グランドビジョン(京都市基本構想)について 

21世紀グランドビジョンを理解するために 
                   (2001.2.19完)
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              目   次

1.はじめに− 京都市グランドビジョンの評価について 

2.地方自治体の基本構想とは 

3.京都市基本構想の歩み 
(1)京都市基本構想前史−総合計画、長期開発計画及びまちづくり構想
   京都市総合計画試案
   京都市長期開発計画(案)
   まちづくり構想−20年後の京都−

(2)京都市基本構想の歩み 
   発端〜まちづくり構想見直しと世界文化自由都市宣言〜
   第1次基本構想 
   基本計画と新基本計画 
   桝本市長のアクションプランからグランドビジョンの策定へ
   第2次基本構想としての21世紀グランドビジョン 

4.21世紀グランドビジョンの要点と課題
(1)21世紀基本構想の要点と課題 
   21世紀基本構想の主な内容
   21世紀基本構想の論点を考える
    ア.基本構想における市民と行政との関係について
    イ.「京都市民の生き方」を基本構想で描くことの是非
    ウ.自治体の基本構想の主題は?
       −「信頼」、「安らぎ」、「華やぎ」の理解の仕方を併せて−
    エ.改めて自治体の市長、議会の役割は?
    オ.「市政の主人公は市民」ということの意味
    カ.言葉のわかり易さと意味することのわかり易さ!
    キ.基本構想と基本計画との関係
    ク.区政と行政区計画のあり方
    ケ.再度、21世紀基本構想が問いかけているものを考える

(2)基本構想と市政の課題 

1.はじめに− 京都市グランドビジョンの評価について 

  京都市の21世紀前半の4分の1を展望した「グランドビジョン」は、1年間の審議会の審議を経た答申を受けて、昨年(1999年)12月17日に京都市議会で全会一致可決され、同月24日京都市公報号外25号で公告されました。
 この、21世紀京都市政の目指すところを総合的に指し示す「京都市グランドビジョン」は、正式には「京都市基本構想」と称されるもので、ほぼ20年近く前に初めての策定がなされていますから、今回は第2次のものということができます。 
 今回の「グランドビジョン」は、審議会自身でも評価がされているように、「わたしたち京都市民」が、市民の視点から描いた、市民自身の「2025年までのくらしとまちづくり」である画期的なものとされています。 この点について、本年1月8日に開催されたグランドビジョン市民フォーラムU「パネルディスカッション『新しい時代の京都を築くために』」(平成12年3月同報告書から)における桝本京都市長の開会のあいさつで、要領よく3点にわたってまとめられています。
  第1点は、主語を「わたしたち京都市民は」として、これからの京都を描いている点。
  第2点は、「くらしに安らぎがあり、まちに華やぎがある、そんな21世紀の京都をつくっていく」としている点。
  第3点は、市民の市政参加のしくみとかたちを整えていくことを強調している点。

  1980年度を起点として、2000年度までの将来構想が策定された第1次の京都市基本構想は、1983年7月に京都市議会の議決を得て成立しましたが、その時点から現在までの世の中の推移には驚異的なものがあります。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた時代から、バブルショック受けてまさしく世紀末の様相を示すことになった今日までの間に、経済面だけではなく、政治や行政面においても、また世界的な広がりにおいても多くの面で、というよりかは、根本的な面での揺らぎが生じてきております。
  したがって、今回のグランドビジョンの評価点についても、第1次の構想策定時においては現実的には考えることのできなかったような点が多く、そうした意味では、隔世の感なしとしない面があります。
  また、今回のグランドビジョンの特徴の一つとして、これまでの経過にとらわれずに策定されたことも挙げられていますが、これなどは、時代の外形はなるほど激変してきているとはいえ、我々自身の中身は、本当にどれほど変わってきたのかということもありますから、やはり、過去との違いを充分に見定めなければならないのではないでしょうか。
  したがって、京都市のグランドビジョンすなわち新京都市基本構想とはいかなるもので、京都市では、どういう変遷をし、そもそも基本構想というものはどのような課題をもっていたのだろうかという点について振り返ることによって、新たに開始される、グランドビジョンに基づく具体的な計画づくり(今後10年程度の期間に達成するべき京都市基本計画)の参考に供したいと考えます。

 2.地方自治体の基本構想とは 

 では、京都市21世紀のグランドビジョンとはいかなる位置付け、いかなる性格のものなのでしょうか。
 京都市をはじめとする地方公共団体は、通常地方自治体ともいわれ、その運営は、日本国憲法第8章第92条「地方自治の原則」を受けた地方自治法の規定に基づいて行われています。その地方自治法の第2条5項で、地方自治体の事務は、総合的かつ計画的に進められなければならないとして、次のようにその自治体の基本構想を定め、それに即して事務を進めていくべきことが規定されています。
     市町村は、その事務を処理するに当たっては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ
   計画的な行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即して行なうようにしなければならない。

  さて、短い文章ですが、ここには幾つかの重要な事柄がうたわれており、その解説をしながら自治体の基本構想なるものの理解を深めたいと思います。
  まず、「議会の議決を経て」とあります。議会の議決を経るということは、自治体の「基本構想」は、執行機関である市長が定めるという領域を越えた、自治団体である京都市の構想でなければならないことを条件付けているのです。市長の施政方針の変更によって簡単には変わらないものなのです。市長が、選挙公約をはじめとして市政を執行するために作成する各種事業計画は、あくまで執行機関としての市長の責任においてまとめられるものであり、その責任は市長にあります。それに対して、議会の議決を経た京都市という自治体の基本構想は、執行機関と審議機関(市会)が共にその責任をもたねばならないものであり、市長はその具体化を進める責務を負うことになります。
  さて次に基本構想の内容です。これは、「総合的かつ計画的な行政運営を図るため」のもので、これに関しては、昭和44年に自治省が市町村を指導するために作成した「市町村の基本構想策定要領」があります。そこでは、基本構想の性格や策定指針、内容などが示されています。各自治体は、これに準拠してそれぞれの基本構想を策定しているのです。 この自治省の「策定要領」については、第1次の構想策定作業の頃にその概要を記したものがありますので、それを引用します。

      「策定の指針」では、「当該市町村の置かれている自然的、歴史的および社会経済的諸条件に 
          応じその特性を活かすよう配慮すること」という妥当な内容とともに、国や都道府県等の上位計画 
          と「適合するよう配慮すること」という上位計画優先の考え方が示されている。
      「基本構想の内容」では、「将来図」とそれを達成するために必要な施策の大綱について次のよ
    うに示している。
      1 将来図 
      @ 人口、産業等に関する指標を用いて、地域社会経済の将来像を明らかにすること。
      A 市街地、集落等の配置、交通通信体系、土地利用の構想等を定めることにより、総合的
                な地域社会の構造を明らかにすること。
      B 住民生活の将来像については、教育文化、心身の健康等の人間形成の面も含め、住民
       の生活水準ないし生活水準の目標を示すことにより明らかにすること。
     2 施策の大綱
      @ 市街地及び集落の整備、交通通信施策の整備、防災対策その他の地域社会の基礎的
       条件の整備に関する事項
      A 生活環境、保健衛生、社会福祉、教育文化その他の住民生活の安定向上、人間形成等
       にす関る事項
      B 農林水産業、商工業その他の産業の振興に関する事項
      C 行財政の合理化に関する事項
     なお、施策の大綱においては、市町村自らの行財政施策を通じてその実現のため責任を持ち
    えない事業であっても、それが当該市町村の存立している地域社会の振興発展の方向または
    施策の 基本を明らかにするため必要があるものについては含めても差し支えないものであること。
        「基本構想の期間」としては、「一般的にはおおむね10年程度」とされているが、上位計画があ
    る場合には、「その期間と一致させることも考えられるものであること」とされている。
           [筆者「京都市の『基本構想』を考えるにあたって」(1979.6「京都市政調査会報
              第23号」所収)から]

  地方自治法に自治体の基本構想の規定が盛り込まれたのは確か昭和43年(1968)ですから、経済の高度成長がいよいよ佳境に入っていく時代です。1960年に全国総合開発計画がはじめて策定され、高度成長がスタートしますが、1960年代後半になるとそれに伴う歪みを生じさせながらも高度成長神話を築いていくことになる丁度そうした時期の新全国総合開発計画(1969年に策定、その後列島改造に進む)の推進に合わせるような形で、地方自治体の総合計画が誕生してきたといえるのでしょう。
  詳しい分析は避けますが、戦後我が国の産業の拡大と国土の総合的な開発のなかで、地方自治体の運営も、成り行き的な行政ではなく、そうした状況のもとでの総合的かつ計画的な、しかも政府や都道府県の計画との整合性をも確保した事業の進め方が必要となってきたという理解が出来ます。
  当たり前にして当然ともいえる総合性や計画性は、建前はそれとして、実は大変難しい問題であることはとりあえず後のこととして、基本構想が「将来図」と「施策の大綱」から構成されているものであるが、「将来図」の部分が基本構想として概ね20年程度の計画期間とされ、「施策の大綱」という具体的な計画事業が概ね10年程度の計画期間としての「基本計画」として、これは執行機関である自治体の長が策定するというのが一般的な実際の傾向です。すなわち、基本構想は、20年スパンの理念や都市像であり、それを事業として具体化するのが10年スパンの「基本計画」であるということになります。
  こうした10年スパンや20年スパンという時間が、急成長や激動する時代にあってはたして計画化を実際上可能とすることなのか否かという問題も出てきますが、これもまた後の問題と致しましょう。
  いずれにしても、行政全般に及ぶ10年、20年の計画を、計画として具体化し全うすることは至難の業であります。そこで、これも経験上から、概ねの自治体では、3か年ローリングシステムということで、10年計画のもとでさらに3か年の現実の実施計画を樹て、その3か年の実施計画は毎年更新され、そのもとで毎年の事業実施を順次進めていくという方法が講じられるようになっています。
  ひとまず自治体の総合計画としての「基本構想」の理解に関してはこのあたりに止め、京都市の総合計画ないし計画行政の歩みを次に見てみることに致しましょう。

 3.京都市基本構想の歩み 

(1)京都市基本構想前史−総合計画、長期開発計画及びまちづくり構想

 自治体の「基本構想」というのは、自治体行政の総合計画すなわち総合的な計画構想です。単独の事業の計画というものは事業を達成するためのプログラムとして昔から存在したでしょうけれども、一定分野にしても「10年計画」というような形での達成目標を建てるようになるのは、やはり高度成長期に入ってからだったように思います。自治体の総合計画というのは、自治体の一切の行政を包括した計画ですから、当然新しい手法であり、京都市では、1983年の「基本構想」がはじめてとなります。そしてこれは、全国的には昭和47年(1972)には55%の都市で策定されていることからすると、10年ほどの遅れをとってきていることになります。これだけを見れば、京都市行政は、相当程度全国の流れから遅れていることになります。この総合計画だけではなく、10年程前までは、企画調整機能の遅れもよく指摘されてきていたものでした。これらは、一定程度の妥当性をもっていたとはいえ、京都市行政がずっとそうであったのでしょうか。戦後の歩みを少し振り返って見れば、必ずしもそうではないことがわかります。
 京都市の総合的な計画構想への志向性はかなり早く、昭和30年代後半には「京都市総合計画試案」が策定されており、また昭和41年には「京都市長期開発計画」が策定されています。さらに昭和44年には「まちづくり構想」(20年後の京都)が策定されるなど、地方自治法に基づく基本構想の策定こそ遅かったとはいえ、実際には、それにいたる計画構想は策定され、また存在していました。
 ただ、最初の二つは結局陽の目を見ることなく消え、「まちづくり構想」のみが現実化し、その見直し過程が同時に最初の「京都市基本構想」策定作業でもあったのです。

   京都市総合計画試案
 未完であり、試論であった京都市総合計画試案は、昭和38年(1963)3月に策定されましたが、これには二つの流れがありました。一つは、戦後の京都復興策としての国際文化観光都市建設法制定の流れであり、今ひとつは、最初の全国総合開発計画に見られるような諸々の国家計画の中での地域計画の流れです。
 京都市における総合的な長期構想は、すでに戦前の昭和14年(1939)に大京都振興審議会が設けられて審議されていましたが、戦争激化と敗戦により途絶することになります。しかし、昭和25年(1950)、戦後京都市の将来方向を示す「京都市国際文化観光都市建設法」を住民投票と国会の議決により制定し、これに基づく計画構想を策定していました。
 国際文化観光都市建設法自体は必ずしも実効性のある法律とはならなかったのですが、その精神は京都市の戦後復興のあり方を示すものであったといえます。
 総合計画を策定するには、市役所機構の中に総合企画機能を備える必要があり、昭和35年(1960)に企画室が設けられますが、これは同37年(1962)には企画局となり、この両セクションで策定作業は進められたのです。企画局は昭和39年に廃止され、以後京都市には長くハード、ソフト両面にわたる総合企画機能は設けられないままとなりました。
 国土総合開発は、戦後の我が国の復興策の中軸をなすもので、昭和25年(1950)5月国土総合開発法が公布されることにより、国と地方がともに総合開発計画を作成することになりますが、特に首都、中部、近畿の三大都市圏についてはそれぞれの整備法を設けて実施していくこととなります。 首都圏整備法は昭和31年(1956)に公布されますが、近畿圏整備法は昭和37年(1962)7月に公布されます。ちなみに、中部圏開発整備法の制定は、昭和41年(1966)です。地方における総合計画は、都道府県単位で策定することになっています。
 こうした流れの中で策定された「京都市総合計画試案」の内容ですが、試案とはいえ、その後の長期開発計画、「まちづくり構想」、さらには現在に続く京都市の都市計画につながる主要な課題は概ね検討されていたといえます。我が国経済の高度成長がいよいよ開始していく時にあって、その後に見られる主要な都市問題の萌芽とそれへの対策の必要性はすでにこの段階で明らかになりつつあったといえるでしょう。なお、この試案は、昭和45年(1970)を目標年次としていました。
 詳しい内容は、後日必要に応じて紹介するとして、ここでは、その目次の一部を示すにとどめます。
 なお、この京都市総合計画試案の策定責任者は、私のこのホームページに「関連する他の方々の諸論稿」の中で、今日なお企画業務に携わる者として心すべき戦後まもなくの名論稿として紹介している「都市行政における企画機関のあり方」の筆者である故斉藤正氏(当時企画局長)です。

   京都市総合計画試案目次(抄)
第1部 総論
 序論(総合計画策定の目的等)
 第1章 計画策定の基盤−計画の背景
  第1節 京都市と近畿圏
    3 近畿経済圏と京都市経済
    4 国際文化観光都市としての京都
  第2節 京都市の産業
  第3節 京都市の市民生活
 第2章 計画の地域と目標
第2部 基本構想
 第1章 都市整備の構想
  第1節 都市整備の方向
    1 整備地域
    2 開発地域
    3 保全地域
  第2節 土地利用計画の構想
    4 用途地域
      (1)東海道線以北の地域 (2)東海道線以南の地域 (3)山科地域
    5 用途地域以外の地域
      (1)空地地区 (2)風致地区 (3)緑地地区 (4)美観地区
  第3節 人口配分計画の構想
    1 人口配分計画
    2 市街地化計画
  第2章 産業振興の構想(観光事業を含む)
  第3章 社会福祉の向上
    1 民生
    2 衛生
    3 清掃
    4 教育
    5 文化
第3部 公共施設整備計画
 第1章 道路交通
 第2章 水政
 第3章 都市施設計画
   1 住宅整備計画
   2 公園整備計画
   3 保健施設整備計画
   4 清掃施設整備計画
   5 その他の整備計画  


             京都市長期開発計画(案)
 戦後の経済発展と都市化の進展の中で「京都市総合計画試案」を継承しつつ、新たなハードプランを中心とした総合開発計画として策定されました。この計画は、行政サイドで策定された原案を審議会にかけて審議され、その答申を受けたものです。
 策定作業は、高山市長のもとで、昭和40年2月に計画局を設置して着手されますが、翌年の昭和41年2月には市長が高山義三から井上清一に交代し、井上市長のもとで原案がまとめられ、8月に「京都市長期開発計画審議会」に諮問、12月に答申を受けました。しかし、翌昭和42年1月、井上市長が急逝し、それを受けた市長選挙の結果によって、結局、答申を受けながらも京都市の計画とはなりませんでした。この昭和42年2月の市長選挙では、この長期開発計画を掲げた候補者と、それを京都を破壊するものとして批判した候補者との激しい選挙戦となり、長期開発計画を批判した候補者である富井清市長の誕生で途絶することになったのですが、選挙戦の重要な争点となったものです。

 この長期開発計画は、計画期間15年で、その主な特徴は次のようなものでした。
@経済発展とともに都市の過密と拡大・スプロール傾向の兆しが明らかになる中で、その傾向に先行的に対応する都市のインフラ整備を総合的に進めようとした。
A京都市を、京都近辺の市町村の母都市としての役割を意識した都市整備構想であった。
B具体的には、先導的大規模施設計画として次の「7大事業」にまとめられた。この7大事業は、その後の京都市の都市整備事業構想のベースとして生きつづけることになります。
 道路網整備事業
 高速鉄道網整備
 ニュータウン造成事業(これがその後の洛西ニュータウンとして結実する)
 工業団地造成事業
 流通センター造成事業
 文化中核施設建設事業
 軸状都心形成事業
C7大事業の総事業費約6千億円(当時の京都市の一般会計年間予算額300億円弱)を含む計画の財政的検討も加えられていた。

 (参考)  「京都市長期開発計画案」の意図するところを理解するために、その「はじめに」の部分を以下に紹介します。 

は じ め に

 京都は日本人の心のふるさとである。   
 平安京以来の町割りはいぜんとして市街地の基本的な構成単位である。東山, 北山,西山の山麓部に豊富に存在する文化財は,日本人のひとりひとりが訪れたいとねがう歴史的風土を織りなしている。しかし,ここにも観光開発,住宅開発の波は容赦なく押しよせている。「古都を守れ」という与論のほうはいとして湧きおこった所以である。  
  しかし,京都は人口155万をこえる大都市でもある。歴史的風土のみでは生きられない。必然的に市民のくらしの場が開発・整備されなければならない。また,京都の周辺においても広域的な都市圏が生れつつある。周辺の開発も非常な勢で進んでいる。京都はその母都市として,広汎な機能の要求に応えて行 かなければならない。広域都市圏の母都市としての機能,それは大都市の宿命である。
  すでに言い古されたことばではあるが,保存と開発の調和,これが20世紀後半に入った京都の基本的な命題である。京都はこの問題にとり組まねばなら ない。しかし,市のもつ行政手段はかぎられており ,財政能力にも限度がある。目標と手段のギャップを埋めるために,われわれは何をしなければならないか。   
 本計画はこの問題の解決についての一つの具体的提案である。   
 この計画は市域及び広域の主たる動向を把握し,問題解決のための実現可能な方策を提案する。基本的に,それは,人口従って住居,及び産業の分布の, 量的側面のみならず構造的側面までを含んだ広義の土地利用の問題であると考える。従って,各分野の包蔵する諸問題のうち,特に影響の大きい問題点を, 昭和55年までの期間において,市域の望ましい土地利用への誘導を通じて, 解決の方向へ基礎づけようとする。その誘導のために最も先導力のある大規模施設建設という視点にしぼってこの計画期間における公共的投資に関する具体的方策を提案する。   
 このような構造から,この計画においては,行政の全分野にわたって巨細に現況を記述し,データを羅列し,細かな行政方針まで列記するという方法を採つていない。総花的記述が主たる問題点の所在を不明確にし,何が重要な方策であるかをあいまいにして,実施に当っての力点を見失なわせることを恐れるからである。 
  しかし,いうまでもなく市の行政の全分野が,この基本的方策と相補いながら大局的に正しい方向へむかうのでなければ効果は期待できない。このような,投資的経費に関する基本的提案以外の主な行政分野についてとられるべき施策については,この計画の方向に沿って別途にそれぞれ策定されることが必要であって,これは今後の重要な課題である。

 

 

            まちづくり構想−20年後の京都−
 先にみたように、長期開発計画案が激烈な選挙戦によって否定され、新しい富井市長のもとで革新市政のイデアによって新たに策定されたのが「まちづくり構想−20年後の京都−」でした。昭和44年(1969)4月のことです。この構想は、ようやく顕在化してきた経済の高度成長過程における都市発展の歪みに対して、都市における人間の復権ともいうべきところに視点を当てて策定されたのですが、構想そのものは行政の総合計画ではなく、都市のインフラ整備構想であり、「計画」ではありませんでした。
 そのために、この構想の実施プランニングはその後の課題とされたのですが、この構想策定後、それ担うセクションそのものが設置されることなく推移したところに問題がありました。
 今ひとつの問題は、その後の経済成長はさらに急展開するとともに、1970年代半ば頃から一転して低成長過程に入り、都市の拡大発展を当然の前提としたこの構想の前提条件が崩れることになると同時に、都心部の空洞化と周辺部への人口増加というアンバランスの拡大が予想をはるかに越えていくことになったことです。これらが、つぎの第1次京都市基本構想・計画の策定に向かう要因となります。

 この「まちづくり構想−20年後の京都−」の特徴を少し見ておきたいと思います。
@計画期間は、昭和40年を起点として昭和60年までの20年年間。
Aあくまで構想どまりであり、実施計画ではなかった。そのため、当面行なうべき事業を提起していた。
B構想の実現には、市民による運動を重視していた。
C構想の基本的な視点は、市民生活の重視であり、顕在化しつつあった都市問題を解決するための都市整備構想であった。
D都市整備に当たっては、都市の将来像を明らかにし、それに向かうための土地利用構想、都市施設整備構想であった。
Eそして、市街地と都市施設の一体的整備構想として、「緑のネットワーク」、「住区」構想を掲げていた。
Fまた、まちづくりの基本的な考えとして、住、工、商業など地域における機能純化を特徴とした。
Gさらに、伏見区の大手筋商店街を副都心とする、副都心構想と、京都都市圏の中核としての母都市構想
H状況把握として、経済の高度成長過程であり、人口規模の拡大、すなわち、昭和40年136万人を昭和60年170万人と推計していた。
I構想実現の重要なファクターとして、市民運動を掲げていた。
J「当面おこなうべき事業等」には各分野に及ぶ相当数の事業が示されているが、烏丸線など高速鉄道の新設、洛西ニュータウンの建設、上下水道の拡張整備などが特徴として見られる。

(2)京都市基本構想の歩み 

    発端〜まちづくり構想見直しと世界文化自由都市宣言〜
 京都市は、京都市にのみ適用される憲法第95条に基づく特別法「京都国際文化観光都市建設促進法」を昭和25年(1950)に実現していますが、こうしたベースの上に、昭和53年(1973)10月15日の京都市自治80周年記念式典で「世界文化自由都市宣言」を発しました。その宣言文案は、桑原武夫京都大学名誉教授を座長とする8名の有識者による委員会でまとめ上げられた極めて格調の高い文章(起草者:梅原猛市立芸術大学学長(当時))です。この宣言文を地方公共団体である京都市の宣言とするために、市議会の審議にかけられたのですが、市議会ではこれを可決するに当たって9項目に及ぶ付帯決議を付すことになりました。この付帯決議の第1項は次のように基本構想の早期策定を要請しています。

  本来このような宣言を行う以前に、地方自治法第2条第5項の基本構想を提案すべきである。
  しかるに本市は、まちづくり構想の見直し作業との関係で、基本構想の策定を2年後と判断しているが、少なくとも本年中に策定の時期を明らかにすべきである。(昭和53.10.13)

  世界文化自由都市宣言は、単に京都市が世界文化自由都市でありたいという願望を持つだけではなく、そのことを世界に向かって高らかに宣言することであり、その意味するところは極めて重大であるといえます。京都市をそのような都市にしていくには、京都市民挙げての議論と合意の形成が必要であることはいうまでもないことですが、市議会の審議すら充分つくす時間的ゆとりのない状況で、市議会としては、このような都市としての重要な宣言は、本来、地方自治法に定められた自治体の基本構想による位置付けをした上で行うべきではないかという見解があったために、すなわち、本来的には、宣言よりも基本構想の策定が先になければならないという考え方があったものと思われた。そのために、基本構想の早期策定をせまったのです。
 京都市の場合、基本構想の策定は、まちづくり構想があったために策定していなかったということは先に述べた通りです。しかし、そのまちづくり構想は、丁度この頃には見直しの作業に取り掛かっていました。そこで、京都市では、市議会の意見を受けて、まちづくり構想の見直しと基本構想の策定作業をドッキングして進めることになりましたが、そこで問題となってきたのが、基本構想はまちづくり構想の見直しなのか、基本構想はあくまで基本構想であり、まちづくり構想を超えたものでなければならないのではないかということでした。まちづくり構想は、都市に住む人間というものを重視した構想であったとはいえ、あくまで都市施設整備という物的な構想です。それに対して基本構想は、自治体のソフト施策も含む総合的な構想です。したがって、似たようなものではあっても、まちづくり構想の見直し=京都市基本構想とはなりません。
 それから今ひとつの問題は、すでに行った世界文化自由都市宣言と新たに策定する基本構想との関係です。京都市基本構想は、世界文化自由都市宣言の具体化構想でもなければ、世界文化自由都市宣言が、京都市基本構想の単なる一重要施策という程度のものでもなく、この両者の関係がその後の市議会でも議論となったのです。これについては、最終的に、21世紀をも視野に入れた京都市の向かうべき都市理念として基本構想の上位概念に位置付けることによって解決しました。
 
 世界文化自由都市宣言は、必ずしも充分な市民的論議や、市議会での議論も十二分につくされることなく、昭和53年(1978)10月15日の自治80周年記念式典に間に合わせる形で発せられたのですが、その内容は極めて格調高く、京都市としてもし可能であるならば、そうありたい理想像には違いありません。しかし、その理想が、宣言文自身でも指摘しているように、高ければ高いほど、現実との関係をどう埋めていくかは生半可なものではないでしょう。昭和25年の京都国際文化観光都市建設促進法に見られる「国際文化観光都市」という性格付けとの関係も含めて、今なお必ずしも矛盾なしとはしない問題点を抱えているといえますが、いずれにしてもこうした問題は、世界文化自由都市宣言の大きさからくる問題であり、遠い将来を見通した上での粘り強い努力が今後ともに要求されるものだと思われます。
 そこで、短い文章ですから、ここでもその宣言文の全文を紹介しておりましょう。

世界文化自由都市宣言

 都市は、理想を必要とする。その理想が世界の現状の正しい認識と自己の伝統の深い省察の上に立ち、 
市民がその実現に努力するならば、その都市は世界史に大きな役割を果たすであろう。われわれは、ここにわ
が京都を世界文化自由都市と宣言する。
 世界文化自由都市とは、全世界のひとびとが、人種、宗教、社会体制の相違を超えて、平和のうちに、こ
こに自由につどい、自由な文化交流を行う都市をいうのである。
 京都は、古い文化遺産と美しい自然景観を保持してきた千年の都であるが、今日においては、ただ、過去
の栄光のみを誇り、孤立して生きるべきではない。広く世界と文化的に交わることによって、優れた文化を創造
し続ける永久に新しい文化都市でなければならない。われわれは、京都を世界文化交流の中心にすえるべき
である。
 もとより、理想の宣言はやさしく、その実行はむずかしい。われわれ市民は、ここに高い理想に向かって進み出
ることを静かに決意し、これを誓うものである。
  
   昭和53年10月15日
                                                   京  都  市


 さて、まちづくり構想の見直しですが、同構想策定後の経済成長の急展開の中で、同構想が前提としていた人口や産業などの基本指標に大きな狂いが生じたことにより、昭和52年(1977)4月にその見直しのセクションである企画課が都市計画局に設置され、見直し作業が開始されます。その途上で先にみた世界文化自由都市宣言とそれによる「京都市基本構想」の策定課題が登場します。
 まちづくり構想見直し作業としては、作業に着手して2年後の昭和54年(1979)3月に、見直しのための基本指標、すなわち基本指標の改定が発表されます。そこでは、その改定の理由を以下のように3点に整理しています。
@ 昭和40年代後半からの社会・経済情勢の急激な変化、市民の価値観の多様化等をふまえ、市民ニーズを適確に把握し、より長期的な展望のもとにまちづくり構想を見直す必要が生じた。
A 人口・産業などまちづくり構想で推計した基本指標値の殆どは、現実の動向とかい離を示していて、事業計画等の計画与件となりえなくなっている。
B 国において、第三次全国総合開発計画、近畿圏基本整備計画等が、また京都府国土利用計画等が新たに策定され、それらの広域計画との整合を図る必要がある。
 そこで、改定された基本指標を見てみると、本当に大きなずれと同時に歪みも生じていることがわかります。その端的な特徴を見てみますと、まず京都市人口(夜間)の伸びの停滞です。昭和40年(1965)現在136万人に対して、まちづくり構想では昭和60年(1985)には170万人に増大すると見ていたのですが、とてもそれだけの増加は見込めないことが明らかとなり、見直しにの計画値としては昭和75年(2000)164万人と低い増加に抑えられました。しかし、平成12年(2000)の推計人口が145.9万人と昭和50年(1975)の146.1万人とほぼ同程度であることから、京都市総人口そのものが昭和50年頃を境に停滞ないし減少しつつあるというまちづくりを考える場合の根本的な転換期を迎えたことを示しています。
 それだけではなく、昭和50年代前半においてはまだ緩やかではあれ人口増加はあるものとして考えられてきていたとしても、それは総体であって、地域間或いは産業間におけるアンバランスが予想を超えて進展してきました。就業人口では、第1次産業就業者の減少はすでに見込まれていましたが、第2次産業(製造業)就業者も昭和40年28万人に対して昭和60年には35万人に増加するものとして捉えられていましたが、昭和50年実績ですでに26.7万人に減少していました。第3次産業(製造業)就業者は増加しているとはいえ、計画ほどには増加せず、伸びを抑制せざるを得なくなりました。
 地域間のアンバランスは、予想を超えて急激に進行しました。いわゆるドーナツ化減少です。都心部の人口減少も、周辺部の人口増加も予想を越えて展開します。とりわけ山科醍醐地区の人口増加に激しいものがありました。山科醍醐地区では、昭和40年7.4万人が、昭和50年には17.1万人に激増し、昭和60年の予想人口15.9万人をはるかに超えてしまっています。これに対して都心地区では、昭和40年23.2万人に対して、昭和60年には16.8万人に減少すると見込まれていたのですが、それが10年早く減少し、昭和50年で16.8万人となってしまっていたのです。こうしたことから、周辺部へのインフラ整備と都心部の空洞化対策、いわゆる都市再生策の必要性が生じてきたのです。

    第1次基本構想 
 第1次の基本構想は、世界文化自由都市宣言を都市理念として基本構想の上位概念と位置付け、同時に先にみましたように、まちづくり構想の見直し作業としての側面も有ちつつ策定され、昭和58年(1983) 7月26日、 市議会において可決されました。その策定作業は、昭和54年(1979)4月に、先に「まちづくり構想」見直しのために設置されていた都市計画局企画課を基本構想策定のための専任の課に編成替えし、11月には、学識者と市職員とで構成された「京都市基本構想調査研究会」が設置されることにより開始されます。そして、基本構想策定を担うセクションの確かな位置付けと拡充のため、ハード事業の都市計画局が「計画局」に替えられるとともに、企画課が企画室に格上げされることになります。

 「基本構想調査研究会」では、昭和55年(1980)8月に基調テーマの試案「伝統を生かし創造をつづける都市・京都」を発表、また同年10月、12月には都市像試案を中間報告として発表した上、昭和57年(1982)8月に基本構想案(審議会への諮問案)を取りまとめるに至ります。これを受けて、翌9月に審議会が設置され、同案を審議の上、昭和53年3月11日、答申が行われました。

 「基本構想調査研究会」は、基本構想案策定後も継続して設置され、基本構想が市議会で可決されたことを受けて、昭和58年(1983)8月から基本計画の策定作業を開始、翌昭和59年7月にその骨子を発表した上、昭和60年(1985)3月に基本計画策定を完了しました。

 このように、第1次の基本構想策定では、基本構想は、市議会の議決を必要とする自治団体である京都市の計画構想を定めるための審議会の審議を経て、基本計画は、その構想を受けて、京都市長が策定する総合計画として、審議会の審議を必要としない市長の責任における調査研究会で策定されました。しかし、平成5年に策定された新京都市基本計画は審議会で、また現在その作業が進められている21世紀グランドビジョンとしての基本計画も基本構想に続き審議会で審議されています。

 今回のグランドビジョンとしての第2次基本構想の策定は、あらかじめ別の組織で作成された諮問案を審議会が審議するのではなく、審議会自身が、基本構想を一から策定したところにその特徴がありますが、第1次基本構想の場合は、あらかじめ「調査研究会」で諮問案が作成されていました。審議会のこうしたあり方は、長期開発計画の場合でも同様でした。建前上はともかく、現実の評価は、なかなかにむずかしいといえます。

 ということで、第1次の基本構想策定においては、「基本構想調査研究会」が重要な役割を果たすことになります。「基本構想調査研究会」は、そのもとに「部門別策定部会」を設けて専門的作業と部門別構想の研究を行うこととされました。調査研究会は十数名の学識者と3助役で構成(全局長及び当番区長は幹事)、部会は、部門専門の学識者(研究会委員)と関係課長級職員とで構成、後に部会長会議としての小委員会が設けられました。部会は、産業経済部会、教育文化部会、市民生活部会、地域整備部会及び行財政部会の5部会です。

 以上のような作業スタイルと経過で京都市としてはじめての基本構想並びに基本計画が策定されたのですが、その現実は、なかなかに大変なものだったといえます。そこで、第1次基本構想・基本計画策定における若干の特徴と問題をつぎに述べることに致します。

@世界文化自由都市宣言を上位概念に
Aまちづくり構想の見直しからスタートし基本構想を策定
B平安建都1200年(21世紀ではなく)を節目とした
C市民参加と全庁体制の取組を目指したが
D学識者と庁内、庁内間の矛盾と学識者間の矛盾及びハードとソフトの矛盾
E基本構想とは、ビジョンか宣言か憲章か計画か。
F計画は誰が担うのか。

 まず第1の世界文化自由都市宣言と基本構想との関連付けにおいて、同宣言を基本構想の上位概念として捉えたこと。その点については先に紹介しておりますが、基本構想策定作業が開始されてまもなくの市議会本会議での議員の質問に対して、今川正彦助役が、次のように答弁して最終整理が確定しました。

 世界文化自由都市宣言は、都市の性格づけを行った大きな宣言でございます。したがいまし  て基本構想の上位概念として私は捕らえておるわけでございます。
 基本構想は、地方自治法に基づきまして、もろもろの行政指針をつくり上げていくわけでございますので、その関係は密接ではございますが、概念としては世界文化(自由)都市を私は上位概念として捕らえております。(1980.3.7市会本会議議事録) 

 ただ、このように世界文化自由都市を京都の基本的な都市性格として位置付け、そのもとでの具体的な基本構想を策定するわけですが、他方で、世界文化自由都市推進委員会が設置され(これは現在も継続設置されている)、これにかかわる極めて狭義の事業を2次にわたって提案され、その実現を課題としていることは、基本的な趣旨との関係でいえば検討の必要性があるものと思われます。

 第2のまちづくり構想と基本構想との関係もすでに見てきたところですが、やはりハードプランと行政の全てを含んだ総合計画としての基本構想では、その策定にあたっての手法や陣容にも大きな違いがあり、当初のまちづくり構想見直しの延長線上での基本構想の策定から、基本構想そのものの本格的策定へのスタンスの変更に至るまでにはなかなかの苦労と道のりがありました。その背景には、当時の庁内における企画調整機能の弱さがあり、結果としてハード事業を担っている都市計画局がその任に当たらざるを得なかった事情があったものと考えています。

 第3の目標年次の捉え方ですが、この頃の他都市における構想策定の動向をみても、20年後といえばまさしく「21世紀」です。ですから21世紀にいたる構想ということになりますが、「時間」の設定はそれにしても、京都には他の都市にはない都市としての1200年の歩みがあり、その1200年目が、21世紀を目前にした1994年に当たることから、21世紀を目標として捉えることよりは、平安建都1200年を節目として、この時期を中心に事業展開をはかり、都市再生の起爆財にしようとする考え方が取られていました。これなどは、他都市では真似の出来ない、京都固有のあり方として充分意味のあることと思われますが、建都1200年記念事業が1994年の前後10年間をその時期として捉えられているにもかかわらず、そしてそれは、平安建都1200年事業期間中に21世紀を迎えることとなるはずであったにもかかわらず、今やそのことが殆ど忘れられていることの中に、前後関係のむずかしさと固有性の問題意識の困難性が示されています。

 第4の策定作業を市民参加と市役所挙げてのものとすることです。市民参加の手段や方法には幾つものやり方があり、大概のことはやられているとはいえ、その実質を確保することはなかなか容易なことではありません。市民の大多数の意見は、個別要求に類するものが多く、また類型的にも似通ったものが多いのが実情で、なかなか総合計画としての全体像をそこからまとめ上げるのは困難なことです。いうまでもなく、参加には、まず情報がなければなりませんし、個別事項に対する参加はともかく、市政全体に対する参加は現実には不可能に近いものがあります。こうした中で、第1次の構想策定では、学識者と行政職員による検討、これは、行政が抱えている諸問題を集約して課題を見出しつつ、市民の声を同時に反映させる方法として「調査研究会」で素案を策定するあり方が取られたものと考えていました。市民参加の方法としては、今日でも行われている殆どの方法は採択されていました。とりわけ今日からしても先進的であったと思われたのは、「調査研究会」に市民の傍聴制をとられたことでした。

 他方の、市役所挙げての取組としては、当初は、どうしてもハードプランニングが中心とならざるを得なかったために、特に管理中枢部門の参画に弱さがあったようでしたが、これなどは、都市計画局を計画局にするなどのよりふさわしい位置付けを図るなどの方法を講じることによって打開が図られていきました。一口に市役所挙げて、或いは全庁的体制といっても2万人の組織を統合的に動かすことはやはりなかなかに困難なことです。これらは、次の第5の問題につながります。

 第5の策定作業過程における諸矛盾の問題です。基本構想は、総合計画づくりですから、実際のところそう生易しいものではなく、これにかかわる学識者や行政職員それぞれの立場や考えによってずれや時として対立が生じることもありえます。まず、行政内部で各セクションで抱えている問題点や課題が実際のところどこまで集約されるのでしょうか。また、行政各セクションが抱えている課題を列記するだけでは総合計画とはいえません。各セクションの抱えている問題点や課題を総合する過程は、ある意味では市民の総合的な利害調整でもあるのですが、そういう意味では、行政内部での練り上げには充分な場がなく、各部会における学識者が行政各セクション間の調整の役割を果たす結果となったようです。そのことも原因の一つとなったのでしょうか、学識者間でにおいても、全てがそうであったということではないのですが、ハード部門の学識者とソフト部門の学識者との間で、基本構想それ自体の受け止め方の違いなどの矛盾が生じるなどの問題も、どこまで顕在化していたかはともかく、実際上は難しい問題としてありました。行政職員でその犠牲者がでるということもあったのです。こうした策定作業過程における諸々の矛盾の発生は、当時それだけ真剣に構想策定に取り組まれていた証拠でもあり得たのではないかと思います。基本構想を綺麗にまとめるだけであれば左程の苦労はないと考えられるのですが、より現実的な、実効性のあるものにしていこうとすればするほど、本当は、いろんな矛盾が生じるものなのでしょう。

 第6の基本構想の性格です。地方自治法では、総合的かつ計画的な行政運営を図るためのものとしており、自治省の指導指針では、それを、都市の将来像や地域社会の構造、生活の目標を明らかにし、それを実現するための施策の大綱を定めることによって実現しようとしています。しかし、実際上は、基本構想では将来像や都市理念のようなものとなり、総合計画というにはかなり抽象的なものとなっています。こうしたことから、基本構想は、計画というよりは、夢や願いを掲げたビジョンであったり、都市が志す憲章であったり、宣言であったりすることと同じようなものではないかという考え方も生じます。そのため都市行政としての総合計画を樹立する場合の基本構想の位置付けそのものの検討も十分に意思を統一しておく必要があるものだと考えますが、こうした議論も第1次の基本構想策定の時には、例えば、京都市政調査会では、策定にかかわった学識者を含めて検討したりしていました。またこの当時には、全国的にも都市憲章制定を課題とする機運も生じていました。 

 第7の、計画の担い手です。すでに市民参加が課題となり、多くの試みが各自治体でなされるようになってきているとはいえ、市民参加の決め手というものはなかなか定まってきていません。それは、ある意味では当然のことでしょうか。やはり、昨今の情報公開の動向にも見られるように、民主主義の成熟の程度に応じて都市行政における市民参加の様態も変わり、かつ深まってくるものでしょう。そして、いかに市民参加とはいえ、本来都市行政自身が市民参加を前提として成立しているわけですから、計画の第一義の担い手は当然行政自身でなければなりません。しかし、基本構想の目標とするものが、必ずしも都市行政の範囲内でのみ完結するものではないあらゆる領域の課題を含んでいる場合には、都市行政の範囲でそれを達成することが出来ない問題もあり、また市民自身にかかわる問題もあります。したがって、行政計画として行政自身が基本構想に掲げられて課題を担いつつも、市民との役割分担ともいうべき領域にも言及するようになっています。こうした市民参加の計画遂行のあり方は、抽象的にではなく、具体的なかかわりの中で検討されるべきだと考えますが、そうした点は以後の課題となっていたものと捉えていました。 

  さて、基本構想の内容ですが、「第1 基本構想策定の目的」、「第2 まちづくりの目標」、「第3 施策の大綱」、「第4 構想推進のために」の4部からなっています。目的では、昭和55年(1980)を起点におおよそ20年の将来を展望し、「市政の基本方針」であると同時に、「市民のまちづくりの指針」としても策定したとしています。
 まちづくりの目標では、基本構想の基調テーマと目指すべき5つの都市像が示され、その都市像を達成していくための施策の方向を「施策の大綱で」明らかにしています。まず基調テーマの「伝統を生かし、創造をつづける都市・京都」はいわば都市・京都の永遠の命題ともいうべきもので、そのサブタイトルとしての「建都1200年をのぞむ市民のまちづくり」は先に述べたように、建都1200年を飛躍のバネとして、21世紀を切りひらこうというものです。そして、次の5つの都市像を掲げています。これは、京都のあるべき姿を5つの柱立てで考えようとするものです。
   ・歴史的風土と調和した住みよいまち −美しい山河をたもち 安全で快適な居住環境を−
   ・健康で生きがいのある福祉のまち −市民の連帯と共同の意識が息づく福祉の風土を−
   ・人間性をはぐくみ 未来をひらく教育のまち −生涯にわたる学習と開かれた学術研究の場を−
   ・豊かなくらしをめざす活力ある産業のまち −手づくりの伝統と先端の技術による多様な発展を−
   ・創造性にみちた文化と芸術のまち −自由な発想と世界との交流による飛躍を−
 そして、それら5つの都市像の構築を目指して行政を総合的に進めていくための施策大綱として次のように7つの分野にわたって明らかにしています。
1 健康と福祉 
 (1) 健康を基本とした生涯福祉を確立する
 (2) 心のふれあう地域社会づくりを進める
 (3) 健康と福祉の総合推進体制を確立する 
2 労働と消費生活 
 (1) 働きがいのある就業の場を確保する
 (2) 消費者の権利を守りくらしの向上を図る 
3 産業 
 (1) 文化環境を生かし産業の多様な発展をめざす
 (2) 中堅・中小企業を振興する
 (3) 産業活動を支える基盤をつくる 
4 教育と学術研究 
 (1) 豊かな文化に根ざした生涯にわたる教育を進める
 (2) 開かれた学術研究の場づくりを進める 
5 文化 
 (1) 伝統文化を継承しくらしに生かす
 (2) 地域に根づく文化とスポーツ活動をはぐくむ
 (3) 多様な芸術を創造する,世界との文化交流を推進する 
6 安全と供給・処理 
 (1) 災害に強い安全な都市をつくる
 (2) 公害のない快適な環境をつくる
 (3) 水・エネルギーの安定した供給と排出物の自立的な処理をめざす 
7 都市空間の整備 
 (1) 都市活動を支え自然を生かす土地利用を進める
 (2)若々しい交通動脈をもち安心して歩けるまちをつくる
 (3) 快適な生活が営める居住環境を整える,美しい都市景観を創造する 

   *<参考資料>第1次の京都市基本構想(1983.7.26市議会議決)


    基本計画と新基本計画 
 
すでに述べているように、最初の基本計画は、第1次の基本構想に基づき、基本構想策定の素案づくりを行った学識者と京都市職員とで構成された「京都市基本構想調査研究会」が引き続き作業をし、昭和60年(1985)3月に策定されました。このようにその作業は、基本構想と一体的に進められました。ただ、基本構想は市議会の議決によりましたが、基本計画は市長決定により定められました。基本計画の枠組みは、基本構想とおおむねいっしょですが、計画期間は、「おおよそ10年」とされていました。このおおよそ10年の最後のところは、1994年の平安建都1200に当面します。したがって、最初の基本計画は、まさに京都市にとっての歴史的な最大の節目というべき平安建都1200年をめざす計画であったということができますし、まさにそのことが強く意識されていました。
 さてその内容ですが、全体が、第1部「総論」、第2部「部門別計画」、第3部「計画の推進」の3部から構成され、A4版で160ページにのぼる分厚いものです。
 総論では、基本計画を「基本構想に基づく新しいまちづくりを着実に実現していくために、長期的かつ総合的な」計画として策定するもので、基本計画策定の趣旨や、我が国の社会経済情勢の変化と京都市の抱える「主要な複合的課題」、及び計画の役割と構成、さらには「まちづくりの取組の方向」、「計画の基本指標」などが明らかにされています。特に、平安建と1200年について、「1994年に迎える建都1200年を本市の飛躍発展のときとしてとらえ、基本構想及び基本計画に基づくまちづくりに向けて、平安建都1200年記念事業を推進します」と明記しているところが特徴的です。
 計画の役割では、「基本計画は、基本構想に掲げた京都の将来の姿や施策の方向をより具体的に示し、構想を推進するための長期計画であり、市政を総合的かつ計画的に進めるための指針であるとともに、各部門における事業計画を導くものである。また、市民のまちづくりの指針となるものである」と、明記されています。こうした考えから、第3部の計画の推進のところでは、市政の執行体制の整備や市民参加の推進などが課題として掲げられています。
 市政の執行体制の整備では、市政の全体としての統一性の確保や各部門間の横の連携の強化、職員の能力の開発と意欲の向上などが求められているのは、こうしたところが最終的には計画遂行上の鍵になるとの判断が働いていたからでしょう。
 部門別計画は、「健康と福祉」、「労働と消費生活」、「産業」、「教育と学術研究」、「文化」、「安全と供給・処理」、「都市空間の整備」の7分野にわたって明らかにされていますが、ここでは割愛させていただきます。

 さて、昭和60年(1985)に策定された基本計画は、10年を待たずに改定されることになります。これには、京都のまちづくりの基本的な枠組みのあり方を具体的に検討する過程での土地利用計画のあり方の方向づけを明らかにしていく必要性が生じたことと、平成元年(1989)における田辺朋之市長の誕生があります。田辺市長は、健康都市づくりを掲げて市長に当選したことから、健康都市構想づくりが課題となってきました。最初の基本計画では想定していなかった事情の発生といえます。こうしたことから、基本計画にこの健康都市構想と土地利用構想を織り込んだものとしての、新たな基本計画の策定が必要とされるようになり、平成5年(1993)3月に新基本計画は策定されました。この間京都市の都市の衰退傾向はより深刻になりつつあったといえます。この頃は丁度、バブルの発生から崩壊の時期に当たります。

 そこでまず、健康都市構想と土地利用構想について触れる必要があります。
 基本計画策定から4年後の平成元年(1989)8月今川市長退任の後の市長選挙で田辺市長が当選し、健康都市構想を策定する意向を表明。翌年(1990)4月の機構改革で企画調整局を新設して、新たな基本計画と健康都市構想の策定に備えることになり、同年7月には健康都市構想懇談会が設置されます。そして1年余の作業を経て平成3年(1991)11月その答申が市長に提出されます。また、土地利用については、田辺市長誕生の頃がバブルの高揚期にあり、地価高騰を抑制するための地価監視区域を京都市全域に拡大するとともに、田辺市長就任直後には中心6区の届け出対象面積を300uから100uに引き下げるなど、土地対策の確立に迫られていました。そのため、平成3年1月には、土地利用についての「田辺試案」(伝統と創造の調和したまちづくり推進のための土地利用についての試案)が発表され、同年4月の人事異動で土地利用計画担当の企画主幹(局長級)が発令され、5月には「土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」が設置されます。そして、11月には第1次答申が、翌年(1992)4月には最終答申がまとめられて市長に提出されます。その上で、同年6月、新京都市基本計画審議会が設置され、翌平成5年(1993)3月に答申を得て新京都市基本計画は策定を完了することになります。

 健康都市構想の策定にあたっては、ある意味で基本計画に匹敵するような作業形態がとられたといえます。学識経験者による29名の構想懇談会委員と6名の研究会委員に加えて、市民100人懇談会の設置により1年4ヵ月にわたって策定作業は続けられ、途中で中間報告も発表されています。その内容は、「京都のまちは『人』が主役」であり、その「まちづくりの尺度は『健康』」であるというもので、「健康」を尺度に新たなまちづくりをしようとするものです。そして、都市が健康であるための指標として、「人の健康」、「地域と社会の健康」、「都市と自然の健康」を掲げ、そのもとで、10項目の目標と5項目の重点施策を明らかにしています。
  <健康都市構想重点施策>
    ・健やかに年を加える暮らしづくり(超高齢化社会に備えた保健、医療、福祉の充実)
    ・創造を続くける暮らしづくり(心の豊かさの実現)
    ・快適に住み続ける都市づくり(都市居住の推進)
    ・楽しく歩ける都市づくり(人にやさしい都市整備)   
    ・環境を思いやるくらしづくり(省資源・リサイクルの促進)
    
 土地利用構想では、田辺試案で提起された基本方針を踏まえ、基本的にはそれを根拠付け、展開するものとなっています。その要点は、まちづくりの基本的方向として、地域特性に基づき全市域を次の3地域に別けてその方向付けを明らかにしています。
 ・自然・歴史的景観保全地域  東山、北山、西山という京都を取り巻く三山とその裾野一体の保全及び景観対策を積極的かつきめ細かく行う地域
 ・調和を基調とする都心再生地域  京都駅以北の都心部で、住みよく活性化するために再生を図る地域
 ・新しい都市機能集積地域  京都駅以南で、新市街地を形成し、産業の発展を図る地域。なお京都駅南を都心再生地と南部地域とのバッファゾーン(緩衝地帯)とする。

  そこで、新京都市基本計画の策定手順とその内容です。
 新京都市基本計画の策定については、平成2年(1990)6月に、「新京都市基本計画策定方針」が定められて策定されることになるわけですが、、すでに見ましたように、その策定作業は、健康都市構想と土地利用構想の策定作業によって先に田辺市政下における中心的な課題のあり方を明らかにした上で、平成4年(1992)1月、市長の下に庁内企画会議が設置され、行政内部での検討が行われます。それにあたって、あらかじめ、企画調整局で作成されてきた「新京都市基本計画の策定に向けて−現行計画のフォローアップと新計画策定方針−」(平成4.2)が発表され、新基本計画策定にあたっての問題認識と方向性が明らかにされます。そして、同年6月に審議会が設置され、審議会では、同年10月に素案を発表した上、翌年(1993)3月に市長に答申するにいたります。審議会の審議過程では、テーマ別、地域別のシンポジウムの開催をはじめとする市民参加や職員参加の積極的な導入が試みられています。
 この新基本計画の実施に当たっての特徴は、これを推進するための市長を長とする「企画推進会議」が庁内に設置されたことであり、これでもって、基本計画推進の進行管理が常に行われることになります。と同時に、新基本計画の年次計画が平成5年(1993)9月に作成され、その主要事業実施のための調査研究を行うために、以後毎年度、全局に一定額の基本計画推進調査費が予算に計上されることになったことは、これまでとは違った点でしょう。

 新京都市基本計画(第2次京都市基本計画)の内容ですが、平成2年6月の「策定方針」では、計画策定に向けての「基本課題」として、「成熟社会に対応した暮らしの質の向上」、「都市居住の推進」、「ストックを生かしたまちづくり」、「21世紀に向けた都市構造の構築」を4本柱として整理していますが、こうした視点は、基本的に新計画の中に取り入れられていると思われます。
 新計画は、次の5部からなっています。
    第1部  総論
    第2部  部門別計画
    第3部  地域別整備方向
    第4部  21世紀への挑戦
    第5部  計画の推進
 総論では、「世界文化自由都市宣言が明らかにした理想の都市像の実現に向かって」次の4点を「まちづくりの基本方針に、施策の推進に当たる」とするとともに、新基本計画の役割を「20世紀の京都のまちづくりの仕上げ」として取り組み、「21世紀の京都創造への基礎づくり」となる方策を示すものとして、その計画期間を平成12年度(2000)までとし、「2001年の市民生活」を「くらし」、「地域」、「都市」それぞれの姿において明らかにしています。
   [まちづくりの基本方針]
    ・人が主役の健康都市づくり
    ・保全・再生・創造の都市づくり
    ・発信を続ける芸術文化都市づくり
    ・グローバルな視野での都市づくり
 新基本計画の大きな特徴は、地域別整備計画が織り込まれたことでしょう。地域計画の必要性については、すでにまちづくり構想見直しの中でも明らかにされていたところですが、第1次の基本計画の中では具体化されるにはいらなかったものでした。都心、北部、東部、南部、西部、北部山間の6地域毎に、地域的な課題とその整備方針並びに主要な施策を明らかにし、主要整備計画図でもって地域の全体構想をわかりやすく示しています。
 さらに、この基本計画が、20世紀最後の計画であることから、21世紀への飛躍につなげるための「21世紀への挑戦」を加え、この中で、昨年12月に策定を終えた「21世紀グランドビジョン」(新京都市基本構想)策定への検討開始を打ち出していました。

 桝本市長のアクションプランからグランドビジョンの策定へ
 基本計画の改定作業過程にあってはなおバブルの余韻の中にありましたが、策定が完了する頃にはバブルの崩壊による不況の影響が現れ、新基本計画策定の翌年(1994)の建都1200年はすでに財政事情の窮迫に迫られていました。また、田辺市長は、新基本計画策定直後の8月に再選を果たしたものの、建都1200年を終えた翌年いっぱいで市長を退任、平成8年(1996)2月には桝本ョ兼市長が誕生することになります。
 こうしたことから、新京都市基本計画では、今川市長の下で構想が練られ、田辺市長のもとで計画化と着手に手をつけられつつあった都市再開発の諸事業は、経済・財政事情や社会の激変にみまわれながら困難な歩みを続けているというのが、京都市の基本構想・基本計画を貫く大きな問題点であろうと思われます。
 こうした中で誕生した桝本市政ではありますが、田辺市政の「健康都市づくり」を発展させる形での「元気都市構想」を打ち出し、平成8年(1996)12月に、21世紀・飛躍へのかけ橋としての「もっと元気に・京都アクションプラン」を策定、発表するにいたります。
 この元気都市・京都を実現するための「アクションプラン」は、京都の活力低下に加えてのバブル崩壊による元気のなさに対して、21世紀を目指して元気な京都を取り戻そうとの趣旨だと考えますが、そこでは、5つの「京都元気策」と、それを推進する「元気な市役所づくり」、そして将来の元気策としての「21世紀・京都のグランドビジョン策定」の三つを柱として構成されています。その内容は、新基本計画をベースに、桝本市長の公約等を織り込み、21世紀までの4年間に取り組むべき事業を5つの元気策として再整理したものといえます。
  [桝本市政の5つの元気策]
    ・人が元気
    ・まちが元気
    ・産業が元気
    ・文化が元気
    ・自然が元気
 こうして、田辺市長から新京都市基本計画を引き継いだ桝本市長のもとで、新基本計画の推進と新たな21世紀の基本構想づくりが進められたのです。

    第2次基本構想としての21世紀グランドビジョン 
 
第2次京都市基本構想としての「21世紀・京都のグランドビジョン」の策定作業は、平成7年度から下作業が進められていましたが、「アクションプラン」に基づきその作業は本格化し、平成9年(1997)4月に中間報告として「21世紀・京都のグランドビジョン策定に向けて」が発表され、市民アンケート調査や京都の未来に対する国際コンペなどを実施した上、平成10年(1998)10月に100名規模の委員による審議会が設置され、平成11年(1999)10月、その答申が市長に提出され、12月17日に市議会の全会一致による可決を経て、同月24日、公告されました。そして引き続き第2次の基本構想に基づく新たな第3次の基本計画策定作業が同審議会で進められ、本年(平成12年 2000)8月にその素案が発表され、本年中に策定が完了する予定とされています。これらの一切の経過と内容は、京都市のホームページに掲載されていますので、その紹介は致しませんが、今回の基本計画の最大の特徴は、行政区に計画策定の懇談会が設置されたことでしょう。基本構想策定審議会との連動性などにおいて課題なしとはいえなかったものの、行政区ごとの総合計画の検討は、今後におけるある種予測を超えた意味をもってくる可能性を孕んでいるといえるでしょう。
 

4.21世紀グランドビジョンの要点と課題
       


京都市基本構想(平成11年12月24日公告)
          目  次
まえがき
第1章 京都市民の生き方
 第1節 文明の大きな転換期のなかで
 第2節 京都市民の姿勢
 第3節 京都市民の得意とするところ
 第4節 これからの京都市民の生き方
第2章 市民のくらしとまちづくり
 第1節 安らぎのあるくらし
 第2節 華やぎのあるまち
 第3節 まちの基盤づくり
第3章 市民がつくる京都のまち
 第1節 市民の市政への主体的な参加
 第2節 市民参加のしくみとかたち
 第3節 市民と行政の厚い信頼関係の構築

(1)21世紀基本構想の要点と課題 
 通常自治体の総合計画といわれる基本構想・基本計画について、京都市の今回の策定では、「21世紀グランドビジョン」というタイトル付けがなされました。公式には、平成11年12月24日に公告された「京都市基本構想」とそれに基づき市長が策定した「京都市基本計画」(平成12年12月25日の審議会答申を受けて、平成13年1月10日に市長決定)

という名称でありますが、ここでは、「21世紀基本構想及び基本計画」という表現で以下述べることに致します。

 21世紀基本構想の文案をはじめてみたとき、正直いって本当に驚きました。京都市民の生き方が大上段にうたわれ、しかも、この構想を京都市民が策定したものとして、主語を「私たち京都市民」として展開されていたからです。大胆といえば、よくぞこれほど大胆に展開されたものだと感心しましたが、こうした基本構想のあり方には、本来もっと異論があってしかるべきではなかったかという思いがあります。基本構想の本来的なあり方そのものについて、本当はもっと議論をしておかないと、折角の名文が、今後の過程で生きてこなくなる恐れがないともいえないからです。そうした意味で、21世紀基本構想も、基本構想の常として、策定直後から根本的な課題を抱えているといえますが、そうした点に触れる前に、まず、21世紀基本構想の要点を、その性格、内容、策定過程などの特徴から考えて見ましょう。

21世紀基本構想の主な内容
 ・まず、「まえがき」で、21世紀の最初の四半世紀(2025年まで)における京都のグランドビジョンを描くものとされています。
 ・また「まえがき」で、「わたしたち京都市民は,ここに,わたしたちが望む2025年までのくらしとまちづくりを市民の視点から描く。」とし、それを「京都市は,この基本構想に示す市民のくらしとまちづくりの実現に向けて,総合的かつ計画的な行政の運営を図るものとする。」として、構想は市民自らが策定し、その構想の実現に向けての「総合的かつ計画的な行政運営を図る」ことが京都市の役割であると規定されています。まさに、革命的ともいえる規定です。
 ・次に、全体を3章で構成し、第1章で「京都市民の生き方」を、第2章で「市民のくらしとまちづくり」を、第3章で「市民がつくる京都のまち」が描かれていますが、この市民の生き方を冒頭に展開し、それを受けた形でのいわば通例の基本構想の中身を、そしてそれらを推進するための市民と市行政とのあり方を描くという構成は、内容とともにそれ自体が、まえがきで規定された位置付けを具体化したものといえます。第1章や第3章で描かれることは、これまでであれば、とてもこれほどのボリュームと意欲を示すものとはならなかったものでしょう。
 ・「京都市民の生き方」では、明治以来の文明的な総括のなかで、21世紀の社会における「信頼の崩壊」という危機に対して、改めて「信頼というものを構築し直すことが強く求められている。」として、この構想全体のモチーフに位置付けています。その上で、京都市民の歴史的特性を生かし、さらに鍛え上げ、信頼が基礎にある社会をめざす、「新たな市民生活の理想を世界に先駆けて見いだし,実現していきたい。」と結ばれています。
 ・「市民のくらしとまちづくり」では、「安らぎのあるくらし」と「華やぎのあるまち」の二つの柱立てで、目指すべき姿が描かれています。「安らぎのあるくらし」では、そのような社会生活が、「華やぎのあるまち」では、産業や文化などのいわば都市的活動とその基盤づくりが描かれています。もちろん、基本構想ですから、描かれている内容そのものは網羅的ですが、その捉え方は、市民の主体的役割と信頼の再構築並びに京都の特性の活用という視点で貫かれているところが特徴です。
 ・「まちの基盤づくり」では、「保全・再生・創造」をまちづくりの基本とし、「歴史豊かな市街地は,調和を基調とする都心の再生に」、「南部は,高度集積地区を中心に,21世紀の京都の新たな活力を担う創造のまちづくりに」それぞれ努めるとしているのは、概ね前基本計画の考え方を踏襲しているものと思われます。
 ・「市民がつくる京都のまち」では、ここで描かれた「市民のくらしとまちづくり」を実現していくための市民と行政のあり方が描かれています。それは、基本構想を推進するための付帯的な項目としてではなく、この項自体が基本構想の3分の1を占める重要な要素として描かれているところに特徴があるといえましょう。そして、ここでも基本は、市民の主体的なあり方から展開されているということです。そして、「市民の責任ある行動の実現のために」必要な行政の役割と責任、及び「区レベルへのさらなる分権の工夫」が指摘されています。
 ・最後の「むすび」では、「わたしたち京都市民」が、京都市の基本構想をしめした。京都市は、これを「実現するための施策・事業を市政の各分野において具体化し,着実に実施することにより,市民のための市政推進を図る。」として、基本構想を策定したのは市民であり、京都市行政はその具体化と実施に努めることが、再度明示されています。
  *引用文の下線は筆者

21世紀基本構想の論点を考える
 内容の紹介でも述べましたように、今回の21世紀基本構想は画期的な位置付けと内容になっています。さてそれでは、それをどう受け止めるかです。それには、自治体の基本構想をそもそもどう受け止めるのかという問題があると同時に、京都市という地方自治行政体をどのように捉えるかという問題もあります。そうしたことを一応念頭におきながら、今回の基本構想を受け止めるにあたっての論点と思われるべきものを考えてみたいと思います。まず最初に、幾つかの論点を摘出し、その後に若干のコメントを加えてみたいと思います。
・まず第1点は、基本構想における市民と行政との関係です。そしてこれは、市民を主語とした基本構想をどう受け止め、どう生かすかにかかわる問題です。
・第2点は、京都市民の生き方といったものを、自治体の基本構想で描くことの是非の問題です。
・第3点は、全体のモチーフとなった「信頼」と「安らぎ」、「華やぎ」というテーマ設定が、基本構想として本当にふさわしかったのかどうかという問題です。これには、自治体の基本構想というものは、そもそも何を目指すべきものなのかという問題にかかわります。
・第4点は、地方自治体における行政と市議会の役割が、根本的に変わるべきものとの認識となっているのではないかということ。
・第5点は、こうした総体について、本当に「私たち京都市民は」といえる過程を歩むと同時に条件を備えているのであろうかという最も根本的な問題です。
・また全体を通して、わかり易く、格調の高い文章表現となっていますが、言葉のわかりやすさとは逆に、それが意味するものを理解することの難しさがあるということ。これなどは、文章表現というものが、なかなか一概に評価できない面をもっているということです。
・そして、基本構想と基本計画との関係です。

ア.基本構想における市民と行政との関係について
 ・基本構想の策定は市民が行い、その実施にあたっては、市民自身の主体的なまちづくり活動を基礎に置いた上で、市民と行政とのパートナーシップで推進するというのが、21世紀基本構想の基本的な構造として読んだわけですが、現在の地方自治制度下で、市民、行政ともに果たしてそれは納得のいくものであるのかどうか。あまりにも革命的過ぎるのではないかという問題があります。この点を市民自身がどう理解し、認識しているのか。
 ・基本構想は、現行地方自治法に基づく自治体の総合計画であり、その策定の責任は、市長と議会にあります。したがって、どのような策定過程をたどろうとも、策定者は、自治団体としての責任機関である市長と市議会となるわけです。実質的には、市長が執行者としての責任において作業をし、その作業過程と内容において、市民参加や市民の求めるところにふさわしい構想とすることが問われるのでしょう。そうしたあり方は、あまりにも時代遅れなのでしょうか。
 ・自治体行政において、市民自身が本当の主体として市政推進者になることは、遠い将来はともかくとして、現行の基本的な行政システムにおいては、市長と議会という二つの機関に市政運営を委ねた代議制と直接民主制のミックスした現行制度に対して、制度そのものに対する見直しには、まだまだ市民全体の合意の形成はできないのではないでしょうか。

イ.「京都市民の生き方」を基本構想で描くことの是非
 
・行政が、ではなく、京都市民自身が策定した基本構想ですから、京都市民が自らの生き方を描くことについて、他のものがとかくのことを言うべき立場にはないといえばそれまでですが、そこで、二つの根本的な問題が生じます。
 ・一つは、そもそも自治体の基本構想とは、こうしたことを描くべきものであるのかどうかという点であり、今一つは、今回の策定作業によって、本当に京都市民自身が基本構想を策定したと実態的に言いうるのかどうかという点です。
 ・本稿の最初の方で、自治体の基本構想についての説明をしていますが、自治体の基本構想というのは、地方公共団体が、行政を進めていくに当たって、長期の見通しに基づき、総合的に施策をたて、しかも計画的にそれらを推進していくためのものです。ことの是非はともかくとして、政府による国土総合開発が進められていくなかでの地方のにおける整合性とともに、自治体行政の総合的な計画性がもとめられるようになったものでした。これをもって自治体の総合計画と称されるのですが、勢い総合とはいえ、実際上の効果は、都市基盤整備にこそあったのは仕方のなかったことといえるのでしょう。したがって、長期の見通しとはいっても、それは、計画の樹立を前提にした具体的な見通しを必要とし、願いや夢を提示するのとは自ずから次元が違っていたはずです。いずれにしても、目的は、地方自治体の行政運営の総合性、計画性を求めるもののなかに、市民の生き方を提示することが、果たして妥当なのかどうかには、こうしてみてくると異論の提起されないことが不思議であるとさえいえるのではないでしょうか。いかに市民自身が定めたものとはいえ、それは地方自治体の行政運営のためのものなのですから。
 そこで今回の21世紀基本構想で考えられるのは、従来の地方自治法に基づく基本計画ではなく、それらとは違った次元での、地方自治体の本来的であると考えた場合での、市民都市としての自治体のあり方が志向されているのではないかということです。これは、お叱りを承知でいうならば、夢と希望の提示であり、その実現には、個々の京都市民を含むまさに革命的な生き方が要求されることになるのではないでしょうか。
 そして、個々の京都市民の生き方にかかわるテーゼともいうべきものを、地方自治団体(京都市)の団体の意思として描くことの是非についても十分なる検討が必要となるのではないでしょうか。多分、これまでの国家やあらゆるレベルでの団体規制の強かった我が国にあっては、近代的な市民像というのは個の確立であったはずです。そして今や、多様な価値観と多元主義の時代のなかで、ばらばらで放任されたままの「我」としての個人主義的な傾向に対する反省が生じてきているとはいえ、団体と個人との関係は優れて微妙にしてむずかしい問題であるはずでしょう。
 いかに市民が主語とはいえ、地方自治団体という行政の領域での「市民の生き方」についは、さらに深く,広く、多様な意見交換が必要なのではないでしょうか。
 ・今回の基本構想の最大の評価点が、構想の主語を「わたしたち京都市民」としたことであるとされています。すでに民主的制度としての地方公共団体である京都市ですから、これまでから京都市や京都市長の文章やあいさつのなかで、「わたしたち京都市民」を主語としたものはなかったわけではありません。それは、京都市長や市議会議員が市民の直接選挙で選出されていることから、ある種当然の論理として、時に枕言葉的に使われてきたものでしょう。しかし、今回の場合は、単に文章上の問題としてではなく、21世紀基本構想の策定者が「わたしたち京都市民」となったのです。形式的にも法的にも、21世紀基本構想は、市長が策定して議会に提案し、京都市という自治団体の意思として決定されたものですが、これと、市民がつくったのであるということを鮮明にいわば宣言することとの領域をどう捉えるのかの問題があります。
 なるほど100名からなる審議会に、市民からの意見の応募、アンケート調査、海外からのアイデア募集など多くの試みがあるとはいえ、それでもって140万京都市民が自らが策定したと断言することができるのでしょうか。視点を市民に置くということは、これまた当然の姿勢であって、従来からいわれていることであり、今回ここまで市民を主語にすることができえた根拠については、充分な理解はできないのではないでしょうか。
 例えば、100人規模の審議会という審議会構成メンバーの多さや10名の市民公募委員などの「画期的」な構えはありますが、これとても、これまでの審議会でも数十名規模にはのぼっていたし、またこれを構成する多くは、学識経験者といわれるかたがたに各種団体の長などを加えたものであり、それらの方々の意見やご苦労はあったとしても、140万市民の実際上の意見の反映、市民全体の参加意識というものにはあまりにも程遠いものがあるのではないでしょうか。通例「市民参加」と称されるいろんな手法に関しても、時代によって表現の仕方に違いはあっても、これまでの構想策定過程で用いられてきた方法とそう抜本的に異なるものではなかったというようにもみられるのであり、京都市民が市民の生き方を描いた基本構想を自ら策定したと高らかに宣言するには、今一歩そうした時期と条件にはまだいたっていないのではないのでしょうか。

ウ.自治体の基本構想の主題は?
   −「信頼」、「安らぎ」、「華やぎ」の理解の仕方を併せて−
 ・それでは、今回の基本構想の主題となっている「信頼」、「安らぎ」、「華やぎ」といったテーマは、自治体の基本構想という次元ではどのように理解すればいいのでしょうか。
 ・自治体の基本構想・基本計画は、基本構想が概ね20年程度の見通しのもとに、基本計画が直近の10年間の計画として策定される自治体の総合計画です。21世紀の幕開けという独特の雰囲気の中で、なにか永遠の夢に向かうことができるような気になることはやむをえないことでしょうけれども、自治体計画というのは、冷厳な現実の中で、日々の諸問題に対処しながら長期的な課題にもできうる限り計画的に進めていこうとする意思を示すものであり、その場合の課題というのは、人類普遍のとか、京都永遠のとかいう次元のものではなく、今日明日の目指すべき具体的課題を明らかにすることにあるのではないのでしょうか。
 ・「信頼」、「安らぎ」、「華やぎ」は、願ってもないことであると同時に、誰も異論のあるものではありません。しかし、基本構想の中においてもそれらが崩壊してきていることが指摘されており、それゆえに逆にそのことの重要性を課題として打ち出されたものです。「『信頼』とは結果」であると市民公募委員の一人もコメントされているように、直接的にそれらの言葉を求めるのではなく、21世紀初頭からの20数年間という限定された時代におけるそれらの具体的現れ方とそれへの対処を問題とするべきなのでしょう。問題点は、今の時代における具体性において検討される必要があるのではないでしょうか。
 ・21世紀を云々するまでもなく、基本構想でも分析されているように、すでに私たちは、大変な激変期にあり、しかもその激変の程度や意味するところについてはなお必ずしも明確ではなく、大体歴史の変革期というものは、その渦中にあるときにはどれほど自覚されてきたかは疑問なしとはしないものでしょう。いいたいのは、答えは簡単ではないということです。
 ・数年以上前からグローバルスタンダード(世界標準)ということがいわれだし、そうなると我が国の一国内だけの論理があらゆる分野で行き詰まりを見せ始めますが、これは同時に、世界的な競争社会が出現し、否応なく私たちの生活もそうしたなかに置かれることになってきています。コンピューターによるデジタル情報社会が、私たちの生活にも一瞬のゆとりもない状態を生むかもしれないという危機感はありますが、こうした状況に対する対応策が、はたして抽象的な「信頼」や「安らぎ」から生れてくるのでしょうか。いかに時代に遅れ、取り残されないようにするのか。こうした具体的検討から答えは導き出されてくるものなのではないでしょうか。
 ・21世紀は都市間競争の時代ともいわれています。京都の都市が、明治の近代的復興以来基本的には長期低落傾向にありますが、こうした点をどう捉えるのか、当然の流れとして理解するのか、それともその流れを阻止しようとするのか。昨今の繊維産業を中心とする伝統的な地場産業の急激な凋落に対して、京都の都市をどう舵取りしていくべきなのか。観光はそれに代わるべきものとして、かつて京都の観光は装いでしかなかったけれども、今や観光を京都の新しい産業として位置付け、観光立都として京都の都市を性格付けしようとするのか。その場合、これまでの京都の何を捨て、何を加えるべきなのかといった根本的にして長期の具体的課題というべきものが多くあるはずです。桝本市長の元気都市にもあるように、京都の都市が生き生きと発展していくことによって、市民間の「信頼」関係や市民の安らかなる生活や「華やぎ」も実現してくるのでしょう。
 ・京都の都市が、21世紀にどういう都市として生きていこうとするのか。地方分権化という流れの中で、これまでのように国家に依存してではなく、自らの甲斐性でどうしていけばいいのか。「普通の都市」であることも一つの選択であるし、特別の都市でありたいと考えるのであれば、それにはどのような覚悟と行為が必要なのかといったことを論じ、都市としての京都の行くべき道筋を明らかにすることが、基本構想の基本構想たるところではないのであろうかと思うのです。

エ.改めて自治体の市長、議会の役割は?
 ・実態はそう見事なものではないとはいっても、戦後の民主的法制度のもとで、地方公共団体としての京都市は、京都市民みんなのものです。市民による市民都市です。京都市長も京都市民みんなの代表として「わたしたち京都市民」の総意を代表し、執行するべき機関です。市議会の議員も同様に市民代表として審議機関の役割を担っています。極めて原初的な「草の根民主主義」の時代ならともかく、今や地域生活と産業・経済活動は大きく分離し、歴史的に京都で「町衆」といわれた京都の自治の原像の時代のように、その住まいで働き、生活していた時代とは大きく違った時代にあります。地方自治行政が確立し、その担い手も名誉職から専任の行政職員に移行し、今や京都市政は、公営企業等を含めますとおおよそ2万人のプロ集団で担われているのです。ここに、市民から負託された行政のプロ集団としての誇りと責任が生じるのは当然のことでしょう。
 ・ことさらに京都市民を主体として位置付ける場合、市民からその執行を負託された行政の責任と権威は一体どのように理解していけばいいのでしょうか。
 行政に、いろいろな新聞紙上をにぎわす問題が生じているのも事実ですが、それはことの本質ではなく、根本においては行政体以上に市民の総意形成を自らの課題とする組織はないはずです。市民が自らの代表を選び、そこに自らの生活と地域のあり方を負託している現在の制度を本質的に変えるのかどうかはあまりにも重大な問題でしょう。市民参加の重要性については当然のことにしても、個々の市民が全ての事柄に対して自らが対処することがこれからの「市民がつくる京都のまち」であるならば、多くのサラリーマン市民は、とてもではないがついていけないことになります。
 ・京都のまちをつくるという場合において、まちそのものと、まつづくりをすすめる仕組みの二つの側面があります。まちそのものは、いかに行政が意図しても、結果として形成されるまちは、必ずしも行政の思い通りのものではなく、異なった個々の市民のいろいろな動きや諸条件の推移の結果として、自然に成っていく、という側面が強くあります。そういう意味で、都市やまちというものは、行政や特定の人、団体の思惑を越えて成っていく存在であることから、畢竟、都市の主人公はその都市の住民であるわけです。そうした意味ではなく、都市づくりの仕組みの中で、行政体を背景においやることにその意図をもつときには、行政と市民との関係について、もっともっと本質的な議論、検討を重ねるべきなのでしょう。
 ・行政体には、ある意味で無尽蔵の情報資源があります。小さな個々の施策をとっても、そこには時間的にも空間的にも多くの人がかかわり、経過を持ち、苦労をしています。京都市総体としての長期的な総合計画としての基本構想に限らず、5年や10年スパンの個々の計画はたくさんあります。それらの計画一つとっても数年にわたる検討の結果として策定されているのです。またそれには、多くの学識経験者が継続的に関係していることが殆どで、たいていの必要な情報は集積されています。そうしてみると、京都市全体の四分の一世紀におよぶ総合計画を、1年の審議期間で策定することなどはじめから不可能であることがわかります。そこで、実際上の行政の役割があるのです。行政が行う基礎作業が、単なる単純作業なのではなく、都市行政の専門家集団としての作業が積み重ねられ、その上積みにおいて、今回の審議会における策定作業もあったのではないでしょうか。
 これは、審議会参加者のご苦労が少ないといっているのではなく、審議会そのもの、さらに基本構想の策定を具体的に進められた審議会の各部会長による調整委員会や起草委員会のご苦労は大変なものではあったにしても、基本的にはそういう行政の枠組みの中で今回も作業が進められたのではなかったでしょうか。
 ・市民参加の度合いの高まりとともに、行政責任や行政のリーダーシップ性の問われる度合いも逆に高まるのではないでしょうか。

オ.「市政の主人公は市民」ということの意味
 ・前項でも少し触れましたように、「市政の主人公は市民」というのは、現在の地方自治制度のもとでも建前としていえることです。しかし、ことの本質をいっているのであって、個々の市民が実際上の行政を担い、すすめるのではありません。
 ・かつて、昭和38年(1963)に横浜市に飛鳥田市長が誕生して、方法論としての直接民主主義論を展開し、昭和42年(1968)に誕生した美濃部東京都知事は都民との対話を展開しました。その後、情報公開がすすみ、まちづくりにも市民の手づくりともいえる地域地域での試みも増えてきています。行政評価システムについても実験から本格導入へとすすみつつあります。NPOの運動も拡大してきています。というように、かつての地方自治における市民参加の試みと比べれば、より深く、より具体的に実際的な形での市民の市政参加が進展してきているのは事実でしょう。
 ・けれども、それは、あくまで行政という専門的な都市運営の機関があってのことであり、その果たすべき役割が軽減されてきているのではないでしょう。もっとも、我が国の場合、明治以来の官治主義的な体質によって、結果的に市民の自己管理的な側面が弱いという指摘もありますが、都市行政における市長を頂点とした行政のリーダーシップの必要性は、今後ますます強くなっていくのではないのでしょうか。
 ・都市政治や行政が、地域や各層の市民の異なった利害の実現を調整しながら進めていくということは、市民自身の役割でもあるのですが、そうした作業を専門的に担い、推進していく役割こそ行政に課せられた課題でしょう。個々の市民が、自己の利益の実現のみを求めて、他を省みないような都市には、「信頼」関係は生れません。
 ・現実に、個々の市民が、市政全般の知識・情報を常に掌握することは困難です。また、市民の声といった場合でも、その時にあげられる市民の要求が、10年先、20年先の京都にとって、京都市民の生活にとって果たして適切であるのかどうかについても、必ずしも充分な答えが得られるとは限りません。現在の市民要求の積み上げの上で、輝かしい明日が切り開かれるとは限らないのです。10年先、20年先のためには、現在は耐え忍ばなければならない場合もあるのですが、こうした分析や問いかけは、行政以外に誰が、責任を持って打ち出せるのでしょうか。
 ・「市政の主人公は市民」であるということは、即物的に原初的な市民自治を実現することではなく、常にこのことを根底に置いた市政運営を、行政の担い手も市民もともに心がけるということであり、その具体的な姿は時代時代によって変遷するものではないでしょうか。
 ・市民と行政との関係について、「パートナーシップ,すなわち市民と行政との対等な立場での協力関係」とありますが、なるほどパートナーというのは、平等、対等な関係において成り立つものですが、行政と市民との関係を、こうした並列的な関係において捉えることが果たして本来的なのでしょうか。個人と個人とがパートナーを組むということは当然理解できますが、個人が集まって構成している組織と個人との関係をパートナーとして捉えることは、個人と組織とが対置された、同列の関係として理解されていることになり、行政の意味を不明なものにしてしまうのではないでしょうか。市民は、都市自治体の構成員です。都市は、都市民によって構成されているのですから、都市行政は本来的に市民自身のものなのです。その都市行政と市民とがパートナーとして捉えなければらないということは、現在の都市と都市行政のどこかに大きな歪みがあるからなのでしょうか。であるならば、その点についての分析と対応が問われるのではないでしょうか。
 
カ.言葉のわかり易さと意味することのわかり易さ!
 ・今回の基本構想の特徴の一つに文章の言葉遣いがあります。わかりやすい、市民の言葉でかかれています。「安らぎ」と「華やぎ」もその一つであり、基本計画第2次案の「ちょっと注目!」などもその例でしょう。
 ・ただ、その言葉自体の平易さやわかり易さと、その言葉がどういう目的で使われているかということを理解することのわかり易さとは必ずしも同じではないのです。かつて、故大平首相は、「あー、うー」で有名でしたが、この「あー、うー」を除いた残りの言葉をつなぐと、そのままできちっとした文章になっていたといわれていました。逆に、故竹下首相は、言語明瞭意味不明といわれ、一つ一つの言葉は明瞭ではあるけれども、全体として何を言っているのかわからないといわれていたのです。
 ・自治体の基本構想の場合、文章としての親しみやすさも大切ですが、140万市民といういろんな価値観や考え、利害をもった市民が、その内容を等しく誤解をせずに理解ができるというものであることがもっとも大切な要件ではないかと考えることはできないのでしょうか。
 「安らぎ」や「華やぎ」から事業を生み出していく場合、どのような事業が「安らぎ」に含まれ、どのような事業が「華やぎ」にはいるのか、個々の事業を考えると本当のところ戸惑います。出来上がった文章として、「安らぎ」や「華やぎ」のなかにどういうようなことがいわれているかは一応理解できるにしても、一つの事業を考えた場合、それがいずれに属するのかは結構むずかしいもの思ったのは、果たして私だけでしょうか。
 これまでも、縦割りの行政組織の弊害が指摘され、それを補うための手法はいろいろ検討されてはきましたが、縦割りそのものは、極めて合理的な分類形態で、これを全面的に否定することはできません。問題は、縦割りを補うに十分な手法がまだ確立していないからでしょうか。個々の事業の位置を判断する場合に、縦割りの形態は結構合理的であるわけです。
 ・第1次の基本構想が、居住環境、福祉、学術・教育、産業、文化・芸術という5つの都市像として捉えていた捉え方は、ある意味で極めて理解しやすい面をもっていました。今回のように、大きく「安らぎ」と「華やぎ」の二つにまず分類した場合に、個々の事業にいたるには、結局全ての文章を見なければならないことになってしまいます。「安らぎ」と「華やぎ」を繰り返し繰り返し、徹底してその意図するところのものを理解してからでないと、個々の事業をどちらに位置付けるかは容易ではありません。
 ・また、基本計画における「ちょっと注目!」も、大変表現に苦労をされたのだな、ということはうかがえるのですが、その「ちょっと注目!」は、どのような位置付けと意図のあるものかは、その言葉のわかり易さとは別に、説明を受けない限り理解はできません。
 ・わかりやすい言葉は、そう言う意味では、極めて抽象度の高いものが多いのでしょうか。抽象度の高い言葉を特定の物事に即して理解する場合には、価値観や考え方を異にする度合いに応じて、異なった理解が成立する危惧も多くなるのではないでしょうか。

キ.基本構想と基本計画との関係
 
・基本構想は市民がつくり、それを受けて、その実現のための基本計画は行政がつくるというのが、今回の21世紀グランドビジョンでした。これをそのとおり受け止め、すでに見てきたような基本構想の具体化を図ろうとする場合、行政サイドの苦労はまた大変なものだろうと、実は内心大変心配していました。あのように格調高く、ある意味で時代を超えた願いを実現しようとする構想をブレイクダウンして計画を建てるには、現実把握と夢との間の掛け橋に並々ならぬ議論とワーキングが必要だからです。しかし、実際は、基本構想等策定審議会で継続して検討され、基本計画についても審議会が答申するところとなりました。こうなると、市民が策定したとされる基本構想と、行政の責任で具体化する基本計画との位置付けの違いはどうなるのでしょうか。
 ・そして、その内容について考えると、106項目、429施策という膨大な計画は、とてもではないけれども本来審議会の手に負えるものではありません。それらの事業のほとんどは元々行政内部で抱えている事業が集大成されたものなのです。集大成するにあたって、基本構想の趣旨を踏まえながら分類整理されたものですが、そこで問題となるのは、これらの事業は基本的には現行の行政システム、すなわち縦割りの行政各セクションから出てきたものですが、その個々の事業が持っている各セクションを越えた総合的な性格についての位置付けは相変わらずこれまでと変化はないということです。したがって、結局のところ最終実施責任は、従来と同様に、その時々の個々の事業の実施段階におけるあり方に全ては還元されてしまうことになるのでしょう。
 ・そうした意味からすれば、基本構想と基本計画との関係については、もっと峻別するような検討がなされても良かったのではないかと思われるのです。
 ・さらに、計画段階の重要な問題として、行政区の計画があります。京都市基本計画が発表された同じ1月10日に、相互に補完しあう関係のものとしての、地域の視点からの各区の独自の「各区基本計画」も発表されました。振り返りますと、昭和53年のまちづくり構想の見直しにあたって地域構想の重要性が指摘され以来20年にして、ようやく地域計画がたてられたのですが、これにも残念な要素がないわけではありません。それは、全市的構想と行政区レベルの計画との関係について、構想並びに計画策定過程ではほとんど議論らしい議論が交わされてこなかったことです。全市的構想・計画がそれとして完結している中で、それとまったく別個に策定される地域計画とは一体いかなるものなのでしょう。各行政区毎に設置された基本計画策定懇談会の座長は、京都市基本構想等策定審議会の委員に就任していたとはいえ、その役割は、行政区懇談会の代表としてのものではなく、あくまで学識者としての個別部会の一員としてのものであり、行政区代表としての発言の場は用意されていませんでした。折角の地域計画の策定作業と全市的な作業との連携のなさは、計画の実効性における疑問を表すものとなっているのではないでしょうか。折角の試みなのですから、惜しまれてなりません。
 ・発表された「各区基本計画」の概要を見ますと、比較的抽象度の高いものが多く、結果として全市的計画との矛盾が生じないような状況となっているようですが、行政区の計画策定にかかわられた方々のご苦労が改めて推察できるような気がしました。

ク.区政と行政区計画のありかた
 ・それでは、区の基本計画のあり方を少し考えてみたいと思います。京都市基本構想と基本計画は全市を対象としたものとしてそれだけで完結しているわけですから、その場合の地域計画は、本来全市レベルの縦割りの施策を改めて地域に落とすことによって地域における個別施策の整合性と総合性を検証することにその意味のひとつがあります。と同時に、全市的視点からでは捉えることのできない地域特性からくるところの課題を見出し、さらには地域における市民参加の具体的な姿を浮かび上がらせるところに基本的な意義があるのではないでしょうか。
 ・そうした点を一応の念頭に置いた上で、全市的な計画構想がそれなりに完結している場合の行政区ないし地域計画の検討にあたっては、やはり、区行政を将来どう理解していくのかがもっとも問われるのではないでしょうか。この点に関しては、各行政区ともほとんど触れられてはいませんが、現実には行政サイドにおいて触れるだけの考えがなかったのではなかったかということが考えられるのです。
 ・現在京都市には、11の行政区及び3つの支所があります。この姿になったのはつい最近のことです。元々は上京、下京の2行政区からスタートしたのですから。そして、これまでは市域内都市部の拡大によって分区による増区の道を歩んできたのですが、大阪市を見るまでもなく、都心部の人口減少、さらには全市的、全国的な今後の少子化傾向の中における人口減少の傾向の中で、いつまで11行政区が維持できるのかは保障の限りではありません。分区ではなく合区、すなわち区の統合の問題です。加えて、昨今の国政や地方自治をめぐる行政のあり方の変貌の兆し、情報技術の進展による各種サービスのあり方や仕組みの変化を考えていくと、今後の行政区行政のあり方は、現在の姿を単に延長して考えるだけではとても長期計画には応えることはできないのではないでしょうか。
 ・さらにまた、地域計画というものを考えた場合、それが果たして現行の人為的、一時的な区行政の地域範囲で考えることが果たして当を得ているのかどうかについても検討の余地があるのではないでしょうか。都心部において、四条通を境に北と南で異なった地域政策を取ることが果たしていいのでしょうか。まして京都市の場合には、道路によって行政の地域が画されているのではなく、下京と中京とは四条通の南北をギザギザに出入りしているのですからなお更のことでしょう。
 ・地域性を考える場合、行政区内部においても、異なった特性の地域が複数存在していますし、また今見たように、行政区を越えたより広域的な地域としての一体性も存在するのです。ゾーンとしての捉え方がいいのかもしれませんが。そうした意味で、区の計画構想を本当に考えるのであれば、まず区自体が、地理的範囲や行政のあり方ともに、今後どうなっていくのか、どうしていくのかがまず問われなければ、計画の策定とそれを担う担い手自体が確定しないのではないでか。
 ・このように、区の基本計画策定に関しては、大変本質的な問題が先送りされてしまっていますが、いずれにしても地域政策に今回の基本構想では手をつけてしまいました。進むにしたがって当然本質的な問題に直面していくことになるでしょう。好むと好まざるとにかかわらずもはや後戻りのできない段階へ入ったのですから、覚悟して地域政策確立の道を自覚的に歩むことになることを期待したいと思います。

ケ.再度、21世紀基本構想が問いかけているものを考える
  ・今回の「21世紀基本構想及び基本計画」は、ほぼ同じ時期にまとめられた「京都新世紀市政改革大綱(案)」と京都市市民参加推進懇話会の「提言素案」を同時に実践することによって生きてくるものとされています。このことは、自治体の基本構想・基本計画は、それを具体的に実現していくには、そのための市役所づくりとともに、新しい市民づくりも必要なことを示しているのでしょう。基本構想に示された方向での市役所と市民のあり方が具体的に検討されているのです。こうしたことも従来にはなかったことで、逆にいえば、そうした行政と市民の新たなあり方の確立なくして、21世紀基本構想の実現は困難であることを明らかにしていることになります。
 ・こうしたことから、基本構想というものは、それほど大変で実行の難しいものにしていいのだろうかということがあります。
 ・くらしに「安らぎ」があり、まちに「華やぎ」があるという、くらしとまちを、「安らぎ」と「華やぎ」で対比させた表現も、一見わかり易く見えながら、本当のところはきわめて難しく、果たして基本構想のテーマとしてふさわしいのかどうかについても一考の必要性があります。くらしにも「安らぎ」と「華やぎ」があり、まちにも「安らぎ」と「華やぎ」があります。どうして、一方だけにしてしまうのでしょうか。また、「安らぎ」は、生活の安定を意味するのかもしれませんが、安定の中にのみ「安らぎ」があるのでもなく、人生の挫折の後に心からの「安らぎ」のある場合もあり、「安らぎ」を感じる心は極めて主観的な世界に属するものではないでしょうか。また別に、京都にとっては、「華やぎ」よりは、「華がある」という表現の方がより適切かもわかりません。京都の人には「華がある」ということです。京都の自然や社寺境内などは、「華やぎ」ではなくむしろ「安らぎ」でしょう。都心部の町家のなかにも信じられないほどの安らぎの空間があります。こうしたことから、京都を述べるにあたって「安らぎ」や「華やぎ」のフレーズが適切であったとしても、基本構想や計画でこのフレーズを展開することには、やはり抵抗感をぬぐいきれないのです。
 ・自治体の長期総合計画というものは、やはり、もっと具体的なものなのではないでしょうか。この京都の都市の姿を具体的にどうしていこうとするのかを軸にするべきではないのでしょうか。
 ・21世紀の京都市の人口が大きく減少することが想定されています。高齢化と人口減少です。それに加えて、従来からの産業構造が崩壊しつつあります。それに対して、観光産業と先端的な情報産業の振興が提起されているようですが、この都市の衰退ともいうべき事態をどれほど深刻に受け止めようとするのか。京都の都市のあり方を積極的に変えていこうとしているのか。こうした問題は、主観的な領域の問題ではなく、これこそ市民レベルで議論し、その合意を形成していかなければならない問題なのではないでしょうか。
 ・京焼きをはじめとする多くの伝統産業はすでにして、昨今の室町や西陣の凋落ぶりには目を覆うものがあります。こうした在来型の産業の衰退に対するそれらが立地してきた産地の再生が、町家の保存再生として今それなりのスポットがあたっているとはいっても、それは、産地の再生ではなく、いうなれば観光化による一定程度の地域の再生に過ぎません。都市というものは、生活だけで成立するものではなく、その基盤には産業がなければなりません。在来の産業がすたれゆくときに、それはそれとして推移に任せ、新たな産業を起こそうとするのか、衰退する産業ではあっても、その衰退の傾向に何らかの歯止めをかけ、でき得る限りの抵抗を試みようとするのか、問題は単純にはいかないまでも、基本的な議論が必要でしょう。
 ・これまでの市役所内外の議論というものは、伝統産業の振興はできる限り必要、新しい先端産業への基盤整備も必要、観光振興も必要、市民生活の安定も必要、文化の振興も必要、文化にしても伝統文化の振興も西洋的現代文化の振興も必要、全て必要必要と、市民サイドも行政サイドも指摘し、要請してきているのです。京都の主軸をどうしていくのかというときに、全てを必要として計画課題を設定する場合には、結局根本問題には触れないことと同義語となってしまいます。これからの人口減少の中で、150万人の都市規模であれば観光で都市を成立させることには無理はあっても、100万人を切るようになれば、京都の場合には観光立都も不可能ではないというところまで考えと覚悟を決めるのかどうか、こうした都市の具体像を提示してそのための具体的方策を明らかにすることこそが基本構想の本来の趣旨ではないでしょうか。しかし他方、観光といっても、これを京都の新しい基幹産業とした場合には、国内や世界の景気動向にもっとも左右されやすい分野であることは、全国各地でのリゾートブーム後の衰退やテーマパークの現状を見ても明らかであり、他地域に依存する度合いの高い都市としての宿命に対する備えと覚悟もまた必要となってきます。
 ・21世紀基本構想・基本計画がすでに策定され、後は如何にそれを実行していくかを問うべき段階で、基本構想・基本計画のあり方を云々することは生産的でないのかもわかりませんが、都市・京都の今後のあり方と、京都市政と市民の明日の姿を描くことは、それほど単純というか、断定的にとらえきってしまうべきものではないでしょう。明日の姿というものは、あくまで仮説であり、それを目指そうとする意思でもあります。実際のところ、長期計画にかかる計数的見通しはこれまでほとんどの場合狂いを生じさせてきました。たとえ決めたことであったとしても、常にそのことの是非とまたそれとは違った選択肢や見通しも他方で心することも必要なのではないでしょうか。歩み来たった道は一筋の道ですが、先行きの道筋はある意味で無数に存在しています。どの道筋が正しく、どの道筋が間違ったものであるという考え方は、決して正しいものとはいえないでしょう。道筋の選択は、意思や決意、覚悟にかかわることなのですから。
 今回の基本構想の作業が、これまでよりはかなり市民的レベルのものになったであろうことは間違いのないことであるといえるでしょうけれども、基本構想そのものの抱える問題性を必ずしも克服しえたとは言い切れないのもまた事実でしょう。ある意味では、きわめて初歩的な試行錯誤を繰り返している部分もないとはいえません。それでもいいではないでしょうか。試行錯誤を建設的にとらえ、明日の京都に向かって、今回の基本構想の作業を基に、より多くの市民とのやり取りが繰り返され、より深みのある明日への課題の設定が可能となっていくことこそが大切なのではないかと考え、多少乱暴な解説と問題提起をしてみたところです。

(2)基本構想と市政の課題
 京都市の基本構想ないし長期総合計画の歩みと現在の21世紀基本構想・基本計画をざっとみてきましたが、改めて、基本構想とは一体何なんだろうという思いにかられます。
 一方では、各事業ごとに、住宅建設5カ年計画、女性行動計画、高齢社会対策推進計画、都心部小学校跡地活用計画、ごみ減量・リサイクル行動計画、国際化推進計画、緑の基本計画、観光振興基本計画、文化・芸術振興計画、地域体育館整備計画などなどと多くのものがあり、他方では、市長の選挙時における公約があります。市長の市政執行の政策は、選挙公約に基づいて進められるのは当然のことでしょう。これに対して、基本構想・基本計画は、市長のその時々の公約などは最初から想定していません。
 さらに、市民には市民の願いがあります。願いや願望は、必ずしも実現するものとは限っていないし、実現しないからこそ願いなのでしょう。あるいはそうあったらいいのにという、夢かも知れません。
 しかし、行政課題は、夢や願望ではなく、具体的に達成されなければならない事業なのです。精神的な課題は、行政課題というよりは市民憲章のようなものではないでしょうか。

 市政の総合的にして長期的な計画というものは、いかに総合的であれ、また長期的なものであれ、計画構想であるかぎりは、憲章ではなく、事業化されなければならないし、また、それを達成するための計画化が必要なものです。

 事業や計画にはいかに哲学がいるとはいえ、哲学それ自体を行政課題に掲げることはできません。それは機関としての市長に代表されるリーダーの見識に委ねられるものなのではないでしょうか。責任の一切は市長に帰一するものなのですから。

 都市京都の固有の課題とは何でしょうか。その底流には、世界的、超時代的に普遍的な何かが流れているにはしても、地理的には日本の京都、時代的には、これも日本の現代という極めて具体的な存在としての都市の課題を明らかにしなければ、現在の京都の課題は生まれてこないでしょう。今の京都は何に迫られ、このままでは明日はどうなっていくのか。それでいいのか悪いのか。悪いのであれば、具体的に何をするのか。その何を、は、あくまで抽象的なものではなく、都市の成立要件にかかわるものでなければなりません。
 市民の生き方を考えてみましょう。市民の道徳的なものを政治行政として取り上げることには当然多くの異論があるはずです。しかし、都市を構成する都市民としての市民のあり方については議論することが当然であるのかもわかりません。都市の姿は、それを構成する都市民の意思によって築きあげられるのですから。したがってこれは、普遍的な人間のあり方を問題にするのではなく、都市の担い手としての都市民のあり方を問題にするに過ぎないのです。そしてまた、人間の生き方や考え方などは、そう簡単に変わるものではありません。それぞれの原体験というものから大きく脱皮することはなかなか至難なわざといえます。都市共同体というようなところで規範を示して、人間の生き方を論じること自体、戦前までどころか戦後にまで引きずってきている日本の集団主義そのものではないのでしょうか。
 民主政治は、建前としての一人一人の自立した個の確立を前提としていますが、現実の各種選挙をみてもまだまだそうした状況はわが国ではユートピアでしかないという思いを強く持ちます。おらが村、おらが町の、という考え方は、おらが企業の、おらが組織のというように展開していけば、田舎も都会もなくまだまだわが国では責任ある個人としての判断や行為のできていない状況が目に付きます。それゆえにこそ、その逆としての、てんでばらばらな、個々人かってな無責任性もまた横行することになってきてしまっているのでしょう。仮定の建前と結果としての集団的規範づくりは、決して良い結果を生み出さないのではないでしょうか。行政は、仮定の上に成立させるものではありません。

 こうしてみてくると、基本構想なるものはもはや不必要な時代に入ってきたといえなくもありません。市長の権威と責任をもっと確立していくことこそが大切なのではないでしょうか。

 それでは、この論稿を終わるにあたってのまとめにかえて、基本構想を受け止め、さらに今後再構成してくにあたっての基本的な点について取りまとめてみたいと思います。

 <京都市基本構想・基本計画を考える場合の基本的な事項について>
 京都市が21世紀を迎えてその基本構想を考える場合の基本的な要件は、・都市の性格 ・都市の政治行政 ・区政と市政 の3点に集約できるのではないかと考えました。

ア.都市の性格について
 都市の成立の基本要件は、やはり人口でしょう。人口の増減は、結果としての現象だと思いますが、都市の成長、発展や衰退のもっともわかりやすいバロメーターです。種々の原因はともかく、これからの京都市人口の激減は明らかで、そのことを十分に折り込んだ、或いはそのことを前提条件とした構想でなければなりません。人口激減の京都市とは、いったいどのような様子となっているのでしょうか。或いは、人口激減したときの京都市をどのような都市にしていけばいいのでしょうか。産業は、都市の構成員である市民の様は、階層は、或いは、働く都市なのか住まう都市なのか、遊ぶ都市なのか、はたまた開かれた都市なのか、市民のみの内向けの都市なのかといった都市の性格付けに発展していきます。
 都市の性格付けができれば、次にはそれにふさわしい、或いはそれにかなった都市機能をどう備えるかが問題となってきます。自動車、バス、地下鉄、地上の電車、自転車、徒歩といったものも、基本的なまちの性格付けとの関係から、地域や地帯にかなったあり方が考えられるべきなのでしょう。
 かつて、”くらし”という言葉には、生活とともに生業的な働きの面も含んでいましたが、中小企業者が減少し、サラリーマンが増加してきたなかで、京都の都市性格もまた変わらざるを得ないのですが、人口減少や都市の構成員の階層的な変化によって、都市が自然に、或いは都市自身が自律的に変化していくものなのか、また都市の変化自体にも市民や行政が意思を持って変えていくことがいいのか、これらは重要な選択肢なのでしょう。

イ.都市の政治・行政について
 
都市をどう理解するかは、基本的には一人ひとりの市民の自由の問題です。しかし、都市の意思としてそれを認識し、目標を持とうとする場合には、そしてまたその目標達成のためのプログラムを実践するには市民の総意を形成する必要があり、そうした市民の総意の形成過程が都市の政治、行政にほかなりません。
 つまり、都市政治と行政は、都市運営とともに都市の意思形成には欠かせない最も重要な手段です。
 ところがその都市政治と行政が、今大きな変貌期に入ってきています。そしてこのことは、同時に市民のあり方自体の変化をも要求するものとなってきているのです。この点は、ある意味では、都市の性格付けや目標設定以上に重要な事柄なのではないかとさえ思われます。
 こうした、都市の政治行政と市民のあり方の激変とその方向性は、誰がどのように提案し、誰がどのような過程をたどって決めていくのでしょうか。戦後50年を経ての、或いは少しマクロに見れば明治以来の構造的な大変化であるのかもわかりません。したがって、それにふさわしい問題提起と市民的な議論を展開するにはどうしていけばいいのかがきわめて重要な問題となります。
 今回の基本構想の策定過程では、従来よりさらに進んだ市民的な検討があったとはいえ、147万人市民という全体的なスケールで考えた場合には、まだまだ従来の枠をそう越えたものとはなっていないし、市民に求められている変化もほとんど認識されているといえるものではないでしょう。
 例えば、市民の自己責任性の問題一つをとってみても、いったいどれだけの市民がそのことの問題性を認識し、またその必要性を理解しているのでしょうか。こうした面では、通常市民は変化を特には望んでいるわけではありません。
 かつての京都を地域自治行政の伝統の文脈として捉えるとしても、その当時の京都市民の中核は、今でいうところの中小企業経営者であり、その地域で業を行うとともに生活し、また文化活動を行っていたのです。いま、サラリーマンを中核とした地域において、かつてのような地域での自立的な活動で地域行政を行っていくことは到底不可能なことではないのでしょうか。かくいう私自身が、地域自治の重要性を説きながらも、自分の生活地域での活動の時間はほとんど取れなかったのがこれまででした。
 都市政治と行政のあり方は、その都市がいかなる市民によって構成されるかにも規定されるところが大きいのです。

ウ.区政と市政
 また今回の基本構想の重要な点は、行政区、すなわち区役所のあり方の問題です。構想及び計画策定過程での問題としては、区の基本計画策定作業の全市基本構想への反映がほとんどなかったのではないかということがあります。区ごとに計画を検討するということは、その集約が京都市レベルの計画となるという面がなければなりません。しかし、各区の計画検討作業の過程において、区相互の交流や市レベルの構想のあり方への区レベルからの問題を提起、検討するような場はなかったのではないかと思われます。
 このことからも、折角行政区の基本計画を策定しながらも、区というもののあり方を本当にどう考えていくのか、区政と市政との関係は実際上どうしていくのかといった根本的な課題はきわめて不明確であるといわなければならない状況にあります。
 また、区役所の機能や区の市民組織等のあり方を確立していくにしても、区の地理的範囲が現状のまま果たして20年先まで変化がないのでしょうか。先にも指摘しましたように、区の地理的範囲を越えた同一的性格の地域を行政区の範囲で将来にわたって分断していくことが果たして許されるのでしょうか。こうしたことも、それ相当の検討の場と時間が、またしかるべき時期が必要となってきます。

 いま、きわめて雑駁に3点にわたっての基本的な問題を提起しましたが、大切なことは、容易に「絶対正しい」答えなどは出せないということです。誰が、どういう形で、しかも責任をもって提起し、かつまとめ上げるかが重要です。と同時に、こうした問題は、いったん出した答えでも、必要に応じて絶えず修正し、常にその時々の状況変化を視野に入れつつ進めていかなければならないのです。グランドビジョンは、21世紀の前期4分の1世紀(25年間)を視野に入れて策定されたものですが、いったん決めればそれで憲法として守るというような性格のものではなく、こうしていこうという都市としての意思をしましたものですから、必要が生ずれば常に議論し修正していくことが望まれるのです。そうした意味で、今回のグランドビジョンの策定によって、京都の都市のあり方や、政治行政、さらには市民自身のあり方の議論が、ここを基点に展開していくことになれば、それにすぐることはないでしょう。グランドビジョンの策定によって作業は終わったのではなく、その策定によって、いよいよ本格的な議論のスタート台に立ったのです。こうした幅のある受け止め方が大切なのではないでしょうか。

 本論稿の冒頭の方でも述べましたように、自治体の基本構想は、政府の国土総合開発計画との整合性を確保するために策定されることになったものです。今や、国土総合開発計画自体がその必要性如何をいわれるようになってきています。
 また、地方自治体の場合、その首長、京都市であれば市長が、4年ごとに選挙で選ばれます。そのときの選挙公約は、大統領制の市長の市政執行上最も重要な政策となるものです。選挙公約の是非をめぐって選挙が行われ、政策が選択されるのですから、都市の総合的意思の形成といった形式的な総合計画は実際問題としてどうしても必要なものとはいえないのではないでしょうか。市長の選挙公約との関係からすれば、基本構想・基本計画も市長選挙のたびごとに見直すのでなければ、市長のリーダーシップ制はおそらく確保されないことになるでしょう。

 市民合意や市民総意の形成という言葉はきれいな言葉ですが、これを本当に実現することは至難の業といわなければなりません。147万京都市民全員の合意が仮に形成されたときには、恐らくあまり意味のない抽象的なものとなっているでしょう。いろんな考え、いろんな利害のすべてをまとめた方向性など本来ありえないことである、そのために、多数決やそのマイナス面をカバーする少数者の利害の擁護といった問題もあるのです。
 計画の実施には、多くの人の賛同が必要ですが、新しい時代の予見は、必ずしも多数の議論の中から生まれてくるものではありません。そこには、リーダーとしての見識が要求されるのです。リーダーの先駆的な見識と集団的な議論の組み合わせはこれまた容易なことではありませんが、今やこうした両面が求められる時代に来てしまったのでしょう。民主主義が、遠い過去にあったような衆愚政治に陥らないように、他方におけるリーダーシップ性の向上をどうして図っていくのかが、今日の国家を見ても地方を見ても、今や最重要課題となってきているのではないのでしょうか。

 一応これでもって、この論稿は終わることにしました。京都の都市と市政の内容にかかわる点については、別稿で、21世紀京都市政の課題として改めて展開してみたいと思います。(了)

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