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『失われた十年』と構造改革を考える(2003.12.13完)

 

          目  次

1.自治を語る場で、なぜ『失われた十年』を問題にするのか
2.バブルとその崩壊の問題
<二重三重の政策ミス?>
<不良債権の問題>
<なぜ金融緩和策がとれないのか?>
3.構造改革はすでにほぼ達成されている。
<小泉内閣の構造改革>
<構造改革の流れ>
<戦後日本経済の展開から>
   戦後復興から高度成長期
   世界経済のなかへの日本経済へのみち
4.考えるべき問題点
<構造改革の諸相>
・世界への参加=テロによる非常時を受け止め
・国家財政の建て直し=行財政改革
・バブル崩壊後の経済の建て直し
・国を開く=市場を開く
・政、官、財の腐敗構造の解消
・戦後民主主義の成長と所得の平準化の総括
5.産みの苦しみ
  −故意と不作為との狭間で−
(1) 手遅れとなったデフレ対策
(2) 構造改革の現状
  1.小泉構造改革の現状
  2.本来の改革からの考察
  3.小泉構造改革の問題点
(3) 動揺する直接金融の世界

6.覚悟を必要とする生活者と地方自治
(1) 生活者の覚悟
(2) 地方自治の覚悟
<地方分権改革の流れ>
<小泉分権改革>
<分権と集権との揺れの中で>
 付・地方分権改革の経緯・年表

7 語られない真実を読み取るために
    −国民=「市民」として
(1) ここ十数年間の問題
(2) 論点ないし疑問点
(3) 真実は自らの手で −「市民」社会に憧れて−

                        以上

 

1.自治を語る場で、なぜ『失われた十年』を問題にするのか

 この2ヶ月ほど、リチャード・A・ヴェルナー著『円の支配者』(以下、本書を示す場合には書名のみを記載する)に触発されて、通貨政策をめぐる問題にのめり込んでいました。今もって不可解な世界ですが、逆にいえば、裏で何が為されていようとも、素人である一般の人間にとっては皆目分からない世界であるともいえます。極論すれば、黒を白と言われたとしても。またこの世界は、専門家の中でも両極端な主張や分析があり、断定的なことはいえない世界です。しかも恐ろしいことに、この世界が、戦後の日本の舵取りをしていたとするならば、その受け手である地方自治体や生活者である私たちは、結果としての事態に対するその都度の対症療法をドタバタと繰り返してきたに過ぎないことになります。
 今、構造改革を声高に叫ぶ小泉政権が誕生しました。政治家・小泉純一郎については、これまで、郵政3事業の民営化の一点を主張する絶叫型の政治家である以外の認識はありませんでした。多くの人にとっても、それ以外の認識はそうあったわけではないでしょう。にもかかわらず、驚異的な、まさに信じられないような世論の支持を受けているのです。その理由は、はたして構造改革にあるのでしょうか、それとも既存の政治・行政に対する不信と閉塞感にあるのでしょうか。私には、識者といわれる方々以外に、それも通貨や経済政策を専門とする方々以外に、構造改革の何たるかについて、そう深く認識されている状態にはないように思われます。恐らく、これまでの政治・行政に対する不信感が、既存の政治・行政に対してノーを突きつけたのでしょう。したがって、小泉政権の支持と構造改革への支持とは必ずしもすっきりと一致するものではないのでしょう。
 これには、小泉内閣の構造改革はいまだ抽象的で、心意気の段階にあり、その具体像は参議院選挙後の秋以降にその姿が見えてくるまでは云々できないということが一般的に言われていることも預かっているでしょう。果たしてそうでしょうか。日本の構造改革は、本当はすでに後戻りのできない段階にまできてしまっているのではないでしょうか。小泉政権の歴史的役割は、その完成にあるのではないでしょうか。となると、政治家・小泉純一郎は、そう特異な政治家ではないということになります。
 構造改革の問題はさておき、これまでの歴代総理について、私は、国民に語りかけるタイプの人物を知りませんでした。議員内閣制の限界かもしれませんが、イギリスの場合と比較するとそうした制度上の問題でもなさそうです。我が国を形作るあらゆるシステムの中核に行政と議会、そして内閣があり、国民に直接話し掛ける必要性はこれまでなかったのでしょう。政治・行政の地盤沈下が進むにつれて、霞ヶ関はより内向きに内向きになっていったのですが、最近の自民党の政権維持のやり方は、一層その方向性を強めていったのでしょう。その結果が、国民との大きな乖離現象を生み、今回の直前までほとんどの人が考えもしなかった小泉自民党総裁の誕生となり、小泉政権が成立するところとなったのです。
 構造改革は、政治・行政の世界に必要だったのかもしれません。が、これも果たして政治・行政システムの問題に還元してしまっていいのでしょうか。利権型政治というものは、システムの問題なのか、或いは、これまではそれを当然としてきた私たちの考え、価値観の問題に起因している問題なのではないかとも思われるのです。
 考えてみれば、いかなる時代にあっても、いい政治も悪い政治もありました。犯罪は、政治・行政のシステムによって生じたり、無くなったりするものなのでしょうか。幸せなだけのシステムというものは恐らく単なるユートピアでしょう。人のあり方の問題もしっかりと考えてみなければならない点ではないでしょうか。
 地方分権問題にしても、かつてでは考えられなかったようなレベルにまで議論は深まってきています。が、はたして喜ぶべき状態なのでしょうか。構造改革が、自己責任の問題を究極のテーマにしているように見受けられるのと同じように、地方分権も地方の自己責任の次元に主たる課題があるようです。こうした自己責任性というものは、当然といえば当然のことではあるものの、これまでの我が国のあり方から、突如としてかぶせられた場合、多くの人は困惑するのではないでしょうか。自己責任性というものが具体的にあらゆる分野でどのような変化を及ぼしてくることになるのか、そうしたことに対する国民レベル、地方レベルでの議論の深まりはほとんどないのではないでしょうか。自立した個人の存在を前提とした政治というものは、もちろん建前において異論の余地はないでしょう。しかし、これまでの我が国の歩み方との関連において、誰が、どこで、そうした政策選択をするのでしょうか。或いはしたのでしょうか。成熟した民主主義の国家としては、そのこと事態を問題としなければならないのではないでしょうか。
 いかなる姿の自己責任か、いかなる姿の地方分権なのか、その政策選択はそう短時間に簡単に為せるものではないはずです。
 戦後、1960年代に我が国の経済は高度成長を遂げました。1970年代初期には、ドルショック、オイルショックの余波を受けて土地高騰と狂乱物価を経験しました。そして、1980年代の後半に起こったバブルは、1990年代に入って一気に弾け、今日にいたるまで不況に続くデフレの段階を迎えています。これらはすべて、我が国の政治経済の体質に深く絡み、今次のデフレは、その体質を改善しない限り打開はできないものなのでしょうか。
 元来、インフレにしてもデフレにしても、政治経済の体質とは無関係に、通貨政策によって引き起こすことは可能です。しかし今回のバブルとその崩壊後の展開は、通貨政策ではなく、我が国の政治・経済の仕組みの改革なくしてはありえないとされているのですが、これには多くの異論があるようです。
 1970年代初期のいわばミニバブルのときには、71年のドルショックによる為替レートの変動化をもたらせ、1ドル360円の固定レートから開放された円相場は漸高することになります。1980年代後半のバブルにおいても円高の急速な進行による円の海外進出がありました。通貨の発行量の拡大もありました。こうした為替レートや通貨・信用(金融)政策の問題は、原因なのか結果なのか、諸説をみても断定することは容易ではありません。基本原理は単純なのでしょうけれども、分析や政策諸道具が複雑で、素人には所詮どうしようもない面があります。
 さて問題に戻りますが、1970年代初期のときには、私たちは第2の黒船の到来ということで企業も行政も省力化、減量化に努めました。今回はグローバル化のなかでの日本仕様から世界標準への切り替えなのでしょうか。しかし、先にも述べましたように、インフレ、デフレの問題と、政治・経済体質の問題とは問題の次元が異なります。また、世界標準という場合にも、具体的にそれは何を意味しているのか、それへの対応の仕方には多くの選択肢はあるのかないのか。これまでの我が国のやり方の何を継承し何を変えなければならないのかという煮詰めた議論は、どこでどう為されるのか。
 また、この間には大蔵省や厚生省に、また現在進行形の外務省に代表される高級官僚のなんともいえない汚職や公金不正使用問題が明らかになり、企業、政治家、官僚の悪しき癒着の構図も明らかになってきました。こうした不正の問題と、いま課題とされている構造改革とは、これまたまったく別次元の問題なのですが、こうしたことも渾然一体となってしまっています。
 対外的関係、インフレ、デフレの問題、国内的諸問題、戦後の歩み方の問題、こうした問題を今一度自分自身で再整理してかからないことには、結局自己責任の問題には到達できなくなるのではないでしょうか。
 情報過多の時代であればあるほど、真実の情報は容易には流通しないものと覚悟しなければなりません。私などが知りえている世界にあってさえ、マスコミなどを通して世間に流通している情報と実際とに開きのあることはままあります。まして、国政レベル、世界レベルの、しかも為替や證券の世界では、虚偽の情報や情報操作は日常不断に満ち溢れているとしなければなりません。規制と監視のない限りなんでもありから始まる世界ですから。
 世界の大勢を見た場合、アメリカの自由市場経済を軸としたありかた、ヨーロッパの伝統的な流れを保ちながらの市場経済化のありかた、ロシアや中国のように国家権力の統制力を有した中での市場経済化など多様な存在形態がしかも将来的には流動的な姿で存在しています。我が国の進み方が、こうした多様な世界の中で、よしんばアメリカとのこれまでの強い絆があるにしても、いくつかの選択肢をめぐる検討のなかで選択していくことが望まれるのではないでしょうか。この道しかないという進み方は、結局、戦争への道をまっしぐらに走った戦前の体質から一歩も出ていないことを物語っているのであり、本質的に変えるべきはこのことではないのでしょうか。
 地方自治の問題も、こうした我が国の今後のあり方の本質にかかわる問題であり、地方自治のみの問題として語ることはできないのではないことの思いを強く抱いております。(2001.7.10)

2.バブルとその崩壊の問題

<二重三重の政策ミス?>
 1980年代後半のバブルは、自然の成り行きだったのであろうか。大蔵、日銀の政策ミスが大きく作用したのではなかったのか。そして、バブルの崩壊のさせ方と、その後の経済の舵取りはどうであったのか。バブルが崩壊してすでに十年、国家財政のすべてを傾けた膨大な公共投資の結果は、今日のデフレである。付けは、将来の国民の肩に架せられる。増税か、インフレか。或いは、恐慌による国家の破滅もあるのかも分からない。その責任は誰に、どこにあるのだろうか。国民自身の自業自得なのだろうか。
 小泉内閣は、「構造改革なくして景気回復はない」と叫んでいる。本当にそうなのだろうか。デフレに対しては、インフレ策しかないのではないか。あれだけのバブルでさえ、日銀の信用抑制(金融引締め)で、一気に落とし込んだではないか。デフレは、インフレ以上に怖いと思うのだが。

 バブルとその崩壊についての日本銀行の政策の誤りは、『円の支配者』だけではなく、調べてみると日銀の通貨政策に対する疑問は多くのところから指摘されている。特に『円の支配者』では、それは政策ミスではなく、日銀は意図して日本経済を危機に落とし込んだと断定し、それを実証している。ここで、日銀のバブルとその後の不況に対する政策ミスについて幾人かの指摘の共通するところを紹介するとおおむね次の通りである。
 バブルを促進させたミス  利上げを遅らせ、金融緩和を拡大しつづけた。
 バブル終焉後のミス    頑なに引き締めを継続し、極度の不況を現出させた。
 なぜ、バブル崩壊後も、日銀は頑なまでに過度の引き締めを継続したのかは、「バブルの恐怖が残っていた」、「バブル発生の本当の責任が明らかになることを恐れた」からという分析がなされている。
 その結果、バブル発生の責任とその後の不況に対しても、それは主として財政と金利政策にあるとして、政府は、すでに悪化している財政事情にあるにもかかわらず、国債の大量発行による大規模公共投資の継続と低金利政策をとることになる。通貨政策の失敗に対して、財政投資で解決することのミスを犯すことになり、しかもこのミスは、国家の膨大な借金として以後国民の肩にかかってくる。

<不良債権の問題>
 バブル崩壊による最大の問題は、その先導役を果たしてきた銀行経営の破綻であり、その主たる問題は、いわゆる「不良債権」である。如何に問題があろうとも銀行を潰すことは預金者への被害を超えて経済全体の破局と恐慌へ発展する可能性をもつことから、この不良債権の処理における銀行の救済問題が、クローズアップされる。すでに、公的資金の導入や不良債権買取機構の設置などでその処理は進んでいるものの、今日の不良債権はさらに膨らんできているという。なぜなのか。
 『円の支配者』によれば、1990年代の半ばには、銀行はすでに金利差や債券市場のバブルの創出などによって「1980年代の證券バブルに匹敵するほどの莫大なキャピタル・ゲイン」を確保し、推定85兆円程度までの不良債権のうち、「65兆円は1999年半ばまでに処理されたことになる」(p287)とみている。にもかかわらずなお大量の不良債権が発生しつづけている。その理由は、不況とそれに続くデフレ・スパイラル的状況による資産価値の継続的下落と企業経営の悪化である。この景気悪化による不良債権は、景気の好転とともに回収可能な債権となるものでるが、デフレスパイラル的状況のもとでは膨らむ一方となる。これに対して、さらにいかほどの公的資金を充当すればいいというのであろうか。
 
<なぜ金融緩和策がとれないのか?>
 1996年に誕生した橋本内閣は、金融ビックバンをはじめ各分野の構造改革に着手したが、消費税率の引き上げもあってか、再び景気が落ち込むなかで、構造改革路線は挫折し、替わって1998年7月に誕生した小渕内閣は、財政難はものかわ、堰を切ったように国債の大量発行による公共投資による景気回復策をとることになる。しかし、景気は回復するどころかついにはデフレとなる。政策は間違っていたのだろうか。公共投資が景気回復策とならない今、残された手段は経済システムそのものを変えることとされ、小泉内閣で再び、構造改革となる。が、景気は今や最悪のデフレスパイラルに陥りつつある。小泉内閣の言によれば、今後2〜3年の景気停滞は避けられないという。実際、どれほどの状態になるかは予測することすら恐ろしいことのように考えられる。
 では、ここで、なぜ、金融緩和策が本格的に講じられないのであろうか。国家財政を見ても、デフレの状況をみても、ここでインフレ策(金融緩和策)をとらないで、はたして通貨政策とは一体なんなんだろうかということになる。日銀の役割とは、インフレとデフレの間の微妙なバランスをとっていくことではないのか。デフレを防ぐ主たる任務は、政府よりも日銀にあるのではないのだろうか。
 が、日銀は、別のことを考えているという。日本の経済システムの変更、すなわち構造改革であると。日銀の役割に、そのようなものがあったのだろうか。『円の支配者』によると、バブルの終焉は日銀の急激な信用抑制によってもたらされたのであり、1990年代の不況も日銀の通貨政策によって回復は可能であったという。日銀は、極度の危機を創出することによって、日本の経済システムの転換を図ろうとしたのであると。確かにつじつまがあう。繰り返せば、小泉内閣は、「構造改革なくして景気回復はない」と声高に叫んでいることから。(2001.7.10)


3.構造改革はすでにほぼ達成されている。

<小泉内閣の構造改革>
 小泉内閣は「構造改革なくして景気回復はない」と、今、ここで構造改革をやらない限り、日本の国は破局するとの印象を訴えている。その構造改革は、先日6月21日に経済財政諮問会議からの答申のあった「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(以下「基本方針」と表記する)に明らかにされている。それは、「新世紀維新が目指す」、「日本経済の再生シナリオ」として、7つの改革プログラムが打ち出されているが、そこでも一応括られているように、それは・経済社会、・国民生活、・政府機能の三分野トータルの構造改革である。そうして、それらを貫いている基調が、グローバル化した時代への対応としての「市場」と「競争」である。「市場」と「競争」の原理が、すべての分野を貫くのである。
 この「市場」と「競争」の原理から、従来の我が国のシステムをかえる具体的手法が、規制緩和や自己責任、民営化、さらには地方分権として展開されている。いま少しみてみよう。
 「基本方針」の「構造改革のための7つの改革プログラム」から、まず「経済社会活性化」の要点を紹介すると、@民営化・規制改革プログラムでは、「民間でできることは、できるだけ民間に委ねる」を原則として、特殊法人の見直しや民営化の推進、郵政事業の民営化の検討、公的金融機関の見直し、規制の撤廃による自由な経済活動の範囲の拡大などが進められることになるが、Aチャレンジャー支援プログラムでは、起業・創業の重視や通信事業への市場原理の活用、IT革命の推進などがうたわれているが、特に、預貯金中心の貯金優遇策から株式投資などの投資優遇策への転換が注目される。
 「生活とセーフティーネットの充実」のところでは、B保険機能強化プログラムでは、「分かりやすく信頼される社会保障制度」の実現を目指すという前提ではあるが、公的保障から個人保険への重点の移行が目指され、医療制度とあわせて、根底には財源問題がある。C知的資産倍増プログラムでは、大学教育への競争原理の導入と個人の自助努力への支援のほか、教育研究資金の民間からの流入の活発化が気になるところである。D生活維新プログラムでは、男女共同参画社会やバリアフリー化の推進などすでに進行している課題の促進としての面が強いが、職住接近を目指した「多機能高層都市プログラム」は、京都をとってみればふさわしいものではなく、多くの議論の生じるものであろう。
 「政府機能強化と役割分担の抜本的見直し」のところでは、E「地方自立・活性化プログラムでは、「行政サービスの権限を住民に近い場に」を原則として、税財政の見直しに踏み込んでいるのが従来との違いであろうか。ここでも、「自助と自律の精神」が求められ、それによる「個性ある地方」の発展が期待されているが、そのための市町村の再編(合併)と運営の効率化を画一的に進めようとすることの是非については議論のあるところであろう。農林水産業の構造改革が地方の問題として位置付けられていることの意味、企業経営化と食糧自給率の向上、「美しい日本」の維持、創造の論理的かつ具体的関係については不明であるといえよう。F財政改革プログラムでは、「簡素で効率的な政府」づくりがめざされ、特定財源や公共事業関係の長期計画の見直しなど本格的財政再建に取り組むとされているが、景気対策の名のもとで、財政の構造改革の道が曲げられてはならないとしながらも、「マクロ経済の動向に十分注意を払いつつ進める必要がある」としているのは、最近の経済動向との関係からきわめて注目される点である。
 また、経済の構造改革について、「経済資源が速やかに成長分野へ流れていくようにすること」と定義していること、そうした構造改革をすすめるにあたっての、「日本再生の第一歩」が不良債権問題の抜本的解決であるして、「基本方針」で最も重要にして第一の課題としていることについては、ここでは論評を加えることはできないが、十分承知しておかねばならない問題であろう。(2001.7.21)

<構造改革の流れ>
 小泉内閣の構造改革は、小泉総理自身の「変人」さとは別に、それをめぐる賛否の議論があることは当然のこととして、さほど得意なものではない。ここでは、ごく簡単に、戦後日本の構造改革の流れを、『円の支配者』も参考にしつつたどってみたい。そうすれば、我が国の構造改革が、すでに、もはや後戻りできないところにまできていて、小泉構造改革はそれを極めて直裁に完成さそうとするものであることが分かるのである。
 『円の支配者』によれば、構造改革は、日本のシステムの変更ということになる。この日本経済のシステムは、かつての大戦中の戦時経済システムが基本的には戦後も継続して、経済の高度成長を実現したものである。これについては、野口悠紀雄『1940年体制』(1995 東洋経済新報社)が詳細に論述している。
 1937年頃から45年までに構築された日本的システムは、要約すれば次のとおりである。・企業組織を構成する、所有者(株主)、経営者、従業員の三者のうち、経営者を重視した「経営者資本主義」
・資本家なしの資本主義が経済成長にかなう。
・従業員は、企業内家族として企業との一体感を持たせる。
 こうした考え方から、金融については、株式市場よりも銀行重視のメインバンク制と貯蓄奨励運動、企業に対しては、業種団体や経営団体の創設、従業員に対しては、年功給と終身雇用制や国民健康保険法や職員健康保険法などの福祉制度の導入を図ることになる。
 これを最近までの日本経済の体質と比較してみるとなるほどその同一性に驚かされる。すなわち、戦後日本経済システムの特徴は、
・大企業の労働力構造としては、終身雇用、年功序列制度、企業内組合、定期賞与制度
・企業組織としては、所有(株主)と支配(企業経営者)の分離と弱い株主制度、外部取締役の排除、低配当と成長志向経営
・少数の大企業とそれに抱えられた多数の下請け零細企業群という二重構造
・企業の資金調達は銀行からの借り入れが中心
・官僚の民間への介入すなわち『行政指導』
などで、いずれも、今や構造改革でターゲットになっているものばかりである。

 こうした日本経済システムの特徴は、これでもって奇跡とまでいわれた戦後経済の高度成長を実現したものの、まずその過程で、1960年代後半から資本自由化への対応に迫られるようになり、ついで、1970年代後半には、先に見た為替レートの自由化とオイルショックを契機に国際的な市場競争の波に遭遇することによって、これらの時期には概ね企業経営の機械化、省力化など経営の合理化によって国際競争力をつけたのであるが、1980年代に入って、鈴木内閣とそれに続く中曽根内閣による第2次臨時行政調査会とそれを受けた臨時行政改革推進審議会(いわゆる第2臨調)を迎えることになる。
 第2臨調を振り返ってみると、現在の小泉内閣による構造改革があまりにも類似していることに驚かされる。違いは、小泉内閣が我が国経済の機軸を銀行から証券へと明確に切り替えていることぐらいである。ちなみに第2臨調の特徴を振り返ってみると次のようである。
 ・経済の高度成長の結果としてすでに西欧に追いついた「豊かな日本」が、不況と政府の財政難、輸出主導の企業に対する国際圧力に対して、戦後40年の総決算として政治行政のあり方を根本から変え、強力にして小さな政府を目指そうとしたこと。
 ・我が国がめざすべき国づくりの基本方向として、「活力ある福祉社会の建設」を掲げ、それは個人の自助努力と相互扶助、民間活力の導入と公的関与の見直し(規制緩和)などによって実現するとしていたこと。
 ・地方行政に対しては、国と地方との機能分担により、標準的サービスを想定しつつ、地方自身の責任による「選択と負担」という考え方や、国の関与や規制の緩和などが示されていること。
 要するに、規制緩和や民間活力の導入、地方への関与と財政投資の軽減、民間の自助努力(このときすでにボランティアの活用もうたわれていた)という、小さな政府による競争社会への志向が明確に示されていた。国鉄や電信電話公社などの民営化はこのときの目玉として実行されたものである。(2001.8.6)
 そこで問題なのは、バブルの開始は中曽根内閣の後半にかかわっていることである。小泉構造改革の基ともいえる中曽根内閣の行政改革推進過程でバブル発生の土壌は醸成されていたのである。バブルの発生が急激な円高とそれに対する金融政策の失敗であったというのはほぼ周知の事柄であり、ドル高是正のG5(5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)のプラザ合意は1985年9月、『円の支配者』で「日銀の十年計画」と称された「前川レポート」(国際協調のための経済構造調整研究会報告書)が作成されたのが1986年4月、そしてニューヨーク株式市場の大暴落のブラックマンデーが1987年10月である。中曽根内閣は、1987年11月まで続いていた。
 バブル崩壊後は橋本内閣による橋本行革である。が、この橋本行革は、バブル崩壊後の景気が一時持ち直したものの再び後退するする局面に直面したために挫折を余儀なくされたのであるが、省庁再編成や金融ビッグバンに手をつけたことなど生半なものではなく、現在に大きな意味をもってきている。ちなみに、橋本行革の6大改革は、行政改革、財政構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、教育改革であり、基本的には、小渕内閣で水面下にはいったものの、小渕内閣を経由して小泉内閣の構造改革に継承されているとみなしてよいだろう。小泉構造改革が華々しいのは、単純な語法と、一点突破的な具体性、強引性をもっていることが、小渕内閣の反作用としての期待を集めたからであり、総合的にはこれまで見てきた構造改革の枠組みをはずすものではない。ただ、中曽根行革との違いは金融政策にあると先に触れたが、その金融ビッグバンは、1996年11月橋本首相によってその構想が発表されて手につけられ、今や日本の最重要課題ともなってきているのである。

<戦後日本経済の展開から>
 本稿は、『円の支配者』に衝撃を受けたところから始まったのではあるが、その目的は、通貨政策の当否を明らかにすることではない。専門外の者にそうしたことができるわけではない。がその結果は万人が、今や世界経済でさえ影響を受けることになるだけに、すべての人がそれなりの理解と参画をするべきであろうと考え、素人は素人なりの問題の所在とそのあり方を探ろうとする必要を感じたものである。そこで、今一度戦後日本経済の展開の要点を把握しておきたい。バブルとその崩壊、その後の政策の混迷と今回の小泉構造改革を理解するためには欠かすことができないから。

 戦後ざっと60年を振り返ってみて、やはり経済の高度成長期の終焉とそれ以降とで大きな質的変化がある。戦後アメリカとそのドルの体制が揺らぎ始めることと、戦後日本経済が復興し世界に進出しその地歩を高めることとがほぼ同一の歩みとなり、また相関関係も持ち、日本経済のシステムがそれにふさわしい変化修正を十分遂げてこなかったことが主要な問題としてある。

戦後復興から高度成長期
 概ね昭和20年代(1945―1955)は戦後復興期といえる。この時期は、アメリカの占領下にあった1945年から、対日講和条約が発効し我が国が独立した時期1952年4月までとそれ以降とで、本来なら大きく異なるであろうことが、国内諸システムに関しては一般的にあまり大きな要因としては捉えられていないことはひとつの研究材料ではあるが、その理由に、占領下を脱してからも、アメリカとの関係は基本的にはそう変わらずにきたというところにあるのであろう。この戦後復興期の特徴は、東西冷戦構造が進む中、アメリカの枠組みの中で、その支援を得て国策として自国の復興に励んできた時期である。平和主義を掲げながらも現実には、日米安全保障条約の傘のもとで、南北朝鮮の戦争による朝鮮特需で戦後復興が一気に進んだという面は否めない事実として残る。この時期の今ひとつの問題は、占領下アメリカによる財閥解体をはじめとする経済民主化が具体的にどのように機能し、以後の経済システムとなっていったのかという点であろう。
 昭和30年代から40年代の半ば頃(1955-1970)までの高度成長期は、基本的には復興期と同じ枠組みの中で、重化学工業を基幹産業とした大規模工場群を生み出し、先進国からの新たな技術導入による技術革新によって、世界への経済進出を開始した。高度成長期の終わり頃にはアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国に成長していた。貿易立国の現出であるが、その主たる輸出先は、それまで支援を受けてきたアメリカであった。にもかかわらず、この時期までは、国内産業に対しては保護貿易、為替管理のもとで、基本的には国際的な競争関係にはさらされていなかった。(繊維産業などの対米輸出規制問題などはすでにでていたものの。)

世界経済のなかへの日本経済へのみち
 1971年、金との交換を中止したいわゆるドルショックは、戦後ドルを基軸とした世界通貨体制の動揺と崩壊であり、以後の世界経済の枠組みづくりへの模索の開始となる。貿易不均衡、ドルの弱体化、こうした要因の一つに日本の経済進出があった。世界経済における日本経済の地位の向上からも、新たな世界経済の枠組みづくりの役割を分担し、そのための国内経済の世界への開放が課題となってくる。これには二つの課題がある。ひとつは世界経済への日本の役割は何か、今ひとつは、世界に日本を開くにあっての抵抗力・免疫力を国内に備えることである。
 この時期は、バブル発生の起爆剤ともなった1985年のプラザ合意(ドル高是正)までとそれ以降とで一応区切ることができよう。
 1971年から1985年まで、この時期は、それまでの1ドル360円という固定為替制度のもとで安定していた為替体制が、ドルが金との関係を絶ち世界通貨としての役割を担わなくなったことから、最終的に変動為替制に世界が移行する。それによって、円の対ドルレートが高まり、一時は1ドル80円台までにもなった。この為替レートの変動と円高に加えて、1978年の中東戦争勃発に始まる第1次石油ショックが重なり、日本経済の苦難の道のりが始まる。(2001.8.16)

 すなわち、円の急激な上昇による外国為替会計の大幅な入超が通貨の過剰流動性として働くことによってインフレ傾向を生む過程で、折りしも田中角栄による日本列島改造計画に遭遇し、しかも第1次石油ショックに直面したことから、狂乱物価を伴った異常なインフレを呼ぶ一方、一気に国際収支の大幅な赤字と戦後最大の不況に陥ることになる。当時これをトリレンマと呼称した。また、不況下のインフレということで「スタグフレーション」と言ったのはまだ記憶に新しい。経済政策としては、とりあえずバブル的な物価を抑制するための総需要抑制策が打たれたことから1974年には戦後初めてのマイナス成長を記録する。そして物価の鎮静化を待って、1975年以降積極的な財政金融政策が実施されるが、国家財政における公債依存度の上昇はこの時から始まり、以後、常に財政再建が国政上の重要な課題となることになった。
 1975年以降の積極的な財政金融政策の実施によって、まず輸出主導による景気回復が起こるが、これが再び国際収支の黒字基調をもたらしたことから円の上昇と対日批判を呼び、それに応じるための内需拡大や国際収支均衡化などの対外経済対策が取られる。そうした時期に再び石油危機が起こる。1978年末のイラン政変による第2次石油危機の到来である。1979年は、再びインフレと国際収支の大幅な赤字である。再びインフレ抑制策のあとに1980年から景気振興策が取られるが、外需依存度の高い景気回復の過程で、欧米諸国との貿易摩擦が高まり、国際収支の黒字幅も巨額となり、1985年の対外不均衡解決のためのドル高是正を合意した、いわゆるG5による「プラザ合意」に至る。
 以上の経緯を振り返ってみると、日本経済の特徴は、・輸出主導(外需依存)による景気回復→・国際収支黒字の拡大→・貿易不均衡と海外からの批判→・内需拡大と円高調整という循環の繰り返しである。そして、その過程で、二度にわたる石油ショックが問題を複雑化させ、田中角栄の列島改造政策が事の本質を理解する障害となっていたといえる。そして、この過程における相次ぐ景気回復策への国債発行による財政投資によって国家財政の窮迫とそれに対する財政再建を中心とした行政改革が一貫した課題となってくる。国際収支の大幅な黒字と他方における国家財政の悪化である。

 さて、「プラザ合意」は、1980年代後半のバブルとその崩壊、そしてその後の「失われた十年」という現在に直接続く基点である。そして、これは、グローバル化時代の日本経済の逃れることのできない課題にいよいよ迫られたことを意味しているのである。(2001.8.28)
 プラザ合意は、輸出主導の日本の経済体質の変革を迫るものであり、内需拡大と輸入の促進が課題として課せられるのであるが、ドル高是正(ドル安誘導)の結果、急激な円高とそれによる景気の後退が起こる。前川レポートはこの時に出される。景気後退に対してはすでに財政上のゆとりがなくなっていることから金融緩和策が継続して取られ、これが円高差益による国内資金の潤沢化を背景として、1987年末頃から景気は回復過程にはいると同時に、バブル経済が醸成されることになる。1988年から90年にかけて土地や株価を中心とした資産投機のスパイラルである。この時の日銀の金融緩和措置のいたずらな継続と金融引締めの遅れがバブルを嵩じさせ、そして急激な金融引締めとその継続がバブルにキューブレーキをかけると同時に、景気の持続的かつ深刻な悪化をもたらすことになったとの評価を生むことになる。株価は、1989年末を最高値に翌年には大幅に下落し、1992年にはピーク時の6割にまで落ち込む。ちなみに、日経平均株価は、198912月に38,915円の史上最高値をつけた。2001年8月の株価がおおむね12,000円前後としてピーク時の3割である。地価は、1990年後半から鎮静化に向かい、その後今日にいたるまで一貫して下落を続け、バブル発生前よりも下落してきているのではないかと思われる。バブル崩壊直後はまだそれなりに景気回復は図れるような感じもあったものの、バブルの膿と景気低迷の落ち込みにより、国家財政を破綻に導く以外、何ら建設的な見通しを築くことのできないまま十年を経過し、1990年代は「失われた十年」と称されることになる。
 「失われた十年」としての1990年代を簡単に振り返っておくと、この時期は、戦後日本政治の激動期でもあった。いつの日か日本にも連立政権の時期がくるであろうといわれ、竹下総理はバーチャル連合(部分連合)もあり得るといったことを述べるようになっていたが、その竹下内閣が消費税の創設とリクルート事件でもって短命に終わった後、1989年から宇野、海部、宮澤と短命かつ不安定な内閣が続いたうえで、1993年には自民党分裂による細川連立政権が誕生する。その後は羽田、村山、第1次橋本内閣とめまぐるしく代わり、1996年末の自民党単独政権としての第2次橋本内閣、そして小渕、森、小泉内閣といずれも連立政権として今日にいたっている。「失われた十年」は、経済面だけではなく、混迷せる政治の十年でもあり、かつまた、政、官、民合わせての不正・汚職の噴出した膿を出し切る十年でもあったのである。小泉内閣にそれに応える能力が本当にあるかどうかはともかく、インサイドワークに長けた従来型の政治家ではない、長期的視点からの強力なリーダーシップによるしっかりした日本の舵取りが希求されるのは当然といえば当然過ぎる経過をたどってきている。
 さて、財政再建とバブル崩壊後の景気回復を課題とした1990年代の各政権は、90年代の前半では、宮澤政権の「資産倍増計画」に代表されるように景気回復策に重点をおいてきた結果、景気そのものは低空飛行ながらも持ち直しの気配もみせつつ今日ほどの深刻な事態認識にはならなかった。その変化は、第2次橋本内閣から始まる。
 すなわち、バブル後の景気低迷に対する景気回復策のための国債発行の増大は、1994年からは再び赤字国債の発行にまで至るなど公債依存度は急激に高まり、1996年頃には多少の景気回復も見られたことから、橋本内閣では、特に1996年末からの第2次内閣で、行政改革、財政構造改革などいわゆる「6大改革」を「火だるまになって」取り組む覚悟が示される。その一環として1997年4月には消費税が3%から5%に引き上げられる。そのことが原因したのかどうかには異なった見方はあるものの、その頃から景気は再び落ち込み、バブル崩壊後はじめて、1997,8年にはGDP(国内総生産)の対前年度の伸びがマイナスを記録する。以後今日にいたるまで、回復のめどのないままについにデフレ状況に至ったのであり、1997年11月に成立した2003年度までに健全財政を取り戻すとした財政構造改革法も半年後には凍結されたのである。いうところの“火だるま行革”も、景気の構造的な落ち込みの中では、その改革の矛を収めざるを得なくなったのである。今思えば、構造改革の時宜を得なかったともいえるが、橋本内閣は、以後の経済の悪化傾向への転機をもたらしたということで、まさしく疫病神の如くに受け止められてしまった。『円の支配者』によれば、回復しかかった景気を再び突き落としたのは日銀である、ということだが。
 1998年7月に誕生した小渕内閣は、まさにその反動であり、湯水のような財政投資に打って出るが、2000年4月に政権を引き継いだ森内閣は、その政策も継続する。国家財政破綻の際にあってなお赤字国債をつぎ込み、しかもその効果が見えない中で、ついに森内閣も倒れ、その反動として、景気振興策よりも構造改革を叫んだ小泉内閣が誕生した。いわく、「構造改革なくして景気回復はない」と。はたして、構造改革に耐えうる体力が今の日本経済、連動している世界経済にありや否やが問われているのである。
 
 こうしたプラザ合意以降の日本経済の展開は、国内事情だけではどうすることもできない、世界経済との連動性にあるが、為替相場の変動が国内経済に与える影響が極めて大きいのはすでに見たところであるが、これが、単に市場で自由に変動しているのではなく、G7といった主要国の誘導によって、ドル安、ドル高が調整されていることは重要な問題である。そこにはそれぞれの国益がぶつかり合っている。日本円は、一時的な変動はともかく、長期的には円高傾向にあり、貿易摩擦への対応も含めて、生産拠点の海外移転が逐次拡大し、当初はアメリカ中心であったものの、バブルとその崩壊期を通して、アジアへのシフトを拡大している。これには、1980年代末からの東西冷戦構造の解体と東西融合による新たな資本主義市場への旧東側陣営の参加も基本的な構造変化の要因として働いている。日本列島改造計画以降の大都市からの工場移転が、大都市の空洞化をもたらせた時代から、いまや国内製造業の空洞化が顕在化しているのであり、こうした事情が、1970年頃までの高度成長期と大きく異なる問題として横たわっている。

4.考えるべき問題点
 以上で、バブルとそれに対する通貨政策へ疑惑、並び小泉構造改革への理解の仕方を求めて一応の概観を試みてきた。ここでは、その概観から、一体何が問題となってくるのかについて考えて見ることにしたい。
 根本的には、戦後60年、日本経済が世界とどう有機的にかかわれるのかという課題について、高度成長を遂げてきた日本経済のしくみ、体質という国内事情との関係でどのような対応の仕方が必要なのかについての大方の合意形成がまだないということ。はなはだしくは、これまでこうした日本の進路のあり方については、分かりやすい説明はおろか、問題や課題が明確に明示されてこなかったということがある。しかも、1970年代以降、世界とともに明らかに日本の進路は変わってきているし、鈴木・中曽根内閣での第2臨調を下敷きにしつつ、バブル崩壊後の橋本内閣の時代に、金融ビッグバン、すなわち資本自由化の受入を象徴として、日本経済を激動する世界経済のなかへ融合させていく舵が明確にきられたことである。一見、橋本内閣の行政改革は挫折したように見られるものの、金融・証券体制、中央省庁再編などに見られるように、もはやそこから脱することのできない領域へと踏み込んでいたのである。小泉内閣も、大雑把にいって、その領域内の課題の具体化を担っているに過ぎないのである。
 こうしたことを考えると、やはり通貨の問題は避けて通れないし、財政・経済の構造変化と行政改革の問題、国家と世界経済との関係、日本の伝統的しくみと世界への適合性への改革、日本のあるべき進路の選択条件といったことを検討する必要があるように思われる。そして、小泉改革をはじめとする現在の状況認識と考えるべき方向性について、探ってみたい。
 具体的には、構造改革というものは、何を意味しているのか。少なくとも、日本の国際関係からくるところのものがあり、それを基調としながらも、他方で、戦後60年の間に政、官、財が膿んできたところの刷新があり、さらに戦後民主主義のまだ未成熟の点の打開という三要素がある。次に、現在ただいまの景気対策の問題である。多くの論者に今だインフレの恐怖感があるようだが、現在スパイラル化しつつあるデフレとその対策をどう認識するのかという問題。これには、不良債権に対する理解の問題もある。そして、経済の根幹をなす金融について、銀行から証券・株式へのシフトの変更をすることの経済や生活に与える衝撃的変化の問題。構造改革後の日本は果たして幸せなのかという日本人としての価値観の問題やそもそも政府や政治家の役割とは何なんだろうという問題などから検討を進めてみたいと考える。(2001.9.3)

 <構造改革の諸相>
 今回の小泉構造改革は、総理の絶叫よろしく、「骨太の方針」についても、なぜ?という論拠、説明が十分ではない。中曽根内閣のときも、橋本内閣のときも、やはりそれ相当の検討の積み上げをした上での課題の設定ではあったが、今回はいきなり結論からスタートした。そして、その結論に疑問を呈すると「抵抗勢力」とみなされるという、およそ近代的とはいいずらい状況を生んでいる。作業が具体化するにしたがってなにやらおかしくなってくるのも当然のことではある。
 およそ政策というものは合理性、合目的性がなければならず、それには極めて高い理性が要求される。政策の遂行には熱意や決意といった情感的世界が必要だが、政策形成には理性が不可欠である。道を誤るわけにはいかないのだ。構造改革という抽象的な用語だけが一人歩きすることに対しては、いわゆる旧来型の「利権」擁護の立場からのみならず、巷にもその危惧を示す人は多い。
 そこで、この時代における日本の構造改革といわれるものについて、その性格にしたがって整理してみることにした。もちろんそれぞれに関連するところではあるが、問題のよってくるところを理解するための参考である。(とりあえず以下にレジメ的に示し、順次コメントを付していくつもりである)(2001.9.22)

・世界への参加=テロによる非常時を受け止め
  9月11日のアメリカにおける中枢部同時多発テロの発生は、あまりにも衝撃的であったばかりではなく、その後の世界の動向を一変してしまった。またそうした全局的な動向だけではなく、地球上の一人ひとりの行動規範をも変えることになったといえる。安全保障上の問題のみならず、世界経済に及ぼす影響も計り知れず、時間の推移と共にますますその影響は深まっていくことが予想される。
 事件そのものは如何に大きなものではあっても本来一過性のものである。非常事態は時間と共に平常的な状況に吸収されていく。しかし、今回の事件はそうした一過性のものではなく、今後続くであろう世界的な状況に深くかかわっている。いわば、非常事態の常態化である。
 今回のテロ事件が戦後世界史の一大転機と受け止められるにはどのような理由があるのか。それはアメリカのというだけではなく、現代資本主義文明の象徴でありかつ中枢部における予期しないあまりにも衝撃的な事件であったとうことがまずあろう。しかしそれだけではなく、今回の事件を通して、国家間の戦争というものはあまりにも進みすぎた軍事力と破壊性によって、もはやありえないということであり、このこととの表裏の関係において、国家の形態をとらない「テロ」的な闘いが今後とも継続するであろうことが考えられることである。振り返ってみれば、70年安保に端を発した連合赤軍では銃撃戦があったし、連合赤軍であったかどうかは記憶にないが手製のロケット弾も発射された。近くはオーム真理教のサリン事件では大量の無差別殺傷があった。これらは今回の事件とある種同質的な要素が見られる。それは、インフォーマルな組織、団体や個人が、現在の知的レベルの高さからどんな破壊的活動も不可能ではなくなってきたということである。生物化学兵器にしても、大量破壊兵器にしても。そしてさらに問題なのは、現代の文明社会は、兵器を使わなくとも、社会のソフト、ハードにかかわらずそのある種特定部分の破壊によって、致命的な打撃を受けることになる可能性が高いということであろう。個々の人命上の問題を超えて、都市社会、都市文明すらが危機に陥る可能性がある。それが高度に発達した現代の資本主義文明であることも証明されたのではないだろうか。
 アメリカに戦いを挑む国家は、アメリカがその気になれば、いつでも丸ごと消滅させられてしまうであろうことは、今回のテロに対する戦い振りからすぐに理解できることである。それだけに、国家間の正面切っての戦争に代わって、国家や組織、その主体を明らかにしない、アメリカやその他の国家に対するインフォーマルなテロは、今後主流となってくる可能性は高い。こうしたことから、今アメリカでは、国家にとどまらず、企業においてもセキュリティーの問題が喫緊の課題として認識され対処されてきている。民営化を進める共和党ブッシュ政権ですら、入出国管理業務を民営化から再び直営の公務員化をせざるを得なかった。安全管理には効率性よりも国家責任に基づく丁寧さを重視しなければならないからである。
 ニューヨークのウオール街の、それももっとも象徴的なビルが破壊されたということから、すでに後退期に入っていたアメリカ経済への打撃が世界経済への衝撃となって世界恐慌へ発展する危険性も危惧される中で、先進主要国の財務相中央銀行総裁会議などによるいち早い結束した対応は、世界史上初めてのことで世界恐慌回避の希望を抱かせるに十分ではあったが、アフガニスタンや中東を巡る今後の複雑なる対応、今後のあらゆるテロに対する備えなどを考えるとき、グローバル化した資本主義の楽天的な展開は当分の間考えることはできないであろうし、グローバル化と共に国家そのものの重要性も改めてクローズアップされてきつつある。
 こうしたことから、現在資本市場の自由化を基調とする中での規制緩和、民営化への道をひた走ろうとする小泉内閣の構造改革路線について、それが遅ればせながらの世界資本市場への競争原理への適応としてのみの受身の対応であったとき、世界の動向に再び遅れることになるのではないだろうかという危惧がある。
 世界への参画は、世界に通用するシステムへ国内の諸制度を変えていくことが必要であるが、それは世界の動きに着いていくことだけに終わるのではなく、新たな世界秩序の形成にいかにかかわっていくかという視点こそが大切なのであろう。その意味で、私たちは世界をもっと知らなければならないし、とくに中東やアジアについてもっと深く認識しなければならない。
 政治と経済と社会、そして軍事の関係。安全保障といってもいい。これらを世界的な連関の中でどう捉え、対応していくのか。ことは単純ではない。自己の利害からのみ、一都市の利害からのみ、自国の利害からのみの視点からの脱却こそが今や問われることになっている。しかし、我が日本は、島国としての立地性から、グローバル化への指向性をいかに持とうとしても、具体的な世界とのかかわりにおいて大陸諸国に遅れをとるのは当然であろう。それだけに、常に意図して心がける必要がある。
 平和な安定した社会の大切さは、今回のテロ事件で強烈に認識された。そしてその平和で安定した社会は、血を流す覚悟なくして実現しないこともまた現実によって突きつけられた。戦後56年の平和の中で、軍事の実際にはあまりにも遠い国となってしまっていたが、良きにつけ悪しきにつけ、世界は今だ軍事でもってその秩序が保たれている現実も日本の私たちは直視しなければならないのである。まさしく、非日常、非常事態の常態化であり、期待感による安穏はもはやないとの覚悟がいるものと思わなければならない。(2001.12.2)



・国家財政の建て直し=行財政改革
 行財政改革というものは何も今回に始まったものではない。国家財政を景気回復策に投入してきたこれまでの経緯を振かえれば、不況時の財政投入の結果としての財政赤字とその解消策としての行財政改革はある種一定の時間間隔で繰り返されてきたものであった。かつての大蔵省、今の財務省には、その意味で常に健全財政への指向性が働き、それが政府方針としては行財政改革として示されてきた。しかし、今日までは、行財政改革の結果としてではなく、経済の拡大基調の中で自然的に解決してきたといえるのであろう。それが、今回の財政悪化は、実際半端なものではなく、バブル崩壊後の後手後手となった景気回復策として、収入の落ち込みに逆比例するような形での財政投入を過激に行ってきた結果であるだけに、まさに未曾有の状況にあるとはいえる。とはいえ、国家財政の収支上の問題は、政府の政策の結果生じたものであり、その対策が、戦後日本経済社会の構造改革であるというには、あまりにもお粗末でありかつ政治の身勝手というものである。国家財政の建て直しは、支出の切りつめか、縮小する経済活動の拡大によるかしか所詮は方法はないものである。
 しかし、この国家財政をとらえる基本の問題として、小さな政府論を仮定する場合、問題の立て方は変わって来る。それは、単なる国家財政の問題ではなく、国家としての基本的なあり方にかかわることになる。まさしく構造改革としての問題なるが、その場合は、財政上の問題としてではなく、国家と国民のあり方の問題として検討をするべきであろう。

・バブル崩壊後の経済の建て直し
 小泉構造改革のもっとも根幹をなすものが、国家財政の建て直しなのか、日本経済の建て直しなのか、その基本的な軸足がよく分からないのであるが、恐らく小泉首相自身の元来の問題意識は、その時々の時代の変化よりは、郵政事業の民営化に代表される小さい政府への変革に強くとらわれているのであろう。したがって、経済や財政の建て直しそれ自体にはさしたる考えが見えないのである。中身よりも、国債発行額30兆円とか、不良債権の2年以内の解消などという硬直した形にとらわれた見解となって表れるのである。断定的に言えば、現在の日本の不幸は、首相に経済財政に対する見識が見えないことである。さらに言えば、「経済」と「財政」とを一体的にとらえてしまっていることにも問題がある。もちろん、財政と経済とは密接な関係があり、財政は広義には経済の範疇に入るのであるが、国家財政と国民の経済産業活動とを無前提に一体化したのでは事の本質や対処すべき政策に当を得なくなる可能性がある。経済白書が、財政経済白書となったことは既に前内閣の段階で決まっていたこととはいえ、経済白書が、日本経済をでき得る限り客観的に分析しようとしてきた子と異なり、財政経済白書は、小泉構造改革の解説書になってしまっており、どの程度まで客観的な分析書たり得ているのかには疑問なしとしないのである。
 ともあれ、バブル崩壊後の経済の建て直しは、本来であれば、バブル後の落ち込みの底に達し、不良債権の解消が完了すれば経済は復活してくるはずである。しかし、既に見たように、バブルの崩壊のさせ方、崩壊後の通貨政策の故意かそうでないかはともかく財政上からの景気振興策とのちぐはくさなどから、結局回復しないままに泥沼のような深みに落ち込んでいった。それは、経済の舵取りに問題があったのか、或いは、バブル形成過程から既に日本経済は構造的な揺らぎのなかにあり、景気対策ではどうにもならないような瓦解的な経済状況に向かっていて、バブルの崩壊とともにその矛盾が一気に噴出するところとなったのであろうか。識者の中でも見解は完全に分かれている。私はその両方があったとは思うが、より強く、バブルの弾けかたと崩壊後の政策ミスに負うところが大きいと考えている。構造改革論の立場にたつ方々には、経済の落ち込みこそ、構造改革を進めるチャンスとして捉えている方々が多いのも気になるところである。
 さて、バブル崩壊後の経済の建て直しには、小泉内閣のいう「構造改革なくして景気回復なし」という考え方が目下多くの支持を得ているようであるが、これに対して「抵抗勢力」といわれている自民党のかつての主流派層にはデフレ阻止に軸足を移さないと日本経済はもはや破局の瀬戸際にあるとの危機感がある。橋本内閣の構造改革は、現在よりももっと緩やかな経済の落ち込みではあったが、それによって改革の機にあらずと挫折したのであり、そのほうがずっと人間の行う政策であるように思えるのである。なるほど痛みを国民に訴えるということは勇気のある行為であり、本当に真剣でなければできない行為である。しかし、痛みの具体的程度や痛みを自らも理解し感じるということなくして政治を預かることは本来許されるべきことではない。構造改革には、それを実行するべき条件や体力づくりというものが必要なのであり、その構造改革の構造がより根本的なものであればあるほど、国家や国民の基本的体質にも関係する重大なことであるのもならず、本来長大なる時間を要するものである。国家や社会のシステムは、そう簡単に人為的、政治的に変えられるものではない。
 バブル崩壊後の経済の建て直し策を整理すると、ひとつには、不況対策、さらにデフレ対策から今やデフレスパイラルの阻止というながれがある。次には、金融再生と不良債権の解消であるが、この不良債権問題こそが曲者で、バブル崩壊によって生じた不良債権はすでに大方の解消ができていて、今やその後の不況の深化によって債権の不良化が日々生じているのである。これは、景気が回復過程に入れば解消していくものであるが、そうでなければ際限のない状況となり、「不必要な企業は市場から退場するのが当然だ」というような見解が、勝者の企業や政府からあからさまに出てくるような事態は一体どのように理解すればいいのだろうかという気持ちになる。既にその傾向が顕在化しつつあるが、不良債権の解消に伴う企業の倒産が、さらに景気を悪化させ、日本経済を縮小させる状況も見られるのである。
 バブル崩壊後のバブルの後遺症が、単なるバブルの後遺症なのか、或いはもっと本質的な問題をはらんでいるのか、その具体的な分析を十分行わない、その結果に対する具体的な処方箋を明らかにして政策化しないと、いたずらに構造改革を云々するだけでは、本当に破局を生むことになりかねない。そして、いずれにしてもデフレ対策は喫緊の課題である。デフレスパイラルの瀬戸際にあってなおかつインフレの脅威を主張する考え方は理解することが困難である。戦後、インフレの経験はあってもデフレの経験はなく、デフレの後は経済恐慌なのである。ただ一面の理解ができないわけではないのは、デフレ阻止の金融緩和策は、デフレが止まった瞬間には急激なインフレを呼ぶ危険性があるということ。しかもこれまでの日銀の政策のちぐはくさからすれば、常にといって良いほど通貨政策の舵取りのタイミングが遅れており、瞬時の対応にほどとういことからすれば、デフレの次にはインフレの覚悟を私たちはしておく必要があるのである。
 そしてまた、IMFにしてもアメリカにしても、日本の経済政策に関して、純粋に日本のためにというよりは、それぞれ自国の利害を基に日本経済を観察しているのであり、国際関係は国益と無関係にはありえないということも肝に銘じておくべきであろう。なぜ、アメリカは日本の構造改革を強く求めているのか。そのアメリカでさえ、今や日本政府のデフレに対する危機感の弱さに危惧の念を懐きだしているのである。
 竹中経済財政担当相は、さすがに経済学者だけに、すでにその危機感を持っていて、ために日銀の金融緩和策を盛んに主張していた。日銀の速水総裁は、構造改革の速やかな推進を求め、小泉首相も、同様である。そして財務省は財政健全化へのプログラムの推進である。事態の進行は、ひとりの人間の観察や見識で断定できるほど容易な状況にはなく、今や景気振興策としてとり得るすべての策を講じることが必要であろう。そうしたなかで、構造改革は、具体的な状況との兼ね合いの中で、日本のシステムの変化を本当にどうすることがいいのか、またそのことが可能なのかを十分検討しつつ進めるべきであろう。幾度も指摘したいが、システムや体質の変化は、政治的、人為的にそう簡単にやってもらってはいけないし、またでき得るものではない。
 デフレ阻止、景気対策のための通貨政策、バブル後遺症の解明とその対策、経済産業の迫られている具体的課題への対応といった問題と構造改革との関係を整理して理解、対処する必要があるのではないだろうか。(2002.1.7)
  
・国を開く=市場を開く
 構造改革というものの根本は、基本的には国を開くということ、開くにあたっての国内システムの世界への適合性への組替えであるということができる。資本と貿易の自由交流がどれだけなされるか、そして国内の産業経済システムがそれに適応ないし、持ちこたえ得るのかという問題である。
 この場合、「世界」、「自由」、「国内システム」という各用語が一体どういう内容をもっているのかが問題で、その意味するところがひとによってそれぞれ異なることが多い。
 「世界」には、米・欧ばかりではなく、発展途上国も近隣の東南アジアもある。しかし、「世界」、「自由」、「市場」を組み合わせた場合、米欧の資本・市場経済のシステムにいかに適合するかが課題とされる。そこで、極めて単純な問題として、資本力と生産技術の発展した国は、国家間の市場が開かれ自由であればあるほど優位となる。近代から現代にかけての西洋資本主義国家群による世界制覇はそれゆえであり、第二次世界大戦以降の発展途上国の成長と自立の過程は、その修正であるといえる。資本主義経済としての発展途上にある国は、一気に市場を世界に開いた場合には、その国の経済は先進国の資本に支配され、ひいては国家そのものが国家としての体裁を保てなくなる。第一次世界大戦頃に逆戻りすることになる。したがって現代では、一国の自立的成長に合わせながらの先進諸国の国家的支援を重ねながらの自由市場経済化への道を求めることになる。
 日本の場合も、戦後しばらくは保護貿易とアメリカによる物資援助等を得つつ経済力を培養し、西欧に追いつくことを目標としてやがて経済立国として世界にも進出することになってきた。その過程は、世界に国内市場を順次開いていく過程でもあったが、国内市場を世界に開く度合いに応じて、国内産業間の矛盾も増大してきた。輸出産業と、国内消費財生産産業との相反する立場の違いである。そしてこの問題は、単に経済問題のみにとどまらず、日本の社会、文化、政治、日常生活全般にいたるまでの影響をもっており、はやく世界との自由貿易が百パーセント達成されなければならないと簡単にいってしまえるほど単純な問題ではない。その国その国の文化や社会、経済体質というものを互いに認め合いながら、時間をかけて一歩一歩進めていかなければならない問題であろう。これには、再び、世界経済を単純な自由市場経済の下での弱肉強食の世界にしてはならないことと、それぞれの国の文化や社会を国外からの強引な手によって破壊してはならないからである。
 戦後の日本は、生産力の向上では米欧に追いついてきたが、政治や社会、国内経済のシステムではかなり独自のあり方をつくりあげてきた。国家が経済を先導し、国家と産業界、とりわけ銀行を軸とする産業経済システムは、米欧との大きな違いとなっている。その違いは、1980年代には日本経済の優位性としてある意味でもてはやされてきたが、バブルの崩壊とともに、そこが日本の最大の問題点として指摘されるようになった。しかし、同時に昨今、『円の支配者』の著者をはじめ、比較的日本と体質の似通ったドイツのあり方が、米英に代表される資本市場の自由化を徹底しようとするあり方に対する別の道として提起されるようにもなってきている。先進国家群に翻弄されたあげくアメリカへのテロの温床となったアフガニスタンの不幸、これはアラブ諸国や発展途上国の多くにも存在する問題であり、その衝撃的な事件以降、資本の論理一辺倒のあり方への反省も生まれつつあるといえる。
 さて、日本の市場開放上の問題としては、今日の経済力、技術力からは、基本的には百パーセントの開放へ向かうことは当然のことであろう。しかしその場合の障害は、意外に産業界、企業、そして政界に問題が多いように思われる。すなわち、地理的に世界の端にしかも海を隔てて存在する国であるだけに、国民の日常生活はいまもってそう世界の人々と交流しているわけではない。ために、国民に対する政府の海外情報、国内消費財の日本の仕様ともいうべき日本にのみ通用する生産仕様、GIS規格もそうなのだが、企業や政府が、国民を世界から隔離して、その国民相手の金儲けに励んできたという面があるのである。アメリカではダンピングとして指弾されるような低廉な商品も、国内では日本仕様で結構高価格の商品であった時代が長く続いていたのではなかったか。
 世界標準・世界仕様と国内にしか通用しない生産のあり方、その動機そのものの反省と変革がまず必要なのではないだろうか。デジタル技術の面でも、このことは象徴的であった。今や政府はIT先進国家を旗印にしているが、では十数年前にはどうであったのか。NHKのアナログ・ハイビジョンが事実上世界のデジタルテレビに敗れたことが明らかになっていたにもかかわらず、恐らく投下資本の回収があったのであろう、なおハイビジョンテレビの宣伝と販売を続け、デジタルテレビへの転換は漸く最近になってからである。そして今やデジタルのすばらしさを喧伝する。国民をこけにするのもいいかげんにしてほしいのだが、こうした産・官・政界の内向きの姿勢を改めることがまず第一である。
 今の日本経済は、米英からは資本の自由化攻勢、東南アジアからは低廉な労働力による安い消費財の輸入という二重の攻勢にさらされている。東南アジアからの輸出攻勢は、その背景には日本の企業自身の進出があり、国内産業の空洞化とも併せて、基本的には適応していかざるを得ないのであろう。そのための国内策を講じなければならないが、小泉内閣の構造改革には、この面に対する対策は皆無である。米英など先進国からの資本の進出をいかに受け入れるか、を中心とした国民生活にとって過激な構造改革となっているのである。
 今ひとつ、国を開いていくにあたっての根本的な問題は、国家と産業との結びつきの度合いであろう。いかに自由といっても、国家、国民生活と無縁の経済活動などあろうはずはないが、発展途上にある国であればあるほど、経済産業の育成に国家の果たす役割は大きくなるのは当然のことである。国家が何もなさないならば、資本主義経済の先行した国の資本が世界を制覇するのは明らかであり、それを正義とする理屈はどこにもない。それぞれの国家と国民生活の安定を図りながら政界との経済交流を深めていくことが20世紀を通しての人類の経験的知恵であったはずである。日本の場合でも、明治以来、国家が西洋式の近代産業化を図るためにまい進してきた。国家と産業界との結びつきは当然のこととして今もって深くかつ絡み合っている。そして第2次世界大戦をはさんで今日欧米先進資本主義諸国に列せられるまでの経済大国をつくりあげた。となると、国家の支援、援助に基づく経済活動でもって世界に経済進出を果たすことが、国家と経済とが癒着構造にない米欧企業からは、今やアンフェア−な経済活動として非難を受けることになったのである。一方では欧米に比較しての低廉な労働力、他方では国家の支援を受けた企業活動、これに対する反発が20年来日本の経済進出に対して寄せられるようになってきていたのであり、こうした点、すなわち、労働分配率の向上=国内市場の拡大と産業・企業の国家からの自立という問題こそが、長期的かつ根本的な課題として存在してきたはずである。しかし、現実には、ドルショック、オイルショック、そして今回と対外的に困難な時期に直面したときには常に課題とは逆の国内市場の縮小によるより低廉な海外への商品輸出でしのごうとして問題を深める結果をもたらしてきていたのではなかったか。私たちが知らない間に、いつのまにか「豊かな日本」というものが演出されるようになったけれども、本当にそうだったのか疑問なしとはいえない。
 国家と産業との関係は米欧にあっても必ずしも一律ではなさそうであり、またそう単純できれいなものでもない。最終的にはすべての事象について、国家が最終責任を持つのが現代の地球的規模での発展段階であろう。今、改めて、国を開いていくにあたっての産業と国家との関係を、国民生活の安定向上という視点から、少なくとも戦後の歩み、できうれば明治以来の歩みをたどる中で、見直すことこそが必要ことなのではないだろうか。(2002.1.14)


・政、官、財の腐敗構造の解消
 政治家の贈収賄汚職は驚くにはあたらない。しかし、この10年来の世界に冠たる日本の行政官僚の汚職は、ついに官僚も地に堕ちた感が否めない。日本の官僚のすばらしさは、明治以来一身に国益を担ってきたからにほかならないが、昨今の薬害エイズ問題や高齢者対策としてのゴールドプランを土俵とした汚職のありようは、国益とは対極の自己の私的欲求を満たすものにほかならない。国益を利用し、はなはだしくは国益を犠牲にして私的利益を求める官僚群が形成されてきていたのである。大蔵省の過剰接待問題は、現代日本の行政官僚の程度をあまりにもあからさまに曝すことになった。その程度とは、国益や国民の利益のために身を挺することなく、国の舵取りもおぼつかない中で、特権意識のみ一人前で、その特権的地位を私的利益に活用することには長けているという、その本来の使命と現実のあさましさとの落差である。加えて、地方にける公金不正支出問題の噴出は、国と地方とを問わず、行政というものに対する国民的な不信が頂点に達することになった。まことに悲しむべきことである。
 情報公開が進み、国民の国政や地方行政に対する認識が向上してきているとはいえ、行政の推進には行政官僚、行政職員の存在は不可欠である。今後ますます難しくなる時代の中では、より一層優秀な行政職員が要求されてくる。行政不信を前提にしては、国家も地方自治も成り立つものではないであろう。ではなぜ、こうも行政が腐敗腐敗してしまったのであろうか。
 政治や行政の腐敗が目に付く中で、行政は“悪”で、民間は“善”という風潮も見られる。はたしてそうだろうか。雪印食品の例を見るまでもなく、競争条件の激しい企業活動は、勝ち残るためには“何でもあり”の面がないわけではない。会計制度や情報開示がいかに進もうとも、実際の内情はなかなか外部から窺えるものではない。先輩として見習おうとしているアメリカにおいてさえ、エネルギー産業規制緩和の旗手:エンロンの破綻は、インサイダー取引や政界との癒着疑惑など何処も同じ汚職構造にあることを示している。
  公金不正支出はともかく、いわゆる汚職というものは、利権をめぐる政、官、業(民間)の癒着構造から発生する。その三者のいずれが因で、いずれが果かは、鶏と卵の関係と同じで、互いに因となり果となる関係である。この政・官・業の関係は、国家が産業を育成、先導するあり方の中から生まれてきた。これは別の見方からすると、政・官が、民間企業の生殺与奪の権をもっていることになる。戦後、欧米に追いつこうとして国を挙げてやってきていたときはこれでよかったのであるが、ほぼその目標が達成された現在、国家が先導するかたちでの産業活動は卒業する必要がある。規制緩和はこのレベルで必要なものであろう。ベンチャービジネスは、通例は、国家の育成や保護の枠外で、時代のニーズを捉えた自らの活動で成立してくるものである。しかし、そのベンチャー企業が拡大していく過程では、在来の国家規制が障害となるため、自らの都合にあった政治行政への枠組みを求めて新たな政治への関与を開始する。放送や電波、電話回線などの規制緩和、アナログからデジタル化への曲折などをみていると、新旧勢力入り乱れての、利権の争奪戦であるともいえる。規制緩和それ自体が、新たな利権と汚職の構造を生み出す面があるのである。
 国家の産業活動への関与は一体どうあるべきなのか。業界活動とはそもそも何なんだろうか。個別企業活動の自由と産業との関係は?など、従来当然と考えてきた企業−産業−行政−政治の関係を改めて再構築する必要があり、これこそが本来の構造改革というべきものであるのであろう。ただ、政治と産業とが分離しているはずのアメリカにあってさえ、現実には結構国家が個別産業や企業の利益を代弁し、保護しているようにもみられ、世界的な競争条件の中で、国家が一気に産業育成策から手を引くことが果たして妥当かどうかという現実的な問題は無きにしも非ずではあるが、基本的方向性としては、産業と国家との分離をはたし、産業と企業活動は自由と自立を基本とすべきであろう。そして、国家行政は、エネルギーや水、空気などの根源的な分野は別にして、生産者サイドからではなく、生活者サイドからの公共的に必要な統御のみにとどめるべきであろう。
 戦後一貫して自民党(その前身を含め)が政権を独裁的に担ってきたことが、日本の官僚を事実上政治的公正と中立の範疇におかなくしてしまったのであろう。1990年代の連立の時代になって、本来であれば官僚の中立化が進むべきであったけれども、現実には建前とは逆に、連立下の時の政権はより官僚への依存度を高め、官僚が政治的厳しさに鍛えられる状況が生まれなかった。加えてバブルは、あらゆる世界の倫理観を崩壊させることになったのであろう。今や、民も官も政もない。残念ながら、素朴な性善説には立てない状況にある。そのしがらみは、政、官、民(業)それぞれの立場の責任制の確立から始まるのではないだろうか。(2002.2.2)

・戦後民主主義の成長と所得の平準化の総括
 経済を政治がコントロールしようとする限り、政治それ自体の問題も検討されなければならない。昨今の政治行政をみるにつけ、これこそが本当の構造改革を必要としているが、戦後民主主義の発展を総括することは容易なことではない。民主主義を考える軸心そのものが今や揺らいでいるからである。しかし、本稿を考える上において、最小限度必要と考える範囲においてここでは問題点を指摘しておくことにした。
 戦後を懸命に生きてきた一人として、素直なところの実感を言えば、日本の民主主義未だし。また、生活と経済の向上をめざして頑張ってきたもののその達成感なきままに、「豊かな日本」がいわれるようになった。政治的にも、生活、経済面でも未だに飢餓感は強い。が、自己中心的な生き方が社会現象として成立しているさまをみると、なるほど「満たされているのだな」とも思えてくる。このギャップの中に、問題の本質があるように思える。
 戦後の日本を特徴付けるものとしては、・日米安保体制 ・そのもとでの経済の復興と発展 ・平和と国民主権の憲法のもとでの所得の平準化 ・でありながらの絶対的な政権政党とそれに対する抵抗政党の政治構図 ・それを支えてきた業界や労働組合などの組織 ということになろうか。その構図がアメリカのドルショックとその後の東西冷戦構造の崩壊によって激変することになるのである。その激変を、一人一人の国民としての視点から眺めたときに、国民自身の問題とともに、政治的な問題点も解明されてくるのであろうか。
 戦後の民主主義は、極めて図式的で、個人の尊厳よりは、体制対反体制、保守対革新、憲法改正志向対護憲、日米安保体制対反安保、反動対民主つまるところ支配するものとされるものとの対立として捉えられてきた。よく考えてみると支配する側も被支配で抵抗する側もともに個人の自由という問題意識は希薄で、組織対組織の対立構図であった。支配階級対被支配階級の対立である。この構図は、敗戦直後の混乱期は別にして、1952年の対日講和条約と日米安保条約の締結をめぐる国論二分の戦い、安保条約改定をめぐる60年安保、更に再度の改定をめぐる70年安保というようにほぼ十年サイクルで国論を沸騰させてきたが、1970年における日米安保条約の自動更新以降、経済発展に伴う生活や社会の変化もあって、政治上の目に見えるダイナミックな展開はなくなってきた。
 こうした日本の戦後政治の対立構図は、政権政党たる自民党と絶対野党とも言うべき社会党とによってになわれてきたが、それを支えた基盤は、自民党にあっては基幹産業を中心とした大企業であり、社会党にあっては総評に代表される労働者層であった。そしてその思想的な背景として、自民党サイドには戦中、戦前のイデオロギーが、社会党サイドには社会主義思想と東西冷戦時代の東側への傾斜傾向が多分に存在した。象徴的には親米・アメリカ依存対反米感情である。
 政治や思想的にはそうした対立状況を継続しながら、現実には、戦後飢餓状態から、生産力の回復、増強過程で日本のパイが大きくなり、そのパイである富の分配をめぐって、底辺の底上げと所得の平準化が進められてきた。平等思想が働いていたのである。労使共に、個人所得に関しては、そう極端な格差はなかったといえる。いつの日か、欧米並みの所得水準に到達したいという願いの下に、高度成長期を頑張ってきた。戦後の過程にあっては、まだ日本企業に資本力がなく、パイの拡大はその後のさらなる企業の生産拡大に当てられる。経営者や労働者の所得の拡大よりも、会社自体の拡大発展のためにより大きな資本投下をしていく指向性が強かった。それが、戦後日本の会社中心の社会を作り上げたのであろう。
 主として経済面における所得の平準化指向は、国家が中軸となって生活保障や健康保険、年金、労働者保護(労働基準法や安全、健康管理)などの漸進的な向上により、他方における低賃金性の克服と合わせて、国民生活の向上、安定をもたらせてきた。これには、55年体制といわれる政党構造と日本的な労働組合運動とそれに対する経済団体の対応があった。
 これに対して政治面では、、世界的にも珍しい政権政党の絶対的な優位性のもとで、それに対する抵抗闘争が労働組合と社会党を軸とした野党によって担われ、個人の自由性の確保よりも、平等性を重視した組織的な運動が展開することになる。こうした支配、被支配の拮抗の中で、パイの拡大の進行に伴い所得の平準かも進むことになり、それがまた会社人間を作り出して会社社会を発展させることになったが、政治的にはまだまだ未成熟であったといえよう。
 個人の人格を基礎とした民主主義の発展は、60年安保のいわば挫折から始まったともいわれる。それは同時に、経済の高度成長がはじまり、高度成長に伴う公害や都市問題の発生が新た市民運動を生みだす一方、そうした都市問題を捉えた革新自治体が日本各地で誕生し、地方自治の問題が民主的な国家体制の重要なファクターとして具体的に提示されるようになる。民主国家が、理念から、一つの具体的な形として、中央政府と地方政府からなるものとして認識されるようになるのであるが、1960年代から始まったこの動きは、高度成長の終焉と共に後退していくことになった。しかしこの動きは、会社を中心とした会社社会の日本を、会社をその立地する地域の一員として機能させる、生活を軸とした新しい日本の再構成への可能性を示すものであり、その後今日に至る過程で、極めて漸進的にではあるが、今やそうした方向に歩んでいるのは間違いない。

 さて、戦後民主主義の総括は、いろんな場を通して今後やっていかなければならない問題で、ここではとりあえずその入り口で止めたいが、構造改革との関連でいえば、戦後民主主義の展開の中で築き上げられていた平等性や人権の具体的様相における向上など後退させてはならない課題は多く、またそれこそが、日本の経済発展を築く基になったものであるということ、それと同時に、高度成長の終焉、日本の國際進出に伴う世界との交流の拡大、こうしたことが戦後形成してきた日本の体質に迫ってきた修正点も生じてきた。そこで大切なのは、日本の体質の何をどう修正し、何を継承していかねばならないのかということである。考えなければならないのは、価値観の多様化がいわれることによって、何もかもが相対化し、ある種絶対的な価値は存在しないような風潮の中で、何もかもが破壊されてしまいかねないことである。理論や観念ではなく、戦後日本が営々として築いてきたもの、その実態を、その心情を捉えた総括が必要とされるのである。(2002.10.14)


5.産みの苦しみ

 『円の支配者』と小泉構造改革に触発されて開始したこのつたない稿も進行形のまま2年近くが経ってきた。いまもって、小泉改革とは何ぞや、という問が発せられるほど小泉改革の何たるかは明瞭ではない。その明瞭さに欠けるところは、小泉首相とその内閣の政治的性格によるのだが、基本的な改革の流れは、1980年代から90年代に至る中曽根−橋本内閣の路線の上にあって、もはや後戻りのできない状況のもとにあるということは述べてきた。
 では、何が問題なのか。それは、政治と経済を一体として把握するという意味でのすぐれて政治経済上の問題である。いずれは達成されなければならない課題であっても、現実の社会や政治、経済の実態を注視することなく、ひたすら一つの課題に短絡的に突き進むことは、かえって逆効果を生むという一般的な問題である。まして、経済は、常に好・不況という景気の波の中にある。その景気対策を無視した構造改革は、現実の経済を破壊する結果をしかもたらないことになる。その結果は、本来目指すべき構造改革それ自体への破滅的な抵抗が世論として高揚することにもなる。
 今回の私なりの勉強で分かってきたことは、経済学、経済政策学というものは、あらゆる諸事象の総体として存在する現実世界の経済的側面、もっといえば更に狭小な金融や財政などなどそれぞれの分野のしかもある種の仮設設定の上での理論から発生していて、当然のことながら現実それ自体ではない。ということは、経済学の領域の中に「現実」というものがあるのではなく、現実を分析する手法として、いわば仮想の経済学的現実を作り出すことによって現実を理解し、課題を見出そうとするものである。したがって、現実に対して、経済や金融の専門家から、全く相反する見解が出されてくるのも当然といえば当然のことである。そこで、いかに問題があろうとも政治の場が決定的に重要なのである。と同時に、このことは、「絶対正しく、この道しかない」といった、断定的な答えは本来ない中で、政治がそれ相当の責任を負った選択をしなければならない、その選択に自己を賭ける政治家が必要なのである。仮説を提示することと、その仮説に自己の政治生命を賭けるということとは、全く別次元の世界である。学者大臣の問われている点はそこのところであるが、学者大臣が問われているということは、同時にその任命権者である総理大臣も問われているのである。
 既に見てきたように、戦後の大きな流れからすれば、課題は二つである。一つは、敗戦の荒廃から国家が産業経済を牽引してきた時代から、産業経済がいかにして自立していくかということ。今一つは、日本の国を世界にいかに開いていくかである。この二つともに課題は明確である。そしてその課題は、一気に達成されるものではないこともまた明瞭である。自国内のみで完結した仕組みや論理は、東洋の端にある日本の場合多くあって当然であろう。でありながらも、すでに日本の製品や資金が海外に進出し、いまや雪崩を打ったように中国や近隣諸国へ製造部門が進出し、しかもアメリカとの深い関係抜きに戦後の日本の成長がなかったことからしても、一国内の論理や仕組みを前提にして未来を語ることは許されない。とはいっても、国の成り立ち以前からの固有の歩みを築いてきた国内の仕組みや論理はそう簡単に崩れるものではない。そこに、政策というもの、計画というもの、調整というものがあり、知恵があるのである。仕組みを変え、外部からの進入に対する保護の手を緩め、自己責任制を迫ることは、これまでの仕組みを前提に成立してきた一切のものを助けなしに嵐の中にさらすことになる。そこから、時代の矛盾が沸騰してくる。これを真正面から予測し、捉えてはじめて現実に立脚した実現可能な構造改革の政策や計画は樹立することが可能となる。
 小泉構造改革は、大きな時代の流れの中からはその課題は理解し得ないものではない。が、決定的に欠けているのは現実の実態認識の上にたった政策そのものである。そこから、旧来の仕組みの中からの抵抗が生じ、それに対する政治的駆け引きの具として構造改革が堕落してきている。またそのことにより、旧来からの仕組みをすべて否定する風潮も醸成され、利権体質の悪弊と伝統的な良習とを一緒くたに否定し破壊する考えも生じることになる。怖いことである。
 いずれは時間が解決する問題を、下手に人為的に手を下すことの愚は避けねばならない。この十年来、為政者が変わるたびに政策が変わってきた。まさに積み木細工である。右往左往である。ならば、生じてきた問題に対処する問題対処方の政治のほうがいいのではないだろうか。恐らく小泉内閣の後は、また反動が現れる。国民もその風潮となる。そうした一切を承知した対応が政府にも、政治にも、経済界にも、国民にも必要なのであろう。今は、時の推移を、賢明は判断でもって見守ることである。

(1) 手遅れとなったデフレ対策
 さて、戦後の大きな流れの中で発生したとはいえ、特異な問題として1980年代後半のバブルと90年代に入ってのその崩壊がある。これが、問題の所在を難しくしている要因である。バブルとその崩壊があろうとなかろうと、戦後の大きな流れの中での日本の構造改革の課題はあった。が、その前に、バブルとその後遺症があまりにも大きく、そのことへの適切な対処抜きにはその後の構造改革をはじめとする政策はありえなかった。バブルがあまりにも大きかっただけに、それを下手に崩壊させた場合の破壊的なマイナスの影響は計り知れないものがあったが、当初は、バブルを再現させないことと不況対策の延長線上での景気対策が講じられた。それはそれなりの効果を発揮し、景気が一定の回復過程をたどったことから、橋本内閣による財政改革と構造改革が打ち出される。この時期から経済はおかしくなり、やがてデフレの様相を帯びることになる。バブルの崩壊が、経済財政政策の影響もあってか、結果としては激烈な形を取らずに、構造的なデフレを生むことになった。すなわち、バブルの崩壊はデフレとなって現れたのである。この認識が政治経済をはじめとする各界に当初はほとんどなかったことが、以後のデフレの深化をうむことになった。証券や土地をはじめとする資産価値の急激な下落に伴う不動産・建設業界、金融業界などの経営の悪化と不良債権の発生、それと表裏しての不祥事の顕在化など相当な危機的状況があったとはいえ、銀行救済策などで一応の危機を乗り越えることによって、本当の危機がデフレとして現れるという認識がなかったのである。これには、戦後、世界的にもデフレの経験がなかったということとともに、表面にのみとらわれていた結果からなのであろう。
 と同時に、既に触れてきているように、政府の財政経済政策と日銀の通貨政策とのちぐはぐが景気の回復を妨げ、デフレを呼び込む要因となったことも否定できない。大蔵省の管轄下にあった日銀が、自らの通貨政策の専門的領域での見識だけではなく、大蔵省の指導によって左右されてきたことは事実のようであるが、1998年の日銀の独立以前も以後も、バブルに対する当初の過熱化、急ブレーキによる崩壊、その後の景気回復への障害的な通貨政策など、結果的にはそうとしか理解できないゆゆしい事態があったことは忘れるわけにはいかない。そうして、各界からの批判の中で、さもいやいやながらの金融緩和策が講じられ、結果としてゼロ金利という以後の政策余地のなくなるような事態に陥るものの、その策が、常に後手後手となっていたことから、結果としての総量ではかなりのことをしたようではあるが、有効性を発揮することがなかった。金融政策や通貨政策というものは、タイミングと世論誘導である。これまでの日銀には、受身とタイミングのズレが目立っていて、日銀の独立への疑問すらが生じる事態を生んできた。政府のコントロール化に入ることにも問題があり、日銀の責任制の担保をどうするのかは今後の重要な課題である。
 加えて、小泉内閣は、デフレへの危機感が乏しく、日銀と両者があいまって、いまや日本は脱出の目処のないデフレの長いトンネルに入っている。諸説はあるものの、デフレは経済政策上最も困難な問題である。株価バブルの崩壊の危機にさらされながらも、アメリカでは日本のデフレを教訓として、デフレに落ちいらさないことを最大の課題としているようである。ひとたびデフレに陥った場合、そこから脱出する決め手となる政策は見当たらないようなのである。
 そのことから、日本のデフレ対策は、既に手遅れとなってしまったといえる。その意味では、通常の経済学的な政策で解決できる段階にはもはやなさそうである。であるのなら、通常ではない手段を、政治家が、国民への責任を明らかにした上で、政治生命を賭けて講じる段階を迎えているのであろう。同時に、可能な手は全て講じられなければならない。この面からすれば、今日までの小泉内閣の経済政策は、若者の表現を借りれば、まさしく「終わっている」のである。小泉内閣は支持するけれども、その経済政策には不満があるという世論は、世論調査のあり方にも問題があるのかも分からないが、世論自身が覚悟をするのかしないのかを自覚するべき段階にあることを暗示しているといえよう。
 繰り返せば、経済政策というものは、半分は合理性に基づくものであるが、後の半分は多分の情緒的なものである。とりわけ、為政者や政策立案、執行者に対する「信頼」性に負うところが多い。政府、日銀はその点を心してもらいたいものである。(2003.5.10)


(2) 構造改革の現状
 小泉構造改革は掛け声だけで一向に進まず、「改革もなければ景気回復もない」といったようなことがいわれているが決してそうではない。改革が本来の意味で大胆かつ計画的に進められているかといえばそうではないが、結果論的に、なし崩しのようなかたちで事態は進行しており、もはや以前の状態には戻れない事態となってきている。それは、系統的な計画性によるものではないだけに、いわば最も恐れなければならない状況にあるといえる。

1.小泉構造改革の現状
 小泉内閣誕生後の改革や変化にはすさまじいものがあった。それは、小泉内閣の構造改革がその実を挙げているということではなく、国際的な外部環境の激動に翻弄される中での改革をすすめようとすることによる余波の大きさを示すものである。国内的な、しかも旧来の自民党主流派との対抗による国民世論の引きつけという内向きの動機にこだわってきた小泉政権であっただけに、構造改革の旗を一貫して高く掲げながらも、実際上の進行はまさに試行錯誤そのものであったようだ。それには、一昨年のブッシュ政権の誕生と9月11日の米同時多発テロの発生で世界が激変したことだけではなく、隣国中国へ国内製造業の製造拠点が雪崩をうって流出しつつあること、世界経済は今やデフレが同時進行する気配にあることなどなど、内向きの政権では対応できない環境のもとにある。

 ここで、小泉政権発足以来の足跡をたどってみると、当然のことながら、同じ派閥の森政権との同一性を改めて再認識させられる。小泉政権でもっとも重要な会議が「経済財政諮問会議」であり、有識者を入れたこの会議組織は、さながら小泉政権の最高意思決定機関のごときものである。が、この会議は森政権末期の2001年1月に今は自民党政調会長である麻生担当大臣でもって発足し、小泉政権になるまでにすでに7回の会合を重ねていた。同様に小泉構造改革の重要な会議として総合規制改革会議があるが、これも
その設置は2001年3月27日に森政権下で決められたもので、実際の設置が小泉内閣誕生直後の5月11日となったものである。目下、小泉改革の最大の目玉の一つとなっている地方分権と市町村合併にしても、その具体化へ大きく舵を切ったのは橋本政権下であった。ではありながら、小泉政権とこれまでの政権とはどこに大きな違いがあるのだろうか。

 とりあえず、小泉政権誕生以来の構造改革に関わる重要な方針や決定等を年表風にたどると以下のとおりである。それを見ると、いくつかの種類に分けることができる。年表を追っていくと、まず、都市の再生、ついで特殊法人民営化と規制改革、デフレ及び金融対策、そして公務員制度改革、司法改革、さらに医療制度・年金などの社会保障制度改革、産業再生・雇用対策、教育改革、ITなど情報改革、企業改革、地方分権改革、安全保障改革、税財政改革、政治改革などであろうか。こうして並べてみると実にさまざまに及んでいて、なぜこれらを総合的、一体的に進めなければならないのかが容易に飲み込めないが、よく考えてみると、それらは、一定の筋でつながってくることが読み取れるのかも分からない。当初は、これら主な項目について若干のコメントを付そうとも思ったが、かなり膨大になるので取りやめとし、全体を通しての受け止め方を記すことにした。

 まず小泉構造改革に関連して、最も影響の大きかったことといえば第一に金融問題であろうか、これには企業会計制度も関係しているが。次には政治と金の問題、政治家の口利きなど政官業の癒着構造の問題、そして一般庶民の負担がこれほど一気に増えるのは恐らく戦後初めてかと思われる社会保障制度の改革。さらには、派手なハッチャカメッチャカ劇を演じ、なお今も引き続いている道路関係4公団の民営化問題に郵政公社化問題などをあげることができる。地方分権問題は、国家統治上の重要な問題ではあるが、庶民感覚からは議論の重大性があまり見えてこないし、市町村合併問題も問題が個別化される一方で住民生活からは距離のある問題とされているように見受けられる。そして、構造改革とは別に、デフレ問題と国の防衛・安全保障問題があるが、この二つは、小泉構造改革以上に重大な問題だといえる。
 これらの問題を見ていくと、小泉構造改革の根底には、一貫する中曽根内閣以来の行政改革路線の深まりが見て取れる。そしてそれは、多少のバリエーションの振れはあっても、細川連立内閣を起点とする自民・非自民を問わず以後の連立内閣でもその路線上にあったといる。それは、小泉内閣と自民党内の確執に加えて、小泉内閣と野党民主党との分かりにくい関係にも現れている。中曽根行政改革は、非自民連立政権による一定のバリエーションを経て橋本改革に至り、その影響のもとで、経済政策を無視した形でアメリカ流の企業管理の形態を導入しつつあるというのが小泉構造改革だということがいえるのだろうか。
 少しく分析すると、小泉構造改革の基本方針である「今後の経済財政運営及び構造改革に関する基本方針」(いわゆる骨太の方針第1弾)は、自由市場における競争原理を前提とした規制緩和と自己責任性を構造改革の柱としている。抽象的な一般論としては特に異論があるわけではないだろう。しかし、戦後、国策として鉄鋼や石油産業を育て、その他の産業も業界の組織化を通して、かつ銀行融資を基に産業全体をコントロールし、国民に対しては中央集権の強い国家としてその統治をはかってきた我が国にあって、いかなる動機で、どのような分析の基に、いかなる形と過程でこうした一般的な課題に対応していくかは元々容易なことではない。庶民・国民からすれば、国家からコントロールされてきた時代から、ある時突然に「自己決定・自己責任」能力を問われてもそれはあまりにも国家の勝手であろう。地方自治にしても同様である。本当に国民一人一人の立場にたち、地方自治の立場にたった場合の「自己決定・自己責任」性実現のあり方は、また異なった形を取るのではないだろうかと考えざるをえない気がする。こうした問題が生じるのは、前のほうでも指摘してきたように、小泉改革の基本方針では、現状分析が回避されていることにある。なぜ、そのような課題設定が必要なのかを述べる前に、先に決められた課題があるからである。

 少し具体的な問題を見てみよう。小泉首相がもっとも実現したかったであろう郵政3事業の民営化問題は、事実上挫折し、橋本内閣の下でひかれていた路線どおりの公社化が2003年4月に実現した。元来、民営化の狙いは民間の参入にあったのであろうが、それは郵便事業のごく一部にとどまっていて、究極の目的とされていた郵便貯金や簡易保険については手付かずとなった。ここでの問題は、既に公社化が決められており、しかもそれがまだ実現していない段階で、公社化と併行して民営化論議をすること自体、素人目からしても始めから無茶であることは分かっていたことだろう。次に、民営化は、経営形態を民間的経営に変えるということであって、民間会社へ払い下げるないし競売にかけるのとは根本的に違うということである。郵便貯金事業などがその経営を民営化した場合には、民業の参入どころか、巨大民間会社が誕生してさらに既存の民業を圧迫することになる。金融が銀行を中心とした間接金融から株式市場を媒介とする直接金融へ移行する過程は、既存の銀行業はその経営を衰退させることになり、その市場の減退を郵便貯金等の市場への進出で補おうとするのがもともとの趣旨ではなかったのか。また、既に郵便貯金や年金基金等の資金を原資とした財政投融資計画が漸減的に解消されつつある中では、郵便貯金等の経営の行く末はいずれは民業的に変わらざるをえない状況のもとにおかれていたのであり、その長期的なデッサンは、これまでの政権の下でも描き、示されることがなかったのである。
 高速道路の民営化問題をとってみよう。道路はもともと国策として建設されてきた。国土全体の人とものの流通のためである。それは、他方で鉄道を衰退させることになる。かつて広大な面積を占めていた大都市部における貨物ヤードは、ほとんどつぶれてしまっている。鉄道と車の関係は、これを見ると国の舵取り一つで大逆転する問題ではある。が、高速道路の有料制は暫定的なものであり、いずれは無料化することになっていたはずではあるが、延々と延長距離が伸ばされ、事業が継続することにより、無料化への道筋が見えなくなってきていた。これを有料制の現実を踏まえ、民間経営化すべきだとするのも一つのありかただとは思われるが、道路は本来国家施策として進めるというのも方法であり、そこに一定の受益者負担が設けられるならば、どちらが正義で、どちらが社会悪かという問題ではない。道路のハード面と利用の運用のソフト面とで別会社を設けるといった、素人目には込み入ったややこしいことをやって、将来的に果たしてうまく機能するかは大いに疑問であるが、そのときには誰が責任を取るのだろうか。官や公が悪で、民が善であるといった単純な問題ではない。今や官も民も問題だらけであり、適確な監視機能なしには正常に機能しない時代に入っている。その原因をこそ突き詰めるべきであろう。可能な限り民でできるものは民でというのは理解できるが、その「可能な範囲」が適確に検討されなければならない。そこには、全体としての国策が必要なはずだ。それはまた、1民間人、1有識者ではなく、国民の選択が要求されるのである。
 金融問題は、その根底にデフレがあり、さらにその原因には、バブルとその崩壊による善後処置のまずさがあった。にもかかわらず、橋本内閣の下で金融ビッグバンが発進され、若干の時間のズレを持ちながらも深刻化するデフレに対する考慮がないままに、いわば経済無策のままに、デフレスパイラルへの道へ日本全体を突き落としつつあるということであろうか。加えて、バブル時代における豊満なるマネーゲームによる倫理観の喪失、それは経済界全体に及んでいて、個人生活に至るまでその余波は波及していた。土地と株に踊り狂い、意味のない消費・レジャーブームを呼んだが、バブルの崩壊によって一気にそれらはしぼんでしまった。が、個人生活でも企業やその他の組織でもそのバブルに狂った後遺症は容易になくならず、株や資産価値の下落のなかで、日本全体が正常な機能を失ってきた。そうした面の一つの凝縮された世界が銀行であり、不良債権問題である。個別企業を取ってみた場合、バブルに踊ることの少なかった企業はその後も健全に推移しているのが見て取れるのである。金融問題は、こうしたバブルとその崩壊という実際上の問題を具体的に分析することなく、金融システムの問題として一般化するところから問題の不透明さと対策の恣意的なあり方が形成されることになったのではないだろうか。最近のりそな銀行問題一つとってみても、会計の計算の仕方を変えることによって、従来なら満たされていた資本比率が急減するのである。そこには、時価評価の問題とは別に、税制の問題も存在しているが、問題は一面でしか語られることがないのである。企業倫理の問題は、情報開示の進行とともに自ずから解決していく問題であろう。これまでの閉鎖的な株式会社経営から、いかにして、下手に会社をつぶすことなく、会社を成長させつつ真っ当な会社にしていくかが課題なのではないのだろうか。銀行にしろ会社にしろ、決して身奇麗さが会社の成長条件ではない。上から管理監督されて、自由な経営ができるわけではなく、自由な経営のない中で、先進的な経営が可能であるはずはない。銀行というものは、経済の根幹となる通貨政策を担う部門であるというところが他の産業部門とは異なるが、経営そのものは、他の産業、企業と同様に、国家のコントロール下におかれてはノーマルな経営はありえないのである。政府がなすべき側面を間違ってはならないであろう。
 構造改革の基本方針としての今年度版の「骨太第3弾」で、「3つの宣言」と「7つの改革」がうたわれている。基本的には第1弾と同じ精神であるが、より財政上の要請が強まっているのであろうか。ソフトな、希望のある表現で表されているものの、この「3つの宣言」の相互関連が本当は重大な問題なのである。希望ではなく、現実はいかにしのぐかが課題なのである。そしてその対応は、一方で企業や資産家への減税や助成措置である反面、他方では大衆課税や大衆負担強化の方向にある。日本のこれまでの所得配分は、企業の内部留保を高めることを重視し、国民の個人所得は平準化への志向性を強く持っていたが、中曽根改革以来、アメリカ型の資本経営を見本に、高額所得者への減税と定額所得者への増税を志向するようになってきた。この十数年来で高額所得者の税率は相当減少してきているはずである。株主資本主義への傾向を強めるにはなるほどそのほうがいいのであろうが、社会の安定や安全、健全性を考えた場合、福祉型国家が本当にだめなのであろうか。競争原理が必要なことも理解できる。世界の中で日本だけが閉ざされていかに安定した状態にあろうとも、その答えは、徳川300年の結果を見れば明らかである。がしかし、適度さというものは経済学には存在しないのであろうか。
 地方分権問題では、数年前からすれば大変な前進である。数年前までは、権限委譲はあっても財源移譲にはまったくそのめどがなかったからである。よくぞここまでという感慨をもたざるをえないのが正直な気持ちである。そうでありながら、やはりその根底には、基本的に国家財政の負担を地方へ転嫁させるためという動機を否定できない現実の重苦しさがある。市町村合併問題とあわせて、地方は否応なく自立への道を歩むことになるが、「三位一体改革」という精神は精神として、具体的様相は明らかではなく、全国最低基準となるミニマムへの税財源の配分方式の難しさは半端ではない。財源を減らすことによって地方を自立させる方向ではなく、財源を提供することによって自立への援助をする方向が大切なのであろう。他方で、地方の分権化がすべて善なのではなく、国家の基本的な施策をどう取るのかが併せて考えられるべきであろう。狭い国土である、分割することがすべて善ではない。地方分権問題の中で忘れてはならないことは、市町村という基礎的自治体の大切さである。大都市や県庁所在都市以外の市町村の実態は、都道府県の支配下にあるといっても言い過ぎではない現実がないわけではない。府県が華々しい地方分権というのはつまるところ本物ではない。基礎的自治体の自立があってはじめて地方分権である。明治以来戦後に至るまで国家統治の基本は都道府県を通じて行われてきた。都道府県が、戦前、国家の地方機関であったことの継続性が今なお色濃く残存してはいないのだろうか。いくつかの県において国家統治に刃向かう姿勢のところも見られないわけではないが、県内においては逆に県が市町村の上に君臨することになっていやしないのだろうか。市町村という基礎的自治体の元気な地方自治のあり方を求めたいものである。
 地方自治に関連して、第三セクターの経営危機の問題が顕在化してきている。これなども経営感覚の弱さの問題はあったとしても、基本的にはバブルとその崩壊後のデフレによる経済の縮小の中で生じている。と同時に、第三セクターというものの本来もっているあいまいさというものもそこには存在しているが、これなども元々国の政策として進められてきたものである。
 このように一つ一つ問題を取り上げていくと際限のない問題指摘をしていくことになる。具体的な問題指摘をしていくとそれ自体が膨大な量になる。構造改革であるのか構造改革とはいえない改革であるのかはともかく、下記の年表を見るだけでもこれからの日本は、それぞれに問題を抱えながらも大変な激変に見舞われることがわかる。疲弊し、疲れ果てて激変の中に放り込まれていくのである。小泉内閣の指し示す「絶対正しい道」へ向かってなのだろう。社会現象に対する方策というものは、多分、常に複数の選択肢があるはずだと思うのだが。正しい道を歩む者には「責任」は発生せず、選択肢を選ぶ人間は「責任」を負うということも考慮に入れておくべきことではある。

2.本来の改革からの考察
 それでは、本来の構造改革という視点からすれば小泉構造改革はどう評価されるべきなのだろうか。ここで本来の構造改革の意味を次のように整理しておきたい。
・日本の国を世界に開くしくみ、世界のしくみと接合できる日本国内のしくみづくり。
・国民の自立への道筋づくり。
・政治と経済分離への道筋づくり。
・国家の自立への道筋づくり。
 以上のことはいずれも、第2次世界大戦に敗れ、荒廃した国土から国家主導で一丸となって立ち上がり再建をはたし、世界の国々に肩を並べて対等の交流を果たすようになるにしたがって培ってきた道筋であり、今なおその途上にある、という問題意識の下にある。

・日本の国を世界に開く道筋づくり
 世界に開くということは、関税撤廃による自由貿易の促進であり、資本の自由化であり、内外の人々の行き来の自由化である。東西冷戦構造の崩壊以降、民族と国家との矛盾葛藤が高まり、加えて9.11米同時多発テロ以降の世界の動揺の中で、かえって国家の役割自体の重要性が増す中で、国を開くことの難しさも生じてきているが、基本的には閉鎖的であった日本の国をどう開くかは、日本の基本的な課題である。しかし、こうした視点は小泉構造改革にはない。では、世界と交流するに当たっての、世界の国々と日本の国内とのしくみの接合性はどうであろうか。日本国内で培ってきたJIS規格を始めとする産業技術、製品の仕様には世界に通じない日本仕様というものが多かった。経営形態や会計上の問題にも同様のことがあり、「世界仕様」という形で目下その取り入れに汲々としている。が、一口に世界仕様といっても、アメリカの力押しによるアメリカ仕様もあれば、ヨーロッパ仕様もあり、また世界の国々が「世界標準」をつくり、改正するために凌ぎを削っている分野もある。日本の発展の経緯と発展段階、そしてその体力と外国への与える影響の強さに照らしつつ、漸進的な対応がとられるべきなのであろうけれども、最近は、日本の特技である換骨奪胎して取り入れるのではなく(そうしたところも多々あるが)、アメリカ的「世界標準」を直線的に導入しようとする傾向が強く、そこに「抵抗勢力」との軋轢がある。ここでの課題は、世界の経済大国にのし上がった日本の担う根本的な命題であるが、世界との交流によって衰退する国内産業があるだけに、その実態への丁寧な処方を併せて考えないと、日本的なものの破壊に堕する恐れがある。こうしてみると、小泉構造改革の未熟さと杜撰さが浮き彫りになってくる。

・国民の自立への道筋づくり
 敗戦後の平和憲法は、世界の恒久平和を願う崇高な理念を高らかにうたっている反面、一人一人の国民の人権と自立性の尊重は、漸く最近になって高まりを見せてきつつあるに過ぎない。軍国体制を国民自らの力によって打ち破ったのではなく、「敵国」アメリカの勝利によって、「解放軍」アメリカの助けがあってはじめて実現した戦後民主主義であっただけに、その内実が伴うには戦後数十年は要したし、いまなお未成熟な部分も少なくない。集団主義的な日本の国家、社会を「日本型の社会主義国家」とすら称され、また自称する人すらあることもその点を表しているといえよう。
 しかし、考えてみれば、建前とは別に、自立とは容易なことではない。それには長い時間と条件が必要だ。ある日突如として政府が、これからは、個人の「自立と自己責任」制の国家にするということの意味は重大である。自立への条件整備や時間を用意せず、国家財政が窮乏化したから自立であるというのは、まさしく国家としての、為政者としての責任放棄の何ものでもない。戦後、国民の自由と人権尊重のための多くの闘いや活動があったが、政府はそれらにどの程度応えてきたのであろうか。それとの関係抜きに、突如として「自己責任」制は問えないはずである。
 国民を突き放すことは、ある意味で自立への近道かも分からない。しかしそれでは、政治や国家というものは必要ないものとなろう。
 国民の自立は同時に、新しい国家形態を必要とする。そしてそれには地方自治が深く関わる。一口に国民の自立といっても、一人ひとりばらばらの国民が単体としててんでばらばらに国家形成に与るわけでもなく、また与れるものでもない。国家形成に与るのは、地縁的な組織もあれば、種々の機能的組織もあり、そうした各種組織を通してはじめて国家形成に関わることができるのである。世論調査のような、うたかたの世評が国民の国家への参加ではない。そして、自立した個人というものは、自らのことは自らの責任で律するということであるが、それには、国家形成への参画をはじめとする各種の組織への参画が不可欠であり、そうした参画なくしての自立は、単なる抽象的な言葉に過ぎないものとなる。そして、国家形成への参画で最も重要なのが地方自治の存在であろう。通常の個々人は、地方自治を通して国家に関わるのであり、各界の代表者のように、国家と直接対面することはごく限られている。
 従来の中央集権的で、かつ官治的色彩の強いわが国にあっては、世界における地理的な条件もあって、反面の平和で安全な生活を保障されてきた。しかし、世界のグローバル化の急速なる進展と国力の増大による世界との交流の深まりの中で、国を開き、国内の自由化を進めるに応じて、官治から本来の民主主義的な国家形成へと向かうには、国民の自立とそのための地域の自立的運営、すなわち地方自治の重要性がクローズアップされてくるのは当然の成り行きである。とするならば、建前論議は別として、中央集権的かつ官治主義的な国家体制を、地方自治を基盤とする国家体制に現実に向かうプログラムが用意されなければならないはずである。本当の構造改革をうたうのであれば、「三位一体改革」の前に、こうした実質的な国家の統治形態の検討がなされなければならないが、分権改革推進会議をみても、その根底は財源問題であり、本来の分権論議は交わされていない。
 徐々に中央集権的な色彩は緩和してきているとはいえ、これまでの地方自治は、国家による行政指導が、それに従わなかった場合における懲罰的な財政運営と関係づけられていて、結果として国のコントロール下に置かれてきた。地方自治体の国家に依存した責任性の薄い経営感覚のなさといったことがよく批判的に指摘されてきているが、それには、これまでの地方自治は国に顔を向けていないと仕事ができなかったという仕組みと国家意思を問題にしなければならないのである。そして、そうした国家統治の仕組みとして、戦前からの都道府県が活用されてきたのである。都道府県が国家統治として地方自治を支配、コントロールする上での重要なる役割についてはあまりにも軽視されてきたのではないかと考えている。
 国民の自立には、地方自治とは別に、国民に対する規制の緩和、自由化という問題がある。これは、国民の自己決定権とその表裏の関係にある自己責任性を具体化することであるが、それは、これまで、多少の不自由があったとしても、国家によってその生活環境を保障してもらってきたことからすれば、建前とは別に重大な問題である。極端にいえば、昨今の激増する犯罪に対しても、国民は自らの命や財産は自らの責任で守ることである。個人間のトラブルも国家や社会の指導・習慣によって調停されてきたが、これからは自分自身の努力で、結局のところ裁判でもって決着をつけなければならない訴訟社会になるともいえる。これなど少々の不自由があっても身の安全を保障してくれる国家のほうがよいとの選択肢もあるはずであろう。現に、「夜警国家」という理念も過去には存在した。国民の自立といい、自由化といい、規制緩和といっても、かつてのルールなき競争社会の中での弱肉強食による悲惨な経験を克服して平等な安定した社会をめざして積み上げてきた各種の規制やコントロールというものがある。官治的な規制の撤廃問題とは自ずから別の問題であるが、ある意味で人類の貴重な経験としての人間存在のために必要なるコントロールというものをこの際明確にするべきことも不可欠の作業であろう。国民の自立というものは、資本や株式の最大限の自由をいうのではなく、ある種資本というものの弊害の抑制なくしてはありえないともいえるのではないだろうか。ま、しかし、いずれにしても国家が国民擁護から徐々に手を引き、国民の自立性が問われるにしたがって係争事件が増大する方向にあるのは明らかであり、小泉改革の一つでもある司法改革と法曹人口の増加は不可欠なのであろう(訴訟社会というものの是非は別にして)。

・政治と産業との分離への道筋づくり
 中央集権・官治主義国家の地方自治支配とは別の面は、国家による産業支配の問題である。産業と国家との結びつきは、これまた建前とは別に現実には難しい問題である。民主主義の最高形態と目されるアメリカにおいても、現実の政権は産業界との強い結びつきが見られる。汚職や不祥事は、アメリカや国内にとどまらず大概は政治と産業界・企業との癒着から生じている。それは、在来型の産業にとどまらず、新興産業にしても同じである。日本が戦後復興を遂げていく過程では、各産業界を組織化し業界としてまとめ上げ、まとめ上げられた業界組織を国家がコントロールすることによって産業界を育成してきた。こうした政府と産業界の結びつきを欧米の産業界や政府は、自由な競争条件下にはないとして批判してきたのであるが、後発の資本主義国家の場合は、多少のバリエーションはあってもみな同じである。国家による育成なくして欧米産業に対抗して国内産業を成長させることなどできるはずがないからである。課題は、いつまでそうした国家と産業界の関係を継続させていくのかである。すでに世界に経済進出を果たした日本の産業は、もはや育成されるべき段階にはないはずであるにも関わらず、昨今の産業界の苛烈な国際競争のなかで、先進資本主義国家といえども産業界との結びつきを強化する動きもあり、日本経済が沈滞している中で、そうした国家による産業の育成があたりまえのように考えられ、挙句には在来型の産業の衰退を促進させることすら構造改革の土俵にのせるというところにまで至っている。結局、規制緩和といいながら、相変わらず国家によるコントロールから離れられないのが権力というものであろうかとさえ思われるのである。技術革新と経済成長の中で、従来の基幹的産業とは異なるいくつかの産業が勃興し成長してきた。この中では既に一部大手のスーパーのように衰退しつつあるものまである。が、概ね新興の産業は、政府の援助を受けることなく、新しい時代の要請を読み取りそこに賭けることによって地歩を築いてきたのであるが、それも一定の規模に拡大する過程で、既存の枠組みとの軋轢や国家の仕組みを自らの産業に有利に機能させるための政治的行動に出るようにもなり、現在の構造改革をめぐっては、こうした新旧産業の利権争いのように見える側面もないわけではない。
 これからの政府の役割は、産業対策は中小企業に対する最小限度のものにとどめ、国土政策としてのインフラ整備と通貨や金融政策などの経済政策の領域内に止めるべきなのではないだろうか。助成や誘導、ましてや衰退しつつある産業への衰退の加速化などの行政指導はとられるべきではない。自由で公平かつ公正な競争条件とはいかなるものかを具体的にあきらかにすることは容易なことではないが、規模や資本の大小や産業間の違いを超えて、個々の企業が公正な競争関係に立てることが大切である。特に今後大切だと思われる国家の役割としては、海外での企業活動の安全を国家としてどのようにカバーしていくのかが、製造拠点の海外への移転が急激に進行している状況の中で差しせっまて必要となってきている。技術革新の問題にしても、国家がなすべきことは基礎的研究であって、商品化の競いあいではない。商品化の競争での産学共同は、結局のところ大企業と有力大学との提携に収斂していくことになりかねず、企業への公平性の確保は困難となってくるのではないだろうか。
 そして、国民の生活安定との関係では、労働関係における労働者の地位と分配への保障がある。伝統的な雇用関係から、企業と個々の労働者との個別契約関係に移っていくことが新しく好ましい労働関係であると単純にいってしまうにはあまりにも問題は深刻である。いまさら、近代産業勃興以来の労働問題をおさらいする必要はないだろうが、少数の凌ぎを削る競争関係に身をおく、高い知識や技術を有するエリート層はともかく、大部分の労働者は、それほどの競争関係にはなく同質的な要素のほうが高いのであり、終身雇用制が自然に緩んでいくことは避けられないにしても、それを政策的に促進することはあるべきではない。人権意識と所得水準の高まりは、確かに労働運動の存在感を薄めることにはなったが、今もって公務員の労働基本権に関して国連の国際労働機構(ILO)の勧告を受ける日本政府である。国家による人権の保障もまだまだの感はあり、労働基準法を無視したサービス残業をはじめとする過酷な労働条件はいまや蔓延しているときに、労働者を層としてとらえてその地位と所得を保証していくのではなく、弱い個々人に解体していくことには問題がありすぎる。労働の多様性は、どのような層でまぜ、どのように現れているのか、そうした具体象の中で具体的に検討していくべきであって、労働関係の多様性を一般化するべきではない。これは、社会の安定と今後の企業活動の発展にとって大切なことであると思われる。

・国家の自立への道筋づくり
 日本にははたして国家としての尊厳があるのだろうか、と、ふと疑問をもつことがままある。日本の為政者は、日本国内での自国民に対してはなかなか本音をいわないが、アメリカでは結構本音をいっていて、それがアメリカからの情報として日本に逆流してくることがよくある。一体この国はどうなっているのかと思う。戦後、独立後もアメリカの傘の下で成長を遂げ、徐々に自立してきたとはいっても、未だに根底において自立を果たしていないとえば、なるほどとうなずけないこともないが、それではあまりにも寂しいし、またそう断定するべきでもないのだろう。しかし、安全保障問題では歴然と、また経済にしても日本がアメリカ抜きにはありえないのは事実であり、そこら辺りの関係を、構造的にアメリカの仕組みの中に組み込まれているとするのか、日本自身が自覚してアメリカとの関係を意図して形成しているとするのか、つまるところ、日本の為政者と日本人自身の精神的な自立性の問題に行き着く。
 こうした抽象論はそれとして、現在生じている問題は、北朝鮮問題とイラク戦争(その後の復興)とりわけ北朝鮮からの危険性に対する防衛、安全保障上の問題であり、経済・産業政策を巡るアメリカとの関係である。と同時に、国家の自立は、明治の福沢諭吉に待つまでもなく、国民の自立心なくしてありえない。そこには、国民の権利義務の具体的様相と地方自治とのかかわりにおける統治形態の問題があり、また国民の国家意識そのものが内在する。
 憲法前文を改めてながめていると、確かに、第二次世界大戦後の対ファシズムとの戦争後における平和の問題と、東西冷戦構造が崩れ、民族と宗教、国家が複雑に絡み合って生じている内乱や戦乱、テロといった不安定かつ危険な国際関係にある現在の状況を考えたとき、憲法前文があまりにも崇高で時代に対応していないのではないかとの思いも生じる。戦後日本の安全保障は、一方で冷戦構造におけるアメリカの軍事基地の継続−そこには日本自身に選択の余地は与えられていなかったという意味でのある種占領状態の継続という側面がないわけではなかったものの、国土防衛に関しては、アメリカの核の傘によって守られてきたのも現実であった。日本の平和意識の甘さが指摘されるのも理のあるところである。
 しかし、東西冷戦構造の崩壊は、長期的にはアメリカとの関係を根本的に変えうる状況をもたらすことになった。対米関係がこれまでの選択の余地のないものではなく、日本自身の選択によってその関係を決定できうる状況下におかれるようになったといえよう。中国もロシアも仮想敵国ではなくなり、日本の企業が進出しているのである。となると、どのような対米関係にするかは、日本国内の重大な問題のはずであるが、不幸にして政治の世界からはそのような語りかけはない。従来からの対米関係を変えるには、それ相当の覚悟を必要とするが、また従来の関係を継続するにしても、アメリカサイドからは従来以上の双務的な関係が要求されてくる。軍事・安全保障を巡っては、いまやそのことは顕在化している。あいまいな一般論ではなく、具体的かつ重大なる選択肢を国民の前に明らかにする必要があろう。
 国益論が盛んであるが、その前にこうした国家の基本的スタンスの確定が必要である。明らかなのは、建前の平和や人権、民主主義とは別に、世界各国ともに国益を計算して抜かりがない。どこまで相手の国のことをその国の立場にたって考えているかには疑問が多い。根本において、自らの国のことは、自らの意思と責任で対処することの覚悟が不可欠なのである。日本経済の苦境に対して、アメリカやヨーロッパ、IMFなどの国際機関からの助言や要請は絶えないが、そこには、日本のためという要素とともに、こうした日本に対してそれぞれの国がどう利益するかという問題が常に内在しているのである。
 国が自立するということは、防衛・安全保障の問題と体外的経済関係の問題を主軸として、国内的には国民の自立のための人権と生活安定、地方自治を基盤とする新たな国家統治形態の構築ということに尽きるのではないのだろうか。そのために不可欠なのは、民や官やという問題ではなく、民も官も政も実際上の情報開示をどこまでなしうるかである。構造改革というのであれば、こうした視点からの分析と系統的な問題提起がなされるべきではなかったのではないだろうか。

<小泉構造改革主要年表>
010508「都市再生本部の設置について」
010626「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(骨太の方針)
010807会計基準を決める新しい民間組織「財団法人 財務会計基準機構」正式発足(金融庁の企業会計審議会から役割を引き継ぐ)
010921「改革工程表」
011026「改革先行プログラム」
011109司法制度改革推進法、参院本会議で可決成立
011127先行7特殊法人の廃止・民営化を決定
021211「総合規制改革推進会議の「規制改革の推進に関する第1次答申」
021214「緊急対応プログラム」
021218「特殊法人等整理合理化計画」
011225「公務員制度改革大綱」閣議決定
020125「構造改革と経済財政の中期展望」(改革と展望)
020227「早急に取り組むべきデフレ対応策」
020315米国型経営形態を選べるようにする商法改正案を閣議決定
020319「司法制度改革推進計画」を閣議決定
020328「公益法人に対する行政の関与の在り方の改革実施計画」
020329「規制改革推進3か年計画(改定)」
020401ペイオフ解禁
020405都市再生特別措置法公布 6/1施行
020426郵政公社関連7法案のうち郵政公社法案と信書便法案を閣議決定、郵政公社法施行法案と信書便法整備法案は5月7日に閣議決定
020624「道路関係4公団民営化推進委員会」発足
020625「 経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」(骨太の方針第2弾)
020719「都市再生基本方針」
020719改正あっせん利得処罰法、参院本会議で可決成立 適用範囲を私設秘書に拡大
020724都市再生緊急整備地域の地域整備方針
020724与党3党提案の官製談合防止法、参院本会議で可決成立
020724郵政関連法、参院本会議で可決成立  郵政公社化など
020726全閣僚による「構造改革特区推進本部」初会合
020726健康保険法改正案など医療制度改革関連法案、参院本会議で野党欠席のまま可決成立
020805住民基本台帳ネットワークシステム稼動
020805中央教育審議会、法科大学院の設置基準等を答申
    「法科大学院教育・司法試験連携法」参院で可決成立
020806「証券市場の改革促進プログラム」
020906「郵政三事業の在り方について考える懇談会」報告書 3案併記
020930小泉改造内閣発足
021007ペイオフ全面凍結解除を2年間延期し、2005年4月からとする
021007「政策金融の抜本的改革に関する基本方針」
021025第二次都市再生緊急整備地域の地域整備方針
021030「金融再生プログラム−主要行の不良債権問題解決を通じた経済再生−」金融庁
021030「改革加速のための総合対応策」(デフレ対策)、「金融再生プログラム」
021105特区法案(「構造改革特別区域法案」)閣議決定
021112「産業再生・雇用対策戦略本部」発足
021203政府与党の「コメ政策改革大綱」決まる 国による生産調整(減反)の配分は2008年に廃止
021217「道路関係四公団、国際拠点空港及び政策金融機関の改革について」
030124「改革と展望−2002年度改定」閣議決定
030124「構造改革特別区域基本方針」
030207年金支給額を今年度から0.9%減額するための関連特例法案を閣議決定
030217「規制改革推進のためのアクションプラン(行動計画)」
030228国立大学法人法案閣議決定
030307個人情報保護法案と行政機関個人情報保護法案を閣議決定
030314司法改革関連法案を閣議決定
030320中央教育審議会、教育基本法の全面的な見直しを求める答申を提出
030327外務省の機構改革の最終報告まとまる
030328医療制度に関する改革の基本方針を閣議決定
030328規制改革推進3か年計画閣議決定
030401郵政公社発足
030401委員会等設置会社の導入など改正商法の施行
030402産業再生機構設置関連法と改正産業再生法、参院本会議で可決成立
030417構造改革特区第1陣57件発表
030425金融庁、大手銀行に対する特別検査結果発表
030507地方分権改革推進会議、反対意見を付した報告書提出
030508産業再生機構発足 
030606有事法制関連3法、参院で可決成立
030606改正労働者派遣法と改正職業安定法、参院で可決成立
030610りそなホールディングへの公的資金注入決定
030611与党三党、政治資金公開基準の緩和などで合意
030613イラク復興支援特別措置法案を閣議決定
030617政府税制調査会、中期答申「少子・高齢社会における税制のあり方」提出
030627「公益法人制度の抜本改革に関する基本方針」を閣議決定
030627「 経済財政運営と構造改革に関する基本方針2003」(骨太の方針第3弾)閣議決定
2003.06.27改正食糧法、参院本会議で可決成立  国による生産調整(減反)を2008年度に廃止し、生産者が自主的に生産調整する制度に移行 施行:2004.4
2003.06.27改正労働基準法、参院本会議で可決成立
2003.07.09国立大学法人法など関係6法案、参院本会議で可決成立

<その他の重要年表>
010622確定拠出年金法(日本版401K)、参院本会議で可決成立 10/1施行
010624東京都議選で、自民党圧勝
010729参院選で自民党圧勝
010813小泉首相、靖国神社前倒し参拝
010910千葉で国内初の狂牛病の疑い
010911NYなど米国中枢部同時多発テロ発生
011029テロ対策特別措置法参院本会議で可決成立
011127米軍支援の自衛隊派遣承認、参院本会議で可決成立
011211中国、WTO(世界貿易機構)に加盟
020129田中真紀子外相と野上義二次官を更迭
020217ブッシュ米大統領来日
020408加藤紘一元自民党幹事長議員辞職
020419井上参議院議長、議長辞表 5/2議員辞職
020508北朝鮮住民の日本領事館への駆け込み「瀋陽亡命事件」
020710元官房副長官の鈴木宗男議員、あっせん収賄罪で起訴される
020809田中真紀子前外相、議員辞職
020917日朝首脳会談 小泉首相訪朝による「日朝平壌宣言」
021015北朝鮮拉致被害者5人、一時帰国
021027衆参統一補選で、与党5勝2敗
021115胡錦涛中国総書記就任
030225盧武鉉韓国大統領就任
030319米英イラク攻撃開始
030328大島農水相辞職
030413統一地方選挙
0304 新型肺炎SARS問題
030613イラク復興支援特別措置法案を閣議決定

3.小泉構造改革の問題点

 小泉構造改革の問題を考えるには、やはり小泉政権誕生時の問題を考える必要がある。小泉政権誕生時の問題は、小渕−森政権における財政赤字をものともしない豊満な公共投資と自民党政権のゆるみにあり、そのままでは自民党自体が崩壊しかねない危機感が東京を始めとする地方から湧き上がっていたことであろう。小泉政権の誕生は、その意味では、公共投資抑制による行財政改革と自民党の解党的な改革であったといえよう。構造改革の根はたどればこの二つになる。したがって、構造改革といっても、その根本は、危機的な国家財政の立て直しであり、また公共事業を軸とした橋本派に代表される利益誘導的な既存の政治の改革であった。これに加えて、小泉首相の持論であった「郵政事業の民営化」があり、また突出した問題として「靖国参拝」問題があった。ここから見て取れることは、小泉構造改革とはいっても、どこまで本質的な改革が念頭にあったかは必ずしも定かではなく、行財政改革が基本となることはあらかじめ理解できることである。
 さて、政治レベルにおける小泉改革は、いわゆる「変人」と称されてはいても小泉首相自身が在来型の政治家であり、政治の革新をどこまで突き進めることが出来るかは疑問があり、実際上も、政治の駆け引きとしての大胆さはあっても、新しい政治の仕組みを予見できるような動きは見られず、その政権基盤も、派閥の打破といはいいながらも自己の派閥と典型的な在来型の政治家である橋本派の幹部との調整の上に築かれているのは一貫して見られるところである。が、政治改革の看板としては、橋本派との対決とこれまで軽視されてきた大都市部重視への政策転換にあった。しかし、目下の動向を見る限り、政治改革は政権維持の駆け引きが主眼とされ、事実上形骸化しているといえるようである。
 
 では、行財政改革はどうであろうか。行財政改革は、別名構造改革と称されてはいるが、その実態は行財政改革にほかならないのは、デフレ下にあってもデフレ対策はほとんど講じることなく、国家財政の緊縮に主眼を置き、その結果さらにデフレを促進するという結果をもたらせている。経済も国家財政も縮小均衡への道を歩ませられたのである。にもかかわらず、国家財政の収支のギャップは拡大し、デフレはさらに進行する。その負担は、構造改革の名の下に、健康保険を皮切りに、雇用者保険、厚生年金などの被保険者負担の急激な負担増加となって現れるのみであり、また、地方分権問題にしても国から地方への財政投下の削減が主眼となっていて、将来への展望は見られないのである。

 さてそこで、デフレと金融問題である。これは、小泉政権の主たる政策ではなかったものの、政権誕生以来深刻さが増す中で、その政策は、経済財政諮問会議を軸として策定され進められてきた。しかし、幾度となく指摘してきたように、気の入ったデフレ対策はほとんど取られることなく、金融問題への無謀ともいえる対処方策と政策のぶれをもたらせることとなる。竹中平蔵財政・金融担当相への「丸投げ」という批判が出されるように、本来は構造改革問題で最も中心をなすこの問題に対して、小泉首相自身の関心と有意なる見識は全くといっていいほど示されることはなかったといえる。過去、日銀には重大なる疑惑があるとはいえ、デフレの問題は日銀にその責任は転嫁されつつある。

 今日の我が国経済と国家財政、産業そして地方の最大の問題はデフレと金融問題に集約される。そしてその背景にはバブルとその崩壊がある。
 金融問題の根本は、一つは間接金融から直接金融の流れであり、今一つはバブル崩壊による不良債権問題とデフレによる金融(信用)収縮の問題である。(2003.7.11)

・間接金融から直接金融への流れ
 銀行を中心とした間接金融から、証券取引を中心とした直接金融への流れはすでに後戻りのできない流れとして進行している。これは、基本的には資本の自由化の流れの中で必然的にそうならざるを得ないのではあるが、他方、戦後日本企業の成長による自己資本の増強と、企業自身が証券市場から資金を自己調達するだけの体力を強め、銀行融資に頼る度合いが減少してきたこともこれを可能とするようになってきたのである。
 ただ、この流れが一気に醸成されたのは、なんといってもバブル崩壊後の橋本内閣による金融ビッグバンである。サッチャー政権下のイギリスの証券市場改革を参考に、為替取引きの自由化、証券市場の育成、証券と銀行との垣根の撤廃、ペイオフの解禁、そして自己責任性による護送船団方式との訣別など国内金融市場を根本的に変革する改革策が、6大改革の一環として打ち出された。こうした橋本構造改革は、持ち直しつつあった景気を再び悪化させ、不況とデフレ化の兆しの中で挫折することになるが、そのときに撒かれた金融・証券システムの改革の芽が、順次育つとともにデフレ下での具体化として問題をかもすことになる。橋本内閣とその後の小渕、森内閣では、不況対策に主力を注ぐことから、景気回復に障害となる改革についてはその実施を先延ばしするなどの手を講じるが、その反動で誕生した小泉内閣では、多少の振れはあるものの、問答無用に実施していくことになる。特に、竹中経済財政担当相が金融担当相を兼務してからはさらにその度合いが強くなるのである。ある種、事情を考慮しない改革である。
 間接金融から直接金融への流れそのものは止められるものではないだろう。がしかし、それは、日本の経済体質とデフレの進行という現下の深刻な経済事情をわきまえた上での進め方が考えられなければならないし、一体どの程度の関係として直接金融と間接金融との比重を考えるのかという問題もあろう。デフレ下での金融システムの変更は、あまりにも危険性が高すぎるし、それを突き進めば、新生銀行のように外資による悪しき例の増加かないしは、結局のところの半ば国家管理による銀行運営に陥りかねないことになる。
 証券市場万能主義は、昨今のアメリカのインサイダー取引まがいの不祥事例を見ても問題がありすぎる。株式市場に対する不信が強まっている。デフレ下での株価の下落、低迷の中で、年金基金や郵便貯金の投資欠損額は膨大化している。戦後数十年の間、株式市場の訓練を経ていない一般国民は、めまぐるしく変動する株式に対応するべき下地も備えもない。そうした中で、直接金融への流れを加速するには、それなりの下地とセーフティーネットが予め用意されなければならない。でなければ、血走った、血眼の世の中になり、しかも多くのものは証券取引の敗残者になってしまうのである。こうした状況を見ると本来的な意味での政策が小泉内閣になさ過ぎるのではないだろうか。もはや後戻りができないだけにより深刻であるといえる。
 なお、これに関連する重要な問題として郵便貯金や簡易保険、公的年金基金などを財源とした財政投融資計画制度とその改変問題がある。財政投融資計画は、政府系の特殊法人や地方自治体などへの公共投資への起債財源などに活用されることによって、公的資金の運用と公共投資財源としての活用の両面に貢献してきたが、今や郵便貯金や公的年金基金はその財源を自主運用する形となり、財政投融資計画の財源は、財政投融資債を発行してこれに充てることになっている。市場原理が既に導入されたのである。これによって、基本的には、戦前からの日本の公共投資を支えてきた基本システムはその実態としては解体しているといえるのである。

 財政投融資制度は、明治以来の富国強兵・殖産興業の資金源として、戦後には経済復興と高度成長・国土総合開発への資金源として、種々の問題をはらみながらも活用され、その役割を果たしてきた。その財源は、郵便局への庶民の貯金が中心をなしていた。明治以来政府は、一方では庶民に貯金を奨励し、その集まった貯金でもって殖産興業への資金源としてきたのである。これは、一面では国家による庶民の金の吸い上げであるが、他面では庶民に対する安定した資金の預かり場所であり、金利の政府保証でもあった。
 郵便貯金に加えて郵便局の簡易保険、さらには厚生年金基金はいずれも庶民生活の基盤を支えるものであり、その限りでは、政府が媒体となって、その運用を行い、同時に国策としての殖産興業投資を行うことによって国のインフラ整備と産業を発展を主導してきたことの意義は高かったのであろう。しかし、経済の高度成長と、続くバブル経済を通して、郵便貯金をはじめとする財政投融資の原資は急激に拡大し、ある意味では、必要不可欠なインフラ整備を超えた潤沢な資金が投下されるようになり、それが、その受け皿としての特殊法人の増加、拡大と放漫経営へと進み、限界状況を示すようになる。郵便貯金は民間銀行の圧迫要因となり、財政投融資は不必要なまでにその規模を拡大したために、ここから郵便貯金事業の民営化問題と財政投融資制度とその受け皿としての特殊法人改革が問題となり、その骨格が橋本内閣でまとめられて逐次実施に移されてきており、小泉内閣はその途上にあるのである。
 郵便貯金の民営化は、小泉首相の唯一ともいえる政治的主張であり、その実現なくして総理大臣になっている意味がないというほどのものであろう。公社化とはいえ、その内実は既に民営化に踏み出しているともいえなくないのは、郵便貯金の運用と貯金に対する利息の問題をみれば明らかである。郵便貯金の運用が、郵政公社の自主運用として株式や債券などに自由に投資されていくとするならば、一方では、市場に巨大な投資機関が誕生したことになると同時に、これまで、奇々怪々ともいえる株式市場やマネー市場での訓練を受けていない郵政公社が国際的なマネーゲームの大海の中で翻弄されていくことになる。すでに、株式運用損益を出している現状からもこのことは明らかであり、いずれ、郵便貯金の利息を保証できない事態に陥りかねないおそれがある。金融機関としては破滅の道を歩みつつあるともいえるのである。ただ、現在のところは、制度的には自主運用とはなっていても、現実には、主として政府の財政投融資債を買うなど従来との大きな差のない運用がなされていて、一気に激変することは避けられているが、これには、制度と実際とのギャップという問題もある。
 情報開示がほとんどなされず、国会のコントロール下におかれることのなかった財政投融資計画とその受け皿としての財政投融資機関すなわち道路公団や都市整備公団などの特殊法人の運用の甘さが、不祥事や経営認識のなさ、利権や政治の介入などの諸問題を発生させてきたとはいえ、それでもって、この制度の存在それ自体を否定するべきものではなかろう。欠陥の是正と制度それ自体の否定との間には大きな開きがあるからである。不正や不祥事が発生するから制度をなくするというのであれば、株式会社制度も、株式・証券市場も為替市場制度も、銀行も証券会社もひいては資本主義そのものも否定されなければならなくなる。
 ここで指摘しておきたいことは、先に証券会社、いままた銀行がその信用を失うなかで、ペイオフが全面解禁になろうとし、これまでの政府による護送船団方式も放棄され、不良債権処理の加速や会計処理の方式の変更などで何時どの銀行が破滅するかも分からないような状況下において、郵便貯金までもが経営不安を抱えさせられつつあるということ、そのことに関する国民・庶民の不安に応えるべき策が、政府の基本戦略に存在しないということである。構造改革といい、金融・証券システムの改革といい、それはプロの資産家向けのものでしかいないという事実をどう認識するのかという問題である。

・バブル崩壊による金融(信用)収縮の問題
 バブルの崩壊は、端的には、土地などの資産デフレと株式の下落となって現れ、この両者が、土地や株式投機の躍った多くの企業を苦しめている。しかも、バブルの最中にそうした投機を促進させた張本人が銀行であり、その背後に厳然として日銀があったことも隠れもない事実として指摘されている。自身の資本力を超えて、過剰な銀行融資を受けて行われたそれらの投機が、バブル崩壊後の不良債権となって現れ、企業経営そのものはたとえ健全ではあっても、バブル時の過剰投機、過剰設備投資の高金利負担が重圧となって、その後の金融庁指導による不良債権加速策あって、企業倒産に拍車がかかってきているのが一般的状況である。
 銀行による豊満なる過剰融資、それを促進した日銀の問題こそがその責任を問われなければならないにもかかわらず、日銀の金融緩和策は後手を踏み、日銀は自らの通貨政策よりは政府による構造改革の促進に一貫して興味を示すという理解しがたい態様がある一方、銀行には驚異的な規模の公的資金の注入がなされ、またなされようとしているが、その半面にある企業は、デフレ下の経営難に加えて、銀行からの負債処理加速策としての融資の撤収などの追い打ちにあっている。形ばかりの政府の産業再生機構が設置されたものの、それは象徴的なケース以上の意味をもちえていないのである。
 まさに事情を考慮しない、これまでの政府と日銀の責任を問うことのないハードランディングの結果として金融収縮が生じているのである。
 明らかに、銀行をはじめ、日本の企業、産業は縮小の方向に追い込まれていっている。小泉構造改革と、日銀の通貨政策の政策的効果は、こうした形であらわれているのである。バブルの付けとしての不良債権は、いまやバブルの付けを超えて、デフレの深化とともにさらに雪達磨式に拡大してきたが、銀行の不良債権処理の加速額は驚異的で、それだけ今後における深刻なる企業への影響が心配されているのである。
 日本のメガバンクは、いまやそれぞれに外資の参加、影響を受けるに至っている。企業においてもそうである。日本の外貨と金融資産は膨大だとされている。にもかかわらず国内資本は不足し、外資をたのむ、そのからくりを明解にしなければならない。(2003.8.25)


(3) 動揺する直接金融の世界
 間接金融から直接金融への大きな流れは避けがたいが、それには日本の現実をわきまえた上での軟着陸を試みることこそが政治と行政の果たさなければならない役割であることを指摘してきたつもりであるが、そのことがいかに大切かつ重要であるかは、直接金融の世界そのものが実は大変不安定な世界であり、世界はもちろんのこと、日本の証券の世界もまさに翻弄されている現実をみれば明らかである。
 日経平均株価はバブル崩壊後どんどん下がりつづけ、小泉政権になってからはますますその度を強めてきたが、ここ最近になって、突如として回復してきた。その要因をめぐっては諸々の分析がなされているが、主たる要因は国内的政策によるものでないのは明らかなようである。
 株式売買の世界は、専門家といえども決して長期的な見通しのもとで長期の計画をたててなされるものではないらしく、その時々の株価の変動を読むことによってごく短期の売買を繰り返す世界である。しかもそこには、純粋の経済行為だけではなく、政府との結びつきによる情報操作も含めて、意図的な投機がなされたりする世界であり、現在の日本の株価の上昇は、アメリカサイドによるこうした思惑が働いているとの分析もある。
 こうした世界に素人が手出しをすることはまさしく大火傷を受けにいくようなものであり、それが一般の個人であれ、年金基金を運用する厚生労働省や郵便貯金を運用する郵政事業庁(今後は郵政公社)の役人であれ、手におえる代物ではない。
 目下の株価は、他動的要因によって若干の上昇を示したとはいえ、そのこと事態が株価の不確実性を証明しているのではあるが、長期的にはなお低落傾向にあることに違いはない。こうしたなかで、株価の下支えをする役割を、年金基金に負わすようなことも新聞紙上では見え、政府が預かる公的年金や郵便貯金がこうした株価を支えるための犠牲的役割を果たさせられるとすれば、それこそ庶民の資金を市場性を無視して投入することであり、その損失は誰が責任をもって埋めるのであろうか。市場原理をいうのであれば、株式投資による損失の責任者とその責任の果たし方については予め明らかにしておかなければならないことはいうまでもないことである。
 日本の場合、組織・機関や個人ともに、投機の戦場の只中で資金を運用していく訓練ができておらず、あまりにも未成熟である。また、そうした業務をこなす専門家も少なく、早急に専門家の拡大とその専門家の不正に対する防御システムを確立する必要がある。専門家が素人を騙すのはわけもない世界である。とはいえ、こうしたことは、本来一朝一夕に果たせるものではなく、実践を順次拡大していくことによってしかそれは果たしえないのである。
 また、先にも指摘していたように、日本の金融資産をはじめとする資金はいまなお膨大にあるといわれながらも、その資金が国内ではなくアメリカに流れ、そのアメリカに流れた資金でもってアメリカのファンドが日本の証券・金融市場で利益を上げるような仕組みは、これこそが政府でもって絶たれなければならない仕組みではないのだろうか。小泉内閣と竹中金融・財政担当相の改革の方向性が間違っているのではないかと思われるのである。
 政治にしろ、経済にしろ、国対国の関係は、互いの利害の実現をめぐってしのぎを削っている。アメリカの支持で進められている金融制度の改革は、それ自体要注意であるはずなのであるが。自国を犠牲にして相手国の利益を考えてくれるような国際関係は夢に過ぎない。アメリカの対イラク戦争をめぐるアメリカやヨーロッパ、ロシア、中国などの駆け引きとイラクの現状がそのことをいかんなく示しているといえよう。
 すでに、間接金融から直接金融への世界に舵を切り、システムを改編しつつある最中にあって、一つには、いかにして安定的な経済状況を維持、構築していくのか、今ひとつには、無防備な庶民の金融資産をいかに安全に守る装置をつくりだすのか、こうしたことが、動揺する、戦場としての直接金融への世界に入る我が国の根本的な課題の筈である。
 今、思いつくままに、現状での問題点や課題の幾つかを以下に列記しておきたい。

<直接金融の世界の問題点ないし課題>
・日本の個人金融資産は膨大であるのに、株価は低迷していて、その資金の多くはアメリカに流出している。
・年金基金や郵便貯金の株式投資は多額の損失を発生させている。
・株式の世界は、不正株価操作やアメリカにおける政治と投機者との結びつきなどを見ると現実にはルールなき世界の要素がある。
・素人が安心して投資できる環境や条件の整備が必要である。
・株価それ自体が常に変動している株式の時価会計方式には難点・問題点が多い。
・公的機関の株式投資には、公正なる専門家集団の確保と、損益に対する責任性の確立が必要。
・国際的な投機集団に対する国家としての防衛システムの確立が必要。
・国内の資本がアメリカに流出することと、アメリカの禿げたかファンドが日本買いをすることとの関係。なぜ、国内資本の流入が止められず、にもかかわらず、なぜ日本買いが商売として成り立つのかを解明する必要がある。
                                                                                                                      (2003.9.1)

6.覚悟を必要とする生活者と地方自治

 荒いものではありましたが、すでに2年余の間、小泉構造改革の進行をにらみつつ本稿を進めてきたところですが、その一応のとりまとめにあたって、いま一度『円の支配者』の著者リチャード・ヴェルナーの最近の一連の著作を見てみましょう。リ・ヴェルナーは、今年に入って次のようにたて続けに一連の著作を出版(共著を含む)している。
 『虚構の終焉−マクロ経済「新パラダイム」の幕開け』2003.3 PHP研究所
 『謎解き!平成大不況−誰も語らなかった「危機」の本質」2003.3 PHP研究所
 『福井日銀危険な素顔』2003.5 あっぷる出版社
 『なぜ日本経済は殺されたか』2003.7 講談社
 『不景気が終わらない本当の理由』2003.8 草思社
 著者の記述は基本的には『円の支配者』と同内容で一貫しているが、この2年余の不本意な経過を見ることによって、より切迫感をもった警鐘を訴えているといえよう。通貨政策という経済を左右する極めて重要な分野でありながらも、それが専門性の高い分野であっただけにその真実の姿がこれまで浮かび上がることがなかった。しかも今や日銀は政府からも独立して、そのブラックボックスを擁したまま、日銀は誰に、どういう形で責任を取ろうとしているのだろうか。バブルを招き、そのバブルを一気に崩壊させ、今度はデフレを創出する。その過程で、日銀は一貫して構造改革の実行を政府に迫ってきた。危機を創出することによって構造改革をすすめさせようとしてきたのである。客観的に見て、日銀が通貨政策を打つ手は、ここ十年来常に後手後手に回っていた。著者によればそれはまさに意図されたものということである。
 ここで、戦後日銀総裁就任者を数えれば2003年3月までの58年間で11人となる。1人の例外を除いて、日銀と大蔵省の出身者がほぼ交互に就任してきた。日銀出身者は5人。平均在任期間は5年数ヵ月である。日銀が政府・大蔵省の所管内にあったとはいえ、極めて安定した運営が保たれていたことになる。大蔵省出身者が総裁のときは、当然副総裁は日銀出身者である。しかも実権を備えた。この日銀出身の副総裁は、次の総裁に就任している。となると、大蔵省出身の総裁は、総裁としての実権を備えていないことになる。したがって戦後日銀を運営してきたのは、日銀出身の5人の総裁(すなわち副総裁)であり、そのもとで育て上げられてきた現在の福井俊彦総裁も副総裁を経たうえで、ワンステップ踏んで総裁に就任した。現在の福井総裁を含む6人の総裁が、戦後日本経済を支配してきた「日銀のプリンス」だと著者は詳述している。バブル発生の責任も、崩壊とその後の不況、デフレの責任も福井現総裁は担っている、にもかかわらず、当然の如く小泉政権によって選任されている。同意を求められた国会からも全く疑問は出されていなかった。『福井日銀危険な素顔』では、「小泉首相の雇い主は実は福井さんだ」とまで言い切っている。一連の著作は一貫していて余りにもできすぎの感じがないわけではないが、その主張を否定する材料は見あたらないように思われる。ただ多少の救いが感じられるのは、福井現総裁をはじめとする日銀のプリンスたちが目論んできた日銀の日本政府からの独立と、アメリカにとって都合のいい経済体質への転換はほぼ達成され、しかもプリンス中のプリンスである福井総裁が実現したことにより、福井総裁は日本経済の回復を図るだろうと指摘していることである。
 このあたりに関連して、最近新聞紙上で二つの面白い論考を見た。
 一つは、リチャード・クーの「バランスシート不況を解く 需要不足、政府が補う必要」(日経の「経済教室」2003.9.25)で、金融政策は有効性を持たず、政府の財政出動が効果を発揮するという。その理由は、企業は、資産デフレからの債務超過となり、借金返済の「債務最小化」に走って、企業本来の「利益最大化」を目指さなくなっている。こうしたバランスシート不況による資金需要不足を補うには、政府の積極的な財政出動が、民間で発生しているデフレギャップを埋めるために不可欠なのであると。すなわち、民間企業は債務を減らすことを主とした縮小経営に走っていて、資金供給がだぶついているのであり、そのだぶつきを政府の財政出動で吸収する必要があるというのであり、政府の財政再建はその後でなければならないというものである。これでいくと、日銀の金融緩和策は有効ではないことになる。
 今一つは、先にも少し指摘していたことだが、日本のカネがアメリカに滞留する実態がデフレの要因となっていて、それは景気回復の頼みの綱となっている輸出が、逆に日本のデフレの根本原因だとする主張である。これは、各付け会社代表の三国陽夫の「デフレ招く貿易の黒字」(朝日2003.9/23)である。「輸出で稼いだ黒字が国内に還流するなら問題はないが、 輸出代金を海外に滞留させて貸し出しなど再投資に回しているのが現状」で、そのために輸出品の生産に要した費用が国内に回収できず、「国内のおカネが不足する」現象で、それは、ニクション・ショックで「米国がドルと金の交換を停止したことから」はじまった。それがデフレとして顕在化したのは、これまでの金融緩和と財政膨張策がもはやとれなくなったからであると。対策は、「生活者が主役となる経済構造へ切り替える」ことによって、「成長のエンジンを設備投資と輸出から 消費と住宅投資に切り替えること」。国内需要はこれによって作り出され、「海外に流出するおカネ」は少なくなるというものである。このことは、デフレという通貨政策上の問題ではあっても、それをいかに金融や豊満な財政政策で対処しようとしても、根本において国内の消費市場の需要拡大を図ることなくして、現在の日本のデフレは解決しないことを明らかにしているといえよう。これまで、ドルショック、オイルショック、バブルの崩壊と難局に遭遇するたびに、国民の生活費の切り詰めによる海外輸出の促進でその打開を図ってきた構造それ自体の変革が必要となっているのであるが、目下のところ、小泉政府も企業・産業界からもそうした国内市場拡大への方向性は見られない。より深みにはまりつつあるようである。

 以上の二つの論考はいずれも、もはや金融政策は有効性をもたず、需要の喚起が必要なことを主張している。しかし、デフレが通貨政策上の問題であることには変わりはなく、以上の二つの論考は、単純な通貨政策一本槍ではなく、デフレという通貨的現象の生じる根本原因を指摘しているのであり、そうした事の本質の打開とあわせての通貨、金融政策によるデフレ対策が必要であることを示すものといえよう。

 さて、国内市場の需要拡大であるが、生産者本位から消費者本位への経済構造の転換は、題目としては抽象的に掲げられながらも、産業、経済の根本においては容易には対応されることがない。それは小泉構造改革においても例外ではなく、むしろ実際上は、金融資産への優遇策による打開の方途を講じているように見受けられる。経済の上下較差は拡大し、貧富の差はさらに開いてきているのである。

(1) 生活者の覚悟
 9月22日発表された日銀の金融広報中央委員会による「家計の金融資産に関する世論調査」(日経9/23)によると、「貯蓄なし」の層が、全世帯の2割を超えたという。国民の2割が、もはや蓄えを持っていないのである。また、9月5日発表された内閣府の外郭団体・家計経済研究所の「消費生活に関するパネル調査」(朝日9/6)によると、最低所得者層と最高所得者層の格差は、1994年の2.82倍から3.07倍に拡大したという。しかもその間、1996年にはいったん2.71倍と縮小したにもかかわらずである。ここから明らかになることは、所得階層の上下格差の拡大と下の層における生活の厳しさの増大である。「貯蓄ない」ということはそれ自体ですでに生活が危機なのである。その層が2割ということは恐ろしい状況にあるといえよう。ちなみに、自己破産の急増で、民事法律扶助制度の財源が底をつき、救済を制限せざるを得ない事態に陥っていて扶助対象者の枠を制限せざるを得なくなってきているとの新聞記事があった(毎日2002.6/17)経済政策上の問題に過ぎない企業救済にのみ目を奪われているが、国民生活救済は国家の基本的な責務であるはずだが。

 生活所得や生活費の低下は、あらゆるものが関連して起こっていて、その要因を分離することに無理があるかも分からないが、ここでは便宜上、いくつかの要因で見てみたい。
 まず、家計収入の減少である。デフレ不況のリストラや倒産によって、勤労者や中小零細企業家を問わず、もともと生活費にそうゆとりのない層における家計収入の減少は、パーセント表示などの計数では理解できない実態としての苦しさに遭遇することになる。多くの離職者が生じ、そこからホームレスの急増という悲しい事態も生まれるているが、失業問題も「ミスマッチ」という綺麗な言葉でいわれると何か深刻な問題ではなくなるようだ。中高年者の転職は、まして異なった職種への転換はもともと至難なことである。こうした極限的な事態でない在職者についても、その実収入は1998年から2002年までの4年間で1割も減少している(日経8/27)。それによって、共働き世帯が、専業主婦世帯を上回ることになるが、その共働きの理由の多くは、「家計の足し」ないし「生計維持」のためである。これはまた、正社員など一般労働者の減少に対するパート労働者の増大となって現れてもいる。昨年の総務省の労働力調査では、パート、アルバイト、契約社員、派遣社員など正社員以外の雇用労働者数は1510万人で、雇用労働者の30.5%と3割をはじめて超え、女性の場合は50.6%で2人に1人が正社員以外の不安定な雇用形態にある(日経3/1)。「男女共同参画」社会のなかでの「働く女性」という美名のもとで、共働き世帯が美化されているようではあるが、その実態は、生計維持のために、整っていない環境のもとでの子育てをしながら苦労してやむなく働いている声なき女性が大部分であることが伺われる。そして、専業主婦世帯と共働き世帯の逆転を逆手にとって、専業主婦世帯があたかも手厚い税控除等を受けているような主張が税制調査会等で具体化していくさまには、空恐ろしいものを感じざるをえない(これについては、専業主婦バッシングということで、小倉千加子・愛知淑徳大教授「国策で無償労働させ 今度は『国家の迷惑』」(朝日2002.1/3)を読むとよく理解できる)。
 またデフレの直撃を受けているのは、住宅ローン返済者である。デフレ下の企業の有利子負債と同じことで、不良債権化して自己破産した人などなど悲惨な例は枚挙に暇はない。その難度は人によって異なるが、全体的には、デフレで家計の所得が減少する中でローンの負担は重くなり、1992年に14%程度であった所得に占める住宅ローンの返済額は、2002年には20%を超えることになる(日経2/28)。これによって、住宅ローンを抱えている世帯が所得の中から一般消費にふりむけることのできる率は、実に66%に過ぎないのである。銀行や企業の不良債権処理策や再建策への財政資金の投入などを見ていると、庶民感覚としては矛盾を感じる。
 このほか就業に関係するものとしては、給与の減少に反して、サービス残業が増大している。私が身近に見聞きするだけでも相当深刻なケースがあるが、その実態はなかなか表面化しない。これも新聞によれば、全国の労働基準監督署が使用者に対して残業代を支払うよう是正指導した件数は1991年から2001年の10年間で約2.5倍に増加していて、百万円以上のサービス残業をさせていた企業613社の未払い残業代合計は何と81億3818万円に達している(京都2002.12/24,日経2002.12/14)。現実には、これなど氷山の一角であろう。また、若年層の就職率の低さが問題となっているが、とりわけ、高卒者の低さが際立っていて、2002年末の東北地方における高校生の就職内定率が48%と5割を切っていた。
 失業率の高さはいうまでもないが、不良債権の処理がさらにその増大に拍車をかける。内閣府のリポートでは、不良債権1兆円処理するごとに、1万4200人、10兆円で約14万人の失業者が増加するとの試算が発表されているが(読売2002.12/14)、坂口厚生労働大臣は、不良債権15兆円の処理で60万人強の離職者が発生し、このうち30万人強が失業者になり得るとの見通しを明らかにしている(日経2002.11/18)

 次に各種社会保険料の負担増加と給付の減少である。医療費、雇用者保険、厚生年金など公的な保険のほか民間の各種生命保険類などの問題がある。
 昨年2002年10月には、健康保険料の引上げとサラリーマンの医療費本人自己負担の2割から3割への増大(実施2003.4)、高齢者の自己負担の引き上げがあった。これほどのことは過去には例がない。厚生労働省の試算では、これによる国民負担の増加は約1兆500億円である(日経2002.7/4)。また今年2003年5月には雇用保険法が改正され、保険料の引上げと給付の削減が行われた。公的年金の給付と生活保護の生活扶助給付額も今年4月から物価スライド制の実施で0.9%の減額がなされた。
 生活保護の受給者が急増するのは当然であろう。1995年度90万人弱が、2003年度当初では129万人となっている。そこで、給付削減問題が遡上にのせられ、高齢者と母子世帯に対する加算金の削減ないし廃止が検討されている(朝日7/13)。一般世帯との所得の接近ないし逆転が問題となるからではあるが、その根本には、一般世帯の所得の減少という問題があるのである。
 高齢者医療保険では、その問題点があまり取り上げられていないようだが、「社会的入院」問題の解決策としての入院基本料の逓増、高齢患者が90日以上入院していると病院の受け取る診療報酬が大幅に切り下げられるなどの問題から、高齢者が同一病院に長期入院できなくなり、病院を転々と振り回される状況は、自己負担の増加と共に深刻である。自己負担の増加では、京都府保険医協会のアンケート調査から、患者が治療に来なくなったケースがあったと回答した医師が33%にのぼるという結果が見られた(読売2002.12/18)。 介護保険料も4月から引き上げられた。政府による措置から支援への切り替えは、国家存在理由の基本に関わる問題であるが、その種の議論は尽くされていない。
 公的な社会保険とは別の民間保険会社による生命保険も庶民にとっては死活の問題である。が、生命保険業務そのものがデフレの影響を最も受ける分野であるだけに、銀行以上に経営上の困難な中にある。こうしたなかで、本年7月18日には生命保険の予定利率引下げを可能とする保険業法改正案が成立した。契約によって成立する保険が一方的に変更することが可能となれば、将来への安心は保険によって買うことができなくなるのである。我々もよく使ってきた「保険をかける」という言葉がその意味を失ってしまう。これは、公的な保険でも本来同様で、考えてみれば、素人の考えからではあるが、「財源率」といった、どんぶり勘定のような考え方は、保険としては本来おかしなものといえるのである。保険というものは、1人ひとりの保障を前提に契約することによって成り立つものではないのだろうか。
 厚生労働省の推計によれば、年金・健康保険・介護保険料の合計額は、現在のところ年収の22%であるが、今の制度を将来も維持した場合には2025年度には35%にまで拡大するという。増加分全てを自己負担にするのか、給付の削減にするのか、国庫の支出とするのか国家の基本的なあり方のなかで答えを出すべきで、財政技術上の問題として処理するべきでないことはいうまでもない。重大な国家の岐路であろう。現実には既に、給付年齢の引き下げが順次実施されていて、それに伴って給付開始年齢までは労働年齢を延長してきている。人間、50代になれば、肉体的な健康状況は人によって開きが大きくなるが、60代になればさらに拡大する。今後飽食時代の層が高年齢に達した場合、今の60代や70代と同じように働けるかも疑問である。60代後半まで働かねばならないということは一生働きつづけるということになる一方、不健康になったものにとっては地獄が待っていることになる。

 さて、公的年金制度と高齢者の問題である。大勢のおもむくところは、高齢者を遇してきたこれまでの措置を撤廃し、かつ高齢者の自己責任と高齢者の有する資金を吐き出さす方向に向かっているのは間違いない。介護保険制度に見られる措置から支援へ、高齢者医療の自己負担の増加、安易に病院に長逗留させない、貯金や税制での特別な措置は講じない、などなど、考えてみれば、高齢者は裕かであり、しかも社会に甘え、若者の苦労の上に安住しているというとらえ方なのであろうか。が、一部所得の上層部を除き、高齢者とその家族との関係は一体であり、年齢層による対立関係にはない。高齢者層が裕かで安心した状態にあれば、高齢者を支える中年・若年の家族も安心なのである。通常の家族関係のなかでは、高齢者の経済的な問題は、その家族に直接関わるのであり、高齢者の出費の増大は家族の出費の増大に直接跳ね返る。年齢階層でもって高齢者とそれ以外とを対立的にとらえるのは数字的なマジックといえよう。うかつには乗れないのである。
 そもそも、現役の第一線を漸くにして退き、平穏な老後生活にたどり着いたときに、いまさら自己責任や効率性を基軸とした生活はそぐわないはずである。平和と安心こそが老後の目標であろう。そのことを国家目標としない国家とは、一体何のためのものなのだろうかという疑問が生じる。人生の終盤で安心できない国家には、国民の信頼は生まれるはずはない。若年・中堅のときに全力で働き、活動することもできなくなる。国家に依存することを拒否され、若いときから、それぞれが自己の老後の備えを常に考え、将来への蓄財をし、その蓄財を失うまいと常に警戒を怠らない人生とは、一体どんな人生なのだろうか。体力と気力に恵まれている時期には、前後の事も顧みず、意味や意義を感じる仕事に没頭するというような“ばかげた”人間は必要がないのだろうか。計算高い、小利口な、全力では事に当たらない人間を大量に生むことが社会にとって好ましいことなのだろうか。世界も、社会も、地域も、家庭や周囲すらもますます多様化し、価値観も多元化し、多極分散化していく時代にあって、同時にそうした多様な価値をもった多極分散状況を一体的に把握するには相当超人的な営為が要求される。平準化された通常の営為の中からは、そうした総合的な把握と営為は生まれてはこない。具体的な細かなことは触れないが、高齢者公的年金問題にはこうした重大な問題が存在していて、現実生活は、高齢者とそれ以外との対立ではなく、老・壮・青・小さらには男性・女性一体のなかで家庭というものは存在している、そのそれぞれを分離することは間違いを犯すことになるということを訴えたいのである。国家財政を主としてどこに投入するか、国家の手による経済成長につんのめったあり方から、戦後60年、改めて検討することが要請される。目下の小泉構造改革も、成長神話再びの架空の夢を追う従来型の域を出ていないのである。

 ところで、年金問題の今一つの問題は、デフレと株式の問題である。デフレによる金利低下と株価低落下における株式運用は、年金基金に深刻な影響が出る。厚生年金と国民年金が公的年金と称されるものであるが、そのうち厚生年金については、多くの企業が政府に変わって代行し、その企業独自の上積みを行ってきていたが、株価低落と企業収益の落ち込みのなかで企業独自の上積みが困難となって、政府に厚生年金の代行を返上する動きが活発である。株式運用の損失により、上積み部分だけではなく、厚生年金基金の積み立て不足も生じるなど深刻な状況が生まれているが、資金力のある大企業の場合には、代行返上による上積み部分の解消によって、朝日新聞の調査によれば、代行返上企業200社の返上益は1兆2360億円に上るという(朝日5/26)。それは、逆に考えれば、その分がまるまるその従業員の本来であれば受給できる上乗せ分の減額、すなわち損失となっているのである。さらに悲惨なのは、中小企業の場合である。上乗せ部分だけではなく、厚生年金基金自体に不足が生じ、その穴埋めをする企業の力もなく、したがって代行返上もできずにまさに崩壊状況にあるのである。
 公的年金基金の運用はかつてはその全額が、財政投融資計画に充てられていた。しかし、2001年以降市場運用が開始された結果、運用目標の年4.5%はおろか、巨額の損失をうむことになる。2002年度単年度の運用赤字は3兆608億円、累積損失は6兆717億円にも上ったのである。これは経済情勢のしからしむるところで止むを得ないことだから、何処にも、誰にも責任はないというのだろうか。下手な運用をしなければ、少なくとも損失は生じないのである。それでも、株価を上げるために、公的年金基金による株購入を増強すべしとの意見があるが、国民に対する責任問題を明確にすることなしにはこうしたことはありえないことなのではないか。公的年金資金の市場運用の過去16年間の成績は5勝11敗だという。国民年金の保険料未納者は約37%という(朝日5/26)。ざっと6割の保険料納付で制度のまともな運用ができるはずがない。事実上破綻しているが、これは制度に対する不信であると同時に、政府の甘さでもあるのだろう。
 株価下落による年金基金の積み立て不足はアメリカでも問題が深刻化しつつある。アメリカの主要企業の企業年金の積み立て不足は500社で約24兆円に達しているという。
 最近、この2、3か月、株価が上昇してきた。銀行をはじめ、それによってとりあえず息を吹き返してきた企業や業種も多い。けれども、このこと自体が株の世界の恐ろしさを示しているのでろうか。つまり、大方の予測とは違った動きが頻繁に起こり、一部の者は大きく儲けることができるが、大多数の場合は株価の上下に翻弄されるのである。その不安定さの中に、公的年金や郵便貯金の資金運用を委ねるには、相当の安全装置が必要となる。リスクをかぶるものはなく、責任をとるものもない、最終的には常に国民がそのリスクを負うことになる。ならば国民の意思は、国民への真実の情報開示はどのようにして全うされるのか。そのことこそが大切なことである。
 直接の責任を誰が負い、デフレを深刻化させる根本的な責任はどうなるのか。その認識と対応の仕方が問われているのではないのだろうか。考えれば考えるほど、デフレと株市場は恐ろしい。
                                                                                           (2003.10.4)


(2) 地方自治の覚悟

 地方自治も基本的には生活者と同じ立場にあると考えて間違いはない。地方自治があたかもルーズな「放漫経営」のなかにあるように主張する方々が多いが、これまでの地方自治体は、政府の指導のもとに、政府にコントロールされ、公共事業にしても政府の政策に従って行わされてきた。それが、政府の財政が苦しくなり、これまでのような公共投資による景気対策を講じないという方針変更とも重なり、地方自治の放漫経営論がいいだされることになった。これまで地方自治体に過剰な財政支出を事実上強制しておきながら、今度は自治体側の「中央依存体質」を問題化し、財政運用に自己責任性がないかのようにいうのは、事実の逆転ではないのだろうか。ここ数年の自治体の財政事情は大変な状況にある。一般会計のみならず、公営企業会計や第三セクター会計を加えると今や危険領域にはいっている。民間企業と違って、国や地方自治体には倒産はないが、国による舵取り一つで、自治体を倒産させることもできないことはなくなった状況にあるといえよう。
 地方分権推進一括法が2000年4月に施行され、かつての国と地方との関係が、上下関係から対等の関係へと大きく前進し、国の機関委任事務も法定受託事務へと衣替えをしたとはいえ、税財政と国の事務そのものに大きな変化がない中では、現実には、特に市民レベルで見た場合には、ほとんど目立った変化は見られない。それが、小泉改革のなかで、税財政の中央と地方の再配分として具体化しつつあるのは、戦後地方自治の歩みの中でもまさしく画期をなすものだといえよう。が、問題はどうも違うようにも思われる。
 建前は地方分権の実現である。「地方のことは地方で」である。が、問題は、如何なる状況のもとで、如何なる形で、何をしているのかである。
 地方の財政はもはや事実上破たんをしている。そこえ、地方の自主性の名のもとに、要するに政府から地方への財政支出を減らすことが課題とされている。分権という建前のもとに、補助金を削減し、地方交付税を圧縮し、その見返りとしての税源移譲には不十分にしか応えないという状況が十二分にうかがわれている。地方分権の基礎はその財政基盤にある。にもかかわらず、小泉内閣の下で設置された地方分権改革推進会議は、道路公団民営化問題にも似たような会議運営で、強引に地方分権に反するような意見がまとめられたりもした。「三位一体改革」と称しても、そこに国家戦略が存在していない現実が見えるのであるが、それにしても、有識者や経済人に、地方分権というものに対する肯定的な考えははたして存在するのだろうか、本当は地方が主体性を持つことには反対なのではないかとすら思えるような事実経過を歩んでいるのである。
 地方分権問題は、今の段階では、所詮は国と地方自治団体との関係の問題であり、どちらに権限と財源が移行しようとも、市民、国民の生活には関係がないように見られているむきもあるが、小泉地方分権改革と市町村合併促進の歩みを具体的に見ていくと、今後、住民負担の増大と小さな市町村における生活基盤の荒廃が心配されるのである。地方分権の問題は、本当は国家体制のあり方の問題であるが、現実には、地方への財政投下の削減の問題として認識されているようなのである。まさに、羊頭狗肉といえるのかも分からない。
 分権改革の流れの底流としてはそうしたことが厳然と存在していても、他方、具体的な形としては、過去全くといっていいほどその可能性が見えていなかった税源移譲が漸くにして形となりつつあるのもまた確かである。その上にたって、今後の地方分権へのステップを踏むのか、住民生活と国土の荒廃へのみちを歩むことになるのか、重大なる岐路に立ちつつあるとの危惧の念が去来する。

<地方分権改革の流れ>
 地方分権というものは、それを課題として掲げているだけの段階ではそう難しい問題ではない。伝統的に中央集権制の強い日本にあって、その反作用としての地方分権は、国家の民主的なあり方に対するバランスの問題として自然に認識されるものともいえる。したがって、分権への具体化となると、これまではそう目立った動きはなく、大都市が、大都市制度の問題を訴える程度で、そう根本的な論議には発展してこなかった。実際、市町村長や知事など地方自治団体の執行権者側から自治の本質に迫る要請は出されることなく、基本的には現行制度を前提とした部分是正程度のことが課題とされてきたに過ぎなかったのである。それはそれとして、ある種合理性が存在しているともいえる。
 現在見るような、「地方のことは地方で」ということを本気で実現することを目指すようになったのは、バブル崩壊後の1993年に遡る。連立政権誕生直前の6月3日衆議院で、4日参議院で、地方分権を進めるための法律を制定する決議が全会一致で可決された。翌年12月には連合政権下で「地方分権の推進に関する大綱方針」が取りまとめられる。そして1995年2月、政府は「地方分権推進法案」を閣議決定して国会に提出、5月15日に成立、7月3日に施行と同時に同法に基づく「地方分権推進委員会」が発足する。同法は5年の時限立法であり、同委員会の任期も5年であった。このときの内閣は村山内閣であった。諸井虔・日経連副会長を委員長とする地方分権推進委員会は、橋本内閣を経て小渕内閣で地方分権推進一括法を具体化させたうえ、2001年6月14日、最終報告書を小泉首相に提出して、翌月2日に6年の任期(1年延長)を全うして解散した。そして小泉内閣の西室泰三・東芝会長を委員長とする地方分権改革推進会議の設置となる。

<小泉分権改革>
起承
 こうしてみてくると、地方分権の推進は、ある種永遠の命題のようなものであったが、それが大きく具体化へ歩みだしたのは、政治的には連合政権の時代に入ることによってであった。国と地方との関係を中央政府と地方政府との対等の関係として捉えることによる法制の整備を実現したのは小渕内閣ではあったが、細川政権から村山、橋本政権下でその実質が構築されていたのである。
 ただ、1999年3月に閣議決定され、7月8日に成立し、翌年2000年4月1日に施行された地方分権推進一括法は、国と地方自治体との仕事の位置付けとその割り振りに止まり、仕事をすすめる前提となる税財政には踏み込んでいなかった。そのため、法律は整備されても、現実にはその後の実態はあまり変わることなく現在に続いているのである。
 地方分権改革の推進を「起承転結」で考えるならば、「起承」はすでに済み、小泉政権では「転」と「結」の段階であるといえよう。「転」は税財源をどのように具体化するかであり、「結」では、分権化時代の国と地方の新しい関係、すなわち日本国家の新しい姿を具体化することである。しかし、小泉政権の地方分権改革の実際の進行を見ていると、「転」に揺らぎが生じ、「結」の姿は全く見えてこないといえる。

転〜揺り戻し〜
 本来であれば、小泉政権までで、起承転結の「起承転」まですでに進んでいて、残る税財源問題の具体化による「結」の締めくくりをするのが小泉政権の役割となる筈のものであったと考えられるのであるが、西室議長による地方分権改革推進会議が、驚くべき地方分権への認識を欠いた運営と結論を強引に導いた状況を見るにつけ、折角積み上げられてきた地方分権への路線が逆戻りしてしまったとの印象をもたざるを得ない事態になったことから、地方分権への行く末にその逆転の恐れすら生じる展開となってきつつあることから、小泉改革では、地方分権に関しては逆に「反改革」への可能性をも含む「転」が演じられているのである。なぜそうなるのかは、「結」の日本の国家の姿の中に、地方分権が有意に描かれていないからである。
 では、小泉政権下における地方分権改革を見ていこう。(2003.11.2)

 小泉内閣が誕生したのが2001年4月、6月14日に地方分権推進委員会の最終報告が小泉首相に提出される。同月29日には、任期を終える地方分権推進委員会に代わる小泉政権下の新たな地方分権推進を検討する組織「地方分権改革推進会議」の設置政令が閣議決定され、7月2日に地方分権推進委員会が6年の任期を全うして解散したのち、7月9日に分権改革推進会議は初会合を開くことになる。小泉地方分権改革の開始である。
 小泉政権での地方分権の牽引車はいうまでもなく「地方分権改革推進会議」(以下「分権改革会議」と略称する)であるが、これが、制度的にも、また内容的にも前政権までの「地方分権推進委員会」(以下「分権推進委員会」と略称する)から大きく後退することになる。
 分権推進委員会は、地方分権推進法に基づき設置され、内閣総理大臣への勧告権及び意見を述べる権利が明示されていた。委員の任免も国会の承認事項であった。また、同法は、地方分権推進の「基本理念」を掲げるとともに「基本方針」を定め、その推進に当っては、政府は、「地方分権推進計画」を作成しなければならないと規定していた。分権推進委員会の5次に及ぶ勧告に基づき、政府は、1998年5月には第1次の「地方分権推進計画」を、翌年の1999年3月には第2次の「地方分権推進計画」を作成し、地方分権推進一括法の制定とその推進に臨んだ。そして、小泉内閣誕生直後の6月14日に、6年間の活動を総括した「最終報告」を小泉首相に提出してその役割を完了したのであるが、そこでは、分権推進委員会の活動を第1次分権改革と位置付けし、その後の地方分権推進の活動を第2次分権改革として残された課題を明示しているのである。残された課題には、中央から地方への義務付けや制度規制などの更なる緩和、事務移譲の一層の促進など「地方自治の本旨」の本来的な趣旨の具体化があるものの、主要な課題は、既に地方分権推進一括法が施行されているなかでは、いうまでもなく分権改革を確かなものにするための分権型社会にふさわしい地方自治体の財政基盤の確立の問題である。これについて、「最終報告」では、法に基づく同委員会の調査審議の結果として、「地方税財源充実確保方策についての提言」を行っている。すなわち、「国・地方を通じた現在の租税負担率」を変更しないことを前提条件として、「国から地方への税源移譲により地方税源の充実を図っていく必要」があるということを基本とし、それに相当する国庫補助負担金や地方交付税の減額を指摘している。そして地方税充実のためには、「基幹税目」の更なる充実が不可欠であること、財政力格差を是正するための地方交付税制度の役割の重要性、更には、将来国が租税負担率を見直す際には「地方財源への配分について特に重視していく必要性がある」などの提言がなされているのである。
 ひるがえって小泉政権下で誕生した「分権改革会議」を見てみると、分権会議の位置付けそのものとともに、そこで行われた議論及びその結果が大きく後退してきていることが明瞭である。
 まず、分権改革会議の設置根拠を見てみると、これは政令設置であって法に基づいたものではないため、国会に対して責任を持っていないものであり、当然委員の任免についても国会の同意は必要なく、小泉首相の一存で任免できる。同時に、調査審議にあたっての調査権限のようなものはなく、また勧告権もない、分権推進委員会よりはかなり軽い位置付けのものとなっている。
 分権改革会議は、2001年12月に「中間論点」をまとめ、2002年6月に「中間報告」を提出した上で、同年10月30日に最終報告「事務・事業の在り方に関する意見」を小泉首相に提出した。そして、2003年5月には「重点推進事項11項目」を提出し、6月には「三位一体の改革についての意見」をまとめるに至る。

地方分権改革推進会議ではなく、地方“分裂”推進会議か
 さて問題は、その検討の過程と内容の両方にある。道路公団民営化推進委員会ほどのはっちゃかぶりではなかったが、会議は場外乱闘を含め、相当常識はずれの運営であったようだ。2002年10月の「事務・事業の在り方に関する意見」の取りまとめにあたっては、委員11名中5名の異論があったにもかかわらず(意見書提出)、6名でもって強引に押し切られている。その直後、委員の岡崎洋・神奈川県知事は責任がもてないという趣旨を抱いて辞職している。また、いよいよ税財源問題それ自体の「三位一体の改革についての意見」のとりまとめにあたってもほぼ同様の経過をたどり、水口弘一議長代理・小委員長の提出した試案が地方交付税制度を根本的に変えるとともに、税源配分の見直しは「増税を伴う税制改革のプロセスの中で行う」などの内容であったことから、神野直彦東大教授と谷本正憲石川県知事が記者会見で意見書案の白紙撤回を申し入れるといった激した状況となったが、2003年6月3日、地方分権会議は審議を事実上打ち切る形でほぼ水口試案を踏襲した案をとりまとめ、6月6日に小泉首相に提出した。意見書には反対を表明した4名の委員には*印が付され、1名の委員はそうしたまとめ方に賛同できないとして署名を拒否した。水口試案が明らかになって以降、その内容と異論を無視する会議運営を巡って外の世界の反応も活発となる。特に片山総務相は、非民主的な議事運営と税源移譲を将来の増税に合せようとする内容に激しく反発し、西室議長と水口議長代理の辞任を要求するような事態を生む。塩川財務相と片山財務相との激しいやり取りもあり、4月には、三位一体改革での「税源移譲を突破口に」という小泉首相発言をめぐって塩川財務相が竹中経済財政担当相に「嘘っぱち」と発言するようなこともあった。また地方自治体側も、それまでは必ずしも分権改革にさほど能動的ではなかった部分もあったが、補助金がカットされてその代替えの財源移譲がないという自体が現実になる恐れが生じてきたからか、これを契機に税源移譲への動きが活発となる。地方自治制度調査会も国庫補助金を数兆円規模で削減して所得税の一部を住民税に振り替えるなどで地方への税源移譲を実現するべきという分権改革会議と対立する「地方税財政制度のあり方についての意見」を5月23日に小泉首相に提出する。そこには「三位一体の改革が、地方分権推進の流れに沿って実現することを強く期待したい」とあるが、それは、分権の流れへの逆行とも思われる分権改革会議に対する危惧の念を表したものであるとも思える。諸井地方制度調査会会長は、5月23日総会後の記者会見で、分権会議の審議に対して「分権より財政均衡の視点が強すぎる」との懸念を表明した(日経5/24)。
 その後、検討の舞台は経済財政諮問会議の場に移され、6月11日の関係閣僚会議で「国庫補助負担金等整理合理化方針」の合意をみ、6月27日の同諮問会議でいわゆる骨太の方針第3弾「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2003」の中で一応の決着が図られたが、基本的には枠組みの範囲を出ず、その具体化は、今後2006年度までの毎年の予算編成のなかで進められることとなったのである。

「三位一体の改革」
 小泉改革は、経済財政諮問会議を軸に、毎年6月に骨太の方針(「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」)を策定し、それに基づいて進められている。2001年を第1弾として既に今年で第3弾である。地方財政に関して、第1弾ではまだ、地方の自立的な財政基盤確立のためにしくみの見直し・検討を行うという抽象的なレベルであったが、2002年の第2弾では、・国庫補助負担事業の廃止・縮減について、年内を目途に結論を出す ・国庫補助負担金、交付税、税源移譲を含む税源配分のあり方を三位一体で検討し、1年以内を目途に取りまとめる ・国庫補助負担金については、「改革と展望」の期間中(2006年)に数兆円規模の削減を目指す と、「三位一体」の表現とともに、国庫補助負担金削減目標「数兆円規模」という具体的な枠が明示された。分権改革会議は、この目標すら後退させるもので、2003年の第3弾は、分権改革会議の意見に関わらない形で政府が一応の決着をつけることになった。小泉首相のリーダーシップの発揮で、分権改革会議を上回る結果を生み出したということになるのだろうか。
 第3弾の「三位一体の改革」の主な点は次のとおりである。
・地方財政における国庫補助負担金への依存を抑制することにより、地方の一般財源(地方税、地方譲与税、地方特例交付金及び地方交付税)の割合を着実に引き上げる。
・税源移譲等による地方税の充実確保、地方歳出の徹底した見直しによる交付税総額の抑制等により、地方税の割合を引き上げ、地方交付税への依存を低下させる。
・国庫補助負担金については、広範な検討を更に進め、2006年度までに概ね4兆円程度を目途に廃止、縮減等の改革を行う。税源移譲はその内8割程度を目安とする(義務的な事業は、徹底的な効率化を図った上でその所要の全額)。
・「2006年度までに必要な税制上の措置を判断」し、その一環として地方税の充実を図る。・基幹税の充実を基本に、税源の偏在性が少なく税収の安定性を備えた地方税体系を構築する。
 第2弾と第3弾とを比較した場合、より具体化した部分があるとはいえ、基本的には同じような程度であってこの1年間一体何をしてきたのかということになるが、その点に分権改革会議が深く関わっていて、小泉改革の実相があるのかもしれないのである。具体化をめぐって混沌としたやり取りはなお続いている。


結 〜迷走〜
 地方分権改革というものは、なぜかくまで迷走し、進まないのであろうか。分権改革会議を見ていると、そのような専門的な会議の用をなしていない。分権ではなく、極論すれば国の財政処理の地方機関でいいわけだが、考えてみれば、国家レベルや国際的な行動領域を持っている人には、現実問題としての地方自治というものは本当はあまり知られていないし、またその実感もあまりないのが実際なのではないだろうか。とりわけ、経済活動において、地方自治は障害なのか或いは積極的な与件たり得るのかは簡単に答えられない問題であろう。生活や国土の自然というものに、もっと価値がおかれ、企業は儲けを競うだけではなく、企業存立の根底における社会的責任というものが実際的に全うされるような国家、社会にならなければ、単に地方自治を政治行政上の課題としてのみ捉えていたのでは本当はその達成が難しいのかも分からない。目下の小泉改革は、すぐれて財政・経済上の合理主義に比重を置いた改革である。そのような経済合理主義、資本合理主義の国家、社会を目標とし、国民もそれを支持している限り、地方分権問題は、本当は自己矛盾ということになっているのかも分からない。矛盾をなくそうとすれば、地方分権問題を、小さな政府実現のための財政削減として捉えることであり、分権改革会議に関わらず、地方自治問題に常に存在する一定の考え方である。

 国と地方の関係を財政収支で捉えた場合、かつては3割自治ということがいわれていた。今、国と地方の財政支出の比較をすると(平成15年度地方財政白書 平成13年度決算)、国の歳出総額は約92兆円(地方からの国への支出は除く)、地方の歳出は約60兆円(国から地方への支出は除く)で、国と地方の比率は60対40である。これが実際の歳出純計では、国が約57兆円、地方が約96兆円でその比率は逆転する。すなわち、国から地方へ約36兆5千億円が地方交付税や国庫支出金などで支出され、それが地方の最終的な財政支出となっているのである。地方の財政に占める国からの支出金は約40%近くとなっている。それがすなわち国の地方への関与や義務付けなのである。したがって、完全な地方自治実現のためには、現行の税財政収入を前提とするならば、36兆円を地方の税財源に振り替えればいいことになる。まず、この点をしっかりと把握する必要がある。が、問題は単純ではなく、約20兆円は地方交付税であり、地方交付税には地方自治体に対する財源保障や格差是正などの機能があり、これをどうするかは制度の根幹を残しつつ考える必要がある。
 そこで、国から地方に対する補助金であるが、今年度予算で地方自治体向けには約22兆円あるとされる。今回そのうちの約4兆円程度を2004年度から2006年度までの3か年かけて削減し、それに見合う一定程度の地方への財源移譲を実現しようとしているのである。ささやかなる1歩ではあるが、これは今後の成り行き如何では大きなステップとなる可能性もある反面、補助金の削減に対する地方への補填が極めて不十分な場合には、地方の財政危機は一気に深まることになる。(2003.11.7)

 ここで、地方分権改革における税財源問題についての幾つかの基本的な問題点・課題について紹介しておきたい。
・三位一体改革  国庫補助負担金の廃止・縮減、地方交付税の見直し、税源移譲を含む税源配分の見直しのこと。国庫補助金が削減されると、それに応じた税財源を国から地方へ移譲しなければ地方の行政水準が保てない。税源を国から地方へ移譲すると国税の一定率を前提に算出されていた地方交付税が減少するという三者の関係にあり、この三者を同時に改革しようというもの。しかし、他方での国・地方の財政問題もあり、削減された国庫補助金をそのまま地方への移譲とするには抵抗があり、とりあえず削減し、税源移譲は今後の課題としようとしたのが、分権会議の混乱原因であった。
・負担と受益の関係  「自主・自立の地域社会」や「自助と自律」と合わせて使用されている用語。受益には応分の負担が伴うというある意味で当然のことが、現在の地方自治には希薄であるという認識の上にたっている。地方分権には、地方の「中央依存体質」からの脱却が不可欠だとする。ただ、これには、過去中央政府が地方をそのようにコントロールしてきた側面に対する意識が弱いのが気になるところ。中央集権制の強い国家システムの中にあっては、そのシステムをうまく活用するのもある意味では地方自治の自治能力の姿である。殊更に地方自治体の自立性を強調しなくとも、国家・中央政府が変われば自ずと地方も変わるのである。地方自治を、「負担と受益」としてのみ捉えると、国家としての最低保障機能や地域間格差の是正はできなくなる。問題は、この用語によって何を目標とするかであるが、この種の思想は、以前から一貫して継続していて、その具体的イメージによって注意が必要である。

・財源保障機能の廃止・縮減問題  地方交付税制度の根幹は地方自治体への財源保障機能であるといえる。国が国税の一定割合を財源として、各自治体ごとに国の基準にもとづく必要な財政需要額と収入額とを算出し、収入額が財政需要額に不足する場合にはその差額を交付するシステムで、全国各地が一定レベルの地域生活を確保することが目的とされている。経済力のある地方自治体には少なく、小さな、僻遠地の自治体では交付税の占めるウエイトは高くなる。こうした地方交付税制度について、もはやナショナル・ミニマムを保障する時代ではなく、地方は地方の個性にあった「ローカル・オプティマム」(地方の快適性とでもいうのであろうか)の実現を目標とするべきだとの考え方が政府サイドでは基調となってきている。分権改革会議が分裂状態になったのもこのあたりの問題が根底にある。ナショナル・ミニマムには、国民一人ひとりの最低の文化的生活、特に教育と社会保障制度の保障という側面と国土の一定の均衡ある発展という二つの側面があるが、財源保障機能がなくなった場合、なお過密過疎が進行する中で、果たしてどういうような日本列島と日本の国家になるのか、ローカル・オプティマムという新たな耳障りのいい言葉では判断できない現実を直視する必要がある。全国画一性に対する逆転ではあるが、大都市の、経済力中心の自治体競争時代の到来とうことなのであろうか。日本のあり方の重大な選択の問題であるはず。市町村合併は、この問題に深くかかわっている。

・地方交付税制度の運用上の問題  地方交付税制度の基本原理は極めて明解ではあっても、実際上のシクミは複雑難解で、素人がちょっとやそっとで理解でき得るものではない。そのため、本来は中央政府と地方自治体との間の中立公平な機関が公正な基準に基づいて執行されることが大切なのであったが、その複雑性から、国・自治省(現総務省)の政策的恣意がはいることとなってきた。「基準財政需要額」というものの算定のシクミである。公共事業の地方債の元利償還金の多くの部分を交付税で手当するやり方というものは、該当する自治体には涙の出るほどうれしいことではあるが、これなどは地方交付税制度の本来の役割ではなかったはずである。地方交付税制度が、地方自治体に対する政府の政策誘導の手段として活用されているものの最たるものであろう。今回の重要なターゲットになっている。
 地方交付税制度は、国の税収から予め一定の枠を確保したうえで執行されるものであり、枠内の計算式をどのようにしようとも総枠としての財源が増えるわけではない。予め確保された総枠財源が、経験的に地方への財政補填として必要な総額とされてきたのである(もっとも、政府の減税や景気対策による公共投資の増加などなどの要因により、今日では、政府からの貸し借りなどの出入りが複雑化しているが)。政府の政策的恣意による執行が、返って地方自治体への財源保障機能の軽視をうむという結果をもたらせることになった。
 財源保障機能は、規模の小さな自治体ほど有利に作用する。現在進められている京都市と京北町との編入合併に当たっての両者の基礎的な数字をみればその実態は歴然である。京北町が将来京都市に編入された場合には、現在の京北町の住民一人当たりに交付される地方交付税の額は激減する。しかし、京都市という規模の大きさの中で、自治体としては運営が可能なのである。財源保障機能が廃止・縮小された場合、小さな自治体は、その存立基盤崩壊の危機に直面することになる。国土の自然保護はただ放置するだけでは全うされない。自然は、人類とともにその相互関係で保全されてきているのはないか。
 東京都や一部の自治体を除き、ほとんどの自治体がすでに地方交付税の交付対象となっている事実をどう見るかという問題もある。それほど地方自治体は財政的に疲弊しているという見方も成立するし、政府の政策誘導の手段として地方交付税制度が運用されてきたからであるともいえるのである。

・分権と財政削減の関係  分権改革会議の主たる問題は、分権実現のための改革というよりは、国と地方との財政上の問題を解決することを主眼とした改革になっているのではないかという点にあった。それほど中央−地方ともに財政危機にあるのは事実ではある。分権改革会議では、仕事の移譲はあっても、税財源の移譲問題は、今後の成り行きと増税のなかで検討するという趣旨が貫かれたため、それでは分権の実現にならないどころか、地方自治体にすれば事実上の倒産となる。とはいえ、破局的な財政事情も厳然として存在し、それへの対応もまた不可欠である。ただ、分権改革にあっては、主題は、地方分権実現のシナリオを描くことである。そのシナリオを進める中での現在の財政事情をどう組み込むかは副次的要因である。分権は国家のあり方にかかわる命題、財政は当面する課題である。財政削減を主題にするとき、分権論議は事実上ストップとなる。
 財政再建か地方分権化ではなく、分権実現のための主たる目標と副次的効果との関係を明確にし、財政再建下における着実なる分権へのステップを踏むことを考えなければならない。

<分権と集権の揺れの中で>
 日本列島の長い歴史をたっどった時、そこには分権と集権の繰り返しがある。長い歴史において、分権が絶対“善”で、集権が絶対“悪”というものでもない。国の、政治のあり方として、その時代に適合した形態が生み出されてきたのであろう。
 乱暴に振り返ってみよう。日本列島に集住、定住が進み、小さな国々が生まれ、それらが卑弥呼の時代には一定のまとまりを持ち、やがて大和政権の誕生となる。分権が統合されていく過程である。聖徳太子以降7世紀を通して、中国の律令制を学んだ中央集権国家体制が整備されていく過程は、同時に、初期大和政権を担った大伴や物部氏など土着的な勢力が駆逐されていく過程でもあった。そして、王の中の王としての天皇家が唯一の王となり、官僚制が整備されていく。
 京都に都が移り、やがて京都が千年の都となる。それと同時に、貴族は在地から離れて宮廷官僚としての都市生活者となる。日本列島に初めて純粋な意味での都市が成立する。源氏物語に象徴される王朝の貴族政治の時代である。が、その底流では、一定の貴族の在地化が再び進行し、在地の勢力とも結合して、やがて武士勢力の勃興となり、中央政治の衰退と地方分権化、群雄割拠の時代が出現する。平安時代末から鎌倉、室町時代を経て、戦国時代に至る過程はそのバリエーションである。ある意味で、日本列島がエネルギーに満ち溢れてくる時代であるともいえる。恐ろしいほどのエネルギーをもった日本の中世である。が、信長−秀吉−家康と天下が統一されることにより、再び集権化が進むものの、鎖国の時代ということもあってか、近世では各藩、すなわち各国々の統治権を残しながらの幕府統治という統治形態が完成する。一定の分権が保障されていた時代である。
 しかし、欧米の東アジアへの進出にあって、鎖国が強制的に解除され、日本の開国、欧米化がスタートする。まさしく近代における中央集権国家の開始である。第2次世界大戦という日本歴史上最大の慙愧に絶えない時代を経たとはいえ、中央集権制に基づく日本の近代化は一応成功したといえるのであろう。戦後の復興にしても、その当初から地方分権体制であった場合、果たしてどうであったかは、必ずしも肯定的には判断できない。いま、ようやくにして欧米に並ぶ経済力を身につけてきて、人間や文化の大切さに思い致すことが可能となり、自立や個性、地域性、国土保全などが課題とされるようになってきたとはいえ、社会的な基盤整備、すなわち国家社会としてのストックは、フロー経済に比して欧米に比べれば貧弱である。分権化の方向は間違いではないが、過激な国際経済競争のためのリストラとしての「地方分権」の方向は恐らく日本の国力の低下をもたらす危険性がある。目下の地方分権論議の前に、中央政府としての基本的な仕事の見直し、中央政府は何をするのかを明確にすることが先であろう。それによって、地方は自ずから自らの対応の仕方を考えるものである。分権は強制されるものではなく、また、分権と集権とのバランスをどうとるかこそが大切であろう。時代の様相によって、時代の抱える課題によって、分権から集権へ、集権から分権へと歴史はぶれるものである。そのころあいの程度を歴史的に認識することが望まれるのである。
 リストラとしての地方分権は本来の分権とはいえないし、過度の地方分権は、歴史の蓄積を破壊するものとなる。「中央から地方へ」、「官から民へ」という単純なフレーズでことを処するのではなく、問題はあくまで具体的に考察されなければならないのである。
 問われているのは、国家のありようである。競争をテーゼとして、経済力を正義として、格差の是正は一定程度なされるとはいえ、最低水準の保障はなくすということでの国家でいいのかどうか。これは、地方分権問題としてではなく、国家・国民の問題として判断されなければならない問題であろう。
 国が地方分権を呼びかけるのであれば、まず、国が、要らざる仕事をしないことである。都市や町のありようは、都市や町に任せばいい。町並みや車の通行、バリアフリーの都市構造、歩行者に快適な町づくり、こうしたことに国が関与することはない。一定の財源を地方に保障しておけば、地方地方で、それぞれの地域実態に応じて対処する。そこに間違いが生じても、いずれは是正機能が働くはずである。地方が崩壊するとき、その時には国家の関与も必要となるが、少々の間違いがあっても見守ることが地方分権にとっては大切なことである。まず、国の仕事を限定的にどこまで捉えるかが地方分権への勝負の分かれ道ではある。が、そこには、ナショナル・ミニマムを忘れ去るわけにはいかないであろう。小泉改革の地方分権論議では、まさにこのナショナル・ミニマムが危機に立っている、それはすなわち、地方自治のレベルを超えた、国民の生活と国土保全の問題なのである。(2003.11.9)

地方分権改革の経緯・年表

1993.6.4::衆議院及び参議院で、地方分権を進めるため、必要な法律制定に取り組むことを明記した地方分権決議を全会一致で可決
1994.5 ::行政改革推進本部に地方分権部会を設置
1994.9 ::地方6団体が地方自治法263条の3第1項に基づく「地方分権推進に関する意見書」を国会と内閣に提出
1994.11 ::地方制度調査会、「地方分権の推進に関する答申」を提出
1994.12 ::行政改革本部、「地方分権の推進に関する大綱方針」を取りまとめる
1995.2 ::「地方分権推進法案」閣議決定(村山内閣)
1995.5.19::地方分権推進法、国会成立
1995.7.3::地方分権推進法施行
1995.7.3::地方分権推進法に基づく地方分権推進委員会初会合 委員長:諸井虔日経連副会長
1996.12.20::地方分権推進委員会第1次勧告を橋本首相に提出
1997.12.24::自治省、地方分権大綱をまとめる
1998.5.29::「地方分権推進計画」閣議決定(橋本内閣)
1998.11.19::地方分権推進委員会、第5次勧告を小渕首相の提出
1999.3.26::「地方分権の推進を図るための関係法律案」及び「第2次地方分権推進計画」を閣議決定(小渕内閣)
1999.7.8::地方分権一括法(「地方分権の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」)国会成立 7/16公布
2000.4.1::地方分権一括法施行
2000.5.12::法を1年延長するための改正地方分権推進法国会成立 5/19公布・施行
2000.8.8::地方分権委員会、意見提出
2000.11.27::地方分権推進委員会、意見提出
2000.12.1::地方分権推進を重要課題の一つと位置付けた「行政改革大綱」閣議決定(森内閣)
2001.6.14::地方分権推進委員会、最終報告書を小泉首相に提出
2001.6.26「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(骨太の方針)閣議決定
2001.6.29::地方分権改革推進会議設置政令を閣議決定 7/9初会合 議長:西室泰三東芝会長(経団連副会長)
2001.7.2::地方分権推進委員会、6年間の任期を終えて解散  地方分権推進法失効
2001.11.19::第27次地方制度調査会初会合 会長:諸井虔・前地方分権推進会委員長)
2001.12.12::地方分権改革推進会議、「中間論点整理」をまとめる
2002.6.17::地方分権改革推進会議、国と地方自治体の事業見直しに関する「中間報告」を小泉首相に提出
2002.6.25::「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」閣議決定
2002.10.30::地方分権改革推進会議、最終報告「事務・事業の在り方に関する意見」を小泉首相に提出
2003.5.7::地方分権推進会議、「事務・事業の在り方に関する意見のフォーローアップ結果で、重点推進事項11項目を首相に報告
2003.05.14::地方分権改革推進会議で水口小委員長試案提示 批判高まる
2003.05.19::財政制度審議会の財政制度分科会、地方財政改革について、国から地方への税源移譲は自治体による増税とセットで進めるよう提言する方針を確認(朝日5/20)
     5/20分権会議で、4委員が税源移譲先送りを批判、修正要求も(京都5/21)
2003.5.23::地方制度調査会「地方税財政のあり方についての意見−地方分権推進のための三位一体改革の進め方について−」を提出
   2001.11.19総務大臣諮問「社会経済情勢の変化に対応した地方行財政制度の構造改革」
   2002.7.1第3回総会で5点の調査審議事項を定める その一つ
2003.5.27::神野、谷本委員、地方分権改革推進会議に、地方共同税の撤回などを求める申し入れを行う。
2003.6.6::地方分権改革推進会議「三位一体の改革についての意見」まとめる 一部委員(4名)の反対を付記
    6/3合意を断念し、税源移譲を事実上先送りの方針を維持(増税まで先送り)
2003.6.9::財務相の諮問機関・財政制度審議会、地方交付税の財源保障機能の廃止など財務省サイドに立った「三位一体改革」を含む建議を提出
2003.6.11::総務相の諮問機関・地方財政審議会、「三位一体改革に関する意見」を提出
2003.6.11::関係閣僚会議で、「国庫補助負担金等整理合理化方針」合意 
2003.6.27::「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2003」閣議決定


7 語られない真実を読み取るために−国民=「市民」として

 ついに最終章へたどり着きました。本稿着手して2年数か月、一応のターゲットとした小泉政権がもしも倒れたら、どういうような終章になるのだろうかと、なんとはなしの不安がないわけではなかったが、幸いにしてよく持ち、今回の解散総選挙でも政権維持を果たしてくれました。
 こうした不安が生じるのは、小泉政権に対する評価について、有識者と目される方々の見解には否定的なものが多く、時間とともにそれは拡大し、今や、何らかの意図を持っておられる方はともかく、多くの方々が否定的である。にもかかわらず、世論調査では、当初の驚異的なレベルからは下がったとはいえまだまだ50%前後と高いものである。このギャップは何なんだろうかということが問題として存在する。ポピュリズム云々といった解説もわからないわけではないが、小泉首相自身、もともとそれほど世論操作に長けた人物とも思われないし、計算ずくで来たのでもなさそうなのである。今日の時代というものの分析が本当に大切なのだろうと思われます。
 ともあれ、時代はいよいよ深みにはまっていくようです。仮に近い将来、小泉政権から民主党政権に変わったとしても、この十数年来の政治経済の動向を根底から修正するような事態には恐らくならないのではないかという予感めいたものもあります。極論すれば、今の政治は、ここ十数年の大きな流れのなかでのいずれの辺りに漂うかの違い程度にしか与野党の差がなく、また全てがプラグマチズム的であるといえます。かつての叩き上げの土の匂いのした泥臭い多くの政治家に代わって、若い利発そうな政治家が多く誕生しつつありますが、そのことが逆に、どっしりと日本の土に根をおろしたような安心感がなくなっていくような気分にさせている面もあります。世界的視野で思考し、行動は地域から起こしていくということの大切さが、さあ、どれほど以前から指摘されてきたのかも忘れましたが、地域に根を持つことの大切さは、世界的規模での競争などが叫ばれだすと、所詮は観念の次元として処理され、現実は、知識と力のある人びとは、自由な競争社会に憧れて走っていくのでしょう。政治とは、一体誰のための、何のためのものなのかが、根底から問われだしてもいるような気がしています。

(1) ここ十数年間の問題
 現在のデフレと経済の長期停滞は、いうまでもなくバブル崩壊によるものである。そのバブル崩壊後の状況は、バブルの発生の仕方も関係するところが大きい。と同時に、政治の世界も、バブルを生んだ時の内閣、竹下首相が、当時すでに部分連合(パーシャル連合)の可能性を指摘していた。バブル崩壊とほぼ時期を同じくして、自民党単独政権の時代も終焉した。戦後最も経済の舵取りの重要な時期に、その舵取りをするべき政治の世界が不安定になってきた。政権をめぐって、政党の離合集散が常なき時代に入ったのである。これは一面で政治の活性化をもたらせることとなった。これまでは伺うことのできなかったいろんな政治世界、経済・産業世界の情報が一般庶民の目や耳にもはいるようになってきた。TVやパソコンによる情報通信の発達というのもあるけれども、いわゆる情報開示、情報公開の進展である。一般庶民の生活や知的レベルの向上は、国政や日本経済を背負うエリート層との差を短くし、それらエリート層の権威の低下をもたらせると同時に、そうしたエリート層が、国家や社会の発展のためよりは、自己利益のためにその立場を利用する度合いも高くなってきた。エリート層の癒着と私的利益のための汚職など公的立場の利用である。
 国や社会のリーダーは、一般庶民やサラリーマンのような狭義の規律性から超えた存在でなければならない面が確かにある。が、それは国や社会を背負うことから来る難事に対応するためである。自分の私的利益や欲求はいわば捨てられているのである。国家の難局に対処するには一命を賭してかかる、これが、明治以来の日本の為政者のありようであったはずである。が、気が付けば、森永砒素ミルク事件から水俣病や痛い痛い病、四日市喘息など工場公害・企業活動からの健康障害、厚生省の薬害エイズ問題、公共工事をめぐる政治家の口利きとゼネコンとの関係、大蔵官僚と銀行界との癒着による汚職などなど数え上げればきりのないほどの不祥事が、国家国民のためというよりは、私利私欲の反国家・反国民といもいうべき世界を形成してしまっていた。これには情報開示は効果がある。だが、次には萎縮が始まる。何もかもが情報開示でたなざらしとなり、資金投下もままならないということになると、今度は手続きさえ問題がなければ、清潔でさえあれば結果はどうあろうとも問われることがない時代とそれにふさわしい人びとの誕生である。
 政治には二つの面がある。一つは、結果が実らなくとも、過程をみんなで歩むことによる納得を得るという面。今一つは、すぐれて結果を結実させることに重きをおいた結果責任の面である。更にこれに付け加えるとするならば、政治とは、「私」から「公」への発展の場であるということ、この点は限りなく重要であるが、見過ごされている点である。今は、政治行政、更には企業経営の退廃から、透明性の高い過程をいかに歩むかというところに重点をおいた時代となっているが、それも程度問題で、結果を生み出すために為政者に付託し、為政者は結果責任を負うという時代に早く到達したいものである。それは同時に、今は「官」を否定する見方が横行しているが、官の否定は実は政治家の責任回避であり、「官」の否定が「公」の否定につながりかねないことを恐れる。
 「公」は本来生易しいものではない。私的行動の集積が「公」なのではなく、「公」が「公」であるためには、いったん「私的動機」をたたなければならないのである。企業家が、私企業の私的利益を追求して成功したとしても、その成功した私企業によって倒産させられた企業も「公」の対象となるのである。「公」は成功者の集団であってはならない。大企業のしかも成功者が、財界のリーダーとなり国政に関与する時のスタンスを考えてみれば、自分の私企業の成功原理を国政に及ぼそうとすることになるというのはまだしも、自分の企業の利益に都合のいい政治行政を求めることが通常のスタイルであろう。全ての国民の利害と一私企業の利害とが一致することははなはだ困難なことなのである。企業活動は、国家や地方自治行政を所与の条件として受け入れることが大切で、企業活動のための国家行政づくりはもはや今の時代では諦めることが必要であろう。とはいえ、アメリカの産業界と政界との結びつきもある種日本以上のものがあり、そう単純にはいかないけれども。

 さて、主題に戻ろう。当初の問題意識として、地方自治を語る場で、なぜ、経済問題である「失われた十年」と「構造改革」を問題にしたかである。答えは既にお解りのように、その結末が、地方自治と国民の生活に帰着しているからである。
 バブルの最中、日本の国富は拡大し、アメリカの買い付けにまで及んだ。バブルの崩壊は、そうした過大化した国富を一気に減少させ、「豊かな国」日本の国民生活を今や貧困の際に追い込むことになった。失業者が増大するばかりではなく、国民全ての老後生活の不安、すなわち老後の保障ができない国家に転落したのである。健康保険や介護保険などの社会保障政策はそのほとんどが地方自治体が担っている。その施策が、保障ではなく、経済原理に基づく「受益と負担」、自立に対する「支援」という形で、行政が一歩も二歩も退いた形が進行している。「構造改革」では、国が、経済が発展するためにはそうしたあり方が不可欠だと説かれるのだが、生活不安を前提とした「豊か」で発展した国や経済とは、一体何なんだろうかという疑問に苛立つ。日本はもはや貧しい国になってしまったのだろうか。いやそうではなく、富は減少したとはいえ、なお残っており、外貨の所有は世界一なのではないだろうか。が、それらの富が、循環しないのである。国民生活にまわらないのである。要らざる説明は不要である。有意の経済学があるのであれば、なぜ、富が循環するようにできないのか。いや、実際はできてもしないのであろう。アメリカには日本の富が循環させられていて、アメリカの膨大な財政赤字を助けているのである。
 そこで思い出されるのは、戦後の日本経済の難局に際し、アメリカからは日本国内市場の拡大、いわゆる内需拡大策が常に要請されてきていた。ドルショックのときなどはその代表例であろう。が、我が国は、政府も経済界も、内需拡大よりはリストラと行政改革でしのぐことによって更に廉価の輸出製品を輸出してしのいで来た。今回もそうである。そうしたやり方はもはや限界であるといいながら、結局はリストラによる国民生活の圧縮で企業活動は乗り切ろうとしてきたのである。目下の企業収益はその多くをリストラの成果に依存している。そこには、日本経済全体のためのマクロ政策が欠落しているのである。 ひるがえってアメリカを見た場合には、日本とは全く逆の政策が取られている。膨大な財政赤字をものともせず、大型減税と住宅供給政策である。加えて、日銀に相当するFRBは、先手先手の金融政策を実施し、デフレへの危機を目下のところ未然に防止し、経済の好転に大きく寄与している。アメリカは大胆すぎるほどの内需拡大策である。日本は、特に小泉構造改革の中枢を担う竹中経済財政政策は、アメリカの手法を日本に導入しているはずであるにもかかわらず、最も基本的なこうした点では、アメリカの逆を行っている。日銀にしてもそうである。なぜなんだろう。
 
 バブルに日銀が急ブレーキをかけずに90年代前半まで走りつづけていたらどうだったであろうか。多分、日本よりもアメリカのほうがパニックになっていたかも分からない。バブルを可能な限りソフトに沈静化させ、同時に景気振興策を間断なく講じておれば、現在のアメリカに近い経済状況にあったとも思える。バブルは、堅実な日本経済、特に製造業の堅実さを損なわせたが、それは、産業構造などのシクミの問題ではなく、主として企業人や政治家、官僚の倫理上の退廃によるものであった。バブルそれ自体は、本質的に、デフレのようには困る問題ではなかったが、政官財における倫理観の喪失は、以後の日本のあらゆる分野に緩みと退廃をもたらすことになった。バブルがなければバブル崩壊もなく、バブル崩壊がなければ深刻なデフレもない。そこで、バブルを生むに至るバブル以前の日本経済の体質の問題が遡上にのってくるのであるが、バブル崩壊をうまくコントロールしておれば、このような無残な崩壊と深刻なデフレに陥ることはなかった。恐れずにいえば、倫理観の喪失による退廃が、システムの問題にうまくすりかえられたのではないか、と思われる。外国に対してい日本の国を開いていくという、戦後、国力の増大に応じて対応してきた大命題は、今後も一貫して続くし、そのための国内のシクミを変えていくという課題は存在するが、日本経済のこれまでのシクミの一切をこのバブル崩壊後の深刻なデフレの中で、一気に進めなければならない合理的な理由はない。体力と状況に応じて進めればいいのである。ただ、気になることがあるのは、小泉内閣誕生当時によくみられた、危機を創出しないと構造改革はできない、構造改革への国民の気運は生まれないと主張する方々の存在である。これほどの深刻な事態になってなおそうしたことをいう人は今なおある。
 日本の民主主義が成熟したものであるかどうかはともかく、今の日本の政治状況の中で、特定の限られたエリート層が、一切のデッサンをして日本をコントロールできるような状態でないのはあきらかである。『円の支配者』にみられる、日銀という特定のセクションに限れば、或はそれは可能かも分からない。為政者ではない我々は、結果としての事態の進行のなかで、結果としての事実の積み上げの結果を読むことにより、意図を読み取り、或は不作為の作為を読み取り、或は失政を読み取り、或は無策を読み取るのみである。小細工のような作為、大きな日米間における実際的な関係の流れなどは、丹念に事実を検証していけばその解答は得られそうである。そこからしか、これまでの日本の蓄積を大切にしながらの新しい日本への建設はないのであろうと思われる。まず第1の課題は、バブルによって退廃した為政者をはじめとする人心の再生であろう。そして、私たちは、自らの判断を鍛えることであろう。
 そこで、次にこの十数年間の論点ないし疑問点の幾つかを提示することにした。(2003.11.17)

(2) 論点ないし疑問点

 以下は、極めて素人としての素朴な問題意識である。専門分野の方々の思考は、常に一定の前提条件の上にあるような気がするが、本当にどうなのかという素朴かつ基本的な問題点や疑問点が、現実の世界には本来必要なことであり、我々が真実をつかむためには不可欠な第一歩と考える。思いつくままに、系統立てることをしないようにした。

・バブルの現出−崩壊−不況−デフレ  これが、1980年代後半から2000年代初頭にかけての約20年間の基本的な経済の流れであり、どうして、それへの対策が経済政策の基調とならずに構造改革となったのか。
 構造改革は、小泉改革に直接影響したものとしては、中曽根第2臨調から橋本改革であり、金融問題をはじめとする重要な変革は、小泉内閣ではなく橋本内閣の下に形成され、実行に移されつつあったものである。その意味では、構造改革は、少なくともここ30年くらいの経緯のなかで考えられなければならないのではないか。小泉内閣になって着手されたものではなく、小泉内閣では、その実行の仕方に乱暴さ、杜撰さが目立つとともに、ここ30年来の経緯を踏まえた体系性が読み取れないのではないか。そのために、低次元の既存利権集団対改革派といったステレオタイプの対決と妥協という演出がなされ、かえって、計画的な漸進的改革さえ逆にできなくなってきているのではないか。これもはたして読み筋なのだろうか。

・スローガン的な次元での「官から民へ」、「中央から地方へ」は、小泉政権も、民主党も違いが見られないようだが。では、官業の経営形態の民営化は、果たして「官から民へ」なのだろうか。
 多分違うだろう。官業や行政の運営形態や運営方式に民間的手法を導入することと、官業や行政業務を民間に移行させるのとは全く次元が異なるはず。郵政民営化や道路公団民営化は、目下のところ経営形態の民営化であり、その先の意図するところが分からないのである。
 「中央から地方へ」は、もともと中央集権制を構築してきたのは政府そのものであり、「地方へ」という場合には、まず、中央政府がどうあるべきかが先に明らかにされなければならない。単に、現行制度が制度疲労を起こしているからその仕組みを変えるという抽象的なことではなく、中央政府はどういう課題に応えるべき存在なのか、それ以外は国民が自由に活動するという中で、地方自治のしごとが明らかになってくるものではないのか。まず、地方と「民」を中央政府のコントロールから解き放つべきだろう。そうすれば、自立は自ずと生じる。地方や「民」の依存体質があるとすれば、それは中央政府のコントロールを逆に活用していたという面もあるのである。必要な規制は撤廃してはならないし更に加えることもあるだろう。が、客観性の乏しい、また基準が明快にされていない多分に恣意的なコントロールは、声高に「改革」を叫ぶ前に速やかに止めるべきであろう。
 国家によるナショナルミニマム、国土の開発・保全は重要な問題である。日本の場合、欧米のように、先に自治都市があり、その上に近代になって国家が誕生したのではなく、島国の特性として、古代からそれなりの国家を形成していて、その中での地域住民の生活があった。自治や国家の成り立ちが異なる。分権による非能率、非効率、国家的統合性の弱体化などの負の面も十分検討しなければならないのではないだろうか。国家間の国際競争の激化が云々されてるときに、最近、アメリカでもナノテク開発を国家戦略として確立したように、国家間の競争を考えない純粋培養の地方分権も「民業」もないのではないだろうか。
 また、企業活動と地方自治の関係は単純ではなく、企業法人とその事務所や工場が地方自治の重要な担い手として、また地方自治を所与の条件として十分受け入れる覚悟がありや否やも問題となる。企業の世界的競争関係のなかでの覚悟である。かつて、一大和装産地であった京都の西陣織や京友禅は、1960年代にはすでにここの企業が丹後方面やさらには韓国にも下請け工場をつくって製造拠点を流出させたために、ついには西陣も友禅もその産地としての備えを崩壊させることになった。ここの企業の企業利益と業界全体の利益とのギャップであり、しかも行き着く先は個々の企業自体の衰退に帰着したのである。国内の最大の和装集散地としての室町もついに衰退した。地方自治行政がいかに分権化し参加型のものとなったとしても、これは都市衰退の大きな要因となる。こうした対策は、一体どこが、どのレベルで行うのであろうか。今の小泉構造改革からすれば、非効率な産業として市場から早く退出願うべきもので、政府はその退出に拍車をかけるのであろう。
 企業活動は、今や一都市、一地方を越えるだけではなく、国境を越えて展開する。そうした企業活動が、分権化された地方自治体の構成員としての役割を果たすにはそれなりの覚悟がなければならないさじである。本当は、企業活動にとっては、地方自治行政は制約要因としてしか考えていないのかも分からないのである。建前を超えて、地方自治と企業活動との実際的な調整が必要である。ましてや、企業活動に地方財政を投入することは、市民生活を軽視することにもつながるが、地方行政に対する経済界からのこうした要請も現実には多いようである。
 また一例として、トヨタに代表される自動車産業は、この不況下での日本経済にとって欠かせない支え手である。が、他方で、排気ガスと交通混雑による都市公害の最たるものでもある。都市が人間にとっての住みよく暮らしやすい快適なものとなるためには自動車交通の規制は今や絶対条件でもあるが、現実には自動車産業に支えられた日本経済の現状からは困難なことであろう。自動車と電車の合理的なシステムを編成すればどれほど快適な国土になるか。だが、日本経団連の会長がトヨタであるように、それを抑えることは不可能に見える。特定産業、特定企業の盛衰も政治の舵取り一つであることの見本である。地方分権論議の舵取りを企業家に付託することの問題性がここにあるといえるが。

・経済成長至上主義からの脱却  日本経済が先進国並に到達した頃の1970年代から一貫していわれてきたことであるが、小泉構造改革は、成長至上主義を掲げているのではないのか。であれば、所詮はかなわぬ夢、無理な夢を振りまいていることになるのだが。「構造改革なくして、成長なし」の「成長」は、はじめからなのである。基本的には、安定的で緩やかな成長が期待されているのであって、そこにはばら色の楽園のような経済国家が期待されているんではない。景気の好況不況は、一定の循環性を持ち、構造改革をしなくとも自然に起こり得るものである。「構造改革」で、これほど痛めつけても、多少の景気上昇は見られた。その主たる要因はリストラと海外生産の拡大であるが、それゆえに需給ギャップは解消しない。一部企業の発展と国の経済の発展との乖離現象が拡大してきているのである。

・大きな島国と小さな島国の狭量さ  どうも、日本とアメリカはよく似ているのかも分からないという気がしてならない。つまり、国際的な問題に対して、また外国に対して、勝手解釈が多いようである。つまり相手の立場がなかなか理解できない。その原因を考えていくと、結局「島国」に帰着する。日本は伝統的に外国との関係ではもまれてこなかった。特に、江戸時代300年の鎖国時代は決定的である。一国のなかで事実上全てのことが完結することが可能であった。明治の開国後も、第2次世界大戦で敗戦しアメリカの占領統治の下に置かれるまではそうであった。戦後にあっても、事実上アメリカとの関係が大前提となった国際関係で、さしたる苦労はなかったのである。アメリカもヨーロッパの新天地として拓かれて以来、広大な国内で全てが充足していて、世界へは「正義」の闘いで応援する程度で、自らの国運をかけた闘いはなかった。そこから、国家や民族がひしめき合っているヨーロッパで形成されてきた価値体系が容易に理解できない状態が生まれるのであろう。イラク問題、広くは中東問題に対する勝手理解は避ける努力をするべきであろう。近視眼的な「国益」思考では中東問題には寄与できないと考えなければならない。「島国」であることの自覚を持つことから、日本の国際性は始まるといえよう。近隣の東南アジアとの関係でもそうである。

・ポピュリズムの後にくるものは?  小泉政治はポピュリズムであるといわれる。なるほどそのとおりである。さらにさかのぼれば、連立政治の開始となった「細川内閣」がそもそもの始まりではなかったかとも思われる。が、ポピュリズムという言葉を日本人として理解しようとした場合、どうも分かったようで分からない。大衆迎合でもなく、衆愚政治でもなく、国民を一人ひとりの存在としてではなく、総量として捉えて、世論調査による支持率で考える政治なのだろうか。となると、これは、今日の政治学の流れにも沿ったものともいえる。国民を一人ひとり生きた顔を持った人間としてではなく、計量化された数値でもって考えるあり方である。いずれにしても、この流れは、一握りの国民をコントロールする層とコントロールされる大部分の層とをつくることになる。何のここはない、第2次世界大戦の因となったファシズムではないか。その違いは、ファシズムは、社会主義と同じく社会政策から出発していたが、現代は、社会政策を否定し、貧富の拡大を是としていることである。これとマニフェストを合せ考えるとき、その行き着く先に何か空恐ろしいものを感じるのはあまりにも取り越し苦労なのだろうか。
 近代政治は、統治される存在から、国民が自己の利益実現を図るシステムであると理解していた。その利益実現過程はすなわち多様なる利害の調整とその合意形成である。利益団体やその利益を代弁する政治家は必然的に生まれる。国際関係における国家という統一的な統治のあり方とは別のこうした側面は民主主義の原点として否定することはできない。マニフェストは、ではどういう過程で作成され、国民はその作成過程に参画できるのであろうか。数値目標が掲げられ、その実施如何が重視されればされるほど、それへの国民参加の如何が問われることになるのではないだろうか。

・政治や経済理論の誤謬  政治学者や経済学者の政治、経済関係の解説、とりわけ現実の経済政策などに対する政権の解決を見ていて感じるのは、政治家を、或は経済政策をあまりにも理論的綺麗に整理しすぎるのではないかということである。学者やエコノミストにはケインズ派であるとかないとかがあるだろうが、政治家には通常そうしたことはなく、単に必要と思うことをするだけのことである。政治改革や行政改革にしても、理論をもとに、理論に基づいて目標を設定しているのではなく、政治の対立もそうした理論に対する対応から生じているのではない。政治基盤や利益代表などの延長線上にあるものであろう。こうしたさしたる理念のない政治状況や経済状況が、仮説としての綺麗すぎる理論によって系統的に整理されるとき、現実が美化され、現実と理論との大きなギャップが生まれることになる。新保守主義だとか、リベラル派だとか、多分多くの政治家はそうしたことを意識して政治を行っているのではない。学問的な分析と現実とのギャップは本来あるものであり、そのことを理解した解説や説明、時には受け手である我々自身がその辺を十分理解しておく必要がある。小泉構造改革を予め理論的に理解しようとすることはこうした誤謬を生む最たるものであるといえよう。定義ではなく、事実の認識から、事実の積み上げから物事を理解する訓練が我々自身に必要となってきているようである。

・公益的な基金や財団経営の危機  デフレの中での経済合理性は、収益を生む事業以外は淘汰される存在なのであろうか。公益的な基金や財団は、多く預金の利息運用で経営されていて、このデフレ下で、利息運用ができずに経営危機に陥っているものがほとんどである。文化財保護を目的とした京都のナショナルトラストである「京都市文化観光資源保護財団」などもその典型であろうし、私的レベルのそうした財団は多いが、それらは基金を取り崩し、活動を縮小し、やがて機能停止に向かうことになるが、こうした公益的基金や財団にたいする政治的関心は低いのは残念で、社会福祉関係の活動や日本文化の体質の弱体化に深く影響を及ぼしてくることが懸念されるのではないだろうか。デフレの大いなる被害者である。

・郵政民営化と道路公団民営化の違い  郵政民営化は、日本の基本システムにかかわる、すぐれて金融政策上の問題である。目下の金融システムの不安定な時期に、より不安を増強する。しかもあらゆる方面に連関する。その改革は20年、30年と漸進的でなければならない。一気にできるものではない。
 道路公団は、国民の考えひとつ。システム的な問題ではない。ただ、経済合理主義による地方切り捨てとなる。利権構造と道路の必要性とは別問題であるのもかかわらず、利権構造を断つために、或は利権構造の派閥間の転移を図るために民営化が主張されているのであれば、それは筋が違うことになる。さらに、道路と鉄道は、自動車と電車との利害の衝突の場でもある。どちらを優先するのか。それは国家・国民の価値観によるのであろう。

・ポピュリズム政治、小さな政府と地方自治、小泉構造改革、二大政党制(小選挙区制)、デフレ、日米経済・軍事関係(日米同盟)、経済と政治との関係、国際競争と開放、中国・ソ連など東南アジア関係、日本的体質と世界標準・欧米体質、最低保障と地域の経済力格差、自由の拡大と社会不安の増大、競争と不安定、平和のための戦争、世界の中の日本(島国を越えられるか)、永遠の成長神話(地球の限界のなかで、科学の予見)、戦後日本の何をどう変え・何をどう継承すべきか−その先にどのような日本があるのか(日本だけでは考えられない、世界の中の日本)。際限のない問題に遭遇している。そして、多くの場合、政府を含めて技術論に終わっていて、その先が分からない。大きなグランドデザインが、それこそ骨太の日本のあり方が示されなければならないが、それは、ひとりの頭脳からのみ出るものであってはならないはずだ。 (2003.12.8)


(3) 真実は自らの手で −「市民」社会に憧れて−
 
・語られない真実に対して−疑惑からのスタート
 もともと本稿は、戦後の通貨・金融政策に対する疑惑と、丁度その疑問を懐き出した頃に誕生した小泉政権の構造改革に対する疑惑からスタートしました。そしてその直後、アメリカの衝撃的な9.11テロの発生です。これで戦後世界もいよいよ激変し、日本もその渦中に巻き込まれることになります。まさに“時の小泉首相”という人物を得て。
 そこで、2年有余のこの論稿作成過程で、ではそれらについて当事者から発信される情報が果たして真実であったのかをそれなりに考察してきたつもりですが、やはり今もって疑惑は取り除けません。通貨・金融政策にしても、小泉構造改革にしても、ブッシュ大統領のイラク戦争にしても、語られる事柄と事実との乖離はあまりにも大きいといえます。 なぜバブルが生じたのか、なぜバブルに急ブレーキをかけ不況とデフレに追い込んだのか、金融不安の真っ只中でなぜ追い討ちをかけるように郵便貯金や簡易保険の民営化を進めるのか、責任ある当事者の説明からは疑問は解けません。明らかなことは、我が国でもアメリカでも、自由主義経済とはいっても現実には経済と政治は深く関わっていて、しかもその関わりは、公的な仕組みに組み込まれているものから政治家個人との私的かかわりまで多様、多層であり、何をもって不正行為とするかの境界線も微妙なものがあり、自由な市場経済という建前そのものがケースケースにおいて結構適当に使われている面があります。計画経済が文字通りのものとして遂行されるのが困難であるのと同じように、完全な市場主義、自由主義経済も今日ではありえないことです。問題は、その国の経緯と現状、みらい展望のなかで、すぐれて具体的にそのあり方を定めることが大切であり、言葉の定義から一足飛びに政策目標を立てるべきものではないのです。
 こうした意味で、実際問題として、どのような根拠でもって何をどうしようとしているのかについて、そして、それが一体国民生活になにをもたらせることになるのかについて、私たち一人ひとりが自分自身で考え、判断していくことが、民主政治の基本的な建前のはずです。が、具体的事実が語られえず、抽象的な建前論とフェイントのかかった事実を提示されるとき、一般国民として私たちにはただ戸惑いがあるばかりです。専門家筋に頼ろうとしても、そこにはまた相反する論が氾濫しています。
 そうはいいながらも、情報開示は20年前と比較すれば格段の違いがあります。かなりの程度、開示されている情報を丹念に読めだ、本当は真実はそこそこ浮かび上がってくるし、新聞や総合雑誌も、惑わされる点もあるとはいえ捨てたものではありません。ただ、テレビに依存することは日本の場合にはどうもだめなような気がしますが。
 そして次は、人物の見極めです。まず、「えらい人」の言は正しいものであると鵜呑みにしないことです。政治家の発言はその解釈が難しいものです。嘘をいえないからですが、どうもこの頃はそのときさえ済めばあとは結果的に嘘になっても構わないというような傾向もあるのではないかとさえ思われます。元来、政治家や役人の言葉は面白くない反面、そこには今後に対するある種のメッセージがこめられているもので、その意味では言葉を極めて大切にする人種です。そうした言葉の重みそのものがなくなりつつあるのでしょうか。しかし、人物の見極めは、その人の持つ表情や、時間の経過のなかでの一貫性や、国民への責任のとり方などを見ているとそれなりに分かってくるもので、信じるにたる人物を見極め、その人物の発言を中心に物事をみていくのも一つの方法かもわかりません(最近はやりの、ただ闇雲に人を批判し、けなすような人物は、遊びとしての面白さはあったとしても、それは真剣な政治の世界にはなじまない人物です。政治は、私たちの生活をも律してきます。政治を茶化すことによって例え政治が身近になったとしても、それは返って悪い結果をもたらすのみでしょう。人気取り政治は、政治の茶の間化の悪弊以外のなにものでもありません。)。

「私」から「公」への跳躍
 政治は、一人ひとりの私的個人の集積です。当然その基盤は「私」にあります。が、その「私」の集積である「地方自治体」や「中央政府」はまさしく「公」です。公と私の違いは「公」は、「私」を基礎としながらも、特定の「私」を超えて、異なった利害をもつ全ての「私」を包含するものです。一人ひとりの私的利害を超えなければ、「公」は存在できません。
 「オンリーワン」ということが、現在の生き方の見本のようになってきていますが、たいていは、自分の好きなことを好きなようにやる、その結果大成した人が「オンリーワン」の英雄となるのでしょう。自分にしかない価値という高度に抽象的な人間存在の価値観は大切なものなのですが、多くの他人との人間関係のなかで「オンリーワン」を貫けるひとはそう多くはありえませんし、また、それは、えてして勝手人間として一定の集団や組織の障害物ともなります。政治の場で、特に社会的地位を築き、リーダー的な役割を果たす人びとにとって必要なことは、いかに「オンリーワン」として築いてきた自分を、社会的な全体的利害を代表する自分に超えさせるかであるといえます。
 経済活動であれ芸術活動であれ、それで成功した人にはそれだけの魅力と学ぶべきところがあります。が、異なった利害が輻輳する社会や政治にあっては、「オンリーワン」の延長線上では決して問題解決の道は提示できません。社会や政治を知ること事態が簡単なことではなく、短絡的な認識で云々するのは間違いのもとです。私企業の成功者は、果たして自己の企業利益に反するかも分からない社会のあるべき姿に自分を賭けることができるものなのでしょうか。「公」への発言は、一市民、一国民としては自分の利益の実現のためにあるのでしょうけれども、「公」のあるべき姿への発言や「公」への関与を行うときには、自分の利益を捨てて、全体の利益のためにその身を挺することが要求されることになります。
 たとえば、今やトヨタ型の経営がもてはやされ、このさきは国の運営までトヨタに任せたほうがいいのではないかという意見すら出かねない恐れをすら感じます。けれども、考えてみなければならないのは、いかに日本を代表するリーディング産業とはいえ、今や自動車は最大の公害発生源であるということ。都市の現状は、すでに自動車によってその快適性を著しく破壊されているということに対する認識です。つまり、潜在的に都市と自動車産業とは相対立した要素をもっています。また、企業活動は、古典的に言えば、土地と労働と資本で成り立っていますが、より低廉な土地と労働力とを求めて、海外へ生産拠点を移し、資本もより効率を求めて海外への分散もし始めています。とりわけ不況になれば必ず合理化で賃金抑制、結果としての国内市場の狭小化という分かりきった悪循環をしてきたのは、労働者と企業家との相対立するところでしょう。トヨタが日本経団連の会長として、トヨタの利益につながる国家的仕組みを経済界として実現しようとするのは理解できます。しかし、経済界の代表としては、時流に遅れた産業界の利害をも代表するべきでしょう。ましてや、国家統治や国家行政に関わるときには、経済界の代表者であることを超えて、国民の代表者として経済界の意に反することにも真剣に対応する覚悟が求められると同時に経済界が国家にいかに寄与するかをこそ考えるべきなのでしょう。年金や医療問題は格好の素材です。国民生活のことではあるが、その国民は、企業の働き手である労働者でもあります。労働者の生活の安定と健康を願わない企業家は、長期的には国を食いつぶすものといわなければなりません。今や経済界は、「国際競争力」という護符のような言葉によって、税金はより少なく、賃金はより低くが当然のごとくになり、企業が企業として成立するための基本的な条件に対する心得が希薄になりつつあるのではないかとの憂慮すらもちます。海外進出を果たすことのできる企業にとって、国内に依存する労働力の必要性は薄くなり、国家を超えて行う経済活動の必要性から、国家のシステムは企業活動に都合がよければそれでいいという程度になるのでしょうか。そうした延長線上で語られ、構築される国家には、一人ひとりの国民の自立性を基とした国家のあり方とは、実質において異なった、多分に大衆社会状況ものとでの数量的に把握される国民国家という様相を帯びてくるのではないでしょうか。
 明治開国直後の国家リーダーたちは、横暴で、かつ今日の尺度からすれば、贈収賄や不正もあたりまえのこととしてきたのかもしれません。が、それらが許されるのは、国家のために一身を犠牲に供していた、命をかけてきていたことにあります。その根本において「公」であったのです。国家を「私」的利益の場とすることが横行している現在との決定的な違いといえるでしょう。「公」を「私」にするのではなく、「私」を「公」に高める根本を打ち立てないと、日本の国は、今後国家としての解体過程を歩みかねないとの懸念すら抱かされます。

成熟の前の頭打ち、それとも退廃か
 戦後の改革はいうに及ばず、明治の開国以来の一貫した改革課題は、国内で完結していた日本のシステムをいかに外国に開いたものにするかにありました。そのために、明治時代には富国強兵が進められ、戦後はアメリカ依存のなかでの経済成長至上主義ともいえる産業政策がとられてきました。国を開くというとき、二つの側面があります。一つはあらゆる面での国境をなくすということ、今一つは国内システムを世界システムに変えるということです。が、この二つとも実は難解です。これほどグローバル化が叫ばれてはいても、現実には国家の役割は増大してきています。東西冷静構造が解体し、民族と国家の関係が複雑化し、中東を巡るアメリカとヨーロッパの軋轢をはじめとする地球規模での不安定な状況を迎えつつある現代、国家を抜きにした海外活動は困難になってきています。経済のグローバル化の進展の反面、国家の垣根は高くなりつつあるというこの相矛盾した進行のなかでの国の開き方、近隣諸外国との付き合い方は一様ではありません。
 国内システムの世界システムへの変更などはさらに難しく、世界標準とは一体何かということがあります。ヨーロッパ仕様やらアメリカ仕様やら、分野分野でまた異なる、ある種弱肉強食の世界でもあります。抽象的には米欧の仕組みということになるのでしょうが、その米欧が今や矛盾対立しているのです。国内の成熟の度合いを測りながら、どういう世界の仕組みにどのように合せていくのかという戦略を持ちつつ、小泉首相の抽象的な物言いでいけば、「よく状況を見極めて」、闇雲に突き進むべきものではないのでしょう。
 歴史の流れからみれば、戦後数十年にして漸く明治以来の目標であった欧米並みの国力を一応備えるようになりました。そこで迎えたバブルです。日本の社会も成熟を迎えるかと思われた時期に迎えたバブルは、あらゆる方面に倫理の退廃をもたらせました。成熟の域に達する直前に退廃を迎えることになったのです。政治界も経済界も一般国民の生活もです。バブル崩壊後も、問題の真実を明らかにすることなく、その時々を糊塗してくることになったのも、その精神的退廃の渦中になおあったからなのでしょう。欧米に漸くにして並んだ瞬間の沈没です。なにが問われているのでしょうか。多分、国家としての自立性なのだと思うのですが。
 戦後の日本は、現在のイラクとの対比で見れば明らかなように、あれほどの戦争をしながら、一旦敗戦となるや占領軍であるアメリカに極めて従順に従ってきました(そのため、反面の保革対立と平和運動の高揚がありましたが)。敗戦後の安全保障と経済成長はいずれもアメリカの傘の下で進められてきました。世界の中の、或いはアジアの中の日本を語るとき、このアメリカからの自立という問題が重くのしかかってきています。かつては、軍事同盟まがいの「日米同盟」という表現が声高にいわれることはなかったように記憶します。憲法の規定はものかわ、軍事的にこれほどアメリカと密接なことはかつてはなかったのではないでしょうか。しらずしらず、なし崩しのような形で進行してきているのです。大切なことは、日本の将来的な選択の姿として世界とどのように付き合っていくかについての国民総意の形成なのでしょう。
 イギリスはアメリカとヨーロッパの橋渡し役を演じることによって、心臓を切り刻まれるような苦しみを経験しています。日本がアメリカと軍事的にも「日米同盟」として一体的行動をとるとき、世界に対するスタンスを一体どうとるのでしょうか。勝手理解は通用しません。アメリカの裾のなかに潜むのか、イギリスのように血を流しつつ一方でアメリカを諌め、他方でヨーロッパとの意思疎通を図ろうとしているものの、国内は矛盾の坩堝にはまりつつあるその姿を、自らの写し絵として描くのでしょうか。こうした真剣な対応が日本にあるのでしょうか。自衛隊を派遣するのに「安全性」が判断基準になるということ自体、根本においてうやむやなところがあるからなのでしょう。安全であれば文民だけ派遣すればいいのです。
 「一身独立して一国家独立す」は、かの福沢諭吉の言葉です。が、国家の独立なくして、また国家の独立への政治家の気概なくして、国民の独立心もまた育たないのです。「負担と受益」などという経済的な側面で人間の独立心が養成されるものではありません。自立した国家の判断としての戦後アメリカ依存の政治経済体制から、ここまできたのだからたとえ貧しくなっても、アメリカとの関係も自立した関係に立ちたいものだという思いには捨てがたいものがあります。他方、真のパートナーとしての覚悟ある「日米同盟」を新たに選択するのであれば、それも国の一つの進み方であるとも思います。独立心がある、自立心があるということは、なし崩しではなく、けじめをもって判断する、そこには責任性があるということです。そのために憲法改正が必要ならばそのことに真っ向から向かうべきでしょう。つじつまの合わないなし崩しの解釈の積み上げは、恐らく世界の笑いものになるのではないでしょうか。憲法は変えてはならないものではありません。しかしこれまでの護憲には、東西冷戦構造のもとでの平和条項をめぐる姿勢の問題があり、なし崩し解釈に対する歯止めなどの役割を果たしてきました。東西冷戦構造が解体し、世界が逆に多極化するなかで、そうした憲法の平和条項をどうするかは、世界におけるこれからの国家の進め方とその覚悟によるものと思われます。右するも左するも覚悟なくしてありえない時代に直面してきているのです。

一身独立して一国家独立する
 さて、民主主義の建前からすれば、国民のあり方や価値観を政府に強制されることはありません。しかし、事実は逆で、国民は政府が作った仕組みに合せて行動し考えてきたのです。国民が政府に依存しているのではなく、政府が国民を依存させてきたのです。
 とはいっても、「勝って気まま」ということは簡単ではあっても、独立・自立ということは生易しいものではありません。パラサイト・シングルや結婚してもなお親に依存する若者が多いと指摘される今、なお更のことでしょう。
 初めての外国行き。空港の入国手続きで並ぶにあたって、窓口の表示に「市民(シチズン)」と「外国市民(フォーリン・シチズン)」しかなかったのは衝撃的でした。「市民」という言葉のもつ重みが全く異なるのです。都市の構成員である市民の市民権、これが国民の権利義務の根底にあるのでしょう。日本では、学問的な領域以外で、日常的に「市民権」が話題とされることはありません。ここに、一身の独立と地方自治とのかかわりがあります。自立というのは、いうまでもなく単に個人が好きなことをするということではなく、「公」とのかかわりにおいて自らを位置付け、自分自身の生き方と同時に「公」への役割を果たすことであると思います。市民すなわち「都市民」というとき、それは都市の構成員として都市に対する役割と都市の成員としての便宜を享受することを意味します。こうした蓄積の上に国家形成の成員・国民としての権利義務が空気のように理解されているのでしょう。一個人であれ、企業であれ、その土地に所在する上においての都市・自治体の構成員としての自立した「市民」、そして自立した「地方自治」があって、はじめて国家の自立への道筋も見えてくるのではないでしょうか。グローバル化した時代に、地域性を大切にする思考は、現実には容易ではないかもしれません。また、都市も昔のように都市国家的な独立性を、地域性においても機能性においてももっているわけではありません。が、しかし、一身独立し、一都市自治体独立し、そして一国家独立する、その過程こそが日本再生への地道な道筋なのではないでしょうか。
 小泉改革の「三位一体改革」にはそうした道筋はなく、国家や地方の役割の具体的な姿を示さないまま、数字だけのつじつま合せになっていて、つまるところは、地方への財政削減と地方負担の増加に帰着しそうな雲行きです。
 私たちは、事実を知る努力の積み上げを大切にしたいものです。それにはより一層の情報開示が基礎的に必要ですが、情報開示にも限界があり、またそれが必ずしも万能とも言い切れません。その場合に必要なのは、責任を負うものの結果責任を明らかにすることです。為政者の結果責任と情報開示とがあいまって、信頼は初めて生まれることになります。失われた信頼は、政治家をはじめとする社会的リーダー層が、「公」的な高みを備え、かつ情報開示と結果責任を明らかにすることから回復するのではないでしょうか。戦後最大の構造改革は、バブルを通して拡大した退廃的な精神状況を改革することにこそあるのです。私たち一人ひとりの国民は、都市の構成員としての「市民」として、その役割を果たしつつ、こうしたことの見極めをしっかりとしていくことが要求されているとの思いを強くもっています。(了 2003.12.13)
                       

 

 

 



                       以上

 

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