「新世紀 京都市政のために」

  

                                                      新世紀 京都市政のために
                                  −21世紀への指標を求めて
                                著者・発行者  山添 敏文
                                発行 1991年7月1日
                  

新世紀 京都市政のために
21世紀への指標を求めて
 
     ホームページ                                                                    
 

     は じ め に

西暦七九四年、この京都の地に平安京が創建された。今をさる一一九七年前のことである。
 平安建都一二〇〇年を三年後に迎え、さらにまた二一世紀を目前にした今、この長い歴史に培われてきた京都の行く末に対し、強い危惧の念を持って日々を過ごすことに無念の感がないとはいえない。
 京都の危機が叫ばれて既に久しい。その教訓を明治維新の大変革に学ぼうとする指向性も確かに強くある。しかし、現代の京都において、一体何が危機なのであり、またその現象はいずれに起因するのかは必ずしも明確とはいえない。自己にとって都合の悪い傾向をたどることが単に危機であるといわれているのかもしれない。
 お叱りを承知で結論的なものを先にいえば、今日の京都の危機はほかでもなく、京都人自身にこそあるのではないか、さらにいえば、京都各界に君臨されているリーダー層に危機の実相があるように思われてならない。自治行政しかり、経済界・政界しかりである。
 元来都市というものは複雑に利害が絡み合い、ぶつかりあって、そのなかからそれなりの秩序が生れるものであろう。都市リーダーの条件は、その一つの利害を代表するのではなく、異なったすべての利害を代表できうることにある。一見京都全体のあり方を論じているようにみえるなかで、真実京都全体の利害を大切にしようとする意思は必ずしもみられないのである。
 ここでは、その全体を対象とするものではないが、そのもっとも主要なる部分ともいうべき京都市政をその対象として取り上げている。それは、私自身が京都市政に身を置いてきたことにもよるが、主として一九七六年から八八年に至るまでの一二年間、京都市政調査会事務局長として、京都市政を努めて冷静かつ客観的な立場からそれなりに見詰めてきたことによる私自身の記録である。 どの程度のことを記録し、どの程度のことを明らかにし得たかは疑問なしとしないが、私自身のこれまでの市役所生活の一つの締め括りとして、ここにとりまとめてみることにした。
 市政調査会長であった山田浩之京都大学教授をはじめとする市政調査会の先生方、また多くの教示とご協力をいただいてきた京都市役所並びに関係各方面の方々に本書を借りて感謝の意を表したい。

  一九九一年 五月一五日



          目    次

第一部 低迷からの脱却を求めて
 一.京都市政の問題状況
  1.八九年市長選挙から
  2.古都税紛争から
 二.都市京都の命題
  1.京都の都市性格
  2.京都の担い手
 三.京都の新世紀
  1.平安建都一二〇〇年
  2.京都の危機と未来展望

第二部 京都市政の歩み
 一.京都市政の伝統
  1 京都市政の誕生
  2 古都の近代的革新
  3 住民自治の伝統
  4 戦後の京都市政
 二.市長選挙の歩み           
  1.七九年市長選挙と八〇年代前半の京都市政
   (1) 市長選挙の経過
   (2) 市長の政策、公約
   (3) 八十年代展望とその前半の課題
  2.舩橋市政の継承問題と今川市政の課題   
   (1) 今回の市長選挙の特徴
   (2) 市長選挙の経過
   (3) 市長選挙の争点と課題
   (4) 今川市政確立への課題と展望
  3.八五年市長選挙と八〇年代後半の京都市政の課題  
   (1) 今回の市長選挙の特徴
   (2) 市長選挙の若干の経過
   (3) 市長選挙の争点と課題
   (4) 八〇年代後半の課題と二一世展望のために
  4.八九年市長選挙と九〇年代京都市政の課題
   (1) 今回の市長選挙の特徴
   (2) 市長選挙の若干の経過
   (3) 市長選挙の争点と課題

第三部 明日への教訓と指標を求めて
 一.京都市政の課題
  1.革新市政一〇年の歩みと課題
   (1) 革新市政一〇年の問題意識
   (2) 一〇年の歩みをかえりみて
   (3) 当面する地方自治の課題と市政の展望
  2.京都市政をめぐる当面の課題と展望
   (1) はじめに
   (2) 市政の歩みのなかで
   (3) 展望を求めて
   (4) 課題の諸層
  3.京都市の「基本構想」を考えるにあたって
   (1) はじめに
   (2) 基本構想とは
   (3) 他都市の動向
   (4) 京都市の課題として
 二.人事管理
  1.「人としごと」を考える一つの試み
   (1)自治体職員をめぐる問題状況
   (2)人事担当者は考える
   (3)新たな展望を考えるために
  2.任意行政と人材養成
   (1) 任意行政における「人」の重要性
   (2) 任意行政の位置ー固有の行政ー
   (3) 職員の判断基準、発想の形式
   (4) 行政対象と行政
      (5) 専門性と行政判断ー人材の計画的養成、配置をー
  3.今・市役所に要求されるもの
   (1) 市役所を考える
   (2) 期待される市役所の姿勢
   (3) 人事と政策と
 三.空き缶条例問題
  1.若干の意義と前提
  2.経過と問題点
  3.最終答申と今後の課題
 四.伝統文化と都市行政         
  1.京都市の都市特徴
  2.京都市の文化行政
  3.都市問題と伝統文化
  4.都市行政と伝統文化
  5.文化政策を求めて
 五.京都市観光行政の沿革、現状、課題
  1.はじめに
  2.京都と観光
  3.観光行政の歩み
   (1) 観光行政の嚆矢
      建都一二〇〇年記念祭と観光行政\戦前の観光行政
   (2) 戦後の観光行政
      京都国際文化観光都市建設法\文化観光税
      世界文化自由都市宣言
  4.観光行政をめぐる諸問題
   (1) 文化財保護行政の確立と観光行政の位置の変化 
   (2) 観光財と文化財の関係
   (3) 観光と市民生活
  5.課題と展望
   (1) 文化行政か産業行政か
   (2) 広義の観光行政の体系を
               都市づくりの哲学として\企画調整機能
        専門行政官の養成
 六.都市経済政策序論
    はじめに
  1.問題の所在
           地盤沈下の危機意識\都市の行財政と経済 
     京都の可能性、方向性
  2.京都の地盤沈下の現状と要因
   (1) 都市の変貌
   (2) 地盤沈下の要因と意味
  3.都市の行財政と経済
   (1) 都市発展と自治体
   (2) 税財政と都市経済ー都市経営と自治体経営ー
   (3) 都市経済の把握と関与
  4.産地の問題点と課題
   (1) 問題の視点
   (2) 産地とは
               産地問題のきっかけ\伝統産業の定義 
        産地の定義を求めて
   (3) 産地の今日的な意味と課題
               産地拡散がもたらすもの\産地の再評価
        産地再形成の課題
  5.京都の可能性・方向性をめぐって
      京都の都市性格
      明治の近代化策
      せまられる選択
  6.京都市経済行政の歩みと現状
     はじめに
   (1) 戦前の経済行政
   (2) 都市経済行政の形成過程
   (3) 京都市経済行政の現状と課題
  7.京都市経済行政の課題と展望
     はじめに
   (1) 都市経済行政の課題
   (2) 今後のあり方を求めて
 七.古都税紛争
  1.検討素材としての旧文観税
     はじめに
     旧「文化観光」税の概要
     旧税の経過の要点と問題点
     今後の課題との関連において
  2 古都保存協力税構想と京都市財政の課題
     はじめに
   (1) 京都の都市性格と財政事情
   (2) 旧税とその経過(略)
   (3) 古都保存協力税構想
  3.古都保存協力税ーその後の経過と総括への試み
     はじめに
   (1) その後の経過
   (2) 市議選と話し合いへの条件整備
   (3) その他の若干の経過
   (4) 古都保存協力税の終焉
   (5) 古都税総括への若干の提起
 付・京都市政略年表(略)
 あとがき
  成稿一覧



     
     第一部 混迷からの脱却を求めて



      一、京都市政の問題状況

     一 八九年市長選挙から

平成元年八月二七日に行われた市長選挙は、戦後京都市長選挙の中でもとりわけ多くの問題に取り巻かれていた。しかもその問題は、候補者同士対立する要素よりも、共にその解決を掲げなければならないほどに、京都にとってはひとしく深刻な問題であった。少なくとも、保守、革新の立場からの対立点が選挙に当たっては明確であるはずであるが、当初一〇名を越えるのではないかと思われるほど近来になく多くの候補者が出馬したにもかかわらず、対立点は必ずしも明確にはならなかった。その原因となった京都にとっての深刻な問題とは、いうまでもなく京都市政の体質上の問題であった。「市政の刷新」と「開かれた市政」による京都市政の改革は、各候補者が共に主張した点であった。また、当初には市長候補者がなかなか生まれなかったにもかかわらず、ひとたび生まれるやかつてない乱立となったのも、やはり、京都市政の抱える問題が抜き差しならないところにまで至っていたということを示していた。


市政刷新を主張した各候補者  「沈滞した京都市を明るく、活性化させたい」、「市政への不信を解消し、市民に信頼される市役所をつくります」と主張し、当選した田辺朋之候補は、市長就任にあたっても「京都市政の刷新」を繰り返し強調した。
 他の候補者も、木村万平候補は「一刻も早い市政の刷新・浄化」、「清潔な市民本位の民主市政の実現」を、中野進候補は「利権を生む土壌を排除し、密室から開かれた市政へ、停滞から前進の市政へ」を主張、行政出身の城守昌二候補ですら「京都市政を『大改革』して、市民の声と願いが直接に生きる『新しい京都』を創造しよう」と主張している。
 これら候補者の等しく指摘している京都市政の問題点は、沈滞・停滞、密室性・閉鎖性、利権・不正、市民の市政への不信であった。そして、それらの背景もしくは象徴的な原因として「古都税問題」が存在した。

京都開発論争   東京一極集中と円高による金余り現象の余波が、丁度今川市政によるビルの高さ制限の緩和や多くの開発プロジェクト構想の発表にタイミングが重なり、関東方面の不動産資金が一気に流入、京都の地価の高騰と乱開発が急速にすすむが、これに対する市民運動の展開の中で候補者となった木村候補は、当選した田辺候補に三二一票差にまで肉薄した。この京都再開発をめぐる候補者間の対立は、それを見る視点や立場による違いはあるだろうが、保存か開発かという程の極端な対立はなく、開発の程度とその仕方にある程度であった。今川市政下で打ち上げられ、また着手されようとした開発プログラムをそのまま無条件に踏襲するというよりも、各候補とも市民生活により密着したものとして、市民参加のあり方を含めてとらえようとしていた。「二十一世紀の京都づくり」は、各候補者の共通するところではあったが、今川市政下における京都再開発のあり方には、各候補者ともに批判的であったとみることができた。
 田辺候補は、「福祉の先進都市」としての、保存と開発の調和のとれたまちづくりをめざそうとしたし、木村候補は、市民の立場に立った「京都のよさを生かす二十一世紀を展望したまちづくり」を主張、中野候補は「市民参加の町づくり」を、城守候補は「二十一世紀京都一万人委員会」による市民参加のまちづくりの仕組の創出を主張した。

政治の変化    そうした京都市政上の問題とは別に、京都市政を外部的にか、或は基礎的にかとりまく要因として、政治環境の変化があった。
 これは京都にのみ限ったことではないが、およそ大都市においては、かなり早い時期から政党の多党化現象が現われており、自民党ないし保守勢力の圧倒的な支配という意味での安定した政治状況にはなかった。自民、社会、公明、民社、共産の各党は、もちろん勢力の大小はあるにしても、大都市においては、おおざっぱにみて、いずれも五分の一政党であった。加えて京都にあっては、共産党の勢力が大きく、自・共両党が突出してしかも拮抗する状態にあった。かつて、京の「五色豆」と称された京都市政におけるオール与党の体制は、こうした京都の特殊な政治状況の下で生れたものであった。しかし、そうした左右の微妙なパワーバランスの上に築かれていたオール与党体制に変化が生じた。古都税問題をてことした共産党切りである。
 古都税問題が発生した当初は、共産党もまだ与党であった。古都税問題に異議をとなえていたとはいえ、共産党市会議員団は、最初の頃には市政全体の政策のなかのあくまで一つの政策をめぐる意見の違いであって、与党体制の外に出るものではないとの見解をもっていたようであるが、自民党をはじめとする他党から、古都税問題を踏み絵としてかなり強引に与党体制から外されることになった。こうして、共産党は、今川市政に対する野党としての態度を明確にしてきたのではあるが、政治的な勢力関係がオール与党時代と変わったのではなかった。相変らず、自民党単独で市議会を制覇できる状況にはなく、自・共の関係はむしろより拮抗してきた。
 そうした状況の中で、平成元年の参議院選挙をむかえ、全国的に社会党が大躍進する。京都においてより低迷度の高かった社会党ではあったが、ここで勢いを得て、自・共という左右両翼を中心とした京都の政治勢力の中で、社会党が大きく割り込む形が生じることになった。自・共の両極を中心とした構造から、自民・社会・共産の三局構造への可能性をみせたのである。参議院選挙直後の市長選挙で、候補者乱立となったのにはこうした政治的背景があった。
 この京都市政をめぐるオール与党体制、オール与党体制からの共産党の決別、そして社会党の突出に至る政治状況は、京都市政の今日に至る経過に留まらず、今後の動向を読む上にもきわめて重要な基礎的要因となるものである。

     二 古都税紛争から

 古都保存協力税、いわゆる古都税が発想され、打ち出されたのは、昭和五七年(一九八二)の春から夏にかけてである。条例可決が翌年一月、可決された条例に基づき自治大臣への許可申請書を提出したのがその翌年の七月、自治大臣の許可が出たのがさらにその翌年、昭和六〇年の四月、そして条例施行は同年七月。条例可決から許可申請書提出までに一年半もかかっているのが異常なら、実施までに三年の歳月をかけながら、しかも大混乱の実施で、遂に二年後の昭和六二年(一九八七)の九月市会で廃止を議決、実施三年にも満たない段階で、昭和六三年三月三一日限りで古都税は終焉した。まさしく異例づくめであるばかりか異常な展開でさえあった。
 その結果、京都市政は回復不可能なまでの行政不信を受けることになったが、京都仏教会もまた分裂という深手を負うことになった。行政、仏教会共に、通常、市民不在といわれるやりとりを展開するが、仏教会が問われるのはあくまで道義的な世界にとどまり、行政は市民に対する行政責任が具体的に、直ちに問われるのである。

認識不足のまま  税は本来悪ではなく、税なくして行政は成立しない。問題は、税の内容と同時に、行政 に対する信頼関係の有無にある。古都税は、本来的な意味では、あってはならないものでは決してなく、あくまで京都市政における選択の範囲内の問題であった。
 しかし、いかに一般的可能性の問題として、古都税的な税を創設することがあっても構わないとはいっても、現実の問題となるとことは容易ではない。古都税の着手に当たってみられた第一の問題はこの点にあった。
 すでに、先に文観税の経験があり、これが古都税着手を容易にする反面、古都税の実現を阻む結果ともなった。古都税の着手を容易にしたのは、文観税の経験によって古都税の何たるかとそれを創設するための手順などがあらかじめ分かっていたからであったが、同じその経験から古都税実現の困難性を学ぶことに疎い面があったといわざるを得なかった。
 先の文観税の教訓からしても、古都税を実現することは至難の業であることは明らかであり、加えて「この種の税はいかなる名目においても新設または延長しない」という高山市長と寺院側との覚書が存在することから、古都税の具体化は、生半可なやり方で実現できるものではなかった。もっとも、観光寺院の観光客依存体質は、この間の経済の拡大発展の影響も受けて以前とは比較にならないほどの状態となっており、また有名観光寺院の周辺をはじめとする観光地の観光公害もかつての比ではなく、その時点における京都市の財政事情の逼迫もあって、古都税をあらしめるための
客観状態は、ある意味で文観税創設当時よりも存在しているという見方もないわけではなかったが、いずれにしても、過去の経過を背負った問題だけに、ことは容易ではなかったのである。
 これらのことから、古都税を実現しようとするには、それだけの覚悟と備え、手順を必要としたし、また市会をはじめとした市民的共感をも不可欠としていた。市会に関していえば、「覚書」が現実に存在することから、市長サイドからは容易に着手できる状態にはなく、市会サイドからのよほどの盛り上がりが先にあることが必要であったものの、市会の実態は、かつての文観税の時ほどの積極性は見られなかった。
 覚悟や備え、手順に関していえば、当初必要な段階で市長が前面に出ることがなく、市長のリーダーシップ性に疑問があったこと、事前の非公式折衝の段階で一寺院ではあっても実質観光社寺全体の半数程度の集客能力のある清水寺をはずしてしまっていたこと、そのことの関連から、せっかく古文化保存協会という団体がありながら、宗教団体としての仏教会を相手にしなければならない結果となったことなど、いずれも行政サイドの認識不足に起因しているといえるのである。
 しかし、過去の京都市の行政経験からして、市の行政総体の中には文観税の教訓もまだ十分残されていたはずであったにもかかわらず、古都税着手段階における意思決定や執行体制の中にはそれらの経験が生かされることがなかったのである。過去の教訓は、埋れたままになってしまっていたのであり、そうした行政自身の内部にある経験を生かすことのできない京都市行政の現実に大きな問題点が存在したといえるのである。
 
庁内信頼関係の不足  では、なぜせっかく存在する行政自身の経験が京都市の場合には生かすことが できなかったのであろうか。そのことと関連して、市行政内部において、当時どれだけの信頼関係が存在していたのかを疑わしめるような事態がままあったが、その最たるものが、古都税をめぐる市長と助役との間に発生している。西山社長と今川市長との密室のやり取りである。本来市長と助役は一体でなければならず、市長が任命した助役を市長自身が信頼できないというのであれば、市の行政秩序は事実上解体する。しかし、古都税の詰めの段階で、市長は担当助役と相談することなく、裏取引をすすめたのであり、その結果は、行政の筋を踏み外し、その密室での取引は実ることができなかった。このことは、市長の職務権限とは一体何なのか、市長は行政機構に位置づけられた機関として存在するのであって、行政組織の裏付けを持たない、単なる個人としての意思や行為は、行政意思でもなければ行政行為でもないのではないかという問題を提起することになった。
 ところで、市長と助役の間に信頼関係がないということになると、職員と市長、職員と助役との関係にもそれは波及することになり、さらに職員相互の関係にもその状況は及ぶことになる。そこで生じるのは、フォーマルな行政組織よりも、インフォーマルな関係の方に信頼関係は流れることになり、職員の持てる知識や経験がなかなかフオーマルな組織の中に生かされにくくなってくるのである。こうした状況が、古都税の展開を難しくし、そして古都税で発生した問題がさらにまた市行政の問題点を増幅することになったといえるのである。
 
市民不在  古都税は、観光客に対する税であり、税とはいえ必ずしも市民利害と対立するものではない。したがって、税それ自体に対する市民の関心は決して高いものとはいえないが、寺院と京都市の対立というM事件Nに関心を高めたのは当然であった。古都税が、京都市民がそれを必要と判断したのであれば、寺院と京都市長との対立ではなく、京都市民と寺院との関係に発展して然るべきであった。しかし、古都税の着手から展開において多分に官製的な市民運動はあったものの、市民への問題提起も、したがって市民参加の要素もほとんどなかったといってよい。顕在化したのは、密室性と裏取引、寺院側市側の駆け引きであり、双方の眼中に市民はなかったといえよう。
 古都税は、その税の性格からして、京都の都市のあり方にかかわっており、その点に関する市民的共感を背景として提起するときには、自ずから異なった展開が予想されたのである。京都市長は地方権力ではあるが、それは民主的制度の下での権力であり、京都市民の総意を代表するものである。京都仏教会が見落としていた点は、地方自治体のこうした住民自治的側面であったが、京都市自身にもその点に弱点が存在していたのである。市民的背景を持たない地方権力者では、容易に寺院に対抗することはできないのである。
 市民サイドにあっては、古都税に対する反対は多数であったわけではないが、市民不在の密室性とその無様なすすめ方に愛想を尽かすことになり、古都税紛争の余波を受けて市政全体が停滞するに及んでは厳しい批判が向けられることになったのである。

 

      二、都市・京都の命題

     一 京都の都市性格

 なぜこれ程までの事態を生じさせたのであろうか。京都市政のどこにどのような問題があるのであろうか。こうしたことは、もちろんのこと、京都市政の流れの中で考えなければならないが、これ程までに深刻化した背景には、ひとり京都市政にとどまらない、京都市民を含む京都市全体の問題が存在していたといわなければならない。なんとなれば、京都市政は、京都市民を映す鏡でもあるからである。
 京都市民や京都の経済界や労働界、各種市民団体は正常で、ひとり京都市政のみが不正常であるということは、ことの常識からは考えることはできない。京都市政のみが不正常なのであれば、自ずと正常に復さしめるための復元機能が働くはずである。こうしたことから、京都市政の問題を少しマクロの京都全体の中で考えてみたいと思う。それにはまず、都市・京都の特殊性からみていく必要がある。それは、京都市政の停滞は、京都の停滞と決して無関係ではないと考えられるからである。

歴史的大都市  京都の都市特徴の第一は、いうまでもなく歴史都市であるということ。と同時に現代における大都市であるということである。
 通常、歴史都市といえば、過去の古い時代の建造物や町並が存続している昔栄えた都市といった程度のことをイメージする。古都といった場合がそうである。しかし、「歴史」という意味は、ある時代が固定化するのではなく、変化発展し続けることをいう。歴史は単なる過去ではなく、未来につながる、未来に開かれた過去である。京都が歴史都市であるというとき、それは、単に過去の或る時代に栄えたというだけではなくして、現代に至るも発展し続けていることをいう。しかも現代においても、現代的な都市機能を備えた大都市として生き続けているのである。ここに、都市・京都の基本的な命題が存在する。
 かつて都市も、他の歴史事象と同じように、誕生し、成長・発展し、そして歴史的役割を終えて荒廃・衰退した。京都のように、古代から現代に至るまで、時代の変化にも途切れることなく一貫して国の中心地として栄えてきた都市は、世界史的にも稀有の例といわれている。とはいえ、同一平面において時代を越えて存続することは容易なことではなく、結果的には戦乱などによる幾度かのスクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきた。すなわち再生を繰り返してきたのである。
 しかし、現代の大都市として、二一世紀に向かう都市再生をはかるにしても、過去の応仁の乱や明治維新の戦乱後のようにスクラップ・アンド・ビルドを行うことは今日ではできない。埋蔵遺跡や社寺などの伝統的建造物、町並など、文化財都市といっても過言でない歴史的諸資財を破壊することなく、それらを生かしつつ都市の再生をはかることは、まさしく未来への歴史的実験であるともいえよう。とはいえ、これには大変な英知と労力と、そして財源がいる。安易な開発が許されないだけに、結局は現状をいかに維持するかの停滞に陥る可能性もまた高いのである。

保存と開発  保存と開発の二律背反は、その意味では京都の宿命ではある。文化財という形や物を重視する場合には、いきおい開発を抑制した保存に傾斜するし、歴史と伝統を精神として受け止める場合には、常に新しい時代への適応が重視され、形や物の変化にはこだわらないことになる。保存は善で、開発は悪という単純な発想では現代の都市は維持することはできない。
都市・京都の将来的な選択の問題として捉えなければならない。開発による、超現代的な都市になる道を京都市民が選択したとしても、それは道徳的に非難されるべき性格のものではない。また、ナショナルなレベルから京都の保存策が講じられようとするならば、それはそれとして、京都の将来にとっての新たな選択条件が加わったことになるのである。
 京都の保存と開発は、単に文化遺産の面からのみで考えられるべきものではない。産業活動や市民生活のうえからも考えられる必要がある。そのうえで、近畿圏や日本的な広がりの中で、京都の位置を考えなければならないが、その場合、都市の規模や大阪などとの距離の取り方は重要である。
すでに、一五〇万都市となっている京都をさらに拡大さすのか。規模のいたずらなる追及はもはややめ、経済的には活性化しなくとも、静かなたたずまいの都市として生きていこうとするのか、そろそろ選択をするべき段階にきていると思われる。保存開発の問題は、そうした京都の将来にかかるマクロ判断の中で対応していくべき性格のものであると考えられるのである。

中央性と地方性  過去の京都にあこがれ、現在の京都の地盤沈下を嘆くとき、我々には、時代の違いと  いうものを忘れている場合が多い。いかに天皇が政治の実権を持っていなかったとはいえ、平安京以来明治に至るまでの一一〇〇年近くの間、一貫して都であり、日本の中央であり続けてきた。その意味では、京都が都でなくなり、天皇制が形式化した戦後において、京都の地盤沈下が進行するのはむしろ当然のことであり、都であった時代との落差を嘆くのは、時代錯誤であるとともに、傲慢ですらある。戦後の民主国家の中で、はやく一ローカル都市としての自覚に目覚めなければ、自意識過剰症が昂じたまま、都市再生の活力は永遠に生れないことになる。
 とはいえ、現在の京都にも、全国的な広がりを持つ、さらには国際的な広がりを持つという意味での中央性を有するものも少なくはない。現代的な意味での中央性とは、あくまで政治権力とは別の次元における全国的なネットの中核に存在するということである。それは、伝統的な文化の分野に、宗教の世界に、伝統産業の分野に、一部特化した近代産業の分野に、学術の分野等々にある。
 都市としてのローカル性の自覚のうえに、全国を、さらには世界を市場とした独自性の高い文化、産業の発展は、これからの京都にとってもっとも強く要請されることであろう。ただ、日本文化の担い手としての京都は、それに対する積極的な国策なくしては、ひとり京都人の自負のみで果たしうるものでないのは明らかであり、この点に関する、国家レベルとともに京都人自身の認識も必要となる。

地域社会  京都が都であったということと表裏の関係で、京都を京都たらしめてきた要素に、今日の表現でいうところの住民自治がある。甚だしくは「町衆選挙」とまで使われた「町衆」は、我が国における住民自治の源流である。その強固な地域社会としての絆は、今日でもその姿を変えて学区自治連合会として生き続けている。ただ、町内会を基礎としたこの地域社会は、挙国一致の戦時軍国主義体制の反省から、行政的には積極的に捉えられたものとは成っていないところに今後の課題が存在する。
 この京都の地域社会は、古くからの住民自治の伝統を受け継ぐものであるとはいえ、その反面において、閉鎖性や地域エゴの砦ともなり、現代社会を積極的に築いていくには問題なしとはしない面もないわけではない。その住民自治の伝統を生かしつつ、開かれた近代的な地域社会にどう育てていくかが、明日への京都づくりの基礎となるものと考えられるのである。
     
     二 京都の担い手

国と地元と  京都の担い手が、第一義的には京都市民であることに違いはない。しかし、過去の京都が 権力者の保護の下にあり、また、よく指摘のある明治の近代化事業にしても国家レベルの助成策があったが故に成功してきたことも見過ごすことのできない点である。
 この京都を、日本の歴史的文化遺産を現在に残し、しかもそれをナショナルな視点から未来に伝えようとする日本人の京都として捉えるならば、京都はひとり京都人のみの京都ではなくなる。京都の保存策は、その膨大な財源を要することからしても、国家的事業として、また国民的事業として対応する必要が生じるし、また、そのことから、京都の保存策に対する国民的な参加も必要となる。
 住民自治の視点からすれば、この京都を、京都人が、自らの責任と判断によっていかようにしようとも、京都以外の人々からとかくにいわれることはない。しかし、日本の京都として、京都人であると同時に日本人としてこの京都を考える場合、京都を全国に開くとともに、世界にも開いていく構えが必要であろう。京都は、京都人だけでは自由に処分することはできないのである。
 しかしこれには、国家的、国民的な共感が必要である。国家的にも、国民的にも、京都の保存に重要性を感じていないのであれば、多額の財源と、都市生活の不便や経済活動の不自由性を覚悟してまで、京都の保存策を講じる必要はない。京都は、京都人が自由にそのあり方を決めればよいのである。
 京都以外の人で京都の保存を要求する人は多い。しかし、京都の保存にあたって、京都がいかに苦労し、苦しんでいるかを知っている人はほとんどいないように思われる。経済力の弱い、すでに過去のような国家権力の保護の下にない京都が、いわば身に余る、能力を超えた遺産を維持することに絶え切れないでいる現状を京都人自身が自覚し、その具体的状況を政府に、そして全国民に訴えていくことが、まず最初に必要となってくる。京都のあり方は、そうした作業のうえで、京都の内部のみではなく、広く京都以外の人々にも門戸を開いたなかで、ともに協議していかなければならないし、京都以外の人々からの物心両面にわたる援助と参加が必要なのである。

自前意識を  京都の保存策にはナショナルなレベルからの援助と参加が必要だとはいえ、京都自身の中には自立意識がなければ都市は成り立たない。平安時代の政治都市としての都が、町衆による住民の自治都市としての基盤を築いたように、自らの都市を、自らの知恵と努力によって発展させる気概がなければ、現代に生き続ける都市は維持できない。
 都市は、第一義的にはそこに住む人の町である。そこに住む人が、自らの責任と努力によってはじめて都市は成立する。その基盤のうえに、ナショナルなレベルからの支援策もまた実効性をもってくるのである。
 しかし、長年国家権力の保護の下で他の都市には見られない優遇策を当然のこととして受けてきた京都人に、自己責任性がどれだけ強固であるかは、現実には心許無いといえよう。明治の近代化にあたっては、京都の経済人は大いに活躍した。しかし、今日の京都の経済人が、京都の活性化のためにどれだけ貢献しているかは甚だ疑問である。京都には財界は存在しないといわれる場合もある。明治の京都経済人と現在の京都経済人との違いは、現在の京都経済人は、自己の企業活動には当然熱心であり、全国的にも注目される企業も多いが、企業の直接的利益を離れた京都全体の活動には、また社会への貢献活動には熱心でないことである。京都全体にかかわることに対しては、自ら事業を行うというよりも、要求団体の一つになってしまっている場合が多い。経済界に資金が依存できなければ、京都のまちづくりが困難なのは当然のことである。
 行政と市民との関係において、市民の行政に対する依存の度合いが高いのも京都の特性かも分からない。得てして行政は、市民の行政依存体質を醸成させる傾向があり、市民もまた行政に対しては要求活動が主たるものとなりやすい。しかし、住民自治の伝統は、自らの地域は自らが律してきたことから、今日なおその伝統を継承している地域組織もあり、今後においては、行政は自立的な住民の自治組織の形成にこころがけ、住民はまた自らの果すべき役割を考えることが要請されることになる。行政を、政治的対立の駆引の場として利用するのではなく、京都市民全体の利害を現わす場として捉え直すこともまた必要となってこよう。
 かつての京都には、政治的な意味ではない革新性があったが、現在の京都はむしろ保守性が強いようである。それは、当面の狭い自己の利益の擁護にとらわれ過ぎるところに起因するところが多いのであり、経済界、市民各層、政治家、行政それぞれに、自らの立場から来る役割を自覚し、個々の利害を超えて、京都全体の明日への可能性に向かって大胆に挑戦することこそが必要なのである。

      三、京都の新世紀

     一 平安建都一二〇〇年

一〇〇年の周期  日本の都市の歴史は、そう古いものではない。東京でも江戸開府後まだ四〇〇年、大阪にしても同様である。他の多くの都市は、近世にはじまるものよりもむしろ近代ないし、戦後にはじまるもののほうが多い。明治二二年(一八八九)に西欧の近代的な地方自治制度が導入されて、市制制度がはじまるが、以来一〇〇年を経て、平成元年(一九八九)四月に全国的に市制一〇〇周年が祝われた。しかし、全国六五五都市中市制一〇〇周年を迎えた都市は、わずか三九都市に過ぎない。しかも、京都市以外の多くの大都市は、ほとんどが第二次世界大戦で被災している。こうみてくると、大都市として一二〇〇年の歴史をもち、しかも第二次世界大戦の被災からもまぬがれた京都の価値の高さがいか程のものかが分かるのである。
 こうした千年の歴史のゆえに、一〇年ではなく、一〇〇年サイクルの歴史の刻みもまた可能となる。そして、その一〇〇年毎に都市の見直しを行い、来たるべき次の一〇〇年に備える、こうした明日に向かう絶えざる都市の再生が、これから二一世紀にかけての京都の基本的な歩みとなってくる。一〇〇年をサイクルとした都市の見直しと新たなる再生への作業は、歴史都市が、未来に向かってさらなる発展を続けようとする限り、決しておろそかにはできないものである。
 すでに間近に迫った平成六年(一九九四)の平安建都一二〇〇年は、他の都市ではまねることのできないビッグな歴史的周年記念の年である。京都近代化のエポックを築いた一〇〇年前の遷都一一〇〇年記念事業を歴史的教訓として、二一世紀を目前にした京都の未来づくりが期待されているのである。

京都の再生策  平安建都一二〇〇年をビッグな歴史的周年として捉えれば、次にはその内容が問題と
な る。一二〇〇年に及ぶ都市・京都の次ぎなる一〇〇年に要求されてくるものは何か。これに応えるのでなければ、五年、一〇年サイクルによる通常の事業計画と何ら変わるところはない。一〇〇年に一度の都市のオーバーホールを行い、しかも次ぎなる一〇〇年に生き続け、発展するための基礎条件の確立が必要となる。
 そのためには、現在の都市・京都の問題状況と課題を徹底的に洗い出すと同時に、来たるべき未来への命題もまた徹底して議論するべきであろう。よく指摘のあるように、未来の萌芽は、すでに現在の問題状況の中に隠されており、その検索は、徹底した議論の中からこそ可能となってくるものであるからである。
 千年の都であった京都が都でなくなったとき、地盤沈下の道を歩むことになるのは至極当然の帰結である。しかし、大きくは明治の近代化策によって、そしてまた戦後の伝統産業や地場産業の振興発展によって、むしろさらなる発展を遂げてきたのであり、地盤沈下は当初は相対的な形で現われ、かなり目立ってきたのはそう古いことではない。これまでのところ、京都の地盤沈下はむしろ緩やかであったとさえいえよう。その原因は、京都は古都とはいえ、単に過去に都であったところとしてのみではなく、地域社会に溶け込んだ産業都市であったからである。巨大産業こそないとはいえ、いやむしろ、単一の巨大産業都市でないがゆえの強みをこれまではもっていたのである。
 しかし、ここ十数年来の変化は、そうした過去の緩やかな地盤沈下を一変させるような事態を生んできた。工場や大学は市域外へ流出し、都心部の空洞化は他の大都市並に進行した。地域社会に集中・集積し、高度に分業を遂げてきた伝統産業も、分散し、その産地としての実態が急速に失われつつある。それでもなお、京都の根強さにはまだまだ自信があるようにも見られてきたが、この数年の開発の波と地価高騰によって、京都の様相はまさに一変した。町並は破壊され、歴史遺産は危機に瀕し、住むに難しく、工場立地は極度に困難になった。古都は古都でなくなり、他方では大都市としての活力も低下する、京都の危機が生じたのである。下手をすれば、守るべき現状すらもなくなるおそれが生じてきたのである。今や京都の現状は、保存か開発かの選択ではなく、都市としていかに生き続けるのかの積極的対策のみが必要なのであり、そのうえでの進むべき方向性の議論が要求されるのである。
 その意味では、建都一二〇〇年は、二一世紀に臨む京都の再生策をいかに確立するかを問うものであるといえよう。

建都一二〇〇年記念事業  平安建都一二〇〇年記念事業は、すでに京都市、府、京都商工会議所の三
者が主軸となって協会を結成してとりくんでいる。その実態は、はたして京都再生の夢を託すことが可能な状況にあるのであろうか。ここでその概略を紹介することにしたい。
   市、府、会議所により平安建都一二〇〇年記念事業推進協議会が設立され、その取組が開始されたのは昭和五八年(一九八三)二月七日であり、約二年半の時間をかけて記念事業の「基本理念」「基本構想」及び「推進機関」のあり方を検討し、その成案を得て、昭和六〇年(一九八五)七月二二日、記念事業の推進機関として財団法人平安建都一二〇〇年記念協会が設立された。事務局は京都商工会議所内に設置されている。当初の会長には桑原武夫京都大学名誉教授が就任したが、同氏が亡くなったため、現在はノーベル化学賞受賞者の福井謙一基礎化学研究所長が就任している。 基本理念では、「京都は、いま重大な岐路に立たされ、新しい選択を迫られている、世界に誇りうる歴史と伝統の都市を、どう蘇らせるか、どう発展させるかについてである。」との書き出しで、一〇〇年前の「二〇世紀京都のスプリング・ボードとなった」遷都一一〇〇年を振り返り、「この一二〇〇年記念事業は誕生の周期を祝う単なる祭り事に流れるものであってはならない。現代京都の危機的状況をしっかりと見据え、その脱皮と創造的再生を図り、生き生きとした活力ある京都の二一世紀への出発点としなければならない」、「平安建都一二〇〇年記念事業は、二一世紀京都への飛躍台である。必ずや古都は未来の新しい世界に向かって飛翔するであろう。」と格調高く、高らかにその理念を歌いあげている。

五つのテーマと主な事業  基本構想では、「今、われわれが平安建都一二〇〇年記念事業を行うに当
たって希求するのは、京都がこれまでに培ってきた文化・学術・産業の成果を守り、人権の保障と福祉の向上を目指しながら、常に新しく、若さにあふれ、活力に満ち、内外に開かれた、情報化社会にふさわしい創造的、文化的都市を築き上げることである。同時にそのことは、京都の再生が、狭い京都意識にとらわれることなく、関西の復権、ひいては全国、全世界への役割を広く視野に入れたものでなければならない」として、五つの基本テーマを設定するとともに、建都一二〇〇年にあたる平成六年の前後一〇年間にわたる主な事業として、・記念事業、・関連事業・特別記念事業を例示している。
 <五つの基本テーマ>
一、新しいまちづくり−新世紀にむけてのまち−
 1.二一世紀タウンの建設
 2.市街地の再生と整備
 3.文化・学術・研究都市の建設整備
二、交通・情報通信網の整備−機能的で安全なまち−
 1.広域幹線道路網等の整備
 2.高速道路・市街地交通網等の整備
 3.情報通信機能の充実
三、産業の振興−情報化時代の活力を生みだすまち−
 1.先端技術の振興
 2.地場産業の振興
 3.国際化への指向
四、生活環境と地域社会の整備−自然と社会環境に恵まれた快適なまち−
 1.美しい都市環境の創造
 2.都市基幹施設等の充実
 3.明るい地域社会の確立
五、文化の継承・発展−文化の創造をになうまち−
 1.文化学術機能の高度化
 2.伝統文化の保存と継承
 3.国際交流の推進

 <主な事業(例示)>
◇記念事業                         *( )内は、事業主体
・二一世紀洛南新都市の建設(京都市)−サイエンスタウンとしては既に挫折
・岡崎公園の文化的再整備(京都市)
・市民劇場の建設(京都市)−府立大学農場跡に音楽専用ホールとして平成四年に着工予定
・京都文化博物館の建設(京都府)−昭和六三・一〇オープン
・国際交流センター(京都市)−平成元・九オープン
・京都経済センター(京都商工会議所)
◇関連事業
・伝統行事・伝統芸能・文化財の保存・育成の強化
・文化・学術・研究都市の建設推進−進行中
・京都駅の改築と京都駅・二条駅周辺の再開発
・世界人権問題研究センターの設立(協会)
・総合見本市会館の建設(京都府)−昭和六二・四パルスプラザ オープン
・日本文化研究所の創設(国立を誘致)−昭和六二・五国立国際日本文化研究センター発足
◇特別記念事業(協会)
・記念式典の開催
・博覧会の開催
・フェスティバル・カーニバル・シンポジウム等の開催

  こうして具体的な記念事業をみてみると、もともと建都一二〇〇年のあるなしに関わらず企画されてきた事業も多く、こうした時期に行われる主要な事業を記念事業としてまとめあげている面も否定できない。加えて、既に建設済の施設も多く、半ば挫折した事業も除くと、後三年後となった現在未着手の残されている事業は、特別記念事業としての博覧会などを除けば、岡崎公園の文化的再整備、京都経済センター、世界人権問題研究センターの三つである。この内京都経済センターは経済界だけのものであり、岡崎公園は遷都一一〇〇年で建設されたものの再整備に過ぎず、こうしてみてくると、つまるところ世界人権問題研究センターのみとなってくる。もっとも、京都駅、二条駅等駅前再開発は、未だ軌道に乗ったとはいえず、この事業のあり方は、将来の京都にとっての重要な岐路ともなり得るものであろう。
  いずれにしても、夢を語るにはいささかの寂しさを禁じ得ない平安建都一二〇〇年になりつつあるといえるのである。それだけに、残された世界人権問題研究センターの建設は、二一世紀がまさに地球的規模における、ようやくにして人類全体が到達する人権の確立した世紀となりうることが考えられつつある中でもあり、世界的な貢献をも可能とするようなスケールの大きな構想でその実現を図るべきであろう。

市民の建都一二〇〇年  平安建都一二〇〇年には、考えなければならない問題や、選択を迫られて     いる問題が多いが、中でも、その主体と位置付けと方向性についてはもっとも基本的な点である。
  明治二八年(一八八五)一〇月二二日、平安遷都一一〇〇年祭記念式典が執行された。もともと前年に執行されるはずであったが、日清戦争の影響で一一〇一年目に執行されたのである。そのときは「遷都」であったが、一二〇〇年目の今回は「建都」である。この遷都と建都のわずかな違いが、実は時代の大きな違いを表わしている。
  遷都は、あくまで天皇の統治の場である都(みやこ)が移ることである。そして、京都を都としてとらえた場合、明治以降京都は既に都ではなくなっていて、かつて都であったことを懐かしむ記念の年ということになる。これに対して、建都は、京都を都市としてとらえ、平安京として建設されて以来今日に至るまで、都市としての性格に変遷はあるものの、一貫して日本の中心的な大都市として存続・発展してきたし、将来もまた発展していくものとして考えている。すなわち、都市をそこに住む都市民の立場からとらえられたのが、平安建都一二〇〇年であるといえるのである。
  いわんや明治の遷都一一〇〇年でさえ、その実質においては、京都市民の京都再生化策であったことからすれば、二一世紀を目前にした現代の建都一二〇〇年は、まさしく市民の建都一二〇〇年でなければならない。京都が、過去千年の都であり、今においてもナショナルなレベルと深くかかわる位置にあるとはいえ、都市・京都の主体は京都市民であり、建都一二〇〇年が都市としての歴史的周年行事であるかぎり、京都市民を記念事業の推進主体として明確にし、そのうえで、ナショナルなレベルへの展開も考えればよい。
  建都一二〇〇年を市民を主体に考えるとき、今日までの事業の企画やすすめ方に、どれだけ市民の参加があったのか、市民の建都一二〇〇年に本当になりうるのであろうか、市民の建都一二〇〇年といった場合、どのような内実が要求されるのであろうか、こういった点を残された三年を前に再検討することが緊急の課題となってくるのである。今なら未だ間に合うかもしれないからである。

     二 京都の危機と未来展望

京都の危機とは  二一世紀を前にして、都市・京都が危機にあるのは確かである。緩やかな地盤沈下
傾向の中で、徐々に時代への適応性を弱め、さりとて、古都として生き残ろうとするのでもない。長期低落傾向という停滞性を示しつつも、今期の地価高騰のような時代の激変には全く無力に翻弄される。こうした京都の危機的な状況は、具体的に指摘しようとすればいくらでもできる。そうした中で、最大の危機は一体何かといえば、それは京都におけるをリーダーの不在であるといわなければならない。本当の危機は、都市にではなく、人にあるのである。
  既にそれなりにふれてきているように、狭い自己の利害を超えた全京都的な立場に立ったリーダーが、各界にどれだけ存在しているのか。目先の利害を超えて、京都百年の利害のために献身しようとするリーダーがどれだけ存在しているのか。とくに、政界、行政、経済界を見るときにその感を強く懐かざるをえない。
  政治は目先の利害を誘導し、地域利害に縛られ、行政は明日への展望を見失い、経済界は自己の利益のみを追求する。こうした状況の延長線上には、意味のある建都一二〇〇年はないし、また京都の将来展望もない。
  本当に京都の都市の現状が危機であるのなら、すべからく、一旦は自己の利害を捨てる覚悟で、全京都的利害に立たなければならない。このことが出来るかどうかが、京都の明日を救うことができるか否かのもっとも基礎的な条件であるといえよう。その基礎的な人的要件さえ整うならば、京都の将来展望のデッサンは、極めて多様に描けるはずである。
  このように京都の危機の根底は、人的危機にあると認識し、その克服によって開くべき新世紀・京都の柱ともなるべき五つの要件を指摘しておこう。

水と空と緑と  大気の汚れが都市発展の姿を示したというのは、すでに前世紀のことである。都市が人     間の集住するところであるかぎり、そこにはきれいな水と、きれいな空気、それに豊かな緑が必要である。その日その日を何とか生存していく時代を超えて、人間として健康的な生活を得るための第一の条件が、この水と空気と緑である。これは、人間である前に、まず生物としての存在であることを忘れてはならないことを意味する。
  これまでの都市は、水も空気も汚れ、緑は枯渇していた。しかし、その汚れが極度に進行した今、
都心部からの人口流出はさらに拍車をかけられることになる。健康を害してまで、都市に住み続けることはできないのである。水と自然に恵まれてきた京都ではあるが、これを将来ともに維持していくのは並大抵ではない。水は琵琶湖に頼り、田畑の潰廃から今や山地の破壊すらが進行している。
とりわけ大気の汚染は激しく、盆地構造のゆえに、車社会の悪影響を最大限に受けている。いかに住居や都市としての利便を工夫しても、夜間空気の汚れたところで住まうことはいずれ避けられざるをえなくなるであろう。
 新世紀の京都は、何にもまして、まず生命体としての人間が、健康的な自然条件にめぐまれるものであってほしいのである。

都市の利便と公共性  新世紀の京都は、快適な都市生活をおくれるものでなければらない。京都市民
にも、京都への訪問者にも快適性が享受されされる必要があろう。
  この快適な都市生活の中心は、交通手段を含む都市の利便性であるといえる。しかしこれまでの都市の利便性は、マイカーを中心とした個々人の勝手な利便性に過ぎなかったが、それが全体としての不便性をもたらせ、さらには快適性をも失わせることになった。
 こうしたことから、これからの都市の利便性は、同時に公共性を考えなければならない。全体としての都市の利便性を図るために、まず都市はみんなのものとの考えを確立する必要がある。そのもっとも核となるのが、公共交通を中心とした交通体系の大胆な再編成である。公共交通以外の交通手段の規制を大胆に行うことがその成否の要となる。

文化と産業  都市が都市として存続するには、産業的基盤を不可欠とするのはいうまでもない。これま
で京都は、大都市でありながらも、第一次産業から第三次産業までの存在状況に比較的バランスがとれていて、経済の高度成長にはそう乗れないにしても、不況に対して根強い産業構造を持っていたといわれてきた。
  しかし、今日では農地は宅地化し、製造業は市域外へ流出し、地域の中で大規模な同業者町を形成してきた西陣織や友禅、清水焼など伝統的な産業の衰退も甚だしく、都市の産業的基礎条件が急速に弱体化してきている。そうした中で、職住混合による独特の地域社会を形成してきた京都の特性を生かしつつ、京都の歴史的伝統文化を継承することの可能な文化的産業の新たなる集積を図っていくことが、京都の将来性を築く基礎となるものと考えられる。
  それには、有形無形を問わず、過去の歴史的文化遺産の一切を集約し、活用することを可能とするだけの、スケールの大きな歴史的文化事業の永続的な推進が必要となってくる。京都の歴史的文化遺産を、いかに未来のために発掘、集約し、そして提供していくかこそが、二一世紀京都に要求される最大の課題であり、京都の産業は、それとのかかわりの中でこそ個性あるものとして独自の存立をしていくのではないだろうか。

開かれた自治都市  町衆に代表される京都の伝統的な住民自治組織は、元学区の形で、町内会の形で、また各種の住民組織の形で存続している。しかし、そうした京都の伝統的な地域住民組織は、反面において排他的な側面を持っていることも否定できないところである。
  都市は、第一義的にはその都市民のためにあることに違いはない。しかし、これからの都市は、他の都市民のためにも開かれたものでなければ都市としての存立が困難となる。京都の伝統的な住民自治組織が、個々の地域利害を超えて横のつながりを持ち、京都全体の共通の利害を自覚し、さらにそのうえに立って全国に、また世界に開かれた新しい自治都市として成長していくことこそが、新世紀京都を切り開く原動力になるものと考えられるのである。




     第二部 京都市政の歩み



      一、京都市政の伝統

     一 京都市政の誕生

京都市制前史  京都市政を、京都における都市行政として捉える場合、それは遠く平安時代にまでさ
かのぼらなければならない。京都に都市が誕生したのは、七九四年の平安京造営によるからである。もちろんそのときの都市行政は、中央政府たる朝廷がおかれた首都として中央政府の直轄によるものであった。
  しかし、他方で、都市行政の基盤ともいうべき住民自治の側面も、商工業者の定住がすすむにつれて平安時代の後期には芽生えはじめ、鎌倉、室町期を通して強固なものに成長し、自衛体制をも備えた自治都市を形成するに至る。
  近世になると、徳川幕府の統治体制が強固に確立し、幕府の直轄地として安定的に統治されることになり、自衛力や裁判権は持たなくなったものの、住民自治行政そのものは、定着することになる。
  明治維新とともに、幕府の統治下から放たれ、明治政府のもとで、東京、大阪とともに3府として、政府の直轄下におかれ、徐々に近代的な中央集権体制のもとでの都市行政組織として整備されることになる。その間、中世から、近世を通して定着してきた住民自治行政も、再三の改編の後、市制制度の施行とともに、その行政的側面を全面的に市制制度に吸収され、一時は、住民自治組織それ自体も解体することになった。
  ともあれ、近代的な行政システムとしての、京都における都市行政は、多くの教訓を生みながら、明治二二年(一八八九)の市制施行によってスタートした。
 
京都府の誕生  近代的な行政システムとしての京都市が誕生する前に、京都府と、また区役所が誕生
した。
  明治維新により、それまでの徳川幕府により設置されていた京都町奉行所、京都所司代、京都守護職等の京都に対する統治・行政にかかる諸機関は廃止され、代って明治新政府による京都市中取締役所が慶応三年(一八六七)一二月一三日に設置されたが、これがよく慶応四年(一八六八)三月三日に京都裁判所と改称されたうえ、さらに同年閏四月二九日京都府と改称され、現在これをもって京都府の立庁としている。
  初代府知事は長谷信篤、二代目は槇村正直、三代目は北垣国道で、初代及び二代目の長谷、槇村両知事は、維新後の荒廃した京都復興のための勧業策に努め、長谷知事は、今日の京都の中心的な繁華街である新京極を開設している。また、三代目の北垣知事は、琵琶湖疏水事業の着手で広く知られているところである。
  府庁舎は、最初二条城南の旧東町奉行所跡に置かれたが、明治二年(一八六九)一〇月一一日に元京都守護職上屋敷の旧軍務官局跡、すなわち現在地に移り、その後一時期二条城内に移転したが、明治一八年(一八八五)六月五日現在に戻ってからは、今日に至るまで同地に所在している。
  この京都府の行政組織の中に、京都市中を管轄する市政局がおかれ、京都市制が誕生するまでの間の京都市政を預かってきたのであった。
  また京都府会が誕生したのは、明治一二年(一八七九)三月二四日であった。府会の議場も、その誕生当初は一定せず、明治三七年(一九〇四)に府庁舎が新築されてから現在地に落ち着くことになった。
 
区制の誕生  京都市制が誕生するより前に、上京区と下京区は誕生した。市役所よりも区役所の誕生
が先であった。
  明治一二年三月一四日「区制」が実施され、京都市中に上京、下京の二区が、翌月には伏見区が誕生したが(ただし、伏見区は二年でもって途絶)、これは前年一一月に制定された郡区町村編成法に基づいて国の行政区画として設置されたものである。同法では、「地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス」とし、「三府五港其他人民輻湊ノ地」に「区」が適用された。市制の前身というべきものであろう。
  区役所が新築されたのは、下京区役所が、明治一五年(一八八二)六月二八日五条柳馬場塩竃町に、上京区役所は、翌年六月二六日中立売西洞院三丁町においてであった。
  区には区会が設けられ、明治一三年(一八八〇)には、上下京連合区会が誕生し、市会の前史を彩った。琵琶湖疏水事業を推進したのも、この連合区会であった。
 
市役所のない京都市の誕生  近代的な地方自治制度としての京都市は、明治二二年(一八八九)四月一日に誕生した。その前年四月二五日、市町村制(法律)が公布され、翌二二年二月二日、内務省令で東京、大阪など三五か所とともに市制施行地として指定され、二月二五日府令第二五号でもって施行が定められたものであった。京都市それ自体は、このように誕生したものの、この段階では、まだ実態的には京都府の直轄下におかれていて、市役所がないばかりか、京都市固有の市長もなかったのである。
   それは、市制が施行される直前の三月二三日になって、いわゆる「市制特例」(市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件」)が制定されたことによる。市制施行と同時に施行された同法は、東京、京都、大阪の三都は、政府として極めて重要な都市であることから、政府の直接統治下におくことを目的として、この三都には、その都市固有の市長と行政組織をおかず、府知事が市長の職務を行うほか、行政組織も府が代行することと定めていた。この時期を含めて、戦前の府県は、今日のような地方自治体ではなく、国の地方行政機関であったのであり、府知事が京都市政を預かるということは、国が直接京都市政を運営するということであった。
  京都市政の誕生を期待していた京都市民は、これでは「独立自治」が存在しないということで極めて落胆し、以後市制特例の撤廃による「独立自治」実現の運動を果敢に進めることになる。
  ただ、独自の市長がなく、市の行政組織もなく、従って市庁舎もないとはいっても、市には合議制執行機関としての参事会が設けられ、知事が市長の職務を行うとはいっても、今日のように市長一人に執行権があるのではなく、行政の執行権は参事会全体にあり、市長はその議長として代表したのに過ぎなかった。そのため、市長と助役が知事と府の書記官である中では、有力市会議員を中心とした九名の参事会員が(参事会は、市長、助役及び九名の名誉職参事会員によって構成)、実際的な政策決定を行いかつそれを執行していたともいえ、その実態において、京都市政の自律性が全く形骸化していたわけでもなかったのである。また、市制の施行と同時に、市会は開設されることになり、同年四月に初の市会議員選挙が執行され、六月一四日、寺町四条下るの大雲院において第一回の市会が開催され、以後市会は活発な活動によって京都市政の運営を支えていくことになる。

市長の誕生と自治記念日  京都市が、この市制特例のもとにあった期間は、明治二二年から三一年(    一八九八)までの九年間であったが、この期間は、近代都市京都の建設を開始した画期的な時期でもあった。後述するように、明治一八年(一八八五)に着手された琵琶湖疏水工事は、明治二三年(一八九〇)四月に完工しており、その翌年にはその水力、運河の使用が開始されるとともに、蹴上発電所の送電も開始され、二八年(一八九七)には、平安遷都一一〇〇年記念事業が執行されるなど、都市発展へのエネルギーが京都市の都市史のうえでももっとも発揮された時期であった。
  市長も市役所も、市の行政機構もない状態ではあったが、参事会と市会とがそれを補ってあまりある活動を展開し、地方自治の実態を形成していたといえ、そのことが、市制特例下にありながら京都市の近代的発展を築かしめたものといえよう。このように、自治の実態を持ったエネルギーに満ちあふれていただけに、なおさらのこと、自らの市長を持ち、自らの市政運営を行いたいという「独立自治」への願いは強く、東京、大阪とも提携した幾年にも及ぶ市制特例撤廃の運動により、市制特例廃止法案は、遂に、明治三一年五月一九日から開催の第一二回帝国議会において衆議院及び貴族院で共に可決され、六月一九日公布される。これにより、市制特例は、同年九月三〇日をもって撤廃され、同年一〇月一日から京都市にも完全な市制が、東京、大阪と共に適用されたのである。
  初代京都市長には、市会議員であり、かつ名誉職参事会員として遷都一一〇〇年記念事業等京都の近代的発展のために中心的役割を果してきた内貴甚三郎が、一〇月一二日に就任した。市役所については、将来の市庁舎としての活用をも見込んだうえで、遷都一一〇〇年記念祭開催の年である明治二八年の三月二四日、寺町御池上るの現在地において、京都市議事堂として先に建設されており、明治三一年一〇月一五日、同議事堂内において開設された。
   現在、京都市自治記念日として、毎年一〇月一五日に記念式典を挙行しているのは、この明治三一年一〇月一五日に京都市役所が初めて開庁した京都市の「自治独立記念日」として、昭和三三年(一九五八)に創設されたものである。昭和三三年が六〇周年で、自治一〇〇周年は西暦一九九八年である。
 
     二 古都の近代的革新
 
明治維新と京都復興  幕末・維新にかけて、再び日本政治の中心地となった京都ではあったが、明治二年の東京遷都によって、人口の激減と市中の荒廃が進行し、都市として著しく衰微することになる。幕末には少なくとも三十数万人はあったであろう人口が、明治四年には二十四万人程度にまで急落している。天皇の東行とともに、公家はもちろんのこと有力商人その他多くのものが東京へ移住したのである。ために多くの空き家も生じ、町中に孤狸が走るとまで称されたのであった。
 明治における京都復興の原点は、衰微する都市としてのこの深刻さにこそあった。この都が東京へ移ったことと、それによる都市としての衰退、それへの反発、脱却への京都市民の闘志と京都府の熱意に加えて、明治新政府がこれに応えたことが、京都の近代的復興を可能にした。
 京都の復興策は、ヨーロッパの近代技術とシステムの導入として行われたのを特徴とし、、主として勧業策、教育、住民自治行政組織の改編として現われた。
 勧業策としては、政府からの借入金である勧業基立金や東京遷都による京都市民慰撫・救済のために下付された産業基立金を基に、明治四年(一八七一)二月に現在の京都ホテル辺りに開設された京都府勧業場を拠点にして、京都府主導によって行われた。具体的には、養蚕場、製革場、牧畜場、女紅場、製糸場、製靴場、栽培試験場、伏水製作所、織工場(織殿)、染工場(染殿)、化芥所、梅津製紙場、集産場、麦酒醸造所、西陣織物会所など多くの施設の建設となって示されているが、こうした技術面のみではなく、より広範囲の振興策として我が国最初の博覧会が開設されている。
 こうした明治初期勧業策は、博覧会は別にして、その積極性とは逆に、それがヨーロッパの技術導入が中心であったために速効性はなく、必ずしもその当時の段階では成功したとはいえないまま、明治一三、四年頃にはそのほとんどの施設は民間に払い下げられて終焉することになる。そして、京都復興の基幹事業としての琵琶湖疏水建設事業に一切のエネルギーが集中されていくことになるが、その財源の基礎となったのが、産業基立金とその勧業策による運用益であった。ヨーロッパ近代技術の導入が効を奏するようになるのは、琵琶湖疏水の完成による動力源としての電力供給が実現してからのことである。
 小学校の建営が我が国で最初であり、しかもそれが京都市民の手によったものであるということは既に周知のことであるが、そのことを可能とするための中近世を通して存続してきた伝統的な京都の住民自治行政組織の近代的再編成は、今日に至るまでの京都市の住民組織を支える重要な役割を果してきたものとして、極めて重視しなければならないものである。  

琵琶湖疏水の建設  琵琶湖疏水は、京都が古都から近代的な大都市へ飛躍、発展する根幹となったもので、建設当初は大津から京都に至る、また大阪から淀川を経て伏見から京都へ至る運河として物資輸送の大動脈の役割を果してきたし、またその後においては、今日に至るも百万都市の水道用水としてまさしくMいのちの水源Nとしての使命を果たしてきている。この琵琶湖疏水なくしては、これだけの人口規模の大都市は、京都盆地に存立することはかなわなかったであろうことは想像に難くないのである。
 琵琶湖疏水の運河としての役割は、汽車による旅客や貨物輸送への発展、電気鉄道網の展開、自動車の導入等交通手段の発展によって、昭和の初期頃には衰退するが、琵琶湖疏水を水力として活用した水車や電力を動力源として発達した京都の機械工業は、伝統産業の近代化にとどまらない、近代産業の形成をも実現し、精密機械工業を特徴とする現在の京都の近代産業の基盤もまたこの琵琶湖疏水の建設によってもたらされたといえるのである。
 こうした琵琶湖疏水事業は、また京都ならではの方式で実現したものである。それは、京都市民の熱意を基盤として、時の京都府知事知事であった北垣國道をはじめとした行政の先見性と強いリーダーシップ、そして国家レベルの資金援助が重なったものであった。
 工事費総額は、明治一七年度(一八八四)から二三年度(一八九〇)に至る七か年継続事業として一二五万六千円余であったが、この額は、京都市誕生直後明治二三年度の琵琶湖疏水事業関係費を除く京都市普通経済予算の規模が六万七千円であったことから、いかに巨額であったかが分かる。
 こうした、当時の通常の京都市予算の一九倍にものぼる財源の基になったのは、先に少し触れた産業基立金であった。
 一〇万円の産業基立金は、この時期には、利殖等の運用益によって四〇万円近くに達しており、そこからの三〇万円に国庫補助金と府庁下渡金を加えた六〇万円が当初の工事費であったが、最終設計によってその倍額となったため、残る六五万六千円余を京都市誕生前の上下京連合区会の議決によって両区内の課徴でもって賄うことになった。その課徴の仕方は、地価割、戸数割、営業割であったが、その額は区民一人当たりにすると平均三円を超えることになり、当時の区民一人当たりの地方税や区費等公共費負担年額が八〇銭程度であったことから、相当な負担額であったことが分かるのであるが、このことを可能としたのは、京都市民の自治意識と住民自治行政組織の存在であったといえよう。
 工事は、明治一八年六月二日起工、明治二三年(一八九〇) 四月九日竣工した。翌二四年五月二八日には水力及び運河の使用が開始され、一一月には、蹴上発電所の送電が開始されて工業用電動力としての電力供給が開始されるのである。
 
平安遷都一一〇〇年  琵琶湖疏水事業進行の最中の明治二二年に京都市制は施行されたが、疏水事業完成を見るや、京都は、平安遷都一一〇〇年に向かって動きだす。
明治二七年(一八九四)は、平安京が建設されてから一一〇〇年目の記念すべき年となる。維新の荒廃から立ち直り、市制特例下にあったとはいえ、京都市誕生によって自らの市会と参事会をもち、琵琶湖疏水を完成することによって近代的大都市としてのもっとも基礎的な基盤を確立したちょうどその時期に、都市誕生の一大周年期を迎えたことを適確に捉え、京都の一層の飛躍を図るために、平安遷都一一〇〇年記念事業が企画された。
 その記念事業は、記念祭に加えて、第四回内国勧業博覧会の誘致、及び京都舞鶴間鉄道の建設の三つの大事業からなり、当時それは、「三大事件」と称せれらた。
 その発案は、市民サイドからなされる。京都実業協会員碓井小三郎の発案により、明治二五年(一八九〇)五月一九日、京都実業協会員三五名の連署でもって「御開都千百年ノ紀念大祭」挙行を市参事会に建議し、これを受けた市参事会は、市会にはかるとともに、官民挙げてこれに取り組んでいった。その原動力は、京都の経済人であったのはいうまでもない。
 記念祭は、当初明治二七年が予定されていたが、折からの日清戦争の影響により、翌二八年に延期された。
 この年の二月一日には、日本最初の市街電車である京都電気鉄道が京都駅から伏見油掛間に開通し、三月八日には記念祭式場としての平安神宮が創建される。また同月二五日には、京都市議事堂が京都市役所現在地に完成し、四月一日から七月三一日までの一二二日間、第四回内国勧業博が現在の岡崎公園内で開設された。そして一〇月二二日から二四日にかけて、博覧会あとにおいて記念祭式が挙行されるとともに約一月の間、各種催しや全国大会等が盛大に開催された。
 記念祭の規模は実に広大なもので、当時の時代背景もあって、単に京都の範囲にとどまらず、西は広島から東は名古屋にまで至る二府八県の一四市町の連合事業として行われた。この連合市町を列記すると、名古屋、岐阜、大阪、神戸、堺、岡山、広島、京都の八市に、宇治山田、彦根、大津、奈良、琴平、伏見の六町であった。
 内国勧業博覧会は、殖産興業・勧業政策のために、明治政府が明治一〇年を第一回として、以後五年目ごとに開設するとして、第三回までを東京・上野で開設してきたものであるが、これを京都経済界挙げての誘致運動によって、競合していた大阪に先駆けて京都開催を実現したものであった。
琵琶湖疏水に区画された岡崎に博覧会場が設置され、会場正面の大噴水で琵琶湖疏水のデモンストレーションが行われたばかりでなく、博覧会開設と同時に七条ステンショ(京都駅)から木屋町を経て会場、蹴上まで市街電車を走らせたことなど、琵琶湖疏水があってはじめて可能なことであった。
 また、例年一〇月二二日、京都四大行事の一つとして都大路を彩る時代祭は、一一〇〇年の風俗の変遷を各時代毎に示す記念祭の一大イベントとして全市民的規模で行われたもので、それが、翌年から平安神宮の祭礼として、記念祭の式典日である同日に執行されるようになったものである。
さらにこの時には、武徳会が創設され、明治三二年(一八九九)、平安神宮西隣に武徳殿を建設することになるが、これが現在の近代的な武道センターの前身である。
 なお、京都・舞鶴間鉄道建設問題は、国にその建設を要望し、鉄道敷設法の予定線路に加えられるも、容易に実現しなかったため、遂に民間レベルで建設することが決意され、明治二六年(一八九三)浜岡光哲、中村栄助らが創立発起人となって京都鉄道株式会社を設立し、明治三〇年(一八九七)二月一五日二条ー嵯峨間が、三二年八月一五日には京都ー園部間が開通した。これが現在の山陰本線の前身である。

百万都市京都の建設  琵琶湖疏水によって近代的大都市としての基礎条件を築いたうえ、平安遷都一一〇〇年で都市発展の飛躍台に立ち、明治後期から大正初期にかけて、いよいよ百万都市の建設に立ち向かうことになる。第二琵琶湖疏水事業をはじめとする、この時期の都市基盤整備事業が市域の拡大発展をも視野に入れて実施されたことから、現代都市としての現在の京都市の原型が、この時期から昭和初期において形成されてくるのであった。
 西郷菊次郎が市長に在任している明治四一年(一九〇八)一〇月、三大事業起工式が、大津の近江神宮(一四日)と平安神宮(一五日)で行われた。三大事業とは、第二琵琶湖疏水事業と水道事業及び道路拡築・電気軌道敷設事業をいう。これらはいずれも、現代都市にとって欠くことのできないもっとも基礎的な都市施設である。
 琵琶湖疏水は、最初は運河としての活用が主たるものであったが、その工事の途中から追加した発電事業が、その後電動力として、また電灯事業にも発展し、発電事業をさらに拡大する必要が生じると同時に、飲料用水の確保が必要となったことから、琵琶湖疏水をもう一本開削するもので、これを第二琵琶湖疏水と称した。とりわけ飲料用水としての活用は、古代以来人口の集中してきた大都市としての京都でありながら、その飲料用水源を井戸にのみ依存してきていたために、水源の枯渇と汚染に悩まされ、極めて必要なものとなってきていた。この百年近く前の水道用水としての第二琵琶湖疏水こそ、その後今日に至るまで百万を超える市民生活を可能にしたもっとも基礎をなすものといえる。これなくして、とうてい一五〇万の人口を擁することができないであろうことはあまりにも明らかなことである。
 水道事業とは、いうまでもなく水道管の全市的な敷設である。蹴上浄水場は明治四五年(一九一二)三月に完成した。なお下水道事業は、明治大正期を通じて常に問題となりながらも、その本格的な事業展開は戦後も昭和三〇年代に入ってからであった。
 現代大都市としての都市機能でもっとも重要な一つは、基幹的な交通体系である。市電の軌道網を築き、同時に都市交通を可能とする道路拡幅工事を実施した。旧市街地を中心とした基幹的道路は、この時に整備され今日に至っているのである。
 こうして現代都市としての都市基盤が整備されてくる中で、京都市の都市域は自ずから拡大をはじめ、その一体的な行政運営の必要性が生じたことから、またさらに将来的な発展を促すことをも想定して、周辺市町村の合併がすすめられることになる。
 市制施行時の京都市域は、現在の上京、中京、下京、東山区を中心とした旧市街地の二九.七七平方kmで、人口は二八四,三〇三人であったが、明治三五年の合併で三一.二八平方km、三大事業の後の大正七年(一九一八)の合併では約倍の六〇.四三平方km、人口も六六八,九三〇人に急増し、昭和六年(一九三一)には、伏見市ほか二六町村の合併で二八八.六五平方km、人口九七六,九〇〇人となりその翌年には遂に人口は百万人を突破することになる。北は上賀茂・大宮辺から南は向島・納所辺まで、西は梅ケ畑・嵯峨辺から東は山科辺までの範域は、現代の京都市域の原型をほぼ形成したといえるのである。

     三 住民自治の伝統      

町衆の伝統とは  いつ頃からか、京都人の心意気を表わすのに、「町衆」という言葉がよく使われるようになった。はなはだしくは「町衆選挙」などというものまである。
 このような町衆とは一体何なんであろうか。かつて遠い昔、確かに京都には町衆が存在したが、それが、町人、市民と変遷してくる中で、それなりの町衆の伝統は生き永らえてきているとはいえ、現代におけるその存在はもはやないのである。結論から先にいえば、町衆は遠い過去にいなくなったが、その伝統は、住民自治にかかわる町内会、元学区(小学校区)という地域社会システムの中に残っているのである。
 元来、住民自治なり、自治都市は、支配権力の対極にある。平安時代末期の古代国家解体の過程で、住民自らの地域自治組織が形成されてくるが、いよいよ古代国家が解体し、内乱の常なき時代である鎌倉・南北朝から室町、戦国時代にかけて、農村と都市とを問わず、全国各地で自治的な住民組織ができあがってくるが、その象徴的な事例に堺の自治都市がる。この時期の京都にあっても堺に勝るとも劣らない、自治都市は形成されていたのであり、町共同体を基礎とする町組を単位とした当時の京都の住民自治の担い手が、ほかならない町衆といわれるものであった。今日の言葉でいえば、武装能力を備え、裁判権、行政権をももった事実上一つの地方政府であったのである。
 天下統一がなされ、江戸時代に入ると、幕府の統治下で自衛能力はなくなるが、住民自治行政組織としてはより整備されて近代を迎えることになる。しかし、この町共同体を基礎としてそのいくつかが集まって形成された組町は、歴史的に、自然に形成されてきたものであるために、その組織は、必ずしも地域的に連続したものばかりではなく、またその規模も一定したものではなかった。そのことが、明治維新以後、近代的に再編成される要因となるのである。
 
小学校と組町の近代的再編  幕末の住民自治行政組織は、大きくは、三条通りを境に上京と、下京に分かれ、上京には七六〇の町が一二の町組に、下京には六一九の町が、八の町組に、また御所とつながった約八〇の町が禁裏六町組に組織されていた。それぞれに執行機関と議事機関を持ち、しかも上京、下京ともに大仲という都市的レベルでの住民自治行政組織を形成していた。これが、明治元年(一八六八) 七月と二年(一八六九)一月の両度にわたって改革される。それは、組町の規模、経営能力の均質化を図るもので、小学校の建営をめざして行われたもので、同時に上京と下京の境界は二条通り変えられた。
 いくつかの町の集まりである組町が、基本的には現在の学区となるのであるが、この組町毎に小学校を一校ずつ設置奨励するために、この両度の改革で組町の範域と町の数が一定規模に揃えられた。一組町の広さはおおよそ南北四町、東西三町を基準とし、町数はおおよそ二六、七、人口規模は二千から五千人程度を目安として、上京は三三、下京は三二の組町に再整理された。現実に、明治二年から三年にかけてすべての組町で小学校は建設された。一校のみ二つの組町で建設されたため、全市で六四校であった。そしてこの組町の名称を「何番組」と一連番号を付して称したため、小学校も、何番組小学校と称されたのであった。
 その建設にあたっては、府が一定の交付金があたとはいえ、その建設主体は組町(番組)であったため、小学校は、同時に組町の会所(住民自治行政の事務庁舎)ともなった。こうして、住民自治行政区域すなわち組町という地域社会の単位と小学校通学区は、小学校建設当時から一体のものとして成立し、その精神は現代にまで及んであるのである。

上からの吸収過程  明治維新とともに、合理的、均質的に再編成され、小学校建営を実現して進取の気概を示した組町であったが、以後の中央集権的な近代化過程の中で、西欧の地方自治制度導入とともに、伝統的な住民自治の仕組みは新しい制度の中に吸収されていき、市制制度が創設されることによって最終的に消滅することになる。歴史的、伝統的なものの否定のうえで西欧の移入をはかる我が国一流のやりかたの一つの事例といえよう。
 組町の名称は、番組から区に変わり、その後組町と自治行政単位としての区が分離され、さらに区制すなわち上京区、下京区のの誕生とともに再びその名称は組に変わるというように著しい変遷をたどる。この変遷の過程は、一方では、自治行政単位が、組町と離れて広域化し、他方では、その執行機関が知事官選になるというような形で国家の統治機関に吸収されていく過程であった。
 明治一七年(一八八一)にはそれまで組町の数に合わせて選出されていた区会議員の定数が、両区共に一〇名となるが、市制施行も近くなった明治一九年(一八八六)一〇月、行政単位としての戸長役場の区域は、小学校区域と完全に分離するに至る。戸長区域は、上京、下京の両区共に一〇となるのである。そして、この戸長役場制も、市制の施行によって廃止され、千年にもわたって生成、発展し、定着してきた伝統的な住民自治行政の機能と組織は、ここに消滅することになったのである。
 ただ、その後の町と組町の動向は詳しくは分からないが、消滅したままで忘れ去られてしまうには、過去の伝統はあまりにも長くかつ深かった。市制特例が解除されるその前年、伝統的な地域社会の自治的仕組みは、形を変えて再生することになる。
 
公同組合の誕生  伝統的な住民自治行政組織が消滅していた時期は、琵琶湖疏水事業がすすめられ、京都市が誕生し、遷都一一〇〇年記念事業が推進されていた京都市の近代的都市づくりの基盤整備がなされていた時期であった。それだけに、市民の総力を挙げなければならなかったがゆえに、その住民自治組織復活への観念には強いものがあったのであろう。
 明治三〇年(一八九七)三月市会は、例え法制上の自治機関ではなくとも、「公同の器」としての自治機関を復活させるべきであるとの建議を行い、これを受けた京都市参事会が、同年一〇月「公同組合設置標準」を市民に諭達した。
 公同組合は、これまでの町と組町を継承し、一町をもって設置することを基準とし、小学校区単位に連合公同組合を組織した。後には区連合公同組合、さらに京都市公同組合連合会という全市的組織を結成し、昭和一五年(一九四〇)一一月、挙国一致の戦時体制のために「町内会」が結成されるまでの四〇年余、伝統的な住民自治の精神は生き続けた。
 公同組合の数は、昭和一〇年頃で、単位公同組合三,六三一、学区連合公同組合一一二でもって京都市公同組合連合会を組織していた。一公同組合平均戸数は、約六〇戸であった。これら全市に及んだ住民自治組織が、組合員の相互扶助や防火、防犯などを基礎に、行政機関との連絡、協力、教育関係の事務などを行っていたのである。
 
戦後民主化の戸惑い  戦時町内会が、国民総動員体制の末端組織として我が国の軍国主義を支えてきたものであるだけに、戦後の民主化にあたって、真っ先に解体されざるをえなかったのは当然のことであろう。しかし、現実には町内会は無くならず、建前として否定されながらも、実態的に存続して今日に至っている。
 第二次世界大戦をもたらせた軍国主義体制にかかわるものであるだけに、その見直しは安易にするべきではないが、戦時体制下の町内会のみをみて、それに先行する千年の住民自治行政の伝統をも否定するべきではない。戦時体制下の町内会は、いわば一時的なあだ花であり、民主的地方自治制度のもとでこそ、本来住民自治組織は機能するものである。
 今日の町内会が、戦時中の非民主的な、上からの支配をのみを容易にする役割を今なお果しているのか、或は、かつて権力者の統治下にありながらも、かなりの程度において自らの守備範囲をもって自治行政を行っていた伝統的精神を引き継ぐことができるのか、戦後すでに四五年を経過した今日、民主主義の地域生活レベルにおける定着を考えるうえにおいて、十分検討しなければならない点である。すでに、研究者のレベルでその見直しを指摘する人もある。
 京都市行政においては、町内会は行政対象としては考えられていない。しかし現実には町内会が存続していることから、これと不離一体の形で、市政協力委員制度を設けている。これは一面では戦後町内会が否定された中ではまさに妙手というべき手法であったが、しかし、住民自治の側面からみるとき、市政協力委員はあくまで個人を捉えたものであって、住民の地域社会を行政レベルにおいて取り上げたものではないという問題を残している。そのために逆に、時には地域ボスを生じさせる温床の役割を果す場合もないではない。制度の趣旨として、本来特定する個人に定着することが避けられるべきであるとしながら、逆に長期就任者を表彰するというような矛盾をあえてしている現実を、曖昧にではなく、またその時々の行政の便宜的都合からではなく、住民自治の観点からまともに見詰め直すべきであろうと考えられるのである。

     四 戦後の京都市政

敗戦直後の市政  元東京市助役であった篠原栄太郎が第一六代市長として昭和一七年(一九四二)七月六日から就任していたが、敗戦直後の二一年(一九四六)二月一六日に辞任、三月一三日から元大阪商船株式会社専務取締役であった和辻春樹が第一七代市長に就任した。しかし、和辻市長も経済界指導者に対する公職追放の範囲に該当することから一一月二七日には辞任し、その後しばらくは市長不在の状態が続いた。
 戦後地方自治制度の改正で市長公選制が導入されて最初の市長は、京都大学名誉教授の神戸正雄で、昭和二二年(一九四七)四月七日に第一八代市長に就任したが、神戸市長も、任期途中の二五年(一九五〇)一月六日、辞任した。ただ、神戸市長の辞任は、先の二人とは異なり、戦後改革の一環としての、国と地方自治との関係を抜本的に改革するために国に設置された地方行政調査委員会議の委員に、全国市長会の要請を受けて就任するためであった。この調査委員会議は、いわゆる「神戸委員会」と称され、その後の国と地方の事務配分の基底を提示した。
 このように、戦後の京都市政は、戦後の動乱期という時代的背景によるばかりでなく、結果として市長の定着を欠くものであった。戦後初の安定した市長は、第一九代市長に就任した高山義三であった。また、高山市長は、昭和二二年四月に制定された現行地方自治法に基づく初の市長である。
 
高山・井上市政  高山市長に至るまでの京都市長が定着しなかったことから、戦後京都市政は、実質的には、高山市政にはじまるといってよい。昭和二五年二月一〇日から四一年(一九六六)二月四日までの四期一六年間を全うしたが、その軌跡は、戦後京都の荒廃、動乱期から再建、発展期に至り、今日の京都市政の土台と方向性を築いたものといえる。高山市長のあとを受けた第二〇代市長井上清一は、元自民党の参議院議員で、そのおおらかな政治的手腕に対する期待もあったが、就任わずか一年で急逝したため、単独の市政としては、評価の対象になり難いものとなった。
 高山市長は、弁護士で、戦前には京都大学在学中から友愛会京都支部長として労働運動にもかかわるなど進歩的知識人であったが、加えて、近代京都発展の中心人物の一人、初代京都市会議長でかつ第一回衆議院議員でもあった中村栄助の三男であったことから、戦後民主化の時代にあって、民主勢力の統一した市長候補としては、まさしく申し分のない存在であった。社会党公認、民主戦線統一会議の候補として、保守陣営が二分される中で当選するが、講和をめぐる社会党の分裂を機に社会党から離脱し、その後の時代の保守化の中で、政治基盤を保守陣営に移すことになる。
 民主戦線統一会議は、四月には蜷川虎三を京都府知事に、六月には大山郁夫を参議院議員に当選させ、あたかも京都が開放区になった感があったが、我が国がなおアメリカの占領下にあり、革新自治体の時代の幕開けとなった昭和三八年(一九六三)の第五回統一地方選挙に先立つこと一三年も前であっただけに、高山市長の転向には、ある種の必然性も考えられ、今日からみた場合、時代の捉え方や、革新陣営側の対応に多くの反省すべき教訓が存在しているのである。
 高山市政のスタートは、極度の財政難からはじまった。戦後地方財政制度は確立されたものの、大都市でありながら消費都市的性格の強い京都市の場合、固定資産税の著しい弱さをはじめとする財政力の弱さから、累積赤字の増大にみまわれ、遂に昭和三〇年度から三七年度まで財政再建団体の指定下におかれることになる。したがって、これからの脱却が、その後の京都市政の基本的な課題となってくるが、今日に至るもその傾向は余り変わるところがない。
 消費都市からの脱却、それとともに戦後京都の復興、この二つの課題に立ち向かうために、いちはやく着手したのが憲法第九五条に基づく特別法・京都国際文化観光都市建設法の制定であった。この法そのものは今日では形骸化しているものの、京都のめざすべき都市の性格づけは、このときに確立されたものである。
 高山市長は、初当選のときには、「官僚行政より 奉仕行政へ」を基本姿勢として掲げたが、二期目には「市民のための市役所サービス行政の徹底」とMサービス行政Nを、三期目には「ゆりかごから墓場まで」と総合的な社会福祉施設の整備を打ち出した。この他、パリ市をはじめとした姉妹都市盟約の締結、市民憲章、自治記念日の制定、京都市交響楽団の創設、同和行政の確立など今日に引き続く施策は多い。また、昭和三一年(一九五六)一〇月に創設された文化観光施設税は、三九年三月に名称を変えて四四年(一九六九)八月まで実施され、財政難の時代に京都会館の建設など文化財保護と観光行政の充実に寄与してきたが、これは、今川市政下で大変な問題となった古都保存協力税の前身であった。
 当初昭和三七年度(一九六二)までの七か年計画であった財政再建計画は、一年短縮されて三六年度で完了し、京都市として主体的な財政運営が可能となったが、三〇年代後半の市政運営の基調は、市政管理の近代化と長期開発計画の策定となり、この二つは、共に保革対立の争点となるものであった。一度は、井上市長が高山市政を継承するが、わずか一年にして急逝し、激しい保革対決の結果、昭和四二年(一九六七)二月二六日、京都府医師会長の富井 清が、社共統一候補として当選し、京都市政の流れは大きく変化することになった。

富井革新市政  昭和四二年は、戦後地方自治にとって大きなエポックとなった。三〇年代後半からはじまった経済の高度成長は、徐々に都市過密問題を醸成し、都市問題解決を訴える市民運動の高揚を背景に、昭和三八年に横浜、大阪、北九州の大都市をはじめ多くの都市で革新市長が輩出するが、富井市長の誕生した四二年には、四月の第六回統一地方選挙において、東京に、対話行政を呼びかけた美濃部亮吉が革新知事として誕生し、地方自治は民主政治の基礎として一気に国政上の重要問題となったのであった。
 富井市政は、こうした全国的な革新自治体の時代が幕開けするという熱気の中で、また高山市政の反動が自ずと現われるという側面とが重なって、「一四〇万市民のくらしと健康を守る」市政を、市民との対話によってすすめようとした。そのため、市民との関係においては、直接民主主義的な手法や、開かれた市役所づくりなど、それまでの京都市行政を全く変えるような状況が生れたが、反面、高山市政の一切を否定しかねない側面をも生じさせることになった。
 富井市政の特徴は、医師出身者らしく、インフルエンザ予防接種の無料化をはじめとするきめ細かな健康、医療に対する施策の充実、伝統産業技術後継者育英制度の創設をはじめとするはたらく市民を大切にする視点からの施策の拡充に加えて、都市を人間の住むところとして捉えた人間都市京都づくりをめざした「まちづくり構想ー二〇年後の京都」が策定されたが、道路や交通網など都市基盤の基幹的部分については必ずしも前市政の「長期開発計画」を克服するものではなかった。また、高山市長と蜷川京都府知事とは、単に府県と大都市との関係にとどまらない、両者の強い個性が衝突して、府市対立の構図ができ上がっていたが、富井市長は、府市協調をモットーとした。 いずれにしても、富井市政下では、健康や生活にかかわるソフト面の施策に重点がおかれ、都市開発にかかわるハード面は抑制されることになった。そして、富井市政の最大の役割は、その庶民的な装いを含めて市長が市民と直接対話することに心がけたことであり、市民と市役所との距離が極めて近くなったことであろう。市・区民相談室の抜本的な拡充もこの時に行われ、一時期には、身近な生活環境にかかわる市民要望も、市会議員など有力者に依存するよりも、直接市・区民相談室に寄せるほうがその解決がはやいとさえいわれたことがあった。これなどは、そのことのゆえに、常に市会サイドから市・区民相談室縮小への主張が生じるもとともなったのである。と同時に、市政運営の手法の転換と市長の常に市民と接触しようとしたあり方が、ただでさえ激務の京都市長職にあって、任期全うを前に遂に病に倒れることになったのである。
 しかし、市民対話を重視した富井市長の人気は絶大で、次の市長選挙においては、富井市政の後継者である元助役の舩橋求己のみならず、対立候補の民社党衆議院議員の永末英一ですら、富井市政の継承を訴えていたほどであった。
 
舩橋・今川市政  舩橋市長は、昭和四六年(一九七一)二月二六日に就任、三期目の半ばに病に倒れ、昭和五六年(一九八一)七月二六日に辞任、今川正彦助役が舩橋市政を継承することになる。今川市長は、九月一日市長に就任し、任期二期を全うして平成元年八月に退任した。
 舩橋市長は、その政治基盤を富井市長から引き継いだが、二期目には、自民・民社の両党も相乗りし、昭和五〇年にはいわゆるオール与党体制が出現する。五色豆といわれ、その評価の議論とは別に、その後の自治体首長の一つの傾向の先駆けとなるのである。このオール与党体制は、今川市政の一期目まで続くが、二期目には共産党が野党となり、一〇年間続いたオール与党体制は崩れる。
 舩橋市政は、富井革新市政を「福祉のまちづくり」と「市民ぐるみ運動」という形で継承し、福祉の舩橋、或は京都の福祉が全国的にも注目されることになるが、これには、当時全国革新市長会の会長であった飛鳥田一雄横浜市長との連携もあった。革新自治体全盛時代である。
 また、舩橋市政では、福祉の分野のみならず、まちづくりの分野においても、これを福祉と一体の形で捉えることにより、徐々に積極的に対処するようになった。「公害のない緑豊かな住みよいまちづくり」を市民ぐるみ運動ですすめようとし、百万本植樹運動やマイカー観光拒否宣言などを行っている。ハードなまちづくりでは、市電の撤去と地下鉄建設が最大ものである。富井市政下で着手された洛西ニュータウンは、舩橋市政下で完成する。
 舩橋市長が福祉の舩橋が大きく脱皮するのは、昭和五三年(一九七八)一〇月一五日の世界文化自由都市宣言である。市議会の決議を経て自治八〇周年記念式典で発せられたこの宣言は、二一世紀を展望したその後の京都のまちづくりの理想像となる。さらに三期目にはいって、使い捨て文明に対する反省から空き缶のリサイクル運動に着手し、まさに全国的な波紋を呼ぶことになるが、条例化を見ずして病に倒れることになった。その志は、今川市長が引き継ぐが、条例化を果たしたときには、デポジット制は棚上げとなっていて、当初の熱気は終息していた。
 今川市長は、舩橋市長が志半ばで倒れたため、舩橋市政の仕上げが当初の重点となったが、その後に手を付けた古都保存協力税と同和行政にかかる不動産取得等をめぐる公金不正取得事件の発生などにより、市政に対する市民の不信感は極度に高まり、二期目の一年余り後に古都税条例の廃止を決定するまでは、京都市政の渋滞には著しいものがあったし、その余韻は、田辺市政に至る今日に至るまで、執行体制の弱さの問題として引き続いているのである。
 今川市長は、まちづくりの今川と称されるように、昭和三八年に建設省から京都市に転職して以来、京都市政のまちづくりにかかわるハード面を一貫して担当してきた。しかし、市長就任以来そうした機会に恵まれないまま推移してきたために、古都税問題が吹っ切れて以降は、一気にまちづくりに邁進しようとしたかにみえた。洛南新都市構想をはじめ、多くの都市(再)開発プロジェクトがヅラリと並ぶ。ところが、執行体制が弱体化している中での、多くの大型プロジェクトの設定は、逆にまちづくりの計画性を見失わせることにもなった。構想段階で事実上つぶれてしまったものや企画・計画段階で低迷しているものが多く、全体としての先行きは今なお不鮮明である。
 今川市長が、京都のまちづくりに着手しだした時期は、時あたかも政府の規制緩和の時期に当たり、しかも日本の金余り現象からの全国的な土地の買占めと異常高騰に直面したため、京都の開発指向がこれと相乗作用をもって京都の土地買い占めと地価高騰を極限にまですすめてしまう結果となったのは、不運といえば不運であったのかもしれない。
 そうした中で、昭和六〇年(一九八五)七月に平安建都一二〇〇年記念協会が発足し、また六二年(一九八七)一一月には、世界の主要な歴史都市の市長を集めて世界歴史都市会議を京都で発足させたことは明るい可能性を育てるものといえる。しかし、これとても京都の現状を考えるとき、世界や未来と現状との落差の大きさに、ある種の空しさが感じられないわけではない。

田辺市政  戦後京都市政の中で、今川市政ほど混乱した市政はなかったが、これに続く田辺市政の成立は、かつて見られなかったほどの活性化した市長選挙の結果であった。表面に現われなかった候補者をも含めると、実に多士済々の顔ぶれであった。市政の沈滞とこの活況ぶりは、一体どのように解析すればよいのであろうか。はたして候補者たらんとした人々に、京都市政の深刻さの認識と、それに対する処方箋がどの程度用意されていたのであろうか。いずれにしても、京都府医師会長であった田辺朋之市長は、このような背景の中で誕生した。
 田辺市長は、平成元年八月三〇日、市長に就任した。「古都税紛争によってもたらされた市政への不信を解消し、市民に信頼される市役所づくり」を行うことによって、「一四七万市民のしあわせを願い、医療と健康と福祉の充実につとめ、二一世紀を展望し、保存と開発の調和のとれた理想のまちづくり」をめざす基本姿勢を明らかにしている。就任草々、情報公開の制度化に取り組むことを指示し、市政刷新への決意を示し、健康都市づくりを打ち上げるとともに、大文字山裏の開発にストップをかけた。京都市役所の活力とともに、都市・京都市の活力をどのように復活させうることができるのか、かけられる期待は極めて大きい。

      二、市長選挙の歩み

    一 七九年市長選挙と八〇年代前半の京都市政
                                                      (一九七九年四月)
  1.市長選挙の経過

 今回の市長選挙は、有力な対立候補者のないまま、一月二九日に告示、「無風」のうちに二月八日に完了した。投票率一六・一三%(前回一九・五〇%)、得票数は一五一、一八〇票で舩橋市長は三選された。
 こうした今回の市長選挙に関しては、政党に対して、或は市長自身に対して、そのあり方に対する種々の見方や批判が出されているが、ここでは、今回の市長選挙をふりかえりつつ、一九八〇年代前半の京都市政の課題と展望を探ってみたいと思う。

市労連を中心とした動向  京都の政治状況は、いうまでもなく容易なものではない。保・革の力が拮抗し、微妙なパワーバランスが生まれている。また市長選挙は、その前年の知事選挙と市長選挙直後の市・府議会議員選挙の間にあって、否応なくその両者の一定の影響を受けることになる。
 前年四月の知事選挙で、自民党が知事の座を奪回したとはいえ、社・共両党候補の得票数は自民党のそれを上回っており、とりわけ、京都市内においては自民党と共産党の両党各候補の得票数はほぼ同数であり、こうしたパワーバランスが、以後の政治展望に関する複雑な問題を投げかけ、ある種の政治的膠着状況が生まれたといえる。
 こうした状況下にあって、「社・共の関係修復」は革新市政の継続、発展、さらには革新府政の奪回のための必須条件と考えられ、これが今回の市長選挙における革新側の最大の課題であったといえる。
 とはいっても、「社・共の関係修復」は容易なものではなく、また、府市民団体協議会は前回の市長選挙において舩橋市長を推薦するには至っていないことに加えて、前年の知事選挙ではその前面に立ってたたかった経過を有し、京都総評は十年前と比べて地域自治体問題に対するかなりの機能低下にみまわれているという状況の下で、京都市労連に、その「修復」作業の荷は課せられるべき客観的条件が存在していたといえる。
 革新京都市政の政治基盤は、昭和四二年に富井市政が誕生して以来、京都総評、医師連盟、府市民団体協議会、京都市労連という四市民団体に加えて、社会党、共産党及び民主革新会議によるいわゆる七団体におかれている。その後民主革新会議は実態的になくなったけれども、京都総評をはじめとする市民団体四団体は、社・共の関係がむずかしい時期にあっても、今日に至るまで一定の関係を継続するとともに、役割をはたしてきた。そしてこの四団体と京都市の結びつきの媒体の役割を市労連がはたしてきたことはいうまでもない。
 今回の市長選挙に際して、市労連は、前年の知事選敗北の教訓の上にたって、「自民党サイドからの革新分断を避け」、「社・共の関係修復」をはかることをめざし、「反自民・革新統一を基礎」に、その作業を四団体及び七者懇談会を通してねばり強くすすめていくこととなったが、同時に市労連のそうした立場が関係方面から要請されてもいた。
 一九七八年七月一〇日、政治団体届出に関して、四団体懇談会が行われ、一四日に「京都民主市政推進協議会」(代表・谷内口地評事務局長)が市長選挙の確認団体として届出された。この間一一日には、市労連は執行委員会で、京都市長選挙闘争方針を決定し、その中で、「@反自民・革新統一を基礎にして闘い、その一層の発展・充実をおこなっていきます。A統一選挙母体の結成に努力し、最大限その確立につとめます。」の基本方針が確立された。
 市労連はその後、一〇月一二日、第三四回定期大会で舩橋市長の三選出馬を決め、一一月三〇日、
舩橋市長に市長選への出馬を要請し、七九年一月一六日に推薦決定に至った。そしてこの間、四団体に自治労京都、府職連、明るい民主府政をすすめる婦人の会を加えた七者懇談会が一二月二二日開催され、また、市労連の推薦決定の翌一月一七日には社・共両党の委員長も同席して同七者懇談会は開かれるに及んだ。こうした市労連を軸とした市長選挙に関する一連の経過によって、革新の修復は、一定の素地を得るに至ったといってよい。

政党の動向   政党の動きとしては、社会党がいち早く七七年八月に舩橋市長の三選支持を決定したほかは、目立った動きはなく、また社会党も「先頭に立って旗を振ることはしない」という態度を表明していた。以下新聞記事から主な動きをたどってみたい。
 七八年六年にはいって、民社党が一八日に開催した定期大会で、「舩橋市政を厳正な立場で評価検討し、中道革新を軸とした反共大連合を目指す」と、舩橋支持を一応「白紙」に戻し、また二四日には、自民党が定期大会で「知事選勝利の教訓を生かし、わが党の主体性を保ちMよりよき候補Nを擁立し、必勝を期さねばならない」とする市長選挙対策を決めるに至った。しかし、その後政党サイドの動きはめだったものはなく、突然訪れた京都二区の衆議院補欠選挙(一二月二五日告示、一月一四日投票)とともに、年を越すこととなった。そして、一一月一四日衆議院補選の開票で、自民及び民社両党の候補者の当選が確定した直後、急拠、自民党は府連役員会で舩橋市長の推薦を決定したことにより、各党ともに、一挙に動きだす結果となり、すでに推薦決定をしていた社会党は別にして、一六日には公明党市会議員団が支持を決定(舩橋市長の出馬表明を待って推薦)し、一七日には共産党府委員会が常任委員会で支持を決定、一八日には民社党が府連執行委員会で推薦を決定、そして一九日には舩橋市長の三選出馬表明があり、同日新自由クラブ京都が幹事会で推薦を決定するところとなった。こうして、社民連を除く、自民、公明、民社、新自由ク及び社会各党の推薦、共産党の支持という、六党オール推薦・支持の状況が再び実現することになった。
 今回も、各党それぞれ独自の立場で個別に市長と接触した上で推薦・支持がなされ、政党間の連合といった形態は生れなかったが、争点としては、・全国革新市長会参加の問題、・「反自民」か「共産党との絶縁」か、といったところが象徴的に問題となったが、これについて、各党個別の接触のなかで、それぞれに理解されることとなった。そして、推薦・支持にあたって各党とも一応共通したとみられるのは、・八年間の行政実績と・一党一派に偏しない行政姿勢に対する評価であった。
 ここで各党の推薦理由等について、新聞記事から紹介してみよう。
 自民党(一月一六日京都新聞夕刊から)
   「自民党が提示した四項目の基本姿勢について舩橋市長との間で合意に達した」
   ▽一党一派に偏せず、明るく公平清潔な市政を進める
   ▽人間尊重を基本として市民の暮らしを守る住み良い都市環境づくりを進める
   ▽必要な財源を確保するため国に働きかける
   ▽世界文化自由都市の実現に努力する

 公明党(一月一六日京都新聞夕刊から)
        「舩橋市政八年間の実績評価をふまえて、今後の市政運営にあたっては一党一派に偏することなく    市民本意の市政に徹することを条件に」
       ▽過去の福祉政策などで評価できる点があり、公約だけで実現していないものについても三期目で     仕上げたいとの市長の意思が明らかになった。
   ▽公明党が市に提出している五四年度の予算要望と市長の考えがほぼ一致している。
 
 民社党(一月一九日京都新聞から)
    「一党一派に偏しない超党派的立場で行政を行うことを条件に」、舩橋市長と次の五点について「い   ずれも合意に達した」
   ▽交通事業会計の赤字
   ▽同和対策
   ▽庁内人事の適正化
   ▽民社党の諸要請との取り組み
   ▽共産党との関係
 
 新自由クラブ(一月二〇日京都新聞から)
      「過去八年間の業績についても特に失政がなく、福祉、下水道事業、地下鉄建設、小・中学校の建設
     などで評価できる面がある。」

 共産党(一月一八日京都新聞から)
   「市政に対する基本態度と住民本位の民主市政発展への市長の決意を評価」
   「二期八年間の市政が福祉行政など多くの面で市民の暮らしと健康を守る努力が払われてきた」が、
      「政治姿勢や同和行政、市電存続、銅駝中統合問題などで住民の意思を十分くみつくすことができな  かった」といった指摘に対して、市長は次の点を明らかにした。
  ▽一党一派に偏せず憲法と地方自治を守る
  ▽適正な同和行政を推進する
  ▽一般消費税の創設や市民の生活環境悪化に反対する
  ▽市民本位の市政に徹し、清潔な民主市政を推進する

 社会党(一月三一日発表、「市長選挙政策」から)
  「今日、市政の重要事業が「地域」をぬきにして解決できないという状況の下では、まず市政が”ひらか  れた市政”運営をめざして市民の要望に依拠しつつ施策の立案とその実施をはかるを一方、市民自ら  の手によるまちづくり(自治)を大きく制約している中央集権的な現行の行財政制度を改革、市民の自  治を推進するため「自治と分権の確立」をはかるという基本姿勢が必要である」として、次の五つの基本  目標を掲げている。
  ▽市民自治の推進
  ▽生活の優先
  ▽環境の整備
  ▽歴史と文化の保存

  2.市長の政策、公約

 一月一九日、舩橋市長は三選出馬表明を行い、「声明」及び「基本政策」を発表した。そこで、・京都市は一四六万市民のもの ・一党一派に偏することなく、憲法と地方自治法に基づき、市民本位の市政に徹する ・官僚的中央集権的な地方行財政のあり方について、国へ改善を求め、真の地方自治を確立する ・二一世紀に向かっての理想像「世界文化自由都市」の実現に努める、などを明らかにするとともに、記者の質問に応じて、全国革新市長会への参加を続けることを明らかにした。さらに、二九日、立候補とともに、それを具体化した、四二項目にわたる選挙公約(基本政策)を発表した。
 また、二月一八日、当選直後の高橋三郎京都新聞編集局長のインタビューで、「職員は何が市民の要望か、何が京都を発展させるのかを基準に仕事をしているのであり、議会の顔をみたり、違ったところに目をむけて仕事をするのは地方公務員として失格。そんな人はやめてもらわないと」、或は、「市政をガラス張りにし、市民に市政をよく知ってもらうと同時に、市民のみなさんに一層の関心を持ってもらいたいと思います。それが私たちを励ますことになるわけですから」といった点が語られた。
 さらに、職員に対しては、二月二六日の市長就任のあいさつで、これから四年間の市政担当の決意を述べるとともに、「ここで、特に皆さん方に申し上げたいのは、仕事を進めていく上で自己の立場だけを考えたり、責任を回避したり、仕事が進まないことを正当化する理由ばかり考えたり、あっちこっちウロウロしている職員があるとするならば、その職員は市職員として不適格であると考えております。職員は……、市民が京都市に何を求めているのか、何に苦しんでいるのかを知り、それを最大限行政に反映させていくことが必要です。したがって、人事面においても、積極的に仕事をしていく人、人を引きずってでも仕事をさせる人、いわゆる管理能力のある人を登用、単に年数が古いからとか、学校の同期が何々の職についているからという評価は一切行わない」という考え方が表明された。

  3.八〇年代展望とその前半の課題

政治−行政の展望  京都市長選挙は、これで二度続けて無風となった。保・革の微妙なる力の均衡が継続していることを示しているが、今回が特に微妙であったといえる。そしてこの「力の均衡」状態から生み出される一見「無風」の状況は、それが永続する保障はないといってよい。「無風から嵐へ」、京都新聞が、舩橋市政三期目の課題としてつけたこの標題は、そうした事情を物語っている。したがって、政治展望として八〇年代を展望する場合、次に来る嵐をどう乗り切るか、そのための準備をどうととのえていくかということが、各政党、団体及び行政の課題となってこざるをえない。
 ここで、過去一二年間の政治基盤のバロメーターともいうべき、市議会の勢力分野の推移をふりかえってみたい。この間、昭和四十二年と四十六年の市長選挙では、保・革対決となり、社・共対自民・民社で争われ、いずれも革新が勝利してきている。しかし、市議会の構成を見るとき、昭和四二年から四六年までの富井市政下では、与党勢力は、社・共に公明を加えて三五議席で過半数に二議席が足らなかった。今や舩橋市政下ではオール与党であるとはいえ、市議会のパワーバランスは市政の方向性を規定する重要な要件であり、同様のパターン、社・共・公で勢力分野をみるならば今回五四年の選挙結果によれば、四二議席という文句のないかなりの過半数を制していることになる。自民対社・共の関係も、四二年には二八対二五であったものが、五四年では、二六対二九と逆転しており、この一二年間で革新優位の政治基盤が築き上げられていることが判る。とりわけ特徴的にいえることは、市議会の勢力関係みるかぎり、保・革対決の図式の中では、民社党は事実上その意味をもたなくなり、公明党がキャスティングボート以上の主導力をもつ位置を占めるに至っているということであろう。
 以上のような市議会勢力分野のみの判断からするならば、今後の政局展望は、全国的な「保守復調」とは異なり、京都市政においては修復がすすみつつある社・共及び公明党の動向によってそれは定まってくるとみなければならない。これはまた、行政レベルにおける革新の内実性と深く結びついてくることはいうまでもない。
 各党分立、オール与党の状況は、結果的には市議会に対する「行政優位」の体制を築き上げる客観的条件を構成することになり、行政のあり方がこれまた結果的にすぐれて政治性を帯びざるをえなくなる。行政の役割がそれだけ比重を増してくることになり、自治を展望していく場合における行政の任務も、より広範囲の役割を負うことになり、それだけに、行政の民主性というものが強く要求されることになり、それを行政の自助努力により達成していくべき段階にあるということがいえよう。
 いずれにしても、「無風から嵐へ」の環を、政党、行政、それぞれにおいていかにくぐりぬけていくか、そのことが今後数年間にわたって問われることになってこざるをえない。

これからの行政課題を考える  行政課題の検討は、いずれ機会を改めてそれなりの提起をすることとして、ここでは、ごく端的な問題指摘にとどめたい。
 これからの自治体は、その時々の財政悪化や景気動向に対する生活防衛、といった視点からだけではなく、それらは、ある意味では、全国普遍的な課題であり、それらをこえた、その自治体、その都市固有の課題にどこまでアタックできるかが最大の課題となってくる。それにはまず、その都市固有の課題、あり方というものが明らかにされていなければならず、そのことを作業する能力が要求されてくる。中央集権に対する抵抗も、それは普遍的な方式のみで達成されるものではない。産業支配に対する人間都市の建設という普遍的な共通理念を掲げつつも、それを、地域における具体的な生活と歴史の中で創造していかなければならない。
 こうした作業は、まず、都市行政における人材養成から着手されなければならない。中央から規定され、指示されたことから、あるいは普遍的な何らかのテーマから発想することではなく、あくまで、具体的事象から課題を見出していく能力が形成されなければならないからである。また、こうした具体的な現実から行政課題を見出していくには、行政組織のあり方総体も問われることになる。すなわち、行政の総合性という問題がそれであり、同時に、都市と行政を一体的に考える場合、税財政と行政施策、都市像といったものを一体として系統的に捉えなければならないということであろう。
 そして、こうした作業の前提として、市役所内外への情報の公開・提供、そのための活用しうる情報収集体制の確立、市民参加を確かなものとするための地域コミュニティの確立などが差し迫った課題として考えられなければならない。そのためには、市役所行政組織の大胆な組み換えもまた検討される必要があろう。 
 それは、系統的な情報の収集と提供、正確な実態的情報の裏付けをもった計画・企画行政の確立、市民参加と地域に密着した新しい行政システムの開発、それには地域政策上の企画調整機能をもった大区役所制度の創設など幾つかの試みは価値のあるものと考えられる。
 パワー・バランスの微妙なる均衡から生れる政治的「無風」は、その中に次に来たるべき嵐の数多くの要因をはらみつつも、相対的に行政優位を結果してきており、行政自身がその現実をどれだけ自覚的に受け止めることによって自治への展望を切り開こうとするか、八〇年代前半の課題はこうしたところにあるように思えるのである。

     二 舩橋市政の継承と今川市政の課題
                                                     (一九八一年一一月)
  1.今回の市長選挙の特徴

 今回の市長選挙(告示八・一〇 投票八・三〇)は、舩橋市長が任期半ばにして病魔に倒れたことにより、急拠行われたものであった。こうした場合の市長選挙も、保革の激しいたたかいが展開されている最中にあっては、ときとして厳しい対立選挙を生むことになる。一四年前の昭和四二年、井上市長の急逝により富井市長が誕生したときがまさにそうであった。
 今回は、無風から一転対立選挙となったが、その受け止め方は多様である。投票結果(八・三〇開票)は、
 投票率 二七・一一%
 投票数 二八〇、三六三票
 (当)今川 正彦 一四三、七五七票
    加地  和 一三一、八五〇票
ということから、一つには、極めて微少差の「激戦」であったということから、二つには、にもかかわらず、二七%という投票率は、多くの市民の関心が向かうところではなかったということから、基本的には無風の域を出なかったということを示している。それは、加地候補が、すでに六党の推薦・支持の定まった今川候補に対して、告示日の翌日になってようやく立候補届けを提出するに及んだことの中に、今川候補に対立して自ら勝利しようというよりも、むしろ、「六党相乗りー無風」に対する抵抗であったところに、今回の特殊な事情が存在していたといえよう。微少差による選挙結果はそれとして、舩橋市政から今川市政への継承移行は、大勢としては決せられたことを問う選挙であり、その信を問う選挙への抵抗が加地候補の立候補であったといえよう。 
 従って、評価の問題は別にして、六党の推薦・支持による京都市政が再び確立され、継承されたことの意味がまず考えられなければならないであろう。
 こうした視点から今回の市長選挙をみるならば、今回は、保革の微妙なパワーバランスがなお続くなかで、舩橋市政の継承者としては二人とない絶好の人物、すなわち舩橋市政の当初から今日まで、一貫して助役として舩橋市長と一体となって舩橋市政を築き、すすめてきた今川助役の存在が重要であった。すなわち、舩橋市政の継承者としての今川助役の位置は、保革を問わず、まさに衆目の一致するところであったからである。逆にいえば、保革の微妙なパワーバランスの中で推進されてきた後半期の舩橋市政の継承は、今川助役をその後継者にもってする以外、なかなかもって容易ではないと考えられる程、やはり保革のパワーバランスは微妙であり、今、ここで激戦を招来する時期にはなおなかったといえるのである。
 「六党相乗り」或は「無風」選挙は、市民の選挙権を奪うものとの批判も多いが、やはり保革の微妙なパワーバランスが生み出す、微妙なあやによって結果的につくり出されるものであるだけに、こうした京都の政治的条件の変化なくしてその変化もまた容易にはないといえよう。
 しかし今回の選挙の今一つの特徴は、すでに述べたように、そうした京都の政治的条件の変化の兆しが具体的に現われるに至ったという点にある。繰り返しにもなるが、その第一の点は、六党の支持・推薦の選挙体制では、選挙はたたかえない、すなわち政党レベルの選挙活動は事実上行いえないということが実証されたということ、第三の点は、従って、市長選挙とはいっても、実質的には市役所が市民にその信を問うが如き性格の選挙となり、それに対する市民の支持、不支持という形が現われ、そのいずれでもない七割の選挙民が選挙に参加するところとはならなかったということ、そして第四の点は、六党体制に挑戦した、その意味ではほとんど有力な政治基盤をもたなかった候補の肉薄ぶりと六党相乗り体制の脆弱さの露呈が、各方面の意識に強い衝撃を与えた点が何よりも重要であろう。そうした意味で、今回の京都市長選挙は、まさしく、次に来たるべき嵐の前ぶれであったといえよう。
 富井革新市政を継承した舩橋市政、そしてその舩橋市政を継承した今川市政の展望と課題は、そうした政治状況のもとで考えられなければならない。

  2.市長選挙の経過

 今回の市長選挙は、舩橋市長が突然病魔に倒れたことによるものであるだけに、経過は少ないものであった。
 五月連休明けの六日、市長が倒れるのニュースは予期せぬ突然の事態であったために、庁内外を問わず各方面に衝撃的な波紋を画いた。「舩橋市長四選」は少なからず規定の路線視されていたと思われていただけにその衝撃度は大きいものであった。一五日に至って、医師団から入院二か月の発表があり、以後各方面ともに、ひたすら病状の早期回復を願う態度にあった。もっとも、水面下ではいくたの動きがあったようであるが、それはいうまでもなく政治的意味の重大さにあった。京都の政治は来春の知事選挙をめぐって大きく動いている最中であっただけに、舩橋市長の再起が不能の場合には、京都市域における一定の政治的前提が、保革を問わず崩れることになるからであった。
 事態の急展開は七月にはいってからであった。舩橋市長の病状が必ずしも思わしくないという状況のもとで、七月一日、京都市労連は常任執行委員、単組委員長合同の懇談会を開き、舩橋市長の病状をめぐる当面の状況についての協議を行ったが、同日、市議会総務委員会では、市長病状下における市政の停滞について追及するとともに、今川市長職務代理者のリーダーシップを求める声があった。
 七月四日になって、市長辞任の意向表明があり、七月六日に、市長夫人が市議会議長に辞表を提出するところとなり、一転、急拠市長選挙へと突入することとなった。その間、五日(日曜日)には各党ともに急拠協議するところとなるが、社会党本部はいち早く、今川市長職務代理者を舩橋市長の後継者として推薦決定した。また六日には、社会党、公明党、共産党、自民党の順に、今川市長職務代理者への出馬要請が行われた。翌七月七日には市労連も出馬要請を行うに至った。市長選挙の大勢は、事実上ここでもって決してしまっていたといえる。こうした中で、七月一三日、市選挙管理委員会は、八月一〇日告示、同三〇日投票の選挙日程を決定するに至った。
 民社党も、党内候補の検討などを行ったものの、七月一六日には党内候補の擁立を断念し、七月二九日に至ってM今川支持Nを決定。同日には京都社民連も今川支持を発表し、ここに六党の支持、推薦体制ができあがることになった。
 一方、こうした「六党ー無風」に対する批判の動きも生じることになり、新聞紙上で見るかぎり、七月一五日から一七日にかけて、新たに結成された三つの団体が、それぞれ無風批判の声明を発表するに至る。すなわち、七月一五日には、「日本文化の首都京都を創る婦人の会」(代表・藤川延子)が、一六日には「新生京都を願う会」(代表・小林祥一日本電気化学専務)が、一七日には「市民不在の選挙を憂うる会」(代表・小島五十人法華クラブ社長)がいずれも、「政党間のかけ引きとエゴ」による「市民不在の市長選び」だとする批判の声明文を発表した。こうした無風批判の動きが底流となって、最終土壇場における、新自由クラブの加地和元代議士の選挙戦出馬となるのであるが、同氏は、すでに七月二九日、舩橋市長辞任の意思能力に疑問ありとの、京都地裁への証拠保全の申し立ての代理人となっていたことから、最終的に出馬をあきらめたものと一般的に受け止められていただけに、無風批判の底流はかなり根強いものであったといえるのである。
 今川市長職務代理者は、社、公、共、自の四党の出馬要請をはじめ、多くの市民団体の要請を受けた中で、舩橋市長が失職となった七月二六日の翌二七日に、立候補の決意を表明するとともに、その基本政策を発表した。
 
  3.市長選挙の争点と課題
 
 選挙過程と選挙結果は、以後の市政運営に対して重要な影響をもつものであり、以下において、両候補の主な主張と選挙結果に対する新聞各紙に見られた評価等について紹介してみたい。

 両候補の主な主張

今川候補
 @舩橋市政の継承、発展、一党一派に偏さない民主市政の推進
 A福祉施策の充実
 B教育と文化のまちづくり
 C経済基盤の整備
 D真の地方自治の確立と市民の信託にこたえる市役所体制の確立
 E「基本構想」の策定と「世界文化自由都市」の実現

加地候補
 @「六党相乗りー無風」批判
 A舩橋市政の良い点(福祉)の発展
 B林田府政との緊密化
 C市職員の三割削減ー一千億円節約による市行政改革
 D南部開発による三〇〇万人大京都市圏への発展
 E京都の教育改革による世界で通用する京都人の育成

 新自由クラブは、前回の市長選挙では他の五党とともに舩橋前市長を推薦してきており、政策面においては、舩橋市政の業績を評価する立場に立っているため、今川候補が堅実であるのに対して、加地候補はラフであるという以外、基本的な相違点はあまりみられないとするのが一般的な評価であった。したがって、加地候補の主張するところのものは、行政施策の中にあるのではなく、あくまで、「六党相乗りー無風」選挙に対するものであった。「利権屋の食いものになるおそれ」や「行政改革」の主張もそうした線上のものであったといえよう。

 選挙結果の評価から

選挙結果に対する新聞各紙の評価はいずれも厳しいものであった。各紙ともに、六党相乗りに対する市民の痛烈な批判の現われだとして、「この京都市長選挙の結果は、今後の共闘、相乗り問題への様々な反省、研究材料を提供した」(八・三一朝日)、「各地の地方自治体で政党の脱イデオロギーと多党相乗り首長選が目立つ中で……全国の首長選のあり方に大きな影響を及ぼすことになろう」(八・三一毎日)、「『政治の流れを先取りする』といわれる京都市民が、各政党の地方自治に対する姿勢に、一つの回答をつきつけた」(八・三一読売)との指摘を行っている。
 このはか、「市役所ぐるみ選挙」としての批判、対立選挙であったにもかかわらず二七%台という選挙に終ったことからの、やはり「事実上の無風選挙」であったとの指摘等も行われていた。

  4.今川市政確立への課題と展望

 舩橋市政から今川市政へ

 舩橋市政が、昭和四六年二月に富井市政を継承して誕生したのは、経済の高度成長が最後の頂点にさしかかった頃であった。同年八月にドルショックが発生したものの、経済はさらに過熱し、土地ブームを起こした後、オイルショックの直撃を受けて高度成長経済は破局をむかえ、昭和五〇年代は高度成長下の付けに対応しつつ低成長下への模索の時期に至る。
 舩橋市政は、こうした高度成長の頂点、その破局、新たな模索というきわめて多難にして激変の時代にあった。そのために、その前期においては、「くらしと健康を守る」富井市政の継承線上における高度成長のもたらす矛盾に対する福祉を中心とした、いわば守りに立った市政であったといえよう。
 しかしその後期は、不況、低成長の中で、一方では高度成長の都市矛盾が付けとしてまわってくることに加えて、都心部の空洞化という新たな大都市問題が発生してきたことに対して、守りから攻めの都市政策への転換にせまられることになった。舩橋市政は、その成立の当初から都市基盤の整備にもその力点をかけてきたところであったが、後期に至っていよいよその積極化がめざされるところとなった。下水道整備や山陰線高架化、地下鉄烏丸線の開通、京阪地下化事業などにそれは着々と具体化してきたところである。しかし、より根本的には、京都百年の大計をいかに設計するか、京都の将来的な都市構想をいかにつくり上げるか、そうした積極的な明日の京都づくりに着手しつつあったといえる。舩橋市政から今川市政への継承、発展は、こうした京都の将来を左右する事業にかかわるのでる。
 すなわち昭和五三年一〇月に発せられた世界文化自由都市宣言とそれに端を発した「京都市基本構想」策定作業がそれであり、この宣言の具体化と京都市の将来構想(計画)づくりこそ、任期途上で倒れた舩橋市政を継承した今川市政の中心課題となるのである。
 当面する重要課題としての「空きかん条例」問題をはじめ、地下鉄を含む交通対策、「文化財保護条例」問題、公害アセスメント(環境影響評価)問題等は、すべてそうした京都の将来構想とそれに対応するべき新たな行政体制のあり方にかかわっているといえよう。

 今川市政の確立へ

 舩橋市政を継承するものとはいえ、市民の審判である選挙を経て、市民から市政を負託された今川市政は、あくまで固有の今川市政として確立されなければならない。その意味で、舩橋市政の継承課題に加えて、選挙過程から生じた課題、さらにその後の課題を合わせて今川市政は確立するものであるといえよう。
 舩橋市政の継承課題は、すでに前項及び調査会報の前号でもふれたところであるが、その基礎は、いずれにしても福祉市政にあるのであり、後期に至って、そこに文化政策が加わるのである。
 今川市長もその基本政策(七・二七)において、「『人間尊重』を基本に、市民のくらしと健康をまもり、”福祉の風土づくり”と公害のない緑ゆたかな住みよいまちづくり”」を第一に掲げるとともに、教育・文化・スポーツの振興、「基本構想」の策定と「世界文化自由都市」の実現も、その中に掲げることによって、舩橋市政の継承とその発展を明らかにしている。
 今回の選挙過程からは、「六党相乗り」問題はそれとして、行政に関しては、「行政改革」と市役所の体質改善、市民と市政との新しい関係の確立が要請されることになったといえる。とくに「行政改革」の問題は、政府の第二時臨時行政調査会の発足にはじまる全国的な行革風潮の中で、財政対策とあわせて今川市政のすべり出しにあたって、避けては通れない、きわめて厳しい課題であるといえる。
 さらに今後の問題としては、ある点で「行政改革」とも関連しつつ、情報公開制度やオンブズマン制度など、行政公開にかかわる行政制度の将来的な変化に関する問題も、やはり避けては通れない課題として存在しつつあるといえよう。
 以上の背景をふまえつつ、今川市政の主要な課題をごく要約的に次に提起してみることとしたい。

「行政改革」への対応  政府の第二臨調に現われた、「行政改革」とは名ばかりの「財政合理化」に対しては、地方自治確立の展望のもとに今後対応していくにしても、全国的な「行政改革」の風潮の中で、地方自治体の合理化や人件費削減問題がクローズアップされてきているそうした状況への主体的な対応がせまられてきている。
 今回の選挙でも、加地候補は、市職員三割削減による一千億円の経費節減を主張した。今年度(五六年)一般会計における人件費予算の総額が一千億円に到底及ばない八〇〇億円近くの額であることから、いかにその主張が荒唐無稽なものであるかはわかるのであるが、現在、市長部局関係の職員数一万人近くに対して、三割削減を行えば、七千人弱となり、京都市がかつて財政再建団体として自治省の監察下にあった当時の最終年、昭和三六年の職員数七、六〇〇人をも割ることになる。
こうした京都市の独自事情を十分踏まえた上での行政改革のあり方というものを検討する必要がある。
 財政の効率的運用は当然のこととしても、必要限度をこえた人件費の抑圧というものは、結果として職員を殺すことになり、決して市民サービスにプラスすることにはならないからである。今の京都市にとって必要なことは、「行政改革」の名のもとにおける「財政合理化」ではなく、あくまで、市民に開かれたものとしての行政システムの改革であろう。
 
開かれた市役所づくり  最初にも少し述べたように、今回の選挙はある意味で市役所が市民にその信を問う選挙としての性格があった側面も見逃すことはできない。しかし、これに対しては、七割の市民はその意思を表さなかったのであり、改めて、市役所と市民との関係の見直しも必要となってこよう。
 情報公開制度に関しては、滋賀県や神奈川県で徐々にその具体化へむけての作業が結実化しようとしている。当調査会においても本年(昭和五六年)三月に「開かれた市役所づくりをめざして」をテーマにシンポジウムを行った。
 そうした中で必要なことは、市役所を市民に開いていくにあたって、市民と市役所との関係をどうしていくのか、その前提としての、庁内コミュニケーションの確立と地域市民組織のあり方への方向性についても、改めて総合的な検討が必要となってこよう。
 こうした点に関連して区役所制度のあり方も改めて検討を加えるべき段階にきているものと考えられる。
 
「大都市」制度の確立  大都市は、単なる人口の量的な大きさをいうのではなく、経済的、社会的集積度の高い大都市機能を有していることによって、周辺諸都市の母都市として、都市一般とは異なった位置にある。また当然のことながら、行政能力も高く、基本的に府県や国の指導を不可欠とするものではない。
 しかし、現行政令指定都市制度は、根本的には大都市問題に対する十分な機能を備えたものではなく、府県行政に対して弱い立場にあるといえる。
 府県と大都市は、その対象とする地域が異なるため、地域的に利害が対立することが多い。都心部の空洞化現象は、大都市の生死にかかわる重大事であるが、府県域を行政区域とする府県にあっては、大都市の集積機能の拡散を誘導することに熱心となる。こうしたことから、大都市の維持、発展には、府県からの自立による、少なくとも府県と対等の機能が必要であり、そのための京都市の自律的な対応が要求されるのである。
 
「京都市基本構想」の策定  歴史都市でありながら近代都市であり、しかも大都市としての京都のあり方は、すでに多くの場で指摘されているように今や一つの大きな岐路にある。都心部には、すでに「応仁の乱以来の危機」がおとずれてきているという指摘すらなされる今日にある。
 昭和五三年一〇月宣言の「世界文化自由都市」の理念の実現をはかるため、また、昭和四四年制定の「まちづくり構想」の全体的見直し作業を包含した「京都市総合計画」としての基本構想は、戦後昭和三〇年代にその策定の試みがあったとはいえ、京都市政の総合計画としてはまさにはじめてそれを完成させる作業であり、京都の都市と京都市政の将来にとってもっとも重要な課題であるといえよう。
 それだけに、策定作業は必ずしも容易ではないために決して順調に進んでいるとはいえず、全庁的な策定体制と学識経験者の協力体制に関して、一定の見直しによる、より一層の策定体制強化の必要性もでてくるものと考えられる。
 
経済政策の確立  都市のメカニズムの基礎が経済にあることはいうまでもない。福祉市政を継続し、文化都市を建設していくその論理と条件は、やはり都市経済のあり方によって規制されざるをえない。
 都市の将来を展望した各方面における建設事業は、都市の将来性にかかわるものであればある程、それは単なる技術的プランニングとしてではなく、その基礎に経済政策の裏付けを必要としよう。 今日までの京都市経済行政は、中小企業ー伝統産業振興対策であった。今後においてもそれが経済行政の中心であることに変化があってはもちろんならない。しかし、中小企業対策のみでは、都市経済の全体的メカニズムを解明することも、また、都市経済全体の中における中小企業ー伝統産業の正確な位置を見定めることも容易ではない。
 こうしたことから、都市の将来にかかわる都市構想とその具体化をはかる時代においては、都市経済全体のあり方を解明し、全体的、総合的な経済政策を背景にした、市政運営が不可欠となってこざるをえない。これは、今後の市政の要核ともいうべき課題であるといえよう。

     三 八五年市長選挙と八〇年代後半の京都市政の課題
                                                     (一九八五年一一月)
  1.今回の市長選挙の特徴

 今夏の市長選挙(告示八・一〇 投票八・二五)は、世評「三極選挙」として久方ぶりに迎えた本格選挙と評されてきたほどには、結果としてそうM過熱Nしたものではなかった。前回の選挙はしばらく措くとして、一番新しい保革激突の選挙であった昭和四六年二月の投票率は五九%と京都市長選挙としては過去最高の投票率であり、それ以前も概ね五〇%程度であったことと照らし合わすならば、今回の四二・五二%の結果は、対立選挙としてはいささか不燃焼であったことを示すものといえよう。このことはつまるところ、三者対立選挙とはいえ、一面において現職の今川候補の信を問う選挙としての性格を帯びたものであったともいわれるが、それだけにまた、次のような選挙結果であったことは、市民の厳しい審判として受け止めねばならないのは、すでに世評でもみられたところである。
 投票率  四二・五二%
 投票総数 四四七、七九五票
 有効投票 四四三、六七五票
 当今川 正彦 一九九、〇四三票
  湯浅  晃 一三九、五八八票
  加地  和 一〇五、〇四四票

 今回の市長選挙の最大の特徴は、何といっても、昭和五〇年二月の舩橋市長再選選挙以来一〇年間続いた「五色豆」と評されたオール与党体制が崩れるかどうかが焦点となったところにあった。舩橋前市長が病に倒れたことから急拠迎えた前回の選挙が、「六党相乗り」「無風」選挙として多くの批判を受け、しかもその結果が投票率二七・一%、当選した今川候補と加地候補の得票率わずかに一一、九〇七票であったことから、すでにその直後から次期市長選挙ではもはや「六党相乗り選挙はない」という見方、考え方が強く生れていた。
 しかし、その後の市政運営の展開は、例えば古都税のように、いくつかの局面における対立状況
は見られたものの、全体的には比較的平穏に推移するところとなった。自・公・民サイドからのM共産党排除Nと共産党サイドからのM市長財界寄り批判Nが次第に顕在化してきたのは、市長選挙まで一年以内と近づいてきてからであった。
 そうした意味では、一面における市民的な眼や、報道界、或は政党レベルにおける政略的な「六党相乗り」からの決別志向はそれとして、保革の微妙なパワーバランスが容易に崩れない市政と、またその市政の現実的な運営の状況からは、一気に保革の激突を再現することの困難さもまたあったといえよう。こうしたことが、「六党相乗り」からの決別をそれぞれが志向しつつも、なおそのことが容易に現実化し難い政治的進行の中で、一面、極めて歯切れの悪い展開を示すものとなったわけである。
 「六党相乗り」からの決別がゆるやかに進行しつつあるーそれは、保革のパワーバランスがゆるやかに崩れつつある過程でもあるーそのゆるやかな進行途上にあって、その意味ではかなり無理をして対立選挙にもちこんだきらいがあったとも考えられるのである。
加地候補の問題は別として、共産党市会議員団が今川市長と決別したのは、選挙も近づいた六月二五日の市会本会議における今川市長の重要案件に対する共産党の態度への遺憾表明を受けることによってなされたものであることからも、このことはうなずかれよう。           
 こうしたことから、昭和四二年二月に誕生した社共両党による革新市政は、昭和五〇年にはオール与党体制となり、そして今回の選挙によって、共産党は決別し、一八年にして、京都市政は新しい段階を迎えることになった。しかし、今回の選挙に関し、一転「三極選挙」と評された程には京都市政の政治・行政の土壌は大きな転機を見せず、いずれ近い将来に訪れるであろう本格的な激動にむかって、なお、一定の模索状況が続くように思われるのである。
 古都税問題は、本来的には今回の選挙の基本を特徴づけるようなレベルのものではないともいえるが、ある意味では選挙過程の主軸をなし、今日の京都市政をめぐる政治状況を反映するものとなったともいえよう。

  2.市長選挙の若干の経過

 市長候補の擁立作業は、年明け後もその進展ははかばかしいものとはいえなかった。しかし、年明け早々の今川市長の古都保存協力税実現へむけての決意、三月予算市議会への年間予算案の提出とその全会一致での可決という状況は、古都税問題を抱えつつも、「六党相乗り」による現職再選への可能性を残すものであったといえる。
 こうした中で、局面が急展開することになったのは六月市会であった。二五日の同臨時市会本会議において、今川市長は、重要案件に対する共産党の態度に遺憾表明を行うとともに自社公民には感謝を表明、これに対して共産党議員が独自候補を立ててたたかうことを言明、そしてそのあと、同市議団が事実上今川市長とのM訣別Nの談話を発表したことにより、一七年余続いた社共を主軸として誕生した革新市政ーその態様はその後変遷をみせたがーは、ここに終焉した。終焉の瞬間それ自体はあっけないものであったともいえるが、それは、昨今の状況の帰結であると同時に、今後名実共に自・公・民を主軸にした市政運営に転換していくか否かを問う岐路への出発点でもあるといえよう。なぜなら、政治のこうした選択とは別に、今川市政である限りにおける市政の継続性、継承性は、今後においてもまた保障されているのであり、市政運営の転換のあり方それ自体は、今後、将来の問題であるからである。
 この六月二五日を境に市長選挙は一気に進展する。二六日に自民党京都府連拡大選挙対策委員会で今川市長の推薦を決定、翌二七日には社会党府本部が今川市長に推薦を通知、同日「市民本位の民主市政をすすめる会」が、湯浅晃の擁立を決定。その翌二八日には湯浅晃が出馬表明、三〇日には加地和が出馬表明、七月二日、自公民三党が共同選挙協定に調印、その翌三日、今川市長の再選出馬表明が正式に行われることにより、今回の選挙パターンが最終的に確定したのであった。
 この今回の選挙パターンの確定は、とくに六〜七月においては、「実施は六月十日以降」とした自治大臣許可を受けた古都税条例の実施をめぐって、六月一三日に「古都保存協力税条例施行規則」が公布され、七月一〇日に施行されるというように、古都税の実施をめぐる複雑な過程とともにあったのであり、古都税問題が選挙過程と深くかかわらざるをえない状況を生む結果ともなった。
 なお、自・公・民等で組織された「伝統と創造のまち・京都を発展させる会」に、社会党京都府本部も七月二十三日に至って参加した。
 こうして今夏の京都市長選挙は、八月一〇日告示、二五日投票、同日開票でもって執行された。候補者、選挙組織、支持政党は次のとおりである。
◇今川 正彦(無、現) 七四歳
  「伝統と創造のまち・京都を発展させる会」(代表・大宮隆)
  推薦政党・自民党、公明党、民社党、社会党
◇湯浅  晃(無、新) 五六歳
  「市民本位の民主市政をすすめる会」(代表・尾崎祐一)
  推薦政党・共産党
◇加地  和(無、新) 四八歳
  「京都市に活力を創る会」(代表・鳥養 健)
  推薦政党・新自ク、社民連

  3.市長選挙の争点と課題

候補者の主な主張(八・二五執行選挙公報から作成)

 今川候補
  一、ニュー今川で古都発展
    ・四年間の実績と経験を生かし、共産党を除く政党、諸団体、一五〇万市民と手をたずさえて、二十    一世紀を展望した理想のまちづくりをめざす。
  二、基本政策
@二十一世紀をめざして、伝統をいかし、創造をつづける、世界に開かれた文化の首都、京都を築く。
A洛南新都市の建設や下水道の整備、地下鉄の建設など、大都市機能の充実と活性化をはかる。
B若者にも魅力のある、個性にみちた理想の都市づくりを進めるとともに、平安建都千二百年事業を市民の英知とエネルギーで成功させる。
Cおとしより、障害者、母と子のしあわせのために、福祉の一層の充実をはかるとともに、市民スポーツの振興につとめる。
D京都経済の振興をはかるとともに、中小企業や郷土産業の発展と観光産業の基盤整備につとめる。
E人間性をはぐくむ教育、文化の充実につとめるとともに、婦人の地位向上、人権の尊重など差別のない明るい社会を築く。
F林田府政と協調して、市民本意の市政を進めるとともに、行財政改革を推進し、ムダのない、効率的で活力のある執行体制の確定につとめる。

 湯浅候補
  一、今こそ市民本意の民主市政の実現を
○自民党や財界に奉仕する市政への今川市長の転落に大きな怒りを感じている。
○革新・京都の誇りである富井・舩橋民主市政の伝統をうけつぎ一五〇万市民のくらしを守るため、自民党の悪政や財界・大企業の横暴、ゆがんだ同和行政に対してきっぱりとした 態度をとる市政をすすめる。
○市民・観光客からとる古都税に反対し、京都の文化財保護と産業の振興対策を確立する。
  二、つくろう、くらしに活気あふれる明日の京都を
@市民いじめの軍拡・臨調路線を許さず、くらしと営業を守り、福祉・医療・教育の充実をはかる。
A財界本位の「京都改造」計画を認めず、京都の良さを生かし、市民参加ですみよいまちづくりをすすめる。
B三億円公金不正支出事件の真相を究明し、暴力・利権を許さず公正・民主で部落問題を解決できる同和行政を確立する。
C「非核・平和都市宣言」を生かし、日本の顔・京都を反核・平和の都、学術・文化と伝統産業の都として発展させる。

 加地候補
  一、私の決意
○現市長は、三年間古都税問題で京都市民に大きな損害を与えたことに対し、速やかに責任を取るべきである。
○今度こそ、市民パワーで新旧交代を。
  二、私の公約
@週刊朝日に報道された「闇の帝王」のような利権屋集団に支配された京都市政の体質を打破し、市民の声を市政に反映出来るようにする。
A古都税問題は、協力金制度を主たる内容とするあっせん委員の案を全面的に尊重する。
B京都市役所の行政改革を徹底的に行い、節減出来た経費を、交通事情改善、まじめに働く職員・教員の待遇向上等に充てる。
C共産勢力の影響を排除し、京都市の正しい教育の実現を図る。
D林田府政と真の協調を図る。

 争点と課題

   今川候補が、その支持政党に変化をみせたこととは別に、選挙における主張は、現職としてのこれまでの実績を訴えることによってその延長線上に公約を掲げたのは当然のことである。過去四年間市政を担当した中で、その前半は「福祉の舩橋市政」継承のために全力をつくし、まちづくりに力を注げるようになったのは後半になってからという。これからの四年間は、一方では福祉を後退させることなく、二一世紀をめざすまちづくりに、まちづくりの専門家として全力をあげたいというものである。選挙過程において社会党支持層を中心に、福祉充実への強い期待が今川候補に寄せられていたのは印象的ではあった。
 これに対して、湯浅候補は、富井ー舩橋市長と継承されてきた民主市政が、今川市長によって自民党・財界奉仕の市政に変質したとして、民主市政の伝統を受けつぐことを基調に、同和行政のあり方を正し、古都税に反対し、反核・平和を訴えた。
 加地候補は、京都市の現状を「溢れるムジュンと腐敗構造」にあるとして、主として行政体質の改革・刷新を主張、古都税問題に対しても、そのすすめ方に対して批判する立場をとった。
 選挙結果は、湯浅、加地両候補の票が現職の今川候補票を上回るという厳しい市民の”審判”となって現われたことは、一方で福祉施策の水準を落さず、他方で経済の活性化をはかりつつ、二一世紀へむかっての新たなまちづくりをめざしていくにあたっての、心しなければならない幾つかの前提条件を課したものであるといえよう。

  4.八〇年代後半の課題と二一世展望のために

 西暦一九九四(昭六九)年に迎える建都一二〇〇年まで、あと余すところ八年である。そしてその七年後に二一世紀を迎える。その道程は概略次のとおりである。
 一九八七年(昭六二) 世界歴史都市会議
 一九八八年(昭六三) 自治九〇周年
            京都国体
 一九八九年(昭六四) 市政一〇〇周年
 一九九〇年(昭六五) 琵琶湖疏水完成一〇〇年
 一九九四年(昭六九) 建都一二〇〇年
 一九九八年(昭七三) 自治一〇〇周年
 一九九九年(昭七三) 市政一一〇周年
 京都市に関しては、このように、二一世紀に至る歴史的な節目は用意されているとはいえ、それらはいずれも時間的、周年的な器としての道程にすぎない。その容器にいかなる内実を入れるかがこれから問われることになる。
 二一世紀を目前にするということは、今一つの表現を借りれば、それは「世紀末」であることを意味する。そのイメージするものは、およそ輝ける未来とは隔たったものがある。明らかに希望と不安との交錯する時代を迎えつつあるといえる。
 地方自治をめぐる昨今の社会・経済状況は、行政改革の波が否応なく押し寄せ、ただでさえ未熟であった自治体の前途は、まさに試練の連続であるといえよう。こうした中で、福祉に、経済の活性化に、そして長期的なまちづくりに、市政の全機能を活用していくには、まず第一に問われるのはいうまでもなく強固なる庁内体制の確立であるといえる。今後ますます変動の幅を拡大するであろう市政をめぐる政治状況の中で、行政施策の長期的な安定性をいかに確保するかは、市民生活の安定のためにも不可欠であるといえよう。
 そのため、一九八〇年代後半からさらに二一世紀を展望した京都市政を考える場合、@政治と行政との新たな関係、A庁内体制の新たなあり方、B福祉と経済とまちづくりの一体的関係について、市基本構想具体化にためにも、改めてその問いかけを必要としよう。

 政治と行政との新たな関係を

 政権党と社会党の長期低落傾向による多党化現象が指摘されてすでに久しく、地方議会においてはすでに早くから、また国会においても連合時代にはいりつつある今日、政治状況の変動は、今後ますます拡大することから、行政の相対的な自律性の確保が今後必要となってくる。また、政治を、市民利害の調整の場であると広義に理解するならば、党派的な政党間のリーダーシップ争いとは別に、市民利害の代弁とその調整という合理的な機能をも政党に求める必要がでてくるものと思われる。これは、政党ー市民ー行政の新たな関係の構築を要求するものであるといえる。

 庁内体制の新らたな関係

 政治と行政との新たな関係ないし行政の政治変動からの相対的な自律性を確保するには、行政体自身が、新たな理念に基づく安定した組織体制を確立しなければならない。それには、市民利害調整の場としての市議会と、執行機関としての行政組織の役割を明確化し、行政職員は行政専門官としての政治に左右されない価値体系を樹立する必要がある。今後の庁内体制には、政治的にみれば市長と傘下労働組合との関係は従前の対応とは異なったものとなるだけに複雑なものとなることが予想されるとはいえ、政治状況に直線的に左右されない、行政体としての安定した持続性が求められるといえよう。

 福祉と経済とまちづくり

 過去をふりかえってみても、その時々における行政の力点に変化があるのはある程度やむをえないといえる。しかし、これからの都市行政はより一層複雑さを加えてくるのは明らかで、単純な「福祉市政」もなければ、単純な「開発市政」もなく、福祉ー経済ー都市づくり(ハード、ソフト両面を含め)が一体的なものとして総合的にとらえられねばならないであろう。建都一二〇〇年から二一世紀展望への作業は、こうした内実に裏付けられることを期待していると考えられるのである。

     四 八九年市長選挙と九〇年代京都市政の課題
                                                                                                                  (一九八九年一一月)
  1.今回の市長選挙の特徴

 今回の市長選挙(告示八・一二 投票八・二七)は、かつてなくにぎやかな選挙であった。事実上、保守革新ともに分裂し、有力候補者四人、総勢九人による選挙戦となった。直前の土井社会党に強烈な追い風の吹いた参議院選挙による自民党大敗の激動のさなかにあったことが大きく作用して、これが選挙戦全体の曲折を貫くことになった。激動の参議院選挙の直後であったために、国政のあり方を地方でもいかに問うか、ということが選挙民のその時の最大の関心事であったにもかかわらず、京都市の行政体質を問う選挙となったことは、国政選挙の熱気が必ずしも市長選挙に結び付かない結果をもたらせたとも考えられる。また、参議院選挙直後で実質的な市長選挙期間が短かかったこともあいまって、投票率はあまり伸びなかった。選挙結果は次のとおりであった。
  投票率   四〇.六〇%
  投票総数   四三〇、七〇七票
  有効投票   四二六、九六九票
  当田辺 朋之   一四八、八三六票
   木村 万平   一四八、五一五票
   中野  進    七三、〇二五票
   城守 昌二    五〇、四九三票
   その他の候補    六、一〇〇票

  今回の市長選挙の特徴は、京都市政の刷新が最大の課題となり、もはや庁内候補は許されないという状況の中で、激動の参議院選挙と近く来る衆議院選挙という国政選挙の狭間にあって、国政の動向にまともに左右されたということにある。そしてその結果として、政治基盤の多少の変化はあったにしても、富井−舩橋−今川と過去二〇年余それなりの継続性をもって続いてきた京都市政の枠組が、基本的に変わることことになった。
 前年末に強行採決された消費税は、この年の四月に実施されるが、リクルート疑惑と重なって、またアメリカの米自由化圧力もこれに加わり、自民党政府に対する不信が都市農村を問わず全国的に噴出し、ついに竹下内閣が倒壊するが、その後継内閣を生み出すことすら容易でない状態を生んでいた。先の衆議院選挙で、絶対的な安定政権となった自民党政府の独走の結果に対する国民の抑止力が、土井社会党を過激に押し上げ、前年末以来続く全国各地の衆参補選や地方選挙で社会党の圧勝が続き、ついに七月二三日執行の参議院選挙において自民党は大敗し、社会党は躍進する。また、新しい政治要因として、労働戦線の全的統一をめざして誕生した「連合」が、野党結束の役割を果すとともに自ら連合候補を擁立したことも、こうした政治情勢をつくりだす一つの要因となっていた。その激変の状態は、参議院選挙京都比例区の結果を京都市域に関して見ても歴然である。
 京都市内の社会党は、従来から全国的な比較においても低迷の度は高かったにもかかわらず、その得票数において第一党に躍進、自民党の得票数は三万五千票もこれを下回った。その得票状況は次のとおりである。
     七月二三日執行参議院選挙・京都比例区得票数(京都市内分)
  社会党     一八〇、九六二票
  自民党     一四五、〇〇七票
  共産党     一一八、三七三票
  公明党      六五、三五四票
  民社党      三六、一一三票
  その他      八一、九五五票
  有効投票数   六四七、五九一票
 こうした国政選挙の結果は、当然市長選挙に影響し、自民党は慎重となる反面、社会党の動向が大きく注目されることになった。また参議院京都地方区で候補者の当選を果たした連合は、市長選挙においても社公民の結束を図ろうとしたけれども、結果として実らなかった。そして、最終的に社会党が単独候補擁立に踏み切ったことにより、これまでの保革対決や、オール体制、自社公民型とは異なった市長選挙となった。しかし、今回の市長選挙は、候補者主導で展開し、政党の対応が後手であったことも原因し、国政選挙の反映は不発に終った。
 市長選挙の結果は、田辺候補が当選したが、その差は僅少差であり、また、もともと京都府医師会が擁立し、自社公民四党の支持をめざしてきただけに、市長の政治的スタンスと市政運営の構えかたにどのような差異があるのか否か、今後の政治状況の変化と合わせて、注目されるところである。

  2.市長選挙の若干の経過

 古都税紛争による市政の停滞と、その経過における今川市長の受けたイメージの悪さに加え、同和行政にかかる不動産取得等をめぐる公金不正支出事件の発生、さらには一条山をはじめとする乱開発の多発など、京都市政のダーティーイメージは極度に達していたことから、次の市長選挙ではもはや庁内候補はありえないというのが専らの雰囲気としてあったものの、そうした市政の状況が深刻なものであればあるほど、しかるべき候補者もまた容易にはなく、過去十数年庁内出身市長で推移してきたことからも、現職の今川市長の去就が、現実にはもっとも注目されていた。
 しかし、今川市長の去就を示す動きの明らかでない段階から、各政党の模索ははじまるとともに、政党の動きに先行するかたちで候補者が多彩に名乗りを上げだした。政党サイドの模索は必ずしも遅くはなかったが、消費税とリクルート問題による逆風下の自民党が慎重にならざるをえなかったことが政党の対応を遅らせる結果となった。また、水面下の動きも含めれば、個別候補者の動きはかなり早い段階から見られたのは、今回の市長選挙に、庁外候補の可能性が強かったからとも考えられるのである。
 おもだった動きを振り返ると、政党サイドでは、まず、自民党が、昭和六三年(一九八八)六月一九日の府連第三九回定期大会で、市長選挙に対し、「来年に選挙を控え『清新な市政』を望む声は高い。わが党は百五十万市民の期待にこたえるため、京都にふさわしい候補者の擁立と広範な支持勢力の結集に努め、必勝の体制を確立する」と、現職以外の候補者を人選する可能性を示唆する方針を決める。ついで七月一〇日に、民社党が府連第二九回定期大会で、「清新な候補者の擁立と市政の刷新を期す」と、現職以外の候補者擁立の方針を決め、しかも、玉置一弥委員長は「年令的に見ても今川推薦は前回限り。次ぎは必ず違う候補を推す」ことを明言した。
 また、社民連は、八月一四日の代表者会議で、社公民と四党のイニシアチブで「京都活性化のできる」候補者を選ぶ方針を決める。一〇月三〇日には、昭和四二年の富井市政誕生以来一貫して与党を担ってきた社会党が、府本部定期大会で、「新たな観点で候補者を擁立する」と現職との決別の方針を確立するに至る。そして、一二月一一日の府本部大会において公明党が現市政に厳しい評価を下し、現職擁立の考えのないことを示唆するに及んで、共産党はもちろんのこと、与野党を問わずすべての党で、現職擁立の考えのないことが明らかとなった。とはいえ、現実には、適当な庁外候補がなかなかなく、庁内候補擁立の可能性も最終段階まで存在していた。
 自民党逆風の中で、平成元年(一九八九)四月に行われた名古屋市長選挙は、自社公民対共産の対決で、自社公民候補が当選したものの、一人野党となった共産党の躍進は目覚ましく、こうした結果が京都にも影響し、社公民の自民党離れが生じる。これに加えて、誕生間もない連合も、社公民を結び付ける新しい政治的要因として登場する。そうした状況を背景としながらも、地元選出国会議員による自公民の協議がすすめられる一方、社会党は反自民を明確にし、独自候補擁立の方向性も示すことになり、自社公民への模索とあいまって、複雑な動きが水面下で展開した。そした動きを見る中で気付かされるのは、社会党に国会議員がないことによる他党との噛み合わせが難しかったことである。しかもその社会党に追い風が吹くが、結果的に社会党は追い風に乗り切れず、慎重な対応を見せた自民党の手法が効を奏することになったのである。
 四月一〇日、「市民本位の民主市政をすすめる会」が、「山鉾町の町並と担い手を守る会」の木村万平会長の擁立を決定、五月三〇日には、「京都に再生の新風をまきおこす会」が城守昌二元助役の擁立を発表。六月四日には、社会党が、自民党とのけじめを明らかにしたM市民のみなさんと共に清潔な市長をつくりましょうNという意見広告を新聞に掲載する。
 そして六月八日には、今川市長が、与党四会派に「与党四会派の推す、反共の統一候補の擁立」を提案し、新しい候補の実現とあわせて自らの進退を明らかにする意向を示すに至る。これを受けて、自公民の地元選出国会議員レベルの協議がはじまり、社会党をも加えた選挙態勢の可能性を探ることになる。
   六月二六日、「世界に誇れる新しい京都を創る会」の要請を受けた病院理事長の泉谷守医師が出馬表明、二八日には、京都府医師会が、田辺朋之会長を擁立し、市長与党の自社公民四党に推薦要請することを決め、これを受けた田辺会長は、翌日の記者会見で出馬の意向を表明したうえ、七月四日正式に出馬表明を行うとともに、自社公民四党の推薦が絶対条件であることを明らかにした。この直前の七月二日に執行された東京都議選挙では、やはり自民党の大幅な後退と社会党の大躍進が実現していた。
 七月二三日には、まさに激変の参議院選挙が行われ、その直後の二七日、四条病院の中野進院長が出馬を表明する。その後、社公民三党による候補者の持ちよりが行われるも、調整作業に至らない中で、八月一日には、連合京都が、社公民の統一候補としての合意を前提に、奥野康夫助役に出馬要請することを決める。しかし、四日になって、社会党市議団は、中野候補の推薦を決め、八日には、府本部委員会で、投票でもって中野候補の推薦を決定するにいたり、民社党府連も、六日の執行委員会で田辺候補を推す方針を決めたうえ、九日の選対委で田辺候補の推薦を決定する。こうして、同日の九日、奥野助役は、出馬辞退の見解を表明、これを受けた連合京都も、候補者擁立を断念し、社公民の構図は成立を見ないことになる。そして、一〇日には、公明党府本部が田辺候補との間で政策協定に調印し、一一日には、自民党府連常任選対会議で、田辺候補の推薦を決定するが、他方京都社民連も、この日に中野候補の推薦を決定し、ここに市長選挙の全体像が確定する。
  ここで、先に医師会とその政治組織である医師連盟が、田辺候補の擁立を決定するに当たって条件としていた自社公民四党の体制が組めなくなったものの、一〇日に自民党府連に対してその推薦を要請、自民党の推薦決定はこれを受けた形で行われたものである。また自民党は推薦決定の後、改めてこれを支持に変更したがこれも医師連盟の要請によるものであった。また、泉谷病院理事長は、一一日に、その出馬を辞退した。
 このようにして、市長選挙の主な立候補者とその選挙体制は、公民推薦・自民支持の田辺医師会長、社会・社民連推薦の中野病院長、共産推薦の木村万平住民運動家に加えて、政党の背景を持たない城守元助役の三極、四者の対決となったのである。労働界は、京都連合は、一七日の緊急三役会議において、連合としては特定候補を決めず、各ブロック別の自主的対応に委ねる方針を決めたことにより、総評センターは中野、同盟は田辺の各候補を、京都総評は木村候補を推すことになった。
 こうした選挙構図ではあったが、候補者と各政党とのかかわり方は複雑で、城守候補には政党の背景はなかったとはいえ、各党にそれなりの接点が存在していたのが現実であった。
 今夏の市長選挙は、こうして八月一二日告示、二七日投票、即日開票でもって執行された。主な候補、選挙組織、支持政党は次のとおりである。
          
 ▽田 辺 朋 之(無、新) 六四歳
「明日の京都をつくる会」    推薦政党・公明党、民社党、自民党(支持)    
 ▽木 村 万 平(無、新) 六五歳
    「市民本位の民主市政をすすめる会」    推薦政党・共産党
 ▽中 野   進(無、新) 六六歳
    「みんなの京都をつくる会」   推薦政党・社会党、社民連
 ▽城 守 昌 二(無、新) 六一歳
    「京都に再生の新風をまきおこす会」

  3.市長選挙の総点と課題

候補者の主な主張(京都市長選挙公報から)

田辺候補
<私の決意>
   私は、一四七万京都市民のしあわせを願い、医療と健康と福祉の充実につとめ、二十一世紀を展望し、保存と開発の調和のとれた理想のまちづくりをめざします。
 古都税紛争によってもたらされた市政への不信を解消し、市民に信頼される市役所をつくります。
 参議院選挙で示された市民の審判を尊重し、国に対しては、消費税の撤廃と抜本的な政治改革を強く求めます。
<私の政策>
○おとしよりや障害者、母と子をしあわせにする、きめ細かな福祉と健康の施策をすすめます。
○市民の足となる地下鉄東西線の早期完成や道路の整備を促進し、活力あるまちづくりをすす めます。
○伝統産業、近代産業、観光産業など京都の経済基盤の活性化と発展に全力をあげます。
○新しい市民文化を育て、市民スポーツの振興をはかり、M世界の京都Nにふさわしい国際交流をすすめ、美しく、うるおいのある京都のよさをまもります。
○青年や女性の声をいかし、基本的人権をまもり、市民のための市政を確立します。
○荒巻府政と協調し、近隣市町村とも手をたずさえ、市民に開かれた、信頼される市役所をつ くります。

木村候補
最悪の市政の形をかえての継続(今川亜流)ではなく、市民の立場からたて直し、清潔で明るい市政をつくります。
<私の重点公約>
反自民・消費税廃止・京都のまちとすらしを守る
○消費税廃止・金権腐敗政治の一掃。
○国保料・保育料の値下げ、医療の充実で「福祉の京都」を実現。
○中小企業、伝統・地場産業の振興で、京都経済の発展。
○どの子も伸びるゆきとどいた教育をすすめ、非核・平和・学術・文化の京都を発展させる。○財界本位のまちこわし・地価の高騰をおさえ、京都のよさを生かす二十一世紀を展望したま ちづくり。
○不正・腐敗を許さず、ゆがんだ同和行政をただし、市民が主人公の清潔で明るい市政。

中野候補
反自民 消費税廃止 リクルート疑惑糾明をつらぬく   
市民参加の町づくりへ ルネッサンス!
開かれた市政で二一世紀の京都を
 古都税をめぐる密約や公金不正支出事件を再びおこしてはなりません。利権を生む土壌を排除し、密室から開かれた市政へ、停滞から前進の市政へ、市民と共に私は歩みます。
 京都の文化資産を大切に、伝統を新しい芸術へ、伝統産業とハイテク産業の融和で産業振興を、そんな町づくりを……これが私のお約束です。
 二一世紀は、京都の文化が世界へ羽ばたく世紀、新しい国際都市をめざす時代です。京都らしさの保存と新しい文化の創造をめざします。
 女性、お年寄り、障害者、子供の権利を守るとともに、福祉の増進に努めます。

城守候補
三〇年余の行政経験を生かし、京都市政を「大改革」して、市民の声と願いが直接に生きる「新しい京都」を創造します。
<私の主張>
○市民とともに考え、行動する魅力ある京都市政の創造。
○国際的学術・文化都市にふさわしい文化の継承と創造。
○二一世紀を展望した生涯学習の推進とスポーツ活動の振興。
○京都の再生をめざした伝統産業と先端産業の活性化。
○伝統と調和した躍動する都市づくり。
○若者、女性、おとしより、こどもたち、みんなが輝く心の通った福祉のまちづくり。
○基本的人権の尊重と、平和なまちづくり。

 争点と課題
 
 今回の市長選挙では、現職が出馬しなかったことに加えて、前市政の刷新を各候補ともに掲げたことにより、対立点は必ずしも鮮明ではなかった。むしろ共通点の方が多かったともいえる。
 各候補者に共通する課題は、古都税紛争による市政不信をいかにふっしきするかであり、市政の刷新や開かれた市役所づくりが共通して訴えられた。二一世紀への京都づくりをはじめとしたまちづくりや産業政策、歴史と伝統をふまえた新しい文化創造にも共通するところは多く、医療や福祉、高齢化社会への対応にもさして大きな違いはない。
 対立点としては、大型プロジェクトの推進かそれとも見直しか、大型スーパー進出に対する見解、この四年間の福祉に対する評価の違いなどであり、財政政策に関しては、自主財源の不足を訴えるのか或は財政にゆとりのあるかのような主張の違いもあった。
 選挙結果から明らかなことは、まず第一に、市長の政治基盤が変化したことであろう。オール与党の体制から、前回の市長選挙で自社公民体制となり、そして今回の選挙で自公民体制となり、社会党と共産党とが野党となった。しかし、その当選が木村候補と紙一重の差であったこと、自民党と共産党との市議会勢力が拮抗していることなどから、市政運営をめぐっては、必ずしも市長の政治基盤を明確にすることができうるかどうかは難しいところであろう。
 第二に、今回の大量立候補である。これは市民の市政不信と市政の停滞に対する反発で、長年の庁内からの助役出身市長からの決別であった。
 第三に、新しい政治の流れの問題である。全国的な社会党の躍進と京都社会党の現状との落差の存在、京都連合と社公民の将来展望、そして京都自民党の京都政界におけるリーダーシップの可能性、こうした点が今後の京都市政の政治的背景を構成する要因として存在している。
 こうした特徴をもつ今回の選挙結果を基礎にして、京都市政の現状をいかに克服し、京都二一世紀への展望に結びつけていくかが、新しく船出することになった田辺市政に課せられた基本的な課題であるといえよう。
 現在、京都市には極めて多くのプロジェクトが企画されている。どの一つをとってさえ、その実現は容易ではない。しかも、市政の執行体制はかつてなく弱体化している。加えてここ一両年の地価の異常高騰と土地買い占めにさらされ、京都の再開発は一層困難になってきた。五年後には平安建都一二〇〇年を迎える。京都に二一世紀を夢あらしめるには、ただに京都市政のみならず、官民挙げての総力を結集しなければならない。
 市長選挙で対立したその対決の構図を将来に延長するのではなく、政治的立場、個々の利害を超えて、真に京都的利害でもって総意を形成する必要がある。京都の置かれている状況は、国内的にも大変厳しい段階にあり、狭い京都の内部で目先の利益を奪い合っているゆとりはないのである。そのためにも、京都市政にとって今一番必要なことは、京都市職員二万人の活性化をはかることであり、そのための具体的処方箋を作成することである。改革には、そのための設計図と、それを実現するための具体的手順を必要とする。京都二一世紀は、ここからしかスタートできないことを覚悟することが、田辺市政の最初に要求されることであろう。


                   
第三部 明日への教訓と指標を求めて


      一、京都市政の課題

     一 革新市政一〇年の歩みと課題            
                                                                                                                    (一九七七年二月)
  1.革新市政一〇年の問題意識

一〇年の尺度  「一〇年一昔」というまでもなく、一〇年の歳月は、それが何事であっても、特別な、ことさらのものとしてではなく、日常的な、ごくあたりまえのものとしてしまいます。革新市政もまたその例外ではありません。ちなみに京都市政における一〇年の歴史をみるにあたって、保守市政を体験していない、革新市政になって以降に市職員に採用された人々をみると、おそらく全職員の中では三分の一をこえるに至っているのではないかと思われ、三〇歳前後までの人々はほとんどがそうで、それらの職員の方々にとっては革新市政は与えられたものでしかないかもわかりません。さらにまた、それ以前からの人々の意識のなかにおいても、一〇年前の緊張感はすでにかなりの程度薄らいできています。
 しかし一方、国政においてはようやく保革伯仲時代を迎えたとはいえ、なお強固な保守体制下にあり、革新自治体はいかに長く定着しても、内にあっては議会における少数与党、外にあっては国政における保守体制のなかで、やはり日々革新の緊張を持ち続けなければなりません。とはいえ、一〇年前の成立当初と今日とで大きく異なる点は、その主張、姿勢において保守と異なるという以上に、その行政的実績において革新的でなければならない点です。成立当初の主張が、その後の行政実績として具体化されていかなければなりません。そこに一〇年をふりかえる一つの視点があります。と同時に、一〇年の歩みをふりかえることは、明日への課題と展望をより正確に導き出そうとするものでなければなりません。
 
問われるべき課題  革新市政が行政として問われるかぎり、それは政治的主張においてではなく、行政内容において問われることになりますが、その問い方については現在までのところ必ずしも共通の指標が確立されているとはいえません。問うのはだれで、問われるのは誰かについてもそうです。
 革新市政とはいっても、その成立当初は市長がひとり革新であるのみで、議会は保守勢力が多数を占め、庁内体制もなお保守的体質にある中で、選挙では一致した革新勢力も、具体的な市政運営に対しては共通の合意は容易になく、結局のところ革新市政の重圧はひとり市長の肩にかぶさっていたといえるでしょう。
 現実に制限され、限られた財政と権限のもとで、市民要求に応えつつ革新市政の主張を貫くその具体的プロセスと方法論を現実に用意することが、成立後の革新市政の課題ではありましたが、その課題は今日なお生き続け、しかも明日への課題に引き継がれるところに基本的な問題点があると思われます。
 たとえば革新政党間において、たとえば総評をはじめとする労働組合、民主団体の間において、市政運営をめぐる共通の合意が今にしてなく、それぞれが市民要求サイドに主として立つ限り、革新市政は、行政主導型の道を歩まざるをえなくなるのもまた当然のことでしょう。
 この場合議会との関係は、直接的にはもっとも重要となってきますが、この議会と行政ないし革新市長とのギャップをどう埋めるかは、根本的には市民に課せられた課題であるといえるでしょう。
 いずれにしても今日革新市政の課題が、市長をはじめとする行政サイドにその多くが課せられ、また逆に、行政サイドからの市民への問題の投げかけが必ずしも十分とはいえないと思われるなかで、広く各方面、各立場からの革新市政に対する自らの役割を含む根本的な検討が要請されているといえます。

  2.一〇年の歩みをかえりみて

 昭和四二年三月に富井革新市政が誕生してから今年(昭五二)の三月で、京都市においても革新市政一〇年目をむかえることになりました。当初の「激動」から今日の「安定」に至るまでの一〇年は、ふりかえってみれば短いものかもわかりません。その理由は、革新自治体は、全国的にみても今日なお、より大きなサイクルのなかでの模索と試練のなかにあるからです。
 昭和四二年に誕生した富井革新市政は、四六年には舩橋市政へと引き継がれ、さらに五〇年から第二期舩橋市政へと発展してきましたが、その歩みは、全国動向とは無関係にはありません。
 昭和四二年の四月には東京で美濃部知事が誕生し、京都市における革新市政誕生とあわせて、昭和三八年の統一地方選挙でようやく革新自治体の進出がクローズ・アップされて以来、大都市を中心とした革新自治体が、ここにわが国の政治史上に大きく登場してくることになりました。革新自治体は、ここではM対話Nとして登場しますが、昭和四六年には川崎市と大阪府で、また四九年までに岡山・香川・滋賀の各県及び名古屋市でも革新首長が誕生するなど、昭和四〇年代の後半は、革新自治体の誕生と活躍がはなばなしい時期であったといえます。そしてこの時期は、「列島改造」に示される国土開発とインフレの急進する時期でもありました。
 昭和五〇年には神奈川県にも革新首長が誕生しますが、その前後には、それまでの革新自治体で失うところもまた多く、革新自治体も成立期の段階とは異なるその本質的な内容が問われる段階となり、不況下の財政危機とあわせて、いよいよ試練の時期をむかえるに至ったといえます。
 そうした状況を背景に、昭和四二年から今日までの京都市政は、大局的にみると、富井市政によって革新市政の基礎づくりが行われ、それを第一期舩橋市政が継承するところとなり、さらに第二期舩橋市政では、具体的事業として深化してきているといえます。と同時に、「福祉の風土づくり」にみられる福祉行政の充実が強い特徴を形成してきています。
 このようにして京都市政は、この一〇年間において、革新市政成立当初の激動期を経て、舩橋市政に至って、いわば総論の段階から具体的各論編へとすすめられ、それだけ具体的な事業が問題とされ、推進されているといえるでしょう。しかし、革新市政一〇年をむかえ、個々の具体的な事業をこの厳しい財政事情のもとで、しかも個々の具体的事業の推進を通して革新市政の精神を生かそうとするとき、ここで再び、全体的な事業の総合的、体系的な把握と、今日の時代把握に基づく、総論的な視角が必要となってきているものと考えられます。市民参加の問題にしても、その前提としてのM職員参加Nの問題を具体的にどのように用意するかという問題も、こうした観点からの、次の一〇年にむかっての革新市政の再スタートにあたっての庁内総意の形成の問題として重要であるといえましょう。

基本政策、基本動向について  富井市政の成立によって、市政は保守から革新に転換しましたが、次の舩橋市政成立の選挙では、相手候補までが富井市政の継承をうたい、第二期舩橋市政の選挙ではついに対立候補がなくなるなど、革新市政は、その実態において定着してきました。
 基本政策面では、それまでの都市開発と市政管理の近代化をめざした市政を、富井市政は、市民を主体とした民主市政の確立による「百四〇万市民の健康とくらしを守る市政」へといわば一八〇度の転換をなし、「地方自治の確立」を基本的な課題としました。都市開発に対しては、むしろ、都市発展のひずみから市民生活を守ることが市政の課題となりました。
 第一期舩橋市政ではその基本を継承し「福祉面と一体の住みよいまちづくり」をM市民ぐるみNですすめるという形に発展しました。ここでは市政の基本にM福祉Nが明確に位置づけられるとともに、都市問題に対しても、市民生活を守るという姿勢から、積極的に人間尊重の都市づくりをすすめるという姿勢に発展してきました。そして、福祉と都市づくりとが一体のものとしてとらえられることになりました。この福祉行政に関しては、京都市は、全国革新市長会においても中心としての役割を果しています。
 第二期舩橋市政では、厳しい財政危機に直面しつつも、「福祉」と「人間都市の建設」にむかって、その各事業が一つひとつ具体的にすすめられています。こうした事業の具体的な推進にむかうことは、他方で政治姿勢としての直接表現を強調する方式でないため、ときとして革新性を強く印象づけない作用をはたらかすことになったことも否めません。しかし、地方自治の存立をゆるがす厳しい財政状況のなかで、財政自主権の確立を中心とした地方自治確立にむかっての京都市政の重要な役割は、全国革新市長会のリーダーとして、また七大都市革新首長懇談会の中心メンバーとして、その比重を高めているといえます。
 このようにして、革新市政は、この一〇年の間に、革新市政の意義づけの段階から、具体化の段階を経たうえで、その具体的なものの再体系化の段階にむかっているといえますが、また、革新市政を第一期から三期へと考える場合、昭和四二年までの保守市政では、高度成長経済に遅れないための市政を志向し、第一期の革新市政では、昭和三〇年代から顕在化しはじめた高度成長によるMひずみ”に対して市民生活を守る市政を志向し、四六年からの第二期革新市政では、インフレ、列島改造に対して、それに対する防衛にとどまらず積極的に市民自らのものを築く市政を志向し、そして五〇年からの第三期革新市政では、高度成長経済の破局とそれによる財政危機のなかで、改めて、自治の原点を厳しくみつめ行動する市政への市政が求められているといえます。
 
特徴的な施策について  富井市政では、「市民の健康とくらしを高める市政」として、ちびっこ広場、交通災害共済、小中学校父母負担の軽減、インフルエンザ予防接種の無料化、老人の無料健康診断等々の新規事業のほかに、保育所の増設と保育料の据置、歩道整備、公営住宅の増設、ごみの週二回収集、くみとり直営化の拡大など保守市政下では切り捨てられる方向にあった事業を拡充してきました。そして当初は、問題意識のむしろ過剰ななかで、革新市政の建設のための多面的な試みがなされたといえます。また、都市問題に対しても、市民の立場に立ったその根本的な対応が検討され、「まちづくり構想ー二〇年後の京都」が策定され、それが今日のまちづくりのベースとなっています。
 第一期の舩橋市政では、「福祉面と一体の住みよいまちづくり」として、福祉と市民のまちづくりが明確に位置づけられ、発展することになります。
 具体的には、老人福祉の抜本的な拡充をはじめ、福祉施策は全般的により一層すすめられますが、これらが、「福祉の風土づくり」として位置づけられ、福祉施策の体系化とその推進の運動化が試みられることになると同時に、「人間尊重のまちづくり」として、市街地景観条例や建築協定条例の制定、宅地開発や日照等に関する指導要綱の制定、私道舗装助成制度の発足などのほか、山陰線高架工事、地下鉄烏丸線の工事着手、洛西ニュータウン建設工事着工、京阪鴨東線地下化構想と事前調査など、舩橋市政の生命にかかわる大規模、難工事に着手し、これらは今後の市政の根幹を揺るがす事業といえるでしょう。このほか、百万本植樹運動、マイカー観光拒否宣言などの特徴的な施策がすすめられました。
 第二期の舩橋市政は、その選挙公約において五つの柱をたて、より具体的な歩みをすすめています。その五つは、@市民のくらしと健康をまもる「シビル・ミニマム」をつくり、福祉都市を実現する A住みよい都市環境づくりに取り組むとともに、郷土産業の振興をはかる B生きがいのあるくらしを保障するため、市民の教育・文化・スポーツの向上をはかる C一四〇万市民の声と創造がこだまする民主市政を発展させる D自民党政府の中央集権的な自治体政策に反対し、地方自治の確立をめざす、とされており、福祉で、市民委員会方式による「市民の健康と福祉に関する総合政策体系のあり方」の答申も得て、「福祉の風土づくり」をいよいよ本格化するとともに、まちづくりでは、地下鉄烏丸線がいよいよその工事を進行し、その早期完成の期待をも含めて、市民の足の確保とその安全問題が、市政の最大の焦点となってきています。このほか第二期舩橋市政において、重要事業が山積しているところですが、財政危機に直面するなかで、同時に既存行政の縮小再編成の課題をかかえることになり、ここに、地方自治体としての根本的なフレーム(ワク)の拡大なしにはその将来を展望しえない局面をむかえるに至っているといえます。
 
市民参加、地方自治の確立について   市民参加といい、地方自治の確立といい、それは革新市政の根本であると同時に、最終的にはそれはもっとも困難なものであり、それにむかっていかにすすむか、いかに努力するか、いかにそれへの強い志向性をもつかがなお当分の間の課題でありましょう。
 富井市政にあっては、まず第一歩として、市政を、市民に対して開かれたものとする努力がなされ、市長と市民の対話集会をはじめ市区民相談室の抜本的拡充、さらには庁内体制の改革と市民に接触する第一線部門の重視など多くの努力がなされましたが、それらは必ずしも順調には育たなかったといえます。
 舩橋市政にあっても、市民参加と地方自治確立をめざす基本姿勢に変りなく、全国革新市長会や七大都市首長懇談会を通しての活躍にはめざましいものがありますが、京都市レベルにおいては、市民参加の問題は、「市民ぐるみ運動」、「一四〇万市民の声と創造がこだまする民主市政」という形でとらえられており、なお、具体的な方法論に裏付けられているとはいえません。
 こうしたなかで市民参加の問題は、一方で市民運動の展開があり、他方でそれに相応じる庁内体制の問題としてとらえる必要がありますが、現在の段階では、市民運動の弱さもあって、行政主導型でとらえられているといってもよいでしょう。いずれにしても、市民参加の問題が全国的にも主張され、そして今日なおその方法論が多種多様に検討されているなかで、「職員参加」の必要性が強く指摘されるに至ったことは注目に値します。

  3.当面する地方自治の課題と市政の展望

財政危機に対して  革新自治体はその成立の当初から、財政面における三割自治の現状を明らかにしてきましたが、昭和四六年以降の危機のなかで、地方財政の構造的な問題が全国的にも強く主張され、基本的な問題点はすでにこの当時に出つくしていたともいえます。問題は、財政面に対する取り組みは極めて難しく、東京都をはじめいくつかの都市で新たな試みが続けられたとはいえ、全体として財政構造に迫る抜本的な対応ができてこなかったところにあり、いまだその段階にあるなかで、厳しい財政危機を背景に、中央政府のM攻撃Nを受けたところにあります。そのため、今日の財政危機の克服にあたって、全国的にみてもまず個々の自治体の内部努力に非常な精力を費やすところからスタートした感がぬぐえなかったと思われます。それだけに、当面する地方財政の危機を、どれだけ本質的に、かつ根本的な問題としてとらえ対応するかが、今後の地方自治の岐路になってくるものと考えられます。
 今日すでに自治体の内部努力から、政府、企業に対するものへと自治のフレームの拡大に全体的にもむかっていますが、昨年五月一九日京都で開催された七大都市首長懇談会で「市民主体の地方自治の確立をめざして」をテーマに地方自治確立の原点が確認されたことは、それだけに重要な意義をもっているといえます。
 当面している地方財政の危機に対しては、その自治体が保守であると革新であるとを問わず、ケチケチ運動を手はじめに経常経費の削減、事務事業の再検討、新規事業の抑制にとどまらず、賃金抑制、退職促進、採用中止などの人件費抑制、さらには新たな税源確保への模索にむかう一方、政府に対して地方交付税率の引上げ、超過負担の解消、起債枠の拡大をはたらきかけることになったが、他方で政府の景気対策の影響を受けて国庫補助事業が増加することになりました。ここからくる問題は、住民生活の向上を主眼とした住民主体の地方自治はその実現をまたずしてはやくも遠ざかってしまうということです。革新自治体の福祉先取り政策に対する政府の福祉見直し論をめぐるたたかいは、まさしく地方自治を守るための政府との最大の接点となっています。こうしたことから、当面する財政危機のなかで、結果的に地方自治を後退させることなく立ちむかうために、地方自治確立の原点を改めてふりかえることは今やきわめて必要となってきているといえるでしょう。

市民参加と職員参加  京都市政の課題は、民主市政、地方自治の確立の問題とともに、総合的な福祉施策、まちづくりのための大規模事業の推進にありますが、これによる財源難は、今回の財政危機にまつまでもなく、すでにはやくから指摘されていたものです。加うるに今回の財政危機にみまわれることによって、今後の我が国の経済動向とも考えあわせ、財政難は、たとえ一時的に破局からまぬがれたとしても、まさしく構造的なものとなるでしょう。
 その原因は、急増する都市需要に対して、税財政制度が応じる体制にないことにあるとしても、地方自治体としては、その年度年度の締めくくりをしつつ根本的な解決策に長期的に備え対応するというあり方が必要です。それには、税財源は税財源として、行政需要は行政需要としてそれぞれ切り離して考えることなく、それらを一体的に、しかも全行政分野にわたって総合的にとらえ対応することがまず必要でしょう。財政支出と収入とにおいてそれぞれ別の論理が作用しているかぎり、財政問題に対する市民参加も現実には困難といえるでしょう。これらは自治体内部の作業ですが、同時に、財政自主権確保のための中央政府に対する行動も必要なことはいうまでもありませんが、これには、全国的な連携と、それを支える市民運動が必要です。
 市民運動は、元来市民の自発性とそれによるエネルギーに基づくものですが、財政問題における市民参加には、より一層そのことが心がけられなければならないし、また財政問題以前の具体的な活動がなければなりません。
 そうした財政問題にとどまらない、総合的な市民と市政との行政交流の方法論をどうみい出すかこそが、今後の京都市政の基本的な展望につながるものと思われます。その場合、全地域、全市民生活と全行政とを総合的にとらえた都市構想をどのようにつくりあげていくかが基本的な課題となってくるでしょう。
 当面する、そして今後の京都市政は、そのためにもM職員参加Nによる全庁的な、総意と創意の結集をきわめて必要としているといえます。
 市民参加にしても、職員参加にしても、今日なおその具体的な方法論が生み出されたものではありませんが、全国的にも多くの試みが続けられており、京都市政にあってもさらにそのための試み、風潮づくりが必要なのではないでしょうか。

     二 京都市政をめぐる当面の課題と展望
                                                                                                                     (一九八三年九月)
  1.はじめに

 今日の京都市政が、内に外に極めて多難な状況下にあることは、すでに周知のところである。しかし、その多難さの克服に、どれだけの展望をもち得ているかは、必ずしも明確ではない。およそ行政体のなかにあっては、事態の困難性の認識がいかに深くとも、それを克服する解決策を見出せないでいるかぎり、不十分のそしりはまぬがれない。それがいかに小さく、未成熟なものであっても、展望を切り拓いていく作業こそが行政には課せられているからである。ありていにいえば、“問題だ”、“困難だ”というだけでは、行政体は許されない。常にそのための対策が講じられていなければならないものである。
 かといって、今日の京都市政の展望は、そう簡単に見出せるほど容易なものではない。そのために、今日の京都市政をめぐる課題と困難性について、多少の整理を試みることによって、展望を見出していくための一助になることを願ったところである。
 今日の京都市政の困難性の第一は、いうまでもなく昭和五〇年代を通しての地方自治の危機の深まりにあるが、第二、第三の困難性は、むしろ地元事情である市政自身の流れと府政にあるといえる。そうした問題点は後述するとして、現在の京都市政の課題の特徴は、まさに京都の将来構想をめぐる点にあることも重要な点である。この京都市政をめぐる困難な諸条件と将来構想への踏み出しといういわば両極の課題を併せもつところに、現在の京都市政をめぐる問題の最大の特徴があるといえよう。
 問題の困難さ、深刻さは、将来構想を極めて無力なものにするかもわからない。しかし反面、深刻な危機意識がなければ、将来にむかっての迫力ある踏み出しもまた期待しえない。今日の京都市政、より基本的には都市・京都にとって必要とされることは、将来構想に積極的に立ち向かう、バネとしての危機意識にほかならない。その根底には、都市・京都市が漸くにして都市機能低下の危機にみまわれはじめ、単なる維持策では限界となりつつあることがある。かといって、長大な歴史的蓄積によって築き上げられてきた京都市の場合、安易な開発に堕することもまた避けなければならない。慎重かつ大胆なる検討が要求されるところである。

  2.市政の歩みのなかで

 今日の京都市政の課題が将来構想づくりにあることはすでにふれた。昭和五三年一〇月一五日に行われた「世界文化自由都市宣言」、その「宣言」の理念にむかう道程を示す「京都市基本構想」、この「基本構想」の軸となる「建都千二百年記念事業構想」づくりなどがそれである。
 今、そうした都市の将来構想づくりに関して、昭和三〇年代、四〇年代、五〇年代の京都市政をふりかえってみることは無意味ではないと思われる。
 昭和三〇年代、戦後の社会、経済状態も回復・安定し、その後半期には高度成長経済体制に入る。
京都市政は、前半期は財政再建団体として、再建計画下にあったが、後半期には、累積赤字も一年短縮して解消し、三七年度からは、自治省の監督下から離れて、ようやく一人前の自治体として歩むことになった。 
 将来構想に着手したのはこうした時期であった。昭和三八年三月、今日の「京都市基本構想」の前身ともいうべき「京都市総合計画試案」が策定された。しかし、この「試案」は陽の目をみることなく、昭和四一年に策定されたハードプラン中心の「京都市長期開発計画」にとって代わられることになった。「計画の課題」は、当時進行しだした高度経済成長の波に乗り遅れることなく、京都の近代化と開発をはかることにあった。しかし、三〇年代の末には、はやくも高度成長に伴う社会的、経済的諸矛盾が発生し、都市問題が生じつつあった。そのため、この京都「開発計画」に対しては、賛否両論に大きく別れるところとなり、昭和四二年、保革対決の市長選挙の争点ともなった結果、革新市長の誕生によって実施をみるには至らなかった。
 昭和四〇年代、経済は”超”高度成長ともいえる急激な成長をみせ、公害や都市問題を一気に噴出さすところとなった。昭和四四年三月に策定されたハードプラン中心の「まちづくり構想ー二〇年後の京都」はそうした最中における作品であった。都市を人間の生活環境として捉えることによって、都市問題に対するアンチ・テーゼを提起したものであったが、その具体的実施に至る方法論に恵まれないまま、市政運営の基調は、「くらしと健康を守る」ソフト部門におかれた状態が続いた。後半期、昭和四六年には、富井市政から舩橋市政へと移行し、市政運営の基調も、「福祉市政」へとその表現を衣更えしたが、同時に、「福祉のまちづくり」にみられるように、前半期には比較的否定的に捉えられてきた都市建設面についても、それを福祉的側面から捉え直されることになった。いわゆるハード、ソフト両面の重要性が認識されるに至ったといえる。
 昭和五〇年代。昭和四〇年代の後期に端を発した高度成長経済の行き詰りは、五〇年代にはいって明確になり、低成長ないし安定成長時代を迎えることになったが、現実には長引く不況下における、高度成長時代から次の時代への移行期としての苦しい時期となった。四〇年代の市政運営の理念が、高度成長のあり方に対する批判的姿勢をもちつつも、その将来予測においてなお高度成長が続くことを前提として受けとめてきたことに対して、五〇年代は、まさに予期せぬ停滞と新たな矛盾を現出さすことになった。その一つは、都市過密化速度の低落であり、今一つは、過密とは逆に、大都市都心部の過疎化及び都市機能の荒廃化傾向の現出である。
 高度成長のつけは、今、第二臨調にはじまる行財政改革となって現われてきているが、都市レベルにあっては、大都市の予期せぬ危機となって現われてきたといえる。「まちづくり構想ー二〇年後の京都」の見直しにはじまる「京都市基本構想」の策定は、この点にかかわっている。高度成長に乗り遅れまいとするのではなく、また高度成長の継続を前提としつつそれに抵抗して現在の状況を維持しようとするのではない。すでに危機にみまわれつつある都市の積極的な再生化策が要請されるに至ってきているのである。将来構想をめぐる論議が、今、官民ともに盛んな理由はここにあるといえる。
 市政運営にとって、その基調となり、目標ともなる将来構想(計画)が重要なことはいうまでもないことであるが、同時に、実行性こそが市政に対する評価基準であってみれば、市政の執行体制のあり方もまた重視する必要がある。
 京都市政において、行政の効率性の確保は、戦後一貫して背負わされてきた宿命のようなものである。その消費都市的性格の強さから、財政力が弱く、昭和二〇年代の後半には、大都市の中でひとり京都市のみが多額の累積赤字にみまわれ、昭和三一年度から三六年度までの六年間きわめて苦しい財政再建団体の指定下にあった。そのためにはやくから事務能率の向上や事務事業の合理化に着手しており、それらがベースとなって、四〇年代後半には「市政管理の近代化」というスタイルによる、市政の管理中枢機能の一元的な集中化が試みられた。しかし、それがあまりにも典型的であったから、それに対する潜在的な反発も多く、昭和四二年における市政の保守から革新への転換にともない、権力集中的なあり方は解体され、以後、そうした状況は生れることなく今日に至っている。
 管理中枢機能の極端な集中化は、地方自治にとって本来必要な第一線現場部門を軽視する傾向を生み、ひいては現場部門が管理中枢部門の手段に陥る危険性をもつ。また逆に、管理中枢機能が弱く、現場部門が事実上分立したような状況になると、市政の一体性や斉合性、首長のリーダーシップ性は弱くなる。現場部門のひとり歩きは、行政の何たるかを疑わしめることにもなろう。しかし、四〇年代から五〇年代にかけての市政の執行体制は、「局自治主義」という指摘があるように、各局分立の傾向化にあったといえる。
 都市が一定の危機に直面し、その打開のために将来構想を必要とするとき、都市行政に要請されるのは、それを計画し、実施するための統一的、体系的なあり方である。過去、極度の権力集中から「局自治主義」へと両極のあり様を経験してきた京都市政として、確たる「将来構想」と「計画」を樹て、それを実行していくには、現場部門の独自性を尊重しつつ、一定レベルにおける全市的な機能調整が必要となりつつあるといえよう。

  3.展望を求めて

 かつて、経済の高度成長がはじまる頃、地方中小都市は、財政力の強化を求めて、競って工場団地の造成や固定資産税の減免などによって工場誘致に努めた。しかしその結果は、税収が上がるよりも、公害や都市問題の誘発による行政経費の支出増の方が上回ったとの評価が専らであった。
 高度成長の終焉による経済停滞は、再び工場誘致合戦を自治体間に再現させつつあるともみられる。また、高度成長期に開始された工場に対する公害規制や企業責任問題も、経済停滞の中ではその影を薄れさせてきている。企業活動が活発であることが、即、都市と社会に対する還元であるかのような主張すらみられる今日ではある。それは、規制一辺倒の公害対策が、必ずしも当を得ていないのと同様に、私的利益のために手段を選ばない私企業のもつ危険な一面を是認する結果を生みかねない。
 企業は常に安い土地と労働力と水ないしエネルギー源を求めて移動する。だからといって、都市はいたずらにM安さNやM便益Nを提供することにおわってはならない。高度成長時代における企業と都市及び社会との矛盾を経験した今日、企業と都市・社会との新しい関係こそが模索される必要がある。都市は企業に対する”安さ”を提供するのではなく、企業活動に対する文化を含む都市集積の積極的なメリットを提供しなければならない。企業はまた、都市に存在する限り、法人としての市民であり、市民である限り、あくまで地域社会の一員としての権利・義務を明確にする必要がある。とくに法人市民の市民的義務について、具体的に検討する必要があろう。こうして、都市及び地域社会との共存共栄のあり方を模索するなかで、経済的活力の問題を取り上げる必要があるのではないかと考えられる。
 いずれにしても、今問われているのは都市・京都の成り行きである。経済活動をはじめとする諸活動が広域化し、一都市内でいかに事態を論じることが困難になってきたとはいえ、今問われているのは京都市という歴史的に形成されてきた、文化的、経済的、社会的諸資源の集積した都市が危機的な状況に陥りつつあることに対してどう対応するかという点である。歴史的に形成・蓄積された諸資源が分散・分解した上では、もはや京都の広域性もなく、京都圏は単なる大阪圏の一部としての意味しかもたなくなってしまうであろう。
 京都市政の明日への展望は、その根本において、「都市の将来」というテーマを市民、行政、そして経済界すべてが共通のものとしてどこまで深く認識するかにこそかかわっている。その意味で、建都一二〇〇年問題をめぐる府、市の綱引きは、明らかに府に無理がある。
 歴史的イベントとしての建都一二〇〇年は、もちろんのこと単なるお祭り騒ぎであってはならない。明日の時代にむけての課題に結びついたものでなければならないことはいうまでもない。しかしその課題は、建都一二〇〇年が、都市・京都の歴史的イベントである限り、あくまで京都市固有の課題でなければならない。京都市周辺の諸都市に対して、京都市がいわゆる京都圏の核をなしている現状のなかでは、都市・京都市の課題は同時にその広域自治体としての府政の課題でなければならない。今日、京都市は都心部の過疎化をはじめ、企業の流出などによって歴史的な集積効果を減少させつつある。建都一二〇〇年のイベントが、そうした集積効果の減少傾向を促進するものであってはならないことはあまりに当然のことであろう。明治時代、府政は京都市政を育て、これを支援してきた。それが府政の重要な役割の一つであった。そのため、建都一一〇〇年記念事業は、市制特例下の当時にあっても、府政は、都市・京都市の歴史的イベントとしてそれを推進した。
 こうした府政の動向をはじめ、昨今の第二臨調の動向は、地方自治、なかんずく都市自治体の独自性の確保にとってゆゆしい外部環境を形成しつつある。行政の担い手たる公務員制度の改革も具体的にそ上にのりはじめている。日本においてもやがて来るであろう「地方自治の時代」を夢見てきた四〇年代が、まさにうそのようにさえ思える今日の状況は、地方自治にとって「冬の時代」の到来を示すものであろう。
 「冬の時代」であれば耐え抜くことが課題となってくる。京都市政にとっての今日から明日への課題は、多難な外部環境に耐え抜きつつ、自らの体内から、明日への展望を見いだすことにある。その素材と条件は、都市・京都市の課題を、市政の課題として具体化することにあり、それは、とりもなおさず、都市の将来構想にかかわっている。
 京都市政の課題と展望は、京都市役所という庁内問題では決してなく、あくまで都市・京都市の課題と展望でなければならない。そのために問われるのは、行政職員のあり方であることを忘れることはできない。都市の課題と展望を探りだし、それを行政課題に具体化していく能力が今後ますます要求されていくことになる。その要求に応えていく過程こそが、明日への市政の展望を切り拓いていく要点となるものと考えられるのである。

  4.課題の諸層

 ここでは、昨年から今年にかけての市政の主要課題について、その資料を紹介するとともに一定の経過と解説を試みることにより、市政展望の参考としたい。
 
京都市基本構想の策定  自治体の「基本構想」は、地方自治法で定められた「その地域における総合的かつ計画的な行政の運営を図る」ために策定されるもので、議会の議決を経て定められる。これまで、京都市には、昭和四四年に策定された「まちづくり構想」という長期計画構想はあったものの、行政全般にわたる総合計画はなかった。
 しかし、「まちづくり構想」が策定後一〇年近く経過するなかで、その見直しの必要性に迫られたこと、「世界文化自由都市宣言」の市会審議のなかで同宣言は長期総合計画としての基本構想に位置づけられるべきものであるとの指摘がなされたことから、京都市においてもその策定をすすめることになったものである。
 市議会の議決を経て、さる八月四日に告示をみた「基本構想」は、第一には、戦後の市政の歩みを、国際文化観光都市→平和都市宣言→世界文化自由都市宣言の流れとしてとらえ、世界文化自由都市宣言を都市理念とし、それにむかう道程としての計画構想として「基本構想」を位置づけている。同構想を受けて、引き続き策定される「基本計画」とを合わせれば、「宣言」、「構想」、「計画」は、すなわち「理念」、「道程」、「プログラム」ともいうべきものとなろう。
 「基本構想」の内包する都市の現状認識は、経済的、文化的に地盤沈下しつつある京都市に対する危機意識であり、都心部の空洞化傾向と周辺部の過密状況という都市内部のアンバランスの進展による都市機能弱体化への憂慮である。
 そのため、「基本構想」のめざすところは、二一世紀にむけての都市の再生、活性化であり、それを、一一年後(一九九四)に来る平安建都一二〇〇年を歴史的ステップとして具体的に実現させていこうというものである。
 全般的に、自治体の「基本構想」が没個性化傾向にあるなかで、京都市の固有性を示す努力が払われたものといえよう。作業は、昭和五二年に、「まちづくり構想」の部分的見直し(基本指標、交通、土地利用)として開始され、その成果は五四年六月に発表された。その直前の四月には、五二年に設置されていた都市計画局内の企画課を、庶務担当課から基本構想専任課に変更し、いよいよ基本構想の策定を開始することになった。五四年一一月に発足した「京都市基本構想調査研究会」は、翌年六月には都市像の基調テーマ「伝統を生かし、創造をつづける都市・京都ー建都一二〇〇年をのぞむ市民のまちづくり」を、一〇月には「都市像について」をまとめ、討議素材として発表した。そして、二年八か月に及ぶ調査研究会の活動によって、五七年六月二二日、「京都市基本構想試案」がとりまとめられた。同試案は、五七年九月に発足した審議会に、諮問案として市長から諮問され、審議会の精力的な審議の結果、五八年三月一一日、市長に答申が提出された。答申内容は大綱において諮問案を踏襲した。答申された「基本構想案」は、市議会への議案としてさる七月二二日から開催された七月臨時市議会に提案され、共産党市議団からの一部修正意見があったものの、賛成多数(共産は棄権)で可決されるに至った。
 今後の作業は、「基本構想」を「基本計画」にどのように具体化するかであるが、「計画」は、いうまでもなく実施に接続するものであるだけに、その作業は基本構想以上に容易でない点もある。
今年度内にまとめられる予定ではあるが、行政の総合的な視点が最終的に問われる作業であるといえよう。 
 
平安建都一二〇〇年記念事業構想  都市・京都は、西暦七九四年に誕生した。以来、あと一一年で一二〇〇年に達する歴史を歩んだ。明治二八年(一八九五)には、一一〇〇年記念事業が盛大に執行されたが、それは、わが国における都市の歴史的イベントとして最初のものであった。
 都市も、地球上の諸物と同じように永久不滅のものではなく、それは生成・誕生し、成長・発展し、次には衰退・消滅する。古今東西、都市の歴史はそのことを証明している。古い都市は、常に新しい土地に建設された新しい時代に適合した都市にとって代わられてきた。それだけに、古代以来現代に至るまで、同一地域の上で一貫して時代を超えて連続した都市として存在し続けてきた京都の例は、極めて稀有の例として高い価値をもっている。一〇〇年を周年とした歴史の刻み目を記念することは、それだけでも十分の意義はある。
 新興の都市であれ、一定の歴史をもつに至るとそうした周年を祝う行事を行う。そこには歴史の長さをより遠い未来への可能性へ投影しようという人間の本性が働いているのかと思われるが、都市の生成、発展、消滅の時間的サイクルの長さにつながっていることには間違いはない。
 今、京都市は、過去幾度かの都市消滅の危機を克服して、その意味では、生成・発展・消滅のミニ・サイクルを積み重ねることによって都市総体は常に拡大発展させてきた経験の上に立ちつつも、今日、それが一時的な天災や人災ではない慢性的な衰退過程にあるだけに、より歴史の周年を意識せざるをえないものにしているといえよう。その場合、歴史的イベントは、それを必要とする時代的な課題を担わされることになる。建都一二〇〇年が、京都市基本構想のサブ・テーマとして位置づけられたのには、こうした背景が考えられるといえる。
 建都一二〇〇年問題は、七、八年前からいわれはじめ、数年前には市政調査会においても一定の検討を行ってきたものである。行政レベルでは基本構想の策定過程でこれをとり上げるところとなり、昭和五五年、基本構想基調テーマのサブ・テーマとして位置づけるところとなった。
 記念事業構想に関しては、昭和五七年一月に、庁内に企画連絡会及び同幹事会が設けられ、今年(一九八三)二月七日には、府・市・民間による「平安建都一二〇〇年記念事業推進協議会」が結成され、そのもとに具体的検討作業を行う企画委員会(委員長・林屋辰三郎国立京都博物館長)が設置されて、現在月一回の会合により「基本理念」(意義と目標)、「基本構想」(事業プログラム)づくりがすすめられている。
 事業構想に関しては、五七年七月から八月一〇日にかけて「市民アイデア募集」が行われ、千件を超える提案が寄せられている。
 しかし、建都一二〇〇年記念事業構想の問題は多くの難しい問題を抱えている。そのもっとも主要な問題の一つは、府、市の関係であり、二つには、財源の問題、三つには実施主体の問題である。
 府・市間の問題は、このイベントが都市・京都市をテーマにしたものであるとの認識について、政治や利害を離れて府に理解を求める以外にはないが、財源の問題は、この建都一二〇〇年が、「京都市基本構想」と異なり、最初から事業計画としての実行性が求められているだけに、単なるアイデアだけでは済まされない厳しさがある。
 実施主体の問題は、行政がその事業として行うもの以外にも、多くの事業が予測され、市民サイドといえども、自ら何を為すかの集約こそが望まれる。その意味で、経済界は、アイデアの提案団体としてではなく、建都一二〇〇年を京都経済活性化への大きなステップ台として考えるのであれば、経済界こそが記念事業を担うという迫力が必要であろう。明治における記念事業の担い手が経済界であった如くに、それを期待したいものである。もちろん、当時と今日では、具体的な市民の層に変化があり、一般市民の参加が今日では不可欠な条件であることはいうまでもない。
 こうした問題がどう今後展開していくかが、重要な鍵になってくるものと考えられる。
 
古都保存協力税問題  古都保存協力税問題は、昨年の夏に表面化して以来、すでに一年を経過した。市議会で同条例案が議決されてからもすでに半年を越え、客観的にみて、問題はまさにこじれ切っている。
 その点について考えてみるならば、やはり宗教と政治・行政とのかみ合わせの問題に行き着かざるをえない。
 社寺がいかに宗教施設であっても、それが特定の時代、地域に存在する限り、その時代、その地域に適合すべき側面をもつ必要がある。京都市中に立地する限り、宗教法人としても同時に京都市民であることが必要であり、今日の産業経済をもととした社会にあっては、すべての存在が経済的なしくみの中で存在づけられている。
 議論は、あくまで宗教に関するものとしてではなく、今日の時代における京都市民レベルの問題としてなされない限り、行政、社寺ともに引き下がれない問題に化してしまわざるをえない。
 しかし、京都の現実は、多くの社寺の立地する都市としての諸問題を抱えており、それらの多くは同時に文化財という行政レベル上の位置をもっていて、それらに関する都市問題としての議論を皆無にするわけにはいかない。そうした意味で、社寺に対する立地上の条件ともいうべき都市を代表する行政と、都市に立地している社寺という、いわば立地をめぐっての関係において、京都の明日のための解決が期待されるのである。

その他の諸問題  昭和五四年から展開されてきた空きかん条例問題は、昭和五六年一〇月九日に条例案が市議会において可決・成立した後、審議会での検討、メーカー団体との協議等を経て、五七年八月二一日には、「総合施策」及び「散乱防止重点地域」の告示をみるに至った。そして、メーカーとの折半で組織された事業実施団体である「京都市環境美化事業団」も同八月三一日に五七団体でもって設立され、五八年度では、全市二〇か所の重点地域を指定して、会員団体も七四団体に拡大するなど、その活動も定着してきた。これに伴い、市民団体も当初の目的を達成したとして、条例制定を目的として結成した従前の組織を解散し、新たに「京都市ごみ問題市民会議」を六月七日に結成した。このように空きかん条例問題は、条例として定着したなかでの当初目的の持続性を問う段階となっている。三月二六日には、一応初期の役割を終えた環境美化対策室は廃止され、その業務は清掃課(環境美化係)が引き継いでいる。
 このほか、当面する市政の主要課題としては、六三京都国体の準備、地下鉄南進策、国際婦人年及び障害者年の行動計画の実施、大見総合公園建設問題等が山積しているのに対して、五八年度予算では初めて地方交付税交付額が前年度実績を割るばかりか、その傾向は来年度にも及ぶという厳しい財政事情下にあることに加えて、用地取得問題に現われた市の同和行政、ひいては市政全般の推進体制に一定の反省と新しいあり方が求められるなど、市政の推進それ自体が容易ならざる課題をになうに至っている。これらの課題については、今後の機会に待ちたいと考えている。

     三 京都市の「基本構想」を考えるにあたって
                                                       (一九七九年六月)
  1.はじめに
  
 昨年一〇月一三日、市議会本会議で「世界文化自由都市宣言」が可決されたおり、同時に九項目に及ぶ付帯決議が付されたが、その第一項で、次のように指摘されている。
     本来このような宣言を行う以前に、地方自治法第二条第五項の基本構想を提案するべきである。
     しかるに本市は、まちづくり構想の見直し作業との関係で、基本構想の策定を二年後と判断して  
       いるが、少なくとも本年中に策定の時期を明らかにするべきである。
 ここにいうところの、「地方自治法第二条第五項の基本構想」については、同法で次のように規定されている。
     市町村は、その事務を処理するに当たっては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ計
      画的な行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即して行なうようにしなければならない。
 これは、いわば市町村がその事務をすすめるにあたっての憲法にあたるものであるといえよう。すでに全国では、六四五都市中、五八八都市で策定されており(昭和五三年五月一日現在、自治省調べ)、策定率は九一・二%にものぼっている。
 しかし京都市においては、昭和四四年に、「まちづくり構想ー20年後の京都」が策定されているが、これは、土地利用や都市施設を中心とした「物的」な構想であり、行政の事務全般に及ぶものではなく、これまで、「京都市基本構想」は策定されることなく、今日に及んでいる。
 こうした、地方自治法に規定された「基本構想」がいかなる性格や位置づけをもつものであるかはともかくとして、近年、京都市政のあり方をめぐって、その基本政策や、総合的計画性のなさについて多くの問題指摘がなされてきているだけに、十分検討すべき段階にあるといえよう。
 

  2.基本構想とは

 基本構想は、それに基づく基本計画及び実施計画とあいまって、実際の行政運営に生かされているが、この基本構想の策定に対しては、昭和四四年、自治省では、「市町村の基本構想策定要領」を制定し、これに基づいた指導を行っている。そこでは、基本構想の性格、策定の指針、内容等が規定されている。
 「策定の指針」では、「当該市町村の置かれている自然的、歴史的および社会経済的諸条件に応じその特性を活かすよう配慮すること」という妥当な内容とともに、国や都道府県等の上位計画と「適合するよう配慮すること」という上位計画優先の考え方が示されている。
 「基本構想の内容」では、「将来図」とそれを達成するために必要な施策の大綱について次のように示している。
一 将 来 図
@ 人工、産業等に関する指標を用いて、地域社会経済の将来像を明らかにすること。
A 市街地、集落等の配置、交通通信体系、土地利用の構想等を定めることにより、総合的な 地域社会の構造を明らかにすること。 
B 住民生活の将来像については、教育文化、心身の健康等の人間形成の面を含め、住民の生 活水準ないし生活の目標を示すことにより明らかにすること。
二 施策の大綱
@ 市街地および集落の整備、交通通信施策の整備、防災対策その他の地域社会の基礎的条件の整備に関する事項
A 生活環境、保健衛生、社会福祉、教育文化その他の住民生活の安定向上、人間形成等に関する事項
B 農林水産業、商工業その他の産業の振興に関する事項
C 行財政の合理化に関する事項
    なお、施策の大綱においては、市町村が自らの行政施策を通じてその実現のため責任を持ちえない  事業があっても、それが当該市町村の存立している地域社会の振興発展の方向または施策の基本を  明らかにするため必要があるものについては含めても差し支えないものであること。
  「基本構想の期間」としては、「一般的にはおおむね一〇年程度」とされているが、上位計画がある場合 には、「その期間と一致させることも考えられるものであること」とされている。
 
  3.他都市の動向
 
 地方自治法に、この基本構想に関する規定が加えられたのは昭和四四年で、このときには、新全国総合開発計画が樹立され、これに基づく地域開発政策をすすめることがその課題としてあったことが指摘されているところである。またこの年から、広域市町村振興整備事業がスタートし、その前年には新都市計画法が成立する。戦後政府の地域開発政策が再編成されるときにあたり、自治体が重要な位置を占めるに至ってきたことを示している。
 各都市では、四七年にははやくも五五・二%のところで策定をみており、五〇年には八〇%を超えるに至っている。そして今日ではすでにみたように九〇%を超える都市で策定済となっているように、ほとんどの都市で策定されているのであるが、それだけに、現実の効用としては多くの問題があるものと思われる。
 そうした問題分析についてはいずれ別の機会にまつとして、ここでは、一、二の例をごく簡単に紹介したい。
 一般的に、基本構想の全体的構成としては、まず都市づくりの理念を掲げ、次いで、都市の将来像、施策の大綱を明らかにした上、構想を推進する手段、方法論を明らかにしている。
 神戸市の場合、「新神戸市総合基本計画」が策定されているが、この作業は、昭和四七年に開始され、昭和四九年にまず「人間都市神戸の基本構想」が市議会の議決を得、それに基づく基本計画が五〇年に市案として作成され、審議会の審議を経て五一年に策定されたもので、基本構想と基本計画とが一体となっている。
 基本構想は「神戸市の最高理念」として、二一世紀にむけての基本的姿勢を示したものとされ、神戸の「都市像」と「施策の方向」が、次のように、「序・緑と、心のふれあいと、生きがいのまち神戸」、「第1・市民主体都市」、「第2・人間環境都市」、「第3・人間福祉都市」、「第4・市民文化都市」、「第5・国際・情報都市」というかたちであらわれている。
 基本計画は、「国及び他の地方自治対の諸計画と整合性をもたせるとともに、神戸市の諸計画及び民間諸事業に対してあるべき姿ないしは方向性を示し、指導的役割を果すものである」と位置づけられ、次のような基本的視点にたって、二〇〇一年を目標に計画が策定されている。
神戸市基本計画の基本的視点
@平和を都市づくりの基本とする。      E社会的弱者とともにあるまちづくりをすすめる。
A基本的人権を実質的に保障する。    F市民文化を創造する。
B都市の主人公は市民である。      G活気あふれる実験都市とする。
C市民生活を起点に発想する。      H神戸の広域的役割をたかめる。
D生命の安全を最優先とする。       Iソフト・プランにより計画に内実を与える。
 
  4.京都市の課題として

 地方自治法に規定された、或は自治省の指導による基本構想に問題や限界があるにしても、それは自治体にとって、その行政運営の基本理念をもつことを妨げるものではない。むしろ逆に、今日の京都市には、行政の総合性や計画性が強く要請されている。しかしそれは、国から与えられたものとしてではなく、自発性に基づく独自の憲法でなければならないことはいうまでもない。それだけにその策定過程は、庁内的、庁外的を問わずすぐれて重要視されてくることになる。基本構想においてまず問題となるのは、いうまでもなく「都市像」である。京都市のめざすべき「都市像」としては、“二一世紀への都市づくりの基本理念”としての「世界文化自由都市宣言」があり、これを行政運営の基本のなかにどのように位置づけるかは一つの重要な課題であろう。
 本年(一九七九)四月の機構改革によって、文化観光局に企画課が設置され、世界文化自由都市宣言に関することを同課が担当することとなり、また、都市計画局企画課が、庶務担当課であったことから専任の企画課となり、まちづくり構想に加えて「基本構想に関すること」を担当することになった。両課ともに、全局に及ぶ企画調整的役割を担うことになるわけである。京都市政における行政の総合的、計画的なあり方を具体的に検討すべき機運と条件はこうして十分に満たされてきつつあるといえる。それだけに、文字どおり全庁的な調整機能の確立と、市民総意の形成への試みが緊急の課題として迫ってきているといえよう。そうした課題に着実に立ち向かうことが望まれているといえる。

 
      二、人事管理

     一 「人としごと」を考える一つの試み
                                                     (一九七七年一〇月)
  1.自治体職員をめぐる問題状況
  
『公務員三日やったらやめられない』    『公務員三日やったらやめられない』を題名とした単行本まででるに及んで、くるところまできた感がある。数年前からの地方財政危機の進行とともに、その財政悪化の原因を福祉行政と職員の人件費に求めるやり方が、政府をはじめ各所に抬頭した。公務員のことなど、高級官僚の汚職などを除いてはニュースにもなりえなかったものが、公務員や自治体者が週刊誌をすらにぎわすようになったという不況下の世情もある。不況と自治体財政の悪化は、福祉と人件費を棚ざらしにすることになった。しかし、福祉と人件費に対する攻撃は、ひとり財政上の問題というよりは、その根底に革新自治体と社会的影響力を形成してきた自治体職員に対する対応という問題があったのであろう。
 いずれにしても、自治体財政悪化の契機として、人件費問題を通して自治体職員のあり方に世間の厳しい眼が光りだした。それはかつての「お役人」というとらえ方にプラスされるもので、より直接的に人件費の高さを批判する場合と、「結構なものやで」と皮肉的に批判する場合とがあり、『公務員三日やったらやめられない』は、そういう世情を呼び起こそうとするものにほかならないのであろう。
 行政や地方自治研究活動サイドから、市政に関する市民の関心を高めようと試みても一向に効果が現われない反面、こうした行政や職員に対する攻撃的な側面からは、あっという間に関心は広まるのである。従前、庁内問題は、比較的世情にさらされないなかで検討もし、対応することができたが、今やある程度棚ざらしのなかで考え、対処しなければならない。それだけの客観性が要求されるようになってきたといえるのであろう。
 
自治体職員に求められるもの  将来にわたる「生活の安定」、にもかかわらず「しごとの気楽さ」―これが現在の一般的公務員に向けられている評価でしょう。
    「公務員の安定性」については、不況時に採用試験応募者が急増することにも現われているが、反面好況時の応募者が少ないことからみて、その是非や評価は、本当は好みや主観によるものである。
 問題は、「市ごと及びしごとの仕方」についてであろう。不必要、非能率という指摘が一方であれば、他方でギャンブル、勤務時間のルーズさの指摘がある。また、それらは革新市政になってより甚だしくなったという指摘もある。はたしてそうなんだろうか。そうだとすれば問題は一体どこにあるのであろうか。
 こうしたことを考えようとするには、まず役所というものの特殊なメカニズムが理解されなければならない。陰に陽に政治をはじめとする諸々の“力”が加わる。自律神経をやられたり、神経性胃炎等を病む人が民間に比較してはるかに多いことは必ずしも一般世情にはそう知られていない。 次に、公務員といっても管理職はともかくとして、一般職員は労働者であり、行政責任を負う立場になく、またその権限も持っていない。労働組合として組織的なサボタージュ行動をとるのでない限り、しごとや行政のあり方については受け身であり、それを決めるのは、執行権者をはじめとする管理者層であり、また議会でもある。
 しかし、革新自治体とはいっても、地方自治のあり方が容易に定まらず、また旧来のあり方が崩壊しつつあるとき、自治体職員のあり方もまた問い直されなければならなくなってきているといえよう。しごとの流れが、国から自治体を通して住民へという形から、住民から自治体を通して国へという形へ変わっていくなかにおいては、第一線職員のあり方は極めて重要であるといわなければならない。第一線職員は、主体的にも、もっとも緊張度の高い場に置かれているといえるのである。
一口にいって、市民参加を課題とした時代の要請が、自治体職員自身にもかかってきているのである。

  2.人事担当者は考える
 
 自治体職員をめぐる状況は、前述のように単純なものではない。従ってそのあり方も、人事面からだけでなく、一方でしごとのあり方とも関連してみてみなければならないが、ここではまず人事担当者の考えを聞いてみよう。それは、人事管理上の方針としてどこまで明確に位置付けられているかというようなことではなく、これからどうあらねばならないかという幾人かの方々の考えを、その傾向の問題として捉えてみたものである。
 人事管理にあっては、やはりどういう職員をつくろうとしているのか、目標とする何らかの職員像がなければならない。昇任、昇格、配置転換の中で、職員は結果として一定の像につくられていくのである。
 それではどのように認識されているのであろうか。まず第一に、しごとの構造が経済の高度成長を通じて変化してきたことであり、それにより職員の条件もまた変化してきたということ。第二には、そのための人事登用の条件も変わりつつあり、人事管理について新しい手法が考えられなければならないということである。
 まずしごとの変化については、明治以来今日までの役所は、要するに上から下へと落としていく、法解釈とその運用を中心とした「静態的」なものであった。言い換えれば、「目的を現実におしこむ」ものであったといえる。こうしたあり方が、経済の高度成長、すなわち経済水準の向上等による生活やものごとの多様化、都市問題の発生等の変化によって逆転し、「現実から、すなわち下からつくり上げていくやり方」に、そのために必要とあれば、制度改善も図っていくという「動態的」なあり方に変化してきたと認識されている。
 国や上によってつくられた法律や制度を唯一の根拠としてそれを現実に当てはめていくやり方から、現実からスタートして、法や制度を組み立てるやり方に変わってきた。そういう事態に対応できる職員が必要となってきたということである。
 京都市の場合、従来から昇格や昇任にあたって試験制度をとっていないが、こうしたあり方の変化によって「人材登用の客観的条件が崩れつつある」ことから、より一層ペーパーテストを主体とした試験制度はーそれらは当然法令や判例解釈を主体としたものにならざるをえないためー、とれなくなってくるのである。
 そこで第二の、新しい人材登用の手法をどう考えるかという問題となる。客観的な基準が崩れつつあるといっても、客観的基準がなければ人事は悉意に流れ、職員の信頼から離れかねない結果をもたらす。そのために、多少の手間暇はかかっても、一人ひとりの職員について、十分な観察を必要とする。「長期に連続して観ていく、M連続的観察Nによって今後は対処していきたいし、そのことは、京都市の規模では現実的にも可能」であるということである。ただし、経験を主体とする職場・職員、調査研究などの専門職については、自ずからその実態に応じた手法というものが考えられなければならない。
 しかし、こうして「その人」を連続して観察する場合、観察する側の「眼」の客観性が築かれていなければならないし、同時に、一人ひとりの「その人」に即した「眼」も用意されていなければならない。客観的基準がないだけに、結果としての客観性がすぐれて問われなければならないのである。
 また、一人ひとりの職員について十分な観察を行いつつ、一定のしごとにつけ、また配置換えを行っていくのであるが、「人材養成」に重きを置くあまり、「しごと」が「人」の通過点に過ぎなくなる危険性も内包することになる。「しごとの連続性」、「しごと」にとっての「人」をどう確保するかという点である。同一職場における長期的滞留が、必ずしも「その職員」にとって有利な処遇とならない現状にあるなかで、「しごとと人との連続性」をどう確保していくかは十分考えられなければならない点であろう。
 いずれにしても、一人ひとりの職員について連続的観察を基本とした人事管理を行うには、やはり現在の人事管理のあり方について、新たな角度から問い直す必要があるのではないだろうか。なぜなら、まず最初に、観察者自身が問われなければならないからである。

  3.新たな展望を考えるために
 
市政運営の論理と人事の論理  「役所や役人」というのは、世情いわれているように動作のゆるい鈍感な生き物ではない。極めて敏感に役所の状況を反映するものである。
 政治が乱れ、行政が弛緩すると、職員は目標を喪失してその日暮らしとなる。これ綱紀の乱れの基となり、職員は個々に自分の身を守る方法を考える。
 行政が安定し、その価値基準が明確であるとき、職員の対応は、その価値基準との対応関係で秩序だってくる。さらにいえば、行政全体が明確な指向性をもち、価値基準をもっているとき、職員は、自らの努力でそれを学びとろうとするものであり、人事管理はさらにこれを促進するものにほかならない。
 このようにみてくると、市政運営全体がどのように図られるかということと離れて人事の論理はないし、人事管理それ自体は技術論でしかないことがわかる。であるからこそ、人事をみれば逆に市政全般の運営のあり方がまたわかるのである。
 
「使うもの」と「使われるもの」  民主市政におけるMあるべきN職員像について、職員研修所でいかなる研修をやっても、M人事異動Nの中に読み取れる人材登用の論理と一致していないならば、研修の効果はあらわれないであろう。そして、人材登用の実態が市政運営の状況を現わしていることから、結局のところ市政運営の責にあるものの傾向が、人事管理に現われるのである。
 自治体職員のあり方を問う場合、このようなことから、やはり「使う者」と「使われる者」との位置付けを明確にしなければ、その対策はでてこないのであろうか。根本的に考えてみれば、「綱紀の乱れ」がよく問題になるが、それは人事管理体制のゆるみというのではなく、Mその時Nにおける市政運営のゆるみにむしろ起因する。昭和四八年四月に「監理室」が設置された。それは何ら実効的役割を果すことなく廃止されざるをえなかったのも、問題がその辺にあったからであろう。 このようにして、職員のあり方いかんは、結局、職員を使って市政運営を執行する責にある「使う者」いかんにかかっているといえるのである。こうした執行権者、管理職の責任性の自覚は、「使われる者」としての職員との信頼関係の基となるのであろう。そしてその責任性とは、しごとにおける「目標明示」を同時に含むものではないのであろうか。
 
革新市政と自治体職員  職員が育っていくには、「人はしごとによって育つ」という面と、「人材登用の論理にあった職員像がつくられる」という二つの面があろう。
  「人はしごとによって育つ」というのは、仕事を一つひとつ憶えていくということと、具体的しごとを通して市政運営の基本論理を知ってくるということである。それだけに職場におけるしごとの具体的な行われ方は、職員の人物形成に極めて重要な意味をもつが、同時に、多種多様なしごとの存在する行政体の中にあって、具体的一人ひとりの職員について、今後はどの程度の範囲におけるしごとのスペシャリストとして養成するのかという問題も重要になってくる。これが「しごとと人との連続性」を確保する要件となってくるのではないだろうか。
 職員の育ち方を決める二つの要件は、いずれにしても職員を「使われる者」としてみた場合である。制度的には、職員は養成される対象でしかなく、職員の問題も、対市民との関係では行政として問われるのである。しかしながら、すでにみたように地方自治のありようが問われ、第一線自治体職員自身の主体的な自己形成、しごとへの対応もまたすぐれて必要となっているのである。「つくられる職員」と「主体的立場」からの「自らをつくる職員」との適合、緊張関係が、今後の自治体職員のあり方を示唆する要件となってくるのではないだろうか。
 直面している政治の流動的状況、自民党単独政権が時代的には結末の段階にきているといわれる中で、国家官僚の中においても、一元的でない多様な動向がみられる。はやくは、自治省事務次官であった長野士郎氏が「革新」として岡山県知事になった如く。地方自治体の政治の流動化はさらにはやく、保守、革新首長ともに複数政党を支持基盤としている場合が多い。人事やしごとのためには安定した「政権」が必要であるが、同時に、複数の支持基盤によるところの複数の価値基準に対して、それとどう対応していくか、今後考えなければならない問題は多い。

     二 任意行政と人材養成
                                                                                                                       (一九七八年六月)
  1.任意行政における「人」の重要性
 
 経済局や文化観光局など、法令上京都市として行う義務を負わない、いわゆる「任意行政」について、その成否は人材のいかんによるところが多い。
 さる二月(一九七八年)から当調査会最初の研究プロジェクトチームとして発足した「文化政策プロジェクト」の研究討議の場でも、この「任意行政」における“人材”の問題は、極めて大切な問題の一つとしてとり上げられてきたところである。
 任意行政を遂行していくにあたっての根拠や基準は、法令に基づくものでないだけに必ずしも客観的に明らかではなく、結局、政策的なものを背景とした担当者一人ひとりの具体的判断にかかわらざるをえないのである。それだけに、そうした人材養成が計画的になされているか否かは、重大な問題となってこよう。三年サイクルや五年サイクルといった機械的人事異動が通用しない場所でもあろう。

  2.任意行政の位置ー固有の行政ー

 それでは任意行政と通常いわれる行政は、市政=地方自治体にとってどういう位置を占めるのであろうか。
 結論を先に求めるならば、任意行政こそがその地方自治体にとっての“固有の行政”であり、任意行政においてすぐれた特質を形成していない自治体は、自治体としては極めて未熟であるといわざるをえない。それは、保守、革新をこえた問題である。
 地方自治体が、M自治N体であるためには、上意下達から下意上達にしなければということはすでに指摘されて久しい。しかし、行政の現実からすれば、国の法令、通達、それに基づく、ないしはその範囲内における条例、規則によってしごとが根拠づけられていることに変わりはなく、その根拠がより上位のレベルであればあるほど、そのしごとは確実な位置をうるのである。そうであればあるほど、地方自治体の独自性を求めようとするならば、たとえ少しの任意行政ではあっても、そこにこそ、その自治体の魂を入れようとするものであろう。
 
  3.職員の判断基準、発想の形式
 
 行政としてなぜそのしごとをやらねばならないのか。行政が恣意に流れてはならないだけに、行政上のしごととして成立するための要件は厳しく問われなければならない。行政需要という用語があるが、何をもって行政需要とみるかは、必ずしも簡単ではない。任意行政の分野において、その必要性を指摘することは、考えてみれば大変なことであり、そう誰もが簡単にできうるものではない。
 しごとが行政として成立することの要件が明確であるということの順序からすれば、やはり、法令、各省通達、条例、規則という順序が成立してこざるをえない。そういう意味では、委任事務は、自治体にとっても第一順位のしごとであろう。次に確かさからすれば、国が助成対象とするしごとであり、これは、国が行政上のしごととして促進しようとしているばかりでなく、財源的にも一定のものが確保されるし、同時に起債も受けやすいということになる。しごとのやりやすさも含んでいる。
 その次には、これは近年の特徴として、住民要求に基づくもの、ということになる。これには、住民要求を即、行政需要の存在として理解する考え方、また、住民参加の問題とあまりに直線的に結び付ける考え方があるが、存在する住民要求が、行政上のしごととして成立するには、それなりの過程や客観的根拠性を必要としよう。
 以上は、行政上の優先順位ということもできようが、いずれにしても、行政体の中では、それらのシステム、実態を熟知しているほど、職員としては優秀であるということになり、職員のしごとの発想の原点、発想の形式はそうしたものにならざるをえない。
 ところが、そうしたシステムや発想からは、任意行政の必要性や重要性は浮かび上がってこないのである。そうした職員として優秀であればあるほど、実は任意行政が理解しえないように、そうした資質として形成されてくるのである。
 今一つのしごとの成立する要件として、市長の政策方向という点があるが、えてしてそれが形式的スローガンとして、未消化のまゝ各現場に落ちていく原因も、そうしたところにあるのではないかと思われる。
 任意行政は、反面恣意的に流れやすい危険性をもつだけに、念には念を入れたたたき方が必要で、十分それに耐えるものでなければならない。しかもそれは、行政体の内部基準からスタートするものではなく、その都市と住民の実態から求めていくものであるといえよう。
 
  4.行政対象と行政
 
 任意行政以外の分野では、ごく乱暴ないい方が許されるならば、行政がまずあって、その行政にワクどりされ、位置付けられることによって行政対象が存在するといってもよいであろう。しかし、任意行政においてはそれは逆転する。
 任意行政にあっては、あとで行政対象になるであろう現実が先にあって、それへの必要性から行政が手段として成立してくるのである。そのために、任意行政の担当者は、まず現実に即して捉えることからスタートし、次いで、捉えた現実を行政対象に組み立てなければならない。事業の企画、実施はそのために生じてくる問題なのである。このように、事業の企画、実施に至るまでの作業、これはかなり専門的なしごとであるといえるが、実は自治体の中では、この部分がほとんど無視されているに等しい状態であり、そのため、それは、一人ひとりの職員の資質の問題に還元されているのが現状ではないかと思われるのである。
 たとえば、極端な例をを仮りにあげてみよう。文化や、経済についての見識を必ずしも持たなくとも、市役所の中で出世することは可能である。しかし、だからといって、文化行政や経済行政が、その状態のまゝで担当できるとはいえないところに、役所の内部的な論理と、行政対象から必要とされる任意行政との間に乖離や矛盾をもたらす原因があるといえるのである。
 文化や経済に関する見識は、そう短期間にできうるものではなく、またその分野に対する適、不適という資質の向きもある。それだけに、単に行政のその分野を知り、MこなすNというにとどまらざるをえないような、年次サイクルによる人事配置は、人材養成にあたっては極めて有害とならざるをえないのである。
 
  5.専門性と行政判断ー人材の計画的養成、配置をー
 
 この京都をどのように位置付け、京都の総体を将来に向けてどうしていくのか、こうしたことを考えることは、現在では任意行政ではあるが、京都が個性ある都市であるためには、まさしく京都固有のしごとであり、それは当然のこととして、歴史と文化に、そして経済に深くかゝわるのである。政治や行政のシステム、実態にいかにたけた「行政の専門家」であっても、それだけではこのしごとは無理であろう。自治体が将来にわたってその都市を運営し、経営し、文字どおりM自治Nを確立していくには、ここのところに具体的メスが入れられるのでなければ、市民参加も、市民本位も、そして自治能力さえもが形骸化していかざるをえないのである。
 したがって、任意行政の分野こそ、その自治体固有の行政分野であり、都市は将来、その個性なくして存立しえないであろうほどの深い認識が今や要請されるに至っているといえよう。
 それらのことを考えてくると、任意行政の分野においては、職員の採用時を含めた、人材の計画的な確保と養成の必要なことが理解されると思われるが、同時に、行政体の内部にあっての専門家であることもまた論をまたず、ここに人材養成にあたっての難しさがあるといえよう。
 一方では、民間の場にあっても通じるだけのその分野における専門的レベルを有し、他方では、行政体としての立場からの判断力も同時に有しなければならないのである。専門性を持ち、かつ行政を知り、そして行政の立場に立ちうる人材をどう養成するか、それにはまず、行政的位置付けをもっと重視することに気付かなければならないのではないか。
 人事配置にしても、資質の向上のさせ方にしても、行政上の重要性を高めることによって自ずから解決の方途が出てくることも考えられる。しかし、人事管理の根本の一つとして、専門家、スペシャリストの処遇が、現行給与、任用体系の中では、ゼネラリスト的な立場にあるよりも不利である現状について、その抜本的な見直しもまた必要とされるであろう。
 ここに述べた精神は、実は任意行政以外の分野にもかかわるものであるが、その点についてはまたの機会を待ちたい。
 
     三 今、市役所に要求されるもの
                                                       (一九八六年三月)
  1.市役所を考える
 
 今日の京都市政は、既に建都一二〇〇年を射程距離に迎えつつも、多くの難局・疑問を抱え、極めて不安定な状況下にある。そして残念なことに、この認識に異論をはさむ人はそう多くない。
 遠因をたどれば、地方自治の後退や国民の政治離れといった全国的な現象がその基底をなしているとはいえ、具体的には、市政をMしごとNとして掌る市役所の動揺する姿がそこに存在している。
 市役所は、市長部局約一万人、公営企業等を含めば約二万人の職員、すなわちM人Nによって遂行されている。多くの人・職員が、これまた多岐にわたるしごとをするには、組織が必要となり、それと同時に、共通の目標もまた必要となってくる。そしてまた、人を抱え、しごとを成立させるには、より基礎的な条件としての財政的裏付けを不可欠とする。
 こうして市役所は、人、組織、財政によって成り立っているわけであるが、この三要素は、いずれも集中管理されている。市民向けの実際のしごとを担う事業部局は、政策的に成り立っており、政策は、事業部局の自律性を一応の基礎としつつも、また総合的な企画調整下にもおかれている。
 市役所が動揺し、市政に様々な困難が生じるということは、今述べた、市役所の人、組織、財政、政策が必ずしもノーマルに機能していないことを伺わすものにほかならない。「人としごと」と表現したのは、そのことを端的に考えようとしたからである。
 
  2.期待される市役所の姿勢
 
 市役所のしごとの目的は、市民生活の維持向上という市政の目的と当然のこと同じである。そして市政の担い手が市民であることから、市役所は常に市民との接点を大切にしなければならないことはいうまでもない。
 窓口だけが市民との接点ではなく、道路や施設建設もすべて市民との接点を大切にしなければならないのである。ハードな、ないしは技術的な事業は、市民を意識せずにそれを行うことも可能である。しかしその事業の目的があくまで市民のためのものである限り、市民生活にいかに機能していくかについての市民レベルからの視点を必要とする。
 くり返せば、具体的な個々の事業レベルになれば、事業それ自体、施設それ自体の完成がえてして自己目的化する。そのように、施設を幾つつくったかではなく、つくった施設をいかに市民にとって意味あらしめるかこそが、これからの市役所のしごとをする基準となるものである。
 市役所のしごとの目的は、市民というM人Nに対するものにあり、一切のしごとがその基礎の上になされる必要がある。それは、市政が、市民が見て、触れて理解できるものに脱皮することであり、これまでから多くの指摘のあったように、内向きの市政ではなく、外に向かった市政となることである。このことなくして、市民を主人公とした市政は、もともと成り立たないものといえよう。
 
  3.人事と政策と
 
目的と手段  市役所というマンモス組織を、市民のためにという目的に向かって、しかも長期的な展望のもとに運営していくには、本来、確固たる政策に裏付けされた力強いリーダーシップを必要とする。しかし、いかなる政策も、それを実際に具体化し、すすめるのは、ほかならない行政職員であり、適切な人事管理なくして政策の実行もまたないといわなければならない。
このことは、人事管理が、単なる労働規律や綱紀の維持といった労務管理の域にとどまらず、人材登用のあり方を含む人事政策を遂行するものとならなければならないことを示すものであるといえる。
 このように人事管理が重要であるとはいえ、それはあくまで政策遂行のための手段であり、人事管理が自己目的化してはならない。このことは組織、財政管理にも、ともにいえることで、この手段と目的との関係は混同することのないよう特に注意を払う必要がある。
 
庁内三権の分立  すでにみたように、庁内には、人事、組織、財政という三つの権限があり、それらはいずれも各事業部局毎にではなく、庁内全体として集中管理されている。
集中管理の部署は、人事は職員局、組織は総務局、財政は理財局と分立し、それぞれ互いに上下関係になることなく、いわゆる「三権分立」の形で庁内均衡が保たれている。しかし、所詮は役所のこと、三権対等とはいえ、結局のところは人事がすべてに勝るという見方もなくはない。
 これに対して、企画調整機能は性格を異にする。企画調整は、庁内におけるというよりも、マンモス組織における欠かすことのできない一つの重要な「機能」であるといえよう。それは、庁内各セクションの政策調整とともに、市長の政策的リーダーシップを樹立し、また系統的に解きほぐす機能であり、その権限と成果は一に市長自身に帰属するものである。
 
管理部門と事業部局  事業部局は、それぞれの所管部門において、市民に対する具体的事業を執行している。その事業の執行には、局レベルの範囲において、自らの人事、財政、組織を管理し、政策的裏付けのもとにそれらをすすめるのである。
 しかし、人事、組織、財政の権限を有した管理部局との関係は、必ずしも固定したものであるというよりは、むしろ時代やところによる流動性をもったものであるといえる。
 ある都市では、係員の異動に至るまで、それが局間にまたがるものである場合には、局のトップ間の話し合いを必要としたという話も伝聞したことがある。他方、人事担当部局が極端に強いケースでは、管理職の異動に至るまで局の主体性は全く発揮できないところもあるのではないかと思われる。
 京都市の場合には、いずれにもそうした極端なケースではないとはいえ、現在以上に、より事業局の主体性を確保することが望ましいのではないだろうか。
 それは、すでに述べてきたように、事業局は政策の具体的実現の場であり、責任ある政策の実現には、責任ある人事、組織、財政の管理を必要とするからである。
 また今日段階の特殊事情もこれに加わる。それは、三助役の体制から一助役の体制への移行である。これは、否応なく局の主体性、責任性の向上を求めるものであり、仮りにそうではなく、三権を通した集中管理の強化で新たな体制づくりに向かうならば、政策は手段の僕となり、庁内活力の低下は避け難いし、それ以上に、京都市の場合には、すでに集中管理でやり切れるだけの程度を超えた規模となっているのである。
 内向きに過ぎるとの批判も聞かれる京都市役所の体質を、この際思い切って外に向かう体質に脱皮させるには、事業局の人事をはじめとした主体的管理体制について、大胆な転換を試みる必要があるのではないだろうか。なまなかなことで建都一二〇〇年に立ち向かうことは至難なことと考えるからである。
 

 

      三、空き缶条例問題
                                                      (一九八一年四月)
     一 若干の意義と前提
 
 二月一日(一九八一年)の夜、京都市職員労働組合主催の「空きかん条例制定にむけての懇談会」が、シンポジウム形式で開かれたが、同日の午前、同問題に関する最終答申が、京都市空きかん条例専門委員会から提出されるに及んで、同問題は新たな段階をむかえることとなった。
 京都市の空きかん条例制定問題は、昨年(一九八一)八月四日、前記専門委員会がまとめた「中間報告」が公表され、次いで二五日に京都市散乱ごみ対策協議会主催の「空きかん回収を考えるシンポジウム」が開催されるに及んで、問題は、京都市内のみならず、全国的な関心を呼ぶところとなったものである。
 デポジット方式という耳新しい言葉を打ち出した「京都市飲料容器等の散乱防止及び再資源化促進に関する条例(中間報告)」の中心課題は、すでに広く知られているように、預り金制度を導入した回収システムの確立と再資源化にあり、その実現をいわゆるメーカー責任によって図ろうとするものであった。
 日本の代表的な観光地としての京都は、ただでさえ内陸都市としての困難な廃棄物処理問題を抱えているために、空きかん問題に限らず広く清掃問題全般にわたって常に将来を見通した積極的な対応を示してきた伝統があったといってよいであろう。
 今回の空きかん条例問題に至る発端と経過には、すぐれた市民のボランティア活動が存在してきたことは重要である。京都の観光地の中でもとりわけよく知られている「嵯峨野」に地域住民のボランティア組織「美しい嵯峨野を守る会」が誕生したのは数年前であるが、その地道にして活発なボランティア活動と各界への精力的なはたらきかけの中で、五三年七月には、ボランティア市民組織や交通・観光業界、学識経験者等による「観光地等ゴミ処理対策協議会」が設置され、更に五四年一一月には、市民各界、各層にわたる一六五団体の参加による「京都市散乱ごみ対策協議会」が設置されるに至った。京都市空きかん条例専門委員会が設置され、「京都市内における空きかん等の散乱ごみの発生を防止する条例にもりこむべき実効ある方法如何」という趣旨の市長の諮問が出されたのも同じく一一月であった。後者の協議会及び専門委員会は、前者協議会の協議、答申に基づくものであり、その答申が、今日に至る経過のベースとなっている。
 観光地等ごみ処理対策協議会の答申「観光地等ごみ処理対策について」では、次ぎの三点を指摘、提言している。
 @散乱ごみの元凶たる空缶追放には、メーカーによる回収体制の確立のための法制が急務である。
 A当面は、散乱ごみの原料を図るため、ボランテイア活動とキャンペーンの強化を図るとともに法制化へ向けて啓発を図るべきである。
Bこれからの問題を実践するため、専門家を含めた広範囲の分野にわたる市民参加組織の設置を急がれたい。
   すなわち、この段階ですでに、現状では、行政の対応やボランティや活動の拡充では「限界に達して」おり、「使い捨て」社会とそれを生み出しているメーカー責任の追及が不可決の課題であることを指摘している。同答申に関する「意見書」では、「この散乱ごみの問題は、一見これを捨てる側の消費者のモラルの改善と行政の業務範囲の拡大によって解決できうるが如き観を受けるが、散乱ごみの中身がほとんど空缶をはじめとする非回収容器である実態を見るとき、この問題の背景には『使い捨て』を甘受している現代の生活形態があることを見逃すわけにはいかない」として、メーカー責任による回収体制確立のための法規制を提起している。昨年八月の専門委員会「中間報告」では、これが「使い捨て文明」に対する一つの見直しとして意識され、「再資源化」として位置付けられたのである。
     
     二 経過と問題点
 
 空きかん条例の「中間報告」とそのアピールは、まさしく久方ぶりといえる活発な市民運動の展開と拡がりを呼ぶこととなり、十年ないし十数年ぶりに、京のM洛中燃ゆNの状態を現出させた。「かどはき(門掃き)」の習慣をなお続けている町内会を基とした住民組織をはじめ、河川美化にかかわる各河川美化団体、観光地・保勝会の美化団体等、永年京都のまちを美しくする運動をすすめてきた諸団体はもちろんのこと、京都の地域住民組織は、各行政区単位に結集して、条例の早期制定支持決議を行うとともに、街頭クリーン・キャンペーン活動、散乱ゴミのボランティア収集活動を展開した。支持決議を寄せた市民団体はすでに三百団体に達しているが、それらは、とりわけ一一月の「散乱ごみ防止月間」から一二月にかけて集中したが、それは「三月条例化」の目標に沿ったものであったといえる。
 そのように京都が燃えたのは、もともと条例化の問題が、市民のボランティア団体の活動の中から生じてきたことに起因しているが、まちを美しくするという市民の願いの実現のためには、あえて争点を回避しないという行政の極めて明確な対応が示されたからである。
 周知のように、京都市は、もっとも早く五党オール与党体制の形成された都市である。オール与党は裏を返せばオール野党と同義であり、瞬時にしてオール野党に転換する可能性をもっている。それだけに、市民間の利害対立は、意識的に、或は無意識的に回避される傾向があることは否定しえない。空きかん問題で久方ぶりに快哉を叫んだ市民が多かったのはそのためであった。
 空きかん問題では、極めて単純、明解に資本の論理優先のメーカー責任をクローズアップさせ、市民利害との対立点を印象づける結果となった。それが、ことさらに資本と市民利害とを対立させるために政治的につくり出されたものではなく、ありまで「まちを美しくする」ための具体的解決をめざしたものであるだけに、利害の争点がより素直に受け入れられ、明解になったものといえよう。こうして市民と行政との一体的関係が形成されつつある中で、条例化をめぐる経済界との折衝、政府各省との折衝が精力的にすすめられたのである。
 しかし折衝は必ずしも順調には行かず、むしろ極めて難行したといえよう。メーカー、小売商店、消費者との利害調整にはまだ至っていない段階で、すなわち八月二五日にシンポジウムを開催したために、それは問題を広くアピールすることにはなったが、経済界と消費者との極度の利害対立を噴出させる結果となり、以後その問題が尾を引くこととなった。すなわち、小売商と消費者との鋭い対立という思わぬ事態が生じ、責任を追及されるべきメーカーが、小売商の影に隠れ、小売商がメーカーの代理戦争の担い手となったのである。加えて地元商工会議所がむしろ反対の立場に立ち、逆に経団連に反対を要請するという、およそ地元利害と異なる立場に立ったことも、問題を困難にした要因であった。一一月一三日には、稲山経団連会長が入洛し、「使った人の捨てたかんを企業の責任で回収せよ、というのはおかしい。住民のための“負担”なら公共団体がやるべきだ」(京都新聞一一月一四日)と真っ向から批判している。
 これに対して、市長も企業の社会的責任について厳しく批判するなど強い姿勢を貫き、年明けには、見切り発車も辞さない態度を表明したが、そうした強い行政姿勢が貫けたのも、全市的な市民の支持と、全国的な自治体をはじめとする強力な支援があったからにほかならない。そして、市民と行政との力強い結びつきによる運動の展開の中で、経済界の中ではとりわけ市民との関係で弱い立場にある小売商がまず動揺し、やがて、メーカー側も行政との話し合いのテーブルにつくとともに、デポジット抜きであれば、企業の社会的責任に応える方向に転換するに至るのである。最終答申は、そうした状況の中で出されるに至った。
 
     三 最終答申と今後の課題
 
 最終答申は、当初一二月中の予定とされていたが、利害調整が難航したために約一月遅れることとなり、三月条例化についても、五月目途に延びることになった。最終答申は いわゆるデポ抜きであり、デポジット制度(預かり金制度)については、「継続検討課題」とされた。これについて、経済界は手放しで評価し、答申に対しては全面的に協力する見解を表明した。市民団体の中には、失望を禁じ得ないむきもあったが、概は、企業責任が貫かれたことを評価し、条例化への具体化をいよいよ期待をもって見守る状態にある。この答申におけるMデポ抜きNの評価はなかなかむずかしい。答申の出された日、小売酒販業界の代表は、「デポは完全になくなったのではなく、いざとなればまたいつ出てくるかわからない危険性がある」と危惧の念を表明していたが、いずれの立場からもその受けとめ方は一様ではない。
 では、なぜデポジット制度が見送りとなったのかについて、同答申ではいまだ市民合意を形成するに至らなかったとしている。そこで同答申の内容について紹介することとしよう。答申は、前文と提案理由及び条例にもりこむべき事項からなっている。
 前文では、「中間報告」から最終答申に至る経過の中で、関係事業者の間にも「社会的責任についての一定の理解が広まりつつ」あることの指摘と併せて、「国及び関係事業者による全国的施策の強化の促進」と「市民の間に高まっている条例の早期制定要望」に応えるべく答申に至ったことが述べられている。
 また提案理由では、「今日、散乱ごみ問題が全国的社会問題となってきているのは」「使い捨て文明」といわれる「社会経済的背景」に大きな原因があること、「従って、個人マナーの向上、地域環境管理の強化と併せて、非回収飲料容器を製造・使用する事業者の問題にまでさかのぼった抜本的施策が推進されなければ、社会問題化している散乱ごみ問題の根本的解決は困難である」こと、そして「資源として」の「再生利用」は、「使い捨て文明」を「見直す契機として重視」すべきことが指摘されている。その上で、「中間報告」における「預かり金制度」の目的を再度紹介しているが、同制度は、次の二点の理由によって、「根本的解決」を図るための制度であるとしつつも「継続検討課題」とし、当面は「飲料容器等の散乱防止並びに再資源化に有効な手法を段階的に進める」ことを要望している。
 その理由の一つは、同制度は「既存の生産・流通体系に影響を与える制度であり、とりわけ、その実行手段としては、個々の商取引を基礎とする制度であるため、今日まで一部の市民特に販売業者の理解を得るに至っていない」ことであり、今一つの理由は「京都市の環境美化、環境衛生並びに空容器の再資源化を図る」ことに関しては「事業者・販売業者を含めて広く賛意が得られ」「市民は散乱ごみ防止条例の早期制定を望んである」からである。条例にもりこむべき事項についてはその全文を紹介する(省略)が、その中心課題は、事業者責任の明確化とその具体的措置としての「事業者共同組織」の組織化にあるといえる。
 以上のような最終答申を受けて、行政は、事業者の組織化と「総合施策」の策定に全力を挙げ、その成否が五月条例化を左右する段階をむかえている。すでに、三月二日には食品容器環境美化協議会など全国の空きかん関係四団体とも話し合いのテーブルにつき、組織化にむかうとともに、条例には市内三〇ー四〇に及ぶ「主要散乱防止地域」をもりこむ方針が固まってきている。
 京都市の空きかん問題に対する今日までの経過をふりかえってみて、やはり第一の問題となるのは「デポジット制」であろう。根本的な解決策にはそれが最も有効な手段であると訴え続けながら、市民合意が不完全であったとして将来課題に委ねられた。本来、メーカーをはじめとする資本の論理と対立する利害の問題であるだけに、市民合意が完全に形成されることはありえないといえるにもかかわらず今回のとりまとめとなったその判断の根拠は、やはり「デポジット制」の技術的なむずかしさがあったことは否めないであろう。加えて、今回の経過を通して、ついに最も基本といえる企業責任の明確化とその役割の具体化が図れることになり、本問題は具体的解決への新たな段階をむかえることになったことである。いわば、「論理」の段階から「具体化」の段階に至る選択として、当面「デポジット制」は将来課題となったのである。この「具体化」にむかっての「論理」の貫徹性、「具体化」に耐えうる「論理」の形成が、今後の課題となってこよう。もちろん、その基盤は、市民運動に支えられることが不可欠であり、今後における市民運動の維持発展も重要な課題である。
 第二の問題は京都市政の流れの中における位置の問題である。すでにふれたように、この一〇年来、保革のパワーバランスが均衡する中で推移した京都市政ではあったが、京都の都心部も今や“応仁の乱”以来の過疎化の危機に直面しつつある中で、新たな京都の創造をめざした構想づくりがすすめられているが、同時に、それを歩む市民と市役所との結びつきが求められるに至っている。空きかん問題は、ことさらに政治的につくり出された争点ではないだけに、保革をこえた幅広い支持を受け、不安定、不透明な今後の政治動向下における市民に支えられた行政の新しい可能性を内包していると考えられるのである。




      四.伝統文化と都市行政
                                                      (一九七八年四月)
     一 京都市の都市特徴

 京の夏、都大路をいろどる祇園祭山鉾の巡行。二九基の山鉾が、二九町の人々の力によって、豪華けんらんたる錦絵巻を整然とくりひろげる。この祇園祭をつぶさにみつめていくと、歴史と現代の複雑にからみあった京都の都市特徴が自ずから明らかになってくる。
 現代の京都にあっても、祇園祭は七月の初めから終りまでの一月間にわたって催される。山鉾巡行は、そのハイライトとしての一コマである。祇園祭の担い手は、山鉾巡行だけをとってみても一五、〇〇〇人には達するといわれている。費用にしても山鉾巡行だけで、五、〇〇〇万円をこえる(一九七七年頃)。しかし、人手にしても、費用にしても、祇園祭全体で直接、間接にかかわるものを含めれば、一体人手にして延べ何万人、何十万人になるものか、費用にして何億円になるものかおよそ見当がつかない。それだけの祭が、京都市の中心街で、千年の歴史をもって、そこに住む人々によって続けられてきているのである。
 さらに、祇園祭山鉾連合会を中心に、各町内単位につくられている保存会などの世話人の人々は、一年を通じてその活動にあたっている。そこには、千年をこえる伝統の流れと、歴史的に形成されてきたM自治Nの精神が受け継がれており、これが現代都市のもたらす障害を克服し、未来に向かってなお生き続けようとする祇園祭のエネルギーとなっている。
 現代都市における都市機能の視点からすれば、祇園祭山鉾巡行は、まさしく“無法の車”が押し通るという様であろう。なぜこうしたことが可能なのか、そこに千年にわたる伝統の重みをみないわけにはいかない。こうした伝統に支えられた民俗文化は、京都にあっては無数に存在している。 ここで京都の都市特徴をまずみておきたい。ソフトな伝統文化だけではなく、いわばハードな、物的な歴史・文化遺産の無数に存在する現代都市京都を。
 『京都の歴史』(京都市編)第一〇巻の別添地図「京都の歴史遺産」を広げてみると、京都市の市街地の中央部は、南北約五・二キロメートル、東西約四・5キロメートルの平安京跡でおおわれている。地図の左下方、すなわち南西部には、これもまたほぼ同規模の長岡京跡が長岡京市にまたがってかぶせられている。
 さらに、南部に開け、西、北、東の三方を山で囲まれた京都盆地の山際を中心に、特に市街地の東部、北西部に極めて多くの遺跡や史跡、国宝や重要文化財が記されている。遺跡や史跡、名勝で四〇〇件を超え、国宝や重要文化財で一、七〇〇件を数えている。
 地図の上では、現代都市京都の上に歴史遺産がかぶせられているが、事実からすれば、古代からの歴史遺産の上に、人口一四〇万人にのぼる現代都市京都が形成されているのである。このように京都市の都市特徴は、歴史と現代との共存にあるといえる。
 そのために、京都では、他の大都市とは異なった行政課題を多くの分野でもつことになる。それは、文化面にとどまらず、都市再開発や保存、交通問題、公害や住宅問題などあらゆる“物的”な施策にかかわるものから、市民に内在する精神的な分野にまで及んでいる。
 いわゆる碁盤目状の都市構造にしても、自動車時代の到来にあっては、それは都市としての最大の欠陥であると考えられた時期もあったが、この碁盤目状の都市構造こそが、“町衆”にみる京都の長い自治的伝統としての町組の遺産なのである。したがって、この碁盤目状の都市構造は、明日の京都を考えるなかで再び評価されるに至ると思われる。
 また産業の面においても、歴史的伝統はその主軸をなしている。一口にいって、京都の産業は、歴史的・文化的産業であるといえる。機械金属工業であってもそうした伝統の上に成立している。 西陣織や京友禅、清水焼をはじめ、仏具や扇子、漆器、京人形等々極めて多くのM伝統産業Nが存在しているが、これら伝統産業の比重は、今日なおかなりの高さにある。昭和五〇年工業統計調査によれば、市内工業事業所数一七、三六〇、従業員数一五六、二七四、年間出荷額一兆四、二四三億円であるが、これに対する伝統産業は、事業所数で六六パーセント、従業員数で三六パーセント、出荷額で三〇パーセントを占めている。そしてこの伝統産業は、衣装や工芸品、伝統建築、茶道具等を通して、伝統文化と深くかかわり、それを支えているのである。
 さらにまた京都の特徴は、自然景観に恵まれているところであろう。山の緑と、他の大都市では考えられないような今日なお透明な鴨川の流れが市街地を縦貫しており、これらの自然景観・環境と、歴史遺産、民俗遺産とがうまく支えあって存続してきている。
 このように京都市は、歴史的に形成されてきた都市であると同時に現代都市であり、伝統文化につつまれた都市であると同時に工業都市であり、また商業都市でもあり、国際的な観光都市でもある。こうした京都の都市特徴を考えると、伝統文化は、産業や都市計画や福祉といった個々の分野別の単なる一分野として捉えるべきではなく、京都の都市と市民生活、都市行政のすべてにかかわる根幹の問題として捉えられなければならないといえる。千百有余年にわたって都であり続けた京都の現代から明日への課題は、その歴史と離れてはありえないといえよう。
 
     二 京都市の文化行政
 
 京都市には、市長部局に「文化観光局」が昭和四〇年以来設置されている。それ以前には文化と観光の両局がおかれていた。
 文化行政はいうまでもなく教育委員会の事務に属しているが、京都市の場合は、地方自治法第一八〇条の七に基づく補助執行としてこれを行っている。
 同局における文化関係課としては、文化課、文化財保護課、観光課があり、それに加えて京都会館や美術館の施設、市立芸術大学(美術学部、音楽学部)、さらに財団法人京都市埋蔵文化財研究所、財団法人京都市文化観光資源保護財団が設置されている。同局以外では、経済局に伝統産業課及び伝統産業会館が、都市計画局に風致課(古都保存係、景観係)が、総務局に市史編さん所が設けられている。このように組織や施設にも京都の特徴が現われているが、その基調には、長い間、「国際文化観光都市」への指向性があったといえる。
 大都市とはいえ、多くの社寺、文化財、遺跡をかかえた経済力の弱い京都の戦後復興にあって、世界の観光都市として再建していくという考えからは早くからあったが、昭和二五年憲法第九五条に基づく特別法として住民投票によって「京都国際文化観光都市建設法」が制定された。この特別法は必ずしも実効を上げ得たものではなかったが、そうした機運の上で、昭和四〇年頃までの京都の文化観光行政がすすめられてきたといえる。
 当時の議論として、京都は産業で生きるべきか、観光によって生きていくべきかという“車の両輪論”などがあったが、今日ではそうした捉え方自体に限界があり、あえていえば、“文化か観光か”といった議論が必要となってきているように思われる。
 それはともかく、昭和三〇年から財政再建団体に陥る京都市として、必要な文化観光施策に対する財源の確保できない中で、社寺の強い反対を受けながら、文化観光財鑑賞者に対する法定外普通税を二次にわたって設定することになった。第一次は、文化観光施設税として昭和三一年一〇月から三九年九月まで、第二次は文化保護特別税として三九年九月から四四年八月までで、税収総額は、両税合せて一三億六千万円余であった。この財源をもとに、これと同額の一般財源一三億六千万円余を充当することによって、国際文化観光会館(現在の京都会館)の建設をはじめ、昭和三一年から四四年までの一四年間にわたる文化財保護や伝統行事・芸能の保存助成、観光道路の整備、観光便所の設置など文化観光財の保護や環境整備を中心とした事業を行ってきたのである。
 こうした観光社寺の拝観料に上乗せする形での特別税の方式は、観光社寺との間における再度の延長はしないとの約束によって、昭和四四年でもっておわるのであるが、以後の文化財保護をはじめとする伝統行事や芸能の保存助成に要する財源をどう求めるかは極めて深刻な問題であった。
 ここで問題は、京都という都市あるいは京都の文化遺産の全国的レベルにおける位置というものにかかわってくる。京都の歴史は一地方史である以上に日本の歴史の中心地であり、ここに集積した文化と歴史遺産はまさしく国民的な資産である。それだけに、一都市の努力だけでこれらが保存継承されうるものではなく、その保存継承もまた国民的な、国家的な課題とされなければならない。
こうした視点から、ポスト特別税の対策として、京都版ナショナルトラストともいうべき財団を設立し、全国民的範囲から寄付金を受け、その基金運用によって文化遺産の保存継承を図ることになった。財団の名称は、財団法人京都市文化観光資源保護財団。設立は、昭和四四年一二月一日。当初の募金目標一〇億円については今日それを超え、それを基金とした運用財産は、五二年度で八千万円を超えるに至っている。
 同財団による具体的な助成事業は、祇園祭や大文字、時代祭、葵祭の四代行事の保存執行助成、未指定文化財の修理助成、伝統行事・芸能保存執行助成、文化観光資源・景観保持助成などである。
 行政による文化財保護事業としては、指定文化財の保護事業に対する助成や四大行事の保存執行に対する助成をはじめ、埋蔵文化財の発掘調査・指導、さらには伝統行事・芸能団体など諸団体の育成指導等多方面に及んであるが、いずれも今日多くの問題を抱えているといわざるをえない。
 
     三 都市問題と伝統文化
 
 歴史や伝統文化に対する関心は今日非常に高まってきているが、また京都ブームといわれる状態も生れてきている。それには、国民生活の高度化による面と、高度成長経済のもたらした画一的、物量的生活へのアンチ・テーゼとしての面とがあろう。しかし現実には、都市化の急進、都市問題の激化のなかで、文化財や文化遺産は著しい速度で破壊されてきており、まだまだ市民的・国民的関心がその現状に対する強い影響力をもつには至っていない。こうしたところに都市行政の今日的な課題と役割があるといえる。
 都市問題というか都市(再)開発との関係で、まず問題となるのは土木建設工事による遺跡の破壊であろう。昭和五二年八月に作成された京都市の遺跡台帳によれば、三一八件の遺跡が記されている。市内どこを掘っても遺跡があるといわれるゆえんである。そのため、比較的公共事業や建設工事の少ない都市ではあるが、埋蔵文化財の発掘調査件数は多い。五一年度における発掘件数は、六二四件、発掘費用は六億五千万円にのぼっている。これを全国との対比でみると、発掘件数で三、八八六件に対して一六・一パーセント、費用で八五億九千万円に対して七・六パーセントとなっている。
 このような埋蔵文化財の発掘は、昭和四〇年代を通して年々急増してきたため、行政として遺跡破壊を防ぐための強力な指導体制を築く必要性にせまられ、昭和四五年に文化財保護課を設置し、市内における埋蔵文化財行政については京都市が窓口となって実施することになった。そして各種学術研究団体の積極的な協力を得て調査と指導が行われたが、開発者の直接的利害にかかわるだけに、行政指導は困難ななかですすめられてきた。これを開発者側の立場からすれば、公共、民間を問わず、京都市域における開発行為にあっては、常に埋蔵文化財の“脅威”がつきまとうことになる。
 こうした状況の下にあって、調査のあり方についても検討が行われ、これまでの受け身の調査から、計画的・系統的調査への方向性をもった安定的調査体制の整備確立を図るため、それまであった学術団体の主要なものを統合した財団法人京都市埋蔵文化財研究所が、五一年一一月に設立された。年間予算五二年度で約四億円、研究職員は二七名である。そして近く「考古資料館」の建設が予定されている。
 都市(再)開発の進展は、歴史の古い、非戦災都市京都の古い民家をも急激に破壊し、古文書やその他歴史的な遺物を蔵してきた土蔵類も年々壊すことになり、そのまゝ放置すれば、京都の民衆の歴史は、将来描かれることが難しくなることが予測された。こうした危機意識も手伝って、昭和四〇年に市史編さん所が設立され、「京都市民形成史」としての『京都の歴史』(全一〇巻)の編集がはじめられた。その最初のしごとは、市中からの史料採訪であり、もはや再びは行い得ないで
あろうと思われる徹底した各戸訪問による史料発掘が行われた。これをして“じゅうたん爆撃”と称された程であった。それらの史料はすべてマイクロフィルムに収められている。その後の開発行為の急進展をみて、まさしく危機一髪、最後の史料採訪のチャンスであったといえる。
 従前、京都の歴史は王城の地の歴史として語られてきたが、京都の歴史は、王城の地である以上に、そこに住む住民の歴史であり、平安末期から室町時代にかけて、歴史上まれにみる“自治の姿”が浮かび上がってくる。「京童」から「町衆」へと成長してくる過程である。王城として築かれた碁盤目状の平安京は、その碁盤目を逆転的に生かした「町衆」のまちにつくりかえられるのである。
そうした住民の強固な自治とエネルギーに支えられて、王城の地は千年を超える歴史を保ち得たのであり、それだけに、京都の民衆の歴史は深く、その伝統的な文化にしても自立性の高い「町衆」によって築かれ、そしてその伝統をくむ民衆ー現在の市民によって継承されてきたのである。京都の伝統文化は、単なる王朝文化ではなく、それを吸収展開させた市民文化であるといえる。市中からの史料採訪は、これらの具体的姿を明らかにしてくれるものである。
 また、すでに述べたように、京都には多数の民俗行事や芸能が存在している。文化観光資源保護財団の助成対象となっているものだけでも五〇を超えている。それらは、地域住民の歴史的な生活習俗を伝承しており、その芸能や行事の芸術的価値ばかりでなく、その地域の歴史文化的な把握や、地域のコミュニティ、そして明日のあり方を示すものとして極めて重要な意味をもっている。有形、無形の形で地域に継承されてきたこの民俗行事や芸能は、京都が一貫した都市の歴史として今日に至っているために、かつての農村部のみにとどまらず、昔年からの都市部においても多く存在しているのを特徴としている。
 しかし、こうした伝統的な民俗行事・芸能も、現代都市の宿命ともいえるコミュニティ破壊、居住者の拡散、振興団地の造成、昼間人口の減少、ビル化・法人化等々の問題によって、後継者難をはじめとする維持者層の減少にみまわれるなど、その保存継承は年々困難になってきている。
 建造物や美術工芸品などの国宝・重要文化財に加えて、史跡・名勝・天然記念物など、指定文化財はすでにみたように非常に多いが、未指定の重要な文化財も、それに何倍かして存在する。それらもまた、都市問題、都市公害のなかで、その維持補修に苦しんでいる。行政においてもいまだそれらの実態を十分把握するには至っていない。しかし今日、具体的にみつめればみつめるほど、京都における文化財、文化遺産、歴史遺産の保存継承について強い危機感を懐かないわけにわいかない。一体誰れが、どのようにして守り、これを継承するのか。こうした点についての本質的な検討が望まれるのである。
 
     四 都市行政と伝統文化
 
 祇園祭は、そのスケールや豪華さ、文化的価値の高さに限らず、伝統文化と現代との関係におけるあらゆる問題を提起してくれる。祇園祭山鉾を、現代の都市機能からみれば、まさしく“無法の車”として映るであろうとは先程も述べた。それは、伝統と現代との対決、調和の関係を端的に表現したかったからである。行政はその間にあって、どのような態度をとるべきなのであろうか。
 また一方、文化は固定した、死した“形”としてではなく、現実にそれを支えている人間の問題として捉えられなければならないし、とくに民俗文化についてそのことは強く指摘されなければならない。人の生活の変化は民俗文化の形態を変え、ときに新しい民俗文化を創造する。しかし、人の生活の変化それ自体も、歴史的文化によって規定されるのでなければ、人はみな固有性をもたない浮き草とならざるをえないであろう。伝統文化と現代との間にあって、行政といえどもこうした問題認識を深く持つことが要求される。
 祇園祭山鉾が“無法”であるのは、現代法に基づく現代都市に支配されずに、逆に現代法を無視し、現代都市を一定の範囲で己に従わしてきたからである。現代法を超えるもの、それが伝統の力であり、伝統にのみ許されることであろう。法は後にできた約束ごとであり、はじめから“無法の車”にはその効力が及ばないのである。
 もちろん、都市の変化や観光の波とともに巡行路が変わるなど、幾多の変化はある。しかし、路面電車が走っていたときは、当初、その巡行中には架線が排除されたのであり、後には架線そのものが架線の障害にならない形態に変えられる。また電柱にしても、長い間には通路に面した側面には電線がはられなくなる。道路を横切っている何らかの架線であっても、その前日には払われてしまう。といったように、当初は巡行時に、やがては巡行路は町並みそのものが巡行に適合したものとしてつくられてしまうのである。しかもそれに要する経費は、各架線等の所有者負担である。
 交通信号機などもその例外ではなく、巡行の直前、警察の手によってすべて道路と併行の方向へ曲げられていく。その瞬間、現代の都市機能は麻痺するといえる。地方財政の悪化にみまわれて以来、そうした信号機等の移動に要する経費について、祭側に肩代わりするべく府警からの要請があるようであるが、伝統を考えない現代的権利義務や負担行為によって、少しでも伝統の論理に崩れを生じるならば、祇園祭のM無法性Nは一挙に崩れ去り、祇園祭に要する経費は天文学的数字となってかぶさり、山鉾巡行は不能となるであろうことは明らかである。行政的立場に立てばこそ、そのM無法N性を擁護し、現代都市をこれに適合した形でつくり上げなければならない。そこに都市の個性が生まれ、住む人々の個性、ひいては主体が形成されるのではないだろうか。
 そして、そこで必要なことは、行政が伝統行事や芸能を執行するのではなく、その主体は、あくまで執行当事者であるという認識であろう。伝統行事や芸能は、生きものとして生成、発展し、また新たな展開をみせるものである。それを担う主体的当事者に対して、行政は、支援し、障害的環境から当事者を守る立場に立つものといえよう。
 次に行政それ自体の問題についても考えなければならないが、そこでは、伝統文化ないし文化財行政の貧困さと、都市レベルにおける文化行政の著しい制約を指摘せざるを得ない。
 文化庁における伝統文化ないし文化財保護行政は、文化財擁護の高まりによってその位置を高めてきたとはいえーそれだけにといった方が適切かもしれないがー一口にいって、規制あって裏付けなし、といっても過言ではないほど、規制にともなう補助金等を含む実態的な助成に弱い。国家的、国民的な宝としての保護規制と、所有者自身にかかる保存修理、維持管理の負担との間における大きなギャップは、自治体レベルではなかなか埋めることのできない負担である。これが原因となって、文化財の荒廃や、無届開発行為などが生じることになるのであり、文化財保護行政が国家的事業として、抜本的に拡充されるべき必要性について強く指摘せざるをえない。都市レベルにおける伝統文化に対する行政は、現行財政制度の中ではほとんど存在しないといってもよい。文化財保護法はーほとんどの法律がそうであるようにー府県単位を前提としており、各許認可や届出にあたっても、法に定められた経由・届出機関等は府県であり、市町村は必ずしも関係する必要のないしくみとなっている。地方交付税の算定基準をみても、市町村行政としては考慮されていない現状にある。
 そのため、文化財の保存管理の負担はその所有者にかかることになり、文化財は、その所有者によって文化財であるよりも収入を得るためのM観光財Nとして活用されることになり、さらにその消耗度を激しくする結果をもたらす。民俗芸能にしても、その維持条件の困難ななかで衰微の一途をたどるのであり、京都市の文化行政が少しは進んだところがあったとしても、そうした状況に対するささやかな努力でしかありえないといえる。
 文化財や伝統文化に対する行政は、現在のところ府県や国に対する質量ともの充実を望まねばならないといえる。
 
     五 文化政策を求めて
 
 精神性が薄れ、文化ならざる画一的生活指向がすすむ今日、文化の問題はあらゆる方面からの重要性を見直されつつある。そしてその文化は、世界的、普遍的なものである前に、自らの個性にかかわる固有の文化でなければならない。各地に存在する伝統文化、とりわけ民俗文化が見詰め直されなければならない。
 子ども祭の復活は各地で起こり、それは大人にとっても地域的連帯をもたらしている。
 歴史的に形成された京都の中心街には、今なお地蔵盆が毎年町内を上げて行われている。文化は、高水準の美術工芸品や芸能などをのみいうのではなく、こうした裾野に生き続ける伝統によって支えられるものであろう。元来、文化と生活とはたらきとは一体であった。今そのことの意味を問い返すなかで、地方自治における地域住民のあり方が浮かび上がってくるのではないだろうか。
 ともあれ、京都は、歴史と伝統文化の上にその今日がある。現行行財政制度のいかなる限界があるにしても、この歴史と伝統文化から離れて明日の京都はありえないのである。京都人自身が、と同時に自治体京都市がこれまで以上にそのことに目覚めるとき、あらゆる分野への歴史からの参加の必要性に気づくことになろう。
 考古資料館の構想は近く具体化することになった。歴史資料館の構想も遠からず具体化することが望まれている。また、他都市には例のない「伝統産業会館」も昭和五一年一〇月に完成した。これも伝統文化のための施設と考えてよいであろう。
 伝統産業とハードな文化財、そしてソフトな伝統文化、これらが一体となり、その集積によって京都の伝統文化は形成されており、またその土壌の上に現代文化や現代的にユニークなクラフト、インテリア、デザインなどの産業も育っているのが京都の姿である。しかしながら、これまでの京都は、そうした実態を必ずしも詳細にわたって、また総合的・体系的に把握してこなかったといえる。そのために、これからの京都は、その歴史的、伝統的文化を総合的に把握することによって、総合的・体系的な文化施策をつくりださなければならないであろう。
 明日の京都は、観光京都ではなく、歴史的文化都市でなければならない。その責務は、京都市民とともに京都市政は負わねばならないが、同時に、国政レベルにおいてこの京都をどう位置付けるのか、これまた、都市間の問題としても、都市の個性を都市形成の重要な要素として考えるとき、東京の政治都市、大阪の経済都市、神戸の国際・情報都市に対して京都をどう捉えるかの問題ともなってくる。
 京都の伝統文化を維持、継承するには、国民的、国政レベルからのテコ入れは不可欠であろう。しかし重要なことは、そのことの以前に、京都レベルにおける主体的、積極的な試みがなければ、精神的な、ソフト面の伝統性は継承され得ないであろうことである。そしてその鍵の一つは、町衆の伝統ともいうべき自治の源流としての京都を、これから先いかにして血肉化し、発展させていくかにかかっているといえよう。京都版ナショナルトラストとしての京都市文化観光資源保護財団の、今後における事業の多角的拡充のいかんは、こうした京都の今後を左右するものといえようし、そこに展望を期待するところである。

 

 

      五.京都市観光行政の沿革、現状、課題
                                                      (一九八四年九月)
     一 はじめに
 
 近年、京都における観光問題ないし観光行政がクローズアップされつつある。その原因は、昭和五〇年代を通して続いてきた不況による観光業界の不振にあるようだが、同時に、国内外の観光業界の多様化による、入洛観光客の減少からの危機感も反映しているようである。加えて、生活習慣の洋風化傾向の定着によるものであろうか、ホテル業界の進出による旅館業界の圧迫という問題状況もある。
 いずれにしても、最近の観光問題のクローズアップの仕方は、十数年以前における観光問題とはかなり違っているようである。そこには、観光問題や観光行政のあり方を基礎から捉えようとするゆとりに欠ける感じがある。あえて極端に表現すれば、経済問題に傾斜しすぎるきらいがあるのではないかと思われる。
 都市レベルにおいて観光を問題とする場合、観光は、経済的収益の手段に堕してはならない。観光は、その実態において必ず経済的収益をその地域にもたらす反面、同時に負の収益をももたらす。
最終利益は、結果論的に得られるものであって、決して、観光を経済的利益の手段に化してはならない。もちろんこのことは、個々の観光業者の行為に対していうのではなく、あくまで観光業界総体、都市行政レベルにおける把握のしかたの問題として指摘するのもである。そうした総体的な捉え方の中から、改めて個々の観光業者のあり方もまた再検討される必要が生じるかもわからないし、また行政のあり方も見直されるものであろう。
 今、手元に、昭和四六年三月に発行された『京都観光会議・報告書』がある。そのテーマは、「一〇年後の京都観光ビジョン」であり、サブタイトルに、「呼び込み観光との決別」とある。当時、「今や年間三〇〇〇万人をこえるまでになった」入洛観光客の増加に対して、観光の質的な変化と「市民生活との調和」をはかることをめざして検討された同報告書のねらいは、決して誤ったものではなかったが、近年クローズアップされてきている観光の捉え方は、結局のところ、「呼び込み観光」への復活と量的拡大を求めるものになっているのではないかと思われる。
 これを単に一〇年間の時代の変化として済ますのではなく、そうした捉え方の落差を生む観光問題と観光行政について考えるために、京都市観光行政の沿革と課題について、検討素材として提起を試みることにした次第である。夏のプロローグ豪華絢爛たる祇園祭山鉾巡行、そのフィナーレとしての夜空をかざる大文字五山送り火といった伝統行事をめぐっても、観光をめぐる複雑な問題が存在している。
     
     二 京都と観光
 
 その国(や地方)の「文物・風光などを見聞してまわる」(『広辞苑』)或はより広義は「風俗や諸制度」をも対象とする観光は、古来、京都をもって最適にして最大の地となしてきた。首都が江戸に移った近世を通してさえ、京都は日本最大の観光地として、常に多数の入洛客にあふれ、『都名所図絵』をはじめとする観光案内書の類もおびただしいものであった。
 こうした観光地京都の特徴は、千年の都であったという歴史と秀麗な風光とが渾然一体となって織りなす「無限の風趣」にあるとし、昭和一六年に発行された『京都市政史上巻』では、それは、五つの要素によって構成されているとした。
▽歴史的要素  御所、離宮を首めとして聖蹟、神社、仏閣等の夥しい国家的、歴史的の事蹟が市内至るところに現存して、悠久千載の歴史を眼のあたり顕現している。
▽精神的要素  歴史は又精神の泉である。本市には神威赫灼たる神社や法統連綿たる仏閣、さては忠孝義烈に輝く躅芳が多く存し、昔から国家精神高揚の根源をなして来た。
▽文化的要素  精神の高揚は文化の発達を促す。日本古来の純美なる文化は、仏教にともない輸 入せられた各種の外国文化の吸収によっていよいよ光輝を加え、京都をして学術、文学、芸術の 淵叢たらしめた。これら崇高なる努力の跡は今なお本市特有の馥郁たる薫りをなしている。
▽美術的要素  文化的要素の中特筆すべきものに美術的要素がある。平安朝初期において既に国風の優美な姿を備え、独特の風格をなした美術的方面は、建築、彫刻、絵画その他諸般の工芸に その真面目を具現し、ついに京都特有の美術工芸を生むに至った。
▽天恵的要素  これらの諸要素に一般的の光彩を加えるものに秀麗なる風光がある。その天恵的風趣は歴史的に培われた人工の美と調和融合して、市内随所に雅趣に富んだ景観を形作り、京都特有の習俗や情緒を醸し出している。
 
 京都への観光入洛客は、四季折々にしたがって訪れる一方、第四回内国勧業博覧会・遷都千百年祭や大正、昭和の御大典などビッグイベントの時には、一時に百万人単位で押し寄せることになる。
明治二八年四月一日から七月三一日にかけて開催された第四回内国勧業博覧会の入場者は一一四万人であったが、当時の京都市人口は三四万人であった。また、昭和三年一一月の御大典では、一一月六日〜二一日の間の市電の乗車人数は七四〇万人で、市バス乗車人数を合わせると七八〇万人に達するが、これは、平常時よりも推定二〇〇万人は増加していると思われる。この年の京都市人口は七四万人であった。このように、京都という都市の存在は、即ち日本最大の観光地を反面において存立させてきたといえる。

     三 観光行政の歩み

  1.観光行政の嚆矢
 
 建都一一〇〇年記念祭と観光行政
 
 京都市に観光課が設置されたのは昭和五年であるが、すでにみたような京都と観光との結び付きから、観光行政そのものはそれ以前からあったのはむしろ当然といえよう。
 近代地方自治制度としての市制が誕生するのが明治二二年であるが、この時期の京都市政には専任の市長ではなく、府知事が特別市長として、また府の書記官が市政の執行事務にたずさわっていた。この時期には、評議及び執行機関としての参事会制度があり、市制特例下ではあったが、それなりの自治的な活動を可能としていた。
 遷都一一〇〇年祈念祭、第四回内国勧業博覧会は、市政のこうした段階で企画、開催されたわけであるが、この両事業による入洛者の受け入れは、まさに観光対策であったといえるし、観光行政と文化財保護行政は、近代地方自治制度のもとでは、これがはじめてのものであったといえる。
 第四回内国勧業博覧会は、明治二八年四月一日から七月三一日にかけて、遷都一一〇〇年紀念祭は同年一〇月二二〜二四日に開催されたわけであるが、第四回内国勧業博は、記念祭にあわせてビッグ事業として政府から誘致したものであり、その事前企画は一体的にとりくまれてきた。
 そこで次に、今日の観光行政として理解されるべき事業を紹介することにする。
 まず第一には、広域観光として企画されたこと、第二は、広域観光キャンペーン及び観光キャラバンが派遣されたこと、第三は、文化財や名勝が観光財として整備されることにより、同時に文化財保護行政の発端となったこと、第四は、各社寺の宝物展覧等が一斉に行われるなど、民間が挙げて協賛・協力したこと、第五は、時代祭という新たな観光財が創出されたこと、第六は、京都案内の決定版ともいうべき『京華要誌』(上下二巻及び付録)及び英文案内の発行などである。
 
広域観光  記念祭では、西は広島から東は名古屋に至る二府八県一三市町の協賛を得た連合事業が企画された。ちなみにその市町は次のとおり。
伏見町、奈良町、大阪市、岡山市、広島市、琴平町、大津町、彦根町、岐阜市、宇治山田町、名古屋市
 事業としては、@それぞれの地において祭典または法会を執行、A同年に開設する展覧会等は主として「古物旧器」を陳列、B祭礼や名所旧蹟等の縁起等を取調べる、Cガイドブック等の発行、D伊勢参宮その他の講社を勧誘して京都及び連合各地への参集をはかることなどを統一して申し合わせた。伏見町では、桓武天皇紀念祭や御香宮等における宝物陳列、大阪市では大阪城趾縦覧、岡山市では岡山城天守閣等における桓武天皇紀念祭や宝物陳列館の建設、展覧、百八燈明の毎夜点燈など、各市町ともに統一申し合わせに基づき一斉に事業を行った。その中には、汽船、汽車賃の割引協議をはじめ、来遊者の便宜のための処置までも含んでいた。
 こうした連合事業は、明治二六年四月六日から一六日にかけての参事会メンバーを中心とした全国各地への遊説巡回によって実現したものであった。
 
文化財の保存修理  平安京の全部実測による二、五〇〇分の一の実測図の作製、大極殿遺跡建碑(現上京区千本丸太町上る西側)や社寺名勝遺跡の保存修理が行われた。
社寺・名勝・遺跡の保存修理は、全社寺が要請に従って「祭典法会及宝物展」の挙行を計画したが、明治維新以来の荒廃的状況に対して、市費による修理助成が行われたものである。その補助額は、三三か所に対して計一〇、二〇〇円であった。補助基準を紹介すると次のとおり。
  社寺及勝地修繕補助費施行概則
 本費ヲ以テ補助スヘキモノハ次条ニ掲クル処ノ標準ニ該当スルモノニ限ル
 一桓武天皇ニ御由緒ノ歴然タル最古ノ建造物ニシテ大破セルモノ
 一古来ノ由緒正シクシテ著名ナル建築アルモ大破セルモノ
 一本市接近ノ名勝中最モ著名ナルモノニシテ目下破損スルモノ
 前条ノ標準ニ該当スルモノト雖ヘドモ檀徒又ハ有志者ノ勧財ヲ以テ之レカ修繕ニ堪ユルモノヽ如キハ補助セサルモノトス

時代祭  延暦以来一一〇〇年間に及ぶ各時代の風俗の変遷をあらわすことができるのは京都をおいて他になく、もっとも記念祭にふさわしい行事として時代祭は創出された。そのため、全市六〇学区に講社が設けられ、それを六社に分け、次のように一社が一行列を分担した。
第一列 延暦文官参朝ノ事
第二列 延暦武官凱旋ノ事
第三列 藤原文官参朝ノ事
第四列 城南流鏑ノ事
第五列 織田公入洛ノ事
第六列 徳川城使上洛ノ事
列外  維新の弓箭隊、山国隊
 紀念祭では一〇月二五日に挙行されたが、翌年以降の執行は、平安神宮の祭礼として、紀念祭の日であった一〇月二二日となった。
 
京華要誌  市内、近傍及び連合二府八県の案内記として編さん刊行され、以後の行政サイドにおける観光案内書のベースとなった。京都市参事会発行で、本文は上・下二巻約七百ページ、付録は連合府県の案内で約二五〇ページ。
 内容は、京都の歴史、記念祭・内国勧業博及び関連事業の案内、学校や諸施設、各種団体、旅館、興行場、名勝地の他、市内及び近傍の社寺・祭事の紹介となっている。特に社寺その他祭事等の紹介は五三一にのぼっている。
 
  戦前の観光行政
 
 観光行政が、恒常的な行政組織において確立したのは昭和五年であった。昭和五年五月二二日に設立された観光課は、八年五月一日には、社会課、産業課とともに庶務部に、一〇年六月二五日には産業部に属することになった上、昭和一六年一二月二六日には、市行政が戦時体制に組み換えられたことにより、観光課は廃止され、その事務は、教育部に設置された文化課の観光係に引き継がれた。
 こうした行政組織確立の以前、昭和二年七月に、昭和の御大典を前に市観光案内所が京都駅前に設置されたが、それは、「本市観光事業の近代的発祥の基をなす」(『京都市政史上』)ものであった。また、昭和一〇年三月には、市設無料休憩所が知恩院山門前に、一三年三月には、市設二条観光案内所が二条駅構内に設置されている。このほか、京都市が全国各観光地に呼びかけて、昭和六年四月に、日本観光地連合会が創設(昭一一、日本観光連盟に)され、京都市長がその会長となって、全国的な連携の推進力にもなっていた。このように、戦前の観光行政は、長い前史の蓄積の上に、市政の重要部門の一つとして、昭和初期に確立したといえる。
 戦前の観光行政については、各年の『市政概要』等からうかがえるが、戦前のそれを要約して紹介してある『京都市政史上』を基にして、次にその大要を紹介しておきたい。(一定の時代的背景を考慮しなければならないが)。
 観光事業には、大別して、誘致事業、保勝事業、施設事業、助長事業があるが、その根底には、国レベルではない地方自治体としての事業範囲と京都の特異性とがあるとして、それを次のように指摘している。

   京都市観光事業の根底(『京都市政史上』昭一一から)
一、外国へ対しての直接宣伝は専ら国家機関が之に当たり、地方機関は原則として単独には之を 行はないのが現状。
二、従って地方機関としては国家機関により誘致され、既に本邦に渡来したる外人に対し、之を その地方に誘致し、十分なる案内斡旋に努める。
三、本市は、皇室と最も関係の深い都市であり、又我国古代よりの文化が最もよく保存されている都市である。依て現存の聖蹟史蹟を顕揚し、国粋文化を保存して、広く国民に対し国体明徴、国民精神作興等の精神教化の資料たらしむべく、事業の主点を此処においている。
四、地方自治体として観光事業を創めたのは我国においては本市が最初であり、昭和六年結成された日本観光地連合会が昭和一一年日本観光連盟にその事業を継承されるまで京都市長その会長に推されていたため、事業の遂行に当たっても常に全国各地への影響を考慮している。
 
  戦前の観光事業の概要
一 誘 致 事 業
 「観光事業の第一歩」としてのいわゆる宣伝事業であり、史蹟・名勝・風俗・行事等の紹介にとどまらず、地理や気候・風土、政治・経済・衛生の状況、交通機関や宿泊施設の完備状況等も容易に理解できるように努めている。その方法は直接及び間接の二方法に及んでいる。
  直接宣伝
 観光課(行政)が宣伝の主体となるもので次のとおり。
@ポスター 初詣及び春秋二季の発行が中心。図案は公募による。製作部数は一回三千〜六千 枚。掲出先は全国的。染織祭、葵祭・祇園祭等著名祭事にも製作。部数は二千枚程度。掲出 先は近畿地方が中心。
Aパンフレット 国民教化及び体育振興のためのハイキングコースの紹介等を目的に次のもの を製作。
鳥瞰図入京都案内、著名祭事各案内(和、英文共)、四季宣伝案内(各季毎)、英文京都観光案内、京都観光暦(毎月)、京都近郊ハイキングコース案内、京都皇陵巡拝案内、京都神社参拝案内
B冊子 京都文化叢書として次のものを発行。京都名勝、外字京都案内(英、独、仏、伊、 支)、京都の古建築、京の桜、京都の彫刻、京都の庭園、京都史蹟古美術提要、京都古美術入門、日本仏教と京都、京都観光事業要覧、和文名勝写真帖、外字名勝写真帖(英、独、仏)
C地図 一般者用案内図、指導者用案内図、英文京都案内図の三種で、年間二〇万枚を製作。D映画 映画会社と協力して製作の上、その映画会社直営常設館で上映。「京の四季」(八 巻)、「歴史の京都」(三巻)「京都の観光と産業」(一巻)等。
Eその他 エハガキ製作。新聞雑誌等への写真貸し出し、新聞雑誌による宣伝等。
  間接宣伝
 観光課が主体となるのではなく、仲介媒体を通した方法で次のようなもの。
@各地で開催される博覧会等への観光出店による京都の紹介(商工課と協力)。
A風水害や寒暑の気候等、実際以上の京都に対する悪評の訂正(京都の利益に反する宣伝の訂 正)。
B京都に何らかの関係ある旅行団体の設立勧誘等、京都への旅行団への人を介して(京都関係 者を利用して)の京都宣伝。
二 保 勝 事 業
  史蹟の保存顕彰、名勝、風致の維持増進、都市美の増進、行事の奨励等を主として、次のよ うな事業を行っている。
@京都美化運動連合会 昭和八年、府、商工会議所、民間団体と協力して結成。美化デーを定 め、公衆の集まる社寺、公園等市街の美化・清掃、美化思想の普及を図っている。功労ある 団体、個人の表彰も行う。
A観光知識の普及 昭和五年四月、鉄道省の一外局として国際観光局が創設され、国策として 観光事業が樹立されたことによる観光知識の普及を図る。四月一八日からの一週間がその普 及週間(当初の名称「観光祭」)で、各団体との共催で、映画の夕や小学生に対する懸賞作 文の募集を行っている。
B行事の奨励 古来から続いてきた著名行事が衰退傾向にあることに対して、その維持“復興”奨励のために奨励金を交付。交付総額は、昭和一三年度、四千円。
C名勝風致の維持増進 由緒ある神社、仏閣、名勝、旧蹟等の荒廃しつつあるものに対して復 旧、保存のために補助金を交付。特殊な名勝地帯に対しては、市が直接、風致保存増進工事 を行う。交付総額、昭和一三年度、一万円。
D史蹟、名勝、天然記念物の管理 史蹟名勝天然記念物保存法により指定されたもののうち、 市の管理に属する一一件に対する保存管理。
三 施 設 事 業
  観光客の利益享受のために次の施設を建造、設置している。
@市設京都駅前観光案内所 昭和二年七月、京都駅構内に開設。当初は社会課の所管であったが、後観光課の所管下に。業務は、神社・仏閣・古蹟等の説明、交通・旅館等の案内、市内 外案内地図・郊外電車沿線案内図等の提供、その他観光に関する各種の斡旋。昭和一三年度 の同所利用者数、二六五、〇一三人。
A市設二条観光案内所 山陰地方からの入洛客の便宜のために、昭和一三年三月、二条駅構内 に設置。業務内容は前記に同じ。
B市設無料休憩所 昭和一〇年四月、篤志者の寄付により知恩院山門前に設置。敷地面積一三 三坪余、建坪六二坪余の和風木造平家建。三〇〇人収容。昭和一三年度の利用者、一七八、 三六九人。
C街廁 外人の利用を目的とした有料水洗便所で、昭和六年度から逐次設置。設置場所は、円 山公園、恩賜京都博物館構内、嵐山。また別に、婦人団体用を、清水寺境内、嵐山に設置。D名勝地保津峡の開発 山陰線保津峡の駅の新設を請願し、実現。保津川に吊橋を架設。
Eその他の施設
 ア名所案内人詰所を、三条大橋東詰及び西詰、三十三間堂前、西本願寺前に設置。
 イ鳥瞰図入名所案内標を、全市を六区分し、六か所に設置。
 ウ名所旧蹟説明立札を、著名社寺史蹟地に建植、三五〇本。
 エハイキング道標を、石柱四〇本(平坦地)、木柱一〇〇本(山間地)に設置。
四 接 遇 事 業
  接遇第一線は、観光案内所業務であるが、その他、外国貴賓等特殊の使命をもった観光者等 に対しては、府、商工会議所と協力して案内、斡旋するほか、ケースによっては、歓迎会等を 開催。昭和一三年度の観光者は、一一五件、三、五二八人。
五 助 長 事 業
 観光及び観光関連業者に対して、電気局及び商工課と協力して、その助長(指導)、改善にあたっている。
@交通業者に対しては、各種交通機関と毎月一回会合の上事業の連絡協調を図っている。また、タクシー業者には、京都名勝の解説書を配布。
A名所案内人に対しては、観光読本の調製配布、講習会開催等を行っている。
B旅館業務に対しては、宿泊施設の充実、従業員のサービス向上を図るため、随時組合役員と 協議会を開催するほか、サービス読本の調製配布、講習会の開催等を行っている。
C土産物業者に対しては、土産品商組合並びに京みやげ研究会(有志業者)と協力して、土産 品の審査会、展覧会、協議会等を開催し、その改善、充実を図っている。
六 調査及び統計
 観光事業は、時の経済事情や社会状勢に影響されるところが多く、また、この事業は新しい事業であるため、社会状況や人の移動及び有識者や入洛客の感想に関する調査を次のように行っている。
入洛者統計、市内宿泊者統計、市内宿泊者府県別調査、市内宿泊外人統計、案内所利用者統計、観光者消費調査

  2.戦後の観光行政

 観光課が復活したのは、戦後混乱期のまださめやらぬ昭和二二年四月一日であった。ただ京都市にあっては、戦後窮乏と混乱する経済状況からの復活の支柱として早くから文化観光都市の建設を指向していた。そのため同年一二月一七日には、早くも、社会教育のほか、文化、芸術及び観光に関する事業を所管する文化局が設置され、市長室に属していた観光課はこの時点で文花局に属することになった。そして、翌年の教育委員会発足に際して、二三年一〇月四日、文化局は観光局に編成換えとなり、その所管事項は、観光、芸術及び慰楽に関する事項となった。同局に属した課は、庶務、観光、芸術の三課(後庶務、計画、事業課に)に、所属した事業所は、恩賜京都博物館、恩賜元離宮二条城事務所、大礼記念京都美術館、紀念動物園であった。
 観光局はその後、昭和二七年一月三〇日に産業局と合併して産業観光局となるが、二九年四月一日に再び観光局となり、昭和四〇年二月一日に、現在の文化観光局となるまで続くことになった。 戦後京都市の都市復興は、文化都市づくりであったといっても過言ではない。それは、ただでさえ古都千年の文化遺産を擁しているばかりでなく、大都市の中で唯一戦災をまぬがれたことによるものであった。昭和二二年度予算の提案説明において、市長代理大井助役は、「千年の文化を擁し、而も幸ひにして戦災を免れました本市は、文化並びに観光の都市としての将来性に鑑みまして、現存の文化財を高度に活用し、精神的に正しい日本文化の推進に努めるべく、市民生活のあらゆる角度から見て、大衆市民のための文化事業を念願致しますとともに、観光事業につきましては、現下の客観状勢と睨み合せ、観光都市の市民としての啓蒙的な面に力をいたしたい」と事業説明の冒頭で述べている。こうした観光の捉え方が、積極的にすすむ中で、文化観光都市の建設という形を志向するようになり、市会サイドからその要請が出されることになる。
 したがって、昭和二五年一〇月に制定された京都国際文化観光都市建設法には、市行政と市会を軸とした、戦後京都の都市づくりの夢が託されていたといえよう。しかし他方、この時期にようやく戦後地方財政制度が確立してくる中で、京都市の財政は極度の危機にみまわれ、遂に、昭和三〇年度から三六年度に及ぶ財政再建団体となるに至る。
 そうした財政再建下の文化観光都市づくりの財源が、昭和三一年一〇月一三日から実施された文化観光施設税に求められたのである。同税の主たる使途は、国際文化観光会館の建設財源であったが、同会館は、京都会館として今日岡崎公園の中心施設になっており、併せて企画されていた国際会議ホールは、別途国立京都国際会館として後日宝池にその建設を実現した。
 このように、戦後の京都市観光行政は、京都の都市づくりそのものであった。他方、行政組織的には文化及び文化財保護行政の機能分化がすすみ、昭和四〇年代に入ると、観光課自体は狭義の観光行政を担うにすぎなくなる。そして、行政組織的には、文化及び文化財保護行政のウェイトが高まり、昭和五三年には、世界文化自由都市宣言を行うに至る。これは、文化と観光を因果関係において捉えるとするならば、文化が因であり、観光がその結果であるとする考え方である。これは観光次元からみると、観光をより根元的な次元から再創造しようとするものにほかならない。
 戦後の観光行政といっても、個々の事業をみると、それは驚くほど戦前の事業を継承していることにすでに気づかれているであろう。したがって、ここでは歴史的な節目たりうる事柄に関してたどるにとどめておきたい。
 
   京都国際文化観光都市建設法
 
 京都国際文化観光都市建設法は、昭和二五年七月二一日、議員立法として衆議院に提出され、二八日に参議院で可決され、国会を通過した。憲法第九条に基づく「一の地方公共団体のみに適用される」特別法である。したがって、同年九月二〇日、市民投票に付され、投票率は三一・五%であったが、賛成一三二、二六三票(六九・五%)、反対五八、二六一票(三〇・五%)で、投票者の過半数の同意を得、一〇月二二日に公布、施行された。
 この特別法制定の動きは、昭和二四年一〇月、当時の監査委員井上治三郎の提唱にはじまり、市会がそれを受けて協議検討する過程で行政サイドの課題となっていったものである。しかし、文化観光都市建設への指向性は、昭和二四年にはいると市会でもかなり主張されており、すでにみたように、観光を軸とした戦後京都市の復興策の気運の高まりという土壌の上に、この特別立法は提起されたものである。
 ちなみに、昭和二五年の市長選挙では、当選した高山義三だけではなく、他の二候補もすべて観光都市問題をその政策に掲げていた。高山義三は「文化観光都市の建設」を、田畑磐門は「観光施設五カ年計画の完成と観光産業の振興」を、和辻春樹は「国際観光都市の建設」「文化財の保存と近代文化の高揚」というように。
 同法制定の意図は、千年の都として国家的なレベルにおける多くの文化遺産を有する京都の保存と観光都市としての整備は、京都市レベルの負担のみでできるものではなく、国家的見地からそれを援助すべき土壌をつくることにあった。しかし、同法は、結果において、国立陶磁器試験場の無償譲渡、疎開跡地の買収問題などのほか、必ずしも初期の期待のようには政府の援助を受けることなく空文化の道を歩まざるをえなかったようである。
 しかし、今日、同法及び国際文化観光都市の建設という問題に学ぶ点は、その捉え方にあるといえよう。
 文化観光都市の建設とは、狭義の観光施設の整備だけでなく、むしろ広義の、国際的な文化観光都市たるにふさわしい、「健康で文化的な市民生活」の実現を含む、総合的な都市づくりであると捉えられていた。それゆえにこそ、戦後物資欠乏と経済混乱のさなかにあって、文化観光都市の建設は、市の課題たりえたのである。
 この点に関し、当時、行政サイドでは、「特に京都を現代日本の学術、芸術、宗教の中心都市として発展させ、交通、衛生その他市民生活の文化的水準を高めて、すべて市民が健康で文化的な生活を営むのに必要な施設を整備することは、文化遺産の保護と相まって、京都を国際的な文化都市に育てあげるのに欠くことの出来ない条件である」という認識の上に、「従って、京都が世界平和と民族文化の生きた記念像であることを内外に宣言し、それに適わしい国際文化観光都市を建設することは、京都の包蔵する重要文化財を守り、市民の文化生活を発展させ、市民の経済活動を旺盛にし、京都を永久に繁栄させる最良の方法である」と考えられていた。
 
  文化観光税
  
 いわゆる文化観光税は、正確には、「文化観光施設税」(昭三一・一〇・一三〜三九・四・一二)と「文化保護特別税」(昭三九・九・一〜四四・八・三一)である。
 文化観光施設税の七割の使途が国際文化観光会館(現・京都会館)の建設費及び同公債費であることからも判るように、同税制定の直接の動機は、同会館の建設費を求めるところにあった。しかし、より根本的には、京都国際文化観光都市建設法の制定後、京都市の財政状況はさらに悪化の一途をたどり、遂に地方財政再建特別措置法の適用を受けるにまで至るなかで、なおかつ国際文化観光都市としての都市整備をはかるために、その財源として「京都の文化財などを観覧する人々に経済的な協力を求め」たものであった。
 仏教会の激烈な反対があったものの、最終的には合意に達し、時限立法として再度の実施をみたものであった。
 その骨格は、文化観光財の鑑賞を課税対象とし、その鑑賞者を納税義務者とするものである。
 両税徴収総額は一三億六四六三万円で、これにほぼ同額の一般財源を充当し、総経費二七億二五七六万円にのぼる国際文化観光都市としての整備事業を実施した。その事業内容は、国際文化観光会館建設のほか、道路整備、文化財保護、観光便所、事務費、その他関連事業となっている。(『京都市政調査会報』第四二号参照)。
 この税の問題は、文化観光行政における財源問題の特殊性と容易ならざることを提起しているものであるといえる。したがって、税は再度の実施以後は今回の「古都保存協力税」が打ち出されるまではその実施の動向はなかったものの、四大行事等の執行助成と未指定文化財の保存修理を目的とした財団法人・京都市文化観光資源保護財団が昭和四四年一二月に設立され、全国的な募金活動によってその財源を求めるという手法をとってきているのである。
 
  世界文化自由都市宣言
 
 世界文化自由都市宣言は、ある意味で、観光問題の捉え方の変化を究極までにすすめたものであるといえるし、また、観光問題を広義に捉えた場合の究極の姿であるともいえる。
 同宣言は、昭和五三年一〇月一五日、二一世紀を展望した京都百年の大計として、その理想像を内外に宣言したものであった。
 「都市は、理想を必要とする。」からはじまる宣言文は短文ではあるが、「過去の栄光のみを誇り、孤立」することの危機感を背景に、「京都を世界文化交流の中心にすえる」ことによって世界史的役割を果そうという決意を明らかにした、格調高い文章である。
 この宣言に基づき、昭和五五年一一月には、京都市世界文化自由都市推進懇談会(座長・桑原武夫)から、四項目にわたる提案が行われ、その都市の理想像としての理念的意義のほかに、その四項目の実現への検討をすすめることが今日の課題となっている。
 四項目の提案は次のとおり。
1 新しい町づくりの構想
@京都のみち A市民ひろば B文化環境の再生と整備 C市街景観の保全と整備 D伝統産業の発展と新しい産業の開発
2 世界文化自由都市と国際交流
@姉妹都市・友好都市 A市民の参加 Bボランティア活動 C留学生 D国際文化交流施設
3 日本文化研究所の創設
設立主体が国である同研究所を京都市内に設置することが望ましい。
4 市民劇場の建設
最高の設備、構造をもった、客席二千席の多目的劇場として。設置場所は、市内中心部が望ましい。
 
     四 観光行政をめぐる諸問題
 
 戦前戦後の観光行政をふりかえってみると、観光及び観光行政は相当広範囲の問題として、京都市の基本的な都市性格の問題として捉えられてきたことがわかる。それは、しかしながら、地方自治行政の組織機能が今日ほど分化し、専門化していなかったことにもよる面はあろう。いずれにしても、観光問題の広範囲かつ本質的な捉え方については、行政の専門分化した今日、学ぶところもまた多く、これまでのそうした前史を大切にしつつ、ここでは観光行政をめぐる今日的な問題状況を考えてみたい。
 
  1.文化財保護行政の確立と観光行政の位置の変化
 
 戦前戦後を通して、観光行政は、文化行政と一定の産業行政をも含み込んでいたばかりでなく、京都のまちづくりそのものにかかわる広範囲の行政として捉えられてきていた。それは、遂に京都国際文化観光都市の建設にまで至ったことはすでにみたところである。
 しかし、都市の抱える行政問題の増加とそれに対応した行政事務及び行政組織の拡大するなかで、
観光問題をめぐる行政も拡大し、機能分化を遂げることになる。ただ、京都市において文化を論ずる場合、その主要な基盤は伝統文化ないし文化遺産にあることから、文化と観光との機能分化は必ずしも容易ではない。昭和三三年四月一日に文化局が誕生したが、昭和四〇年二月一日、観光局と文化局は統合されて文化観光局となった。この時点で、それまで観光行政の範囲とされていた文化財保存の事業が、文化課に新設された保存係に引き継がれた。そして昭和四五年4月三〇日、新たに文化財保護課が設置され、文化課の文化財保存事業と観光課の所管であった祇園祭等の四大行事を受け継ぐと同時に、新たに埋蔵文化財行政を開始し、また、前年一二月一日に創設された財団法人京都市文化観光資源保護財団を所管した。この文化財保護行政の確立は、従来の観光行政の範囲を大きく変えるところとなったのである。すなわち、この時点で観光行政は、明確に狭義のものとなった。
 こうした現在の観光行政=観光課の事業は、@観光業者指導対策、A観光標識等観光施設整備事業、B観光宣伝及び接遇、C観光関係諸団体との協調及び指導、D観光関係業者等からなる社団法人京都市観光協会(昭三五・五・一設立、前身は京都市観光連盟)との共同事業、Eその他市有観光施設の運営等である。観光財の維持、発展に関する事業は、景勝地等の地元に結成されている保勝会(市内三三か所)にかかわるもの以外はほとんどないという状態である。
 
  2.観光財と文化財の関係
 
 観光は、観光対象たりうる観光財が存在することによってはじめて成り立つ。この京都市における観光財の主要なものは、すなわち文化財にほかならない。
 文化財は、建造物や美術工芸品にとどまらず、無形文化財や民俗文化財、さらに史跡・名勝・天然記念物までを含んだ総称である。となると、それらが、国によって指定されたものであるとないとにかかわらず、自然景観、並びに有形無形の文化遺産ということになれば、それは、京都市内における観光財のまさにすべてであるといっても過言ではない。その建設時に賛否両論にゆれた京都タワーやコンクリート製の伏見桃山城でさえ、それが観光財となるのには京都の歴史的景観や史跡と無関係ではないのである。 
 文化財と観光財とは、明らかに異なった概念であり、また異なった行政対象であるが、このように、ほとんどの場合同じ対象物であり、文化財行政が確立するまでは、その維持保存事業は観光行政として行われてきたし、今日においても、「文化観光財」という複合的な捉え方も京都市においてはなされている(例えば、文化観光資源保護財団)。
 この文化財と観光財との関係を行政機能の面から捉えるならば、保存と公開との関係となる。文化財保存は、文化財をその時代で破壊・消滅させることなく子々孫々にまで民族或は民俗の歴史的軌跡として伝え残す行為であり、その公開は、それが単に保存のための保存行為に終ることなく、各時代時代に応じた活用に供する行為である。
 そこで問題となるのが、文化財の保存と活用の程度との関係である。代替のない、唯一無二の歴史的文化価値を有する文化遺産について、その過度の公開は文化遺産の破壊をもたらす。公開がすすめばすすむほど、その文化財は消耗し、やがては修理も不可能なほどに摩滅し、荒廃する。したがって、ここから出てくるところの最小限度の原則は、少なくとも、その時代に消耗した分は、その時代で補修しておかなければならないということである。
 観光財であることがいたずらに先行するとき、せっかくにして今日に至るまで伝わってきた歴史的文化遺産は、その時代から荒廃・消滅の道を歩むことになる。それを避ける道は、文化財としての位置付けの重要さを認識することであり、文化財としての捉え方をまず基礎におかなければならない。そのことを経済的な関係で指摘するならば、生産と消費の関係としてみることができる。文化財保存が生産であるのに対して、観光はその消費であり、その消費経費でもって生産行為は保障されなければならないし、何よりも基本的には、生産の程度を超えて消費はされるべきではないといえよう。このように、観光財と文化財とは同一物の両面であり、その捉え方のチェック・アンド・バランスの上に適正な保存と公開の関係が生れることになる。
 
  3.観光と市民生活
 
 観光都市であることは、都市の経済的収益において重要ではあるが、一般市民生活面においてはたして快適なものであるかどうには疑問がのこる。
 年間の入洛観光客の数は、ここ一両年多少減少しているとはいえ四千万人に近いことには変わりはない。これは、この二〇年間に倍増したことを意味している。しかしさらに詳しくみると、四千万近くの数字、すなわち三、八〇〇万人台に達したのはすでに一〇年前であり、それまでの一〇年間に二千万人近くの増加をみたことからするならば、入洛観光客の総数はすでに飽和状態にあるとみなければならない。
 戦前、昭和一〇年の入洛観光客数は約一千万人、宿泊者数八〇万人であった。戦後当然のこととして観光客数は激減し、漸く戦前のレベルに達したのは昭和三四年であった。ただ、宿泊者数は戦前の数倍になっていた。ただし、これらの数字は必ずしも確かなものではない。毎年行われている文化観光局の観光調査によるものであるが、昭和四四年以降の推計の仕方にならえば、それ以前の計数はほぼ五百万人上積みされることになり、これに従えば、戦前の域に回復したのは昭和三〇年頃で、昭和三四年には千数百万人となっていることになる。
 しかし、いずれにしても、年間「四千万人」、これは月平均三三〇万人という京都市人口に倍する入洛観光客があることを意味し、その現実において飽和状態にあることに違いはない。
 昭和四四年に策定された「まちづくり構想ー二〇年後の京都」では、観光問題について、この段階では入洛観光客数はまだ年間一、八〇〇万人であったが、「そのほとんどが春秋に団体客として入洛し、また、有名社寺への集中傾向が著し」く、「さらに、最近乗用車による観光客の増加がうかがわれる」結果、「春秋のシーズンには、観光コースにあたる道路の交通混雑や主要観光地区の混乱がおこるとともに、観光客の殺到、自動車の排気ガス、振動による文化財の損傷などの問題が生じている」と指摘し、大量輸送機関、道路、駐車場などの整備や交通規制による観光交通の秩序づけをその課題として明らかにしている。
 また、昭和四六年六月に出された、冒頭に紹介した『京都観光会議報告書』では、昭和四五年、同年に開催された万国博の影響もあって、はじめて入洛観光客が三千万人を超えるが、そうした状況の中で発生する次のような問題について、「市民生活との調和をはかりながら、どのように解決していくかは京都の将来にとっても非常に重要な課題である」としている。
 その問題は、@市民生活と大きなかかわりあいをもつ交通渋滞、観光公害 A自然景観や文化財の破壊 B観光客の不満足 C観光産業をめぐる問題 である。
 こうした線上に、昭和四八年一一月のマイカー観光拒否宣言があることはいうまでもない。
 マイカー観光拒否宣言の実効性をめぐる問題についてはともかくとして、前項に指摘した文化財との関係とはまた別に、市民生活上からの視点、或は都市政策上からの視点においても、観光客の量的拡大をひたすら追い求めることには無理があり、観光の多様性や質的転換の問題とともに、量的拡大の限界ないしは観光客の適正量!といった点についても検討しなければならない段階にある。
 先般発表された『京都市基本計画骨子』においても、観光産業の振興を「観光客受け入れ体制の整備」と次のような「市民生活との調和の確保」の二本柱で捉えている。

   市民生活との調和の確保
ア かけがえのない京都の自然や文化財を守るとともに市民生活の安寧を保つため、質的側面を重視した観光振興を図り、地域づくりと一体となった観光地の整備を進める。
イ マイカー観光対策として、公共交通機関による観光交通の整備、散策観光の奨励等を進める。
ウ 保勝会活動に対する助成など、観光地美化活動を強化し、観光地周辺の環境の維持向上を図る。
 
     五 課題と展望
 
  1.文化行政か産業行政か
 
 観光行政は、文化行政の一環なのか、それとも産業行政の一環なのか、従来からよく問いかけられる問題である。しかし、よく考えてみれば、観光行政は、文化行政と同義語でもなく、また産業行政に収まり切れるものでもなく、あくまで観光行政である。ちなみに、文化産業があるから、文化行政は産業行政の中に含み込まれるものではなく、文化行政、産業行政ともに存在しなければならない。同時に、観光産業が存在しても、産業行政とともに観光行政は存在しなければならない。 これについて多くの自治体では、観光行政は産業行政の中に含まれている。中小都市にあっては商工観光課ないし商工課観光係という行政組織が通例である。しかし、京都市の場合、観光行政組織は、独立しているか文化行政と一体をなしている場合がほとんどで、産業行政と一体の時期は、戦前の一時期と戦後の昭和二七年一月からの二年余であるにすぎない。この京都市観光行政組織の特殊性は、京都市の観光の特殊性と同時に、文化行政重視の傾向を表している。
 すでにみたように、京都市の観光財はすなわち文化財である。そして、文化行政は、現行制度上は文化庁ー教育委員会の事務であり、近年、文化行政がクローズアップされる中で、各自治体ともに、それを首長の事務部局にいかにとり込むかに苦心のあるところである。これに対して京都市にあっては、教育委員会発足の前年に設置された文化局は、教育委員会の発足によって観光局に編成換えとなったが、昭和三三年には教育委員会事務の補助執行の形式をとって再び文化局を設置し、以後文化観光局となった今日に至るまで文化行政は市長の事務部局が執行する形をとっており、ここに、文化と観光とを、他の自治体と異なり、一体的に捉えることを可能にする根拠をもっているのである。
 観光行政は、観光客に対する適切なる宣伝、紹介と、さらには、消費される観光財の維持・補修を適切に指導する行政である。その意味では、収益を追求する観光産業に対しては規制的に作用することもある。
 おおよそ、行政組織が専門分化してくると、各組織は、それぞれに行政対象に対して一つの側面にかかわる。食品取扱業者は、産業行政の対象であると同時に衛生行政の対象でもあり、昨今では消費者行政の対象でもある。ただ、観光行政と産業行政とは、他の行政分野と異なり、都市のすべてに対してかかわりをもつものである。
 すでにみたように、文化財行政は文化財の生産にかかわり、観光行政はその文化財を観光財とする消費にかかわる。そしてそれら文化観光財の生産と消費は、経済によって現実のものとなるのであり、その意味から文化ー観光ー産業は、三位一体であると同時に、三者鼎立することによってチェック・アンド・バランスが保たれるものでなければならない。
 観光産業が都市産業の重要な分野であり、同時にその存在によって観光が現実のものとなる以上、観光産業の振興ははかられる必要があるが、私的利益の過度の追求に対しては文化、観光面からの抑制もまた必要となる。文化財行政は、文化財の観光財としての活用に規制的にはたらき、観光行政は文化財を観光財として公開活用を適切にはかる指導的役割をはたす。こうした関係として三者をみる必要があるのではないか。
 
  2.広義の観光行政の体系を
 
 観光行政は、すでにみたように、狭義には一行政部門としての事業課を構成するが、広義には、都市と都市行政の全てにかかわる必要がある。そうした狭義と広義の観光行政の体系確立が必要であり、まず、現行事業課としての課題にふれた上で、広義の行政体系について課題を提起してみたい。
 現行観光課の事業を考える場合、一方で文化財保護課があり、他方で京都市観光協会がある。観光協会は観光関係業者によって結成されているとはいえ、公益社団法人として、観光事業を公益的にすすめることを目的としている。その具体的事業は、観光事業の調査研究から観光の普及宣伝に至るまで、観光課の事業と大差はない。観光課と観光協会との異なる点は、行政的視点、立場から対応しなければならないレベルの問題において生じる。そのため、具体的な諸事業は、観光協会の自主性を育てつつ、その指導を通して実施することが可能であり、観光課或は観光行政としては、行政レベルでなければならない点に重点をおくことが必要となってくる。
 また、文化財保護行政との関係においては、すでにみた保存と公開との関係から、葵祭、祇園祭、大文字及び時代祭の四大行事の執行に関するかかわりは、観光課において所管し、文化財保護課はその保存的側面からの関与にとどめることの方が理に適うのではないかと考えられる。と同時に、行政は、諸行事の執行とその外部環境のあり方に対して、必要に応じて多面的な対応に迫られることから、今日まで続いてきた協賛会の構成員であることは改められる必要があろう。戦後、四大行事に対して官民一体で盛り上げをはかってきた時代から、新たに、官と民との役割分担の上に立ったより高い次元へと発展すべき時代にはいってきているものと考えられるのである。
 
  都市づくりの哲学として
 
 京都市における観光は、その観光財の性格からして、あくまで文化観光として捉えられなければならない。その経過は省略するとして、京都国際文化観光都市建設法の「文化」も、文化観光施設税の「文化」も、やはり京都の観光には「文化」を冠しなければならないという指摘によって修正付与されたものであった。
 その文化観光は、基底において文化そのものであり、観光都市づくりは、すなわち、市民の文化生活の向上を含む、より一層の文化都市の建設にほかならず、世界文化自由都市宣言のもとに「京都市基本構想」(伝統を生かし創造を続ける都市・京都ー建都一二〇〇年をのぞむ市民のまちづくり)が策定された今日、観光行政としては、まず、文化観光的視点からの都市づくりに対する哲学を必要とするのではないか。過去の過程がそうであったように、観光行政の基底は、都市づくりそのものである。
 
  企画調整機能
 
 観光行政は、都市づくりの哲学でなければならないということに基づけば、観光的側面から全行政に関係しなければならない。行政全分野における斉合性の確保が要求されるからである。これは、行政機能としては、全庁的な企画調整機能を備えることを意味する。
 今、観光行政は、文化観光行政として、都市づくりの哲学を備え、全庁的な企画調整機能を発揮する方向に発展するか、行政の専門分化と、分化した行政の発展する過程において、その行政的必要性の度合いを低下させるかの岐路に立っているといっても過言ではなく、より根源的行政対応の確立を必要としていると考えられるのである。
 
  専門行政官の養成
 
 都市の歴史と現実の姿を踏まえ、しかも、都市づくりの哲学を有してすすめられなければならない観光行政はまさに人材のあり方にその成否はかかってくる。
 しごとの根拠が、法規や国庫補助、或は諸団体からの住民要求に対する即応的な対応ではないこうした行政は、担当者の知的、或は実態的経験の蓄積によらねばならない度合いが高い。しかも法的な根拠に基づくものでないだけに、行政的根拠の把握の仕方にも苦労がいる。明確な行政の筋と他方における高度な応用能力を背景に、専門的知識を蓄積するには、それだけの時間と資材を惜しんではならない。これからの観光行政は、まさに人が資本であるといえよう。

 

 


      六.都市経済政策序論
                                                      (一九八二年三月)

     はじめに
 
 地域レベルにおける経済政策が一体どこまで可能なのか、ましてや一自治体による経済施策がどれだけ有効性をもつのか、従来からのそれはあまりにも悲観的であったし、今後の見通しにおいてもそれは余り変わることがないであろう。
 とはいいながら、自治体の現実の力量とは無関係に、都市とそこにある都市民によって根拠づけられた自治体は、都市と都市民の生活を維持するべく、その役割は義務づけられているといえる。行政における、福祉や清掃、建設、さらには文化の領域に対して、都市経済はそのすべての領域にかかわる基盤ないし背景となっている。それは、都市におけるあらゆる活動は、他の面からそれをみれば、すべて経済活動であるからである。
 京都の地盤沈下はいわれだしてすでに久しいが、最近とくにその意識が顕在化してきた。それは、一方では世界文化自由都市宣言のような形の中に、他方では「都市の活力」を求める中に現われている。そしてまた最近、京都市の法人市民税が目立って停滞する中で、京都市の財政力と都市経済との関係が改めて問われることになった。
 京都市の経済は、経済の高度成長期にあってはそれに乗り切れず、低迷期においてもなお衰退を続ける昨今、その危機はかなり構造的なものとなってきているといえる。
 戦後いち早く、地域経済的視点にたった都市経済政策をそれなりに確立してきた京都市経済行政について、改めてその位置づけと政策の再確立が、市政全般はいうに及ばず、都市のあり方の上からも要請されるに至っているとの認識から、知識の程度を顧みず、以下において、ラフな議論を試みてみたい。それだけに、多くのご批判、ご意見をお寄せいただくことを期待しているところである。
 
     一 問題の所在
 
  地盤沈下の危機意識 
 
 現代の京都は、明治とそれ以降における“古都の近代化”の成果によって支えられてきた。そこには、“第二の奈良”になってはならないという意識が根強くあったし、それを支えてきたものは産業都市としての京都であったといえよう。
 しかし、昨今の京都の危機意識の中には、それとはまた別に、“第二の大阪”になってはならないという意識も芽生えつつある。これは、大都市都心部の居住人口の減退にみられる大都市の衰退化現象であり、漸く京都にもその現象が顕著となり、いわゆる“応仁の乱以来の危機”がいわれるところである。
 このように、京都は、一方では“第二の奈良化”に対して、他方では“第二の大阪化”に対してという、一見相反するような二つの危機意識を基本的に抱えているといえる。
 そこで、そうした危機意識の裏付けとなっている今日の具体的な現象について考えてみると、一つには工場の市域外転出、二つには法人市民税の落ち込み、三つには都心部の空洞化、四つには文化を含む広義における京都の地盤沈下現象にあるといえよう。
 まず第一の、工場の市域外転出。これは、安い水と土地と労働力を求めて工場転出が生じた高度成長のはじまった昭和三〇年代半ば頃からの時期を第一期とすれば、現在はその第二期の工場転出期にあるといえる。とくに大型繊維工場にそれは顕著であり、その跡地にマンション建設などが進行している。工場の域外転出は、工業統計にも現われており、当初は市街地の中心部から周辺部へ、次には市域外へといった傾向が顕著に現われている。そして今や、工場の絶対数の減少となって現われるに至っている。
 第二の法人市民税の落ち込み。これは、予算における収入見込に対して、収入実績がそれに届かない見込み違いとなったもので、もともと堅実に見込まれた額より収入実績が落ち込むケースは極めて異例である。昭和五五年度ではそれが二四億円と約一割にも達し、昭和五六年度においても一五億円程度が予測されるだけに、ことは深刻である。これをどう見るかは一概にいえないにしても、いずれにしても、一時的な不況によるあおりというよりも、京都の企業活動の構造的な変化の兆しがそこに現れ出したとみる必要があろう。
 第三の都心部の空洞化。これは旧市街地、なかでも中京・下京という都心部の居住人口の急激な減少で、例えば、祇園祭山鉾町では、遂に夜間人口ゼロの町内も現われることになった。こうした都心部の夜間人口の過疎化現象は、かつて歴史上、京都の市街が「応仁の乱」の戦場となって荒廃したときにも劣らない程のものとなってきており、都心部において都市生活機能の維持が困難化するという、かつて考えられなかった事態を現出するに至っている。これは、「まちづくり構想」(昭四四)見直しの、また「京都市基本構想」策定の動機、根拠となったものである。
 第四の広義の京都の地盤沈下。世界文化自由都市宣言で強く意識されたものであり、文化面を中心とした京都の基本的なあり方にかかわるものである。すなわち、現在の京都は、千年の都の上に、その蓄積の上に存立している。そのために、今日の京都は政治的には一地方都市であるとはいえ、歴史と文化において、或は産業において、今なお「中央性」を有しているが、その「中央性」が徐々に減退するとともに、大都市としてのパワーがなくなりつつあるとみられる点である。
 
  都市の行財政と経済
 
 都市と自治体は同一ものでもなければ異質のものでもない。都市自治体は、都市維持のための政治・行政的機能でなければならない。したがって、自治体あって都市がない、また都市がすべてで自治体は無力でしかないという考え方はともに成立することはない。都市と自治体は、その経済と財政において一体的に捉えられなければならないが、同時に、都市発展における自治体の役割は改めて見直される必要がある。そうした中で、都市の産業、経済に及ぼす自治体行政の影響力もまた再検討されるものであろう。
 自治体財政の強弱は、現実にはその都市の経済力を反映する。かつて昭和三〇年代、財政力の弱い自治体が競って工場誘致を行い、工場団地づくりをすすめた。しかしそれは、その後の公害や都市問題を誘発し、自治体財政における収支としては失敗であったといえなくもなかった。このように、自治体財政力の強化を直接的に目的とした都市対策は、結果において裏切られることになる。必要なことは、都市発展の結果として都市財政力の強化が実現されることであろう(もちろんこれは、国との関係における行財政論とは別の次元である)。そこに、都市経済それ自体への自治体のかかわり方いかんがある。
 今一つ、これまでの自治体と経済とのかかわりにおいて、経済は、ナショナル、インターナショナルなもので、一地方、一自治体でかなうものではないという意識が強かった。そこから、地元中小零細企業に対する援助線上の施策がせめてものものとして採られてきた。しかし、一方で都市全体の生死が問題とされつつあるとき、その中核となる都市の経済活動総体に対する見解を持ちえないことは、自治体運営の基本方向を持ちえないことにつながってこざるをえない。そのために、これからの都市経済政策としては、単に経済的弱者への可能な範囲での援助だけではなく、都市経済に対する行政規制を含む手段を用意した、都市経済全体のあり方にかかわる必要があるのではないだろうか。
 
  京都の可能性、方向性
 
 京都の将来方向に関する論争は、すでにみたように明治以来続いている。そしてそこでは常に経済・産業問題がその核をなしている。
 近くは過日のシンポジウムにおける京都は「やせたソクラテスなのか、脂ぎったブタなのか」の議論、或は戦後の論争としては「観光か、産業か」さらには「産業・観光車の両輪」なのか。また一方では文化保存なのか産業開発なのか。そして、より大きくは大阪経済圏なのか京都独自の全国性、世界性を持つのか等々といった論争である。
 自治体として、市民と隔絶した状態で行うことがあってはならないが、やはり、そうした論争に対する見解を用意していかなければならない。その見解の実効ある裏付けが、都市経済のあり方に関するものであることはいうまでもない。
 京都市経済行政はいち早く地域経済的視点を確立した伝統をもつ。今その伝統の上に、ここに事態処理にとどまらない枠組みの太い政策力を持つべきではないか。そのためには何が必要なのか。
全庁的な位置づけの問題、何よりもまず都市経済の総体を把握する調査・企画力の問題など多くの課題があろう。そうした課題を求めて、本論をしばらく展開してみたいと考えているところである。
 
     二 京都の地盤沈下の現状と要因
                                                      (一九八二年五月)
  1.都市の変貌
 
 京都の地盤沈下は、大都市が一般的に抱えている都市発展の行きづまりともいうべき衰退現象として現われているが、とりわけその中核をなすのは製造業を中心とした経済的な地盤沈下である。 ここでは、そうした京都の地盤沈下の現象を、経済面を軸にその概略をみるとともに、少しくその要因を考えてみることにしたい。

製造業就業者数の減少  「京都市基本構想」策定への基礎作業となったのは、昭和四四年に策定された「まちづくり構想ー二〇年後の京都」の部分見直しである。それまでの長期構想が、都市は矛盾を激発させながらも、とにかく拡大発展するものであるとの前提の上で策定されてきたのに対して、「まちづくり構想・部分見直し」は、都市発展の停滞と都市内部の不均一性の拡大を前提条件としている。京都の地盤沈下は、ここ一両年に強く意識されるようになったとはいえ、実は、「まちづくり構想・部分見直し」の中にその現象が示されていたものである。
 「まちづくり構想」の見直し作業は、昭和五二年四月、都市計画局に企画課を新設することによって開始され、昭和五四年三月、舩橋市長三選直後に、その見直し基礎資料として、「基本指標」が発表された。
 それによると、昼間就業人口の伸びは、「まちづくり構想」の当初計画数値よりかなり鈍化している。とくに第二次産業(製造業等)では、増加傾向が減少傾向に修正されている。すなわち、第二次産業従事者は、昭和四〇年実績二八万人に対して、当初計画ではそれが増加するものとして、昭和六〇年の計画値を七万人増の三五万人としていたが、昭和五〇年実績ですでに落ち込みをみせ、一万三千人減の二六万七千人となっており、「見直し」の基本指標では、これを昭和七五年に再び昭和四〇年実績の二八万人に復元しようとしているのである。しかしその復元はあくまで政策目標としての数値であり、現実にはもはや復元はないといえよう。
 これを昭和四〇年から五〇年までの地区別の動向でみると、都心地区やその周辺地区をはじめ旧市街地でいずれも第二次産業就業人口が減少しており、西陣地区においてもその例外ではない。また都心地区や北部中央地区、西陣地区などでは就業人口総数そのものが停滞ないし減少していて、地域発展の停滞ないしは地域の空洞化現象の一端を示すに至っている。これに対して、南部の工業地域をはじめ山科・醍醐地区、北部山麓地区等市街地周辺部において第二次産業就業人口及び第三次産業就業人口ともに漸増傾向にあり、京都市域内における都心部を中心とした地域と周辺地域とでは明確に異なった現象下にある。
 
工場数の減少  第二次産業就業人口の減少は、いうまでもなく、それは主として工場数(製造業事業所)の減少によるものである。工業統計(『京都市の工業』)によれば、製造業事業所は昭和四七年の一八、二三八をピークに減少過程にはいり、五五年には一六、三三八と一割強の減少となっている。そして地域的には、就業人口の動向とほぼ同じく、上、中、下京等の旧市街地で減少し、周辺区において漸増傾向にある。また業種別では、精密機械器具及び出版・印刷関係を除き、いずれの業種も減少していて、減少傾向にあるのは、いわゆる伝統産業関係にとどまっていないところに注目する必要がある。
 工業統計を今少しさかのぼってみた場合、オイルショックに至る昭和四七、八年頃までは、高度成長経済の中で、一部の業種を除いて昭和四〇年代は増加過程にあるが、従業者数は精密機械器具など特定の業種を除き、すでに減少過程にはいっている。そして、特定の増加傾向にある業種のほとんども、昭和四七、八年をピークに減少過程にはいっている。
 京都市の工業は、大きく別けて伝統産業と近代産業に、これまた大雑把には軽工業と重化学工業とに別けて対比されるが、そのどちらもが、いちはやく従業者数が減少過程にはいり、次いで昭和四七、八年頃から事業所数においても減少過程にはいっている。そして、その減少過程においては、旧市街地から新市街地ないしは周辺部へ移転し、やがて市域外へないしは転廃業という経過をたどっているのである。
 
法人市民税の停滞  法人市民税の当初見込よりの落ち込みという事態は、行政担当者が危機意識を懐くには十分な材料ではある。そしてそれが構造的な停滞を示すものであるとするならば、京都市の財政事情にも深刻な影を宿すことになる。
 昭和五一年度から五五年度までの法人市民税の伸びについて、他の指定都市のそれと比較してみると、やはり京都市における法人市民税の停滞は明らかである。昭和五一年度を一〇〇とした五五年度の伸び率は、全国市町村平均一七二・九に対して、京都市は一四六・九と著しく低い伸び率にとどまっている。指定都市中まさしく最下位である。指定都市中最高の伸び率を示すのは北九州市で二六一・四、京都市に次いで低いのは神戸市で一五〇・七、大阪市は一六五・六、横浜市は一七四・六などである。
 ただ、金額でみた場合、昭和五五年度において京都市は二一八億円であり、なお、一〇大都市第四位にあり、これは人口規模の順位に対応している。第一位は大阪で九六六億円、第二位は名古屋で四六七億円、第三位は横浜で三三四億円であり、第五位以下は一四〇億円台から一八〇億円台にある。このように法人市民税の規模からするならば、京都市は指定都市中なお高位にあり、相対的に低落傾向にあるとはいえ、なお、単なる消費都市ではない実態とその将来的な可能性を有しているといえるのである。
 なお、京都市民税全体の伸びと個人分及び法人分の伸びとを比較する(昭五一年度を一〇〇とした五五年度の伸び)と、市民税全体では一五五・六、個人分は一六〇・〇に対して、法人分は一四六・九であり、法人分がいかに停滞しているかがわかるのである。法人市民税の落ち込みは、とくに昭和五二年度と五五年度において著しく、五二年度の伸びは四・六%、五五年度は一・八%である。これに対して、個人分は一〇%台を比較的安定的に維持している。他の指定都市の法人市民税の場合、五二、五五の年度とも一〇%から著しくは四〇%の伸びを示しており、ここで大きな格差が生じてきているのがわかるのである。       
 
都心部の空洞化−人口の減少−  都心部の空洞化、それは、都心部居住人口の過疎化現象となって現われてきた。かつて都市は過密化し、農山村は過疎化することによって都市問題は激発したが、今やそうした過密現象は都市周辺部に移行し、都心部が逆に過疎現象にみまわれるようになってきた。
 「まちづくり構想」(昭44)では、都市人口は拡大するとの前提のもとに、京都市の夜間人口規模を、昭和四〇年実績一、三六五千人に対して、昭和六〇年の計画値を約三四万人増の一、七〇〇千人と見込んでいたが、以後の人口増加が停滞することによって、昭和五〇年度実績で一、四六一千人であり、「見直し」(昭五四)の基本指標では、昭和六〇年の計画値を一、五三〇千人に下方修正し、昭和七五年の計画値においても、一、六四〇千人と「まちづくり構想」六〇年計画値よりも抑制している。そして問題は、市域内地域間の激変となって現われたのである。
 昭和三五年から五五年までの間における人口の増減状況をみると(『京都市小地域(元学区)主要統計書』一九八一)、まず、行政区を三種類に分類することができる。一は人口減少区で、上京区は三三・一%、中京区は三五・二%、東山区は三四・五%、下京区は四〇・六%とかなりの減少を示している。二は北区一〇・五%、左京区四・四%の増、南区三・一%減と比較的安定的な推移を示している。三は急増区で、右京区六六・四%、伏見区九〇・一%、山科区・西京区に至っては実に前者は二一〇・七%、後者は二五一・七%と極めて急激な拡大をみせている。旧市街地、とりわけ都心部である中京、下京が一番急激な減少をみせ、元学区単位でみれば、中、下、東山の三区の中で、六つの元学区でこの二〇年の間に人口が半減(五〇%以上の減少)している。左京区山間部の久多や広河原では七割近い減少率を示しているが、それに近い状態が都心部において生じてきているのである。しかもそうした急激な減少傾向の中でさえ、六〇歳以上の層では、逆に絶対数が増加し、高齢化社会を生みつつある。
 例えば、中京区の明倫学区をみると、昭和三五年四、四四七人の人口が昭和五〇年には二、一六九人と半減しているが、六〇歳以上では三八三人から四六四人へと二一%も増加しているのである。
 こうした都心部における急激な居住人口の減少は、住民自治の伝統によって築き、支えられてきた、地域・都市機能(施設)の維持を困難にし、やがて都市の荒廃をもたらす危険性をもつものであるといえる。

  2.地盤沈下の要因と意味
 
京都都市圏とその拡大  京都、或は京都市といっても、歴史的にみるとそれは一概にはいえない。市制が施行される直前の明治二〇年の京都は、上京区八五九町、下京区八二一町、合せて一八・三九平方キロメートル、人口二六五千人でもって構成されていた。これはごく大雑把にみて、現在の上京、中京(西ノ京を除く)、下京区の範囲であり、その後一〇〇年の歴史の中で逐次周辺の町や村や市を編入し、現在の六一〇・六一平方キロメートルの市域に拡大した。その編入の村、町の数は、明治初年段階の村、町で計算すれば、実に二四七か村、二七か町に達するのである。
 このように拡大、発展を遂げてきた京都は、今日に至るまでは、旧京都ともいうべき上・中・下京の都心機能がより集密化することによって、拡大化する京都の範域を支えてきた。近世初頭すでに世界的な大都市であった京都ではあったが、明治以降一〇〇年の発展の中で、上・中(西ノ京を除く)・下京の人口はさらに一〇万人の増加をみることになるが、それをピークに昭和五〇年にはその一〇万人が減少し、再び近代以前の人口規模に戻ったのである。しかも人口の減少傾向はなお続き、加えて高齢化地域となりつつある。このことは、京都の拡大、発展をみる場合、これまでの歴史と、これからのあり方の違いを明確に示しているのである。
 現在の京都は、それを行政区域として限定しないならば、ある意味で過去一〇〇年の拡大、発展の歴史と同じか、それ以上のスピードで拡大、発展し続けている。京都への通勤人口は、京都府下はいうに及ばず、滋賀県の近江八幡市辺りまで拡大しており、これはまさしく京都都市圏の拡大である。道路、交通網の発達に伴って、京都都市圏は拡大の一途をたどっているが、それが過去の歴史と根本的に異なる点は、その拠って立つ核としての旧京都=上・中・下京=都心部が、かつては市域の拡大とともになお集密度を高めていったのであったが、現在のそれは、集密度を低め、空洞化減少が進行していることである。したがって、今日の京都の拡大は、発展というよりもむしろ拡散として捉えられるべきものであろう。このことが、実は京都の産業の今後に重大な意味をもっているのである。
 
産地の拡散  京都の産業の今日的な状況を問題とする場合、その最も中核をなすのが産地問題である。すでにみた、京都市の人口や工場が市域外へ転出、拡散していくことが問題となるのは、それが産地の拡散をまねき、次には産地崩壊にまで至るからにほかならない。
 都市内に存在する製造工場は、地域社会から隔絶しても存立しうるような省力化された大規模機械工場ではない。都市内という地の利を生かした、地域社会と結合した製造工場である。分業化された製造工程が、それぞれ企業として、或は関連産業として成立し、それが地域社会を形成している。しかもその従事者たる住民の日常生活上のコミュニティとも一体をなすことによって、産地は形成されている。そうした産地形成は、一朝一夕に出来るものではなく、人為的、自然的に、多くの歳月を必要とする。これが、京都にあっては千年余の歴史的蓄積によって形成されてきているのであり、その限りでは、京都に立地する産業は、近代産業であると、伝統産業であるとを問わず、京都独特の産地形成の恩恵に浴しているといえる。
 しかし、そうした歴史的、地域的な集積効果としての産地が拡散、崩壊過程にあることこそ、京都の地盤沈下そのものを現わすものであろう。これが、個々の企業の一時的な利害にとらわれた行為による結果であるのか、或は政策的に動かし難い冷徹な経済法則による結果であるのかはともかくとして、「産地」問題をどう捉え、今後それにどう対応していくかが、京都の「地盤沈下」問題の要点であると考えられるのである。
 
     三 都市の行財政と経済
                                                      (一九八二年七月)
  1.都市発展と自治体
 
 都市は、すべての事象と同じように、誕生した後は成長し、成熟するが、やがては衰退し、消滅することになる。こうした数百年から一千年というマクロな視点から都市をながめた場合の都市の運命は、歴史的にはほとんど不可避であるといえよう。その事例は、政治都市において、或は単一産業都市において典型的にみられるのである。
 こうした都市発展の内在的な論理が、日本列島総都市化といわれる今日の我が国にどのように現われるかは一概にいえないにしても、それが「死に至る」までの過程をたどるかどうかはともかくとして、成長と衰退を繰り返すであろうことは想像に難くない。
 自治体が、都市において一定の役割を果そうとするならば、そうした「都市の論理」に対する哲学を持つことが要求されよう。それは、自治体は都市の一機能であるからである。
 極めて大雑把に断定するならば、都市は二つの機能的側面から成り立っている。一つは経済機能的側面であり、今一つは人間関係としての社会的側面である。都市は、この経済機能的側面によって支えられ、政治・行政を含む社会機能的側面によって運営されている。都市における自治体とは、都市の政治・行政システムであるといえる。
 都市の政治・行政システムとしての都市自治体は、都市発展・変化の実態を反映するものではあっても、その因となることは困難である。そこに都市自治体が都市発展にかかわるかかわり方ないしは限界というものがある。さらにはまた、都市発展とは一体何なのか、人口規模と市域の増加、拡大が発展なのかという問題もある。そうなると改めて、都市とは一体何なのかが問われることにもなってこよう。
 我が国の地方自治制度においては、基礎的自治体としての市町村は、村よりも町が、町よりも市が、そして市は小よりも大がより適当な行政体であるという現実にある。市町村は、明治以来合併につぐ合併を続け、自治体の人口規模は、すでに欧米と比べてケタの違ったものになっているにもかかわらず、今次の第二臨調の部会報告では、さらに合併推進による自治体の広域化が指摘されるに及んでいる。これでは自治体は、実態としての都市と乖離し、自治体あって都市なしの状況を現出しかねない危険性があるといえよう。
 なるほど、自治体の広域化や人口規模の拡大は、行政体としての自治体の経営基盤をより確かなものにするに違いない。しかし、それは、都市自治体を経営する本来的目的、すなわち都市における快適な市民生活実現との距離を逆に拡大することになる。自治体は、都市社会とイコールすることによって機能する。にもかかわらず自治体が、実態としての都市を越えていたずらに拡大するとき、自治体は自らの目的を自らの手で喪失させることになる。
 加えて、自治体と都市の拡大には自ずから限界のあることも今日では明らかになってきている。一定限度をこえた規模の拡大は、その自治体を逆に経費の高くつくもの、財政効率の悪いものにするのである。
 今日の都市自治体は、単なる行政区域だけではなく、実態としての、経済的、社会的範域としての都市の把握に努める必要があるといえる。

  2.税財政と都市経済ー都市経営と自治体経営ー
 
税財政は都市の経済を反映する  税制が一定であるとき、都市の財政力は、都市の経済力を反映する。経済活動の活発な、経済力の高い都市の財政は豊かであり、経済力の弱い都市の財政は貧しくなる。従って、経済力の弱い都市自治体は、例外なく都市の経済力を高めることによって財政力を強化しようとする。
 京都市の場合も、戦後地方自治体の税財政制度が確立されるに伴い、「消費都市」としての経済力の弱さから、昭和二〇年代後半に財政危機に落ち入り、昭和三一年から三六年にかけて財政再建団体下におかれるという経緯の上で、かつて産業開発指向をもとうとしてきたところであった。
 このように、都市財政の強化は、都市の経済力の向上いかんにかかっているのはいうまでもないことである。
 
税財政と行政需要  しかし、税財政は、もちろんのこと収入面のみでみるわけにはいかない。いくら税収入が多く上る自治体であっても、それを超える多額の支出を必要とする自治体であれば、税財政構造は貧困であるといわなければならないからである。自治体の経営的観点からすれば、拡大による収支不均衡(赤字)よりも、縮小による収支均衡を選ぶ方が是とされるべきであろう。
 経済の高度成長過程において発生した各種公害や都市問題は、縮小均衡の必要性を教訓として残したところであるが、問題は、以後の不況と経済の低迷の中で、経済活動総体の低迷によって、公害問題もいわば自然にその程度を弱めてきたところにある。
 経済活動が活発な時代には、関心はそれによって生み出される公害への規制に向かい、経済活動が不活発な時代には、多少の公害は必要悪として、むしろ経済振興にその関心が向けられるのである。こうした時代の流れによる風潮や市民意識の動向は、都市の経済政策に一定の変化を与えるにしても、その時々の変化に左右されない一貫したあり方が、都市の経済政策には貫かれていなければならない。
 教訓からするならば、手順をおわない短絡的な公害規制は地元産業を破壊するし、公害規制を否定するような産業振興策もまた地域社会から否定されなければならない。
 
都市の経営か自治体の経営か  他面、自治体の税財政は、都市の経済力の反映だけではなく、都市の市民意識の反映でもある。都市が求める行政需要に対して、その財源をどう求めるかは、自治体の財源調達能力のみの問題ではなく、その行政効果を受ける市民自身の問題である。
 家計が家族全員の問題であるように、自治体の行財政は、自治体を構成している市民全員の問題でなければならない。しかし、そのためには、自治体財政が、狭い“役所として”の自治体の経営の範囲にとどまっていてはならない。自治体の税財政が、一都市の経営レベルで捉えられてはじめてそのことは成立する。このことは、都市の経済的メカニズムの解明なくしてありえないといえよう。
 
京都の都市財政の特徴  京都はかつて千年の都であったことから、自己完結的な都市ではありえなかった。財政的にも、常に中央の財政が投下されることによって成立してきた。明治の近代化にあたっても、そのエネルギーと主たる財源は地元にあったにしても、中央政府からの支援は無視できないものであった。
 今日、京都が日本の歴史的な顔として、都市それ自体が文化遺産として活用されるにあたって、その維持、保存経費はまさに国政上の課題たるものである。京都が、近代的都市機能を享受するべく行う開発行為は京都自身の力でなすべきにしても、歴史的文化遺産の保存のゆえに制約されるべき諸条件は、基本において国政上の課題となるものであろう。京都あっては、都市財源の中に国家財源を求めざるをえない必然性がここにあるといえる。
 
  3.都市経済の把握と関与
 
都市維持のための経済  京都が産業都市となるのか、ベットタウンとなるのか、それとも文化都市或は文化財都市となるのか、こうした都市性格のあり方は、都市の経済に深くかかわっている。都市維持のための経済、財政的基盤がそれによって変化するからである。
 文化財都市であれば、すでにみたようにその経済的裏付けは国及び他都市という国民的レベルに求めなければならないし、ベットタウンであれば市民の個人所得に、産業都市であれば企業活動にというようにその求め方が異なってくる。現実にその複合的な姿が存在するにしても、都市経済は、このように都市のあり方と深くかかわることによってはじめて解明しうるものであるといえる。
 こうしたことから、都市の経済、産業政策の第一歩は、都市のあり方とともに、都市経済の全体的、総体的な把握が要求されるといえよう。
 
都市経済政策の位置と範囲  都市経済政策は、市民・民間サイドと行政サイドでもって形成され、担われる。経済は、経済それ自体の法則性をもつがゆえに、本来、自治体レベルにおいてはいかんともしがたい領域であるとのこれまでの考え方は再検討される必要がある。    
 狭く経済的諸条件を把握し、それ以外を外部経済として考慮しなかったこれまでのあり方が、都市問題や公害問題を惹起したのである。経済は、都市のあり方に深くかかわっている。都市のあり方は、市民生活と自治体の対応に即応する。こうしたことから、都市自治体は、都市とその市民生活のあり方を求めることを通して、都市経済のあり方に関して、あらゆる手法を駆使した関与が許されるし、また今やそのことが要請されつつあるといえよう。そのために、繰り返し指摘すれば、都市と都市経済の実態把握は、何にもましてまず着手されなければならない優先課題である。
 
     四 産地の問題点と課題
                                                      (一九八四年一月)
  1.問題の視点
 
 都市という一定の社会空間において産業を論じる場合、すでにふれてきたように「産地」が問題となってくる。
 いずれの土地にあっても普遍的に立地しうる大企業の大工場などとは異なり、特定の地域と有機的に結びついて成立し、発展してきた産業を、通常「産地産業」ないしは「地場産業」と称しており、「伝統産業」はそうしたものの一つである。
 そうした「産地産業」は、特定した地域と有機的に結びついたものであるため、都市の産業としては不可欠なものであることはいうまでもない。都市の産業問題を論じる場合、従って、普遍的な産業問題より以上に、その都市固有の産業論を必要としよう。例えば、昨今はなやかな話題におおわれているマイコンなどにかかわる普遍性の高い分野であってさえ、その都市に立地するには、その都市固有の立地条件に恵まれることを必要としよう。
 こうしたことから、ここでは、都市経済の問題を、都市空間という特定の地域に関係づけて考えてみたいと思う。
 
  2.産地とは
 
  産地問題のきっかけ
 
 「産地」とは何かについて、これまではあまり厳密に考えられることはなかった。そのため、その定義に関しても、公式めいたものが必ずしもあるわけではない。その主たる理由は、従前は、産地がそうむやみやたらに拡大、発展することがなかったことから、産地振興策をどうするかという問題視点以外はあまり必要とはならなかったからであろう。しかし、昭和四〇年代の経済の急発展のなかで、事情は変わってきた。
 地場産業といえども、経済の高度成長の過程に巻き込まれ、量的、地域的に拡大、増加をした反面、それまで形成してきた産地構造に変化が現われ、一言でいえば、産地の中心部の空洞化が進行することになり、これは、産地の拡散化傾向として、極端な場合には産地を崩壊さすに至ることもまれではなくなった。すなわち”産地を守る”という視点に立つとき、守るべき産地とは一体何なのかという厳密な概念が必要となってきた。京都市のレベルでこのことが直接問題となりうるきっかけとなったのは、いわゆる「伝産法」(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)の適用をめぐってであった。
 
      伝統的工芸品産業の振興に関する法律(抄)       
                                           成立 昭和四十九年四月二十六日
                                           公布 昭和四十九年五月二十五日
 (目 的)
第一条 この法律は、一定の地域で主として伝統的な技術又は技法等を用いて製造される伝統的工芸品が、民衆の生活の中ではぐくまれ受け継がれてきたこと及び将来もそれが存在し続ける基盤があることにかんがみ、そのような伝統的工芸品の振興を図り、もって国民の生活に豊かさと潤いを与えるとともに地域経済の発展に寄与し、国民経済の健全な発展に資することを目的とする。
 (伝統的工芸品の指定等)
第二条 通商産業大臣は、伝統的工芸品産業審議会の意見をきいて、工芸品であって次の各号に掲げる要件に該当するものを伝統的工芸品として指定するものとする。
一 主として日常生活の用に供されるものであること。
二 その製造過程の主要部分が手工業的であること。
三 伝統的な技術又は技法により製造されるものであること。
四 伝統的に使用されてきた原材料が主たる原材料として用いられ、製造されるものであるこ と。
五 一定の地域において少なくない数の者がその製造を行い、又はその製造に従事しているものであること。
2 前項の規定による伝統的工芸品の指定は、当該伝統的工芸品の製造に係る伝統的な技術又は技法及び伝統的に使用されてきた原材料並びに当該伝統的工芸品の製造される地域を定めて、行うものとする。
3 事業協同組合、協同組合連合会、商工組合その他政令で定める法人で工芸品を製造する事業者を直接又は間接の構成員とするものは、当該工芸品が伝統的工芸品として指定されるよう都 道府県知事(当該工芸品の製造される地域の全部が地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号 )第二百五十二条の十九第一項の指定都市(以下次条第一項において「指定都市」という。) の区域に属する場合にあっては、当該指定都市の長)を経由して通商産業大臣に申し出ること ができる。

 「伝産法」は、それまでのナショナルな視野からのみの国の産業政策に対して、ローカルな視野からの産業政策を国の政策として位置付け、確立しようとする、画期的な質的内容を持つものであり、昭和四九年四月、議員立法として成立したものである。その制定に至る原動力は、京都の伝統産業界にあったことはいうまでもない。
 その法律の目的(第一条)をみれば、それまでの経済効率と量産第一主義の産業政策の反省の上に立っていることが理解されよう。
 しかし、同法の適用をめぐっては、同法が議員立法であったこと、国にまだ十分な認識と産業政策全般の中での地位確立がなかったことなどから、多くの問題や限界を生じさせた。その重要な問題の一つに「産地問題」があったと考えられるのである。
 すなわち、同法の適用にあたっては、個々に「伝統的工芸品」であることの指定を行い、その指定を受けた「伝統的工芸品」産業が国の助成対象となるのであるが、その五つの指定要件(第二条第一項)が、極めて固定的、機械的であって、全体として産業振興的色彩の薄いものであった。そうならざるをえなかった要因に、「産地問題」概念のなかったことがあげられるのである。
 詳細は別の機会に譲るとして、地域の指定にあたっては、実勢に基づいて極めて広範囲にそれを行ったことと併せて、自治体レベルの窓口(経由機関)を、府県、指定都市のいずれかにするにあたって、一企業でも指定都市域以外に存在する場合には、府県としたことなどにそれは現われている。
 こうしたことから、伝統産業といえば、歴史的・伝統的にその総合的な産地を形成してきた京都市が、指定一五業種中、その窓口となるのは京漆器と京指物の二業種にすぎないという、相当非現実的な結果をみることになっている。

   「伝産法」により指定された京都の伝統的工芸品産業
西陣織 京鹿の子絞 京友禅 京くみひも 京繍
京漆器 京焼・清水焼 京指物 京仏具 京仏壇 京扇子 京うちわ 京黒紋付染
京石工芸品

  伝統産業の定義
 
 産地とは何かを定義づける前に、その代表的な事例としての伝統産業の定義についてまず考えてみたい。
 「伝統産業」という用語は、戦後まだ地域経済政策というものが一般的に確立するに至っていなかった段階で、京都市が、昭和二〇年代後半から三〇年代中頃にかけて先駆的に確立した、地域経済振興に関する政策体系としての概念である。それは、用語を学術的に分解して研究するといった性格のものとしてではなく、あくまで、京都市域に根ざした、京都市固有の産業構造に対する実践的な政策用語としてつくりだされたものであったと伝聞している。
 そうした伝統産業に関し、その一応の集大成したものが、昭和三七年三月、京都市商工局編『京都の伝統産業』として刊行されており、ここでは必要な限りにおいて、その要約を紹介してみよう。
 
伝統産業の概念  伝統産業の概念は、主に、次の六点で構成されている。
 第一点は、時間的系統性から捉えようとするもので、「かなり長年月にわた
って歴史的に伝承的に形成されてきた特定の産業」であること。
 第二点は、空間的位置において捉えようとするもので、「特定の地域において形成されてきたもの」であること。
 第三点は、需要の面から捉えようとするもので、特殊地方的需要にとどまらず、全国的に市場を拡大し、成長を遂げてきたものであること。
 第四点は、技術面において、「手工的技術を基礎とし、特に長年月にわたって、比較的に高度の技法を築きあげてゆき、容易に他の追随を許さないまでになったもの」であること。
 第五点は、社会的側面において、「手工的技法を土台としながら、独自の社会的分業関係による、独自の産業構造を形成するもの」であること。このことは、同時に、「原材料の入手や、製品の販売などの流通面で独自の機構と取引関係をつくりあげて」きている。
 第六点は、固有の産業構造をもつようになると、自律的に「自己運動」を展開するようになり<家伝、問屋制支配など>、保守的、停滞的性格を色濃くし、「産業近代化への非順応性」をもつものとなるというもの。
 
伝統産業の類型  近代化の程度を指標として、次の四類型に分けることができる。
@ほとんど近代化しつくして、もはや伝統産業の名に値しなくなっているもの。
  例・金属粉製造業、伸銅工業
Aほぼ同じ系統の産業に属しながら、近代産業と伝統産業が産業的に独立・分化し、たがいに併存しているもの。
  例・染色業における京友禅と機械染色工業
B産業全体としてある程度の機械化ー近代化が進められているが、その速度が比較的に緩慢であり、一般に規模も小ないし零細であるために、多分に前近代的性格を温存しているもの。
  例・西陣織、清水焼
C伝統産業としてはほとんど近代化の跡が認められないもの。ー部分的に機械化していても、主たる手工的技術に基づくものであるかぎり、その産業はこの類型に加えられる。伝統産業の原型を そのまま残している典型的な類型。
  例・扇子・団扇製造業、仏具、漆器、京人形

政策課題としての伝統産業  伝統産業をいかにするかは、「もとより、価値判断の問題」であるとしつつ、政策課題として、経済、社会、文化という「三様の視角」から次のように指摘する一方、政策目標の具体的設定にあたっては、「何よりも当局の決意が不可欠」であるとしている。
@伝統産業は、特定の地域に歴史的に形成されてきたものであり、その地域の経済と直接に深く結ばれており、その盛衰は特にそれに従事している人たちの生活を大きく左右する。そのかぎりで問題は深刻となる可能性が強い。そこで伝統産業の問題は、広い意味で社会問題化する傾向をもつ場合がある。 
A問屋制のもとで、小ないし零細な手工的経営を営むことのために、劣悪な作業環境におかれて、長時間労働、低賃金などをともないがちであり、社会政策・厚生政策の対象となるような面も多分に秘めている。
B伝統産業のなかには、その製品が工芸的作品として文化的価値を高く評価されるものがあり、そのためにその没落を惜しまれるものも少なくない。そこでそうした産業に対しては、経済政策というよりはむしろ文化政策の立場から保護を要請されることとなる。
 
  産地の定義を求めて
 
 中小企業に対する診断事業に、「産地診断」(中小企業指導事業の実施に関する基準を定める省令)があるが、その場合の産地は、一定の地域に「同一の業種に属する事業を営む者が集中して存在している」といった程度の捉え方である。
 また、昭和五四年に「産地中小企業対策臨時措置法」が七年の時限立法として制定されたが、そこでも産地の定義は、「その業種に属する事業を行う中小企業者の事業活動の一部が特定の地域に集中して行われていること」といった程度の域を出ていない。
 こうしたことから、ここで、伝統産業の捉え方を参考にしつつ、近代産業(近代産業といっても我が国ですでに一〇〇年の歴史をもつ)をも含む産地一般の捉え方について考えてみたい。その要点は、大要六点に及ぶと思われる。
 第一点は集中の効果、第二点は集積の効果、第三点は職住混在の効果、第四点は地域文化との相乗効果をそれぞれもち、第五点として都市の基盤を構成し、第六点として地域の固有性を形成する。
 
集中の効果   第一点の集中の効果、これは、一定の地域に、同一業種の企業及び従事者が多数集中していることにより、原材料の入手、製品の販売、技術の伝承、向上等、集中の効果をあげていること。
集積の効果   第二点の集積の効果、これは、「集中」が同一レベルの企業群であるのに対して、「集積」は、関連工程、関連産業さらには類似産業というレベルを異にする企業、従事者が多数集まり、立体的な層を成すことにより、その効果をあげていること。これは、産地産業が、地域的、社会的な分業形態として展開し、地域全体として一つの巨大工場とでもいうべき全体的な有機性をもっていることを意味する。この第一点及び第二点は、現実には集中・集積効果として一体的な効果をあげている。
 
職住混合の効果   第三点の職住混合の効果、これは、いずれにしても産地が中小零細企業群として形成されていることから、住と職とが未分化のケースが多く、経営と生活面を合わせることによって高い経済効率をあげている。とともに、生活文化と生産活動とが、相互作用をもつとともに、職・住一体の地域コミュニティを形成し、地域社会システムを形骸化していない。
 
地域文化との相乗効果  第四の地域文化との相乗効果、これは、単に産業内部の集中・集積効果にとどまらず、地域における文化との相乗効果という、広義の集中・集積効果をあげていることをいう。産地が地域固有の文化に対する経済的基盤をなし、地域文化が産地の技術、感覚を文化的に向上させるという相乗効果がある。とりわけ京都の場合、伝統的、文化的産業が文化を産業経済的にも支え、また文化的センスの高さが、産業に反映していることを特性としている。
 
都市の基盤と固有性の形成  都市は、自然・地理的、歴史的、社会的、経済的及び行政的条件からなっているが、とりわけ経済は都市の基盤として他の諸条件を支えている。こうしたことから、一定の地域における、特定の業種を中心とした多数の中小零細企業群とその従事者の集中、集積は、第五点のその都市の経済的基盤を形成するとともに、第六点のその都市の固有性を確立するものである。
 
 産地は、通常特定の単一業種でもって形成されているが、京都市域内にあっては、同一地域に複数の産地が存在するばかりでなく、各地域の産地間でまた相互作用があるといった形で、京都市全体としては、複合的な総合産地が形成されるに及んでいる。それは、伝統産業の分野のみに限られたものではなく、そうした歴史・風土的な土壌を背景に、近代産業をも含む、京都独特の構造を形成しているといえよう。
 
  3.産地の今日的な意味と課題
 
  産地拡散がもたらすもの
 
 それが江戸期ないしそれ以前からのものであれ、明治期以降のものであれ、市内に形成されてきた各産地は、いずれも昭和三〇年代後半以降の経済の高度成長期を経過する中で膨張、拡散し、産地崩壊の危機に直面している。京都の代表的な産地産業である西陣織、京友禅、清水焼ですらその例外ではなく、事実上、産地としての実態を備えなくなった業種も多い。
 その原因について、従来は、経済論理に基づく不可抗力なものと受けとめられてきた。すなわち、安い労働力と土地と水などを求めて、企業は拡散していった。その歴史的にも極めて早い例は、繊維産業における丹後への進出であり、近い例で国際問題とまでなったのはやはり繊維産業における韓国への進出であった。それらは、早期に進出を果たした個別企業に収益をもたらせ、発展させたけれども、後日の結果として、京都の産地を逆に脅かす存在となったものであった。壊滅的ともいえる打撃を受けた絞業界などはその象徴的な事例である。
 これに加えて原因はまだあった。汚水、騒音、煤煙といった公害問題がそれまでの企業活動に制約を加えるに至ったこと、さらにその根底には、個別産地毎の地域論理を否定する普遍的、画一的な地域政策が行政レベルからもとられるようになってきたことが、いわゆる「経済論理」を加速する要因としてあった。
 そうした産地拡散原因が不可避的なものであったかはどうかはともかくとして、そうした結果として、産地の集積効果が消失し、さらにその結果として「都市の衰退」をもたらせつつあるのであり、そうした結果の上に立って、今日、改めて「産地」の意味と、それを崩壊さしつつある要因について再検討を加えるべき段階に至っているといえるのである。
 
  産地の再評価
 
 抗えぬ経済論理の結果としての産地の拡散、崩壊現象は、はたしてやむをえざるものとしてその推移のままに放置しておいてよいのであろうか。或はまた、産地は、現代の都市社会にあっては意味がなくなってきたものであろうか。こうした問いには、産地の今日的な再評価でもって応えなければならない。
 その回答の第一は、いうまでもなく、都市存立における産地の再評価である。都市再生化策の基盤としての産地である。このことは、これまでの産地が都市を形成してきたという歴史とは逆に、都市が、都市の維持・発展のためにいかに産地を守り、発展さすかという課題を生み出す。
 回答の第二は、地域の再生化策としての産地問題である。これまでの機能純化を前提とした地域政策は反省され、京都市の基本構想においても「職住混合」ないし「多機能」的なあり方が示されている今日、この点は重要である。消費生活圏域としてのみの「地域」には自ずから限界がある。地域社会は、消費生活者、生産活動者ともに市民として含み込むことによって安定した骨格を形成するといえる。これは、「地域総合性」の発見と形成につながる。
 回答の第三は、複合ないし総合産地としての重要性である。産地といっても、何も中小零細企業群とは限らない。日立市や豊田市のように、大企業が立地することによってできた都市や大工場群が立地する地方もある。しかし、関西が地盤沈下しつつあるといわれてなお根強いものをもっているのは、関西の諸都市が単一産業の都市ではなく、また、生活に結びついた産業をその基盤としているからである。単一産業都市は、その産業の浮き沈みによって都市が左右され、また日常生活と距離のある基幹産業は、ナショナルレベルの政策や動向が直ちに反映する。これに対して、中小零細企業群によって形成された産地を複合的に抱えもつ都市は、都市自身の日常性において活況があるばかりでなく、個々の業種に浮き沈みが生じても、全体としての維持状況には大きな変化は生まれにくく、安定的であり、加えて業種間の相互作用は、眼に見えないソフト的な側面でその効果を発揮している。

  産地再形成の課題

@視点としての都市政策  
 今日産地を問題とするのは、それを単に経済的側面においてのみならず、都市という、人間の社会、文化を含む総合的な視点においてであることがまず第一の課題である。これは都市政策として産地政策を確立するということを意味する。

A「経済論理」への抵抗   
 国際的な視野の中でナショナルレベルで行われる経済政策の下で、地方行政として主体的な何かがはたして可能かは、疑問とするむきが多い。しかし、「経済論理」といっても、それは現実には政治的レベルにおける政治判断としての政策に起因していて、決して冷徹な自然的原理であるわけではない。ただ、地方行政レベルではその政策判断への参画権がなく、その結果を客観的なものとして受容しなければならないところから、地方経済政策における「無力感」が生じることになる。 そこで、今日的な課題として必要なことは、これまでいかんともしがたいとされてきた「経済論理」への抵抗を可能な限り試みることではないかということ。それは便宜的、一面的な「経済論理」への反省であり、すなわち、これまでの「経済論理」の中には、産地の集積効果が十分意識されず、市域外への進出をはかった個別企業も、本社機能は移転せず、産地の集積効果を享受しつつそれをすすめてきたということがあった。こうした、産地全体の利益を考えない、個別企業のみの利益追求の論理というものを許さない対応というものは、業界や行政の立場からは十分可能といえよう。
 
B集中・集積機能の復活   
 産地の再形成には、やはり大胆な勇気を必要とする。産地再形成の主なる要因は、何といってもその産地内に立地することのメリットにあるが、同時に、立地しないことによるデメリットをも明確にしなければならない。大胆な勇気とはこの点にかかわる。産地の集積効果を高めることを主軸としつつ、産地拡散を促進する個別企業のエゴイズムに対しては、産地から排除することも必要である。集中・集積機能の復活としては、産地コミュニティセンター等、集積効果を総合的に高める方策を要求されてこよう。
 
C総合的な地域像の確立   
 産地というのは、かつては同業者町であったが、今日ではサラリーマンなど一般市民も居住する地域である。その意味では、同業者町ではあっても、生活環境の今日的なレベルは満たす条件を必要とする。しかしそれは、サラリーマンを中心とした新興住宅地と同じような画一的な条件ではなく、あくまで産地の存立を前提としたものでなければならない。その意味では、今日の産地はあくまで産地産業を中心とした、地域における経済、社会、文化を総合的に包みこんだコミュニティとして形成される必要がある。          

D地域の歴史的ストックの活用 
 産地は、歴史の長短はあるにしても、いずれにしても一定の地域に歴史的に集積、形成してきたものである。そこには、土地利用形態や施設といったハード面とともに、高度に発展を遂げた社会的分業形態をはじめとするソフト面が一体となって蓄積されており、それを現代的視点から積極的に再評価し、活用していく必要がある。歴史的に積み上げられてきたストックといえども、その破壊は簡単にして再建は容易ではない。それだけに歴史的ストックの活用は重要であるといわねばならない。
 
E行政的役割の重視
 産地の再形成は、産地業界自身がそれを主体的に担うものでなければならないことはいうまでもない。しかし、そこに「経済論理」や社会的、或は行政的な客観条件がきわめて重くのしかかっている今日、さらにまた、産地を都市レベルから再評価しなければならない今日、都市行政のはたすべき役割はきわめて重要である。それは、基礎的な土地利用のあり方や建築基準法の適用のあり方から、助成策、誘導策といったソフトな行政指導にまで及ぶものである。「経済論理」への抵抗は、都市行政自身がその先頭に立たなければかなうものではない。
 都市の経済行政は、基本的には任意的な指導行政である。しかし、それは都市固有の根本的なあり方の問題として、指導、助成、誘導といった行政手法を全庁的立場から駆使していくことを必要とするが、それと並んで、産地全体の歩みを乱す個別企業のエゴに対しては、「制裁」的手法もまた不可欠としよう。さらには今日、都市行政の重要な役割の一つには、住民の合意形成の場となることがある。産地業界の合意形成をはかっていくことが、産地再形成の基礎的な条件になることは、今日的な条件として強調しておく必要があろう。
     
     五 京都の可能性・方向性をめぐって
                                                      (一九八四年五月)
  京都の都市性格
 
 都市に永久不滅の都市はなく、地上に存在する万物、事象と同じく、生成、発展、消滅を繰り返すものであることはすでにふれた。
 しかし個々の都市は本来的にそういうものでありつつも、我が国のように日本列島総都市化として、すでに多くの都市が連担してしまった今日、都市の衰退現象はあっても消滅現象はなくなったといえよう。こうしたことから、現代日本の諸都市は廃墟に化すことはないまでも、その盛衰を繰り広げることになる。
 しかし、都市の盛衰をいう場合、何をもって「盛」とし、何をもって「衰」とするかは必ずしも容易ではない。単に人口の増加や市域の拡大だけをもって都市の発展とはいえない。ベッドタウンがいかに巨大化しても、それは本来都市といえるものではない。にもかかわらず、人口の減少が都市の一定の衰退を現わすことはたしかである。
 都市の適正規模の確定はむずかしく、同様に、都市の適性スタイルを決めることも無謀に近いことであろう。その都市その都市の成立事情と都市存立の諸条件の中で、その都市固有の好ましい姿というものが描き出されるべきものである。
 明治維新後の近代化において京都が一地方都市化するまでの古代から近世に至る一千年の間、一貫して京都は日本の首都であり「中央」であった。しかし、より厳密にいえば、それは王城の地としてであり、近世にあっては政治支配者を擁した首都ではなく、日本最大の工業都市であり、宗教都市であり、また文化都市であった。
 近世における三都論として、政治都市としての江戸、流通経済都市としての大阪に対して、京都は王城の地、宗教、工業の中心都市と評されてきた。この時期の京都は、政治都市ではなかったものの、その他において日本の中央であることには違いがなかった。
 先にみたように、京都の地方化は明治にはじまる。同時に、明治・大正期において現代京都の都市基盤は構築された。したがって、現代京都市の基本的な都市性格は、明治・大正期に形成されたといえる。それは、すでに王城の地ではなくなった中で、しかも、洛中を越えて市域を拡大し、百万都市の建設を可能とした。京都市の人口が百万人を超えたのは昭和七年であり、この年の人口は百万千七百人であった。
 今一度、誕生以来の都市・京都を概観すると、首都・政治都市として誕生した京都は、まもなく、商工業者を中心とした住民の自治都市へと組み換えられていく。ちょうどその過程が、京都が王城の地でありながら首都ではなくなっていく過程にあたっていた。すなわち、平安京以来今日に至るまでの千二百年に及ぶ一貫した都市の歴史を京都が歩みえたのは、京都が、商工業のまちとしてあったという基礎的条件が存在したからであった。
 そうしたことから京都の都市性格を考えるとするならば、他に及ぶもののない長く、深い歴史的諸資源を有した都市であることを基礎条件としつつ、第一に商工業都市であり、第二に宗教都市であり、第三に文化・学術都市であり、第四にそれらの総合的な効果としての観光都市であるということ。こうした都市性格が、今日どのように変化しつつあるのか、京都市民としての選択肢はどこにあるのか等について考えてみたいが、その前に、現代都市京都の基盤を構築した、明治の近代化策について少しふれてみたい。
 
  明治の近代化策
 
 都市構造、規模及び産業革新において、現代の京都は、明治期にその原型を形づくった。その明治の近代化策は、同時に、幕末から維新及びその後にかけてまさに廃墟同然化してきた京都の一大復興策でもあった。より正確には、一大復興策の展開にあたって、今日では考え及ばない程の大胆な近代化策を導入したというべきであろう。
 そうした近代化策の背景と特徴を要約すると、次のように整理することも可能であろう。一つは、幕末維新の内乱による被災、二つには東京遷都、三つにはそれに伴う公卿、有力商人等の東京転出、四つにはそれらを克服しようとした京都市民の自治・自立の気概、五つには在洛経済人の活躍、六つには国策及び人材の導入である。
 一から三は、近代化策ないし復興策を必要とした背景である。明治維新は京都を舞台に展開しただけに、幕末から維新にかけて京都は戦場となり、応仁の乱に匹敵する被災を受けた。蛤御門の変(一八六四)では市中の半分以上が、鳥羽伏見の戦い(一八六八)では伏見と淀の大半が焼失した。
さらに東京遷都とそれに伴う公卿や有力商人等の東京移住によって、明治初期の京都の人口減少は十数万人にのぼり、減少率は四〇%近くに達した。このままでは第二の奈良化してしまうとの強い危機感がそこに生まれ、それをエネルギーに展開した勧業策、近代化策が、過去の栄光の中にのみ生きるということのない、現代都市、京都の原型と基盤を構築することになったものである。
 そうした京都近代的復興のエネルギーは、まず、京都市民の自治・自立の気概として現われていたが、とりわけ、当時の京都の経済人の牽引車的役割には注目するべきものがあった。
 京都市民の自治・自立の気概としては、近世以来の住民自治組織である町組の再編成により、はやくも明治二年、市内全域に六四校の小学校を建設したことに、またその学校が同時に住民自治行政施設でもあったことにいかんなく示されていた。
 また、明治近代化策の大きなステップとなった疏水建設事業や平安遷都一一〇〇年記念事業の推進には、京都の経済人の、政府に対するはいうに及ばず、全国的な、多方面への強力な運動展開があった。もちろんのこと、その基盤には、資金面、精神面ともにおける京都市民の支えがあったことはいうまでもないことであるが。
 こうした市民、経済人の自治・自立の気概を主軸とした京都復興への熱意とエネルギーは、東京遷都後まもない政府をも引きつけることになり、国策としての支援を得ることをも可能にしたのであった。
 精密機械工業を中心とした京都の近代産業は明治期にその基盤を確立し、友禅や西陣織の近代化とその発展基盤もまたこの明治の革新によって確立したのである。
 このように、明治の近代化策は、現代京都の原型であり、基盤であるばかりでなく、明日の都市発展への岐路にある今日の京都に対して、学ぶべききわめて多くの教訓を示しているものである。 

  せまられる選択
 
歴史の流れの中で  京都の可能性を考えるにおいて、いつの時代にあっても、常にその時代時代で最高度のあり方を考えるということは人情として避け得ないものかもしれない。しかし、過去一二〇〇年の歴史の中で、また今後将来において、常に最高度の発達した姿を都市としてとり続けることは、歴史の事実が示すように明らかに不可能である。このことは、都市の可能性を追求するにおいては、過去の歴史的起伏の変遷、流れの中で、現在の位置・条件を冷静に見つめるところから出発しなければならないことを示している。
 近世ではなお日本最大の工業都市であったとはいえ、近代に至って地方都市化した京都は、とりわけ戦後日本経済の発展が東京を中心として、しかも地方では中国、九州、東海、東北といったように地方圏が平均化して発展する中で、相対的にその地位を低下させてきた。こうした流れからするならば、一方での首都東京への経済集中と、他方における地方の平準化の進展という事態の中で、京都はいうに及ばず、大阪を中心とした関西全体の相対的な地盤沈下は避け難い問題であったといえる。
 こうした経済力の相対的低下の当然性を肯定しつつ、京都の将来的可能性を考えなければならないが、その場合、そうした相対的な低下から絶対的な地盤沈下にすでに至っているのか、或はいつ頃からそうなるのか、が一つの判断の岐路としてあろう。そのうえでなおかつ、京都の地盤沈下は、一定程度、或は、ゆるやかな傾向としてはやむを得ないものとして受けとめるかどうかという現実的な認識も必要となってくるかもわからない。これを極端にまでつきつめると、京都ほどの歴史的資源の蓄積に恵まれた都市であるならば、第二の奈良化してなぜ悪いのかという発想も、選択肢の他方の極の問題として存在しているといえるのである。
 この問題提起は、現代都市・京都のもつ条件や限界を超えた都市開発や都市発展の試みは、無謀な実践として失敗し、いたずらに歴史的遺産の破壊のみをもたらす危険性を指摘するものである。
 
選択の基礎条件  そこで京都の都市発展における基礎条件を考えてみると、三つの都市性格に集約できる。一つは歴史・文化都市であり、二つは産業都市であり、三つは宗教・観光都市である。この三つの都市性格は、相互的に連環し、それぞれが他方の側面を形成している。これは、都市性格としては均整のとれた総合的形態の都市であることを示している。これまでの京都の発展、存続の条件がここにあったと同じように、今後の京都の存続と発展の条件及び限界もここにあるといえよう。都市の経済的発展を考えるにおいて、このことは重要である。
 ただ、こうした都市性格とは別に、歴史的都市であるがゆえの限界もある。それは、歴史的文化遺産の保存が、単に点的に存在する物的なものを超えて、町並みはいうに及ばず、都市全体にかかわる総体的な保存ということになってくると、現代的な都市機能を備えることがむずかしくなってくることである。
 都市が、今後将来において、常に「現代都市」として生きていくには、将来の時代時代における「現代的な機能」を備えなければ、都市民の生活を否定することになるばかりか、観光客の受け入れもまた困難となってこざるをえない。しかし、都市機能の現代化は、常にある種の歴史的文化遺産の破壊を伴わないわけにはいかず、その調和の求め方が問題となってくる。すなわち、単なる凍結的な保存は時代錯誤となり、思慮の伴わない現代化は、歴史的都市としての特質の破壊となる。 なお、近代に至るまで京都は日本最大の工業都市であった。とはいえ、それは手工業生産の段階においてである。職住混在というよりそれが融合した町であるということは、こうした小規模な手工業者と商人のまちであったということである。
 現代における産業が、まず巨大産業を連想させるのとは全く違った、きわめて労働集約度の高い、技術・技量を中心とした、また文化的ソフト感覚の高い手工業、これが、京都の都市工業の基盤をなしているのである。
 このような諸条件や限界の上にたって、京都の明日への選択はなされなければならない。
 
可能性の拡大を求めて  すでに冒頭でものべたように、現代日本にあっては都市は消滅することはない。交通条件さえ確保されれば、京都は大阪の通勤圏として、大阪のベッドタウンとしても存続することが可能である。しかし、それでは、京都固有の都市性格はなくなるし、日本文化の核も失われることになる。従って、あくまで京都固有の道を追い求めていくことが、一二〇〇年の歴史を有する京都に課せられた宿命であるといえよう。こうしたことから、京都の将来的な可能性とその拡大を求めるには、少なくとも次の三点を十分わきまえる必要があると考えられる。
 第一点は、京都がもつ価値の正確にして全体的な把握とその価値の拡大である。京都の価値にはまずネームバリュウ(名前それ自体の価値)がある。京都に立地し、京都に住居することは、それ自体で文化の高さを示すようなイメージすらある。今日ではネームバリュウの実態を備えていないと酷評するむきもあるが、ネームバリュウの実態には京都の歴史・文化が存在することは確かである。とりわけ、日本の大都市の中で、近世以来一貫して町並みを現代に存続させた都市は他に例がなく、今後とも、古代以来の長い歴史的伝統を基礎とした都市であり続けなければならないことはいうまでもない。
 第二点は、京阪神諸都市間の機能分担である。近世において、王城の地であり工業都市である京都に対して、大阪は日本最大の物流都市すなわち商都であったことはすでにふれた。現代ではこれに貿易港としての神戸が加わるとともに、京都は古都としての性格を強めることになった。現代の京都は、世界文化自由都市宣言を行ったとはいえ、国際色豊かな開放的な雰囲気において神戸に並ぶことはできないし、工業都市というにはイメージに合わなくなってきている。
 また逆に、「文化の時代」いわれ出してすでに数年、とくに大阪、神戸においてそれへの指向性が強く、大胆なイベント事業も試みられる今日ではあるが、京都における日本文化の蓄積の深さに及ぶことは不可能である。こうしたことから、京阪神諸都市がそれぞれの特性を主軸とした都市(再)形成をすすめることによって、近畿圏全体としての総合的な広域地域圏が形成され、ひいてはこれが関西の復権につながっていくものであろう。
 第三点は、京都はもはや、その拡大・発展は基本的には考えられないのではないかということ。都市発展が人口増加と市域の拡大であった時代はすでに過去のものとなっている。広域都市圏域というものは存在するとしても、都市及び都市自治体は、それなりの適正的な規模が求められるのではないかということ。すなわち、都市規模が一定限度を超えて拡大するとき、行政コストは逆に割高とさえなってくるからである。
 京都は、まだ市域南部方面にそれなりの開発可能地を存しているとはいえ、既存開発地の再調整の域を出ることはむずかしく、やはり、既存の資産を保存し、その活用の中から新たな価値を創造するという方途が基本となってくる。この方途は、ゆるやかなる後退は覚悟しなければならないが、日本の経済が、フローの経済から、やがてストックの経済に移行するときには、その真価を発揮するはずである。京都のように一二〇〇年の長きにわたって一貫して日本の中心的都市であったところの都市開発には、その一二〇〇年の歴史的蓄積を超えるだけの知恵と勇気を必要とする。それだけの知恵と勇気を備える覚悟をもつことは、これまでのいかなる時代にもまして今日要請されているといえるが、このことは、その反面における安易な開発を戒めるものといえよう。
 
 
     六 京都市経済行政の歩みと現状
                                                      (一九八四年九月)
    はじめに

 都市の経済は、都市によってその活動の基盤を与えられており、都市はまた逆に都市経済によって支えられ、再形成される。都市行政が都市の維持発展に益々その関与の度を高めつつある今日、都市経済への与件としての行政の役割もまた高まりつつある。
 しかし、行政の都市経済に対する関与の仕方には種々のものがあり、しかも経済はその活動主体によって担われていて、その主体性を育む方向での手段の選択が行われなければならない。
 京都市の経済行政が、地域経済行政としてそれなりに自覚的に追究され、形成されてきたのは戦後のことではあるが、その前史を含め、歩みの概要を紹介し、そのうえで、京都市経済行政に要請される課題とあり方を考えることにより、一応の締めくくりとしたい。

  1 戦前の経済行政    
 
勧業政策  明治維新後、近代的な地方自治制度が成立するのは市制町村制の施行された明治二二年からである。京都府は、慶応四年(一八六八)に誕生し、明治初期においてヨーロッパの先進的な近代技術の導入による歴史に残る殖産興業策を強力にすすめたが、それは都市行政体確立以前の、国の地方行政機構としての京都策であった。
 しかし、いずれにしても明治期の京都策の中心課題は、京都復興のための殖産興業策であり、勧業策であったが、当初のヨーロッパ技術導入の実験それ自体は、必ずしも成功せずに終った。
 そして、明治中期における琵琶湖疏水の建設に主力が傾注されることになる。この琵琶湖疏水による水力発電が、明治末期から大正にかけて工業用電動力として工場生産の発展をもたらすが、ようやくその頃になって近代技術が根づきはじめたのである。
 このように初期の勧業策は、洋式技術の導入が中心であったが、他方では、勧業、啓蒙、市場開拓を併せねらった博覧会が行われ、これが戦前におけるもっとも太くかつ一貫した産業施策となった。
 京都の博覧会は、日本で最初のもので、明治四年にはじめて行われた。翌五年からは、後の財閥である三井、小野、熊谷らをはじめとする有力経済人が発起人となり、府の協力を得て、京都博覧会社(後、京都博覧会と改称)を創設し、以後昭和三年に解散するまでの半世紀余にわったて京都における博覧会を主催してきた。その会場は、当初西本願寺に、明治六年からは大宮御所を借用し、明治一四年からは御所内東南隅に市内全戸数六万三千戸からの拠出資金で建設された御苑内常設会場で(『京都の歴史』第八巻)、明治三〇年からは岡崎博覧会館で、大正三年からは勧業館において開設されてきた。今日の岡崎勧業館は、こうした京都博覧会の歴史的積み上げの中で設立されてきたものである。
 またこれとは別に、明治二八年には政府主催の第四回内国勧業博覧会が、大正、昭和御大典等における京都主催の博覧会がしばしば開設された。
 このほか、戦前において設立された勧業施設は次のとおりであり、今日の勧業施設の基盤はすでに戦前から存在してきたことが分かる。
 染織試験場 明治四二・三西陣織物同業組合が設立し、大正八・一〇市に移管
 工業試験場 大正九・一〇市立工業学校内に開設、大正一二・八建物完成
 勧 業 館 明治四四・三第一勧業館開設、大正二・八第二勧業館開設
 京都物産紹介所 昭和八・一〇満州国奉天に府、市共同で設立、昭和一三・七天津に府、市、会       議所で設立。昭和一六・三廃止
 神戸貿易斡旋所 昭和一六・九神戸に開設、昭和一六廃止
 京都貿易振興館 昭和一六・八 府、市、会議所で設置

 しかし戦前において、重要なことは、疏水工事や水力発電、道路の拡張・新設、鉄道網の敷設といった事業が、産業活動のもっとも重要な基盤建設の問題として捉えられていたことである。
 
社会経済政策  戦前の経済行政は、殖産興業策や勧業策だけではなく、社会救済ないし社会政策的な事業をも実施してきた。
 早くは、明治維新直後における市中小前引立所。これは、零細企業に対して営業用資金を無利息で貸し付ける融資制度で、事実上窮民対策として行われたが、今日の小規模事業者に対する融資制度のはしりである。
 また、第一次世界大戦後の世界経済不況が物価騰貴と物資欠乏をもたらしたが、すでに都市への労働人口の集中に対して物資の安定的供給と価格の適正化をはかることが、「社会政策上の焦眉の急」とされ、大正七年九月に三公設市場が、昭和二年一二月に中央卸売市場が開設された。
 この時代、大都市に集中する人口はすなわち労働人口にほかならず、それに対する物資の安定的供給システムの確立は、都市の産業活動を維持発展させるための経済政策そのものにほかならないが、物資欠乏の状況それ自体はまた深刻なる社会問題であり、大正一三年四月に市場課が設置されるまでは、市場問題は社会課において取り扱われていた。これなどは、経済問題を捉える視点の多様性を示す好例といえよう。
 いずれにしても、経済行政は、戦前においても、単なる勧業策の範囲にとどまることなく、広く社会政策的な範域に至るまでを含んでいたといえる。その意味で、経済行政は、産業策の範囲に限定されない、都市社会的な広がりを視野に入れた、文字どおり、「経済政策」でなければならないことを十二分に示すものであるといえよう。

  2 都市経済行政の形成過程
 
地域経済の視点  すでにみたように、戦前においてすでに経済行政は、単なる勧業策にとどまらない、社会救済的、社会政策的範域にも及んでいた。そのことは、都市社会の状況を十分に意識したものであったが、戦前の段階では、まだ、地域経済ないし都市経済政策としては自覚されたものではなかった。
 勧業策は、伝統的な工芸産業の振興を土台にしつつ、可能な限り洋式技術とその産業を導入することであり、社会経済政策は、現象としての社会問題の域を十分に出ることがなかった。都市地域は、この段階ではまだ限定された区域内にとどまるものではなく、現象のすすむままに拡大し、京都市域はまた、その必要に応じて隣接市町村を合併し拡大していったのである。
 さらにまた、産業や経済は、常にナショナルな視点から論じられ、ローカルな、地域的視点からは論じられることが少なく、加えて、経済に地域的論理が入り込むことは困難とされてきた。
 こうした中で、地域経済的視点に立った経済政策がめざされるようになるのは、戦後混乱期を経た昭和二〇年代の後半である。また、幾多の混乱や矛盾を抱えつつも、自治体行政として安定してくるのもこの時期からである。
 
戦後経済行政への期待  昭和二五年、新憲法下の初の市長として誕生した高山市長は、「市民が市民のために行う市民の政治」を民主主義市政の根本理念として掲げたが、その市政運営において、戦後なお深刻にして未回復な経済情勢の中で、当面の最重要課題を「市民生活の建て直し」におき、中小企業対策、失業対策、及び教育対策の三つを重点事業とした。その中小企業対策について、同年五月三〇日の初の本格予算の市会提案説明において次のように述べている。
 今日中小企業がすでに破滅の危機に直面していると言われますが、京都の中小企業が倒れていくということは、取りも直さず京都の産業が死滅し、市民生活の崩壊を来たす結果にもなりますので、京都市の中小企業を救うことは、京都市の産業建て直しのため、まず何よりも緊要であり、かつ市民の望んでいるところ
であるという見地から、第一に中小企業対策を採り上げ、第二に「産業の危機は同時に失業問題となって現われ」ることから、失業問題を採り上げることにしたとその趣旨を説明している。経済に関して全く素人を自認していた市長にして、初の市政運営の再重点課題に経済問題をとりあげざるをえなかったのである。
 
博覧会、見本市中心からの脱却  中小企業対策を市政の基本課題に据えながら、自らは経済に関して素人であった高山市長は、昭和二五年九月、経済学者を商工貿易課長に招へいした。後の上田商工(経済)局長である。
 同氏は、「当時は京都の産業事情についての系統的な記録が皆無に近く、実態がよくつかめていなかった。引きついだ仕事は博覧会と信用保証協会くらいで、系統だった事業はほとんど手がつけられていない実情であった」と後に回顧している(「京都商工情報五〇号発行に際して」『京都商工情報五〇号』所収)。
 戦後一、二年は、生活物資の確保と配給がほとんどすべての時期で、産業政策どころではなかった。昭和二二、三年頃から経済行政施策も動きだすが、その内容は、今紹介したとおりである。
 すなわち、昭和二二年には、京都商工会議所主体の京都商工博覧会が丸物百貨店で開催され、市はそれを後援し三〇万円の助成金を交付。市主催としては京都優良百貨見本市を開催。このほか各業界の見本市開催の後援を行っている。このほかは、二二年六月二一日に、府、市、商工会議所共同経営になる京都貿易館が会議所内に設立(後、丸物百貨店に)され、府及び市の貿易係が会議所に移転するなど貿易に関する対策が講じられている以外にみるべき施策はない。
 これらは、戦前の勧業策にも通じるものであるが、工業・染織両試験場による技術指導と博覧会、見本市等による市場開拓とが、施策の二本柱であったということであり、戦後京都市の経済行政は、それからの脱却からスタートしたといえる。
 具体的には、融資制度の確立、充実とともに企業経営の近代化指導、税への適正な対応のための公開経営指導、協同組合化など組織化への指導など、相談指導事業の充実がすすめられることになった。
 金融は、危機に瀕する中小企業にとって当面最も必要なことであり、担保力のない企業に対する融資を確保するため、信用保証協会への出資金を府市同額にまで抜本的に高め、府と同等の発言権を確保するとともに、小規模事業者に対する市の融資制度も設置されるところとなった。相談・指導業務に関しては、昭和二五年九月一五日、新たに中小企業相談所が設立された。
 
調査と立案ー業種対策  経済学者を迎えての商工行政は、その施策を考える上において、まず調査機能の確立から着手するところとなった。
 産業実態を把握し、その問題点を明らかにすることによって施策体系を確立するという方式はこの時期から形成されることになった。
 新設調査係とベテラン嘱託員によって、二〇年代の後半には、第二及び第三次産業のほとんどの業界調査を一巡し、京都市における産業構造と流通実態はほぼ明らかにされ、その調査結果は、『京都商工情報』に、或は単独の報告書として刊行され、その実態把握の上にたって順次施策は立案されていった。地域経済行政は、こうした地域産業の具体的実態調査の積み上げの上で、形成されてきたものである。
 「多様な問題をかかえた多様な業種の企業を中小企業という名称で総括」するだけでは大都市の中小企業対策は不可能に近く、各業界毎に実態調査をすすめたことによって「当時の大雑把な中小企業概念では表現しにくい京都特有の業界が逐一調べ上げられた」(上田作之助「京都産業と商工情報」『京都商工情報第百号』所収)のである。
 こうした京都的産業の実態が明らかになる中で、その政策対応の問題として、「伝統産業」なる政策用語も生み出された。伝統産業の基礎的、体系的な集約は、地域経済的な視点の必要性を理解した地元大学の協力も得て、三〇年代の半ば頃に一応完成したといえる。その成果の一つは、今や古典ともなった、京都市商工局編『京都の伝統産業ーその構造と実態』(昭和三七年)に現わされている。当初は行政のみの手によって行われていた調査活動に、やがて大学研究者の協力も加わり、地元産業を対象とした研究もすすむことになり、これがまた、行政の政策活動にフィードバックされるという政策立案過程の科学化ともいうべき土壌を形成していった。
 
立地問題への対応  昭和三〇年代が近づくと、工場生産が一定の拡大傾向をみせる一方、産業に恵まれない中小自治体は全国的に財政危機に陥る中で、工場誘致運動が活発となる。京都市も、その経済力の弱さから、二〇年代末には財政危機は極限に近づく。そうした中で、工場立地の問題が多面的に調査、検討され、また、工場設置奨励条例が制定される。ただ、京都市の同条例では、他地域からの工場誘致だけではなく、市内の在来工場をもその対象として立地条件の整備をはかった。
 こうした三〇年前後の立地問題に対する総合的なとりくみが、三〇年代後期の工場集団化への工業団地づくりに結びついていく。
 昭和四三年になって、前記条例は廃止され、市内工場のための集団化条例となるが、地域経済政策の形成途上で立案された当初の条例そのものに、その要素は存在していたのである。
 
  3 京都市経済行政の現状と課題
 
行政機構の確立と領域の拡大  これまでのところ、産業行政と経済行政、或は商工行政というものの差異を考慮せず、一応それらすべてを視野に入れつつ商工行政を中心にみてきたが、ここではそうした点についても多少ふれておきたい。
 戦後商工行政は、産業局商工課としてスタートし、昭和二一年一二月に商工貿易課に、二四年九月には産業局は経済局となったが、同課はそのまま継続し、二七年一月、産業観光局誕生時に再び商工課となり、その後、昭和二九年四月、局は再び観光と分離し、産業局となった後も、三三年四月に商工局となるまで、同課のままであった。
 商工局は、庶務、商工振興課、商工指導課の三課でもって構成されていたが、四〇年二月の行政改革によって、再び農林行政と合体し経済局となり、今日に及んでいる。ただ、局の内部機構(農林関係を除く)は、時々の経済情勢や政策傾向を反映し、十数年の間にかなりの変遷を遂げている。
 昭和四〇年一一月には、中小企業に対する行政の一元化を図って、中小企業相談所を中小企業指導所に抜本的に拡充し、本庁の指導業務を吸収、それにより、本庁の事業課は、商工振興課のみとなった。四二年七月には新たに消費経済課が設置され、消費経済行政が開始される。四九年四月には、行政機構は最大規模となる。折からの狂乱物価の影響下で物価対策課が新設される一方、中小企業指導所に一度置かれた指導業務も再び本庁に戻し、併せて商工振興課を再編し、新たに伝統産業課を設置するとともに、商業、工業の両課を置いた。
 その後、全長的な行政改革によって昭和五〇年四月に庶務課が廃止されて、戦後商工行政の基礎を築いてきた調査係が廃止されて担当主査制になり、また物価対策課は早々とその姿を消した。現在の行政組織は、全庁的にも企画調整機能を必要とする認識の高まりから、五四年四月に新たに経済企画課が設置され、商業、工業の両課が再び商工課に一本課されたものである。この時点で、経済企画課に企画調査係が新設され、調査機能は一定程度において復活するところとなった。
 現在の行政規模は、商工、消費経済関係だけで、四課九事業所を数え、職員数は、三〇〇人近くに達する。これに農林関係を含むと、一室七課一二事業所、職員数は四〇〇人近くとなり、それだけ行政機能はシステム化され、多くの需要に「自動的」に対応しうるようになった反面、商工、農林、消費生活という多次元の多様な要素を含み込んでいるため、経済行政としての全体的、体系だった対応のむずかしさもまた生じてきているといえよう。
 
人から組織へ  戦後、専門家の招へいによる小集団によって、混沌の中から形成された京都市経済行政は、四〇年代に入ると、機構陣容ともに拡充し、とくに、消費経済行政や農林行政をも含み込むことによる行政上の異なった論理を抱え、加えて、通常の行政職員によって行政が担われることになる。この段階になると、政策形成過程そのものがシステム化されることになる。
 経済問題の理解というものは、通常の行政と異なり、かなり専門的知識経験を必要とする。専門家を頂点とした比較的小集団の段階では、実態調査の成果がそのまま、具体的政策立案に反映する。
事例的に端的に表現すれば、経済局長は、自ら調査のあり方を指揮し、その調査結果により行政対象である経済実態とその問題点を把握し、施策の方向性を指示することが可能である。
 しかし、行政機構及び陣容が拡大すると、組織的分業化が進行し、加えて、経済問題に素人の行政職員がリーダーシップを行使する場合、実態把握とその結果の理解による政策立案の過程は、個人的資質によるよりも、組織的システムに依存せざるをえなくなる。これも、事例的に表現すれば、極めて広範囲な経済問題に対して、どこに調査の力点をおき、実態調査の結果をどう読み、それを行政対象としてどう理解し、政策問題にしていくかという実態把握から政策立案に至る過程に総体的に立ち入ることは、一般行政のベテランであってもなかなか容易ではないのが現実である。
 そして、結果論的にも、現在の経済行政は、個人的資質の段階から組織的システムの段階に移行している。しかし、問題は、今述べてきたような、経済行政における政策立案過程のシステム化が自覚的に追及されているかどうか、さらには、今後、どのような人的資質を必要とするのかしないのかについての問題意識の所在いかんにあると思われる。
 
庁内の位置と庁外の位置  戦後経済事情が安定し、経済行政もシステム化され定着してくると、経済行政の位置は低下してくる。
 冒頭にも紹介したように、昭和二五年の高山市長の市政最重点施策は中小企業対策であった。しかし今日、経済行政は、法的、制度的にはやってもやらなくてもよい任意行政として、庁内的ウェイトは高くない。
 そしてまた、庁外、すなわち経済界の経済行政に寄せる期待も、現実には低下しているように思われる。経済諸団体はそれなりに自立し、自ら歩むようになると、行政に対しては、それを自らの目的のための手段として用いようとするようになる。
 そこで経済行政が、狭義の中小企業対策の域を出ないようであれば、それらの傾向はより一層進行することにならざるをえない。
 広義の都市計画は、それ自体が経済政策であることから、経済諸団体の要望は、直接的には計画局や建設局にかかわる場合が多い。そうした中で、道路や地下鉄、住宅建設や福祉に至るまで、経済的視点からの意味の付与と見直しへの参画がなければ、これからの庁の内外に対する経済行政の浮上は困難となろう。
 不況下にあって、経済的活力の向上がいかに叫ばれようと、その政策的部所が現実にどのようなウェイトを庁の内外において占めているのか、それは経済政策の正常なあり方を予測する一つの重要なバロメーターであるといえる。
 
     七 京都市経済行政の課題と展望
                                                      (一九八五年一月)
  はじめに
  
 京都市の都市は、経済機能を含めて、今やむずかしい岐路に立たされている。その活力の低下は、文化面にも及んでいるとの指摘もある。低落の度を加える地盤沈下の中で、明治期のような再生策は、はたして再び可能であろうか。或は一部先端的な産業を有しつつも、都市の総体としては、伝統産業を中心とした地場産業と文化遺産を地道に維持する道を歩むべきかもわからない。
 いずれにしても、それらを見極め、的確なる方向性を見い出し、かつ、そこへの誘導策を講じていくには、それなりのあらかじめ解決されなけれならない課題とともに、今後の行政対応のあり方が確立される必要がある。以下で、その点にふれることによって、この小論のとりまとめとしたい。

  1 都市経済行政の課題
 
 都市の経済行政の目標は何か、と抽象的に問えば、それはなかなかの難問である。行きつくところ、市民福祉の維持、向上といわざるをえない。
 が、経済界の実態に眼を落としてみると、解決されなければならない隘路や不合理な面が数多くある。 
 所得の向上や雇用機会の増大を抽象的に求めていく行き方もあれば、具体的な問題点を一つひとつ解決していく行き方もある。
 一貫した目標というものは、持ちえないものかもわからない。経済というものは、その位置・立場によって利害を異にする場合も多く、トータルな利害の調整も容易なことではない。
 ただ、これまで述べてきたことを通して、京都の都市経済に関して少なくともいえることは、@これまでの遺産の維持・継続であり、それにあたってのA今日的な隘路の打開であるといえよう。 そのために手段を行使する、その目標のつくり方それ自体が経済政策の主要な課題であることを指摘するにとどめ、ここでは当面している行政上の課題についてまずふれてみたい。
 
産業行政から経済行政へ  産業行政といい、経済行政といい、これまでの京都の経済行政の主たるところは、中小企業対策であった。それは、伝統産業をはじめとする地場産業が中小企業群であり、中小企業者及びその就業者は勤労市民であったからである。従って、今後もその主軸は変わらないにしても、対策の質や範囲における変化は避けえないものといえる。とくに、政策的な視野においてそれはいえよう。
 すでに現在の京都市経済政策は、商工業のみならず、中央卸売市場や消費者経済、さらには農林業までをその行政対象として抱えるに至っている。このことは、経済行政が、第一次、第二次、第三次産業のそれぞれの振興策といった従来のあり方ではなく、生産から流通、そして消費に至る、都市における経済の全体的流れを対象とするものに変化してきていることを示すものである。
 生産者と流通業者、そして消費者は、それぞれ利害を異にし、時には対立する。それらのすべてを経済行政の対象とすることは、個別業界との縦の関係でのみ産業振興を図ってきた従来のあり方を超えて、流通、消費に至るまでの全過程における異なった利害をも視野に入れた上での振興策を必要とするものであるといえよう。ただ、行政過程としてそのことを実現するには、各々の利害を対象とする各行政セクション間のチェック・アンド・バランスの関係が行政過程の中で確保されなければならない。すなわち、商工課は企業の利害を、消費経済課は消費者の利害をそれぞれ明確化した上での、経済行政としての調整を図るという機能、過程を備えることが必要となる。
 そこで大切なことは、個別利害の明確化と、都市における経済過程の全体を視野に入れた上での経済政策の確立が必要となってきているということである。
 
経済行政における官と民  現代日本の社会では、公的な経済活動以外はすべて私企業によってその経済活動は営まれている。行政体は、公共経済体として、民間私企業とは異なる、公平、公正、民主的にして効率的という四つの原理をもって運営されているが、その中で、経済行政は唯一民間経済活動を対象としたものである。それは、行政の本来関与すべき領域ではないとする見方も根強く、行政の中では異質の分野に属する。
 それだけに、経済行政の根拠は、理論的にも実態的にも深められ、確立されなければならないが、それには、行政体の中におけるエコノミストを養成する必要がある。経済過程の把握や理解は、いうまでもなくすぐれて専門的な知識、経験に依存する度合いが高いからである。しかし同時に、それは、都市行政の領域で行われるものとして、自治体行政の論理にも通じていなければならない。 昨今、官・民領域区分が種々議論され、問題となっている中で、その接点に位置する経済行政の役割は、より一層重要になってくるものと思われる。  
 
経済政策の手法の行使  都市経済行政はあくまで任意行政である。従って、行政諸施策は、それを必要とする実態把握の上ではじめて樹立されることになる。それは通常行政ニーズ(需要)として把握されるが、その行政需要は、業界要望の形をとって現われることが多いといえる。
 しかし、業界要望=行政ニーズ=行政施策というように単純につながると、政策の幅は、それに応えうる財政上の幅に限定されてくる。なんとなれば、業界要望は、大部分、資金援助をはじめとする助成措置の要請であるからである。
 経済行政の諸施策は、一方では都市政策から、他方では経済の実態把握の上で、体系的に出されることによって政策化されるが、その政策目標にむかって、各種手法を行使する。すなわち、指導、助成、情報提供等によって、誘導することになるわけであるが、それらの手法は、行政対象が、経済の活動主体であるがゆえに、採用される手法でもある。さらにまた、経済の活動主体は、私的利害を追求するものであるがゆえに、ときには、公権力による規制措置を行使する場合や、業界の自己規律を要請、指導する場合も生じることになる。
 しかし、このような多様な政策手段は、今指摘したように、業界に対して受動的な状態の中からは生れてくるはずはない。少なくとも、都市経済のあり方に対する政策目標があり、それにむかう積極的な姿勢がなければならないが、それには、とにもかくにも、実態把握による問題点の掌握を必要とする。
 業界指導は、業界団体からの要望を受け止める程度の段階ではそれは不可能である。団体から出される即物的な要望の背景や根底を業界実態の正確な把握によって理解、判断することによってしかそれはなしえないものである。こうした意味で、都市経済行政は、デスク・ワークでは全くないといえる。

府政との関係  地方自治体レベルにおける経済行政は、現行制度上は府県の事務である。それは、協同組合の設立認可をはじめとする各種届出や許認可について、府県がその許認可権をもつか国への申請の法的経由機関である場合がほとんどで、しかも中小企業総合指導所をはじめとする各種施設もまた府県ないし府県単位設置に限られているケースがほとんどであるからである。
 ただ、個別業界指導をはじめ、任意の経済施策を独自にどうとるかは、府県、都市を問わない自治体の自由な政策となるが、その場合、京都に関しては、府と京都市との競合関係が生じているのが実態である。
 この競合関係を生むには二つの要因が作用している。一つは、府域と市域という行政地域の守備範囲の違いであり、今一つは、行政対象業界に対して、府と市が同一平面上で併立しようとすることである。
 府域と市域との違いは、立地上の広がりを京都市域内とするか府域内とするかという根本的な条件の違いであり、それはすぐれて客観的なものであるだけに、立地をめぐる綱引き状況が府市の間にあってもよく、その最終的な選択は、経済主体自身が行えばよい。ただ、府市の綱引きも、その産業の実態に即してなされるべきであり、行政地域の違いは、結果的には、経済活動上の重要な与件の一つに今後はなっていくことが考えられる。
 今一つは、行政機能上の問題であり、都市内経済界に対しては、まず第一義的には都市行政が直接接触するべきであるが、府もまた直接接触しており、国⇔府・市⇔業界の関係になる場合が多い。これは、基礎的地方公共団体としての市の自治能力形成に対する阻害要因となるものであるが、府、市それぞれに政治基盤を確保しなければならない政治状況の下では、容易には避け難い問題でもある。
 そうした府市の関係において都市経済行政を考えた場合、都市経済行政の相対的な弱さは現実には否定しえない面がある。そこからも、都市経済行政の出発点にしてしかも最も強力な武器は、徹底した経済実態の把握の上にたった政策課題の提起であり、そのこと以外に、固有の経済行政確立の道はないといえるのである。
 
  2 今後のあり方を求めて
 
 都市経済行政は、今や、都市そのものの維持、再生、発展という視点から見直すべき必要について述べてきたつもりである。それは、都市の経済行政が、狭義の中小企業対策や、断片的な工場誘致といったレベルを超えて、都市の経済的なしくみ、とくにその都市固有の経済的しくみを解明することによって樹立されるべき、経済政策に基づかねばならないということである。それには、まず第一に、都市の経済実態が体系的に把握されなければならないし、その上にたって、都市政策の主要な一環としての経済政策が追及される必要がある。その場合に、都市地域を立地基盤とする産業のあり方に対する産地政策は、欠くことのできない要点である。そこで、以上の三点を次に要約的に指摘することによって、一応の締めくくりとしたい。
 
都市の経済的把握  今日の社会では、都市はその都市の経済力によって成立している。文化もまた、その反面の経済的価値に支えられて成立している。そのため、その都市における生産から流通、消費に至る一貫した経済過程の体系だった把握は、その都市の成立根拠と明日への展望を解明するために不可欠の作業であるといえる。都市の道路、交通にとどまらないすべての公共施設や私的施設も、すべてそれらは都市の経済的ストックである。
 さらにまた、都市の経済力とその都市の自治体財政力との関係も、都市づくりにおける現実的な政策の問題として解明されなければならない。こうした都市の総合的な経済把握のためには、経済研究所的な機能を行政内に設ける必要があるのではないかと考えられる。或はそれは、当面の段階では、まず、国における経済企画庁的な機能のものから出発することがベターであるかもわからないが。
 いずれにしても都市と都市経済は生き物であり、常に変化し続けている。従って、こうした都市の経済把握、分析は、静態、構造的な解明にとどまらず、常に動態把握を怠ることができない、恒常的な作業である。

産地政策の確立  産地問題と産地政策の必要性に関しては、すでにかなり詳しく述べてきたところであり、今後、産地政策をいかに確立するかは、京都市にとって緊要の課題である。しかし、今日までの段階では、未だ産地問題に関しては、目的意識をもった実態調査すら行われていない状況にあり、まず産地の総合的な実態解明を行うことが要請される。
 産地問題とは、くり返していうまでもなく、単なる個別業界毎の問題ではなく、地域的な広がりの中における社会的分業形態や、地域における文化的、経済的、生活的なものをも含む諸資財の集中、集積した存在状況(ストック)である。
 京都市内における文化財などの文化諸資財を含む歴史的に集積された諸資財は、単に「物」をのみいうのではなく、経済や文化活動における社会関係、或は技術、技能の伝承といった無形の人的なものをも含んでいる。
 こうした、一定の地域に集中、集積することによる複合的な相乗効果について、広くその実態を解明し、必要な政策が樹立されなければ、京都市の個性ある都市形成は崩壊していくことになる。昨今の、各大学の京都市域からの転出の動きに対しても、こうした京都の複合的な総合産地としての存在状況からの見識ある課題提起がなされる必要があろう。
 このように、京都の歴史的な集中・集積効果が、その解明がなされる以前にすでに崩壊の過程を歩んでいることに対して、強い危機感がまず持たれなければならないといえよう。
 
都市政策としての経済政策の確立  都市の経済行政を最終的に集約するとするなら、それは、都市政策の主要なる一翼としての、都市政策としての経済政策でなければならないといえる。
 それは、都市のすべての事象が経済的側面をもっているからであるが、同時に、都市行政のすべての部門もまた、経済的側面をもっている。
 福祉施策は、市民の健康にして文化的な生活の維持向上のための所得再配分の過程であるし、道路、交通事業は、都市経済の活発化、効率化を促進することを目的とした文字どおり経済施策である。にもかかわらず、現実の市行政各部門に対する経済的側面からの効果の測定をはじめとする経済行政部門の参画はほとんど皆無といえよう。ニュータウンの造成それ自体もすぐれて経済施策である。まして、サイエンスタウンともなれば一層のこと経済施策として捉えられなければならないが、今の京都市経済行政にはその条件はなく、また行政全体の中にその意向はない。
 こうしたことから、都市政策としての経済政策の確立にあたっては、まず、市の基幹的事業にはすべて経済行政のスタッフが参画しうる体制を整えることから開始することとし、そのためのスタッフの養成に着手する必要があると考えるのである。

 

 

 

      七、古都税紛争

     一 検討素材としての旧文観税
                                                     (一九八一年一一月)
  はじめに

 「文化観光」税をめぐる論議が突如として活発になった。とつじょとはいっても、もちろんその背景がなかったわけではない。すでに市議会でもその種の質問は出されていたからである。しかし、まだその段階では、税創設への市の意思は示されていなかったのである。
 突如としての感を受けたのは、市の検討作業過程にあるものが、スクープされたという事情によるものであるからか。いずれにしても、新聞報道のなされた段階ではまだ市の意思決定はなされていなかったように見受けられた。
 しかし、それが検討の作業過程であったにしても、一度新聞報道で表面化してしまうと、いずれにしても早急な意思決定が必要とされることになる。こうしたことからある意味で、「文観税」創設問題は、思わぬ進展をしたのかも知れなかった。
 そもそも「文観税」は、京都市の場合、昭和三一年から四四年にかけての一三年間にわたって、一度の延長でもって実施されてきたものであった。その税の創設をめぐってはもちろんのこと、延長をめぐっても社寺側と市当局との相当に激しいやりとりがあり、延長にあたっては、いわば再延長しないという趣旨の覚書が交わされている。しかし、そした覚書が必要とされたこと自体、京都市の都市性格から、その再延長の危険性が強く意識されていたということにもなろうか。
 昭和五〇年、京都市税財政問題研究会が「京都市における税源拡充構想」をとりまとめた。この時期、オイル・ショック後の財政危機の中で、東京都をはじめ、各自治体が競って独自財源を求めようとした時期であった。結果は、事務所・事業所税等、企業に対する多少の課税強化はあったものの、それは全国的なものであり、京都市固有の、独自的な求め方は、結局のところ実ることはなかった。この辺りに、京都市の都市性格と「文観税」の結びつきの伏線というか、背景が存在し続けているのかもわからない。
 奇しくも、昭和三一年に「文観税」が創設された時と今日とは時代背景が極めて近似している。 当時、昭和二五年に京都国際文化観光都市建設法が制定され、昭和三一年には財政再建団体としての指定を受けるに至っていた。今日、昭和五三年に世界文化自由都市宣言が発せられ、今年、昭和五七年には第二臨調による「行革の基本答申」が出され、京都市もまた行政改革にとりくんでいる途上にある。
 時代は近似していても、歴史はもちろん単なる繰り返しではない。しかし、その近似するところの背景を学ぶなかでこそ、新しい展開を導くことが可能となる。
 ここでは、できる限り評価の観点を避けて、当時の「文観税」創設の経過とその内容を紹介し、大方の検討素材として提供したいと考えるところである。

  旧「文化観光」税の概要
 
<法定外普通税>
 「文化観光」税は、「法定外普通税」である。市町村税は、地方税法に限定されている範囲内で課税されるものであり、同法では、普通税及び目的税の二種類を設けている。普通税では市長村民税や固定資産税など九つの税目、目的税では都市計画税や国民健康保険税など五つの税目が掲げられている。このように市町村の税は、地方税法に具体的に法定されているのである。しかし、普通税について、法定された税目以外の税目を、一定の範囲内で市町村は新設することができるとされており、これが「法定外普通税」といわれるものである。
 法定外普通税を新設する場合は、自治大臣の許可(同法第六六九条)を必要とし、自治大臣は、大蔵大臣の意見を聞いた上、一定の要件に適合している限り許可しなければならない(同法第六七一条)ものである。
 すなわち、自治大臣の許可の要件としては、@その税収入を確保できる税源があること、及びAその税収入を必要とする財政需要があることが明らかであるときとなっている。
 これに対し、不許可ないし課税できないケースとしては、@既存の税との二重課税のようなものとなって住民の負担が著しく過重となること、A地方団体間における物の流通に重大な障害を与えること、B国の経済運営に照らして適当でないこと、が掲げられている(同法第六七一条)。
 過去二度にわたる「文化観光」税では、いずれも、二つの許可要件を満たし、不許可の事由には該当していない。税源については明確であり、財政需要としては、当時の財政困難と観光都市としての京都市の特殊事情が認められていた。ただ、その使途に関しては、目的税的な運用が図られていた。
 
<文化観光施設税>

税の制定及び適用  昭三一・八・一七市議会可決  昭三一・九・二九自治大臣許可
          昭三一・一〇・一三〜昭三九・四・一二適用期間(七年六月)
税創設の目的  文化観光施設の整備に要する費用に充てるため
課税対象  文化観光財の観賞
納税義務者  文化観光財を観賞する者
税率  一人一回の観賞について 一〇円(小・中学生は五円)
徴収方法  文化観光財を観賞に供する者(社寺等)その他文化観光施設税の徴収について便宜を
有する者を特別徴収義務者とする。
徴収税額及び使途  (表1)参照      表1

文化観光財  建造物、庭園その他有形の文化観光資源で、観賞料、拝観料、初穂料、志納料その他名目のいかんを問わず、その観賞について対価の支払いを要するようなもので条例で指定するもの
指定社寺 (文化観光財を観賞に供する者)
(年度)   (徴税開始社寺)    (合計数)   
三一年度 二条城、平安神宮、妙法院 一三
 醍醐寺三宝院、天龍寺、広隆寺、仁
和寺、東福寺、曼殊院、清水寺、龍
安寺、鹿苑寺、慈照寺
三二年度 青蓮院、西芳寺、寂光院、 一八
泉涌寺、大覚寺           
三四年度 知恩院、三千院      二〇
三六年度 詩仙堂、大仙院、東寺、瑞 三二
峰院、高桐院、龍源院、三玄院、黄
梅院、芳春院、退蔵院、南禅寺、金
地院
課税免除等  次の場合等は、税を課さないこととされた。
@公務又は業務による文化観光財の観賞
A小学校児童(昭三九・四から中学生も含む)が、教員に引率されて文化観光財を観賞する場合
Bその他市長が課税を不適当と認める場合
ア定時の勤行に参加する信者で、社寺等がその者を具体的に明確にしているもの。
イ自己に関する読経、供養等に参加する信者で、社寺等がその範囲を具体的に明確にしているもの。
ウ末寺等から本山詣りをする信者で、その末寺等の証明により、社寺等がその範囲を明確にしているもの。
エ彼岸会、盆会、施餓鬼会、開山忌等社寺等の特別の宗教行事に参加する信者で、あらかじめ当該社寺等と所轄区長と協議の上決定した日時において、当該社寺等に参詣するもの。
オ中学校の生徒が、教員の引率により、三日間に三回をこえて文化観光財を観賞する場合の四回目からの観賞。(昭三九・四からは小学校児童と同様に)
カ生活保護を受けている小・中学校の児童又は生徒
キその他、社寺等が、文化観光財の観賞について、対価の支払いを要しないとしている特定の者又は期間。
条例の実施運営  条例の実施運営にあたっては、社寺側(清水寺、鹿苑寺、龍安寺、平安神宮)と市側からなる「運営委員会」が設置された。

<文化保護特別税>

税の制定及び適用  昭三九・三・二七市議会議決            
                 同 六・五自治大臣許可
              昭三九・九・一〜昭四四・八・三
                      適用期間(五年)
税創設の目的  京都の文化、伝統をまもるための施策を推進するに要する費用に充てるため
課税対象  文化財の観賞
納税義務者  文化財の観賞者
税率・徴収方法  文化観光施設税に同じ
徴収税額及び使途  (表2)参照

               
文化財  建造物、庭園その他の有形の文化財で、観賞料その他名目のいかんを問わず、その観賞について対価の支払いを要するようなもので、条例で指定する文化財及び当該文化財とともに存在する他の文化財をいう。
指定社寺  文化観光施設税に同じ
課税免除等  文化観光施設税に同じ
運営委員会の設置  文化観光施設税に同じ

  旧「文化観光」税の概要

<動機と背景>
 「文化観光」税の使途をみる(表1、表2参照)と、文化観光施設税総額の八五%、文化保護特別税総額の三四%、すなわち両税総額のほぼ六割に達する七億九千八百万円が、国際文化観光会館の建設費とその公債費にあてられている。このように、「文化観光」税の着想の主たる動機に「国際文化観光会館」(現・京都会館)建設構想があった。
 同建設構想は、昭和二五年に制定された京都国際文化観光都市建設法に基づく事業計画の中にその起点をもち、これに「東洋一のミュージックホール」構想が加わったものであった。
 しかし、当時、昭和二〇年代の後半から三〇年代の初頭にかけては、戦後地方財政制度が固められてくる中で、経済力の弱い京都市では財政赤字が累積の一途をたどり、遂には、財政再建団体の指定を受けるに至る過程にあった。
 そのため、このような建設事業の資金は、既定の財政収入以外に見出す方途が検討されていた。加えて、「市民会館」或は「音楽ホール」建設を要求する市民運動の高揚とともに、署名及びカンパ活動が展開するに至っていた。
 すなわち、国際文化観光都市建設法を制定したものの、以後京都市財政は年々急迫の度を加える中で、その目玉となる国際観光会館の建設と国際観光都市としての観光施設整備について、その財源を「文化観光」税に求めたものであった。
 昭和三一年七月二七日、七月定例市会における市長提案説明によってこれをみると、「この税の趣旨を簡単に一言にして申しますると、京都市が名実ともに国際文化観光都市として恥かしくないような道路その他の施設を完成するために、京都の文化財などを観覧する人々に経済的な協力を求めようとするものである」と説明したうえで、京都市は、「消費大都市として経済力がはなはだ脆弱」で、加えて「財政もまた窮乏状態にあり、目下地方財政再建特別措置法の適用を受けておる現状である」ため、「国際文化観光都市としての諸般の施設に欠けるところが多いのみならず、道路その他の既存設備にあっては、荒廃をさえ懸念される状態にあります。従って、この際進んで、古文化財の保存については万全の施策を講ずるはもちろん、道路、橋梁をはじめ国際文化観光会館など観光諸施設を整備して、名実ともに備わった国際文化観光都市を建設し、今後一そう内外の観光客に十分の便宜を供して、楽しく気持よく京都を観光できるようにいたしたい」と、その理由を説明している。
 
<経過の概要>

 経過の概要をみるならば、大きく分けて、まず構想のとりまとめ及び実現のメドの段階、市会審議の段階、自治庁の許可の段階、税条例実施の段階という四段階に分けることができる。直接的な発端は昭和三一年一〇月一三日で、この約半年の間にあらゆる動きが高密度に展開された。

▽構想とりまとめの段階△ 昭三一・四〜六
 昭和三一年四月下旬、高山市長は、拝観料等を対象とした税創設の考え方を記者会見で述べる。五月にはいって自治庁の意向を打診したうえ、五月二一日には一応構想がまとまる。こうした動きは早速社寺サイドを刺激することとなり、五月一九日には京都古文化保存協会は総会で「市民会館建設費をヒネリ出すためなら協力する」が「信仰対象に、無理な課税やこれに類似した措置をとることは絶対反対」との申し合わせを行い、以後、市側の作業の進展に対応して、反対運動を展開することになる。
 六月一〇日、市長は記者会見で、「できれば秋の観光シーズンから実施したい」とその具体的な構想を語り、その翌日から市会や関係方面に説明のうえ、六月二〇日には自治庁へ新税創設の協議書類を提出する。
 これに対して、古文化保存協会は、六月二三日の対策委員会で、@行政訴訟も辞さない、A有名二五社寺の一斉M拝観ストN断行、を決定し、翌二四日龍安寺、西芳寺を皮切りに拝観ストに突入するが、七月にはいって、市会での阻止を目標に、二五日から以降三か月にわたる本格的な一斉拝観ストに突入していく。そして六月末からは街頭反対ビラまきと反対署名活動が展開される。また七月四日には、京都府仏教会も反対を決定し、反対署名活動にとりくむことになる。そうして反対運動の展開を背景に、社寺サイドは、五日には文部、自治、大蔵の各省をはじめ、関係機関への反対陳情を行う。そして、日本宗教連盟、神社本庁、全日本仏教会は、ともに「観光施設税反対協議会」を設置するに至る。
 こうした状況に中で、七月七日には、自治庁の条件付き許可の方針が明らかとなり、追って七月一〇日付の「やむを得ないものと思料される」との自治庁次官通達が届くに至って、二〇日には七月市会への条例案送付となる。
 その間、市と社寺との懇談会が一八日に開かれたが、市側の内容説明に入れないまま収拾不能のうちに散会したという経過があった。これには、税創設に関する自治庁の許可方針が明らかになって以降、社寺側にも「協調的空気が強まり」、社寺側が「硬軟両派に分かれ」話し合いがつかなかったという事情もあったということである。

▽市会審議の段階△ 昭三一・七〜八
 市会で条例案が可決されると、いよいよ自治庁長官による認可をめぐる動向となる。市は、市会で条例案が可決されるや、同日、自治庁に対する「法定外普通税新設許可申請書」を府に提出し、その速やかなる進達を要請する。また同日、古文化保存協会は「凡ゆる機会を通じてその成立に反対する」との声明を発表、二〇日には、府知事に反対の陳情を行う。
 府知事の意見作成は「意外に手間どり」、府が自治庁に進達したのは九月一二日である。
 市が「許可申請書」を府に提出してから、府が自治庁に進達するまでの二六日間に、社寺サイドでは、府のみならず、自治庁長官をはじめとする中央関係方面への反対要請を展開する。また、九月一一日には、衆議院法務委員会で質疑が交わされている。
 中央では、文部省及び文化財保護委員会が反対の意見をもっていたが、九月二一日の閣議において、自治庁長官の許可方針が了承されるに至った。これに基づいて自治庁では、全日本仏教会及び神社本庁に対して、税創設にあたっての希望条件の提出を求めることになり、事態は実施を前提とした動きに転換していくことになる。
 全日本仏教会は、二四日、京都古文化保存協会と協議し、二六日には神社本庁とともに自治庁との間で、京都市への許可条件を示すとともに「関係者は社寺側をして京都市の同税施行に協力せしめるよう努力すること」との文書を取り交したのである。
 また他方では、河野農相の仲介斡旋があり、九月二八日、市側と社寺側、及び同相委嘱の代表者(坂内義雄、永田雅一)の三者会談によって、@市は指定社寺の実情を再検討すること、A市は信仰の自由を尊重すること、を条件についに妥結をみるに至る。そして同日の地方財政審議会では満場一致で許可を認定し、これを受けて、自治庁は、二九日、条件を付して許可するに至った。
 
▽条例の施行・適用の段階△ 昭三一・九〜
 市は、自治庁の許可を受けて、一〇月一日に条例を施行し、一〇月九日に京都市文化観光税規則及び条例適用期日を定める規則(一〇月一三日から適用)を制定、公布するが、実施に至る過程はなお曲折を経ることになる。京都古文化保存協会は、自治庁が税創設を許可するに及んで、九月三〇日、一九社寺懇談会で一連の経過を了承し、税創設に対する反対運動を一応打ち切ることにし、一〇月四日の臨時総会でその声明を発表することになる。
 こうして事態は、市と各社寺との個別話し合いに移行することになるが、九月末には、天龍寺、広隆寺、醍醐寺及び平安神宮で拝観スト解除となり、拝観料をとることが発表されるに至る。
 一〇月上旬は、条例実施に関する協力要請と税徴収への具体的な説明が社寺側に行われるが、清水寺、金閣・銀閣寺等一二寺院は連絡協議会を組織してあくまで反対していくことになる。
 市側では、八日から一二日にかけて一九社寺に対して条例による指定通知を行うなかで、一三日の条例適用日に徴税を開始したのは九社寺であった。他の寺院は指定解除を要求し、府にもそれを働きかけるなかで、府文教課の「文観税をかけるからには、社寺拝観は収益事業とみなくてはならない」という見解が出され、宗教法人に対する課税問題が再び起こるなどの経過があったが、霊山観音を除き、一一月末に至って拝観ストを解除することに意見が固まり、一二月五日市と一〇寺院とはついに覚書を交換し、解決するに至った。
 なお、霊山観音及び知恩院は、将来ともに拝観料を徴収しないことにより、条例による指定は三月一三日に解除されるに至った。
 以後指定社寺は逐次増加し、最終的には三一社寺となった。
 また、課税反対の有力な理由の一つとなっていた中学生に対する課税についても、三七年四月一日から非課税対象となった。
 
▽失効と新税制定の段階△ 昭和三八・七〜三九・七
 時限立法である文化観光施設税は、昭和三九年四月一三日から失効する。その失効後の対応について、昭和三八年の三月及び七月市会において、高山市長はその継続の意思を表明していたが、一一月に入って運営委員会に市長自身が出席して新税創設の意向を表明し、一二月一〇日に至って、市会総務委員会及び関係社寺に公式的にその態度を、すなわち@現行税は打ち切る、A新税として創設し、名称は改める、B単独条例(市税条例の中ではなく)とする、C五年程度の時限税とする、
を明らかにした。
 以後新税への切り替えに至る経過での特徴は、税制度の運営に関する運営協議会という市と社寺側との共通のテーブルが存在していたことにより、これがパイプ役となって、市と社寺側との話し合いが組織的にすすめられたというところにある。
 しかし、話し合いそのものは容易にまとまらないまま、市は、三九年二月二四日、「京都市文化保護条例案」を市会へ発送、三月予算市会の審議に付すことになった。
 ただ社寺側は、今回の場合、早くから賛否両論に意見が分かれ、まとまりをみせていなかったために、市会で議案審議されること自体に関してはやむを得ないとの態度であった模様である。
 新税創設に強固に反対したのは、六親会及び月曜会(注)の一一寺院であり、これらの寺院では、四月
一三日の旧税失効をまって、その税額と同額の拝観料を値上げするに至る。いずれにしても、以後、この一一寺院と市との交渉、やりとりが展開されていく。
 (注)六親会ー鹿苑寺、慈照寺、妙法院、清水寺、西芳寺、龍安寺
    月曜会ー広隆寺、仁和寺、大覚寺、天龍寺、退蔵院
 市会では、三月二五日に普通予算特別委員会で可決、同二七日に本会議で可決するに至り、これを受けて、市は翌二八日、自治大臣宛の許可申請書を府に提出するが、蜷川知事は、三一日の記者会見で、申請書保留の見解を明らかにする。これによって、旧税の期限切れの日に新税が接続することは自動的に不可能となった。しかし、四月三〇日になって、知事が市長を訪問、翌五月一日、「観覧に対して課税することは、不適当」であり、かつ「社寺側との円満な解決を待たずに本税を強行施行することは、文化財保護ならびに京都観光に重大な支障を及ぼすことが懸念され」るが、「国の助成ないし財政上の措置が必ずしも十分でない現在においては、本税の新設を必要とする京都市の主張もまた財政的には止むを得ないものと思料される」との副申書を添えて自治省へ進達するに至った。自治省ではこれを受けて六月五日に許可することになった。
 自治省の許可後、一一寺院と市との話し合いは六月から七月にかけて再三、再司続くのであるが、そうした過程で、六月二三日の一一寺院に対する市長「懇請文」の中で、「こうした税を再び延長しない態度」が明らかにされる。
 七月中旬になって、清水寺を除く一一寺院は「市民への責任も考え、大乗的な見地にたって、基本的に実施には協力する」との態度に傾き、追って、下旬には清水寺も責任役員会で協力を決定、七月二六日に一一寺院と市との懇談会が開催され、新税問題は解決するに至った。
 新税の運営委員は、鹿苑寺、平安神宮、清水寺、妙法院、西芳寺、龍安寺に、新税の実施は九月一日となった。
 
  旧税の経過の要点と問題点
 
<制定過程の要点>

税徴収に伴う収支及び事業計画  税創設構想に伴う収支及び事業計画は次のとおりである。
(昭三一・六・二八市会提出資料から)
▽収支計画(昭三一・九・一〜三九・三・三一)
 歳 入       一〇〇、八七五万円  歳 出       一〇〇、八七五万円
  税 収       六六、八七五万円   事業費(事項参照) 五六、五九〇万円
  起 債(会館建設) 三三、〇〇〇万円   公債償還費     四二、八八九万円
  事業収入       一、〇〇〇万円   観覧券印刷費等事務費 一、三九六万円
▽事業計画       五六、五九〇万円
  観光施設の整備(道路 七、九五〇万円
  橋梁、公衆便所等)
  観光財の保存     一、四〇〇万円
  観光資料館の設置   二、二四〇万円
  国際文化観光会館の建設
            四五、〇〇〇万円
                    
社寺側の反対理由  社寺側の主な反対理由を次に紹介する。
▽京都古文化保存協会の市会議長宛陳情書(昭三一・六・一三)から
「目下市長が計画中の観光会館建設等に対しては、協力を惜しまないが、宗教法人法の真意、並びに古文化財の完全なる維持と管理の責任遂行に離反するが如き、課税には絶対反対する」として次のような反対理由を掲げている。
@社寺拝観は古来宗教行事の一つとされ、宗教法人法においても認められているので、課税の対象となるべきものではない。
A免税地域たる社寺境内に於て、徴税を行なうことも法の精神に反する。
B観光者と信者(または信者たらんとする者)とに拘らず、すべてが課税対象とされることは、信教の自由を阻害する。
C法の定むるところにより、指定文化財所有者は、公開すべき義務を有するので、社寺拝観は、文化財公開という立場からすれば、博物館と同性質のもので、従って拝観料は課税の対象とはならない。
D観梅、観桜、諸大祭その他観光行事は、すべて除かれ、社寺古文化財の拝観のみが課税対象とされ、本来観光業者ではない社寺のみが徴税義務者とされているのは、観光税の名に全くふさわしくない。
E観光者の七割は修学旅行生であるが、これも亦課税対象とされている。
F京都市が国際観光都市たり得るのは、古社寺の存在が主要な地位を占めているからであり、観光税の名にかくれて社寺拝観料を課税目標とするが毎きは、市存立の根源を荒らすものといわ ねばならぬ。
G観光道路の整備、古文化財の保護、観光会館の建設等の施策に要する財源を専ら観光税のみに求めるのは、果して妥当か。
H本市に対する観光客の悪評を恐れる。
I市理事者は、近時一、二の社寺の不祥事を露取り上げて、懲罰的に課税措置に出ているのではないか。
J市理事者は、納税義務者が社寺ではなく観光客である点、前記一、二の社寺の不祥事、文化保護の平均化等を誇大に強調し、与論をあふって、これに反対する社寺等に批難の矢を向けしめているかの感がある。
▽京都古文化保存協会の市長宛文書(昭三一・七・一五)から
@社寺の参拝者を課税対象とすることは、不法である。
A宗教法人を徴収義務者とすることは、不当である。
B義務教育の生徒児童に課税することは、学校教育の一環を阻害する。
C観光施設税の客体を社寺のみに限ることは、不公平である。
D徴収義務者に擬している社寺に対し協議懇談を尽さず、一方的に徴収義務者たることを押付けるのは、不当である。
 
拝観スト  拝観料が課税対象としての条件であることから、拝観料の廃止ないし、参拝者以外の一般観覧者を拒絶することによって、課税の根拠を無くしてしまう行為を一斉にとったことを当時、“一斉拝観スト”と称した。
 古文化保存協会は、六月二三日、臨時観光税対策委員会を開き、観光施設税反対とともに「従前の社寺参観は単なる観光とみられたため課税対象となったことは遺憾であり、今後は宗教本来の面目を発揮し、参拝者中心のあり方に復元する」との決議を行い、幾つかの社寺がその実行に入った。
 七月二一日、京都古文化保存協会は臨時総会を開き、@拝観謝絶、A無料公開、B拝観の区域、時間、人数を制限した無料公開、のうちいずれかを七月二五日を期して無制限で実施することを決議した。これには全指定対象社寺(二条城を除く)が参加し、一〇月から一一月にかけての解決時期まで、いわゆる“拝観スト”は続く。

各省庁の見解  ▽大蔵省(昭三一・七・四 自治庁次官宛大蔵次官の意見から)
 京都市は、「財政再建計画実施中の団体であり」また、「観光都市としての特殊性にかんがみ、本税を創設することは、やむを得ないものと考える」としたうえ、再検討事項を次のように示した。
@社寺等は、その宗教法人としての特殊性にかんがみ、国税、地方税を通じて多くの特別な措置を受けている現状にかんがみ、本税の徴収方法についても、手続規定の簡素化をはかる等、徴税事務の負担を避けるよう、努める必要がある。
A税率については、観覧料等の額に応じた段階ごとに定額課税を行なう等についても検討されたい。
B観覧者が少いため、観覧料の納入額が名目のみに止まるような社寺等の観覧の非課税を考慮することが適当である。
▽自治庁(市の照会に対する昭三一・七・一〇 自治庁次長名の通達)
 「観光施設税が、主として観光財の保存のための財源、及び観光財の公開に要する施設の整備のための財源を得ることを目的とする限り、貴市の財政が余裕を持たない現況においては、文化観光都市としての貴市の特殊性にかんがみ、やむを得ないものと思料される」としたうえ、次のような意見を付している。
@本税の運営にあたっては、あくまでも観光施設の整備、観光財の保存等に要する経費に充てるよう、いわゆる目的税的運用を図ることとし、いやしくも、一般財源の不足に充当することのないよう、特に留意すること。
A右に伴い、本税は、観光施設の整備、観光財の保存等の事業が、一応の見通しを得るまで課する時限税とすること。
B課税客体に関する事項中、観光財が何らかの対価又は負担を求めないで無料で公衆の観覧に供するものとされている場合においては、当該観光財の観覧については、これを課税客体としないことが適当であること。また、観覧料が低額であり、かつ観覧者も少ないような施設についてまで課税の範囲を拡げることは、社寺の経済に及ぼす影響も考慮して、これを避けること。
C納税義務者に関する事項中、生徒児童については、観光財の観覧が、学校教育の一環として、その教材的役割を果していることにかんがみ、あらたなる負担を求めないようにすることが望ましいので、観光施設整備に要する費用ともにらみ合せ、可及的に負担の過重を来さないよう 努めること。
D観光財を所有し又は管理する者の多くは社寺等であり、社寺等が特別徴収義務者として指定されることが多いと予想されるので、社寺側の納得が得られるよう、事前に充分協議懇談を尽すこと。
▽文部省
 『京都市会史』等によれば、次のような反対意見であったとしている。
@修学旅行については旅館なども免税となっているのに、教室の延長ともみられる社寺で税を課すのは不当である。
A文化財保護法により文化財は公開せねばならぬが、これに対しては非課税が原則である。
B信者の参拝に対して課税するのは宗教活動の圧迫である。
C文部大臣の指定する博物館相当施設(西芳寺、龍安寺等)が含まれており、博物館に対する現行の国の助成対象と矛盾する。
▽内閣法制局(昭三一・九・一一 衆院法務委における答弁から)
○観光客に課税するようだから、すぐ憲法違反にはならぬと思う。
▽文化財保護委員会(前記に同じ)
○古文化財をできるだけ多くの人に見せてもらうという建前から、拝観料も廃止すべきだから、これ以上負担を増して、一般の古文化に触れる機会を狭めてはならない。

市会の修正と付帯決議  市会による条例案の修正点は次のとおり。
@信仰対象でもある施設に対して単に観光施設とみるが如く解されるおそれのある観光財などの字句を次のように修正。
  「観光施設税」を「文化観光施設税」に、「観光財」を「文化観光財」に、「観覧」を「観賞」に、「金品」を「対価」に改める等。
A教員引率の小学校児童の免税(同中学校生徒の四回以上の観賞の免税は施行細則中に明記)    B七年半の時限税であることを条例付則に明記
C指定観光財のうち、直接信仰の対象となり得る施設と一般に考えられる一部施設を削除。
   付帯決議(昭三一・八・一七)
 「教員の引率する義務教育過程の中学校生徒の文化観光財の観賞については、教育基本法の趣旨を尊重し、可及的速やかに免税措置を講ずるべきである。」

自治庁と全日本仏教会・神社本庁との文書了解(昭三一・九・二五 全文)
 文化観光施設税の施行については、京都市をして左記によらしめることとし、関係者は社寺側をして京都市の同税施行に協力せしめるよう努力すること。
              記
一 社寺がその観賞等について条例第百九十九条第二項にいう対価の支払いを求めていない「礼拝施設」が同条同項の別表に文化観光財として指定されている場合は、これを削除すること。二 左に該当する者の行為で、社寺が条例第百九十九条第二項にいう対価の支払いを求めるもの でないものは、第二百条第三項の規定により文化観光施設税を課さない範囲に加えること。
T定時の勤行に参加する信者で社寺側がその者を具体的に明確にしている者
U自己に関する読経、供養等に参加する信者で社寺がその範囲を明確にしている者 
V末寺等からの所謂本山詣りで、その範囲を末寺その他の証明により、社寺側で具体的に明確にしている者
W彼岸会、盆会、施餓鬼会、開山忌等社寺等の特別の宗教行事に参加する信者で、あらかじめ社寺側と市側と協議の上決定した日時において参詣する者
三 将来財源に余裕を生じたときは、その余裕財源は優先的に中学校の生徒も小学校の児童と同様に文化観光施設税を課さないものとすることとし、その減収の補填に充てるようにすること。
四 社寺から文化観光施設税の特別徴収義務者として、当該社寺たる宗教法人の経理責任者を指定するよう申し出たときは、これを特別徴収義務者として指定すること。
 
自治庁の許可(昭三一・九・二九)
 「昭和三十一年八月二十日付で申請のあった市町村法定外普通税文化観光施設税の新設については、次のとおり条件をつけて許可する。」として、以下、仏教会・神社本庁との文書了解と同趣旨の内容を条件として付している。
 
社寺と市の覚書及び共同声明
▽覚書(昭三一・一二・五)
 京都市文化観光施設税条例の実施については、各社寺は可及的速やかに拝観料を復活すると共に同条例の適正円満な施行について協力するものとし、京都市長は左記事項を尊重し、もって京都市文化観光施設の整備に要する財源確保を期するものとする。
              記
一 本条例の実施にあたっての疑義については、可及的速やかに修正に必要な措置を講じ、これを明確にすること。
二 本条例運営にあたっては社寺の宗教法人たる特殊性に鑑みその自主性を尊重すること。
三 文化観光財の指定の解除を申請する社寺については、調査の上、速やかに措置すること。
四 本税の使途については、文化観光財の維持管理等に要する経費の財源に充当するようできるだけ考慮すること。
五 文化観光施設税の実施に伴って法人税等の課税問題が生じた場合は、これが解決のため社寺と協力して対処すること。
六 教員の引率する中学校の生徒については、可及的速やかに免税の措置を講じること。
▽共同声明(昭三一・一二・五)
   観光税問題解決に当たって 
 京都市文化観光施設税の新設について京都市と社寺との間において図らずも見解の相違を来し久しく対立状態を続けて世論の批判を受けたことは甚だ遺憾とするところであります。
 このような事態に立ち至ったのは本税が前例のない全く新しいものであったため宗教法人である社寺の特殊性の配慮において万全でなかったことと本税施行に際してそれぞれ協議懇談が遂げられなかったことによるところが大きかったものと考えられます。このことに鑑みその後屡々話合を重ねて本税について検討し忌憚なく意見を交し真摯に解決を図りました結果市側は社寺の宗教法人としての特殊性を諒承し宗教の権威と信仰の尊重とを重んじて善処することとなり社寺は京都市の文化観光都市としての立場を理解し本税新設の趣旨を汲んで協力することを覚書を取り交して約するに至りました。
 ここに両者は従来の行きがかりを捨て相共に携えて京都市発展と社寺本来の使命達成とに努めもって社会の福祉に貢献せんことを期するものであります。
 
宗教法人に対する課税問題  社寺の税創設反対理由の根底に、当初から、それが宗教法人に対する課税の突破口になるのではないかという危惧の念が強くあった。
 それが、税適用の昭和三一年一〇月一三日になって、府文教課が「文化観光施設税をかけるからには、社寺拝観は収益事業と見なくてはならない」と徴税をはじめた社寺に勧告するに至って具体的な問題化した。
 そこで、市側は、自治庁及び大阪国税局に照会し、その危惧は解消するところとなった。
 一〇月二五日の文部省調査局長の回答では「社寺の宗教施設を拝観又は観覧させることをもって、直ちに同法(宗教法人法)第六条第二項(収益事業)に該当する事業を行うものとは解せられない」との見解を得た。
 また同日の、「固定資産税等の取扱い」に関する自治庁税務部長の回答では「境内地及び境内建物については、それが観覧に供されている場合においても、宗教法人がもっぱらその本来の用に供するときは……固定資産税は課することはできない」、「宗教法人が境内建物又は境内地を有料で観覧に供することは、通常当該施設の維持保全のためのものと解されるので、……収益事業には該当しない」との見解を得た。
 一〇月二七日の「法人税との関係」に関する大阪国税局長の回答では「社寺の拝観料収入は、……法人税の課税の対象にはなりません」、「社寺の拝観料収入は、文化的価値を有する社寺の維持保全を図ることを目的として徴収するものと解されますので、若し社寺が、拝観者を誘致するために新たに遊技、娯楽施設を設けたときは、収益事業に該当する場合もありますから、この点、社寺側においても誤りが無いように」との見解を得た。
 
<新税切替過程の要点>

新税に対する市の考え方
 (昭三九・三・一二 各社寺宛の市長名による新税への協力依頼状から)
○ 新税の考え方
 このまま推移すれば、大都市の現実に押しやられてなくなりかねない京都の文化伝統、自然景観など、いわゆる「京都の良さ」を日本の立場から護るために、社寺に国際文化観光都市としての京都市の立場を理解していただき、市は行政を通していろいろな施策を行ない、またこれを享受する観光客から応分の負担をねがうことによって、「自らの手で護る」という姿勢を明らかにするものである。
○ 新税の名称について
新税の名称は、創設の考え方や使途の方向を明らかにするとともに、納税者がその負担の意義
が解るように、文化保護特別税とする。
○ 新税の期限について
 新税の期限は、五年限りとし、再び延長しない。
○ 新税の使途について
 新税の使途については、徴税費を差引いた純収入額の半分以上を文化財など社寺全般が利益を受けるような支出に充て、残りを市が文化伝統を護るために行なう行政に必要な直接間接の経費に充てる。 
 とくに、特別徴収に伴う事務費に相当するものとして、従来交付していた活用補助金は大幅に増額し、税収入の割合に応じて配分する。
○ 本税の実施については、すべて法律関係でことを律しようとする考え方は極力これをさけ、京都の文化、伝統を守るために、社寺と市が手をたずさえて、大乗的に協力する体制を望んでいるものである。
 
府の進達意見(昭三九・四・三〇)
 昭和三九年四月三〇日付自治大臣宛府知事進達文書における、「税実施の場合における配慮点」は次のとおり。
一、京都市文化保護特別税条例の運営にあたっては、信教の自由を守る立場にたって処理すべきであり、課税免除その他市長が定める事項等については、この原則のもとに社寺側の理解と協力を確保するよう善処すべきである。
二、指定社寺以外の社寺における観賞等について対価を徴しているものについては、本税の適用と負担の公平の見地から速やかにすべて指定すべきである。
  なお指定社寺において、観賞等に対価を徴しなくなった場合においてもその実態に応じて適切な措置を講ずるよう配慮すべきである。
三、本税による収入の使途については、本税が文化観光施設税の延長ではなく、新たな事態に基づく新税の創設であるという、市の見解からも、文化財保護ならびに文化財の観賞に直接関連する施設の整備の財源に充当すべきである。
四、本税は、五年の時限を付しているが、文化財保護行政そのものは、単に五年という時限的な ものではないと考えられるので、この間、政府において文化財の維持管理ならびに観光行政推進上、必要な財源措置を講じられることを特に強く要請する。
 
自治省の許可書(昭三九・六・五)
 新税(文化保護特別税)の新設申請に対する自治省の許可は、昭和三九年六月五日、条件を付さずに、申請のとおりなされた。
 ただ、今回は、市長宛の自治省税務局長による通達が次のとおり同日付けで出された。

    市町村法定外普通税「文化保護特別税」の新設について
 標記のことについては、昭和三九年六月五日自治許第三五四号をもって申請のとおり許可指令されたが、本税に係る条例の施行にあたっては、下記について留意のうえ遺憾のないよう措置されたい。
              記
一、文化保護特別税に係る条例の実施にあたっては、関係者との連絡を密にし、その充分な理解と協力を確保することにより、本税の円満なる実施をはかるようにつとめること。
二、本税によって指定される文化財の範囲については、常に文化財の観賞に伴う対価の支払の実態等を適確に把握して、適切な措置を講ずることにより、本条例の適正な運用を期すること。
 
一一寺院と市との覚書(昭三九・七・一一)
         覚   書
 京都市文化保護特別税の実施に当たっては、社寺は市の同条例の適正円滑な施行について協力し、市は社寺の宗教法人としての特殊性を尊重することによって、所期の実を挙げるべく、市と社寺との間に左記の事項をとり決める。
T 本条例第三条中「市長が定める」という表現は、内容の制定を規則に委任するという意であり、この規則の内容制定に当たっては、社寺の意向を十分尊重して定める。
U 本条例実施の過程において生じた、疑惑または運営上の不都合な点については、両者の協議によって、速やかに修正の措置を講ずる。
V 社寺から本税の特別徴収義務者として指定するよう申し出たときは、市はこれを認める。
W 本税の徴収によって得た財源の使途については、可及的に文化財の保護に充てるほか、これの使途及び管理運用の方法等については、社寺の意見を尊重する。
X 本条例の実施につき、市と社寺と協議する必要があるときは、関係社寺の代表と市の関係者からなる運営委員会で協議の上決める。
Y 文化保護特別税の期限は、本条例適用の日から五年限りとし、期限後において、この種の税はいかなる名目においても新設または延長しない。
   京都市長
寺院側・妙法院門跡 清水寺貫主 慈照寺住職 鹿恩寺住職 龍安寺住職 仁和寺住職
     大覚寺門跡 天龍寺住職 西芳寺住職 広隆寺住職 退蔵院住職
 
実施に当っての市の基本方針(昭三九・七・三一)
 昭和三九年七月二八日、三一社寺代表との懇談会で、配布、説明のあった京都市の実施方針は次のとおり。
 京都市文化保護特別税の実施に当っては、市は社寺の宗教法人としての特殊性を尊重することを基本的態度とし、これが実施運営については、とくに下記の点に留意することによって、所期の実を挙げるべく努力いたしますので、社寺におかれても、同条例の適正円滑な施行についてご協力を願います。
              記
T 本条例第三条中「市長が定める」という表現は、内容の制定を規則に委任するという意であり、この規則の内容制定にあたっては、社寺の意向を十分尊重して定める。
U 本条例実施の過程において生じた疑義または運営上の不都合な点については、両者の協議によって速やかに修正の措置を講ずる。
V 社寺から本税の特別徴収義務者として、当該社寺に関係する経理責任者を指定するよう申し出たときは、市はこれを認める。
W 本税の徴収によって得た財源の使途については、可及的に文化財の保護に充てるほか、これの使途及び管理運営の方法等については、社寺の意見を尊重する。
X 本条例の実施につき、市と社寺と協議する必要があるときは、関係社寺の代表者と市の関係者からなる運営委員会で、協議の上決める。
Y 文化保護特別税の期限は、昭和三九年九月一日から五年限りとし、期限後において、この種の税はいかなる名目においても新設または延長しない。
 
  今後の課題との関連において
 
旧文観税の終焉  文化保護特別税は、昭和四四年八月三一日でもって期限どおり終焉した。しかし、その一年前に、その前年に就任した富井市長は「税の継続は(約束どおり)考えていないが、期限切れ後は、税収に見合う額をM協力金Nといった別のかたちで、関係社寺に協力をお願いしたいと思っている」との考え方を記者会見で述べている。こうした考え方はその後も市会やその他の場でそれなりに表わされてきたが、終了の直前にも、「社寺側との折衝の中から生れる、何らかの形での文化財に対する協力をお願いしたい」というような形で示されていた。
 京都市が、旧文観税の終焉によって、それに代わる協力金のような形のものを社寺側に期待したのは、一つには、年間一億数千万円の税収がなくなるという現実的な問題、二つにはそれに反し文化財の維持保存等の経費は継続しなければならないという問題、三つには、過去二度にわたる税設置にあたって、社寺側からは、寄付金であれば協力する用意があるといった趣旨が述べられてきたということがあったからである。
 税の期限切れ後、それとは全く異なった次元の発想のもとに昭和四四年一二月一日、京都市文化観光資源保護財団が設置され、今日(昭和五七年頃)、一〇億円を超える民間からの募金を基金とした運用金でもって、四大行事の執行や未指定文化財の保存修理に対する年間七千万円前後の助成措置を行っている。同財団の基金には、社寺もその募金に応じ、その総額は一億円を超えている模様であるが、反面、社寺側が受ける同財団からの助成措置は年間少なく見積もっても二千万円は超えており、これに指定文化財に対する市の修理助成を加えれば、三千万円は超えることになる。こうしたことから、同財団に対する社寺側の位置は、行政サイドからこれを見た場合には、助成対象ではあっても十分な協力者たりえていないと受けとめられている。
 これに対して、社寺側としては、協力金の問題は、かつての税創設時の問題であって、税の期限が切れて終焉した以上、「今更」そうした考え方を持ち出すべきことではないという見解となる。
 こうしたことから、税としては終焉していたけれども、それなりの問題は、根底においてくすぶり続けていた現実は否定できない問題であった。
 
京都策を求めて  ひとり税のみをとらえて、その新設の是非を問うならば、それは新設をしないにこしたことがないのは当然である。問題はそうした財源を必要とする全体的な需要を含めた問題の捉え方いかんにある筈である。
 今回京都市が打ち出している「文化観光」税の是非についてここで論評を加える用意はないが、その賛否をめぐる論議が、将来の京都市のあり方にとって、建設的な方向で高まるのであれば、いずれにしてもきわめて歓迎すべきことであると考えられる。ここでは、この稿を結ぶにあたって、そうした視点からの二、三の問題点を提起してみたいと思う。
 その一つは、文化財ないし文化遺産の維持保存の問題である。この文化財が、質量ともにケタ違いの形で京都に存在し、しかもその多くが社寺の施設ないし所蔵物としてある。こうした文化財は、他面では観光財であり、また他面では宗教的対象物である。宗教的対象としては第三者のかかわる問題ではないが、しかしこの面と特に観光財としての側面においては、文化財は、いわば消費される過程である。
 歴史の過程をたどって今日まで伝えられてきた文化財は、当然のこととして我々の時代で消耗させ、消費し尽くしてはならない。文化財を観光財として提供したとき、それは恐ろしいほどの損耗を受ける。そのために、文化財を後世に継続して残すためには、常に手厚い補修の手を加えなければならないし、そのための経費はまた厖大である。また補修にも限度のある場合、その観光財としての提供ないし公開は、きわめて限定された範囲内に限らなければならない場合も多い。
 今回の税創設の是非をめぐる論議の中で、あたかも“文化財はただで見てあたりまえ”的な意見が散見されることに対して、税の是非とは別に、とにかく、“文化財を見るには経費が要る”という大前提だけはこの際確立してほしいというのが率直な問題提起の第一である。
 その二つは、京都市の都市性格とその財源の求め方である。日本の政治と文化の中心として一二〇〇年に近い歴史的蓄積をもち、加えてなお現代における大都市として成立している京都のような都市は、少なくとも国内にはその例はない。
 その歴史的蓄積の重みゆえに、現代的な大都市としての諸機能の確立に不自由な面が少なくなく、他の大都市と比較して大きなハンディを背負っている場合が少なくない。とりわけ、経済、財政的な面ではその感が強い。
 今我が国は、第二臨調、行政改革ムードにおおわれているが、これとても京都市の場合すでに経験済である。昭和三一年度から三六年度にかけて、財政再建団体の指定を受け、自治省(庁)の監督の下に、徹底した減量経営を行い、結果、そのひずみが今なお存続しているむきもある程であってみれば、今日に至るも基本的にそのぜい肉たるものはほとんどないといえる。その原因は、昭和二〇年代後半における財政悪化による累積赤字の増大であった。
 戦後地方税制が確立される中で、他の指定都市は財政基盤が確立してくるとき、大都市の中でひとり京都市が、その経済力の弱さと古都としての性格から税収不足に陥っていったのである。今日の状況は、多少当時のそうした状況に類似しなくもない点もみられる。
 そうした京都の財政、経済事情は、京都市が、日本の歴史的文化遺産を抱え維持していく限り避けられない面があり、そうした面は、ひとり京都市の問題ということではなく、国策として京都をどう捉えるかの問題が根底になければならない問題である。
 よく例に紹介される明治期京都の近代化策にしても、それは京都自身のエネルギーが発揮されたものであることはもちろんであるが、その基礎に、国の支えが強く働いていたことにみられるように、歴史の京都の絶えざる再生には、国策としての京都策が常に働いていたのである。この国策は、政府だけというように狭く捉える必要はなく、むしろ国民的といった捉え方が今日ではより要求されることであろう。
 現在、国策としての京都策はきわめて乏しい。それだけに、それを引き出す過程もまた容易ではない。京都の維持・保存或は新たな発展は、それにもかかわらず日々の問題として存在している。そうした意味で、京都の歩み方、及び歩む過程の問題、すなわち、京都の今日の問題と明日の問題とをともに含んだ京都のあり方の問題として議論が展開されることを望みたい。
 そうした点から、その三の問題として、「文観税」論議は、市と社寺という狭い当事者間の問題としてではなく、京都のあり方をめぐる問題の一コマとして、ひろく市民的な論争として建設的に展開していくことを期待しているところである。
 注・本稿では、『京都市会史』、「京都市会議事録』、『京都市会旬報』、『京都の歴史』(第九巻)、その他関係資料、文献を参考とするとともに、当時の幾人かの関係者からご教示を得た。

 

     二 古都保存協力税構想と京都市財政の課題
                                                     (一九八四年一二月)
  はじめに
 
 京都市における「古都保存協力税」問題は、同税条例案が市議会で可決されて以降もなお、対象社寺の反対が強烈で、京都市がようやく自治省に許可申請書を提出するに至ったのは、条例可決後一年半を経過した本年(一九八四)七月であった。その間、対象寺院による条例無効確認等の訴訟が京都地裁に提起され、本年三月三〇日には寺院側全面敗訴の判決が出されたが、さらに大阪高裁への控訴により、法廷上の係争事件となっている。
 このように、同税に関する舞台は、一方では法廷上の違憲論争を背景としつつ、現在、自治省の許可いかんをめぐる攻防の段階にある。
 本稿では、このような軋轢があって、なおかつ同税を実現しようとしている京都市の行財政事情と都市・京都市の特殊性について主として明らかにするよう努めてみたい。
 
  1.京都の都市性格と財政事情
 
 京都市にとって、「古都保存協力税」構想は、名称を異にする類似のものをあげるならば、今回がはじめてではない。昭和三一年一〇月から三九年四月にかけて、および昭和三九年九月から四四年八月にかけての二度にわたってすでに実施をみたものであった。これによれば、今回は三度目となる。
 時限的な税とはいえ、このように三度に及ぶということは、京都市の都市性格からくるところの財政構造と行政需要の特殊性に起因するものといわなければならない。
 経済、財政的な側面からみた京都市は、「消費都市的大都市」であり、その財政規模は「中都市並」であるにもかかわらず、大都市としての行政需要に応えていかなければならないという基本的な矛盾を抱えてきた。
 戦後地方財政制度が確立されてくる中で、そうした京都市の財政基盤の弱さは具体的に顕在化し、市税収入の低さ、とりわけ固定資産税の低さから、慢性的赤字状態に陥り、昭和二九年度には累積赤字約一九億円に達し(市税収入の四〇%強に該当)、昭和三〇年度には財政再建団体の指定を受けるに至った。京都市が、通称「文化観光税」に着手したのはその直後である。財政再建計画は昭和三六年度に全うし、その後の高度成長期において、逐次京都市の財政事情も好転するが、昭和四〇年代後半には再び財政ひっぱく感が現われはじめ、昭和五〇年代に入るとそれは具体的なものとなり、常に赤字の線上をさまようようになる。今回の「古都保存協力税」構想は、こうした時期に打ち出されたものである。
 京都市の税財政構造の弱さは、今日に至るもほぼ同様の傾向を示しており、昭和五七年度の比較でも、市民税の水準は指定都市中低位にあるが、とりわけ固定資産税は最下位である(表−1)。過去にさかのぼればその度合いはさらに高くなるのであり、市税に占める固定資産税の比率を六指定都市中においてみると、昭和三九年度では、最高は北九州の五三・九%、京都市を除く最低は名古屋市の三五・六%で、京都市はそれよりはるかに低い二八・三%にすぎない(表−略)。
 こうした固定資産税の低さに象徴的に現われた京都市税財政の構造的な弱さは、京都市が歴史都市であり、かつ第二次世界大戦で被災しなかったために、老朽化した家屋や建物が多いことのほかに、固定資産税の対象外となる社寺境内地などの土地や建物が極めて多いことにもよるものである。
 他方、行政需要をみるならば、京都が千年の都であったがゆえに日本を代表する観光地となり、多くの文化遺産を維持しなければならないが、同時に、現代に存在する大都市として、現代的都市機能の整備にもられている。この保存と再開発の同時併行的な推進は、そのこと自体が極めてむずかしく困難な事業であるばかりでなく、他都市では考えられない多額の経費を必要とするのである。
 すなわち、歴史的な文化遺産を擁することによって生じる財政需要は、文化遺産の保存経費や観光対策としての地域整備等の直接的なものにとどまらず、都市再開発に極めて多くの時間と経費が要求される。一例をあげれば、京都の市街地は、古代平安京域の上に、歴史的に連続して今日に至る大都市を形成してきた、世界的にも稀有の、遺跡の上の現代都市である。したがって、京都の市街地では、どこを掘っても必ず埋蔵遺跡があるといわれ、建物の建替、建設には、必ず事前の発掘調査を必要とする。いつ着工できるかは掘ってみなければ分からないといった類のケースは枚挙にいとまがない。
 さらにより一般的な原理として述べるならば、都市を建設、あるいは再開発するにあたっては、新たなる土地を求め、ないしは既存の用地を更地にすることが最上策にほかならないが、京都市における再開発にあたっては、既存の用地を更地にすることは極めて困難であり、絶えざる再調整を積み上げることによってそれを実現するという方式をとらざるをえない。そこには、個々の文化遺産の保存にとどまらない、全体としての都市そのものの一定の保存という課題が、現代の大都市でありながら、なおかつ重くのしかかっている。
 もちろんのこと、個々の文化遺産の量もまた尨大である。国宝を含む重要文化財の件数一、六一九件(内国宝二〇一件)は、国宝で全国の約二〇%、重要文化財で約一五%を閉めている(表−略)ばかりでなく、それらに匹敵する未指定文化財はまさに無尽蔵である。
 文化遺産は、京都市にあっては点としてではなく、面的広がりにおいて存在しており、これは、一面では市民生活の圧迫要因ともなっていて、文化遺産と市民生活との調和をどう確保していくかは、今後の重要な課題でもある。

  2.旧税とその経過(略)

  3.古都保存協力税構想
 
 古都保存協力税は、その形式において新税の創設ではあるが、その税の実態においては先に紹介した過去二回の「文化観光税」と同種のものである。したがって、行政的には、税それ事態に関する法制上の判断基準は明らかである。問題となるのは、宗教界を対象とすることの現実的な重さと、「期限後において、この種の税はいかなる名目においても新設または延長しない」という過去の覚書の存在に対する評価である。

新税創設への動機と背景  今回の古都保存協力税構想が出てきた背景は、旧税が創設された昭和三〇年初頭における場合と極めて近似している。赤字の規模こそその当時には至っていないものの、一般会計決算額は、昭和五三年度二億円余の赤字、五四年度は財政調整基金の取崩しでかろうじて収支均衡、五五年度は一五億円余、五六年度は約二七億円、五七年度は約一六億円のいずれも赤字となっていて、先にも述べたように、昭和五〇年代の京都市財政は常に赤字線上を歩む、構造的な財政悪化に陥ってきている。
 一方都市づくりの面においては、都心部の過疎化現象と、周辺部の過密傾向の中で、都市経済機能の低下が現われはじめ、新たなる京都活性化をめざしての大胆な都市再開発が課題となりつつあり、これが、昭和五三年一〇月の世界文化自由都市宣言、および昨今その検討作業が続けられている、一〇年後の平安建都一二〇〇年記念事業構想となって現われている。こうした特殊京都的な都市づくりの課題と財政悪化は、国際文化観光都市建設法を制定しつつも、財政悪化のために容易にその事業が達成されなかった昭和二〇年代後半から三〇年代前半にかけての事情と、その本質において同様である。
 こうしたことから、新税の主要な使途についても、文化財保護や文化観光都市としての基盤整備、建都一二〇〇年記念事業における財源の一部等に充当する計画となっている。

新税構想の内容  昭和五三年三月一三日の市議会における議員質問が今回の新税構想の発端であるが、同年七月二七日、市長は「文化観光税」復活検討の指示を明らかにし、八月一九日に至って新税構想を発表した。そこでは、新税の趣旨について、二一世紀を展望した国際文化観光都市として飛躍すべき課題を担いつつも、財政危機に直面している現状を指摘し、「このような観点から、京都市は社寺などの方々が有料で観賞させている文化財を観賞される方々に応分の負担を求める新税を創設したいと考えています。申し上げるまでもなく、京都市にある歴史的、文化的遺産は、ひとり京都市民だけのものではなく、全国民の資産であります。したがって、京都の文化と伝統を守っていくために必要な経費の一部を、それらを享受する観光客の方々にも広く分担していただくことは十分根拠のあることではないかと考えております。」(昭五七・八・一八京都市「新税の創設について」)と述べている。
 新税は、名称を「古都保存協力税」として、その条例は五八年一月一八日、市議会において即決されており、同条例および市会説明資料から、構想の主要内容を紹介することにしたい。

<古都保存協力税>
条例の名称 京都市古都保存協力税条例
条例の実施期間 施行の日から一〇年
税創設の目的 京都市固有の歴史的かつ文化的な資産の保存、整備等の施策の推進に要する費用等に充てるため
課税対象 文化財の観賞
納税義務者 文化財の観賞者
税   率 一人一回の観賞について五〇円(小・中学生三〇円)
文 化 財 条例別表に掲げる社寺等の敷地内に所在する建造物、庭園その他の有形の文化財で、拝観料その他何らの名義をもってするを問わず、その観賞について対価の支払いを要することとされているものをいう。
指定社寺の数 四〇
課税免除、徴収方法等は旧税にほぼ同じ。
徴収税額および使途 京都の文化・伝統・自然景観などを後世に伝え、名実ともに兼ね備えた国際文化観光都市として整備するための各種施策の目的税的財源として使用する。総事業費は四四〇億円、内新税充当額は九二億円。

課題と展望  昭和五七年(一八八二)八月一九日に新税構想が発表されて二年余、五八年一月一八日に市議会で条例が可決されてからもすでに二〇カ月を超えた今日、なお、対象社寺との話し合い解決はその展望を見い出し得ていない状況にある。
 社寺側の足並みは、当初から必ずしも一律ではなく、それなりの矛盾を内包しているとはいえ、仏教組織によるいち早い反対運動の展開によって、市と仏教会は互いに一歩も譲らない状況となっているが、とりわけ、法廷上の係争事件となっているのが今回の特徴である。これは、「名目のいかんを問わず再び実施しない」という過去の覚書の問題もさることながら、この種の税の恒常化への危機感と、宗教法人に対する課税問題が、より根本的な問題として、仏教会側に存在しているからであるといえよう。
 新税とはいえ、税制度としてはすでに過去の事例から、その許可が得られないケースのものではない。問題の基礎は、あくまで宗教界という、いわば超法規的存在との関係にある。この問題は、宗教上の違憲論争であるかぎり、行政と宗教界との折れ合いはおそらくつくことはない。その解決は、あくまで、都市行政と都市に立地する者としての社寺という、都市における実態上の関係においてなされない限り、おそらく困難であろう。
 その点に関して述べるとするならば、それは、京都のまちづくりにおける文化観光資源としての社寺の位置と役割の問題に帰着するのであり、それについて、少し広義に幾つかの点を指摘し、本稿の結びとしたい。第一点は文化観光資材としての社寺の側面、第二点は、宗教法人もまた京都市民であること、第三点は観光と文化財保護との関係、第四点はナショナルレベルからの京都の保存策の必要性についてである。
 まず第一点に関し、社寺と行政との関係はいうまでもなく宗教上の問題としてではなく、あくまで「世俗上」の接点においてなされなければならない。これは、都市との外形的な接点ということもできよう。それは、社寺の所有する文化財が、基本的には宗教施設や信仰対象でありながらも、文化財保護法による、あるいは自治体の指定文化財等として、その保存修理助成を受けている関係、およびそれらの文化財を含む社寺全体が観光対象ともなっていることに現われており、「古都保存協力税」問題は、あくまでこうした側面において捉えなければならない。
 第二点は、第一点とも関連し、社寺がいかに超法規的存在であり、また近代行政の確立以前からの古い歴史をもっているものであるとしても、現在そこに立地している都市および都市行政と無関係にはありえないということ。すなわち、その都市の法人市民として、都市に寄与しつつ、また都市によってその立地基盤を確保しうるのである。参拝客や観光客は、俗世の人間であり、現代的な都市機能を要求しており、その参集には、それなりの都市整備を必要とするからである。
 第三点の観光と文化財保護との関係を端的にいえば、経済的な「消費と生産」の関係にたとえることができる。文化財は、観光資材となることによって消費され、損耗を受けるのであり、観光によって得られた代価の一定割合は、損耗した文化財の再生産、すなわち保存修理に充てられなければ、近い将来、文化財は消費されつくしてしまうことになる。これは、観光費用の原価は、広義の観光資材の維持費であるといえるからである。
 第四点は、国策としての京都策樹立の必要性である。冒頭にも述べたように、京都の古都としての保存を図りつつ、現代的な大都市機能を備えるには、他都市では例をみない高いコストを必要とする。地元京都の経済コストの効率性からは、保存にとらわれずに、地元の意思のみによって自由に開発行為を行うにこしたことはない。古代以来、とりわけ近世における歴史的文化遺産の宝庫としての京都の保存は、ナショナルなレベルからこそはかられなければならないが、これには、国民レベルによる方式とともに、国策としての京都の保存策が必要となる。
 千年の古都としての京都には、明治期に至るまでは国策としての京都策がそれなりに存在してきた。しかし、東京遷都以降、京都も地方都市化の道を歩み、とりわけ戦後の過程はその感が深い。近世では日本最大の工業都市であり、かつ観光都市であった京都は、近代ではなお東京、大阪とともに三都を構成してきたが、戦後は、五大都市の低位に、さらに今日では一〇大都市の低位にというように、経済力をはじめとした都市能力を低下させてきた。かつて都として存在してきた京都が、一地方都市となることによってその相対的な地盤を低下さすことは当然であるとはいえ、日本の中心的な歴史文化の集積地である京都の荒廃化は、やはり、国策としてそれを止める必要があろう。現代の京都は、そうした国策としての京都保存策が極めて不十分な段階における過程にあり、古都保存協力税は、そうした過程から生まれた一つの打開策の方向を提示するものであるといえよう。
 京都保存の必要性は、京都以外から常に指摘されるところである。しかし、誰が、いかにして保存するかはあまり語られることはない。今の京都は、その重圧に苦しんであり、一〇年後、すなわち一九九四年の平安建都一二〇〇年をその克服の歴史的な契機とするべく、京都では目下、その作業がすすめられている。

     三 古都保存協力税
        ーその後の経過と総括への試みー
                                                                                                                       (一九八八年一月)
  はじめに
 
 古都保存協力税問題については、『その記録と解説』というタイトルで、市政調査会報第六二号及び第六三・六四号合併号において、その発端から一昨年(一九八六)一一月までの経過の概要を紹介してきた。
 古都税問題をめぐる問題のほとんどは、それまでの経過の中で一応出尽くしたとはいえ、古都税問題に端を発した市長リコールへの運動はその準備作業が進行中であった。それが、昨年(一九八七)の一月になって、密約テープの公表、差押えの動きに対する協力寺院の抵抗というように再び問題が膠着化の兆しをみせたうえ、市会議員選挙を迎えた。
 この四月の市会議員選挙(統一地方選挙)では、国政レベルの売上税問題が台風の如く吹き荒れ、そのために古都税問題は結果として焦点からはずれてしまうことになった。
 ともあれ市議選以降、事態は新たな展開をみせはじめた。反対寺院は開門により市との話し合いの体制を整え、市会もまた問題解決への気運をつくりはじめた。そうした中で市長リコール運動は途絶する。
 そして遂に市側の古都税廃止への動きが表面化し、一〇月一七日、本年(一九八八)三月三一日限りで古都税条例を廃止する条例案が市議会で可決された。こうして、一九八二年七月以来五年余に及んだ古都税問題は、税条例施行期間二年八か月でもって終息することになった。
 この古都税問題は、市行政が挫折することによって終息したが、市行政ばかりでなく、京都仏教会にも深い傷痕を残したし、市会や市民サイド、また京都全体にも多くの問題を残すことになった。
 ここでは、一昨年一二月から古都税終息に至る経過の概要を記すとともに、古都税問題の一応の総括めいたものを試みようと思う次第である。

  1.その後の経過

差押え通知とその波紋  市政調査会報第六二号及び第六三・六四号(昭六一・九、六二・一)の「古都保存協力税ーその記録と解説」では、昭和六一年一一月までの経過を対象とした。同年一二月に入って、京都仏教会は、市が西山社長の会談出席を拒否したことに関して改めて今川市長の回答を求めたものの、結局、市と仏教会の話し合いは実現するには至らなかった。
 そこで事態は、未納税について市がそれを徴収するための作業を事務的に段階をおってすすめていくべき状況下に入っていくことになる。
 
未納税徴収への手順  昭和六一年七月二六日、市は、古都税納入拒否の六か寺(金閣寺、銀閣寺、蓮華寺、青蓮院、広隆寺、二尊院)に対して六〇年八月から一二月までの有料開門中の税額を決定し、不申告加算金を含む約一億円の納税督促状を発送した。これに対して六か寺側は、八月九日に行政不服審査法に基づく異義申し立てを行うと同時に、京都地裁に同処分の執行停止の申し立てと処分取消請求訴訟を起こした。しかし、京都地裁は八月二六日、税額決定処分の執行停止処分を却下(六か寺は大阪高裁に即時抗告)、また京都市も、九月六日に異議申し立てを却下した。
 こうして市は、九月九日、六か寺に対して納入期限を一〇日以内とする納入督促状を発送、同月二五日にはさらに催告を行う。これに対して六か寺は同月二九日、再び行政不服審査法に基づく異議申し立てを行う。しかし、一〇月二七日には先の大阪高裁への即時抗告を取り下げ、一転、市長との話し合いにのぞもうとする。すなわち、一一月四日、「公開の場」での今川市長との話し合いを文書で申し入れるが、これは結局、西山社長出席問題がネックとなって実現を見ず、一二月二五日に至って、市は税納入督促処分に対する異議申し立てを却下、いよいよ未納税に対する財産差押え問題が現実の課題となりつつあった。
 そうして、年明けの昭和六二年一月一六日、市は、六か寺に対して財産差押予告通知書を送るに至るが、その数日前の一月一二日、京都仏教会は、「八・八和解」に至るまでの今川市長と仏教会参謀役西山社長との交渉経過を録音したいわゆるM密約テープNの一部を遂に公表した。
 
“密約テープ”の公表  昭和六二年一月一二日に京都仏教会が公表したいわゆる“密約テープ”は、一方で市長リコールへの運動がすすめられ、また他方で今川市長が公選法違反の告発を受けて地検の捜査が進行中であるときであっただけに、きわめて衝撃的でなまなましいものであった。
 それはそこで語られていたテープの内容ばかりでなく、それまで今川市長が否定してきたにもかかわらず、西山社長との裏交渉があったことを現実のものとして明らかにした。と同時に、そうした電話での秘密のやりとりを密かに録音し、かつその存在をちらつかせながら交渉をすすめ、そして最後の切り札のような形で暴露するという俗世顔負けの仏教会のやり方をも明らかにした。
 市が六か寺に対して財産差押予告通知書を送ったのはその四日後で、市と仏教会は、ともに市民不信の高まる中で、退くに退けない対抗関係の頂点に達することになった。
 一六分に編集された録音テープの内容は、市長選挙を目前とした「八・八和解」に至る裏交渉そのもので、なお第二弾があるとされた。第二弾は、二月二五日に公表されたが、そこでは、「八・八和解」の急転和解劇の演出が語られていた。
 
協力社寺の行動  “密約テープ”の公表に対して今川市長は記者会見で「拝観停止をどうしてもやめさせたい、との判断で(西山氏と)話し合った。選挙のことは毛頭、考えていなかった」(京都新聞六二・一・一三)と述べたが、税を納入している協力社寺の反発もあり、市は事情説明を行うために、拝観停止中の六か寺を除く対象社寺との懇談会を一月二五日に開催した。
 納税社寺サイドは、市の取り扱い方が社寺によって異なる(税、協力金、税額等)ことへの反発のほか、社寺に対する差し押えは絶対に認めないとの態度を明らかにしていた。
 そのため、一月二五日の市との懇談会では、市に対して「反対六寺院に呼びかけ、全対象社寺が同じテーブルについて話し合いたいので、差し押えを一時凍結してもらいたい」と提案するとともに、「もし市が差し押えを強行する場合は、協力社寺としても重大な決意で臨まざるをえない」との見解を表明した。これにより、古都税問題は、強固反対六か寺との関係から、協力社寺対京都市の関係という新たな展開となり、逆に一層の膠着状態を生むことになった。
 市は、協力社寺の意向を受けて、財産差し押えを二月中旬以降に延期したが、他方市議会サイドにおいては、一月二七日の臨時市議会で与党社会党議員から「古都税条例の一定期間停止」とその間における話し合いが提案された。
 焦点は、協力社寺と反対六か寺との話し合いにより全対象社寺同一のテーブルがつくられうるかどうかに移ったが、反対六か寺側では当面協力社寺側の行動を見守るという姿勢の中で、協力社寺側は二月一三日、税条例を一時凍結して市と閉門六か寺及び協力社寺の全てが話し合うべきであるその方針とともに、閉門六か寺にも拝観再開を申し入れることを古都税対象社寺会議で確認した。そして、二月一六日に六か寺に対する差し押えの凍結を今川市長に申し入れるとともに、二月二四日には、回答期限を切った古都税条例施行の一時停止を求める一五社寺署名の要請書を今川市長に提出した。京都仏教会が“密約テープ”第二弾を公表したのはその翌月の二月二五日であった。
 市は、三月六日、税条例の一時停止の要望には応えられないとの回答を古都税対象社寺会議(協力社寺)に手渡すとともに、三月一八日に、今川市長は、六か寺に対する差し押えの強行突破は当面見合わせるとの考えを表明した。
 このように事態の進展が見られない中で、古都税対象社寺会議は、古都税条例施行実施の不公正是正を求めて、各社寺とも、四月から協力金方式で自主申告することとし、市と市議会で不公正是正の動きが出るまでその納入を留保することを三月二五日に確認するに至った。ここに至って、市は、協力社寺との間でも問題を行き詰まらせることになった。
 しかし、ここに至って、協力社寺側の世話役(古都税対象社寺会議世話人)であった醍醐寺の仲田順和宗務総長が同派宗務総長を辞任するなど、同派内部の問題が原因で世話人を退く事態となり、古都税対象社寺会議の動きをにぶらせることになった。
 
  2.市議選と話し合いへの条件整備
 
 結局これといった打開策のないまま、というよりもむしろ膠着状態がより一層拡大していった中で市会議員選挙を迎えたが、市議選の争点は、当初の想定とは異なり、売上税問題一色ともいえる統一地方選挙全体の中で、結果的に古都税問題はほとんどかすんでしまった。
 しかし、市議選を終えたことにより、古都税問題は新たな解決への気運が生じはじめたものの、現実の状況は、むしろ古都税執行がより困難化しつつあり、そうした事態が、結局行政をして古都税の計画通りの執行を断念せしめることになった。

開門話し合いへ  市議選終了直後の四月二一日、京都仏教会の古都税反対一〇か寺は、閉門中の六か寺が開門することにより市に話し合い解決を提案することを決め、翌二二日の記者会見で、五月一日からの開門と、市との交渉のネックとなっている西山社長が仏教会顧問等から退くことを発表し、五月一日には一〇か月ぶりの開門となった。こうして話し合い解決へのボールは仏教会から市に投げられ、市がそれにどう対応するかという順序になったと一般的に受け止められた。
 ただ、反対寺院サイドとしては、閉門、密約暴露、密約テープ公表と打つべき手をすべて打ち尽くしてなおかつ事態は打開できないばかりか、財産差し押えを目前にむかえるに至っているために、ついに市議選後のタイミングを見計らって、いわば裸になって開き直ったものといえる。
 協力寺院からなる古都税対象寺院会議は、五月一四日、「古都税を税として納めることには反対」との基本方針を確認するとともに「市が問題解決に積極的な姿勢を見せるまで、古都税の納入を一時保留する」との方針も再確認するが、同会議では、新たに世話人に大島亮準三千院執事長等を加えた。そして四月分古都税納入期限の五月一五日、先の申し合わせに基づき、条例通りの徴税・納税を実施してきた一六社寺の中で金地院、仁和寺など四か寺が納税を留保、協力金方式をとってきた八寺院中高桐院、瑞峯院なども一時納税を留保するに至るなど、市にとっては極めて厳しい事態となってきた。
 
市長リコール運動の断念  昭和六〇年後半からすすめられてきた市長リコールへの準備活動は、タイミングと条件を十分つかめないまま市議選を迎え、リコール対策本部は市議選立候補予定者九五人全員に公開質問状を送付、その回答結果を三月三〇日に発表した。
 しかし、市議選前にすでに今川市長公選法違反告発に対する京都地検の不起訴処分が決定する一方、市議選で古都税問題が不発に終ったこと、さらには京都市民の関心が高まらなかったことなどから、市議選後、遂にリコール運動は断念されるに至った。六月一二日、「古都税を考える市民の会」は、その総会で「グループ市民の眼」に改称することを決定し、市民運動それ自体を継続的に展開していくこととしたのである。
 
市会「古都税問題協議会」  市議選前の市会では、三月一三日、昭和六二年度一般会計予算案可決に際し、古都税に関し「一部寺院がいまだに拝観停止を続け、本市の観光事業に多大の影響が出ており、誠に遺憾かつ憂慮すべき事態である。よって理事者は、対象寺院と速やかに話し合いを行い、事態の早期解決に全力を挙げるべきである」との付帯決議を可決した。
 市議選後は、市会サイドにおいても解決への気運が生じ、市議選後発の五月市議会では、二三日の各派代表世話人会で与野党全会派の代表による「古都税問題協議会」を設置することを一旦は決めたものの、その後の新役員体制の中でまとまらず、六月市議会において、全会派による設置をくつがえし、与党の自民、公明、社会、民社四党による協議会を六月二四日に発足させた。
 市議選後の京都市は、反対寺院の開門もあってその対応は慎重となり、新しい議会と相談しながら対応していきたいとの考え方を示していた。
 議会内では与野党間のかけひきが展開されたとはいえ、与党四党が「古都税問題協議会」を設置したことは、問題解決への気運を一歩すすめるものであった。
 同協議会は、六月二九日に初会合、古都税廃止条例が市会に上程された一〇月五日に「使命を果たした」ものとして解散した。
 
  3.その他の若干の経過

新仏教会の結成  昭和六一年五月二二日に京都仏教会京都市内八支部長会は、「京都府市仏教会」
(仮称)の準備委員会づくりのための「世話人会」を発足させていたが、同世話人会は一二月八日に各宗本山などに新仏教会結成への意見などを求める文書を発送、その準備活動をすすめていった。
 六一年二月一〇日には、京都仏教会退会寺院による初めての新しい組織として、中京仏教会が五〇か寺によって設立されたが、それは新仏教会結成への気運をつくりだそうとするものであったといえよう。そうして、八月二〇日、東西両本願寺、知恩院、妙心寺、智積院の五本山と京都日蓮聖人門下連合会、元京都仏教会市内八支部長会により「京都府仏教連合会」(仮称)結成発起人会が発足、府下三,〇八三の全寺院に新組織の入会要請書を発送した。
 新組織は、九月一一日、「京都府仏教連合会」として結成総会を開催した。この新組織は、東西両本願寺と知恩院が中心的な担い手となり、理事長には西本願寺の渡辺静波総長、事務長には西本願寺の井上博厚総務が就任、加入寺院は七五三か寺で、内宗派本山は二二か寺であった。
 
今川市長不起訴処分  昭和六〇年の「八・八和解」における“密約”が公選法違反の利害誘導にあたるとして、六〇年一二月二五日、今川市長は、自由法曹団京都所属九名の弁護士から告発を受けていたが、六二年一月二二日の読売新聞夕刊で、検察当局は、「密約テープを含めた資料とこれまでの関係者からの事情聴取などを検討した結果、嫌疑なしの不起訴にする方針を固めた」との報道が行われた。
 そして市議選前の三月二四日、京都地検は不起訴処分を決定した。その理由は「▽市長と仏教会幹部との間に、古都税の特別徴収義務や、納入金額をめぐる特殊な直接利害関係はあったが、投票依頼、選挙運動依頼は存在しなかった。▽和解による市民へのアピール効果や拝観停止の解除で、自分の当選が有利になると期待したかどうかは地検として判断していないが、仮にそういう期待があったにしても、反射的、間接的な効果なので、法律上の当選目的とはいえない」(読売三・二五)というものであった。
 九人の告発人は、「法律判断より政治判断を優先させた結果だ。……うやむやのうちに市長を免罪したことに強く抗議する」との声明を出し、三月二六日、京都検察審査会に、同処分を不服とする審査申し立てを行った。
 しかし、いずれにしてもこの京都地検の不起訴処分によって、政治的、道義的責任は別として今川市長の刑事責任は問われないこととなり、今川市政に突き刺さっていたトゲはこれによって抜けたといえよう。
 京都検察審査会は、一〇月二二日までに、「覚書(密約)は特別徴収義務を免除するもので(今川市長が)利害関係を利用したことは明らか」として利害関係の存在は認めたものの、「投票や選挙運動の依頼はなかったと認めざるをえない」として「公選法違反にはあたらず、不起訴は相当」との議決を行った。
 

 

  4.古都保存協力税の終焉
                                                      (一九八八年三月)
古都税廃止への動き  昭和六二年八月一二日、今川市長は、市会与党四会派による「古都税問題協議会」で、古都税条例について、「未納寺院の納税を前提に、本税制度について原点に立ち返って検討したい」との見解を表明するとともに、緊急記者会見でも、同趣旨の考え方を明らかにした。これは、直ちに条例廃止を意味するものではなかったが、一部の新聞では「今川市長は、古都保存協力税条例を廃止する決意を固めた」(京都新聞)と報道した。その詳細は、すでに『市政調査会報第六八号』で紹介しており、ここでは省略するが、この今川市長の見解表明により、事態は、古都税廃止への動きに一変した。
 その翌々日の八月一四日、市は臨時局区長会議で問題解決への全庁的結束を指示し、その検討をすすめたうえ、九月二日になって、「条例廃止」をも含めて具体案づくりを検討していること、またその結果を「できるだけ早く議会に報告」したい由、記者会見で今川市長が述べるまでに至った。
 そして、九月定例市議会開会二日前の九月一六日、今川市長は、市会代表幹事会で「古都税条例の施行期間を、六三年三月三一日までに短縮したい」との検討結果を報告、「古都税問題協議会」でその質疑応答を経たうえ、同日の緊急局区長会で対象社寺や協力団体にその趣旨を説明していくことを指示。ここに、古都税廃止への動きが具体的に表面化することになった。
 なお、同日発表された「古都保存協力税についての市長見解」では、施行期間短縮と併せて、「古都保存協力税対象社寺には条例施行期間中の古都保存協力税を申告、納入していただくこと。その際あくまでも自主的な納入を拒否される場合には、法令に則り、財産の差押えの実施等他の市税と同様に厳正に対処すること」が明示されていた。
 こうして九月一八日から開催された九月定例市議会において、古都税条例改正案は提案され、一〇月一七日、全会一致でそれは可決をみることになった。
 こうした古都税条例廃止への動きが明らかになってきた九月一七日、「グループ市民の眼」のメンバーは、市監査委員に対して「今川市長が古都税条例で定められた税の特別徴収義務者三八社寺のうち金閣寺、銀閣寺など一三カ寺からの税徴収を怠っている」とする住民監査請求を起こし、一三か寺に対して「税額決定を厳正になし、……地方税法に基づく督促、徴収手続きを事務的に進め、いささかも税負担の公平に違反しないように(市長に)勧告」することを求めた。これに対し監査委員は、一一月一三日、「税の徴収を怠っていることは不当であるという請求人の主張は、当たらない」としながらも、市長に対し、「古都保存協力税については、地方税法、古都保存協力税条例等の規定にのっとり、昭和六三年三月三一日までに、賦課徴収事務を厳正に執行すること」という勧告を行った。
 
古都税廃止の市議会  九月一八日、事業会計決算の定例市議会冒頭の本会議における一般質問に答えて、今川市長は、本年度限りで古都税条例を廃止する条例施行期間短縮の条例改正案を同市会に早急に提案することを言明した。そして翌日からは、市長自ら対象社寺を訪問し、協力要請に廻る。
 しかし、条例改正案がなかなか市会に提案されないために、二五日には市会正副議長が早急に提案するよう市長に申し入れるという状況もあったが、九月二八日、遂に廃止条例が次のように提出された。

   京都市古都保存協力税条例の一部を改正する条例
 京都市古都保存協力税条例の一部を次のように改正する。
 附則第三項本文中「この条例の施行の日から起算して一〇年を経過した日に」を「昭和六三年三月三一日限り」に改める。
    附 則
 この条例は、交付の日から施行する。
提案理由
 古都保存協力税の実施期間を短縮する必要があるので提案する。
 
 一〇月五日の市会本会議で、今川市長は同条例改正案を提案、同議案の質疑では与野党を問わず市長の政治責任が厳しく追及された。また、この日、市議会与党四会派による「古都税問題協議会」は、「当面の使命を果たした」として解散した。
 同議案は、財務消防委員会に付託され、一六日の同委員会で全会一致で可決された。ただ、付帯決議に併せて市長の政治責任を問う「決議」も与党四会派によって可決されたが同決議のとりまとめにおいて、市長責任の求め方で与党内のくい違いもみられた。こうして、一〇月一七日の市議会本会議において古都税廃止条例とその付帯決議及び市長責任を問う「決議」は可決された。

    市会「決議」(昭六二・一〇・一七)
 今般の古都保存協力税条例の一部改正案の審議を通じ、古都税を廃止せざるを得なくなった理由が明白になった。
 その原因は、一部寺院の閉門、反税闘争を繰り返した状況などがあったとはいえ、市長の行政執行能力の欠如と、いわゆる八・八和解などに見られる市民と議会を無視した市長の的確性に欠ける独断専行にあったと言わざるを得ない。
 よって今川市長は、京都市の失墜したイメージを回復し、市民の市政に対する信頼を取り戻すため、速やかに市長自らの行動をもって責任を果すことを、市民の前に明らかにするべきである。
 以上 決議する。
 
   古都保存協力税条例改正に対する「付帯決議」(昭六三・三・一七)
一 古都保存協力税は、昭和六〇年七月から条例が施行されているにもかかわらず、今日に至るもなお、一部寺院が未納となっていることは、まことに遺憾である。このことは、条例を適正 執行すべき責務を負う理事者の取組みが不十分であったことを、あらためて厳しく指摘せざる を得ない。
  よって理事者は、今後決意を新たにして未納入寺院に対し、古都保存協力税と、これに係る 不申告加算金、延滞金を、地方税法及び条例の規定による全額徴収を強く求めるとともに、自主申告納入なき場合には、法律に則り、厳正なる措置を講じ、昭和六三年三月三一日の条例執 行までに完全徴収し、税の公平を期すべきである。
二 京都の勝れた文化、自然景観などを守り育て後世に伝えるべく、この機にあたり条例制定の趣旨を尊重し、関係者の積極的な協力を求めるとともに、財源確保のためにもいわゆる観光社寺のみに依存することなく、創意工夫をこらして新たなる観光施策の樹立と観光資源の開発に努めるべきである。
 
市長の政治責任をめぐって  市長の政治責任の追及には、そもそも古都税条例を強引に発車させたというもの、京都をゆるがす一大紛争にしてしまったというもの、行政の停滞をまねいたというもの、徴税の執行力に欠けたというもの、観光産業に打撃を与えたというもの、そして挫折したというもの等々があるが、いずれを根拠にするかはともかく、与・野党ともに市長の政治責任を追及した。そのもっとも厳しい現われ方が、今川市長の退陣要求であった。
 税条例廃止への動きが表面化して以降、八月二四日に、「市民本位の民主市政をすすめる会」はその常任幹事会で、今川市政二期目の二年間について「最悪の市政」と総括、「古都税の決着が迫られる九月市議会を契機に今川市長の責任追及と市政刷新への動きが決定的になる」として、今川市長の即時退陣と市政刷新を求める声明を発表するとともに、加盟団体に対して、次期市長選候補者の推薦を要請することを決めた(『京都新聞』)。
 また九月五日には、共産党市議団が、今川市長に対し、「ただちに古都税条例の廃止案を提案し、政治責任を明確にして即時退陣すべきである」との声明を発表。一〇月二三日には、市内の個人タクシー互助協同組合(二八一人)も、今川市長に対し、古都税問題の混乱の責任を取って即時辞任するよう要求する総会決議を発表した(『京都新聞』)。
 市長の政治責任追及に対し、今川市長は、廃止条例提案の九月一七日の市議会本会議において、「市会はもとより、多数の市民や京都を訪れられた観光客の皆様方に心ならずも御迷惑をおかけすることとなり、改めてお詫び申し上げます」、「今までの経過を振り返り深く反省する」等とその不手際を陳謝したが、廃止条例可決後の一〇月二一日、記者会見において、「各局の局長から直接、意見や考え方を聞いて、執行能力のあがる体制を考えていきたい」と、今後の市政運営にあたって、積極的に執行体制の強化にとりくむことによって応えていく姿勢を明らかにした。
 
寺院の対応  古都税条例廃止の動きを反対派寺院が歓迎しないわけはない。これを“勝利”として受けとめるむきもあったが、京都仏教会常務理事の清滝智弘広隆寺住職は、「市や寺が勝った負けたという話にしたくない」、「条例の廃止が具体性をみせた時点で、(未納分を)寄付金として納入する立場で交渉に応ずる」(毎日八・一三)との考えを示していた。
 今川市長が古都税廃止条例の市議会提案を言明した九月一六日の翌日、仏教会の対象寺院会議は、
・廃止が大前提で、未納分の支払いや方法などは廃止案の市会可決後、市側と柔軟姿勢で話し合い
に応じる。・問題解決の最後のチャンスで、強固策はとらない、など従来の方針を再確認(京都九・一八)、条例廃止を「寺側の勝利」と位置づけた(読売九・一八)。
 こうして、廃止条例が市議会に提案された後の一〇月一一日、市と京都仏教会の古都税反対一一か寺との間で次の点が合意された(京都一〇・一二)。

     合意確認事項(昭六二・一〇・一一)
@条例廃止にお互い十分に理解し合えた。
A市と京都の仏教会が理解し合って京都発展のため努力し、政策を進める。
B今日までの分と来年三月三一日までの分(の支払い)についてお互い十分理解し合えた。
 
 さらに、廃止条例可決後の一一月二五日には、今川市長も出席し、市と古都税反対一一か寺との間で、未納税分については「来年五日までに税相当額を市に報告(申告)する」、一一か寺は税相当額を「寄付金」として支払い、市は「あくまで税金」として受領することで合意し、ここに、反対寺院側と市側との和解は成立した。
 
市議会公開への市民運動  古都税終焉にあたっては、新たに市議会公開への市民運動も開始された。古都税問題が、終始そのM密室性Nの批判を受けてきたことに照らして、それは当然の帰結ともいえよう。
 八月二二日、「グループ市民の眼」と「古都税の即時執行停止・廃止・営業と生活保障を求める会」は、古都税問題をとり上げることになっていた二五日開催の市会財務消防委員会の傍聴を求める申請をそれぞれ同委員長に提出した。これは、同委員会が採決によって否決(許可賛成は共産、社会のみ)した。
 九月一七日には、「グループ市民の眼」、「きょうと・市民のネットワーク」並びに「残土投棄に反対し、大見総合公園計画を考える会」の三市民運動団体が、市会委員会の公開申し入れ書を市会議長に提出。また同日、京都府市民団体協議会は、市会議長に対し、古都税問題の委員会傍聴を認めるよう要望書を提出した。さらに、一一月五日、それらの要望が実現しなかったために、「グループ市民の眼」をはじめとする市民団体四団体のメンバー二七人は、京都弁護士会に「市議会に対し、委員会も実質的に公開を原則とした運用がなされるよう勧告してほしい」との人権救済の申し立てを行った(朝日一一・六)。
 
  5.古都税総括への若干の提起
 
経過をふりかえって  古都税問題の発端は、今(一九八八年時点で)や六年前にまでさかのぼらなければならない。総括をするにしては、一面では時間が経ちすぎで、また一面では今少し生臭さのなくなるまでの時間の経過を必要とするのかもわからない。
 時間の経ちすぎという点からすれば、行政サイドの当初のつまづきを表現した“ボタンのかけ違い”一つをとってみても、今になれば、人それぞれに思い思いの使い方となっているし、行政サイドの当事者は、市長のほかはすべて交替し、当初から今日に至る一貫した視座というものが必ずしもあるとはいえない状況にある。
 それだけに、古都税問題の総括への問題提起を今行うことのむずかしさはあるとはいえ、同時に、問題の風化速度の早さからおして、いくばくかの提起をしておくことの大切さもまた考えるところである。
 そこでまず、発端から今日に至るまでの極端なまでにしぼり込んだ問題点を列記すると、まず第一に、行政サイドのスタート時点のつまづきがある。第二に、市会における委員会審議抜きの条例即決の問題、第三に自治省の許可をめぐって紛争が中央に波及した問題、第四に拝観スト、第五に不動産業者の介入、第六に、第五にも関連して密室での駆け引きとその暴露の問題、第七に行政の挫折ということで幕は下りたのである。
 第一の着手時点の行政サイドの問題としては、過去の行政経験の蓄積が生かされず、状況認識に甘さがあり、社寺側との土俵のつくり方を誤ったということ。
 第二の、条例即決については賛否両論があるものの、古都税問題をめぐる市会審議が今一つ市民の前に明らかではなく、旧文観税の時ほどには市会はその役割を果たさなかった。
 第三の自治大臣の認可問題は、地方“自治”にとっての注意すべき点があった。地方自治体が、自らの税源に対する決定権を有していないという制度上の根本的な問題は別にして、ここで現われた問題は、京都市レベルでは問題を解決しないまま中央に持ち込んだという点である。この辺りの問題は、旧文観税創設時もほぼ同様ではあったが、旧文観税の時には、自治省(自治庁)の認可を頂点として以後紛争は収束に向かったが、今回は逆に認可後に紛争は拡大し、収束不能となったというように、以後の展開の仕方に重要な意味をもっていた。
 第四に拝観スト。これは、観光社寺が旧文観税創設時と比較してはるかに肥大している今日、それを反対の戦術として採用することは容易ではないとみられていたが、長期化し、様々な変形を生み、遂には事実上戦術行使できない状況に陥った。
 第五の不動産業者の介入は、古都税問題を極端にまで低俗なものにしてしまった。仏教会側では京都仏教会分裂のきっかけとなり、行政側では決定的ともいえる市民不信を招くことになった。そしてこれは、交渉のあり方としても、正攻法によらない、第六の“密室”での手の込んだ策略まがいの方式を選択せしめることになった。
 第七の行政の挫折は、こうした一連のあまりにも問題性に富んだ古都税の経過からして、やむをえない、或は当然の帰結ではあったといえるが、その教訓の汲み方が、行政の挫折を是とするか否かの評価の岐路となるものであろう。
 
教訓として何を語るべきか  勝者が正義である、という定義は、今回の古都税にはあてはまらないようだ。行政が挫折したということからは、仏教会反対寺院側が勝利したといえるが、今回の経過は、いずれの側にも正義を与えなかった。京都仏教会はこれによって分裂し、仏教のメッカ京都の仏教界は二つの組織が分立するところとなった。これは、行政側が受けた行政不信と挫折感をはるかに上回る打撃であるといえる。
 しかし、ここで考えてみたいのは、古都税問題が、行政と京都仏教界を誤らしめたのではなく、すでに両者に内在してきた諸問題が、古都税問題をめぐって顕在化したのではなかったかということである。古都税が終焉する今、古都税問題の教訓の積極的な意味はここにあるといえよう。
 仏教界に関していえば、それは仏教界の社会責任についてであり、これを地方自治レベルでいえば、社寺もその大小にかかわらず都市社会の構成員の一員であるということである。
 行政に関していえば、行政手続きの形式面とともに、市民合意の実質をいかに確保するかである。また、より詳細にいえば、政治と行政、行政内部における首長と職員との立場の違いを明確に認識する必要がある。
 政治は、異なった利害を有するさまざまな市民の利害を主張し、かつ調整する役割を負うものであり、市議会はその評議の場である。行政は、公正かつ専門的立場から政治の場で築かれ、また認知された事柄を執行する位置にあるとはいえ、法ないし行政手続きに合わない事柄は、それを受け入れるべき立場にはない。行政権を有する市長は、同時に政治界にも君臨する。これに対して、行政の職員はあくまで厳正中立なる行政専門家である。
 行政が条例という法的根拠を得て執行しようとした事業は、やはりその完遂いかんの結果によって問われる。しかし他面、その法的形式面のみが優先し、その実態の再評価が失われてはならない。
逆に、内実面の再評価からすれば、結果を問わない勇気もまた必要となる。しかし、その場合に問われなければならないのは、市民、政治、行政のそれぞれの位置の認識とその役割のあり方いかんではないだろうか。それゆえにこそ、本来の政治の場としての市議会の活性化を心から期待することによって一応の終筆としたい。

    成稿一覧

第一部 低迷からの脱却を求めて           1991.4  新稿
第二部 京都市政の歩み
 京都市政の伝統                     1991.3  新稿
 79年市長選挙と80年代前半の京都市政       1979.4  22
 舩橋市政の継承問題と今川市政の課題       1981.11  36
 85年市長選挙と80年代後半の京都市政の課題  1985.11  56
 89年市長選挙と90年代京都市政の課題        1989.11  未発表

第三部 明日への教訓と指標を求めて
 革新市政一〇年の歩みと課題                1977.2  臨時号
 京都市政をめぐる当面の課題と展望           1983.9  43
 京都市の「基本構想」を考えるにあたって         1979.6  23
 「人としごと」を考える一つの試み                 1977.10  13
 任意行政と人材養成                         1978.6  17
 今・市役所に要求されるもの                    1986.3  58
 空き缶条例問題                             1981.4  市政研究51
 伝統文化と都市行政                          1978.4  都市政策11
 京都市観光行政の沿革、現状、課題           1984.9  49
 都市経済政策序論                          1982.385.1 3851
 検討素材としての旧文観税                    1982.9  42
古都保存協力税構想と京都市財政の課題         1984.12 都市問題研究408
 古都保存協力税ーその後の経過と総括への試み 1988.13 3840

 

     注・単にナンバーのみ記載の場合は、市政調査会報である。

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