の京都)にも携わられ、また清掃局長の時には全国を揺るがせた、かの「空き缶条例」問題を展開されるなど後に残る仕事振りが多く記憶に残ります。
  こうした著者の経験に基づく、今日のあるべき公務員像への提起だけに、説得力のある著作となっています。
  ただ、私の場合は、京都市政の内部にあっても、出来る限り客観的な視点や立場を貫こうとしてきたことからは、著者とはまた違った立場、視点にありますが、昨今の京都市行政担当者が、必ずしも過去の行政経験の蓄積を充分継承できていないように見受けられるときにあって、過去の経緯を現代的視点から学ぶうえで時宜を得た得がたい文献として、著者の了解の下にここに紹介させていただくことに致しました。

   自治の時代のパートナーシップ−住民の側に立つ公務員像を求めて
   2000年6月10日 初版発行
   定価 本体価格1800円
   発行 ねっとわーく京都刊行委員会
   発売 (株)自治体研究社

  目  次

地方自治の扉を開く         宮本憲一

序 章

第一章 期待される自治体職員の資質
 一 さらば「超然主義」よ
 二 行政はまず調査から
 三 組織と向き合う個人に
 四 権力の自覚を
 五 磨け EQ型資質を

第二章 住民主権のまちづくりを実現するために
 一 自治区の復権を
 二 顔のある都市計画を
 三 コックは豊富なメニューを
 四 住民運動との信頼関係を
 五 維持可能なまちづくりを

第三章 真のパートナーシップを実現するために
 一 言葉に流されるな
 二 説明責任を負えるか
 三 変化に対応できるか
 四 自ら再評価する勇気を
 五 違いを認めあえるまで

補章  住民自治の源泉・京都の住民自治略史
 一 町衆の自治
 二 町の自治・町組の自治
 三 明治政府に奪われた住民自治
 四 活かせ 住民自治の伝統を

[検証]
 請願闘争−私たちは初めて市民の側に立った
 三十年前の京都論を振り返って

あとがき

参考文献

以上




ドキュメント 京都市政

〜次代を生きるあなたに伝えたい〜

梶   宏(元京都市職員)


 著者の紹介にはなかなか難しいものがあります。京都市役所に勤務されていたのですが、それだけでは納まりきらない人であり、京都市職員で構成する労働組合の専従役員をされていたのですが、それだけでも納まりきらない人であり、常の市民的な立場を踏まえ行動されておられたようです。それだけに、戦後京都市政を担った市役所内外の方々との交流も多く、ご自身の実践を通して、それらの方々が描けたのでしょう。
 著者はなかなかの熱血漢です。情熱家です。自らの経験を通した戦後京都市政を綾なした人々の生き生きとした記録を次代の方々に伝えたいとの思いにも熱いものがあるようです。

   ドキュメント京都市政
   2002年10月31日  第1刷発行
   定価  3,000円(税込み)
   発行  株式会社 白川書院


 著者の紹介は、本の中の著者紹介から引用することにしました。

1934年京都市中京区木屋町通蛸薬師上る下樵木町にて生まれる。
立誠小学校、銅駝中学校、鴨沂高校、京都大学法学部を経て58年から京都市役所勤務。京都市職員労働組合連合会書記長などをつとめ、観光案内所所長を最後に95年退職。
現在はNPO法人きょうと介護保険にかかわる会理事長。
東山区介護者の会「つくし」代表。
京都大学新聞社顧問。夫人は全盲の社会派筝曲家梶寿美子。

    目  次

第一章 市長公選のスタート
第二章 市・府の対立共存が始まる
第三章 高山市長の転身
第四章 巧みな人材活用
第五章 観光行政のエキスパート宮本正雄
第六章 旭が丘中学事件
第七章 特別市問題
第八章 財政危機の中の荒療治
第九章 市長のリーダーシップ
第十章 安田正暉と佐々木時雄
第十一章 文化観光施設税を発案
第十二章 57年、勤労者学園が発足
第十三章 58年市長選以降の高山市長VS京都市職
第十四章 夜間延長保育がだん王保育園で
第十五章 58年10月15日の自治60周年記念行事など
第十六章 知性の人、共産党市議山田幸次
第十七章 59年宇多野ユースホステルできる
第十八章 60年、京都会館が完成
第十九章 はじめての女性課長(事務系)
第二十章 61年、京都市国保スタート
第二十一章 62年市長選前後の高山市長VS京都市職
第二十二章 労組・名札・天下り
第二十三章 高山市長の引退
第二十四章 65年の同対審答申と朝田善之助
第二十五章 三極対立の66年市長選挙
第二十六章 「革新市長」の時代
第二十七章 井上市長→富井市長
第二十八章 67年、公明が党が衆院選に乗り出す
第二十九章 富井清市長のこと
第三十章 府市民団体と市労連
第三十一章 富井市長の大きな贈り物
第三十二章 竹村幸雄の登場
第三十三章 富井市長から舩橋市長へ
第三十四章 異彩放った市議 木俣秋水
第三十五章 無縁でなかった知事選と京都市政
第三十六章 オール与党の舩橋市政へ
第三十七章 末本徹夫と竹村幸雄
第三十八章 舩橋市政のウィークポイント
第三十九章 蜷川知事の引退と舩橋市長の3選
第四十章 ごみ問題に向き合った舩橋市長
第四十一章 空き缶条例
第四十二章 今川市長と古都税騒動
第四十三章 同和事業にまつわる公金詐取事件
終  章  そして、いま
資料
発刊に寄せて        西島安則
あとがき


大都市行政区再編成の研究
   大阪市の事例を中心に     

竹村 保治著

 この本は、主に大阪市を主テーマとし、他の政令市も参考とした行政区の分区、合区の研究書である。明治期における区政、市政の成立から説き起こし、大阪市域と人口の拡大、増加とともに戦前から戦後にかけての分区による区の増加とともに、大都市人口のドーナツ化現象、とりわけ1970年代以降の都心部人口の減少による人口数の少ない都心部の区の統合の歩みが考察されている。そこには、大都市における区政の意味や区の分離、統合の難しさが明らかにされている。
 著者は、元大阪市の総務局長で、1978年(昭和53)に退職後は、自らの行政経験の上に、政治、行政学の研究も積まれ、大阪や京都の各大学への教鞭もとり続けられてきた。行政区再編成問題は、自らも1974年(昭和49)の合区を責任ある立場で担ってこられた経験を有され、この書は、著者の博士論文でもある。しかし、自らの深い経験を内包されているだけに、通常の学術書の領域を超えている。
 行政区は、大都市が市民と都市行政との間にあって日常的な市民生活に直結した役割を担うもので、市民と行政との双方向的な関係から、おのずと一定の適正規模が想定される。大阪市では一応15万人程度の人口規模を想定していたようであるが、そこには、人口規模だけではない地域上の問題、歴史性の問題、コミュニテイィ上の問題など人口だけでは律しきれない問題があって複雑である。しかし、いずれにしても、行政区というものは、都市行政全体の中での部分の役割を担うものであり、都市を分割するものではない。
 本書を読んで痛感されるのは、人口の動態的な変化である。一定の時期で標準的な人口規模整備しても、年月の経過によって、都市内各地域によって人口差が拡大するということである。今、「大阪都」構想が具体化されようとしているとき、人口により画一的に分割することが将来にわたってどういう禍根を残すことになるかがこれによって伺うことができる。また、行政区域は、先にも指摘したように、人口だけでは律し得ないことである。とりわけ都心部の問題は一律の律し切れない重要な問題を抱えているのではないかということである。
 「大阪都」構想における都市行政体的な区と大都市における行政区とではもちろんその位置づけは異なる。しかし、大阪市という大都市における都市行政全体とその中における行政区との重層的な役割を考えることによって、大都市を分割する都市行政体的な「特別区」の問題点が判明してくるものと思う。大都市行政における目下の必読書といえる。

  大都市行政区再編成の研究―大阪市の事例を中心に
   1996年3月1日発行
   定価 4,326円(本体4,200円)
   発行 清文堂出版株式会社

      目  次

序章 行政区再編成研究の意義

第1章 前史・市制期の行政区再編成
 第1節 大阪における区政の形成
 第2節 1925年(大正14)の再編成―13区制へ
 第3節 1932年(昭和7)の分区―15区制へ
 第4節 戦時下1943年(昭和18)の全面的再編成―22区制へ

第2章 1974年(昭和49)の分区―26区制へ
 第1節 地方自治法における区の制度
 第2節 行政区再編成への始動
 第3節 行政区再編成案の策定
 第4節 分区条例制定と実施
 第5節 区政の活性化―新しいコミュニティづくり

第3章 1989年(平成1)の合区―24区制へ
 第1節 合区への動き
 第2節 合区案の策定
 第3節 合区の実施

終章 今後の展望―12指定都市を見渡して
 あとがき 

 

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