京都の都市行政−明治から現代までの概観
(「都市行政総体としての京都市政の歩み」改題)
−京都市政の大枠理解のために−

(2007.7.28 追加10.22、11.12、11.26、補正追加12.10、2008.2.2、2.10、5.11、5.26、10.22、10.27、11.14、2009.5.27、6.26)

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目 次 構 成

  はじめに
第1部 戦前の京都と京都市政−都市行政の誕生と成長
 1.都市行政誕生の前後
  (1) 都市荒廃からの脱却 −文明開化、殖産興業
  (2)近代的大都市への基盤整備T−琵琶湖疏水事業 運河 発電 水力
  (3)都市復興 遷都1200年記念事業 三大問題
     内国勧業博 京鶴鉄道(山陰線)敷設 遷都1200年記念祭
  (4)京都市の誕生から市制特例の撤廃
 2.都市行政の成長
  (1)近代的大都市基盤整備U
     三大事業:道路拡築・市電敷設 第二琵琶湖疏水事業 水道事業
  (2)現代都市への都市基盤整備−都市計画事業
 3.戦前期京都を理解するための幾つかの軸
  ア.近代都市化としての普遍性と形成過程の特殊性
  イ.近代都市経営に不可欠なインフラ経営
  ウ.歴史都市の再開発と発展余力
  エ.近世的なものの近代化
  オ.京都市民の実相の変化
  カ.住民自治行政組織の変遷と評価
  キ.戦時体制とその解体後のあり方
  ク.地方自治システムの整備は、京都の優位なる特殊性を薄れさす
  ケ.未来への都市発展への可能性

第2部 戦後の京都と京都市政の展開−現代都市の盛衰

 1.戦前戦後の大枠把握
  (1)近代都市から現代都市へ、  都市の拡大発展
  (2)現代都市の盛衰      都市の空洞化と縮小 人口減少
 2.現代都市京都の拡大発展期
  (1)戦後復興と国際文化観光都市づくり(1945-1959)
   ア.政治行政の民主化
   イ.国際文化観光都市づくりをめざして
   ウ.財政窮乏化と財政再建
   エ.政令指定都市の発足(大都市制度の帰結)
  (2)経済成長下の都市整備事業(1960-1975)
   ア.都市化の進展の中の都市整備構想
   イ.革新市政と生活都市づくり
 3.現代都市京都の停滞・衰退期
  (1)都市成長停滞と世界文化自由都市づくり(1975-1990)
   ア.世界文化自由都市を都市理念に
   イ.都市開発への指向性
  (2)都市再生と活性化への試練(1990- ) 
   ア.京都の地盤沈下と平安建都1200年
   イ.現代京都の様相 −建都1200年から21世紀へ
    (ア)激変する都市環境のもとで
    (イ)平安建都1200年事業期の特徴的な事業の展開
 
 ひとまずの結び
  1.戦後京都市政を振り返って
  2.国家戦略への期待と景観対策
  3.明日への適性都市を求めて

 

はじめに

 西暦2006年から2007年にかけて、都市・京都市は100年か200年かに一回の大転換期を迎えることになった。それは、桝本ョ兼市長によって打ち出され、京都市議会全会派の賛成によって可決された「新景観政策」である。これは、都市というものをどう理解するか、都市政策はどのような可能性と限界を持つのか、根源的に都市京都はどのような都市であり続けようとするのかといった恐らく時代を超えた根本的、本質的な問題である。恐らく、方向性としては間違っていないであろうとは考えるものの、その進め方には多くの幅と慎重さが求められるのである。全会一致というのも気になるところである。一時期の政治・行政上の課題としてはあまりにも重いものを感じざるをえない。

 都市を大局的に考える場合、大きくは次の三つの要素から考察することが分かりやすい。一つは、外形的な「かたち」としての都市。次に、その都市を形成し運営している「政治や社会のシクミ」。そして、それら全ての担い手としての「人」そのものである。
 他の地域の人たちがある都市を思い浮かべる場合、まず最初に浮かぶのは、多くの場合、景観や建物といった都市の外観「かたち」であることに違いはないだろう。次に思い浮かぶのは、そこにどのような人たちが居るのかといったことであり、その政治・行政や社会のシクミなどはあまり浮かんではこない。しかし、この都市を構成する三要素はいずれも都市の根本を理解するためには不可欠のものである。にもかかわらず、都市の歩みや課題を考えるにおいて、この三要素を等分に視野に入れたものは案外にないものである。専門研究では、建築・工学系、政治・社会系、人文系と分かれているからこれもやむを得ないことではあるが、都市はやはり都市総体として理解する必要がある。そして都市の特徴・個性を生み出す根底には、歴史・風土といったものが深くかかわっている。
 こうした視点から、都市・京都市の近現代の大まかな歩みを振り返ってみて、これからの歩みの参考になればとの思いから以下でそれなりの試みをしてみたいと考える。

 いうまでもなく、我が国は、明治維新によって近代が幕開けし、ついで第二次世界大戦の断絶を経て戦後民主主義体制のもとでの現代日本を築いてきた。そして今、21世紀にはいって、こうした過去二つの歴史から決別しようとしているかのような段階を迎えつつある。日本の地方自治、京都市政もまさにその渦中にある。こうした現在の問題意識のなかで、過去の歴史は、そう簡単に決別できるのであろうかという疑問を強くもつ。戦前、戦後の具体的な歩みと現在の諸問題の考察を一つのテーブルで考える必要性がある。

 明治維新は、鎖国下の近世日本からの断絶ではあっても、近世日本の政治・社会や経済があって成り立っている。社会や経済的仕組みの成熟度は、その当時の欧米の知識・技術を受け入れるに十分な土壌をすでに培っていた。明治初期京都をリードしてきた人たちの思考様式と現在の私たちとの思考様式は、驚くほど近似している。
 明治維新以降、近代から第2次世界大戦に至るまでの日本の近代国家形成の歩みは、そう特異なものではなく、近現代世界史での一定のモデルたり得るものであったが、軍部が突出することになった戦中は、特異な状況の国家となっていた。戦後、第2次世界大戦の敗北と反省からスタートした「戦後民主主義」体制は、なべて戦中だけではなく、日本近代を含めた戦前の日本を否定することによって構築されてきた。少なくとも表面的にはそうであった。が、はたしてそれは正しかったのか。
 近世から近代がそうであったように、戦前から戦後にかけても社会の底流では同質のものが流れていた。ただし、それは戦中という特異なフィルターを通したものとしてであり、かなり屈曲したものにならざるを得なかったが。いずれにしても、ここでいいたいのは、人間は、そうすぐには変われるものではないということである。その代表例として、戦後の民主化運動の担い手の多くが復員兵士であり、民主化運動の手法や体質に軍隊的なものが多く染み付いていたことを挙げることができよう。戦後民主主義の問題は、明治開国以来、村落共同体的な社会システムから脱して、個としての近代的な人間の自立形成がめざされてきていたにもかかわらず、戦中の全体主義的な国家体制を経ることによって、戦後の民主主義そのものが、集団的な装いを強く持ち、戦前に培ってきていたものを継承できなかったことである。ここで、我が国の負の体質として、近代や戦後において、過去の歴史の蓄積を全否定する清算主義的な面が強いということがある。或る悪い面があるとそれを含む全てを否定し、過去の時代の全てを否定しようとする勢いが生じることである。良い面、悪い面を含め、人間の歩みは過去の蓄積の上に成り立っているのであり、観念で否定し、考えが変わればその都度過去を清算していたのでは、日本の歴史は永遠の積み木細工となり、進歩発展はなくなることになる。

 この京都は、こうした日本の歩みのなかで、決して例外ではなく、京都市独自の歩みに見えて、実は日本の歩みそのものを体現し、時には先行的に、時には遅れがちに歩んできた。と同時に、千年の王都であったがゆえの他の都市とは違った独特の位置を占めてもきた。ここに、京都の都市の特殊性と普遍性との共存がある。都市京都を考えるとは、この京都の持つ普遍性と特殊性との考察でもある。

 さて幕末、開国を迫った黒船の到来は、京都の地を再び政争の坩堝の地と化した。が、一転、明治維新と事実上の東京遷都によって京都は戦乱後の廃墟のような状態となった。このような状態での京都復興は、近代京都建設には格好の条件であった。なんとなれば、事実上京都は更地となってしまっていた。更地こそが都市建設でもっとも好条件であるからだ。京都の近代都市づくりは、このような条件下で進められた。ただ、その都市復興の主体足るべき都市行政とその担い手、それを支援する国家の体裁は、始まったばかりの近代国家建設の試行錯誤の最中にあり、決して順調に見通せたものではなかったが。
 ついで、第2次世界大戦敗北後の民主国家建設の時期、他の大都市はほとんど壊滅状態になっていた中で、ひとり京都のみが大きな戦災をまぬがれて、戦後の現代都市への復興は、他の大都市では大胆に進められたものの、京都の復興は都市建設ではみるべきものがなく、経済観光振興が課題となっていた。都市そのものは、既存の都市基盤の補強・修正というレベルであったであろう。京都で都市建設が大きく動き出すのは、1970年代以降であるといえよう。このことは、京都が日本全体の歩みのなかで比較的遅れがちであり、その反面として大都市であるにもかかわらず古い町並が残った理由である。しかし、古いとはいっても、明治以降のまち並ではあるが。

 こうして都市を時代の変遷の中でみてくると、更地開発の時代、既存都市を前提とした再開発の時代と大きくは二つの時代があることに気づく。周辺地域への都市の拡大発展もおおむねそれは更地開発型である。通例、最初の都市建設は、更地の上に自由に都市計画がなされる。都市工学のもっとも力を発揮できるときである。しかし、その後の都市建設は、周辺地域への拡大でない限り、既存都市の調整的な再開発が中心となる。ところが、戦災や火災、自然災害などによって壊滅的な打撃を受けるときがある。このときも更地開発が可能となる。関東大震災や第二次大戦での空爆被害、近くは阪神淡路大震災などがその例である。
 京都では、1200年の歴史がただ連綿として続いたのではなく、平安京の都城は廃墟となり、都心部は著しく移動し、政治権力は京都から離れ、内戦と地震、火災などで幾たびも都心部は廃墟となってきた。すなわち、ほぼ同一地域に都市を形成してきたが、その内実は、幾たびも更地となり、新規建設を繰り返してきたのである。今の京都は、形からだけでいえば、明治以降の京都でしかないのである。では、京都1200年の歴史とは何か、それは、形ではなく、社会システムであり、そこに住まってきた人であり、その人が継承してきた文化である。そして、都市立地の条件としての京都盆地が都市継続の条件となりまた限界をなしてきた。

 歴史都市京都は、現代の大都市である。その都市としての命題は、戦後幾たびも言葉を変えていわれてきた。保存と開発との同時存在性がもっともわかりやすい表現である。しかし他方で、京都はあくまで京都としての特殊性を誇示して生きていくのであろうか。都市の歴史は今後も変遷を繰り返していく。その時代その時代にあっては、常にその時代の最先端の技術的また文化的成果を享受したいという気持ちは当然市民の中で起りえよう。これらは、過去と現代と未来の同時存在ともいえよう。歴史都市が、同時に未来への全く予知し得ない可能性をも視野に入れるとき、都市の政治行政の役割ははたしてどうあるべきなのであろうか。今や10年先を予知することも難しい。ましてや100年先の人類の未来を予知することは不可能である。これからの都市京都に、そのような都市発展のゆとりや余地ははたしてあるのだろうか。
 尽きぬ思いを持ちながら、心覚え的に戦前からの京都市政の大枠の理解をつづっていくことにしたい。

(2007.7.28)

第T部 戦前の京都と京都市政−都市行政の誕生と成長

 戦前期京都の大枠を理解するには、時代を展開させることとなった幾つかの重要な事業や事件を追うことが早道である。明治維新直後の文明開化と殖産興業、第一次琵琶湖疏水事業、誕生直後の京都市が総力を挙げた平安遷都1100年記念事業、そして独立した市庁舎と市長を実現した名実共の京都市政の実現。次いで、その後の近代的大都市としての都市基盤整備事業の着手・展開などがその主要なものである。そして、それら主要な事業の企画・推進のなかに、近代日本の歩みと京都の特徴が伏在している。

1.都市行政誕生の前後

 古代からの朝廷の所在する近世京都は、幕府の直轄地であった。一方では幕府の統治機能があり、他方で町共同体を基礎とした町組みによる一定範囲での住民自治行政機能があった。そこには、現代に見るような都市行政体はなかった。どのような都市建設を行い、それをどう運営するのかというハード面、ソフト面の両面を包含した都市行政は、近代的な地方自治制度によってはじめて成立した。
 京都の近代地方自治制は、明治維新直後の京都府の誕生からその整備がはじまり、京都市が誕生するのはその22年後の1989年(明治22)4月である。その間1979年(明治11)に、全国の主要な都市部に「区」が設けられ、京都では上京区、下京区、伏見区(伏見は当時京都ではなかったが)が京都市政よりもはやく成立した。明治18年に着手された琵琶湖疏水事業は、時の京都府知事のリーダーシップの下で、上・下京区と府行政がそれを遂行したのである。このように、京都に市制が施行され、京都市政が誕生するまでは、京都府が京都の都市行政をになってきたのである。ただ、この時期の京都府は、新たな国家統治形成途上における事実上国の地方行政組織であり、府知事は国の地方長官であった。この時期の主な事業や事件は以下のようなものであろう。
 1.都市荒廃からの脱却 −小学校建営や西欧近代技術の導入
 2.琵琶湖疏水事業の実施 −近代大都市への基盤整備T
 3.平安遷都1200年記念事業 −京都の復興策
 4.京都市の誕生と市制特例及び独立市制の実現

(1) 都市荒廃からの脱却 −文明開化、殖産興業

 近代都市京都の幕開けは、京都を舞台とした内戦による戦火で市街地の大半を消失したばかりか、事実上の東京遷都によって朝廷や公家、有力商人が東京へ移住したことから始まった。まさに壊滅的な都市の衰退である。
 しかし、建設途上の明治国家は、「遷都」を明言しなかったことにも示されているように、京都を朝廷権威の礎としてその後も天皇の即位に際しての大典(天皇即位式)は京都御所で行われてきた。京都復興には、「京都市民」の努力とともにそうした新生国家の担い手たちと朝廷の強い支援があった。
 成立当初の京都府知事やその下での有力幹部は政府派遣の明治維新功労者たちであり、彼らと地元京都の開明的な経済人たちがリーダーシップをとって教育や殖産興業政策を進める。その資金は、政府の貸付金や天皇の下賜金などであった。明治初期における欧米の技術を導入した実験的な勧業政策は、伝統的な染織業や陶磁器業の近代化をもたらせ、その後の戦後に続く伝統産業の発展をもたらせたのみならず、京都の近代産業を代表する島津製作所もそうした明治の勧業政策の中から生まれ出たものである。
 京都府のこうした明治初期勧業政策は、明治14年に至って民業に払い下げられることによって一応の終わりをとげ、その主たる資金源となってきた産業基立金(天皇下賜金)はこうした運用益で倍増し、それがその後の琵琶湖疏水建設事業の基礎財源となる。
 また、京都経済人と京都府は明治初期に京都博覧会社を興し、以後昭和初期に至るまで京都御所内やその他で毎年伝統工芸品などを主とする博覧会を継続開催した。
 なお、近代京都の出発に当たって常に最大限の評価でもって指摘される「番組小学校」は、明治2年(1869)に、全市(当時の京都市中)64校が一斉に開設されたが、これは府の下付金とともに地元市民の寄付金によってまかなわれる。こうした地元市民による小学校建設とその後の運営が可能となったのは、明治維新後の町組の再編成があったからである。
 それまでの近世の京都の町の構成は、伝統的な町共同体とその連合体としての町組でもって形成されていた。しかし、それらは、地縁的な地域共同体とはいえ、経済的ないしその他の理由による成り行きから自然的に形成されてきたものであり、幾つかの町が組み合わさって形成された「組町」は必ずしもすべてが地域的に連続していたものでもなく、また、町と町との関係についてもすべてが平等の関係ではなかった。また、組町と組町との関係においても大小複雑なものであった。これを、明治維新直後から、地域的に画一化・均質化することが目指され、新政府下の京都府の強いリーダーシップによって、町数26、7町を一つの標準的な町組として、上京で33組、下京で32組に再編成し、それを「番組」とした。そして原則として番組ごとに1小学校を建設した。それゆえに、建設当初の京都市の小学校は、「番組小学校」といい、小学校施設は、同時にその組町(番組)の行政機能を担う会所を兼ねてもいた。ここには、京都の近代的再編成における新生国家の関与の不可欠性と、京都自身の伝統的な住民自治機能の高さの両面がみられる。
 この時期には、重要ではあるが必ずしもまだ十分解明されていない二つの問題を指摘しておく必要がある。一つは、幕末戦火によりその大半を消失した市街地の復興の仕方であり、今一つは、京都の住民自治の伝統を体現している元学区=町組=番組の伝統性と自治能力の問題である。
 元治元年(1864)7月長州軍の進軍により京都御所・蛤御門を中心とした禁門の変による戦火で御所以南の京都の大部分は消失したが、その復興は意外に早く、有力商人の町家はほぼ1、2年で再建されていたようだとされている。その他の多くの町家も明治維新(1868)頃には数年にしてほぼ再建されていて、幕末の朝廷を中心とした京都における政治の激動の妨げにはなっていなかったと思われる。また、維新直後の町組み再編と小学校の建営が実現していることも既に再建が終わっていることの証明でもある。このような復興の速さは、現在に照らしても必要な建築資材の量や財源の高を考えれば驚異的である。しかも、有力商人は、朝廷や倒幕勢力への多額の献金をもなしていた。それは、当時の京都の経済力の高さとともに、地域社会の確かさをあらわしている。が、こうした市街焼失後の復興過程はいまだ十分解明されていないのは残念である。京都の衰退、没落が強く意識され、現実のものとなるのは、市街地の焼失ではなく、10万人にものぼる急激な人口減少をもたらせた東京遷都であった。
 京都の住民自治の伝統は、古代の国家統治が緩み庶民の経済力が向上してくる中世末における町衆以来の伝統を継承するものと一応理解されているのではあるが、明治維新期における小学校建営のための町組再編成によって、その伝統性は絶たれたのではないかという疑問がある。それまで長い時間をかけて自然的に形成されてきた「親町」を軸とした「枝町」、「新町」でもって必ずしも地域的に連坦しない町の集まりであった町組が、明治維新以後画一的に地域区画として再編成された結果、地域の人口や経済力はある程度平準化されたものの、中世以来の住民自治の強固な結束力が弱体化したのではないかということは容易に想像できる。このことは、京都の近代社会建設にとって一応肯定はされるものの、失ったものも大きかったはずである。近世までの地域社会と近代以降の地域社会の基盤変化の問題として、特に元学区の自治連合会などとして今日なお京都の特徴的な地域住民組織を保っているだけに、その具体的な考察を必要とする問題である。

(2)近代的大都市への基盤整備T

 さて、近代京都を代表する最大の事業として、多くの人は琵琶湖疏水建設事業を挙げるであろう。1994年に平安建都1200年記念事業を起こすときに、これまた多くの人が、100年前の琵琶湖疏水建設事業に習うべしということを主張されていたように思う。しかし、過去に学ぶということはそう単純にはできない。時代状況も京都のおかれている位置も全く違い、「気概」だけでは物事は成就しない。そしてまた、琵琶湖疏水完成から20余年後、西郷隆盛の子息である西郷菊次郎市長による道路拡築などの「三大事業」こそが、京都近代都市化の最大の事業であったともいえるのである。
 明治維新後10年間ほどは、国家の統治体制も不安定で、その統治システムが試行錯誤を重ねながら徐々に形成されてきた。そうしたなかでの京都の都市行政は、初期明治国家としても特別のものであったに違いなかった。国家として制度的に京都に対するてこ入れはできないにしても、京都を舞台にして国家権力を奪取してきた為政者たち個々人の京都への思いには格別のものがあり、天皇家をはじめとするそうした実権をもつ権力者たちの有形無形の支援が明治期京都を支えてきていた。京都府知事にはそうした有力政治家とのつながりがあり、自らも有力者に育っていく人物が、京都のために献身することと、京都の開明的な新興企業家たちが京都の近代化を牽引していくというのが、基本的な構図であろうか。
 明治初期の京都の殖産興業は、槙村正直(権知事、後知事に)によって進められたが、明治10年代の半ばにはそこで建設されてきた諸施設は民業に払い下げられる。そしてそれらの運用益を含め、先に述べた天皇下賜金(産業基立金)は、当初の10万両(円)が30万円にもなって、これが京都市民の公益のためということで上下京連合区会が保有することとなる。そしてその当時の知事・北垣国道の強いリーダーシップの下で、その30万円の財源を基に琵琶湖疏水事業に集中することになる。
 琵琶湖疏水事業の目的は、当初、運河開削を軸として灌漑用水、動力としての水力利用であった。が、建設末期にアメリカでの水力発電を導入することに急遽決断し、それを加えたものであった。この水力発電がその後の技術の発達もあって重要度を増していき、戦前においては電気事業が京都市の重要な事業経営となっていた。これに反して、当初、主たる目的であった運河事業は、鉄道運輸の発達と共にその役割を低減させ、大正期にほぼその役割を終えることとなる。今日見る、水道事業としての琵琶湖疏水は、明治末から大正初期に建設された第2琵琶湖疏水事業なのである。
 
 運河としては、琵琶湖・大津から疏水を通り、蹴上のインクライン(傾斜鉄道)で上下し、南禅寺町船溜から鴨川夷川東岸(鴨東運河)を経て、鴨川東岸を伏見にまで至り宇治川に接続する総延長約20キロメートルの長大なものであり、京都への物資搬入の大きな役割を果たす。が、新しい時代の鉄道輸送が主流となっていく中で大正末には衰退に向かっていた。ただ、1895年(明治28)の遷都1100年に岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会では、丁度その直前に伏見インクラインが完成し、この運河が入洛客の有力な交通手段となっていた。

 琵琶湖疏水の第2の目的は、動力源としての水力の活用であった。水車はのどかな風物詩ではなく、精米をはじめとして、新しく導入されつつある機械を動かすための動力であった。しかし、疏水工事の後期にアメリカにおける水力発電稼動の情報を得、現地視察の上急遽それを導入し、疏水工事完成とともに世界的にもまだ初期にあった水力発電事業を実施した。これによって、京都では、電力が近代的機械工業発展の礎となる。京都の市街電車はもちろんのこと、インクラインによる船の上下もこの水力発電によったのである。
 我が国の電灯事業は、1886年(明治19)に開業した東京電燈会社が最初で、ついで1888年(明治21)に神戸、89年5月に大阪で開業され、京都は89年(明治22)7月、京都電燈会社によって開業された。いずれも火力発電による電燈事業である。京都の電灯は、234灯で、先斗町や新京極、四条通、寺町通、五条通などのごく一部中心部で点灯された。 
 1892年(明治25)1月に配電事業を開始した琵琶湖疏水の水力発電は、当初は電灯事業にではなく、市街電車と機械工場等に対する動力としての活用が主で、電灯用には、京都電燈への配電に終わっていた。電力の大規模な活用が、内陸都市である京都で可能となったには、この水力発電事業がきわめて重要であった。今日でいう、無公害型の発電事業であった。これが、石炭や石油による火力発電であった場合、京都の大気汚染はいかにひどいものとなっていただろうか。或いは、京都の近代産業は十分育つことができただろうかと思わざるを得ない。そして、この水力発電の需要の伸びが、第2疏水への動機として育っていくことになる。

(3)都市復興 遷都1200年記念事業 三大問題

 もう十数年前にまりますが、1994年が京都に平安京がつくられて1200年目になるということで、平安建都1200年が祝われ、その前後10年の京都市、府、京都商工会議所の大きな事業を京都活性化のための記念事業として推進してきた。その100年前の1894年が、平安遷都1100年にあたっていたが、当時の日清戦争の影響もあって、その翌年の1895年(明治28)10月に遷都1100年記念祭が行われた。数年前から企画されて実行されるが、当時遷都1100年祭を軸とする三つの京都の復興発展策を「三大問題」ないし「三大事件」と称していた。遷都1100年祭に加えて、その時期に開催する政府の第4回内国勧業博覧会と京鶴鉄道(現在のJR山陰線)敷設への運動である。
 内国勧業博覧会は、明治開国後の我が国の産業振興策として第1回から3回までは東京・上野で開かれ、第5回は大阪で開催されている。この時期での京都の工業生産力は、東京に対して圧倒していた。この博覧会は、京都の工業生産力を示すと同時にその後の産業発展の基礎条件をつくった。そして、博覧会が設営された地区は、今の岡崎公園一帯で、琵琶湖疏水が鴨東運河として蹴上げから鴨川に至る水路に画された地域であり、開通後の琵琶湖疏水・運河の絶好の地理的条件にかなうものであった。今に見る平安神宮は、当初、この博覧会の大規模なパビリオン「模造大極殿」として、実物のおおむね3分の2の規模で復元が企画され、その後桓武天皇の遷御を得て平安神宮としたものである。10月22日挙行される平安神宮の主行事である「時代祭り」は、この平安神宮創建時の「時代行列」を祭礼として継承したものである。また、琵琶湖疏水の水力発電による市街電車は、4月から開催された内国勧業博覧会場と京都駅とを結ぶ主要輸送機関として走ることになる。こうして、岡崎地区は、京都近代の文化、産業を体現した地域としてその後も成長していく。

 京鶴鉄道は、京都舞鶴間の官設鉄道の敷設を政府に働きかけたが実現しなかったために、地元産業界が私設で建設する気運となり、1893年(明治26)に京都鉄道を組織し、1896年(明治29)ら99年(明治32)にかけて京都駅−園部間を建設した。その後、園部−舞鶴間の官営敷設が決定し、1907年(明治40)には京都鉄道も国有化された。京都−舞鶴間が全通したのは1910年(明治43)8月25日であった。このように、JR山陰線のうち、京都駅−園部間は、京都の地元が挙げて民営で建設したものであった。これによって京都とその西北方面・日本海側との基幹となる交通機関が整備されるが、それには京都経済界の力が大きかったといえる。


(4)京都市の誕生から市制特例の撤廃

 我が国が開国し、新政府が誕生し、江戸時代からの諸藩が国の地方組織としての県となり、東京、京都、大阪の三府と横浜、神戸などの五港をはじめとする都市部に経済と人口が集中し発展してくることに対応しつつ、我が国の地方制度も試行錯誤を重ねながらも急速に整備されていく。その過程は同時に、近世的な工芸品生産から機械生産や経営形態の株式会社化などへの近代化が進行する過程であり、京都の経済人も明治中期頃には、先進的な層では近代的な経営者へと大きく成長しつつあった。そしてそれらが、創設当初の近代的な地方自治行政の担い手となる。
 都市自治体としての京都市は、1889年(明治22)、その前年に制定された「市制」(法律)によって誕生した。しかし、同時に施行された「市制特例」でもって、東京、大阪とともに、京都市の行政執行は府知事とその下での府の行政組織にゆだねられた。それは、この三都が、旧幕府の最も重要な直轄地で国政上極めて重要であったからではあるが、都市としての自立的な力量を拡大しつつあった三都には自治に対する欲求を募らすことになる。そして、1898年(明治31)、その「市制特例」は撤廃され、東京、大阪とともに名実共の都市自治体としての京都市が誕生する。
 琵琶湖疏水事業は、まだ京都市が誕生していない上京・下京連合区会の時期に工事が進められ、京都市誕生直後の1890年(明治23)に完成する。そしてその翌年には蹴上げの水力発電工事も完成し、1892年(明治25)初頭には配電事業を開始した。そして、この年は、平安遷都1100年記念事業に向かって歩みだした時期でもあり、1895年(明治28)には内国博覧会や1100年記念祭を実施し、京鶴鉄道建設への気運も盛り上げていく。この遷都1100年記念の時期には、市会議事堂が現在の京都市庁舎の地に建設される。京都市誕生から6年後のことである。が、京都市においては、市庁舎よりは市会議事堂の建設のほうが先にあり、その後の市庁舎も議事堂内に設けられるのである。
 こうみてくると、市制特例の下で市長以下の執行部門がなかったにもかかわらず、現実には成立当初の京都市政には大いなる活力があったといえる。なぜなのであろうか。
 
 ここで、京都市誕生直後の市政のしくみをみることにしよう。
 まず市議会は京都市誕生と同時に開設され、第1回市議会は1889年(明治22)6月14日に寺町四条下がるの大雲院(現在高島屋京都店)で開かれている。初代議長は、第19代京都市長・高山義三の父・中村栄助である。市長は、府知事が兼務し、その事務は府の行政組織が担った。しかし、現在の感覚と異なるのは、執行機関は、合議制の執行機関として「参事会」が設けられ、市長である知事を議長とした9名が名誉職参事会員として、市行政を合議し所掌事務を分任した。参事会員は、当初、市会議員以外の有力者も一部あったが、すぐに全員が有力市会議員で占められるようになった。独自の市長がいなかったとはいえ、この合議制参事会が、成立当初の市政運営に十分な能力を発揮していたようである。
 当時の選挙権は直接市税を納めていた1万人弱の有産者で、市会議員の定数は42人であった。ちなみにその当時の京都市の人口は30万人弱であった。ここから分かることは、誕生当時の京都市政は、有力経済人によって運営されていたということである。
 専任の市長もその事務部局もなかったとはいえ、市会議員の中でも有力な経済人が、合議制の執行機関として市議会と協議を重ねながら、琵琶湖疏水・運河事業を経営し、先に見た「三大問題」として遷都1100年記念事業を推進したのであり、そこには、当時の制限選挙という限定された範囲内という問題はあったものの、都市自治体としての原初的なエネルギーと自治的な能力にあふれていたといえる。
 では、市制特例が撤廃され、京都府から独立し、固有の市長と行政機構を備えて以降の京都市政の自治能力ははたしてどうであったか。これは、その後の重要な根本問題の一つとしておいおいとふれていくことにしたい。


(2007.10.21)

 さて、京都市が名実ともに独立した自治体となるのは1898年(明治31)である。この年9月30日でもって市制特例が廃止され、翌10月1日に市制が全面的に施行される。そして10月3日に市会が市長候補を選出し、10月12日天皇の裁可を得て、翌13日に内貴甚三郎が民選による初代京都市長に就任する。10月15日には市役所が京都市議事堂内に開設され、当時「独立自治」と称された京都市政が新たにスタートした。今日、京都市が毎年10月15日をもって自治記念日として式典を行っているのは、この市役所開庁の日を記念したもので、1958年に自治60周年から始められたものである。
 内貴甚三郎は、呉服問屋を受け継ぎ、明治期京都経済の近代的発展に指導的役割をはたしていた有力財界人で、京都商業会議所副会頭にも就任していた。市政に関しては、京都市誕生以前の区会議員をへて市会議員となり、参事会員でもあり、市制施行にあたっては「市政実施準備委員会」の委員長でもあった。いうならば、待望の「町衆市長」の誕生である。市長の任期は6年で、1904年(明治37)まで就任し、そのあとは西郷菊次郎が第2代市長として継承した。しかし、この初代「町衆市長」の在任中には、諸種の議論はあったものの、目立った事業はなかったようである。
 この京都市政誕生から市制特例撤廃による京都市独立に至る過程には、次にみるような重要な問題を孕んでいる。要点を示すと、
@1889年(明治22)、全国主要な都市部40都市に「市制」が敷かれ、我が国に近代的な都市自治体が誕生した。
A東京、京都、大阪は、国の重要な直轄地であったことから、市制の全面的な適用からは除外され、国の地方長官たる府知事の管轄下に置かれることにより、固有の市長、市役所は設けられなかった。
B固有の市長はなかったとはいえ、市長は今日見るような単独の執行機関ではなく、合議制執行機関である参事会の議長として、参事会のメンバーとして市政執行にあたっていた。したがって、参事会が重要な役割を持っていた。また、市会も参事会と一体的な関係のもとで重要事業の執行にも参画していた。この時期、京都市の代表者は市長ではなく、市会であった。
C府庁内に「市事務掛」が置かれるなど、市政執行の事務局は存在し、その指揮は参事会が分任して行っていた。
D府知事が市長を兼ねていたことは、草創期京都市政の重要施策を進める上において、国との関係や京都近代化に対して重要かつ指導的役割ををはたした。しかし、後には、国政を担う知事の職分と地方自治行政の役割とを同時に担うことの矛盾や市議会などに出席できなくなるなどの不都合も生じるようになった。
E初代町衆市長の時代にとくにみるべきものがなく、2代目の西郷市長の時代に後に見る京都近代都市化への基幹事業が推進されたということは、京都市にみる市政の執行能力上の問題として、国政との関係を無視できないという問題が浮かび上がってくる。国政に対する影響力の強さがありや否やである。と同時に、大規模事業の執行にあたっては、地元利害のしがらみから超然とした存在であることが、市長のリーダーシップ発揮の条件として必要な場合があるということ。このことは、逆に地元に定着できない条件となり、両面性が存在するが。

2.都市行政の成長
 
 琵琶湖疏水事業をなし、水力発電による都市のエネルギーを活用した市街電車や産業の近代化を進め、平安遷都1100年記念事業を誕生直後の市政のもとで推進し、その気運のなかで「独立市政」を実現した京都市は、いよいよ現代につながる都市基盤と市街の骨格を構築する時代に入る。明治末から昭和初期にかけての時期である。「三大事業」から都市計画事業の開始に至るこの時期の都市整備事業なくして、現代都市京都は形成できなかったといっても過言ではない。
 ここで、近代都市の基礎的なメルクマールを整理すると一応次のようにまとめることができないだろうか。この指標でみるとき、次にふれる西郷菊次郎市長の時期の「三大事業」がいかに重要なエポックを画するものであったかが理解できるはずである。
@統一国家形成のもとでの都市の開放性(脱近世的な閉鎖性)
  近代における統一国家の形成によって、経済活動は、地域の閉鎖性を破って全国に拡大し、労働人口も地域を越えて流動する。都市は、外に向かって開かれた都市構造となる。が、京都は、もともと首都であり、都であったために、近代以前から周辺地域はもちろんのこと、全国各地との関係のなかで形成されてきたという特徴があった。
A外部との交流 通信、交通、運輸
  都市が外に開かれるということは、具体的には、道路をはじめとする外部との交流条件が備わることである。近代では、車の通行を可能とする道路、鉄道、郵便・電信などの通信手段の発達である。
B都市内部の一体性・一元化
  外部に開かれると同時に内部的にも地域的な閉鎖性は打破される。伝統的な町組の再編成と町毎の木戸門の撤去などである。
C都市のエネルギー源 電気、ガス、水道
  都市のエネルギー源としての電気、ガス、上下水道は、近代的な都市生活と経済活動に不可欠のものである。都市衛生は、巨大な人口が集中する都市の近代化に欠くことができず、また生活産業基盤として、電気やガスなどエネルギーの供給システムが確立されていなければならない。
D以上のことを可能とする都市の政治行政システム
  ハードな都市構造とソフトな都市経営をともに可能とする都市の経営主体としての都市行政体が確立されていなければならないが、明治維新後の歩みは、諸種の問題を抱えながらもまさしく都市行政を構築する歩みであった。


(1)近代的大都市基盤整備U
 三大事業:道路拡築・市電敷設 第二琵琶湖疏水事業 水道事業
 
 いわゆる「三大事業」とは、明治末から大正初期にかけての、次の三つの巨大工事を指して当時称した、京都市が近代的大都市となるためのもっとも基礎的な都市基盤整備事業である。
  ア.第二琵琶湖疏水工事(第二水利事業)
  イ.水道事業
  ウ.道路拡築・電気軌道(市電)敷設
 第2代市長西郷菊次郎のもとで、当時の京都市の年間純歳出総額(明治40年)約127万円の13.5倍に及ぶ約1716万円の巨額の事業費は国内で調達することができず、外債(フランス債)発行によって完遂した事業であった。
 先の琵琶湖疏水事業で始まった水力発電事業は、市電、産業用動力源などの需要が拡大しさらに水量を必要とするようになる一方、琵琶湖岸の浸水対策からくる淀川改修工事に伴う疏水取水源の水位低下による水量確保が困難となる見通し、さらに、都市衛生対策からの水道水の確保のための疏水水量の増大の必要性などから、琵琶湖疏水工事完成十数年にして早くも新たな琵琶湖疏水事業の必要性に迫られた。これが第二琵琶湖疏水事業である。これによって、他の大都市が火力発電で都市の電力需要を満たしていたのに対して、京都市では、火力よりも安く環境にやさしい水力発電の充実によって、市街電車、産業の機械化、市街・生活用電灯事業の拡大など都市の拡大と近代的発展をもたらすことになる。
 明治開国以来、伝染病も外国から入ってくる。コレラは、当時の狭く、湿潤で井戸水や河川の水を飲用かつ排水に利用していた都市生活に深刻な影響を与えていた。そのため、比較的早くから下水道の整備の必要性が市会でも議論されてきていたが、財源や手段等の関係から最終的に、琵琶湖疏水を活用した上水道事業を進めることになった。当時、50万人分の給水量の確保を計画していたが、第二琵琶湖疏水事業と一体のこの上水道事業がなかったならば、百万都市京都の水源と衛生は確保されなかったであろう。人口規模が数十万の段階で恐らくパニックに襲われていたはずである。当時の市内中心部の井戸水の水質の悪化と水量の低下は深刻化していた。現在、百貨店などの大規模店舗や工場が水道水から地下水の利用へと転換しているなかで、京都の地下は水がめであるとしてその活用を促すような調査研究結果が発表されたりしているが、京都近代の歴史的経験からするならば、地下水位の低下問題が現実にも既に発生していることを重大視する必要性がある。上水道事業の達成による非衛生状態から脱することによって、京都市の下水道事業はとりあえずの緊迫性をまぬがれ、本格的な着手は昭和に入ってからになる。
 道路拡築・電気軌道敷設事業は、京都市の都市経営の力量を示すものであったといえよう。三大事業経費約1700万円のなかでもこの道路拡築・電気軌道敷設事業は1000万円とほぼ6割を占める。明治10年代前半にどん底の23万人台にまで落ち込んだ京都市の人口は、10年代後半には回復に向かい遷都1100年の明治28年頃には40万人近くに達している。こうした時、その遷都1100年祭における入洛者は110万人を超え、近世以来の道路事情では都市としての機能がはたせなくなってくる。そこで、都市人口と入洛客の拡大に応えることの可能な都市づくりとして、「広い道路」網の建設が課題となった。そしてその道路建設財源を生み出す目的を併せ持って、市営の市街電車を大量輸送機関として敷設する。これが、その後1970年代初頭までの京都市街の基幹的な公共交通手段として大いなる役割をはたす。今日、市営電車はなくなったとはいえ、おおむね北は丸太町通(一部今出川通)、南は七条通、東は東大路、西は千本・大宮通とする、今に見る中心市街地の自動車交通を可能とする基幹道路網がこのときにできあがるのである。
 市営電車は広軌道で敷設され、当初は、日本最初の市街電車を走らせた狭軌道の京都電気鉄道と併行して運行していたが、後1918年にそれを買収した。民営を公が買収し、公営で一元化したのである。

 なお、京都市の琵琶湖疏水を活用した水力発電事業によって、都市・京都の電力事業は豊かであった。当初電灯事業は民間の京都電灯会社(後株式会社に)が行い、京都市の発電事業としてはそれへの配電に留めていたものの、後京都市自らも電灯供給事業も行うようになり、大正初期にはおおむね三条通を堺に電灯供給地域を南北に二分し、北を京都市の供給地域としていた。また、京都市の電力供給事業によって、大正から昭和初期にかけて、京福電車の前身となる叡山線や嵐山線などの郊外電車が発達する。そして、水力だけでは電力需要を賄いきれなくなった京都市は、ついに大正末の1925年、市営の火力発電所を横大路に建設するに至る。このように京都近代化のエネルギー源となった発電事業も、第2次世界大戦時の戦時体制下で関西配電に統合され、戦後それが関西電力となる。京都市の都市経営の基盤は、戦時体制の中で奪われ、その後返却されることにはならなかった。

(2007.11.12)

 明治末から大正初期にかけての「三大事業期」を中心に要点と問題点を整理しよう。
@「三大事業」は、水と都市のエネルギー源、そして、基幹となる道路・交通の構築で、それは、京都が近代的大都市としての枠組みと都市基盤を確立するものであると同時に、それを維持する装置でもあり、文字通り都市を経営するものであった。
A都市を維持する装置として、琵琶湖疏水の活用による水力発電事業、その動力電気を利用した市営電車に加えて、琵琶湖疏水から鴨川東岸の運河が、京都市の公営事業として、都市経営の基盤をなし、これが京都の近代都市づくりの財政的基盤ともなっていた。このことは、「官から民へ」があたかも正義のように横行している今日、都市成立の要件とそれを担う都市行政というものの基礎的条件を改めて考えさせるものである。
B1895年日本最初の市街電車を走らせた京都電気鉄道だけではなく、1910年に四条大宮から嵐山まで開通した京福電鉄の前身である嵐山電気軌道、1912年の京津電車(現京阪京津線)、昭和初期の奈良電(現近鉄奈良線)なども京都市の発電事業によって運行されていたのである。
C東京都を除き、まだ都市計画行政が確立していなかった時期であり、政府の地方自治体に対する助成制度などの諸制度が未整備の過程で、京都の身の丈を超えた事業を、政府の支援を得つつ実施していく実行力は、初代の「町衆市長」にはなく、中央との関係の強い西郷菊次郎市長に依存するところが高かった。また、時代背景としては、日露戦争後の産業発展に伴う都市の拡大発展期ということもあった。

(2)現代都市への都市基盤整備
 市域拡張と都市計画事業

 明治初期の勧業政策があり、次いで京都市政誕生前後に第一次の琵琶湖疏水事業があり、そして京都市長と市役所誕生の「自治独立」期を経て日露戦争後に近代都市としての基盤整備が行われた。その後の京都の展開は、産業の発展と人口の拡大が都市の拡大発展をもたらせ、京都市も大規模都市として成長していく。市域の拡大とともに、新たな労働人口も増大する。それまで、手工業と商売を中心とした職業構成から、新たな機械工業などによる産業発展によってサラリーマンや労働者層、公共事業の拡大に伴う現場労働者やさらには底辺労働者層などが誕生しかつ増大する。今日見るような都市生活者の誕生と増加である。それに伴って都市行政の領域も、1918年の米騒動が象徴するように、社会福祉をはじめとする多様な分野を含むように拡大する。
 西洋の技術・文化の導入速度はすさまじく、日清、日露、第一次世界大戦と戦争を契機とする産業興隆をてことして、京都の近代都市としての発展も市民生活の洋風化も急速に進む。大正デモクラシーの高揚を経て、1928年(昭和3)には普選が実施され、京都市会でも翌年に初の普選による市会議員選挙が実施される。そして、時代は大正後期の不況から昭和初期の金融恐慌へと向かう。
 こうした中で、京都の都市形成は、国の都市計画法の制定を受けて、都市域拡大に適合する総合的な都市計画の時代に入る。「三大事業」で固められた都市の基本構造の上に、さらに拡大展開した市街地形成を計画的にすすめることになる。世界的な不況の波に洗われながらも戦後に続く都市計画行政の土台はこの時期に確立した。しかし、これらの時期には、市制誕生期の頃にみられたような市政運営のダイナミックな展開はあまりみられず、システム化してく。そして、第2次世界大戦で事実上中断する。

 京都市域は、明治維新以後急速に拡大する。明治維新期の上京、下京を合わせた面積は18.39平方キロメートル、京都市誕生時1889年当時は29.77平方キロメートル、京都市役所成立後の1898年には31.28平方キロメートル、1918年(大正7)には60.43平方キロメートルと倍々ゲームで拡大する。そして、1927年一気に5倍弱の288.65平方キロメートルに拡大し、ほぼ現在の京都市の原型を固めることになった。都市計画行政は、こうした都市の拡大発展を可能な限り計画的に、秩序だったものとして進めようとするものであった。
 我が国の都市計画は、1888年(明治21)東京市のみに適用された東京市区改正条例を最初とする。これが1918年(大正7)4月に京都と大阪に準用され、横浜と名古屋には同年9月に準用された。全国各都市への適用を前提に都市計画法が市街地建築物法(建築基準法の前身)とともに制定されたのは翌年の4月であった。
 京都市の本格的な都市計画事業は、この東京市区改正条例の準用を受け、1919年(大正8)12月、内務省の京都市区改正委員会で幹線道路15路線、総延長約40キロメートルの新設拡築設計が決定される。事業費は3484万2114円であった。その直後の1920年(大正9)1月に都市計画法が施行され、京都市など主要5都市にこれが適用される。1922年(大正11)6月には、先に決定していた幹線道路のうち5号線を木屋町線から河原町線に変更し、さらに1924年(大正13)10月には河原町線を塩小路線と連結する案を決定し、最終北は北大路、南は九条通、西は西大路、東は既設の路線を延伸する東大路の外画線と今日見る河原町通をはじめとする市街幹線道路網が最終確定する。1925年(大正14)4月には内閣の認可を得る。この外画線には市電も走り、その昔、秀吉によって築かれた御土居を越えてより広い京都市街地を画するものであった。と同時に、御土居と違ってさらに市街地を拡大する誘因をなすものであった。工事は早いもので1922年(大正11)に着手、以後順次着手され、昭和10年代(1930年代)半ば頃までにおおむね完了する。
 ここで特筆すべきなのは、この外画線の建設の仕方である。外画線計画地は、その当時まだ市街地画縁部として市街地化していなかったために、土地区画整理事業の中で実施したことである。そこには、道路新設に対する受益者負担の考え方が導入されていた。その他の幹線道路に対しても、1914年(大正3)3月、道路新設の場合は工事費の3分の1、拡築の場合は4分の1の受益者負担を規定した京都都市計画受益者負担規程(内務省令)が公布されていた。
 都市計画は、四条烏丸を起点とする半径6マイル(約9.6キロメートル)内の1市4町26カ村の全部と2町4カ村の一部を区域として、1922年(大正11)8月に認可を受ける。面積は238.27平方キロメートルで、当時の京都市の面積の約4倍にあたった。区域内戸数は184,953戸、総人口887,177人であった。当時、すでに150万人の大都市人口が可能と目されていて、現在の向日市と大山崎町を除き他のすべての町村は、その後京都市に編入されている。1931年(昭和6)には伏見市を含む27市町村を編入し、市域面積は288.65ヘクタールに、人口はその翌年100万人に達した。ほぼ現在の京都市の原型が形成される。
 この都市計画によって、市内東北部を住宅地域、中央部を商業地域、西南部を工業地域とする用途地域や風致地区の指定、都市計画街路、下水道計画、都市計画公園など総合的な都市改造が進められることになった。

この時期の特徴、問題点などは次のようにまとめることができよう。
・市政運営や中央と地方の関係も定着化し、システム化してきた。都市計画行政などに象徴的に現われている。
・三大事業に続く都市の近代的改造は、そうした中で進められた。
・この大正中期から昭和にかけての時期は、京都の都市及び都市生活の近代化、洋風化が進み、市域も急速に拡大し、現在の大都市京都の原型を形づくった。
・都市の拡大と産業の発展は、市民生活に対する市政の役割も増すことになり、社会政策をはじめとする市政の領域も急速に拡大した。
・ただ、この間の京都市長の就任期間を見てみると、1917年(大正6)から1942年(昭和17)までの25年間で市長は11人を数えている。平均就任期間は2年余にすぎない。市長の強いリーダーシップに期待する時代ではなくなってきているといえる。
・以上では触れなかったが、京都的な主要事業として、御大礼などの記念事業があり、このときに行幸通としての烏丸通の整備や美術館、植物園などの建設が行われている。

 (2007.11.26)

3.戦前期の京都を理解するための幾つかの命題

 戦前の京都市の近代的な都市づくりの主要なところを走り書きしてきたが、これを通覧するだけでも、近代都市京都形成をめぐる幾つかの基本的な命題が存在することに気づく。そのもっとも根本的なものは、京都という都市の持つ特殊性と近代都市としての普遍性であろう。また、都市経営というものが、今日見る地方自治行政の狭義の自治や分権ではたして可能か。
 以下で、戦前からの京都を理解し、学ぶためのいくつかの命題ないし基本的な問題について述べてみたい。

主要な幾つかの命題ないし基本的な問題
・都市の普遍性と個性  近代都市化としての普遍性とその過程の特殊性
・近代都市経営に不可欠のインフラ経営
   都市行政の総合性=狭義の自治・分権を超えて
・歴史都市の再開発
・近代都市京都の前近代的部分の理解
・京都市民の実相の変化
  近世的住民→産業社会の住民→経済文化多様なる住民、ベットタウン化→?
・住民自治行政組織の変遷と評価
・戦時体制とその解体後のあり方
・地方自治システムが整備されていくにしたがい、京都の優位なる特殊性は薄れていく
・未来への都市発展への可能性

ア.近代都市としての普遍性と形成過程の特殊性
 先に、次のような近代都市としての基礎的なメルクマールを紹介した。
@統一国家形成のもとでの都市の開放性(脱近世的な閉鎖性)
A外部との交流 通信、交通、運輸
B都市内部の一体性・一元化
C都市のエネルギー源 電気、ガス、水道
D近代的な都市政治行政システム
 以上のようなことは、全国主要都市が近代化するにおいて程度の差はあれ、みな同様である。その意味では、近代都市としての普遍的な原理の範囲内に京都市もある。しかし、それが実現する過程は、かなり京都的であり、強い特殊性に裏付けられている。その特殊性の主たるものが、千年の都としての歴史の集積であり、かつ明治維新の舞台ともなり、また直後の東京遷都と王都としての陰影が残されていたことにあった。
 明治初期の勧業政策、琵琶湖疏水開作事業、平安遷都1100記念事業、明治末から大正初期にかけて近代都市としての基盤を整備したいわゆる「三大事業」のいずれをみても、その進め方は京都ならではの条件に恵まれていた。事業そのものは、東京や大阪などとあい前後しつつ、おおかたは東京の都市づくりの先例に学びつつほぼ同様の都市基盤整備が進められていた。

[御大礼]
 そして、政治行政面における京都の特殊性の最たるものとして、政府・皇室との特別な関係がある。これはまた、戦後と戦前との京都市の違いのもっとも根本的なところでもある。その象徴が、御大礼の京都での挙行である。
 まず、明治新政府との関係では、明治新政府の担い手の多くが、幕末から維新にかけての京都政変に関わっていて、京都に対する思い入れがあり、また、それら新政府にかかわる実力者たちが京都府知事や京都市長に就任したことによって、国家体制形成過程という不安定な時期で、かつ中央−地方のシステムが十分確立していなかった時期にあっても、京都の要請に対して、時には政府の関係者自らの働きかけもあるなど、最大限の中央の協力が引き出せていた。
 これに加えて、千年の都であった京都から、それゆえにこそ、天皇の詔を発する正規の遷都でない、事実上の東京遷都を行はざるを得なかったことに天皇家と京都の絆が続いていた。とくに明治国家が「天皇親政」による国家の体裁を構築していただけに、このことの持つ意味は大きかった。
 御大礼すなわち天皇即位礼は、1889年(明治22)2月、大日本帝国憲法と同時に制定された皇室典範によって、大嘗祭とともに京都において行うべきことが規定され、1915年(大正4)11月に大正天皇の、1928年(昭和3)11月には昭和天皇の御大礼と大嘗祭がそれぞれ京都御所で挙行され、それに合せて京都では記念事業が、京都近代化過程におけるビッグなプロジェクトとして実施された。
 大正大礼記念事業は、三大事業とその後の都市計画事業の間にあって、その後の都市計画事業へのステップの役割を果たし、昭和大礼記念事業では、基幹道路網の本格舗装が始まるほか、両記念事業を通して、岡崎地区の文化公園が形成されることは特筆されよう。御大礼記念事業は、いずれ別稿でその詳細を紹介したいと考えている。このほか、御大喪や皇太子御成婚記念など皇室との関係は多く、特に昭和天皇が皇太子の時の御成婚記念では、今は再び国に移管して京都国立博物館となっているが、当時の「京都帝室博物館」が京都市に下賜されたことなどが注目される。

[同業者町の総合的集積地]
 京都の都市形成の特徴としては、王城の地であると同時に産業と文化の集積地であるということ。上京における織物業の西陣、上京から下京にかけての染色業、東山山麓の清水焼など日本の代表的な伝統産業の同業者町が、京都御所や公家、寺社などにかかわる文化と一体として総合的な文化・産業都市を形成していた。明治維新以後、皇室や公家や有力金融業者は東京へ移行するが、残された産業は、西欧の技術を導入して近代化し、西欧式の近代産業とともに近代京都の産業として発展する。こうした職住一体のいわば文化産業の総合産地として、市街地中心部は発展する。その基盤として、明治初期からの勧業政策とその後の都市基盤整備事業が大きく貢献した。近代京都の市街地再開発事業の成果はこうしたところにあった。
 と同時に、市域の拡大は、伝統産業や文化の従事者をこえて、新たな教育学芸、近代的産業と公共事業にかかる知識層やサラリーマン、都市労働者のみならず底辺労働者をも吸引することになり、新市街地や郊外地に工場地帯とともに、一方では良好な住宅地帯が、他方では無秩序にして劣悪な環境の居住地が形成されることになった。こうした新たな京都市住民に対する食料など供給の手段として、公設市場や中央卸売市場が整備され、伝統的な近郊農家からの食料供給だけでは賄いきれない状況に備えることになる。
 我が国では唯一といっていい内陸部の大都市であるだけに、流通市場の確立やごみ処理や上水道対策は、先駆的な試みがなされてきた。
 ここで問題なのは、戦後も発展してきた同業者町が、経済の高度成長期の末期頃から急速な解体過程をたどり、バブル期を通して壊滅的な打撃を受けたということである。今の町家ブームはその形骸化の中で起っている。

イ.近代都市経営に不可欠なインフラ経営
   都市行政の総合性=狭義の自治・分権を超えて
 近代京都形成期の特徴は、やはり都市基盤形成にあるが、それは、基盤形成であると同時にその維持のための経営が重要な位置を占めていた。と同時に、都市インフラは、道路や上下水道のみならず、およそ都市が成立し持続するために本質的に必要な都市エネルギー源をも含んでいた。
 公共交通としての大量輸送機関や上下水道のみならず、電気、ガスなど生活や産業活動にとっての動力源はその都市が成立するために不可欠のものである。都市を経営するとは、本来その全てを経営することであろう。実際、近代京都市にあっては、ガスを除き(ガスは今日ほど重要な役割をはたしていなかった)、大都市として成立するために必要な全てのインフラを京都市が建設し経営していた。このことは、何かにつけて、「官から民へ」が公然と正義の如く語られる今日の風潮に対して、一度立ち止まってじっくり考えるべきであることを示してはいないのだろうか。
 その場合、「公」とは何かということをも改めて考えることを必要とする。
 「官」、「公」、「民」とある。多くの場合、「官」=「公」 対 「民」として考慮されている。が、戦前においては、「官」=国家行政 対 「公」=地方自治体、「民」であった。「公」はすなわち地方における住民(民)の共同組織なのである。地方公共団体(地方自治体)は、住民すなわち「民」の地縁的集合体なのである。であるから個別の私経営が民の共同体である都市行政に吸収されることもその構成員たる都市住民の合意であれば当然ありえたのである。
 こうした論を展開するとなれば大変なボリュームになるが、要するに、都市自治体をどう理解し、そこに何を求めるかによって左右されることで、正論であるかどうかや善悪の問題ではない。
 都市を経営することは、或いは地域を経営することは、今流通している地域間格差を問題とするときには大切なことである。都市や地域総体の経営なくして、地域の将来に渡る生存はない。これとその都市の自治体との関係である。戦後の自治体は、戦前のような地域の総合的な経営体としてではなく、主として、住民の福利を保全向上させるものに変換したようである。この場合、昨今の自治体経営ということになれば、それは行政組織の経営であり、都市レベルの経営ではない。したがって、自治体経営と住民との関係は乖離していくことになるのは当然のことである。中央政府に対する地方政府(ローカル・ガバメント)というような関係とは次元の異なる政府と地方との関係である。国家よりも先に地方都市が自治都市や都市国家として誕生していた欧米とはおよそ異なっているのである。
 第二次世界大戦は、その戦時体制によって近代に形成されてきた重要な要素を国家統一の中に一元化してきた。戦後民主化の中でも、その要素を継続して今日にいたっているものも多いはずである。明治以来の我が国の近代化過程は、戦時体制という不幸な状況を今一度再整理する必要があるのではないだろうかという問題を投げ掛けている。

ウ.歴史都市の再開発と発展余力
 京都の都市は、中心市街地は1200年の歴史の集積地である。平安京域の同一平面上で1200年の歴史を歩み、今なお現代の大都市であるという驚異的な都市である。そうした歴史都市としての中核的市街地の周辺にかつての近郊農村地帯を明治以降順次編入して拡大し、やがて後背地としての西北部山間地を含みこんだ。
 同一平面上に各時代の歴史を積み上げてきたということは、そこでスクラップアンドビルドを繰り返してきたということである。時には自然災害で、時には戦乱で廃墟となるなど。しかし、平安京造営時に建設された東西南北の道路は、狭くなったとはいえ、今なお驚くほど同じ所に道路として存続しているのはまさに驚異的である。その原因は、多分住民の地域社会秩序が形成されていたからであろうと推測される。これは同時に、根本的な都市改造は極めて困難であったことを意味している。都市の全体構造を為政者が変えたのは、豊臣政権に限られるのであろう。近代の京都の都市改造は、ことほどさように困難であったと思われるが、形成途上の強い国家権力のもとで、参政権がまだ有産階層に限られていたなかでの強力なリーダーシップがあったためにそれが可能であったのであろう。
 昭和にはいってからの都市計画事業として外画線をはじめ周辺部に展開する都市計画道路は、参政権が拡大する中で進められるが、それは、新しい市街地を形成する誘因をなすもので更地開発型の都市計画であった。
 なお、幕末蛤御門の変による京都の焼失は、その直後からすばやい復旧を遂げたために、更地開発のような都市改造はその時点では行われず、東京遷都による公家屋敷や長州藩をはじめとする各藩邸跡などがその後の京都近代化の貴重な空白地として活用されることになる。今、小中学校の小規模校問題で、都心部の新たな都市施設建設の可能性が生じ、幾多のものが建設され、或いは将来のために温存されたりしているが、歴史都市の将来への発展余力としての空白地温存の大切さは近代都市京都の形成史からも伺われる。

エ.近世的なものの近代化
 京都は1200年の歴史の集積地であるとはいっても、遠い過去の歴史が一足飛びに現代に及ぶのではない。過去の歴史は、まず近世的なものとしてあり、その近世的なものが明治時代という近代を通過して現代に及ぶのである。歴史は一足飛びに時代を超えるものではない。ことの評価は別にして、寺院や神社は、明治に一旦ふるいをかけられたうえで、さらには戦後のふるいをかけられて現代に及んでいる。明治時代は廃仏希釈の時期があり、その後の保全の動きの中で京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)が建設された。神社は、国家神道の枠組みに編成されるが、敗戦によって解体される。「都をどり」は、第一回京都博覧会の出し物として創出され、それが現代京都の代表的な伝統文化となっている。
 伝統産業の多くは、製造技術や原材料などに西洋の手法を導入し、機械化をはじめとする近代的な形に変貌し、大きく発展した。開国による輸出もその変貌に対して大きな役割をはたしたが、それがゆえに、経営規模を拡大した結果産地が崩壊した粟田焼きのような事例も生れた。
 いずれにしても、現在の京都の伝統は、明治時代に形成されたもの、再編成されたものが多いのは明記すべきことである。

オ.京都市民の実相の変化
  近世的住民→産業社会の住民→経済文化多様なる住民、ベットタウン化→? 
 明治初期にはなお、近世的な商業や産業の企業家と徒弟的な従業員の町であったものが、産業の近代化と近代的産業の誕生、公共事業の拡大、学芸の発達の中で、先に見たように新しい都市労働者やサラリーマン層が誕生し、それらは、新たに拡大する市域に居住するようになる。都心部が伝統的な職住一体の強い地域的結合のもとにあるのに対して、そうした新しい都市住民は、職住分離の通勤者となる。都市交通は重要な必需品である。同時に、公共事業の拡大に伴う現場労働者の増加によって、新たな底辺労働も拡大し、拡大する市域の中でスラムを形成するようにもなる。
 このように、拡大する新しい市域には、一方で京都大学の北部方面に形成されるような知識層の居住地域が生れるとともに、他方では各所に労働者の劣悪な居住地域も形成される。こうした動向が顕著になるのは明治後期以降である。そして、伝統的な産業地の同業者町も新たな近代化の中で急拡大し、そこにも底辺労働者の新たな居住地域が代表的には西陣のスプロール化の中で生れる。
 こうしたなかで、米騒動以降の社会政策や、普選の実施など、新しい都市の政治行政が始まるのである。

(2007.12.10)

 ちなみに、選挙人の推移を見ると、京都市政が誕生した頃の有権者は人口284,3030人に対して3.2%の9,566人で、以後、人口は増えてもそのパーセントはほぼ同様であった。選挙人の比率が拡大するのは、普選実施後の昭和4年(1929)で、人口755,200人に対して選挙人数は18%の136,595人。これが、戦後の婦人参政権の実現で昭和22年には人口999,660人に対して53%の537,082人と急増する。これにより、当然のこと初期の有産階層中心の政治から大衆による民主政治に大きく変貌する。

カ.住民自治行政組織の変遷と評価
 近世以来の自生的な住民自治行政組織が、明治維新後、地域的、画一的に再編成され、小学校兼営の基礎をなす一方、同時にその小学校区域(町組−町連合)が自治行政組織として継続するところに、明治初期の京都の住民自治行政組織の特徴があった。
 その後、明治11年(1878)に、上京、下京が行政区となり、町組に戸長と戸町役場が置かれるが、明治19年(1886)に学校教育と行政とが分離され、戸町役場が町組から離れてその区域を拡大する。それまで上京区で33、下京区で32あった戸町役場がそれぞれ10に統合される。そして、明治22年(1889)の市制施行によって、戸町役場は廃止された。これによって、住民と市行政との組織的な接点はなくなり、同時に、旧来からあった住民自治行政の基礎組織であった「町」そのものの形骸化も進むことになったようだ。
 以上のことは、何らかの形で続いてきた中・近世以来の京都の住民自治の伝統が、近代化過程でその行政的機能を新たな都市行政に徐々に吸収され、やがて完全に消滅したことによって、成立直後の近代的都市行政が、住民との乖離状況を生むことを示すことになった。これは、税の徴収効率の悪さにも現われていたようである。
 こうした行政と住民との関係をつなぐため、時の府と市議会でも重要な課題となり、行政区の分割案などが検討されたものの、かつての戸町役場の数が確保されない限りその効果はないとの意見も多かった。そして、明治30(1897)年、旧来の住民自治行政機能を復活させるために、公同組合制度が実施されたのであった。
 この公同組合制度は、戦時の挙国一致体制下の「町内会」制度の実施によって解体されるが、戦後の「町内会」廃止以後も、実態としての町内会は存続し、今日の市政協力委員制度や学区自治連合会制度などの基盤を形成していて、その歴史的分析とともに、現在的な実態分析が要求されるのである。
 いずれにしても、京都市の近代自治行政が確立する過程における、こうした伝統的な住民自治行政組織の変貌と廃絶、復活の実相は、自治行政と住民自治との実態上の重要な問題を提示しているといえよう。

キ.戦時体制とその解体後のあり方
 都市計画事業は、昭和(1926)に入ってから進み、京都市は、近代都市から現代都市への発展を遂げようとする。しかし、この頃から、大正末からの世界的な不況に続く世界恐慌とともに、第2次世界大戦へのきな臭い動きがヨーロッパや日本にも現われるようになる。1931年の満州事変を経て、1937年には日中戦争が勃発し、その翌年には国民総動員法が公布され、いよいよ戦時体制に突入してくる。この戦時体制は、明治以来築いてきた近代日本の必然的な帰結であったという見方が敗戦直後から当分の間は主流であったが、はたしてそうであったのかという疑問もまた生じるようになってきた。
 明治以来築いてきた近代日本の基本的な枠組みに対して、そのあだ花のようなものとしての戦時体制は、かなり異質なものではなかったのではないかということである。ひるがえって、戦後の民主主義の中には、戦時体制下で培養された統制的なもの、団体主義的なものが色濃く残り、公共性と全体主義的な差異が本当はよく分からない面もないではなかった。 翼賛体制に代表される戦時体制があまりにも深刻であったがために、敗戦直後は、戦時体制はもちろんのこと、明治以来の近代化過程そのものを全て否定するような風潮を生むことになった。今、戦後も既に60年を経過した中で、大戦とその敗戦によるショックを冷静に受け止め、戦前と戦中、そして戦後の関係を客観的かつ大局的に見つめる必要がある。このことは、我が国と京都の今後を考えるにおいて極めて重要な意味をもつものである。
 結論的ないいかたをすれば、明治以来の戦前期には、近世的な日本から近代資本主義的な日本への脱却と構築の道を歩み、地方自治を含めてそれなりの実態を備えるようになっていたが、戦時体制の中で、経済を含む挙国一致の統制的な体制に転換し、そして、敗戦によって、過去の歴史の全てを清算するような否定形の上に、戦後の民主政治と地方自治が始まった。が、戦後の民主政治や地方自治のなかに、否定したはずの戦時体制下にあったものが継承されていたり、日本の近代化過程で形成された建設的なものまでもが失われる結果となったことも多かったのではなかったか。いよいよグローバル化の荒波に翻弄されつつある我が国と地方自治にとって、今こそ過去の歴史を真剣に考え、教訓を導き出す必要性があると考える。
 近代化を進めた戦前、それを壊した戦時体制、そしてその反省の上での戦後民主主義のあり方、これらをどう系統的に理解するかが重要である。この我が国の近現代の折り返し点に厳然と存在する「戦時体制」という問題を理解するには、・戦時体制への気運 ・戦時体制そのもの ・戦時体制の崩壊と戦後民主主義のあり方 という三つの行程での考察が必要である。
 例えば京都市の都市建設に例をとれば、戦前と戦後との決定的な違いは、発電事業を京都市が所有していたか否かにある。琵琶湖疏水に端を発した京都市の水力発電事業は、市街電車のみならず、電灯事業にまで展開していた。京都を近・現代都市に築き上げた原動力が水力発電事業であった。しかし、戦後には、この現代都市京都のもっとも基盤をなした発電事業がなくなっており、その原因が、戦時体制下における配電事業の国家統制としての統合で、京都市の電気事業が新たに設立された関西配電株式会社に吸収されたことにある。1942年4月のことである。この関西配電株式会社は戦後の1951年に関西電力となる。京都市では戦後、電力事業の復活を働きかけたが、それは実ることがなかった。
 政治行政の仕組みを議論することの前に、こうした都市存立の本質的な部分についての検討は本来必要なのではないだろうか。このあたりの問題は、本稿の最後のほうで改めて検討したいと考えている。

ク.地方自治システムの整備は、京都の優位なる特殊性を薄れさす
 近現代の都市京都の国政上の比重を見れば、当初、東京、大阪とともに3都(府)を構成していたが、地方自治制が整備され、また近代日本の産業的発展とともに、東京を別格とした5大都市、戦後はさらに大都市が増えつづけ、政令指定都市は現在では17都市にものぼり、京都市の位置は17都市中の一つに過ぎなくなっている。この推移を見れば、制度的に京都市を我が国の特別な都市として位置付けること、他都市よりも有利な何かを国政に期待することは困難であることが分かる。
 「千年の都」は、都であった千年間は特別な都市であり続け、その千年が終わってもしばらくの間はその余韻も残っていたが、戦後の新しい時代はそうした余韻も消し去ることになった。
 京都の今後の特性は、制度的な保障ではなく、文化を含む都市の個性という実質をどれだけ他府県や世界に認めてもらえるかにかかっているということを私たちは自覚するところから始めなければならない。もはや過去の余韻にすがることはできないのである。このことは、明治維新以来の京都市をたどれば、自ずと明らかであり、過去の京都市政を担った先人たちは薄れ行く余韻と過去への過大なる憧憬との狭間の中で苦しんできたものと思える。

ケ.未来への都市発展の可能性
 京都は、1200年の歴史を同一平面上で歩んできた世界的にも稀有の歴史都市である。とはいえ、幾たびものスクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきた。戦乱と自然災害による破壊を幾度となく経験し、なおかつ同一平面上に再建してきた。そのすごさは、平安京の東西南北の碁盤目状の道路がその幅員を狭くしているとはいえ、1200年を経たいまなお同一の場所に通っているということに示されている。しかし、京都が1200年も続くことができたのは、各時代時代の都市をほぼ平安京域の範囲内で再構築してきたことによる。そこには、新たな都市発展の余地を可能とする空白地が存在していたのである。
 都市は、常に成長発展し、その姿も変えて行く。固定した都市は、新しい時代の都市としての発展は望めなくなる。それどころか衰退という事態が発生する。
 近・現代都市は、それが、中世から続いてきたものであっても、現代の入り口で大きな都市改造に迫られた。それは、都市内交通と都市衛生問題に対処できる都市にである。道路を拡幅し、市街電車を通し、上下水道を整備し、廃棄物処理を全うし、電気・ガスなど都市エネルギー設備を整えることである。
 明治維新以後の京都には、東京遷都によってできた空地や社寺境内地があり、また周辺には多くの農地が存在した。市中における小学校の建設はもちろんのこと、新たな産業や都市インフラは周辺地域に建設され、市域の拡大を進めてきた。
 そうしたことを振り返ってみた場合、経済の高度成長期を経た今日の京都には、もはや空白地はほとんどない。かろうじて在るのは、中心部の人口減少によって生れた小学校などの統廃合による学校跡地である。これは、将来の京都の都市発展にとっての虎の子である。また、今後、京都市の市有施設や市有地に遊休的なものが生じる可能性もある。今、公有財産の処分が喧伝されているが、現在只今での経済効率だけでその処分を行うことは、将来の都市発展への余力を削ぐことになり、悔いを残すことになる。都市の持続的発展には、現在のみにとらわれた発想から脱却したゆとりを都市に残すべきであろう。少なくとも今日までの京都には、都市発展の余力が「空白地」として存在してきたし、その空白地が新しい時代の都市形成を可能としてきたのである。近代京都もその例外ではなかった。

(2008.2.2)

 第2部 戦後の京都と京都市政の展開−現代都市の盛衰

 さて、戦後を戦前との対比によって描く仕方は、戦後の民主化を鮮やかに浮かびあがらせるのにいいのかもわからないが、本稿では、戦前戦後を通した一つの都市の展開として描いてみたい。すなわち、明治維新以来の京都の近代化、それに続く現代都市化、その延長としての戦後の京都をどう描くかという試みである。
 明治以来の都市京都の歩みを大きく見ると、既に見たように、1.近代都市づくりの時代、2.現代都市づくりの時代があり、戦時体制期の停滞期を経て、戦後も現代都市づくりの時代は継続し、そして1975年前後から衰退期に入る。この衰退期を、3.現代都市の衰退時代と表現することができよう。2008年の現在は、この衰退期京都の対応いかんが問われている時代であるといえる。
 大正中期頃から始まった現代都市としての京都の形成は、人口と都市域の拡大発展とともに進行し、その基調は戦後も経済成長とともに進む。しかし、1960年頃にはすでに都心部の人口減少が始まっていて、1960年代を通して、都心部の空洞化と周辺部の人口増加がいわゆる「ドーナツ化減少」として顕在化する。そして、1970年代には人口増加の停滞と都心部の空洞化が都市そのものの存立を脅かしかねない状況となってくる。世界的にも、その少し前頃から大都市の衰退が問題化し、その再生への試みが見られるようになっていた。都市の拡大発展を前提としてきた明治以来の都市行政は、ここで大きな転換期を迎えたのである。その背景には、都市がその過密性に堪えられなくなったことや、産業構造の変化、京都市民層の変化、物資や人の流通の展開など多様な問題が横たわっているが、いずれも時代の様相のなかで起ってきたことである。
 こうした大きな流れで京都の都市と都市行政としての京都市政を見た場合、京都市政は、こうしたうねりをどう理解し、或いは理解せずに、どう適確に対応し、或いは対応しなかったのかを考察しなければならない。こうしたことを、問題意識として持った上で、戦後の大枠の歩みを振り返ることにしたい。

(2008.2.10、補正5.11)

 1.戦前戦後の大枠把握

 まず、戦前戦後を通しての、京都の都市としての大枠の展開を見ることにしたい。

  (1)近代都市から現代都市へ、  都市の拡大発展

 すでにみてきたように、京都の近代都市化は、明治中期の琵琶湖疏水事業とそれに続く平安遷都1100年記念事業をベースとした、明治末から大正初期にかけての三大事業によって土台はほぼ形成された。そして、産業や都市生活の洋風化も進み、大正末から昭和期にかけての都市計画事業によって、京都の現代都市化が進められることになる。現代都市化は、ダイナミックであった近代都市づくりと比較すると大分地味である。しかし、我が国にも導入された都市計画事業として推進するものであり、これこそが計画的、体系的な都市整備であった。
 では現代都市と近代都市とではどのように異なるのであろうか。ここでは学問的な定義を下すものではないので、一応現在の都市京都の視座から捉えることによってその把握をしてみることにした。
 1960年代頃までの京都の中心市街地は、おおむね市電の外画線であった北は北大路通り、南は九条通り、東は東大路通り、西は西大路通りの範囲内であり、これらは市電廃止後も市街幹線道路の骨格をなしてきた。経済成長とともに市街地は拡大し、道路は四通八達するが、これらの道路とその中の東西南北の幹線道路が、その核となったのである。現代社会は、その是非はともかくとして、車社会を可能とすることを条件とした。そのための都市計画街路や幹線道路網は、都市計画事業で計画されたのである。近代都市が市街電車によるものとすれば、現代都市は車社会によるものである。現在では当り前となっている道路舗装が開始されたのは、大正12年、市内幹線道路から着手されたのである。そして昭和にはいって幹線道路沿いにビル街が成立し、今日見る現代的な市街地景観の原像が生れる。
 また、現代都市は、こうした景観上の綺麗さだけではなく、その居住者の実相にも都市生活上の諸問題を現出する。商工業者中心の職住一体の市街にも、近代的な企業や工場に雇用されたサラリーマンや労働者に加え、教育・研究者や弁護士などの自由業者や知識人・文化人などが住むようになる。こうした新しい職業人は、新たに拡大する市街地にその多くは居住するが、中心市街地にも参入する。こうして一方では、中世以来の職住一体の地縁的つながりが強かった地域社会の緩みが生じ、他方では、それまでの地縁性や人と人とのつながりの中で成立してきた日用品などの流通販売業の世界に、不特定多数を平等に相手とする百貨店や公設小売市場などとともに、都市への物資の安定的な確保と供給を図る中央卸売市場が誕生するなど流通市場の新たな展開が始まる。そして、この時期には、市政の担い手も、近代都市づくりを担ってきた商工業者たちから、普通選挙実施後の低所得者層をも含む多様なる市民層に移ることになる。
 こうした都市の拡大の対極には、その拡大を可能ならしめる市街地周辺や近郊の農村地帯があり、それらの農村や農業を破壊し、吸収することによって、近現代都市京都は発展してきた。同時に、西陣織や京友禅、清水焼に代表される伝統的な諸工芸産業による同業者町の集合体としての京都の拡散と解体がはじまる。
 このような京都の現代都市化は、ある種歴史の必然ともいえ、単純な評価を下すべきものではなく、そこから何かを汲み取ることによって、将来の課題を探ることが重要であろう。大切なことは、常に新たな時代時代に適応しつつ、なおかつ京都の何たるかを考えることであろう。決して、単純な過去や現状に対する否定であってはならないし、未来に対する一面的、独断的な思惑に走ることも避けなければならない。

(2)現代都市の盛衰      都市の空洞化と縮小 人口減少

 明治の近代化以来、都市京都は、戦時体制下の一時期を除いて、拡大の一途をたどってきた。市域そのものは今もなお拡大しているが、人口はすでに停滞から減少に転じている。特に都心部の人口減少は、はやくも1960年代には明らかになり、経済の高度成長による都市の拡大が、逆に大都市の都心部の人口減少と空洞化をもたらすという皮肉な結果を生む。
 都市はその誕生以来、文化や産業、情報などの集積効果と反面の人口をはじめとする都市過密からくる負の問題を抱えてきた。これらが戦後の高度成長の下で一気に加速する。 京都市では、1960年代には、これらはドーナッツ化現象として捉えられ、周辺農村への新たな市街地の拡大による周辺農村への浸食による問題を都市化問題と認識していた。しかし、1970年代にはいると、都市過密の問題は都市問題として住民生活の障害要因として捉えられ、大気汚染や水質汚濁をはじめ車社会による都市公害にに対する住民運動に呼応した市政改革の運動に向かう。こうした傾向は全国的なもので、現在のような府県中心の分権改革ではなく、都市自治体が自治体改革の主役を担っていた。
 このような都市の拡大発展の行き着く結果として、京都市の人口は、1970年代には停滞と衰退への兆しを見せ、1980年代には衰退期に入ることになる。このことは、公共交通機関をはじめとする都市のインフラ整備に重大な影響を持つことになる。
 こうした戦後京都市の現代都市としての歩みを大雑把に振り返ると、戦後当初の再生・発展の段階からある種の行き詰まりを経て、現在は衰退への道を歩んでいるといえよう。このような視点から現代都市京都の大きな歩みを整理すると次のようになる。
 <都市の拡大・発展期>
  1.現代都市の形成 昭和初期頃から
  2.都市形成の中断 戦時中
  3.現代都市の再形成と展開 戦後
 <都市の停滞・衰退期>
  4.現代都市の変貌 1970年代
  5.衰退と再生への試練 1980年代以降

 戦後最初の総合的な都市整備計画案であった「京都市長期開発計画案」と「まちづくり構想−20年後の京都」は、都市の拡大発展を前提とたものであった。そして、「まちづくり構想の見直し」と「京都市基本構想」は、都心部の衰退と産業・文化の地盤沈下に対する危機感をあらわしたものであった。平安建都1200年記念事業はその最たるものであった。21世紀にはいって、観光産業振興と景観政策を重視する今日の京都市政も、その適否は別にして、基本的には都市衰退の中での京都の再生・活性化を課題とするものである。

(2008.5.11)

2.現代都市京都の拡大発展

(1)戦後復興と国際文化観光都市づくり(1945-1959)

 1945年(昭20)敗戦からの数年間の前半は、まさしく混乱期であり、その後半は混乱しつつも民主的諸制度が整備されてくる過程である。1950年(昭25)頃には地方自治にかかる行財政制度も確立し、1952年のわが国の独立(対日講和条約締結)を経て経済の高度成長が始まる1960年(昭35)頃までが平和と民主主義を目指した戦後復興とそれに続く時期と考えることができる。大きくは戦後復興期として、戦前の現代都市づくりの再スタートへの準備期といえよう。
 この時期にも、市域は、北部、南部、西部方面の農山村地帯を吸収、拡大し、人口も急増する。1945年(昭20)に288kuであった市域面積は、1950年(昭25)には549kuに、1959年(昭34)には最近2005年の京北町編入に至るまでの610kuに達していた。戦争によって100万人を大きく割っていた人口は、1945年には866万人であったが、1948年(昭23)には再び100万人を超え、1950年には120万4千人に、1959年には125万3千人に達していた。こうした市域と人口急増に対処して、1955年(昭30)には、北区と南区の2区が増設された。都市基盤の整備状況はともかくとして、この時期の都市京都は面積、人口ともに急拡大した時期であった。
 この時期の特徴は、次のようにまとめることができる。
  ア.政治行政の民主化
  イ.国際文化観光都市づくりへの指向性
  ウ.財政窮乏化と財政再建
  エ.政令指定都市の発足(大都市制度の帰結)

ア.政治行政の民主化
 戦後の民主化については、今さらここで述べることはないが、平和と人権尊重の新憲法には地方自治の保障も規定され、これに基づく地方自治法も制定される。公選市長は先に実施されていたが、この地方自治法により教育委員会や監査委員会、人事委員会など各種行政委員会が設置される。この中で、近年影の薄くなっている農業委員会は1951年(昭26)、各行政区単位に設置された。上京や中京、下京区にも農業委員会が設置されたのは、当時なを市街地の中には多くの農地と農業者が存在していたからであった。
 戦後政治行政の民主化で特筆すべきは、婦人参政権や労働組合の設置奨励であろう。労働者や婦人層が政治の主体として立ち上がり、これに知識人が深く、一体的にかかわっていた。当時の人々の記憶からも、それはあたかも革命前夜の雰囲気であったという。
 敗戦直後の混乱もおさまり、新たな地方制度がほぼ整備されてきた1950年(昭25)2月に誕生した高山義三京都市長は、そうした戦後民主化運動のまださめやらぬ高揚が続いている中で、社会党公認で民主戦線統一会議の候補として当選したのであり、その4月には同じ統一候補として蜷川虎三京都府知事が誕生する。しかし、当時はまだアメリカ連合軍の占領統治下にあったことは重要であり、市政運営もその影響下に置かれていた。戦後の民主化とその限界性がそこにはあったといえよう。高山市長が、当選後1年にして革新から保守陣営へ転向するのもこうした時代の現実認識が背景にあったものと考えられる。 なお、この時期には、新しい民主的諸制度のもとでの市政運営のあり方として、旧来の支配や統治のための行政機構から、市民への「サービス行政」への機構の転換がめざされたのは注目すべきことであった(高山義三『市民訴える』1950.4)

(2008.5.26)

イ.国際文化観光都市づくりをめざして
 1950年(昭25)9月20日、住民投票を経て、京都市にのみ適用される特別法「京都国際文化観光都市建設法」が成立し、10月22日に公布、施行される。以後、京都市は国際文化観光都市づくりを掲げた都市づくりに向う。ただ、憲法95条に基づく特定の地方公共団体に適用される特別法は、新憲法に期待した当時の流行でもあり、広島平和記念都市建設法を皮切りに別府や熱海の国際観光温泉都市建設法なども加えて、1950、51の両年で15件を数えたが、現実的な効用もあまりなく、その後はこうした特別法の制定は途絶えることになる。
 京都市の場合も例外ではなく、期待していた政府からの実効ある援助はほとんどなっかた。しかし、国際的な文化都市であり、かつ観光都市たるべき姿を求めて、ハード、ソフト両面における総合的な都市づくりを自ら進めることになる。これは、現在の表現を用いるならば、国際文化観光都市は、京都市の都市像であり、かつ京都市の基本構想・総合計画となった。
 市民憲章の制定(1956.5)、市交響楽団いわゆる「京響」の創設(1956.5)、岡崎の京都会館建設のための文化観光施設税の創設(1956.12)、「世界の花の都」パリ市との友情都市盟約(姉妹都市)の締結(1958.6)などはこうした都市構想のもとで進められた。そして現在につながる都市の基盤整備としては、戦時体制下における建物疎開の跡地を市街地の基幹道路として整備することが最大の事業となった。堀川通りや五条通の都心部を中心とした原型は、この時期に整備されたものである。
 ただ、1950年代前半は、戦後税財政を含む地方自治制度が整備されていく時期であったものの、制度自体が必ずしも安定していなかった。そして京都市にとっては、この戦後の新しい税財政制度が京都市の都市実態と適合しなかった。そのため、京都市財政は年を追って窮乏化を深めることとなり、1956年3月に財政再建団体に陥ることになる。
 こうして、本格的な国際文化観光都市づくりへの計画構想は、我が国が戦後復興を遂げ、経済の高度成長を開始する1960年代まで待たなければならないことになる。
 なお、なんといってもこの時期で重要なことは、駐留米軍(GHQ)によって接収されていた施設が、1952年4月の対日講和条約発効(1951.9調印)によって接収解除されたことであろう。1952年5月から11月にかけて勧業館、美術館、公会堂など岡崎地区一帯の施設が京都市に返還された。これをもって戦後京都市の再スタートがはじまったといえよう。

ウ.財政窮乏化と財政再建
 戦後の新しい財政の仕組みが出来上がることによって、京都市の都市性格は如実に税財政に反映されることになる。そしてそれは、戦後京都市財政窮乏化の度合いを一気に深めることになる。
 1950年(昭和25)に戦後の新しい地方税法が制定される。これによる市税収入(調定額)を、当時の5大都市(横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)比較でみると、まず、京都市は1950年度が約30億円、1951年度もほぼ同額、1952年度はほぼ1割増の約33億円である。これは、1950年度では、横浜市、神戸市の約28億円を上回り、名古屋市の約30億円とほぼ同額である。しかし、1951年度になると、神戸が約37億円で他の都市はそれ以上、1952年度では名古屋市が約35億円で他の都市はそれ以上と京都市はかなりの差での最下位に落ち込む。当時の人口規模は、京都市が約110万人で大阪市の195万人に次ぐ2位で、3位が103万人の名古屋市、横浜市が95万人、神戸市が80万人である。税収の規模と人口規模とを併せみると、京都市の収入規模の低さが顕著である。
 すなわちこれは、新しい地方税制が実施された1951年度以降、それまで大阪市に次ぐ2位の位置にあった京都市の財政収入がひとり停滞し、相対的に落ち込んでいく姿を如実に示す。と同時に、これは、京都市の戦後復興の弱さをも示すものであった。市民税では、1951年度から実施された法人税割の圧倒的な低さ、固定資産税とりわけ償却資産税の低さは、伝統的な中小零細企業群を中心とした戦後京都市産業の弱さを示すものである。
 こうした1951年度以降の税財政について、その当時の京都市では、都市規模は大都市ではあるものの、税財政規模は中都市並みであると認識し、市の財政の危機的状況を訴えている(「危機に瀕せる京都市の財政実態」1953年)。
 この時期の京都市財政は、戦争と敗戦による疲弊、混乱期を経て、戦後の立て直し期にあってもなお、財政窮乏化の一途をたどり、遂には財政再建団体に転落する過程として捉えられる。そこには、京都の都市特徴が端的に表れていて、その後の京都市の根底に影響を与えている。
 その要点をは、次の通りである。
@大都市に見合わない貧弱な税財政規模にある。
Aその原因が、戦後新たに確立した地方税財政制度にある。そのことは、国家レベルにおいて、京都市の「特別な地位」が認められなくなったことを示す。
B大都市で唯一大規模な被爆を受けなかった都市であること。そのため、逆に新規インフラ整備など、戦後復興のテンポが遅くなった。
C内陸型の歴史的大都市であること。そのため、産業的には伝統的な中小零細企業の都市であり、戦後の大規模な工場立地が難しく、これが、法人税の低さとして表れている。
D以上から、他の大都市と比較して、戦後開発に遅れたことが、戦後京都市財政窮乏化の要因ともなり、都市生存のエネルギーとしての「開発」と、都市の個性としての「保全」の必要性という、いわゆる保存と開発の二律背反的なジレンマを担っていたといえよう。この二律背反的なジレンマに対し、京都市が統合的な答えを出すには1980年代まで待たなければならなかった。

 さて、京都市は1954年度(昭和29)一般会計予算に対する17%近く、市税収入の45%近くに上る累積赤字を解消するために、まずその年度から財政の自主再建に取り組み、1956年度から、地方財政再建促進特別措置法(1955年12月制定)に基づく当初計画7カ年(後6カ年に短縮)の再建計画下にはいる。当時の自治庁による「再建計画」の承認日は3月31日。17億円の再建債を発行し、利子補給を受けて、7カ年で償還するというものであった。
 そのために、以後毎年の予算編成では、市税収入の約1割を償還財源に充てることになる。そしてそれは、自治庁の強い監督の下で、有無をいわせない削減予算を編成することであった。削減の中心はいうまでもなく人件費である。職員数の削減、給与水準の抑制、事務経費の圧縮などである。当時「鉛筆1本に至るまで自治庁の許可がいる」と語られていたものである。ちょうど同時期、1956年9月に政令指定都市制度がスタートする。事務の増大に対応する方法は、大量のアルバイト雇用(正式には「臨時的任用職員」。今日いうところの「非正規職員」)で、正規職員に対する比率は3割程度に達していただろうか。後にその正職員化問題が生じる。また、「旅費・諸費・超勤」の三点は、経常的な削減と強い管理下にある経費で、残業代は、削減(サース残業)を当然の前提としていた。
 財政再建は、その後の経済成長にも助けられて1年繰り上げ、1962年3月をもって完了する。しかし、財政再建下の計数至上主義による度を超えた経費削減による禍根と影響は、著しくバランスを欠いた職員の年齢構成などを中心にその後30年にも及ぶことになる。都市基盤整備が他の大都市に比して著しく遅れたのもそのためである。

(2008.10.22)

エ.政令指定都市の発足(大都市制度の帰結)
 先にも記したように、京都市は、財政再建団体に転落するのと時期を同じくして、大阪など他の4都市とともに地方自治法に基づく政令指定都市となる。そして福祉、衛生関係を主に都市計画事務を含めて16項目の府県事務の移譲を受ける。これでもって、戦前から続いてきた大都市問題は一応の決着を迎え、今日に至る。
 この間、1947年4月に制定された地方自治法には、府県から独立した「特別市」の規定が盛り込まれていた。しかし、その規定では、各都市ごとに住民投票を経た上、特別法で指定されるものであり、府県の強い反対などもあり、実現することなく、政令指定都市の規定がなされた1956年6月の法改正の折りに、「特別市」の規定は削除された。
 こうして、府県からの独立をめざした大都市問題は、その実現の一歩手前までいくものの、結局府県の枠内で一定の事務権限を有する形で帰結する。これは、我が国の国家統治の基本構造が都道府県を基盤とするものであることを証明するものである。

 さて、大都市問題を振り返ったとき、国家における京都市の位置の変化を如実にみることになる。近世から明治にかけて、東京(江戸)、大阪とともに三都であった京都は、大正11年には横浜、神戸、名古屋とともに、6都(「六大都市行政監督ノ特例ニ関スル法律」)の一つとなる。
 その後、戦時体制下で国家統制が強化される中、1943年、東京市が廃されて東京都となり、首都として別格の制度となる。これによって、大都市問題から東京都ははずれ、政令指定都市は残る5都市で発足する。そして、1963年4月に北九州市が、1972年4月に札幌、川崎、福岡市が、1980年には広島市が・・・・と新たな政令指定都市が加わり、2007年には17都市となる。すなはち、京都市は、制度的には、3大都市から6大都市、10大都市を経て、今や17都市中の1都市である。そして、その人口的、経済・財政的位置も、大阪に次ぐ2位の位置から徐々に後退を続けることになる。大都市の増加と平準化の中で、それ自体は全国的な発展の姿として当然のことであるが、それは、京都市が特別の都市でなくなることでもある。

 次に、大都市としての京都市を考える場合に二つの問題がある。一つは、地方自治法に基づく行政体(地方自治体)としての都市と社会経済的な実態としての都市との違いをどう理解し、対処していくのかという問題。今一つは、京都市を歴史都市として規定してしまうには、すでにその規模が地域的、人口的にあまりにも拡大した大都市となってしまっているという問題である。前者である地方自治体としての京都市の内部には、都心部、市街地、さらには農・山村部といった都市周辺部を抱え、地域的にはその周辺部の方がはるかに広大である。そこでは、都市政策とは異なった政策を必要としている。
 また、歴史都市としては、平安京以来、都市としての歩みを蓄積しているのは、現在の都心部を中心としたほぼ2キロメートル四方、広くとっても3キロメートル四方程度の範囲である。その範囲を超えた地域は、近代から現代にかけて順次市街地として拡大発展してきたものである。歴史的には、都市京都の近郊地帯、近郊農村・山村地帯として、京都との密接な関係を築いてきた地域である。そこには、歴史都市京都とはまた違った都市発展と地域スタイルの展開があった。したがって、現在の京都市政では、歴史的都市部と新たな都市部、近郊農山村文化を残す地域などの全体的な政策が必要であり、それには、都市発展を続けるための総合的な都市エネルギーの創出が要請されている。保存か開発か、産業か観光かといった二元的な課題の根本はこうしたところにある。
 以上のことから、大都市問題をみることにより、京都市は、制度的には増加してきた大都市の中に平準化されてきたということ、内部的には、歴史都市とそれとは異なる広大な地域を抱え、伝統的な京都との同化でない、それら地域間の相互依存、共存関係の不可欠性を読み取ることができる

 この項の要点としては、戦後地方自治制度のもとでの大都市制度問題が、1956年に政令指定都市制度として帰結し、府県から一定の自主性を得て大都市行政を進めることが可能となった。しかし、京都市の場合には、財政再建計画という足かせがかかり、その十分な稼働にはなお時間を要したということである。

(2008.10.27)

(2) 経済成長下の都市整備事業(1960-75)

 経済の高度成長が始まった頃、京都市ではまだ財政再建計画を引きずっていた。そのため、戦後京都市の本格的な都市整備構想づくりは、必ずしも早いものではなかった。そして、都市整備構想を策定している過程において、京都市や他の大都市をはじめとする全国的な都市化の進展に直面することになる。都市化の進展は、都市公害などの生活環境悪化の都市問題を発生させ、それによる住民運動の活発化が起こり、時代の流れは、都市の拡大発展からいかに市民生活を守るかという、生活擁護の方向に向かう。
 これによって、戦後京都市の本格的な都市整備構想は、策定直後に挫折することになる。1967年2月の革新市長の誕生がその契機となる。この年4月には、東京都にも、美濃部革新知事が誕生し、先に誕生していた横浜市とともに大都市部を中心とした革新自治体の時代が始まる。この時代、1960年代は、日米安全保障条約改定をめぐる60年安保と70年安保など戦後民主化運動の余熱を受けた国民的な運動が残っていた時期でもあった。
 しかし、1970年代にはいると、都市内の矛盾が拡大するとともに、都市発展そのものにもかげりが生じ始める。そして、市政政策も、ソフト施策としての市民生活擁護から、生活基盤というインフラをも重視した、生活都市づくりともいうべき方向に向かうことになる。この時期には、都市の拡大基調は変貌してくる。
 この時期の京都市域は、1959年に久世、大原野両村の編入により、610.61平方キロメートルとなるが、以降2005年の京北町編入までの46年間、その変化はない。しかし、人口は、1959年125万人が、1975年には146万に伸張するものの、その後の伸びは鈍化し、1980年代にはいると減少に転じることになる。都市の拡大成長を前提とした都市づくりから、都市成長の停滞、後退への対応が問われるようになってきた。こうして、この時期の京都市の都市整備は、前期と後期とで転換し、さらにその後の変化へとつながっていくことになる。

ア.都市化進展のなかの都市整備構想  高山・井上市政

 1960年代初頭の京都市は、まだ、財政再建計画中ではあったものの、経済と都市の拡大発展基調にあり、財政再建完了にもメドをつけ、文化観光都市づくりという戦後京都の本格的な都市づくりに向かうべく意欲にあふれる。それは、丁度、国の全国総合開発計画と近畿圏整備計画の策定時期に合致していた。
 財政再建計画が完了するのが1962年3月、この年に全国総合開発計画が策定され、近畿圏整備法が制定される。その翌年、1963年7月には名神高速道路(尼崎−栗東間)が開通し、さらにその翌年の1964年10月には新幹線が開通して東京オリンピックが開催される。まさに戦後日本の絶頂期の開始である。景観論争を誘発した京都タワーは1964年12月に完成し、否応なく現代京都の玄関口のシンボルとなる。そして、市役所業務も急増して、1964年には昭和初期の本庁舎の北側に別館(北庁舎)が建設された。近く廃止となる山ノ内浄水場も、都市拡大にあわせて建設された。
 名神高速道路と新幹線は、京都を国土軸の中軸に据えることになるが、同時に、起こった乱開発によって山科の農村部が壊滅したことに象徴されるように、京都市域も都市化の波に洗われるようになる。時の成り行きによる急激な市街地の拡大による農業と農村の崩壊が始まる。
 こうした時代状況の中で、京都市は「第二の平安京づくり」をめざし、1963年3月には総合的な行政計画としての京都市総合計画試案を策定し、その都市整備構想部分を発展させて、1966年12月には京都市長期開発計画の審議会答申を得る。(京都市総合計画試案及び長期開発計画は、本ホームページ別稿「21世紀グランドビジョンを理解するために」参照)
 そして、「第二の平安京づくり」を推進する市役所づくりとして、トップマネージメントなど当時のアメリカや民間の企業統治手法を導入した市役所近代化が進められた。計算機導入による統計解析なども試みられたり、資料室を設置して市役所の行政資料を活用するための一元管理もこのときに開始される。これなどをその後の情報公開の基礎条件をなすものといえよう。
 しかし、他方では、この時期、財政再建計画中に厳しく抑制された職員数や給与水準などをめぐる禍根が根深く残るなかでの激しい労使対立も続き、1962年3月にはついに時の職員組合の三役が馘首されるに至る。これによって、市長選挙と市役所の労使対立が密接に絡み合うようになる。そして、1967年、現職市長急逝による2月の市長選挙で革新市長が誕生することにより、戦後最初の本格的な都市整備構想は挫折することになった。
 ただ、この時期の京都市政治は、「保守市政」と目された高山義三市長と「革新府政」と目された蜷川虎三府知事が対抗的関係にあり、両者ともに府市民の支持が高く、ある種バランスのとれていた時期ではあった。

(2008.11.14)

イ.革新市政と生活都市づくり  富井・舩橋市政

 革新市長が誕生した1967年から1970年代半ば頃までの評価はなかなかに難しい。市政は「保守」から「革新」に転換し、激動する。市議会では少数与党の市長が、市民との直接対話と市長選挙支持団体の支援を受けて、京都市政は政治の時節となった。そして、それは、経済の高度成長の開始とともにはじまった人口の都市集中と車社会の到来による都市問題の発生、それに対する住民運動を背景とした革新自治体の叢生という全国的な動向と同じくするものであった。こうした左右激突の政治の季節を経て、次には左右総ぐるみともいうべき政治的に安定した行政の時期を迎えるが、それは同時に、経済の高度成長が終わる時期でもあった。これらのことについては後にふれることとする。
 住民運動とそれに呼応する革新市政は、「見えない建設」を掲げていた蜷川府政(そのシンボル的な事業が府立総合資料館であった)とも協調し、前市政によってまとめられていた都市整備構想「長期開発計画」を経済至上主義に基づき京都盆地を破壊するものとして否定する。その否定には、政治性が強くはたらいていたのは当然のことであり、都市整備構想の必要性それ自体を否定するものではなかった。そのため、革新市政下の都市づくりとしては、都市を暮らしの場として捉えなおすことによる、歩道整備や陸橋の設置など生活安全上の細やかな改善策が重視されることになる。このことは、経済の高度成長による都市の拡大発展を積極的に進めようとした長期開発計画に対して、都市化の進展により発生する諸問題に対処することを主目的とする方向転換であったといえる。いわば、都市開発型から生活環境擁護型への都市づくりの転換である。こうして、1969年3月には、都市を暮らしの場として捉えなおした新たな都市整備構想「まちづくり構想−20年後の京都」が策定される。しかし、この構想には実施計画がなく、実行性には弱さがあった。つまり、市政の重点は、都市整備構想にではなく、市民の日常的な暮らしと健康や福祉行政などのソフト施策と住民自治への指向性にあった。

 この時期の京都は、まだ都市として拡大発展の最中にあり、進展する都市化と車社会への対応に否応なく迫られることになる。主なものをひろってみると、国道1号線東山バイパスが完成したのが1967年4月、横大路以外での最初の近代的な清掃工場「北清掃工場」が高雄地区に建設されたのが1968年5月、長期開発計画を継承したといえる洛西ニュータウンの都市計画決定が1969年5月(1975年11月に第1次分譲開始)、そして、1971年4月には、その後、国の伝統的建造物群保存制度の誘引となった市街地景観条例を制定している。新都市計画法に基づく市街化地域と市街化調整地域の線引きが行われたのは1971年12月であった。
 この時期の最大の問題は、やはり交通問題であったといえる。すでに観光地の交通混雑は今日と同様の様相を呈してきていて、これに対して、時の舩橋求己市長は1973年11月に「マイカー観光拒否宣言」を発するが、そこには、単なる「呼び込み観光」から秩序ある観光への期待も込められていて、今日の観光問題に示唆するところがある。しかし、交通問題の最大の問題は、市電路線のあいつぐ廃止であった。
 1970年に伏見・稲荷線、1972年には千本・大宮線と四条線が廃止される。市電路線の延長距離が最大となった1957年からわずか13年後のことである(1961年の北野線廃止は多少事情が異なる)。車社会、とりわけマイカーの急増の中で、市街地の公共路面電車は立ち往生することになり、これが、その後の地下鉄建設へとつながる。1972年10月に地下鉄烏丸線の事業免許を得て、2年後の1974年11月に着工し、ここに戦後京都市の最大の基幹事業としての地下鉄建設工事が開始された。
 車社会の到来は、道路がそれまでのコミュニティ空間から、地域社会を分断する単なる通過道路となるなど道路事情を一変させると同時に、伝統的な職住一体の都心部を、職住分離の方向に転換さすこととなり、周辺部の人口増加と都心部夜間人口の減少をさらに促進させることになった。その傾向は、1970年代半ばには明瞭となってくる。
 以上のように見てくると、革新市政下の都市づくりは、当初はそれまでの市政とは大きく違ったものの、その後の展開は、都市京都が現実に迫ってくる諸問題に対応してきたことが分かる。そこには、政治の枠組みを超えた都市・京都の課題があるといえよう。


3 現代都市京都の停滞・衰退期

(1)都市成長停滞と世界文化自由都市づくり(1975-1990)

 1970年代半ばは、明治初期から現在に続く近現代都市京都百数十年の歩みの大きな転換点となる。それは、都市拡大と人口増加の一途をたどってきた京都の人口が停滞し、そして緩やかな減少傾向を示すようになったことである。とりわけ都心部の人口減少は顕著で、近現代都市の歩み100年にして、京都の都市成長は頭を打ち、停滞・衰退期に入ったと思われる。そして丁度この時期、1975年2月に再選を果たした舩橋求己市長のもとで市議会はオール与党化し、政治行政は安定期を迎える。こうしたなかで、1978年10月15日の自治80周年記念式典で、京都市は「世界文化自由都市宣言」を発し、新たな都市発展を目指すことになる。
 京都市政治行政の安定は、京都府との関係においても1978年4月に蜷川府政から自民党参議院議員であった林田府政へ変わり、さらに1986年には自治省出身の荒巻府政となることによって、府市関係も穏やかになる。こうした府政の転換は、京都商工会議所をはじめとした京都経済界と京都府市行政との関係を深めることになる。蜷川府政と対立関係にあった商工会議所の京都行政への参加は、蜷川府政の終焉とともに始まったといえる。このことは、京都市経済行政のリーダーシップ性を見る場合には、府、商工会議所、京都市という三者の関係性からみて、なかなかに微妙なものがあった。
 1981年舩橋市長は病に倒れ、今川助役が舩橋市政を継承する。そして、自らの強い意欲による「まちづくり」を進めようとするが、古都税問題による有力寺院との対立と、同和行政にかかる関連事業での不祥事も重なり、京都市政は大きく揺らぐことになる。そして、古都税問題の展開過程を通して、市議会での共産党との関係も微妙となり、1985年の市長選挙で共産党が対立候補を立てることによって、社共を軸として17年余続いた革新市政と10年間続いたオール与党体制は終焉する。そして、1989年の市長選挙では、市政刷新を掲げた候補者乱立により、京都市政治行政の安定期は終わることになる。
 さて、都市の消長を何によって測るのか。なかなかに難しいが、最初にして最後の指標は、やはり居住人口の増減になるのだろう。それは、都市に勢いがあれば居住人口は増加し、勢いがなくなれば居住人口は減少するからである。それだけに、繊維産業をはじめとする京都の伝統的な産地が拡散し、崩壊しつつあることは、都市京都にとっての深刻な要因である。

ア.世界文化自由都市を都市理念に  舩橋・今川市政
 
 京都市は、1978年10月15日、「ここにわが京都を世界文化自由都市と宣言する」との世界文化自由都市宣言を発した。その世界文化自由都市とは、「全世界のひとびとが、人種、宗教、社会体制の相違を超えて、平和のうちに、ここに自由につどい、自由な文化交流を行う都市をいう」とある。千年の都である京都は、「広く世界と文化的に交わることによって、優れた文化を創造し続ける永久に新しい文化都市でなければならない。われわれは、京都を世界文化交流の中心にすえるべきである。」と、高邁にして格調高い理想を掲げたことを世界に向かって表明した。
 この宣言は、当時の市長の宣言ではなく、市議会の議決を経た自治体・京都市の宣言である。市議会では、その議決に際して、その根拠として、地方自治法に定められた基本構想を先に策定するべきではないかとの指摘もあり、自治体としての基本構想の策定作業が開始される。しかし、それ以前に、すでに、1969年に策定された「まちづくり構想−20年後の京都」の見直し作業が開始されていて、その作業と基本構想策定作業がドッキングすることになった。この「まちづくり構想」見直し作業を必要としたのは、京都市人口の予想を超えた変化であり、以後の都市京都の基本的な動向にかかわる重要な要素となる。
 すなわち、京都市総人口の伸びは停滞するが、その内部では、山科や醍醐方面での人口増加と、反面の都心部の人口減少がともに大幅に予測を超えて計画を修正する必要が生じた。とりわけ、都心部人口は、1965年23万2千人が、1975年で16万8千人とわずか10年で3割近くも急減してもはや放置できない状況となったのである。製造業就業者も減少し、1970年代半ばには京都市が都市として停滞してきた現実を示している。
 こうして、京都市基本構想の策定作業は、都市としての停滞を、京都の歴史的伝統を背景にいかに打開していくかにおくことになる。また、「世界文化自由都市宣言」自体も、こうした京都市の停滞感を克服するための理念としてまとめられたといえ、京都市基本構想の上位概念としての都市理念として位置づけられる。以後、21世紀の現在に至るまで、こうした世界文化自由都市と京都市基本構想との関係は変わっていない。その意味で、京都市の都市構想は、戦後1950年以降は、国際文化観光都市づくりをめざし、1978年以降は世界文化自由都市づくりをめざして推進されているといえる。
 ところで、この世界文化自由都市宣言は、広義と狭義の両様に理解されているようだ。広義には、京都市総合計画の上位概念としての都市理念であるが、狭義には、世界文化自由都市としての具体的な個別事業が進められてきた面がある。国立の国際日本文化研究センターの創設誘致(1987年発足)、京都市国際交流会館の設立(1989年開設)、市民劇場の設立(1995年コンサートホールとして開設)は、いずれも世界文化自由都市推進委員会の提案に基づくものである。
 また、世界的な規模の会議として、世界歴史都市会議もある。1987年、第1回として25都市(24ヵ国)の参加を得て京都で開催し、以後おおむね隔年ごとに世界各都市で開催して現在に至っている。

イ.都市開発への指向性
 
 1980年代は、おおむね今川市政下(1981.8-1989.8)にあった。今川正彦市長は、病に倒れた舩橋市長を、1981年8月急遽継承したために、市長就任当初は「福祉の舩橋」市政の完成に努めた。しかし、建設省出身の今川市長は、京都の都市整備に満を持していた。市長就任の前年1980年11月には、京都で最初の地下街となる京都駅前の地下街「ポルタ」が開業する。そして市長就任直前の1981年5月にはこれも京都最初の市営地下鉄烏丸線が開業する。まさに「まちづくりの今川市政」の門出にふさわしいお膳立てではあった。
 1984年3月には、これも京都市最初の再開発事業である京都駅南口再開発ビル「アバンティ」が開業する。そしてこのとき、建設省からの人材を都市計画局長(後、助役に)に充て、都市整備構想を積極的に推進しようとする。しかし、今川市政は、スタートしてまもなく、大きくつまづくことになる。そして市政の執行能力の弱さを露呈し、市政推進を十分できないままに2期8年間を終える。そのつまづきは、古都保存協力税問題が象徴的であったが、同和対策事業にかかる不動産取得等をめぐる公金不正取得事件の発生なども市民の市政不信に拍車をかけていた。
 古都保存協力税は、1983年1月に市議会の議決を経て、自治大臣による許可を得るのに2年数カ月を要し、1985年7月に実施したものの対象社寺側とのトラブルは継続したままで、遂に実施4年にも満たない1988年3月でもってその条例は廃止された。
 この時期の特徴的な都市整備構想に、大見総合運動公園や洛南新都市(サイエンス・タウン)構想、ターミナル開発としての二条駅周辺整備構想などがあるが、二条駅周辺整備事業は区画整理はできたものの施設整備は思うに任せず、前二者は日の目を見ることなく挫折する。そして、地下鉄延伸と東西線建設にかかるターミナル開発を軸とした都市整備は、1990年代から21世紀への課題として継承されていく。
 このように1980年代をみてくると、京都の都市開発は、高度成長が終焉してから本格化しようとしたものの、市政の執行能力低下からもたつきを見せ、ようやく古都保存協力税の呪縛から解き放たれた頃には今度はバブルによる地価の上昇に見舞われることになる。そして、1990年代に入ると、今度はバブルの崩壊である。全国的な波に乗ることができず、まるで周回遅れで走っているような印象を受ける。

(2)都市再生と活性化への試練(1990年以降)
 
 1990年代になると、バブルは崩壊し不況期に入る。1994年の平安建都1200年はそうした時期に遭遇する。1989年8月に誕生した田辺朋之市長がこれを担い、これを花道として1996年2月に任期途中で引退する。そして、教育長であった桝本頼兼市長がその後継者として、京都21世紀を迎えた。
 田辺市政では「健康都市」が、桝本市政では「元気都市」が市政運営のキー・フレーズとなるが、都市整備そのものは、今川市政の延長線上にあったといえ、経済財政状況の悪化に苦しみながらも順次進行させている。
 この時期にみられる京都市人口は、漸減傾向である。148万人近くのピークに達した1986年から漸減しはじめ、平安建都1200年の前年である1994年には146万人台を割ることになる。しかし、1995年には146万人台に回復し以後2002年まで漸増し、2005年には再び147万人台となるものの、2年後には再び146万人台へと減少する。ここで、2005年に147万人台に人口が回復した主要因は、この年の北桑田郡京北町の編入合併にある。京北町は、人口6686人、面積216.68平方キロメートルであった。この編入は、京都市にとっては1959年以来46年ぶりの合併であり、これにより京都市域面積は827.90平方キロメートルと一気に35%も拡大した。
 ここで、注目すべきは、現在の京都市は、人口の緩やかな減少過程にあるということであるが、そうした中で、1995年から2002年までの7年間は緩やかな増加を示したことである。しかもそれは都心部人口の増加による。その要因としては、デフレが進行する中で、地価の下落と高層マンションの建設によるそれなりの居住面積のマンションを一般サラリーマンでも購入することが可能になったという事情が考えられる。このことは、新景観政策との関係でもっと議論されてしかるべき問題を投げかけている。

ア.京都の地盤沈下と平安建都1200年

 1994年は平安建都1200年の年であった。この年を、100年前の遷都1100年に重ね合わせて、近代京都の復興策を現代京都に再現したいとの願いがあった。そこには、京都の地盤沈下に対する強い危機意識が働いていた。平安建都1200年という大きな歴史的節目を、現代京都再生への飛躍台にしたいという思いである。しかし、時代の流れは思うようにはいかなかった。
 平安建都1200年への取り組みは、1980年代半ばに開始されていた。しかし、その後のバブルとその崩壊は、都市京都の荒廃という爪痕を残したうえで、経済の低迷期をもたらせた。これにより、記念行事などは華やかに繰り広げられたものの、当初の勢い込んだ記念事業に対する取り組みは事実上失速することになった。京都市が構想する「21世紀洛南新都市」構想や、商工会議所による「京都経済センター」構想などは挫折し、その開催候補地をめぐって、京都府が関西文化学術研究都市の京阪奈丘陵を、京都市が洛南新都市建設地の向島を想定して綱引きをしていた記念博覧会も開設することができなかった。決定的な目玉を欠いたものとなったのである。ただ、記念事業は、市や府のその時期の主要な事業を集約したものであるだけに、ある意味で、記念事業であるなしにかかわらず実現していったものは多い。
 記念事業や関連事業の主なものを挙げてみると、京都駅舎の改築と周辺整備、京都府の総合見本市会館「パルスプラザ」(1987)、京都文化博物館(1988)建設、京都市の国際交流会館(1984)、岡崎公園再整備(1994)や梅小路公園の整備(1995)などであり、国際日本文化研究センターの創設誘致(1987)や文化学術研究都市の建設推進、二条駅周辺整備も関連事業として位置づけられたものである。財団法人・世界人権問題研究センター(1994)は、市・府・商工会議所三者による唯一の1200年記念協会の事業で、21世紀を人権の世紀として展望して設立されたものであった。
 しかし、平安建都1200年の取り組み期間である1984年から2004年の20年間で見てみると、現代京都の様相がここで形成されてきたのが分かる。

(2009.5.27)

イ.現代京都の様相 平安建都1200年から21世紀へ

(ア)激変する都市環境のもとで

 先にみたように、平安建都1200年(1994)の前後10年は、1980年代後半から21世紀初頭にあたる。この時期、国内外と都市を取り巻く環境は大きく変わる。その激変の中を、都市として停滞・衰退期にはいった京都市は歩むことになる。その歩みは、現代京都の様相を、すなわち主要な課題や命題を示すことになる。
 その要点を以下に記す。
@戦後世界の構造変化とグローバル化
 ソ連のペレストロイカ(1986)にはじまり、ベルリンの壁が崩壊(1989)し、1991年12月には遂にソ連邦が消滅する。これによって、戦後続いてきた東西冷戦構造は解体し、政治・経済のアメリカ一極集中とグローバル化がはじまる。そして、その影響が、わが国の政治・経済、地方自治にも及んでくる。
A自民党単独政権の終りと連立政権の時代
 1993年8月、自民党政権が倒れ、以後連立政権の時代に入り、政治の安定が失われる。同時に、バブル崩壊後の経済は長期低迷期に入って「失われた十年」と称され、やがてデフレに突入する。そして、橋本内閣による金融ビックバン(1998)、小泉改革(2001)は、折からの地方分権一括法の施行(2000年4月)下の地方自治を経済財政的に厳しいものにしていく。
 京都市政治は、そうした中央政治の影響を当然受けることになる。しかし、市議会や市長の政治基盤は、結果として共産党以外のオール与党として続き、薄氷の上でのある種安定した状態が維持されてきている。
B絶えざる行財政改革下の市政運営
 1980年代から90年代、さらに21世紀にかけて、京都市は、行財政改革に次ぐ行財政改革を間断なく実施することによって、何とか行財政運営を図ってきた。それは、国による地方行革に迫られたときもあったとはいえ、主に京都市財政自身の弱さに起因している。2001年には遂に、時の桝本市長による財政非常事態宣言が発せられるまでに至る。このことは、京都市の公共投資や諸事業が、常に強い財政的制約下にあることを示し、諸事業が遅れ気味とならざるを得ないとなる。

(イ)平安建都1200年事業期の特徴的な事業の展開

 以上のような条件下にありながらも、・地下鉄を軸としたとしづくり ・基幹的道路の整備が継続的に実施される一方、小規模校統廃合後の跡地利用の問題や町家の保存再生への取り組みなど、都心部の新たな対策にも着手することになる。

@地下鉄を軸とした都市づくり
 1981年に北大路−京都駅間で開業した初の市営地下鉄烏丸線は、1988年に竹田まで南伸して近鉄と接続し、1997年には宝ヶ池の国立国際会館まで北伸すると同時に、地下鉄東西線(醍醐−二条駅間)が開業する。東西線はその後さらに延伸して現在では六地蔵−天神川までとなった。
 こうした地下鉄建設の推進とあわせて、その各ターミナルを地域の拠点として整備する拠点整備が同時に進められる。これには、京都駅や二条駅などJR駅前とも連動して、全国的には比較的遅れていたターミナル開発が具体化する。京都駅南口再開発ビル「アバンティ」(1984)を皮切りに、北大路バスターミナルの「キタオオジタウン」(1995)、地下鉄東西線開業にあわせて整備された醍醐再生プロジェクト「パセオダイゴロー」(1997)、御池地下街「Zest御池」(1997)、そしてJR山科駅前の「ラクト山科」(1998)などは、京都市の事業としての代表例であろう。

A道路網の整備 
 市街地の基幹道路網が鉄道との立体交差などで整備され、また市内への高速道路の建設が打ち出されたのもこの時期である。
 まず鉄道との関連では、1987年に京阪電鉄の東福寺−三条駅間地下工事が完成し、89年には鴨東線(三条−出町柳)が開業する。これによって川端通りが拡幅され、1990年に鴨川東岸線(塩小路−冷泉通間)が開通する。そして、この90年7月には京都高速道路計画の概要が発表され、93年4月、市内高速道路建設のための阪神高速道路公団法が改正される。
 JR山陰線(嵯峨野線)では、すでに京都駅−二条駅間の高架化が成っていたが、2000年9月、二条駅−花園駅間の複線高架化が完成する。
 以上をみると、市内幹線道路と鉄道・電車の基本的な整備はこの時期に一応の域に達したといえよう。

B都心部の再生
 都心部の衰退を象徴的に表わすものとして、小中学校の統廃合がある。と同時に、都心部の再生策の拠点として、その跡地活用の問題がある。統廃合後の学校跡地は、京都市将来にとって極めて有用かつ大切な公共空地である。
 最初の統廃合は、1979年、中京区の銅駝中学と柳池中学校の統合で、次いで1986年、下京区の永松小学校と開智小学校の統合が行われるが、1990年代にはいると統廃合の勢いは一気に加速する。小学校では、92年に下京区内9校が3校に、95年には上京区内10校が2校に統合される。そして、21世紀にはいると中学校の統廃合が進むことになる。
 こうした中で、統廃合後の学校跡地の活用をめぐり、1995年、全市的な視点や地域的視点、将来的な備えなどに基づく小学校跡地利用の考え方がまとめられ、順次事業が進められる。学校歴史博物館(1998)、子育て支援総合センター(1999)、京都芸術センター(2000)、ひと・まち交流館京都(2003)、京都国際マンガミュージアム(2006)などが代表的な例であるが、このほか、老人福祉施設や図書館など、2008年度現在で10校跡地(上京2、中京6、下京2)に及んでいて、さらに10校跡地は今後の余地として残されている。これだけの公共空地の存在は、京都市の今後の発展余力を示すものといえるだろう。

 このほか、都心部再生にかかわるものとしては、町家の保存・再生や町並み景観、流出する大学に対する対策などがある。
 今日みる町家ブームともいうべき町家問題の対策は、1997年の景観まちづくりセンターの設置と、1999年の町家実態調査に始まるといってよい。そしてそれらは、高さ規制問題などの教訓も加えて、2007年に打ち出された新景観政策に発展していく。
 また、1980年代中頃から顕在化してきた大学や事業所の流出問題に対する対策が検討される(1986年に同志社の田辺キャンパスが完成)。事業所対策には有効な手だてがなかったものの、大学対策では、1994年3月に府内44の大学・短大による「京都・大学センター」が発足し、98年2月には「財団法人大学コンソーシアム京都」が設立され(2000年には京都大学も加盟)、2000年9月、京都の大学共同利用施設として「京都市大学のまち交流センター」(キャンパスプラザ京都)が開設された。



 ひとまずの結び  都市を構想するために

 21世紀は、地方自治に関しては、分権法の制定(1999)にみられるように、分権化の流れの中で幕開けした。しかし、現実にはそう内実のともなったものではなかく、バブル崩壊後の行財政改革や構造改革の中で、地方自治をめぐる環境はより厳しいものとなってきた。
 こうした中で、現実の京都の都市と都市行政は、どうなっていくのであろうか。それを見通すことは困難なことではあるが、まず、都市整備にかかる戦後京都市政を振り返りながら考えていきたいと思う。

1.戦後京都市政を振り返って

 さて、都市整備にかかる戦後京都市政を簡単に振り返ると次のようにみることができないだろうか(年代区分はおおよその目安として捉えた)。
 @1960年頃まで  高山市政など   戦後復興と財政再建
 A1960年代前半  高山・井上市政  計画構想づくり
 B1960年代後半  富井市政     計画構想の挫折
 C1970年代    舩橋市政     都市整備の土壌づくり
 D1980年代    今川市政     都市整備の準備
 E1990年代以降  田辺・桝本市政  都市整備の順次実施

 敗戦から1960年頃までは、戦後復興と戦後市政の確立、さらに財政再建の時期で、おおむね高山市政下にあった。総合的な都市整備計画は、財政再建計画を完了し、高度経済成長期にさしかかった1960年代の半ば頃までに策定されるも、その後の60年代後半には政治的に挫折する。しかし、1970年代にはいって、都市整備への土壌づくりが行われ、1980年代にようやく都市整備は、大型開発プロジェクトを含む計画が多岐にわたって構想されるも、市政の執行能力の低下などから容易に実行されず、バブル崩壊後1990年代にはいって順次実施されていくという状況とみることができる。
 こうみてくると、戦後京都の本格的、総合的な都市整備は、その計画構想の策定自体が1960年代半ばと遅く、しかもそれは一旦挫折し、新たに構想されるのが1980年代後半で、バブルによる京都乱開発の時期を経て、ようやく実施期にはいる。しかし、その実施期は、バブル崩壊後の経済低迷期にあたり、21世紀にはいるとデフレにおちいるのである。こうして、財源難に苦労を重ねながら、コツコツと各種整備計画を可能な範囲で実施することになった。京都市の都市整備は、戦後復興過程ではあまり進まず、その後は財政難と財政再建計画でそれどころではなく、いよいよという段階では、すでに経済が高度成長期から低成長期へ移行していてタイミングを外す結果となる。まさに、周回遅れで走っている感じである。そこで問題となってくるのは、京都市の都市財源と市政執行能力の脆弱性である。その原因をどう見るかは大切な点である。
 こうした都市整備の弱さがあるとはいえ、都市京都の方向性については、1950年からの国際文化観光都市づくり、1978年からの世界文化自由都市づくりは、そう大きく的を外してはいないようではあるが、都市成立条件の重要な柱の一つである都市経済の把握において弱さをもっているとはいえよう。そのあたりの問題が、21世紀にはいってからの「国家戦略としての京都創生」につながってきたのではないだろうか。

2.国家戦略への期待と景観対策

 遂にというべきか、2003年6月、京都創生懇談会が、京都市の要請を受けて「国家戦略としての京都創生の提言」を行った。その翌年10月には、京都市が「歴史都市・京都創生策(案)」を発表し、12月には、その実現を求める決議を市議会は行った。さらに翌年の2005年6月には、京都商工会議所会頭を代表とする「京都創生推進フォーラム」が設立され、また5月には自民、公明両党国会議員による、6月には民主党国会議員による議員連盟が、京都をはじめとする歴史都市の維持・再生に関して結成されるまでに至った。こうして、21世紀京都の行方が大胆に方向付けられることになるが、京都自身が行うこの方向性の中軸をなす政策として、「新景観政策」が打ち出されることになった。
 では、「国家戦略としての京都創生」とはどのようなもので、どのような意味を持つものなのであろうか
 まず、「国家戦略としての京都創生の提言」などから、その要点を記すと次のようである。
 @京都は、日本の国家財産であるばかりか、世界の宝である。
 Aしかし、今や京都の力だけでは京都を守れなくなってきた。
 B従って、国家財産として京都を守ることを、日本の国家戦略にするべきである。
 C具体的には、国による財源の確保と基本法としての歴史都市再生法の制定、国立の歴史博物館の建設などである。
 D京都市では、この京都創生の実現を目指す目標として「景観」、「文化」、「観光」を掲げ、京都市の取組と国への要望・提案をとりまとめている(2004.10「歴史都市・京都創生策(案)」、2006.11「歴史都市・京都創生策U」)。
 E「景観」の取組として、「全市的に高さの最高限度を引き下げる」ことを掲げていた(「歴史都市・京都創生策U」)。

 その意味するところを考えてみると、第一には、京都は、もはや京都の力だけでは京都の良さを維持できなくなったという認識に立ったということ、第二には、国の手によって京都再生を図るという道に期待を寄せることになったが、はたしてそれは可能かということ、第三には、高さの限度引き下げを全市的に行った新景観政策は、京都の都市政策の決定的な転換点となり、おそらく今後予想を超えた影響を持つであろうということであろうか。
 第一の、京都の良さは京都の力だけでは維持できなくなったという認識にはそう異論はないであろう。都市京都が長期低落傾向の中にあり、しかも時代変化の影響を受けて、歴史的な文化遺産や町並み景観などは衰微しつつあるからである。ただ、この認識をどう受けとめるかということになると、必ずしも一様にはいかないようである。「京都創生」のように深刻に受けとめる仕方の対極には、時代の成り行きとして、新しい時代に適応するにはやむをえないものとの受け止め方もあろう。そして、まだまだ多くの歴史的遺産や伝統文化、町並みや自然を含む景観を擁しているとはいえ、京都の文化を担う伝統的な京都人自身の減少には著しいものがある。京都人の暮らしや生活様式も大きく変化している。この京都の都市構成員である京都人(市民)の変化の現状は、「京都創生」との間に大きな距離を生ぜしめている可能性がないとはいえない。
 第二の、国の手によって「京都創生」を図るという場合、広義には都市京都そのもの、狭義には文化遺産の保全などのハード面で限定的にとらえるという二つの仕方がある。そして、そのいずれもが、現代の制度や政治の仕組みの中で、いかに京都が重要な都市であっても、京都のみを対象とした国家戦略を樹ることが果たして可能かという問題がある。確かに、京都の歴史遺産の保全に必要とする財源とエネルギーは大変なものであり、これには国や国民的な支援を必要としているのは明らかではあるものの、では支援という領域を超えることが果たしてどれほど可能かということ。国家戦略としての位置が得られなくとも、京都は自らの夢をもって歩み続けなければならない、その辺りの揺るぎのない京都の方向性を持ち続けることが大切であろうと考えられる。
 そして第三の、新景観政策である。「国家戦略としての京都創生」を国に要請するだけではなく、京都自身の努力を示したものではあるが、それにしても、中心業務地域を含む全市的な高さの引き下げという大胆な政策がよくぞ実施できたものである。これまでも、他都市と比べて抑制されてきた高さをさらに引き下げる策は、近現代京都100年の歴史ではじめての大胆な政策転換である。既存の不適格物件となったビルやマンションなどへの影響、割高となるこれからの建造物への長期的影響、居住者に及ぼす影響など、経済的な影響が今後根深く出てくることになる。景観が良好となる反面のこうした都市生活・都市活動上の分析は必ずしも十分には行われなかっただけに、こうした点での将来不安には深いものがある。
 いずれにしても、21世紀初頭において、国家戦略への期待と新景観政策で京都は大きな舵を切ることになった。それは、戦後今日に至るまで一貫して都市財源に悩み、文化観光施設税や古都税などを実施してきた京都の、ある種必然的な帰結なのかも分からないが、その成果を見通すことは容易ではないようである。

3.明日への適性都市を求めて

 過去の歴史的な栄光に今なお包まれ、緩やかな下降線をたどっている都市京都において、新たな大きな夢を語ることはむずかしい。
 現在の京都は、都市としての拡大発展を終え、停滞ないし衰退期に入っていると考えられるが、その主たるところのものは、都心部ないし中心市街地における人口減少である。都心部居住人口の減少は、大都市では一般的傾向にあるものであるが、京都の場合は、中心市街地における商工業者の比重が高く、これが、伝統産業を中心とした産地の崩壊によって減少していることが特徴である。伝統産業などの中小商工業者とその従事者は、その仕事ばかりでなく、日常の暮らしの中で京都の文化を担ってきたのであり、その減少は、歴史的な京都を変質させるものとなった。
 これを別の視点から見ると、京都の市民すなわち都市構成員が変化してきているのである。サラリーマンを中心とした市民の平準化と「京都人」の減少である。この商工業者を中心とした伝統的な京都人は、職住一体の暮らしを、いわゆる町家で行っていた。町家の維持が困難になってきたのもそうした「京都人」の減少によるものである。こうした市民すなわち都市構成員の変化は、住居を含め、京都という都市そのものを一般的な現代都市化の方向に向かわすことになる。このことは、京都の都市行政そのものが、平準化された市民を対象としたものに転換していくことを意味する。
 また、戦後京都市行政が一貫して苦しんできたものに、財政力の弱さがあった。都市財源の脆弱性である。そのために、大規模な事業を大胆に実行することが困難であり、戦後最大のインフラ事業となった地下鉄建設は、当初の計画に到達することができないまま、それを維持することも重荷となりつつある。
 そして都市京都は、都(みやこ)でなくなってすでに百数十年を経、さらに戦後地方自治制度のもとで制度的には一般都市化への道を歩み、中央との関係においてある種特別な都市であった時代はすでに遠い過去のものとなっている。分権化の流れの中ではなおさらのこと、京都が特別な制度の保障を得ることはできなくなる。
 こうした・緩やかな下降線 ・都市構成員の変化 ・都市財源の脆弱性 ・「一般都市」化への道 という現実の上に立って京都のあり方を考えると、そこに、京都のおかれている条件をわきまえた「適性な都市」という考え方が浮かんでくる。
 「適性な都市」とは、人口や市域面積などの適正規模といったものも含むが、京都のおかれている条件に「適う」という意味での「適性」都市である。この「適性な都市」であろうとするには、・都市の歴史の現実を受けとめ、・可能な限り都市の遺産を維持し、・その都市の特性を伸ばすと同時に、・その都市が常に現代都市であり続ける必要がある。 京都の都市としての歴史の現実を受けとめるということは、京都が下降線をたどる過程にあるという現実認識に立つということであろう。その上で、可能な限り遺産を維持するということは、ハード、ソフト両面における歴史的文化遺産の維持、活用、更なる保全といった循環に努めることは当然のことながら、都市人口、とりわけ都心部における人口減少に歯止めをかけて回復をめざすことが大切である。
 京都の都市としての特性を伸ばすということは、同時に、京都は絶えざる現代都市であり続けてきたという問題との表裏の関係でとらえられなければならない。特性はもちろんのこと歴史的文化の継承、発展にあるのは明らかであるが、これに現代的な文化や文明の導入も享受も併せ考えられなければならない。また、都市京都考える場合、すでに現代の京都市域は広大になりすぎており、都市部でない地域地域の特性もとらえられなければならない。
 京都盆地の中で、都市の拡大と収縮をくり返してきた京都の歴史を振り返るとき、制度的な行政地域を越えて、実態としての都市京都と京都盆地内の諸地域との有機的な関係を築くことの重要性に気づく。都市は一方では普遍化の道を歩むが、他方では個性を追い求める。その都市の個性は、究極のところ自然風土に負うところが大なのである。

(2009.6.26了)


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