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<試論>
        自治体における「総合計画」(基本構想)策定の実態と課題

 −コミュニティ論構築のための基礎作業として

京都市政調査会
     (地方自治センター『地方自治通信』1980.3−9所収論稿)

目次

T 序論 試論の視点を求めて
     一 はじめに
     ニ 視点を求めて
     三 基本構想をもたないのも一つの見識か
     四 新たな都市政策を求めて

U 基本構想の現状と課題@ アンケート調査結果から
   一 改定期にある総合計画(基本構想)
   二 策定にあたっての問題
    
(一)基本構想の策定体制
    (二)策定上の諸問題

V 基本構想の現状と課題A アンケート調査結果から
   一 市民参加の方法
   二 市民参加の程度と問題点
   三 推進にあたっての問題
    
(一)実効性確保のための措置
    (二)推進上の課題

   四 都市像をめぐって

W 基本構想の現状と課題B アンケート調査結果から
   一 改定の理由、背景
   二 一般的な問題と課題
   三 関東型と関西型

X 地域総合計画行政の発展と課題
   一 その前史として
    
(一)観念としての「策」と「判断」
    (二)個別計画の発達

   二 総合計画行政の発展
    
(一)総合計画の必要性
    (二)総合計画の発展

   三 総合計画行政の課題
    
(一)計画手法とその限界
    (二)計画と対策
    (三)参加から計画主体へ

Y 歴史的コミュニティー論
   一 祇園祭を支える鉾町
   二 ブロック都市からコミュニティ都市へ
   三 コミュニティの歴史的変遷
   四 小学校区と新たな課題

Z あらたな都市づくりに向けて
   一 地域社会としてのコミュニティ
   二 歴史の教訓から
   三 多様なコミュニティと多様な都市
   四 明日へのゆとりを残して

 

 

 

T 序 論−試論の視点を求めて

 一 はじめに

 どうしてもまずおことわりからはじめなければならない。それは,当調査会が主たる調査研究の対象とする京都市では,地方自治法第2条第5項に基づく「基本構想」はいまだ策定をみていないために,当調査会は,自治体の「総合計画」を点検し,再検討する資格要件を必ずしも備えているとはいえないことである。ただ,本誌編集部からこの企画についてお話のあったとき,丁度,京都市もようやくその策定にむけて動き出しつつあり,当調査会としても策定のあり方に関する提言を試みようと考えていたときでもあったため,この際勉強させていただくつもりで,身の程をわきまえずお引受けしたものである。

 従って,本試論は,充分な経験をふまえたものではなく,また,多くの先例や研究成果を系統的に学んだ上でのものでもなく,あくまで素朴な試論の域を出ないものであることをおことわりする次第である。

 当調査会は,昨年7月,基本構想検討プロジェクトを編成し,以来,他都市調査をはじめ一定の調査研究を行うとともに,併せて,当調査会の政策研究集団である「十人委員会」における討議を経て,本年1月に「京都市基本構想策定に対する第1次提言」をまとめ,京都市行政当局に対して提言を行った。

 こうしたささやかな作業経験に基づきつつ,編集部にお願いして実施していただいた,革新市長会加盟都市に対するアンケート調査結果を資料として活用させていただくことによって,本試論をまとめさせていただく次第である。

 そこで,本論にはいる前に,まず,全体を通しての問題意識についてあらかじめ明らかにしておかなければならないと思われるので,今回は,基本構想再検討の視点ともいうべき点についてのべることとしたい。

 二 視点を求めて

 「総合的かつ計画的な行政の運営を図るための基本構想を定め」なければならないという規定が,地方自治法の改正で,同法第2条第5項に定められたのは昭和44年であり,以来,今日で十年を経過した。その間,昭和45年度では,全国3,280市町村のうち8.9%にすぎなかった策定市町村の数が,昭和53年度では3,256市町村のうち83.9%にあたる2,731市町村となり,とくに都市では,645都市中,91.2%に達する588都市ですでに策定済となっている(自治省調べ)。

 このように,今やほとんどの自治体で策定されている「総合計画」としての「基本構想」の歴史は古いものではなく,ようやくその十年をむかえたにすぎない。そこで,この十年を節に,一度「基本構想」なるものを点検し,今後のあり方をさぐってみる価値はあるのではないかということである。

 昭和44年といえば,「新全国総合開発計画」が策定された年であり,これに基づく全国的な地域開発政策にそって,各自治体で,地域における総合計画づくりが要請されることになり,それが自治法改正として具体化したのが「基本構想」である。今また,53年に策定された「第3次全国総合開発計画」にあわせて,その前後から改定作業を行う自治体がふえてきている。

 もちろん,「基本構想」の策定は,自治法の要請にのみよるものではたく,それなりの背景をもっていよう。経済の高度成長に基づく全国的な地域開発の進展のなかで,都市公共施設を中心とした計画行政がそれなりの発達をみせ,これが,地域の総合的な開発を計画的にすすめなければならないという要請とあいまって,技術的にも一応,地域総合計画というものが可能であると判断されるに至ったものであろう。

 これに対して,「安定成長下」にはいったといわれる今日,かつての地域開発のあり方が問い直されると同時に,改めて,地域総合計画のあり方そのものも再検討の必要性にせまられてきたのである。

 検討課題の第一は,「基本構想」(総合計画)が一般的にもつ問題点や課題について明らかにすることであり,これについては,前記アンケート調査結果をもとにその実態と課題を明らかにするように努力してみたい。

 検討課題の第二は,都市づくりや地域づくりに関する新たな課題提起がどれだけ可能かという問題はあるが,この点について,地域特性に対応した,例えば "関西型"といえるような都市づくり論が可能ならば試論としてそれを提起してみたいというところにある。

 いずれにしても,本試論は,資料根拠等が不十分なままに試みる冒険であり,詳細な検討は今後にまたせていただきたいと思う。

 三 基本構想をもたないのも一つの見識か

 第一の検討課題としての「基本構想」(総合計画)のもつ一般的な問題点の一つとして,「基本構想」の策定のあり方とその実効性の問題がある。実効性の確保にあたっては,各自治体ともきわめて苦労しているが,あらかじめ結論的な課題をここで提起するとするなら,実効性確保のためにいかなる方法,手段が用意されるべきかという問題以前に,はたして「基本構想」は策定されなければならないものなのか,「基本構想」を策定しないことも,まだ今日の自治体の発展段階においては,一つの立派な見識である場合もあるのではないかということである。

 「基本構想」は,自治省の示すところによれば,それに基づく「基本計画」さらに「実施計画」を通して年次の行政に具体化し,実施される。しかし,策定自治体が多いにもかかわらず,その実効性にはまだまだ疑問点が多いといえる。多くの自治体で策定された「基本構想」は,机の上に "積んどく"になったり,そのまま倉庫にねむらされている状態があることも否めないようである。

 ちなみに,「基本構想」は策定しても,「基本計画」「実施計画」を策定しないならぱ,「基本構想」は宙に浮くことになる。自治省の調べ(昭和53年)によると,「基本構想」しか策定していない市町村は588,都市では84都市あり,これは策定済自治体の,市町村全体では約2割,都市では約1割5分にあたる。また昨年10月の地方自治センターの調査によれば,「基本構想」策定62都市中,「基本構想」のみ策定している都市は2都市,「基本計画」までしか策定していない都市は11都市で,あわせて13都市が「実施計画」を策定するに至っていない。

 「基本構想」から「実施計画」まで一貫して策定している都市は49都市である。個々の事業計画や施設建設計画など財政計画と運動したフィジカルプランはともかくとして,十年という長期に及ぶ計画を,しかも総合的な地域計画として実施するということはきわめて至難なわざであることにはちがいない。あるいはまた,そうしたプランニングが今日の技術レベルでどこまで可能かという問題もある。こうみてくると,「基本構想」を策定する意義は一体どこにあるかについて考えざるをえない。

 それは,地力自治法に定められているからという理由で策定されるのか,あるいはその自治体自身の必要性に基づいて策定されるのか。それは,あくまで実施をめざす計画なのか,それとも指針なのか。行政レベルにとどまるものなのか,市民の手による都市づくり指針なのか等々の問題について整理をはかる必要があろう。

 当調査会が,先にふれた京都市の基本構想策定に対して行った『提言』をまとめるに至る検討過程においては,京都市において「基本構想」が必ず策定されなければならないという前提には必ずしも立たなかった。それは,すでに多くの各種計画や政策体系をもつ京都市にとって,「基本構想」を今日に至るまであえてもつに至らなかったことは一つの見識としてみることが考えられたからである。それだけに,京都市が,この80年代の初頭において「基本構想」を求めるには,それなりの主体的,積極的な理由がなければならない。そのため,逆に,策定の積極的意義を『提言』では訴えることとし,とくに,そのプランニング・プロセスの決定的ともいえる重要性について課題提起することになった。

 『提言』では,「基本構想」を「総合的,計画的な行政運営をはかるための長期にわたる市政の基本理念」として理解しつつも,同時にそれは,「市民レベルからの都市構想」でなければならず,「市民と行政との合意の体系として主体的に策定」するべきものとし,いわば《市民参加と職員参加の実験室》として,たえざる議論の渦のなかで,永遠に未完であるという覚悟」の必要性を指摘した。これらのことは,先行された諸都市の経験に学ばせてもらった結果であることはいうまでもない。

 四 新たな都市政策を求めて

 第二の検討課題にはいろう。先述の『堤言』でもふれたように,「基本構想」は単なる狭義の行政指針としてではなく,「市民レベルからの都市構想」であってはじめてその意義がある。「基本構想」は都市政策をこそ求めるものでなければならないのである。

 しかし,都市づくりにおける計画手法やモデルの設定は,それが経済の高度成長にともなう地域開発の進展とともに発達してきたために,現在までのところ,それらは地域開発手法であり,全国どこにでも通用するきわめて普遍的,画一的原理を求めるにすぎなかったのではないだろうか。文化行政への指向があまねくひろがりはじめ,都市の個性的なあり方が新たに注目されつつある今日,都市づくりの基本的なあり方について改めて検討する必要があるように思われる。

 行政区域としての「市」というものが,はたしてどこまで「都市」たりえているのかという問題はさておき,世界史的にみて,都市は常に生成,発展,消滅の歴史を歩み,永久不滅の都市は存在しないといえる。しかし一方では,都市化時代−わが国土はすべて都市化したといわれる今日,都市とは一体何なのかということを考えないわけにはいかない。こうした都市論を背景とした都市における計画手法の開発がまたれるのである。もちろん,これほどの問題に,当市政調査会はアタックするだけの力量をもちあわせていたいので,素朴な課題提起を試みるにすぎないことはすでにおことわりしたところである。

 ともあれ,都市づくりを考える場合,これまでにあっては,その地域における歴史的,風土的条件というものは付帯的な条件でしかなかったのではないか。発想の根本には,さら地こそが都市づくりにおいて最も好ましい条件であるという考え方が存在してきたのではなかったか。もちろんのこと,それこそが都市づくりにおける典型であろう。しかし,すでに都市としての歴史を,またその地域における歴史を有している場合,その歴史的条件は付帯的なものとしてよりは,以後の都市づくり(都市再開発)における土壌としての基礎的な条件であるといえる。

 またわが国において,都市とその自治を論じる場合,その淵源はヨーロッパ諸都市に求められるのが常であり,地方自治制度が明治の近代化によってもたらされたことにもよるが,15,6世紀の堺や京都で築かれた「自治」都市の現代的な意味をはじめ,わが国固有の都市論はきわめて少ないものであったといわざるをえない。

 都市づくりは,その性格上,その地域における歴史を切除することによって着手することも可能である。しかし,そこに往む人々の意識下にある歴史をまで切除することは困難であろう。都市づくりとは,都市施設というハードな都市建設と都市社会というソフトな都市建設の総合的作業であることはいうまでもない。

 こうした視点から改めて都市づくりというものを考えてみると,大別して,さら地型の都市づくりと,歴史型の都市づくりがあり,そしてその間に,その両方を備えたあり方というものが存在するのではないかと考える。

 いくつかの例をおってみると,京都はいわゆる「千年の都」として,千二百年に達しようとする都市としての歴史をもっている。東京,大阪はともに数世紀に及ぶ歴史を有しているが,第2次世界大戦の戦災によって都市建設はその時点から再スタートした。この戦災による都市破壊は多くの大都市がそれを受けている。横浜,神戸は日本の近代化とともにその都市の歴史ははじまった。加えて神戸は,その多くが埋立地である。また,千里ニュータウンのように経済の高度成長とともにつくられたところもある。これらは,いずれも,それぞれに応じた(再)開発手法というものが必要である。

 一都市の区域内にあっても同様のことかいえる。京都市の場合,これも今後の課題であるが,「洛中」といわれる歴史的に形成された「旧市街地」と,高度成長のもとでスプロール化した「新市街地」とでは自ずからその手法は異ならざるをえない。また「旧市街地」にあっては,地域コミュニティそのものに伝統的歴史性が今日なお継承されている。こうしたことから,行政区域としての「市」を単純な形で一都市として考えることなく,極端な場合,そこに村も町も内包したものとして,いくつもの地域の重層的な積層としても把えなければならない。都市づくりの問題が,地域コミュニティ問題に帰着するゆえんもこうしたところにその理由がある。

 また,慣用的に「都市づくり」「まちづくり」という言い方がなされているが,それが再開発である場合,それがどこまで計画行政として可能かは重要な点である。計画行政であるよりも,「調整行政」であるかもわからない。

 さらにまた,都市はそれ自身が生き物として自律的運動をするものである以上,「計画」には,必ず白紙の部分が必要とも考えられる。都市発展の余力は,まさしくその白紙部分の大きさに正比例する可能性があるからである。

 「基本構想」に関連した形で新たな都市政策を求めようとするには,今一つ,周辺自治体との計画調整の問題も重要となってこよう。これは,都市圏というものを,自治体行政の範域にどのように組みこむかというきわめて重要な問題点である。

 

U 基本構想の現状と課題@

    アンケート調査結果から

 一 改定期にある総合計画(基本構想)

 昨年10月(1979),地方自治センターで実施していただいた「総合計画(基本構想)策定の実態と課題」に関するアンケート調査は,同センター加盟都市を対象としたもので,短時日にもかかわらず.66都市から回答が寄せられた。

 都道府県単位の回答都市の数は次ページ表1のとおりである。これを人口規模別にみると次のとおりである。

 10万人未満の都市 37都市(56.1%)
 50万人未満の都市 23都市(34.8%)
 50万人以上の都市 6都市( 9.1%)
   合  計  66都市(100.0%)

 66都市中基本構想(総合計画)が策定済みの都市は62都市,のこりの4都市は現在策定中である。主な調査項目は次ページ表2のとおりである。ここではその全部にわたって紹介できないが,可能なかぎりその要点を紹介したい。

 問題点は大きくわけて,策定にあたっての問題,基本構想の内容,推進上の問題というように3点にわけることができよう。それに加えて,基本構想に関して地方自治法が改正されて十年を経過したことと併せて,経済の高度成長から低成長への転換によって,ちょうど各自治体ともに計画の見直しの時期にさしかかってきている。

  このことは,今回の地方自治センターのアンケート調査でも,策定済みの62都市中,すでに17都市が基本構想ないし総合計画を改定済みであり,24都市が改定中ないし改定を予定しており,また改定の必要にせまられている,ないし改定を検討中の都市は4都市で,合計45都市がすでに改定ないし改定作業中または改定を計画中であることに示されている。また,改定の時期は,そのほとんどが,昭和52年度から55,6年度の間に集中していることがみられるが,これに関した点については後の稿でのべることとしたい。

 表1 回答都市数(都道府県別)
北海道1 千 葉3  京 都6
青 森1 東 京6  大 阪12
岩 手1 新 潟2  兵 庫2
宮 城1 富 山1  島 根1
秋 田4 石 川1  香 川1
山 形3 長 野2  愛 媛1
福 島3 静 岡1  高 知2
茨 城1 三 重2  大 分1
埼 玉4 滋 賀1  沖 縄2
  (注 東京については特別区を含む)
表2 自治体にあげる総合計画策定の実態と
  課題アンケート調査項目(要点)
1.長期構想または総合計画の歴史
2.現行計画の体系と概況
3.基本構想の策定体制
  ・策定組織
  ・担当部課と企画調整部門との関係
4.基本構想の策定プログラム
5.策定上の諸問題
  ・庁内総意の形成 ・職員参加
  ・国・府県計画などの調整
6.市民参加の方法と問題点
7.議会の意見
8.基本構想の概要
  ・基本方針原則等 ・都市像
  ・施策の大綱
9.実効性確保のための具体的消燈
10.構想および計画を推進するにあたっての課題
11.基本構想(総合計画)の改定状況

 

 二 策定にあたっての問題

 基本構想(総合計画)でまず問題となるのは,策定のあり方であろう。策定の方法論の重視が,今回の調査結果からも浮き彫りになってくるものと思われる。調査では,策定体制のあり方,庁内総意の形成など策定上の諸問題,市民参加の方法と問題点について設問している。

 (1) 基本構想の策定体制

 策定体制としては,庁内策定会議や審議会などの組織とともに,策定事務局としての担当部課が設置されている。

 策定担当部課について

 基本構想策定の担当部課は,ほとんどの場合,企画調整部門がそれにあたっている。企画調整部門以外が策定を担当している都市は66部市中8都市にすぎず,その8都市も,そのほとんどが広義の企画調整部門の一翼を占めている。

 抵当部課が企画調整部門である58都市について,そこが備えている企画調整機能についてみてみると次のとおりである(比率は58都市にたいするもの)。

                都市数 比率(%)

0複数の部局にわたる問題
  についてリーダーシップ    45  77.6
  をもって調整
0市長の政策決定への参画      44  75.9
0計画の進行管理           41  70.7
0主要事業の進行管理         38  65.5
0予算査定に対する関与        29  50.0
0幹部会の事務担当          26  44.8

 調整機能や政策決定への参画には多くの都市が回答しているが,「予算査定に対する関与」の回答市が50lであるということは,評価のむずかしいところであろう。

 担当部課の組織をみると,企画課(室)及び企画調整課が圧倒的に多く51都市あり,企画財政課が数都市のほか,企画広報課,企画開発部,総務課などがある。また,基本構想策定室といったものを設置した都市も数都市ある。

 課を構成する係としては,企画係,企画調整係,都市計画係,財政係,統計係,広報係,秘書係,事務管理係,用地係,電算係,収益事業係などがある。また主幹,主査制も多いが,めずらしいところでは主任研究員をおいているところもある。

 庁内体制について

 庁内策定体制としては,多くの都市で策定委員会や策定会議のようなものを設置しているが,そうした体制をとらずに連絡調整を中心とした幹事会や連絡会を設置している都市も多い。また,ことさらに庁内策定組織をつくらずに策定担当部課のみで策定しているところや,経常的な庁議,部課長会議で連絡調整している都市も少なくない。また,少数のプロジェクトチームを編成している都市もいくつかみうけられる。

 それらの庁内体制については部課長中心のものが多く,調整と合意の形成を中心としたものが多いと考えられるが,係長級(企画,庶務担当)による企画調整主任会議や連絡主任会議を設けているところは少なくない。しかし,これらは都市規模による差異はあまりなく,都市の独自事情によるところが多いようにみつけられる。

 審議会について

 審議会は66都市のうち54都市で設置されているが,審議会のかわりに「総合計画策定市民会議」といった市民会議を設置している都市も2,3みうけられる。

 審議会の構成員としては,学識経験者,民間各種団体の代表,行政委員会等関係行政機関職員,市議会議員,それに市職員といったものが一般的であるが,市民参加をはかるために民間各種団体の代表を約5名とい)ように多く入れているケースや,市民・地域コミュニティ代表を人れているケースは数少ない例ではあるが注目される。

 また,産業経済界,労働界,市民・地域住民という3分野からの選出のケースもあり,利害関係を十分意識したものとして注目されよう。このほか,学識経験者のみで構成しているケース,学識経験者と議員のみ,学識経験者と民間代表のみで構成しているケースも限られたケースとしてある。

 (ニ) 策定上の諸問題

 策定上の諸問題としては,全庁的な策定作業状況と国・都道府県などの上位計画,周辺市町村との調整問題,さらに市民参加の状況等の問題があり,それらについて設問している。ただ,以下の設問は,各都市担当者の主観的判断を問うたものが多いことをあらかじめお断わりしておかなければならない。

 庁内総意の形成について

 庁内総意の形成がどの程度なしえたと判断されているかについてみてみると次のとおりである。

             都市数 比率(%)           

 0十分に形成された     31  48.4  

 0必ずしも十分でなかった  29  46.9

 0不十分であった       3   4.7

  合  計         63  100.0

 「十分に形成された」と「必ずしも十分でなかった」というのが相半ばしていて,「不十分であった」という回答が極めて少ないのは,この種のアンケート調査の性格からやむをえざる結果ではあろう。

 庁内総意形成上の問題は,調査票に書き加えられていた参考意見の中に,策定作業を行ってきた苦労の結果として示されている貴重なものがあり,あわせてその主なものについてここに紹介してみたい。

A時間をかけて話し合うことが大切であり,性急な対応はまずい。

B策定委員会を設置したが十分機能せず,企画課が中心に策定する結果となった。

C民間業者(コンサルタント)に現状分析及び素案作成等について委託を行い,市の内部では資料の提供,意見を提起したのみで全 市的とりくみとはいえなかった。

D策定のための庁内組織として策定会議,企画主任会議を設けたが,一部を除き計画行政に対する意識が希薄だった。   1

E次長職主体のプロジェクトチームを編成し,原案の策定を進めたが,現時点で反省してみると職員現場発想の積み上げが乏しく,特に将来展望等に関しては充分職場討議が行われなかった。

 これらは,庁内総意形成のむずかしさを現わしており,なかなか手をつくしても現実に は困難であることが意識されている。例えば,「企画室と各部課との調整が課長,係長クラスにとどまり,各職場での討議がなかった」という意見は,作業としては相当すすめられた上でのことであろうと思われる。

 一方,「審議会の素材として職員プロジェクトによる案をまとめ,また幹事が審議会に参加しているなど総意の形成に努めた」や「庁内各セクションにフィード.バックし,全庁的なヒヤリングをした」などの積極的なものもあった。

 職員参加の状況について

 職員参加は,庁内総意の形成よりもより困難であることが意識されている。「十分に行われた」という回答が庁内総意の形成の場合よりも減少し,「不十分であった」という回答が1割をこえる。しかし,これも現実には数字に現われる以上のものであると考えられる。

             都市数 比率(%)

0十分に行われた      23  36.5

0必ずしも十分でなかった  31  49.2

0不十分であった       8  12.7

0回答なし          1   1.6

   合  計      63  1000.0

職員参加に関して加えられた参考意見の特徴的なものを紹介すると次のとおりである。

A職員参加を図るため,各課の庶務担当係長を企画調整主任に併任し,各部課における計画立案調整の推進を企図したが,兼務であることなどに上り,十分に機能するにまで至らなかった。

B総合計画に関する職員研修,庁内だよりの掲載等,職員参加の方途を講じたが,各部局によって取組みへの参画にバラつきがあった。

 これらは,試みつつも直面する現実のむずかしさというものを示しているといえる。また「職員参加は当初より考えず」や「策定に急を要した(市長意向)ため,一般職員レベルによる企画主任会議等は設置しなかったという都市もあった。

 次にユニークな試みについて紹介してみよう。 

C職員の自主参加によってプロジェクトチームを発足させ,基本構想プロジェクトチーム案をまとめるなど職員参加に努めている。

Dプロジェクトチームの決定した原案に対し,全職員の60lが約十日間にわたり課題項目別の討議に研修システムで参画させたことにより,ある程度成果があがったように思われる。

E職員からの提案(言)募集を行い成果をあげ,各課においては議題別に係単位で検討し研究を重ね,職員参加の実効はあがった。

F全職員を対象とした職員研修会の開催,中堅職員を中心としたブロジェクトチーム,上級職員を中心とした策定委員会の結成,職員の10l抽出の職員アンケートの実施など職員の参加に努めた。

 国・府県計画や周辺市町村との調整

 国や府県計画など上位計画との関係は無視することができない。昨今の基本構想改定の一つの重要な要因に三全総があげられているように,基本構想の基本フレームは上位計画によって規定されてくるだけに,都市の主体的な基本構想づくりにおける重要な課題である。

 調査結果では,上位計画はおおむね参考として取扱われている。すなわち,「上位計画を基本に策定した」は8郎市,「上位計画を参考に策定した」は46都市,「殆ど参考としなかった」は9都市である。

 また周辺市町村との調整は,広域市町村圏等の関連で一定程度図られているむきもあるが,多くの都市では,今後の課題に託されているといえる。調査結果では,調整を「十分に図った」は12都市,「必ずしも十分でなかった」は37都市,「不十分であった」は11都市であった。

 

V 基本構想の現状と課題A

    アンケート調査結果から

 一 市民参加の方法

 庁内総意の形成(職員参加)と市民参加とは基本構想(総合計画)策定作業における二大支柱ともいえるが,そのいずれもが現実的なむずかしさをもっており,とりわけ市民参加は,「市民参加の手段,方法について有効な方法がみあたらない」とアンケー卜調査の参考意見にも書かれているように,困難な問題である。まず,市民参加のためにどのような手段,方法がとられたのか,各都市の回答状況を紹介しよう(比率は65都市に対して)。

               都市数 比率(%)

▽審議会の設置         53  81.5 

▽市民意識調査の実地      44  67.7

▽各種団体との協議       30  46.2

▽市民集会の実施        24  36.9

▽広報紙等による意見聴取    23  35.4

▽論文,絵画募集         12   18.5

▽市民策定委員会         7  10.8

▽その他            10  15.4

 これによると,すでにふれた審議会を除いては,市民意識調査が多くの都市で実施されている。各種団体との協議や市民集会の実施都市の数も,決して少なくないといえよう。そうしたなかで,市民策定委員会を設置した都市が1割にあたる7都市を数えることは注目されよう。

 「その他」の中では,ちびっこ会議や市政教室,総合計画を考える市民の集いなどを実施した都市があった。

二 市民参加の程度と問題点

 それでは,市民参加はどの程度はかることができたと意識されているのであろうか。調査結果では次のとおりである。

               都市数  比率(%)

 ▽市民参加は十分はかられた   17  27.4

 ▽必ずしも十分ではなかった    40  64.5

 ▽不十分であった         5   8.1

  合 計              62  100.0

 「不十分であった」とする回答が1割に満たず,「十分図られた」とする回答が4分の1を超えているということは,繰り返しいえば,やはりこの種の調査の一つの限界であろう。その辺の問題が,次のように参考意見の中に多く語られている。( )内は都市の人口数。

A現時点で考えると市民参加方式は不十分であったと思われるが,策定当時としては可能な限り努力したものと思われる(8万)。

B(コンサルタントに委託したため)直接市民との意見交換を実施していないため,住民ニーズがつかめなかった(15万)。

C市民参加の方途については積極的にとり入れたが,それに対する市民側の反応が今ひとつなかったように思われる(14万)。

D広報紙による総合計画に対する意見聴取を実施したが,市民からの意見はほとんど出てこなかった(33万)。

 参考意見としてはこのほか「市政懇談会等による市民の考え方,意見等を十分反映させている」というように,市民参加を十分図っていると書かれたものもあるが,さらに次のような積極的な努力の状況についても述べられている。

E(策定の段階で総合計画を考える市民のつどいを開催し)20歳以上の有権者13万8千人のうち延べ600人余の市民参加を得,(また市民参加のための多くの手段を講じたが),十分ではなく,本年4月からは各小学校単位で市内19ヵ所にて「新しいまちづくり懇談会」を実施している(20万)。

F計画策定の段階で地区審議会98回,延べ2,702人の参加を得,なお集約までに20回に及ぶ地区審議会を行い素案をまとめた(7万)。

G構想策定1年後において,施策の大綱を柱とした住民アンケートを土台に,住民組織による市民憲章が策定された。後追いの形ではあるが,構想計画の点検,確認の形で一層市民的合意を得たと考えている(4万)。

 このような中で注目されるのは,市民参加を得るために多くの手段,方法を講じている都市であっても,逆にそれゆえに市民参加のむずかしさを意識し,市民参加は「不十分である」と回答しているケースがあることである。「市民参加を前提とした情報公開の必要(それによって市民が都市の現状把握をしたうえでの建設的な意見交換)」という参考想見は,市民参加を得るための心可欠の前提条件として,各都市ともに最低限必要としなければならないものであろう。

 三 推進にあたっての問題

 (一) 実効性確保のための措置

 基本構想(総合計画)が具体的に推進されるための実効性確保の手段,方法としての「事業計画等とのリンクの状況」に関する回答状況は次のとおりである(比率は6十1都市にたいして)。

                  都市数   比率(%)

 ▽主要事業について総合計画

  等と整合した事業計画を策

  定している             44    72.1

 ▽計画との整合性をチェック  

  している              40    65.6

 ▽財政計画をたてて計画の実現

  をはかっている           25    41.0

 ▽人事計画をたてて計画の実

  現をはかっている           2    3.3

 ▽その他 5 8.2

 これによると,大半の都市は,主要事業について整合性のある事業計画を策定するとともに,毎年度の予算査定においてチェックするという方式を用いている。 しかし,財政計画を樹てる方式をとっている都市が4分の1というように必ずしも多くないということは,財政見通しの現実的なむずかしさによるものであろう。

 「その他とは5都市と意外に少なく,その内容は,「実施計画によりリンクしている」というものがほとんどである。

 またこれに関連して,基本構想に基づく実施計画については,すでにみたように49都市で作成されており,しかもそのかなりの都市で「3カ年ローリングシステム」が採用されており,実効性確保のための努力がそうした方法でもなされているところである。

 それでは,計画の進行管理はどの程度できていると考えられているのであろうか。次に

「計画の進捗状況のチェック」について回答状況をみてみよう。

               都市数 比率(%)

 ▽十分できている        16  26.2

 ▽必ずしも十分ではない     34  55.8

 ▽不十分である          6   9.8

 ▽回答なし                    5     8.2

   合 計           61  100.O

 「進捗状況のチェック」が「十分できている」と回答した都市は4分の1にすぎず,「不十分である」との回答は約1割,半数は「必ずしも十分ではない」という回答であり,進行管理のむずかしさを示している。

  (二) 推進上の課題

 基本構想(総合計画)の推進にあたっての問題は,その進行管理のむずかしさの問題とともに,行政体をとりまく主体的,客観的な諸条件にある。そこで,設問「構想及び計画を推進するにあたっての課題」に対する回答状況を次に紹介したい(比率は63都市にたいして)。なおこの設問は,特に課題となっているものを三つ選ぶという方式をとったものである。

              都市数 比率(%)

 ▽財政上の制約        63  100.0

 ▽市民の協力         30   47.6

  ▽都市の確保         30   47.6

 ▽自治体の権限        22   44.9

 ▽国の縦割り行政       13   20.6

 ▽庁内の協力(計画,進行管理

  部局の不備を含む)      13   20.6

 ▽府県の協力          6    9.5

 ▽議会の協力          4    6.4

 ▽職員の資質          4    6.4

 ▽市長のリーダーシップ     3    4.8

 ▽企業の協力            2    3.2

 「財政上の制約」は,すべての都市で課題となっているのは当然のこととして理解されよう。次に,「市民の協力」と「土地の確保」とが,ともに約半数を占めているが,これは,今日の自治体における都市施設建設の主要な問題状況を反映しているものといえる。次いで「自治体の権限」をあげる都市が多いが,これは「国の縦割り行政」と表裏の関係にあり,そのどちらかをあげた都市の数は29都市あり,「市民の協力」, 「土地の確保」に並んで,「自治体の権限」など制度上の問題が課題として認識されているものと考えられる。

 「庁内の協力」「職員の資質」あるいは「市長のリーダーシップ」など庁内的な課題をあげた都市はあわせて18都市28.6lあり,これも決して少なくない数であるといえよう。

 「基本構想(総合計画)」は,それが抽象的な理念の段階にある限り,議会の具体的議論を呼びにくいものであり,そのためか「議会の協力」をあげた都市は4都市と少ない。ここで,「基本構想」に対する議会の対応を設問に従ってみてみると,議決にあたって反対会派のあった都市は8都市(うち1都市は態度保留)で,反対会派は社会党と共産党に限られている。しかもその多くは革新市政になる以前の段階における策定にかかるものであり,主な反対理由は,開発指向や計画の財政的裏付け,民主的手続きに関するものである。

 また,付帯意見の付せられた都市は9都市で,その主な意見は,実施段階での議会との協議や市民への普及,計画美現への努力,都市の方向性にかかわるものなどである。

 四 都市像をめぐって

 次に,都市像をめぐる問題に移ろう。まず,策定足(改定)年度別の都市数(改定済みの都市については改定後のものによる)は次のとおりである。

 【年 度〕45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 計

 【都市数〕11  9  7  5  7  1  3  6 12  3 64

       注・54年度は十月現在のもの

 これをみると,大雑把にみて,昭和45〜51年度と,52年度以降との二つの時期があるようにみえる。一応,前者の時期は,基本構想(総合計画)の初期策定期であり,後者の時期は第1次改定期にあるといえるのではないかと思われる。ただ,49〜51年度は,第1次改定期への兆しの現われる過渡期にあるといえる。

 都市数のパターンとしては,単一性格都市,複合性格都心,総合性格(多機能)都市の3類型が考えられるが,現実には,複合というよりも複数の都市イメージを並列的に併せもった都市が圧倒的に多い状況である。

 そこでまず,回答のあった都市像について,少々強引にではあるがまとめあげると,次のように24種類の都市像にまとめることができる(件数は都市数。1都市で複数の都市像がある場合は,件数は複数となる)。

  都市像     件数      都市像   件数

 文化都市      14   理念的な都市    2

 産業都市      13   自然都市      1

 中核都市・拠点都市  12   平和都市       1

 福祉都市       8   その他       8

 市民都市・自治都市  7  <複合都市>

 田園都市       5   文教住宅都市    9

 生活都市       5   田園教育文化都市  3

 豊かで住みよい都市  5   産業文化都市    3

 環境都市       4   住宅産業都市    2

 健康都市       3   田園工業都市    1

 住宅都市       2  <総合都市>

 観光都市       2   総合都市・多機能都市 4

 人間都市       2   

 快適な都市      2

 極めて大腿にではあるが,年代的な傾向を探ってみると,昭和45〜48,9年頃にかけては.文教住宅都市や田園都市,あるいは福祉都市や生活都市,市民都市といった都市像が多く現われている。昭和49年頃から社会経済構造の変化に関連して,豊かかなまちづくりへの志向性が現われるが,昭和52,3年頃には再び文化都市,産業都市が多く現われ,産業文化都市や住宅産業都市(職住都市)といった都市像も現われてくる。

 昭和50年代にはいってからの,こうした地域自治体における産業の見直しともいえる傾向は,かつての地域開発型というよりも,文化や地域,市民生活に結びついたものとしてクローズァップされてきているように見受けられる。「生活と産業との調和」という課題については(課題の設定そのものには意見,見解の分れるところであるが,こうした課題は,昭和47年以降散見されるとともに,経済の低成長過程の中で,自治体段階ではかなり現実的な課題になりつつあるとみられる。この辺の問題は,都市のあり方の問題としても今後における重要な検討課題になってくるものと思われる。

 また,52,3年頃には,市民都市,人間都市,環境都市,自然都市といった一群の都市像が現われるとともに,この前後に,「快適な都市」といった都市像も現われてくる。他力「中核都市」は,昭和45年以来一貫してみられる都市像である。

 ここで,都市像の具体的な表現について2,3の事例を紹介すると,一つには,「田園都市」あるいは「文教住宅都市」といった表現のみのところ,今一つには,「拠点都市,産業都市,文化都市,福祉都市」と幾つかの都市像を併記しているところ,さらには,「人間のための豊かなまち」あるいは「安全で便利そして健康で快適なまち」「心のふれあう調和のとれた産業文化都市」といったソフトな表現を冠したところに大別することができよう。

 こうしたなかで感じられるのは,「人間都市」といった都市にふける普通的テーマ,あるいは「希望とうるおい・…」といった精神的テーマは,いきおい抽象性が高く,都市の個性を重視するにはなかなかむずかしいのではないかという点であり,こうした点で各都市ともかなりの苦心をされているのではないかと思われることである。

 このほか,都市像とともに「基本方針」や「施策の大綱」を通覧して,最近の特徴として見受けられることば,都市の活力やコミュニティづくりが課題となってきていることであろう。また,昭和45年10月に発表された全国革新市長会の『革新都市づくり綱領』の「都市づくり推進の5原則」の影響がかなりの都市でみられることも注目されることである。  

 

W 基本構想の現状と課題B−まとめにかえて

    アンケート調査結果から

 一 改定の理由背景

 総合計画(基本構想)の見直しの動きは,昭和49年度頃からみえはじめ,52年度以降それは全般的となることはすでにみたところである。

 ここでは,基本構想または総合計画をすでに改定,あるいは改定予定中の都市が回答した,改定理由についてみてみることとしたい。改定の背景としては,基本構想策定後そろそろ十年を経過し,目標年次に到達する都市がふえてきたことがある。ちようどその時期が,高度成長から低成長への経済の構造的な転換期と重なったため,改定の動きが一般化する要因になったものと思われる。

 改定理由について回答のあった48都市のほとんどが,「社会経済状況の変化(高度成長から低成長への転換)」をその理由に上げており,しかもその多くが計画の期限切れをむかえようとしているところである。

 経済の高度成長から低成長への転換は,計画上は基本指標と実態との間のズレとして現われるが,とりわけ人口の伸び率が停滞し,ごく限られた都市を除いては、多くの都市で、計画人口を減少させている。はなはだしいところでは,計画人口規模が半減しているところすらある。

 こうして経済状況の変化は,都市の「社会的状況」の変化を生み,「ものから心へ」の転換をはじめとする「市民意識」や「住民要求」の多様な変化をもたらせ,それが「行政需要の変化」となって新たな行政対応を要求していることが示されている。他面では,こうした経済状況の変化は,都市財政を困難に陥れ,ひっはく化した財政状況下における新たな行政需要への対応の仕方が求められることになる。「計画と現実との間の狂い」は,社会経済状況の変化という都市実態からくる問題とともに、計画を遂行できなくなった都市財政上の問題があるのである。「行財政全体の立場から主要事業の選別,優先順位の再検討」を改定理由に上げるのはそのためであるといえる。

 高度成長下において,都市の拡大を前提として策定された計画の見直しは,新たな行政需要への対応としかも財政事情の悪化をその条件として考えるとき,いきおいそれは「実態」に合わせて計画規模を縮小し,開発指向を弱める結果をもたらせていることがうかがわれる。しかし多面,すでにみたように,都市における産業の重要性の見直しが徐々に進行しているようにみうけられることは,従来のような急激な都市規模の拡大や開発といったあり方とは違った意味で,傾向としては既存のものの再評価ともいうべき方向で,都市の経済的基盤を確立するものとして認識されつつあるように思われる。

 このほか,三全総をはじめとする上位計画との整合性をその理由に上げる都市も多く,人口の伸びの減少とも合わせて,「定住構想実現のため」を理由に上げる都市もみられる。さらに「隣接市町村の計画との整合性」を上げる都市も多少みられることは評価されよう。

 また,特定の地方にあっては,縦貫道路等大型プロジェクトの具体化に対応すべき都市がある反面,同様のプロジェクトの大幅遅延による見直しを余儀なくされている都市もみられる。

 「コミュニティ計画の重視」や「庁内の職員の認識の向上」のために,が改定理由にあることもまた注目されるところである。

 目標年次は,21世紀を展望したものがふえてきているが,これは,計画性の問題として考えるならば,結果論的に計画よりもビジョンを優先させる思想であるといえ,場合によれば,基本構想の性格づけに一定の変化をもたらすことにつながるであろう。

 二 一般的な問題点と課題

 前2回にわたって紹介してきたアンケート調査結果をふりかえってみると,基本構想策定過程における職員参加や市民参加,また計画の進捗状況に対するチェックが十分できていると回答した都市は,いずれも4分の1から3分の1の都市にすぎない。革新都市を対象とした調査ですらこうした結果であることからすれば,一般的にはさらに悪い状態であると判断される。基本構想は,すでにほとんどの都市で策定済みであるが,反面,民間コンサルタント任せといったところもあるように,そのつくられ方や実際上の効用に多くの問題点や課題があるといえる。

 また,基本構想の作品的な価値にしても,それが経済指標を軸とした「基本指標」をベースにおいて策定されるものである限り,経済構造の転換とまではいかなくとも,経済成長の成長パターンの変化によって大きく現実と乖離する結果になるのも,すでに40年代の後半が示したところである。計画行政としては,数年後には修正を余儀なくされたのであり,都市によれば,策定するや否や修正の必要性にせまられたケースもあった。

 こうしたことから,基本構想の作品としての安定的条件とは何かについて,改めて考えてみる必要がでてこよう。

 第1には経済的条件が,第2には政治的条件が,第3には行政的条件が,そして第4には市民的条件がそれぞれ安定的であることが,基本構想を安定たらしめる4条件であるといえる。今や,政治的にも,経済的にも,また都市のあり方にしてもきわめて「不透明な」模索の時代に突入したといわれており,十年先を見通すことはきわめて困難である。

 また,地方自治体は,制度的に4年目ごとに選挙の洗礼を受けるが,十年の間に3度その洗礼を受けることになる。その間,保守から革新へ,革新から保守へ転換することも晋段にあることである。基本構想は,いかに議会の議決を経た自治体の行政指針として一首長の好みで左右されるものではないとはいえ,それが「行政指針」である限り,きわめて政治的意味をもってくることも当然であり,現実には,政治的立場を異にする首長の交代によって,それはいとも簡単にお蔵入りさせられることになる。こうした面からも,十年先を見通すことはむずかしく,時には,十年先を提示することの目的を,現在ただ今の利害におくことすらがあるのである。

 第1の経済的条件に関しては,資源問題をかかえるわが国の特性として,今やきわめて見通しのつけ難い段階にはいっているし,加えて,インフレと不況の影にたえずおびやかされているなかで,自治体レベルで安定的条件を確保することか不可能であることはいうまでもない。また,基本構想を具体化していくにあたっての基礎的な条件としての自治体財政がこれによって決定的に左右される。

 第2の政治的条件としては,基本構想が議会の場をくぐらなければならないために,議会勢力が多党化し,安定した与党勢力が築けない場合には,問題点を際立たすことができず,あいまいなものをつくらなければならなくなる。首長とその政治基盤が代る場合には,基本構想にこめられる指向性は180度転換することになる。

 第3の行政的条件は,これは,首長の政治姿勢やリーダーシッブ性,議会の勢力関係などの政治的条件とも関連しつつ,行政がどこに顔をむけようとするか−中央政府に,あるいは資本の論理に,あるいは住民の生活に,さらには開発指向か福祉指向かといった選択−は,長期にわたって安定的に持続することが困難である。また,庁内的にも,基本構想をめぐって各部課がどの程度まとまっていくかについても,必ずしも容易な問題ではない。またこの行政的条件は,市民的条件とも連動しあい,参加型の行政体質がどこまで築き上げられるかによって,将来的な安定性にかかわってくるであろう。 

 第4の市民的条件,これは第1から第3までの条件が,いずれも将来性についてきわめて不確定的であるのに対して,もっとも安定的であると考えられるが,基本構想がこの第4の条件に上って支えられるには,その策定作業が市民の中にどれだけ浸透し,その結果としてどれだけそれが市民のものたりえているかにかかってくるものである。

 こうして基本構想の安定性は,第4→第3→第2→第1のコースによってより基礎的に支えられてくるものである。こうした基本構想の位置づけないしは限界性の確認の上で,改めてどのような基本構想(総合計画)を,どのような方法,手続きでもってつくらなければならないのかについて,都市に応じた検討をし直す必要にせまられてきているのではないかと思われるのである。

 三 関東型と関西型

 アンケート調査の紹介をしめくくるにあたって,第1回目に提示した検討課題の第2,すなわち「地域特性」がこの調査結果からどこまで導き出せるかについて以下で検討してみたい。

 ここであらかじめ検討上の問題点を指摘しておけば,これはあくまで相対的な域を出ないものかもわからないが,総じて,関西は歴史的,風土的条件が強く,関東はさら地的,政治的色彩が色濃くあるということである。

 なお,アンケート調査の集計にあたっては回答のあった次の都府県内の都市数による。

 関東:茨城1 埼玉4 千葉3  東京6  計14都市

 関西:滋賀1 京都6 大阪12 兵庫2  計21都市

 策定体制と策定上の問題

 策定担当部課が企画調整部門であるということは,関東,関西ともにほとんどの都市がそうであるが,ただ企画調整機能の中身を比べてみると,かなりの違いがでてくる。関東の場合には,「市長の政策決定への参画」をはじめ,調査票に上げられた各項目ともにほとんどの都市がその機能をもっていて総合的な企画調整機能を備えているといえるが,関西の場合には,「複数の部局にわたる問題についてリーダーシップをもって調整」及び「市長の政策決定への参画」以外は,必ずしも多くの都市でその機能を備えているとはいえず,とりわけ,「幹部会の事務担当」や「予算査定に対する関与」の比率が低いことが目につく(関東では両者とも75lにたいして,関西では前者が29・4l,後者が41・2lである)。

 庁内総意が「十分に形成された」とする都市の比率は,関東46・2l,関西35・0lで関東の方が高いが,職員参加が「十分に行われた」とする都市の比率は,関東35・0l,関西30・0lと逆に関西の方が高くなっている。

 国・府県計画などの上位計画との関係では,「上位計画を基本に策定した」都市は,関西では10lあるが,関東ではゼロである。周辺市町村との調整については,関東では「必ずしも十分でなかった」とする都市が83・3lとほとんどであるが,関西では,その比率は57・9lと低くなり,「十分に図った」「不十分であった」がそれぞれ21・1lを占めている。

 市民参加の方法と問題点

 市民参加の方法としては,両者ともに「審議会の設置」が最も多く,次いで「市民意識調査の実施」都市が多いが,これを実施する都市の比率は関西の方が高い。両者を比較しての相違点では,関東では3番目に多いのが「市民集会の実施」で42・9lの都市がこれを実施しているが,関西ではこれは第5位で38・1lである。これに対して,関西では「広報紙等による意見聴取」が第3位で52・4l,第4位には「各種団体との協議」が42・9lを占めている。関東では「広報紙等による意見聴取」も「市民集公の実施」とならんで第3位を占めているが,その比率は42・9lと低く,「各種団体との協議」を行っている都市も35・7lと関西を下まわっている。また関東では,「市民策定委員会の設置」や「市民集会の実施」など新しい市民参加の手法がその特徴をなしているが,関西では伝統的な縦型の手法が支配的であると一応いえるのではなかろうか。

 市民参加がどの程度図られたかの程度については,「十分図られた」とする都市は関東では23・1l,関西では30・0lである。

 推進上の課題

 実効性確保のための措置としては,関東では「毎年度の予算査定において計画との整合性をチェックしている」及び「財政計画をたてて計画の実現を図っている」都市の比率が関西よりもかなり高く,関西では「主要事業について総合計画等と整合した事業計画を策定している」都市の比率が高いのが特徴である。

 計画の進捗状況のチェックについては,「十分できている」とする都市の比率は,関東21.4l,関西14.3lと関東の方が高くたっている。

 「構想および計画を推進するにあたっての課題」としては,「財政上の制約」は両者ともに,100lと全都市がそれを課題として回答しているが,2位を占めるのは,関東では「国の縦割り行政」と「土地の確保」であり,関西では「市民の協力」と「土地の確保」である。第4位は,関東では「自治体の権限」と「庁内の協力」であるが,関西では「庁内の協力」であり,「自治体の権限」は第5位である。関東で第2位の「国の縦割り行政」(50l)は,関西では第6位(10.5l)にすぎず,関西で第2位の「市民の協力」(57.9l)は関東では第6位(16.7l)にすぎないところに大きな相違点がある。

 こうしたことからうかがえることは,開東の諸都市では,東京とその周辺に存在する関係から,やはり国政との政治的緊張関係が高く,関西ではその歴史の古さからか,住民との伝統的関係が強く,そのために住民との関係でより苦労をしているように思われることである。

 なお,都市像に関しても,関東では「文教住宅都市」が多いが,関西では「産業都市」「文化都市」といった都市像が比較的多いように見受けられるのもそれぞれの特徴を形成しているものと考えられよう。

 

 X 地域総合計画行政の発展と課題

 一 その前史として

 (一) 観念としての「策」と「判断」

 地域総合計画のもっとも早いものとしては,古代における造都が考えられる。いわゆる「さら地型」の総合的な都市づくりとして,もっとも典型的にして大規模なものといえる。それは,大和の平城京の建設であり,また,山背(京)の平安京の建設である。東西約4・2`b,南北約5・2`bに及ぶ平安京の造都は,793年に造官使が任命され,794年に遷都をみた上で806年に造官職が一応廃止されるまでのおよそ13年間でほぼその造都は遂行されたのであるが,その都市基盤の原型は,現代に至るまで継承されてきていることからもうかがえるように,およそ今日でも想像し難いほどの総合的な計画があったであろうことは想像に難くない。それは,唐の洛陽,長安の都城を模倣したものであるとはいえ,そこには,自然的条件の活用と一定の改変−といっても大変な土木工事であるが−が,きわめて綿密にはかられているし,また,日本的な加工の手がいかんなくつくされている。

 時代を下れば,中世末から近世初頭にかけて,全国各地に,城下町や門前町,宿場町等々といったものが形成される。とりわけ城下町の形成は,政治都市づくりの全盛期をむかえるといっても過言でない程の,すばやく,あざやかな手並みというものが発揮される。

 しかし,古代から近世に至るまでの,ある意味で驚異的なそうした政治的都市づくりというものは,必ずしも,今日においてつまびらかではない。また,自然的に形成されてきた宿場町や門前町,あるいは商工業都市(同業者町)や港湾都市というものは,自然的に「成って」きたものであるだけに,そこには必ずしも「計画」というものはなかったといえる。しかし,近世までの地域の集落や共同体の形成は,それが「成って」きたものであったとしても,やはりそこには共同体の意思というものが確立し,それによるフィジカルな,またソフトなプランの実行というものが積み重ねられてきたであろうことは疑問の余地がない。

 近代に至って,西欧風の都市づくり,地域組織づくりというものが考えられていく中で,そうした前近代を流れてきた地域づくりの手法というものが,おそらくは忘れられていったものであろう。

 富国強兵を国是とした明治の国づくりは,鉄道,通信網の建設,国民教化策,殖産興業策など,そこに幾多の矛盾を抱えつつも,結果的にかなりの整合性をもった形ですすめられてきている。そこには,行政的,組織的な計画というものはないにしても,この時代から登場してきた政治家の個々ないしはその集団の判断の中に,ある種の「総合性」と「計画性」はおのずと内包されていたとみなければならない。国づくりにしても,町づくりにしても,それは,例えば近代化「策」として,あるいは頭の中における「判断」として企画され,実効されていったものであろうと思われるのである。

 (二) 個別計画の発達

 戦前から戦後にかけて,なお官治主義の強い我が国にあっては,国づくり,地域づくりともに行政がそれを主導しているだけに,財政執行を中心としていきおい事業の計画化ははからなければならなくなる。個別年次計画がそれである。

 高度成長期に至るまでは,そうした個別縦割の建設計画,事業計画が,○○○○何力年計画という形で,国政,自治体を問わず順次発達してきた。

 この段階での計画は,官治主導の時期にあったことに加え,個別縦割の実施計画であったことから, ○上位計画を受けた下部計画であること, ○各計画間の横の連携,調整の欠如, ○予算の後年度にわたる先取り確保, ○役所型の内部実務的計画といった特徴をもっていた。

 とりわけ,予算執行を中心とした役所内部の実務的計画であったことから,それは,市民に開かれたものではなく,また地域全体の総合的な計画でもなかったといえる。従って,昭和30年代における地域総合計画というものは,総合調整の上でつくられるのではなく,それは,個別縦割部門における諸計画の合本であったといえようし,また「ソフトプランを含まないフィジカルプランであったといえる。

 地域の総合的な計画というものが必要とされだしてきたのは,やはり高度成長による社会的諸矛盾が拡大してからであろう。ここに至るまでの諸計画には,社会政策面はほとんどなく,開発計画がその主流をなしてきた,その結果として社会的諸矛盾が発生してきたのであり,地域総合計画は,そうした過程を経てその必姿性にせまられるに至ったのである。

 二 総合計画行政の発展

 (一) 総合計画の必要性

 高度成長は,ある意味で予測をこえた経済発展によってもたらされた。その限りで,地域開発も,無計画,無秩序に,民間主導で展開したともいえよう。社会資本の不足が指摘され,公共投資が後追いの形ですすめられる。こうした高度成長のもたらした不均等発展のひずみは,都市問題の激化となって現われ,ここに地域における社会政策の立ち遅れと,地域主体の整合性のとれた発度の必要性とが自覚されることになる。これが,地域における総合計画が必要とされるようになった第1の理由であろう。

 第2の理由は,やはり高度成長期を通して,大型プロジェクトをはじめ,地域開発計画がすすめられるが,そうした開発プロジェクトは,それなりの地域における整合性,既存の地域とのあつれきの調整を計画的にはたしていかなければならないことから,おのずから,それなりの地域総合計画というものをつくってきたということ。

 第3には,そうした過程を通して,計画手法というものが発達してきたことが上げられよう。科学的な計画手法とはいっても,まだまだそれは実際の計画に対する補助的な位置を占めるにすぎない段階にあるとはいえ,コンピュータの導入による予測,シミュレーションの発達,社会調査の技術の発達とそうした専門コンサルタントの登場,計画技法の発達等々,地域の全体像を把握し,その将来をある程度予測する技術,手法というものが開発されてきたということは,地域における総合計画の樹立を可能にするものとしてやはり大きな意味をもっているといえよう。

 昭和44年,新全国総合開発計画を受けた形で,地方自治法に「基本構想」の規定がおりこまれるに至るには,やはりこうした過程をみのがすことができないであろう。

 (3) 総合計画の発展

 「基本構想」の規定が自治法におりこまれた時期は,高度成長がいよいよ伸展している時期にあり,その直後につくられていった各都市の「基本構想(総合計画)」は,やはり地域開発,都市の拡大というものを前提に策定されていったといえる。しかしそこには,すでに2つの流れがあったとみなければならない。一つの流れは,地域開発の肯定,継続であり,今一つの流れは,それによってもたらされる社会的諸矛盾,とりわけ経済成長至上主義に対する抵抗としての人間生活の複権の主張である。

 それら二つの流れは,首長の政治姿勢などにもよって,都市によって異る反面,一つの都市内部においても,この二つの流れは混在した形でくみこまれていたといえる。

 そうした中で,都市の諸機能が,産業活動の場であるよりも,人間生活の場であるとする主張が,都市問題,公害問題の激化の中で急速に強まってくる。シビル・ミニマムは,そうした人間都市としての最低条件を確保する手法として,各都市でとり入れられていくことになる。しかしこの過程は,民間主導の乱開発によって結果させられた社会資本の絶対的不足を解消するところにその主眼がおかれたのであり,産業開発を中心とした建設行政から,市民の生活基盤の整備へとその行政の重点を移したとはいえ,やはり数量化でき難いソフトプランの具体化は,以後の課題として残さざるをえたかったといえよう。

 すでにふれてきたように,基本構想(総合計画)は今日一定の転換期にさしかかっている。かつて,昭和25年に国土総合開発法が制定されて以降,多くの都府県で総合開発計画の策定が試みられたが,それらは単なる青写真やビジョンの域を出なかったといえる。また現在,ほとんどの市町村で「基本構想」が策定されているとはいえ,それが実効性をもっている自治体は決して多くない。しかも今日,各種の社会的矛盾をはらみつつも一定の経済的発展を遂げてきた都市にあって,改めて,都市とは一体何なのかという問題が,都市の個性のあり方とともに問われるに至っている。

 都市は,単に行政区域や団体自治としてのそれだけではなく,都市社会としての生きた実態をもっており,そうした都市を対象とした基本構想(総合計画)は,かつての行政計画としてのみではなく,同時にそれは,市民レベルの都市構想でもなければならないものとなりつつある。そうした試みと傾向は,すでにアンケート調査の紹介を通してもみてきたところである。

 三 総合計画行政の課題

 (一) 計画手法とその限界

 計画思考や決定のシステムというものは,長い間,経験や勘による個々人の頭の中のも のとして,ブラック・ボックスになっていたといわれている。しかし,総合的な社会計画になると,それは一人の頭脳によって生み出されるものではなく,社会的判断によって決めていかなければならない。そのためには,社会的合意を形成しなければならないが,同時に,その合意を形成するシステムや,社会的判断を科学的に導き出す手法もまた開発する必要が生じる。

 複雑多様な社会に対して,これを単純なモデル化をはかることによって,将来を見こした政策を計画的,科学的に決定していくことは,いかに計画手法や技術が発達してきたとはいえ,地域計画全般について,これでもって決定していくことは困難である。個別計画の場合はともかくとして,総合計画においては,まだまだ情緒的判断が重要なウェイトを占めてこざるをえない。

 その原因としては,計画間調整が,例えば連関表のごとくにはうまくいかないし,またその前提としての,都市社会の,社会・人文科学的側面を総合的に把燈することの困難さがある。そうした側面は,数量化をはかることによってどうしても現実と乖離せざるなえなくなり,ソフトプランが容易にたたない結果をもたらす。

 こうした計画手法の問題を考えるとき,改めて,総合計画とはいったい何なのかについて再検討する必要にせまられるのである。それは決して万能策ではありえないのである。

 (二) 計画と対策

 計画とはまた少し異った意味で,行政には「対策」というものがある。ある種の問題を解決する,ないしはある種の問題に対応するための行政施策がそれであり,災害対策とか,中小企業対策あるいは農林業振興対策などといういい方で表わされている。その対策の中に,個別部分計画が含まれていることがあるが,その場合の計画は事業計画にすぎず,その計画が達成されても対策はなお続くことになる。

 対策として出される施策は,事業実績としては蓄積されるが,解決ないし対応しなければならなかった問題との関係において,必ずしもその成果は科学的に測定され難く,行政効果がはかれないという問題がある。すなわち,ソフトプランというものは,事業計画は可能であっても,根本の問題解決の手法としての計画というものはどこまで可能かという問題が残されるのである。

 さらに「計画」というものは,新たな開発事業には不可欠なものであるけれども,既存の社会の人的,物的改造にははたしてどこまで有効であろうかという問題もある。既存の都市社会の諸問題は,むしろ「調整」作業がより多くのウェイトをもってくるのではないだろうか。

 (三) 参加から計画主体へ

 個別事業計画,あるいはその寄せ集めとしての"総合" 計画の場合,それはすでにみたように役所内部の計画にすぎない。しかし,都市地域全体にわたって,すべての問題にかかわろうとする場合,いきおいそこでは市民合意を必要とせざるをえない。

 それは行政計画であると同時に,単なる行政をこえた市民の社会計画でなければならないからであることはくりかえすまでもないであろう。

 また,すでにみたように,地域総合計画の策定を科学的に処理するだけの手法は今日未だ確立していない状況からしても,都市社会共同の計画というものは,その構成員の合意の形成なくしてありえないのである。

 「基本構想」は,それが地域の総合計画である限り,それは単なる狭義の行政指針ということではなく,またその策定に市民が参加し,かかわるというレベルの発想ではなく,あくまでそれは市民計画であるとの大胆な位置づけが必要となってきているのではないだろうか。

 行政指針の作成にあたって市民参加を得,市民の同意を得るというレベルをこえて,市民を計画主体とした都市構想づくりというものこそ考えられなければならない。行政機構はそのための事務局である。こうしたベースの上で,今日でははじめて行政計画もまた技術的に可能となってくるのではないだろうかと思うのである。

 

Y 歴史的コミュニティ論

 一 紙園祭を支える鉾町

 例年7月17日,おそらく台風が直撃でもしない限りは必ず執行される祇園祭が,京都を代表する伝統的祭り(民俗行事)である理由は,祭りの規模の大きさや豪華さにのみよるのではなく,それが,京都の都市民と都市形成の歴史的根拠をいかんなく現わしているからにほかならない。

 いうまでもなく京都は,古代都市の上に,中世から近世を経て歴史的に断絶することなく,近・現代都市として存続している。それは,幾度となく戦禍や火災によって焼失しているが,その度に常に再建され,歴史的に断絶することはなかった。この千二百年に及ぶ都市の歴史は,ただに文化財や文化遺産としてではたく,都市形成のあり方が,経験則として無尽蔵ともいえるほどに内蔵されているところにその意義はあるといえる。

 都市におけるコミュニティや地域社会というものが問題とされるようになってまだ日も浅く,多くの都市や地域で多様な実験的試みや課題提起がなされているが,そうしたコミュニティをめぐる問題が,わが国では未だ問題提起の段階にあると思われるだけに,歴史の経験に学ぶあり方も議論の一つとして提起する意義があるのではないかと思うところである。

 祇園祭の山鉾は,現在では31基が復活している。31力町がそれぞれ1基の山ないし鉾を保存継承しているのであるが,その地域は,机上の大雑把な計算からすると,北辺3条通(東海道につながっている)から南辺松原通(旧5条通)までの約1200b,東辺東洞院から西辺油小路までの約660bの範囲であり,その地域における半数近くの町がこれにあたる。往時は,この地域内のおそらく全町が山や鉾をもっていたものであろう。

 この地域は,近世までは,御所と西陣を中心とした上京に対して下京と称され,昔も今も,京都の最も中心部を構成すると同時に,その時代その時代の京都の実態的な顔を代表してきた。現在においても,商業,業務機能がもっとも集積した地域であると同時にもっとも伝統的な居住地区でもある。しかもこの地域は,町の区画が,いわゆる碁盤目状として平安時代以来,千二百年の間,基本的には変ることなく続いてきているのであるが,その構造は,まったくもって,見事につくりかえられることによって今日に引き継がれてきているのである。

 朝廷を中心とした中央政治都市が,数百年の歴史を経る中で,そこに住み,働く商工業者のまちに,ある意味で「自然」につくりかえられていったのであり,これは,都市の再構築であると同時に,それを現出させた地域社会,コミュニティの誕生でもあったといえる。いわば住民を中心とした地域社会の出現は,数百年の前史をもちつつ15世紀から16世紀にかけての戦乱の時代に華開くのであるが,同時にこの時代には,全国的な秩序が破壊していく中で,堺をはじめ,奈良や石清水(八幡),堅田(滋賀県)など地方における自立的な都市形成が,全国的に展開するのである。

 二 ブロック都市からコミュニティ都市へ

 平安京の都市区劃が,はるかな時代をこえて現代に生き続けたには,それだけの柔構造が当初から用意されていたともいえよう。奈良の平城京と京都の平安京とは,その規模に多少の差異があったとはいえ,同じような都市区画劃をもっていた。しかしこの両京の根本的に異った点は,平城京では先に全体が抑えられた上で,内部の道路と区画とがつくられたために,区画割が必ずしも一定しなかったけれども,平安京では,部分区画を先に確定した上で,これに道路を加えることによって,部分区画の集積として全域を確定したといわれている。そのため,区画割は見事に一定している。

 しかし,いずれにしても平安京の都市としての最大の特徴は,区画割の集合体としてのブロック都市であるということであろう。平安京の地割の基本単位は,約120b4方の区画におかれ,これを1町として,この町が16で1坊とされた。京域全体では計算上71坊あったとされている。宅地の班給にあたっては,公卿には1町が,一般人には1町を32に分割し,その一つを1戸主として班給した。

 道路は,中心部を南北に縦貫する幅約84bの朱雀大路をはじめ,24bの大路,12bの小路でもって構成されていたが,道路名はなく,区画の表示は,東西を示す「条」と南北を示す「坊」等によって表わされていた。何条何坊ということで,今の郵便番号ではないが,数字の列記によってブロック地点の表示がなされたのである。

 このように,政治都市として一気に人為的につくられた平安京も,そこに生活が定着し,生産活動が活発化してくるにしたがい,当初区割的な意味をしかもたなかった道路も,道路本来の生産的な意味をもってくるとともに,日常的な便益のために,固有の街路名をもつようになり,地点表示も街路名をもって現わされるようになる。さらにすすむと,平安京が造営された当時の「町」は,あくまで区画の単位にすぎなかったが,ここに地域共同体が形成されるにしたがい,地域社会としての町が誕生し,固有の町名を有するようになる。このようにして,鉾町を中心とした現代の都市部の原型が形成されてきたのである。

 そこで,現在の京都市の中京及び下京区の地図をみると,一見して誰れもがその特徴に気づくはずである(図3照)。京都の都心部の中心地は,東西の四条通と南北の烏丸通のクロス地点の周辺であり,ここに商業,業務機能が集積しているが,この周辺にのみ,正四方の区画が連なっている。この地域かいわゆる「鉾町」なのである。その周囲も,元は正四方の区劃であったが,秀吉政権時に,その真中を南北に切られ,短冊型の区画に分割されたのである。鉾町を中心とした地域のみが,その自治組織の強さゆえにそれをまぬかれ,今日に至るもその型を継承しているのである。

 そうした自治組織としての地域社会の強固さは,その基礎を「町」共同体においていた。中世から近世初頭にかけて形成された「町」共同体は,通りを挟んでその両側でもって形成されている。かつて平安京においては,町は地域社会を意味するものではなかったが,この区画を基盤としながら,生活や商工業の発達とともに,道路を中心に「町」共同体という地域社会の最小単位にして最も基礎的な組織ができ上がってきたのである。

 図の点線内で,今日の鉾町の一部を事例として紹介すると,そうした「町」共同体が現代に至るも引き継がれてきていることがよくわかる。道路を中心として,いわば亀甲状に「町」共同体が連なっている。往時には,その通路の入口(東西と南北通路の交差地点)には木戸が設けられ,その周囲には環濠で固められることもあったというほどの,自治・自衛の強固な地域社会を構成していたのである。

 このように,正四方という区画の原型をもちながら,当初にはそれがあくまで区画の単位でしかなかったものが,道路を中心とした地域社会に転換していったところに,京都の歴史的な都市形成の特徴があるといえるのである。そうした都市形成は,ある特定の1時期に,人為的になされたものではなく,京都か,王城の地からそこに住む人々の都市に育っていく過程として,まさしく歴史的経験の積み重ねの中で,経験側的にでき上がってきたものといわなければならない。そこでは,ハードな都市づくりは,基本的にはソフトな地域社会の形成によって構築されてきたといえるのである。

 三 コミュニティの歴史的変遷

 京都市民の古代から現代に至るまでの展開過程は,「京戸」→「京童」→「町衆」→「町人」→「市民」というように跡づけることができる。これを時代と対比させると,古代にあっては「京戸」,中世前期にあっては「京童」,中世後期にあっては「町衆」,近世にあっては「町人」,そして近代以降において「市民」ということになる。

 これを地域社会との関係でみていくと,京戸の段階では未だ官制の都市として地域社会は未確立であり,官営工房等から商工業者が独立し座を組む段階が京童の段階であるが,これも未だ地域共同体としては未成熟な段階にあり,町衆の段階で,「町」共同体として歴史上もっとも強固な地域社会か確立する。

 この「町衆」は,古代国家の解体過程から中世を通して形成されてくるが,決定的には,応仁の乱によって京都が荒廃する中で,自立・自衛の強固な地域共同体を構成する者として登場する。武装兵力まで備えた自治都市の誕生である。

 しかしこれも,織田,豊臣,徳川と続く天下統一と封建社会の確立の中で,武装を解除されてその権力支配の中に組みこまれ,封建制度下における1都市となる段階が町人に相当し,これは町衆とは違って,与えられた政治的枠組の中で,地域共同体を営むにすぎないのである。けれども,中世末において強固に確立した「町」共同体は,いわばその自衛力は奪われはしたが,自立した地域共同体としての機能は以後においても維持し続けるのであり,これが先にみた鉾町の状況にも現われているのである。

 そこで近世における京都のコミュニティを少しく紹介してみたいと思う。

 基礎的なコミュニティとしてはすでにみたように「町」がある。1町には通常およそ30戸程の戸数があるが,この町が幾つか集まって「町組」が構成され,さらにこの町組が集まって上京,下京の二つの大連合組織をつくり上げている。

 これらは,歴史的に自然に形成されてきたものであり,上京と下京とは地域社会としてはまったく別個のものであった。16世紀初頭には,上京では5町組,120町,下京では5町組,66町の形成がみられるが,19世紀初頭では,上京は12町組,760町,下京は8町組,619町に発展するとともに,禁裏6町組,80町が形成されていた。上京,下京にはそれぞれ「集会之衆」という審議決定機関がおかれ,前者では革堂が,後者では六角堂がその場所とされ,それぞれの地域社会の中心とたっていた。

 しかし,地域社会の運営の基盤はあくまで町にあり,町には「定法度」などの憲法が定められ,戸籍や公証人業務をはじめ,年中行事や相互扶助なども行われていた。さらに今日的な課題とも関連して注目されるのは,御汁あるいは汁講や町汁という町の寄合が毎月定例的にあったことで,これが町運営の最も重要な場であった。そしてその寄合が行われる場が「町会所」であり,これは,現在の祇園祭山鉾の飾席にみられるところであり,自治の原点としての町会所は,鉾町では今日なお存続している。

ちなみに,町の「定法渡」の最も古い例である鶏鉾町の例(1562年)をみると,17か条でもって構成されており,その第1条に「毎月御汁可有之事」とあり,第4条には「於会所談合之刻不能出以来何と申候とも承引有間敷事」と寄合に出席しなければ何を決められても文句のいえないことが明確に示されている。このほか,家を買った場合には十分の一税を町に支払うことや米屋等には家を売ってはならないことなど,家に関する細かな規定がみられるが, これは、町の成員としての資格や基本的な権利,義務に関する事柄であるからであろう。

 4 小学校区と新たな課題

 京都市における小学校と地域との結びつきは他都市と比べてかなり密接である。旧市街地にあっては「元学区」といういい方で呼称されているが,町内会と行政区とを結ぶ中間点として,行政と地元利害のパイプ役という重要な役割をはたしている。

 小学校区が「元学区」としてなかば行政領域として把えられ,またそうした実態をもっている理由は,この「元学区」の淵源が,先にみた町の連合体としての町組にあるからにほかならない。

 明治にはいって,先にみた町組は地域的に再整理され,上京,下京ともに33の番組に再編成された。番組の規模は,南北4町,東西3町を基準とし,平均25,6町,人口約2,000〜5,000人種度で,この番組がそれぞれ小学校を設立した。番組小学校と称して,当初には自治行政機関をも兼ねたのであり,今に至るも学校の敷地内には消防団の施設や会所が併置されている。そのため,京都の旧市街地の小学校は,今なお単なる教育施設のみではなく,地域社会のシンボルであり,元学区は地域社会の一つのまとまりなのである。

 しかし,近年の都心の過疎化現象はこの京都にも及び,元学区の空洞化かようやくにして重要な問題とたってきているし,またすでにみた鉾町の夜間人口も減少の一途をたどり,今年にはいって夜間人口ゼロの鉾町も誕生した。しかし京都の特性は,そうであってなお地域的連帯が失われずに鉾は何事もなかったかのように巡行を続けるところにある。にもかかわらず,やはり都心部の荒廃は避けられないのであろうか,今やその岐路に京都はさしかかってきているのである。

 

Z 明日の都市づくりにむけて

 一 地域社会としてのコミュニティ

 これからの都市が,単に政治的な保守,革新の主導権の争奪戦の場であることを超えて,真に住民自治に支えられた参加型の都市自治体というものを実現しようとするとき,住民参加の具体的にして基礎的システムとしてのコミュニティは,決定的ともいえる重要な位置を占めてこざるをえない。

 しかし,コミュニティという用語が,外国語のまま定着しつつあることにもより,その受けとめ方や理解の仕方は必ずしも一様であるとはいえない。

 ただ,ここでそうしたコミュニティの定義や概念についてのべる資格や用意を有するものではないが,必ずしもその理解が一定のものではないだけに,ある種の危惧の念を懐かざるをえないのである。

 前近代に関しては,地域共同体というものの存在があり,わが国には,村落共同体を中心とした論争が戦前から展開されている。これに対して,都市における共同体論というものは,それが前近代に関するものであってもほとんど皆無に近いものであるといえる。

 現代社会を対象にコミュニティを論じる場合,それは前近代における共同体論を再現しようとするものでないことは当然のこととしても,まったくそれと断絶した次元のものであるか否かについては疑問の余地はある。

 行政レベルでコミュニティを取り上げる場合の一つの危惧は,いかに豊かな表現でそれが表わされていても,結局のところ,その地域における都市施設の存在度や必要度を計算するための,ある種の画一性を基準として地域区画を設定することに終りかねないということ,すなわち,行政区画としての地域ブロック単位にすぎなくなる恐れがあるということ。これでは,地域社会としての本来の意味は見失なわれかねないといえよう。

 コミュニティは,あくまで人間のその地域における社会関係としての組織でなければならない。地域における人間の社会関係は,本来的には行政の介入するべきものではなく,助成や誘導にとどまるべきものであるだろうし,また,その地域範囲の確定も,行政が画一的にこれを行うことに疑問なしとはいえないものがある。地域における社会関係とは,その地域における生活や経済などのくらしの実態から自ずと構成されてくるものであろう。

 しかし,現代都市において,その都市市民がはたしてどれだけ地域における共同生活体的な組織を望んでいるかは,都市市民の指向するところが,村落共同体的束縛からの解放であることや,すぐれて個々人の多様なる存在形態であることなどから,むしろ多分に否定的な感じを懐かざるをえない。

 前近代における地域共同体というものは,それが村落であれ都市内のものであれ,働くこと,すなわち生業を中心とした地域的結合体であった。当然のこととして,そこでは生活と生産と文化とは混然一体をなしていた。

 現代の都市社会において,仮りにそうした地域共同体を求めようとする場合,地域共同体を必要とする利害は,はたして地域生活上の利害のみなのか,あるいは政治参加の地域的組織としてなのか,そうした地域利害の実態を具体的に把握することが必要となってくる。

 地域における社会生活は,当然のこととして一定の権利と義務を課すことになる。現代都市におけるそうした地域社会としてのソフトな側面のあり方が,コミュニティ形成にあたっては,まず先行して十分なる検討を試みる必要があるのではないだろうか。

 2 歴史の教訓から

 本試論の連載を始めるにあたっての視点の一つとして,「歴史的条件は付帯的なものとしてよりは,以後の都市づくり(都市再開発)における土壌としての基礎的な条件である」との問題提起を行ってきた。連載を終るにあたってもなお抽象的な問題提起の域を出ることができなかったが,ここでは少し観点は異るが,都市づくりにおける歴史の教訓について2,3の指摘をしてみたいと思う。

 まず第1の教訓は,ソフトな地域社会の形成によって,ハードな都市がつくりかえられるということ。第2には,地域のブロック区画化は為政者の都市計画であるが,地域社会は道路を中心に形成されるということ。第3には,区画や道路の表示は,当初は数字でも って表わされても,やがてそこに個性が育つことによって固有の名称がつくられてくるということ。そして第4には,都市づくりにあっては,将来の都市発展のゆとりが当初から用意される必要があることなどを一応の問題としてあげることができよう。

 まず第1の教訓は,平安京が数百年の歴史の中で,その原型を活用しつつ,ブロックの集合体としての都市から道路を中心としたコミュニティ都市へ換骨奪胎したのは,都市商工業者の誕生とそれによる地域共同体の形成によるもので,これによって平安京は,見事な都市再開発の歴史を経験したのである。

 つまり,歴史の教訓の示すところからすれば,為政者としていかに完ペきな都市づくりを行っても,それが完ペきであればある程,必ずつくりかえられる運命にあるということである。かつて洋の東西を問わず,都市はそれが不用となった段階では捨てられて廃虚となる歴史を繰り返してきたが,今後将来におけるわが国の都市にあっては,積極的にか消極的にか,肯定的にか否定的にかを問わず,つくりかえることによって新たな再構成を永遠に続けていく以外に道は残されていない。そして,それを可能とする鍵は,都市づくりにおけるソフトな地域社会の形成をどのように把えるかにかかっているといえよう。

 第2の教訓は,都市づくりにおけるブロックと道路の問題である。これによって,地域というもののもつ意味がまったく異ってくるのである。これも歴史の教えるところからすれば,為政者が住民を支配する方法論としては,地域のブロック化は,つねに,同一地域に同一種類の住民を配置しそれを掌握するための機能的な「場」であったといえる。道路は,ブロックとブロックを区別する境界域であった。

 これに対して,地域社会の形成という視点に立つならば,道路は,コミュニティ道路として,地域コミュニティ形成の機能的な場として現われる。いたずらな道路の拡幅と通過道路化は,歴史的に形成された地域コミュニティをも破壊する。その例は,京都の代表的な伝統産業としての清水焼の産地が,その中心をなしていた5条通の拡幅とバイパス化によってコミュニティを破壊され,今や産地崩壊の危機にすら直面しつつあることにもみられる。

 家と家,住民と住民は,道路によって結びつく。コミュニティ道路は同時にインフォメーション道路でもある。そのために道路は,それが商業道路であれ生活道路であれ,狭い方がコミュニティ機能をより多くはたすこともまた歴史の教訓の示すところであり,道路は単に,人や車が通過するところとしてのみではなく,地域社会における実態的な機能を十分検討しなければならない。

 そのことは同時に,第3の教訓に結びつく。道路や地域が地域社会によってその実態を付与されているとき,自ずからその道路や地域には固有の顔や表情が生まれる。そしてそれが固有の道路名や地名として定着し,そこに歴史が記録され,個性が表現されてくる。かつて平安京がブロックの集合体都市であったとき,きわめて合理的な数字による地点表示がなされていたが,具体的な地域像を反映せず,結局形骸化の道を歩み,庶民は,地域社会の形成とともに自らの通称名をつくり出す。やがてそれが歴史的に定着して,公式表現としても認められるようになる。そうした歩みを平安京はしてきたのであり,地名表示の数式化は,過渡的役割としては認められるものの,それは決して歴史的に形成された名称にとって代られるべきものではない。

 第4の教訓は,将来にむけての発展余力を秘めた柔構造としての都市のあり方であり,千二百年に及ぶ京都の都市としての継続,発展の一つの鍵がここにもあると考えられる(これに関しては後述)。

 三 多様なコミュニティと多様な都市

 地域社会形成の基盤は,一定地域における人々の共通利害を求めるところにある。当然そこには自然的,風土的条件も含まれてくる。そこで問題となるのは,共通利害の変化である。それは時代によって変化すると同時に,地域的条件によっても異ってくる。しかし地域の共通利害は,日常的地域生活と生産と文化とが分離するにつれて希薄化する一方,地域的差異も薄れて普遍化傾向をうむことによって,より広域的になるとともに,他方では画一的手法でもって把握することが可能となりつつあることも必ずしも否定しえない。加えて,行政が住民にかかわる仕方は,それが「平等性」,「公正性」と「効率性」を伴う限り,行政情報の伝達機能としての画1的手法は不可欠のものともなりかねない。

 京都のコミュニティは,近世から近代に移行する時点において,行政権力によって画一的,合理的に再編成された。近世の町共同体は,それが自然的に形成されたものであるために,町から町への地域的連携が一面では連続したものでありつつも,他方では親町に対する枝町や新町が必ずしも地域的に連続しない形で発展したため,地域社会の全体像としてはかなり複雑な様相をも呈していた。それを近代になって,すでにみたように地域区割的に,しかも各コミュニティが平均した力を備えるように,規模についても標準化を試みた。そしてその試みは,近代京都の発展の原動力ともなりえたのである。

 このように,近・現代におけるコミュニティを考える場合,とくに都市部ではある程度の画一化は避けられないものであろう。しかし,それがどこまで絶対的なものであるかは,その地域における具体的な市民像や歴史,地理的条件等にかかっていると思われる。すなわち,現代都市社会におけるコミュニティ問題は,一方である程度の画一的あり方というものが要請されるとはいえ,他方では逆に,それがあくまで地域の共通利害を求めるものである限り,特殊地域的あり方というものがなお必要とされよう。

 現代社会,あるいはその中における市民の存在形態というものは,決して理念的,抽象的な完成形態としてあるのではなく,現実には,歴史性をその体内に内蔵しつつ,しかも諸種の条件のもとで,多様なる過渡的存在形態のもとにあるといえよう。

 そうした意味で,今日におけるコミュニティとその集合,集積としての都市のあり方というものは,一方では,現代社会における普遍的市民像というものを求めつつも,他方では,伝統的な地域社会やその歴史,風土的条件,あるいは生産活動のあり方や文化の存在状況など,多様な条件に支えられた多様な存在形態をも希求しているのである。

 四 明日へのゆとりを残して 

 現代都市は,巨大な経済法則の下に無秩序に拡大し,そして逆に都市の荒廃をもたらせつつある。それだけに,都市の無秩序な発展−それは都市の,というよりも,市街地の,という方がより正確かもしれないが−に対して,都市の計画的な形成が必要とされるのはいうまでもない。

 しかし,都市形成というものは,それがいかに完ペきな計画であったとしても,決して計画し尽せるものではなく,自然に出来上っていく要素が当然ついてまわらざるをえない。それは,人間の行動原理や経済活動を将来にわたって予測し尽すことには限界があると同時に,それらはつねに新たに発生する与件によって変化するものであるからである。いずれにしても,都市のあり方というものは,自然科学の分野だけではなく,社会科学や人文諸科学の参加による総合科学的な対応を必要とするものであり,それだけに,必ず未知の部分を残さざるをえないのである。そのために,これからの都市づくりというものが,そうした未知の部分をどのように計画の中に,余地としてとり入れるかがきわめて重要な課題となってくるのではないだろうか。

 換言するならば,都市における計画性と都市自身の自律運動の問題である。都市自身のもつ自律的運動法則は必ずしもそれを予見することは容易ではないし,またそれを計画化することは可能ではない。自律運動に対して必要なことは,それへの与件を計画段階でどのように設定するかということである。

 都市の自律運動は,繰り返すならば,地域社会というソフトな側面の動向によってそれは左右されることからすれば,都市は,地域社会,すなわちコミュニティの自律的な発展に対しての将来的な余裕をどこまで用意しているか,あるいはどれだけ将来的な可能性を残しているか,あるいはそのための与件をどれだけ設定しているかが問われるのである。

 新しい都市づくりは,諸種の限界があるにしてもそれなりに可能であり,存在する問題は,以後の歴史に積み残されることで済むともいえる。しかし,既存の都市の再開発はきわめて困難な課題であることに違いはない。京都の都市の歴史は,ある意味で絶えざる再開発の歴史であった。それが可能であった理由は,建設当初の平安京のフレームワークが多様な可能性に耐えうるものであったこと,現代に至るまではつねにその中に,またその周辺に空白地をもっていたこと,さらにはスクラップ・アンド・ビルドの可能な木造建築であったこと,そしてその基盤としては,各時代を超えて発展してきた強固な地域社会の存在を上げることができるであろう。

 本連載は,試論としてもきわめて乱雑なものであったが,都市づくりにおけるソフトな地域社会とともに,将来にむけての柔構造とゆとりの重要性について強調してきたつもりである。終りに,都市づくりは未来の歴史に対する責任と同時に限界のある課題であることを指摘し,永く誌上をお借りしたお礼とともに感謝を表する次第である。(了)

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