「21世紀と自治体」(1989.2講演記録)

 本文は、1989年2月23日、高槻市職員の自主研究グループの求めに応じて、その研究会で与えられた表題のテーマにしたがって行った講演の記録です。この記録は、高槻地方自治研究センターの『シリーズ自主研究bQ』(1990.3発行)に掲載されており、同センターの了解を得て本ホームページに掲載することにしました。
 丁度10年前に、21世紀の話しをさせられてしまったのですが、いよいよ21世紀です。10年後にその話しを検証するということは、できれば避けたいことなのですが、これからの自分に課題を課すために、敢えて検証を試みることにいたしました。恥を承知の上での行為です。厳しく激励くだされば幸いです。


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21世紀の自治体

−何が問われているか−

1.21世紀を考えるにあたって

2.これまでの地方自治体−マクロな回顧−

3.京都の歴史的住民自治行政組織の概要

4.21世紀の自治体と都市づくり 

結びにかえて

 

 

  一 二十一世紀を考えるにあたって

     マクロの中の我々の意思

 本日はお招きに預かりまして、どうもありがとうございます。私のほうは京都がいろいろとむずかしい状況にあり、これからどういうことをやっていこうかということで、残務整理をしがてら、今後のことをいろいろと考えている状況です。いわば落ちこんだ人間に二十一世紀を語れというのは、かなり皮肉なめぐりあわせだなと思っています(笑)。
 これまで福岡さんとは一○年近いおつきあいをさしていただいておりますので、比較的気軽に「二十一世紀の自治体」ということで引き受けさしていただきました。しかし、ふと考えてみますと「二十一世紀の自治体」というのは、これはとほうもないことを引き受けてしまったということで当惑したんですけれども、いったん引き受けたからにはやり抜かなきやならない。なんとか一時間の話をさしていただきたいと思います。
  常識からいきますと、一九九○年代をいよいよ目前に控え、一九九○年代はいかにあるべきかということで、いろいろ検討をされているのが目下の状況です。一九九○年代が二十一世紀初頭につながっていくということですが、テーマから考えますと、その「二十一世紀」が一体どうなるかということになります。一九九○年をスタートにした今日までの二十世紀、これに匹敵するスケールで二十一世紀を描かなければならない。これは大変なことになったと、実は思っています。
 一九九○年代になりますと、マクロとはいえ近未来のことで、大よその想像もつかないことはないわけですけども、二十一世紀がどういう時代になっていくかを考えるのは、なかなか大変なことです。そのあたりを思案しつつ考えてまいりたいと思います。
  皆さん方もご存じのとおり、長期構想をたてるにあたって基本的な予測をする場合、人口の伸びとか、いろんなことを計数ではじいていきます。この計数値はなかなかあたったためしがない。これからの一○年がどうなるかについては計数的なもので話をしていくべきでしょうけれども、さらに大きな二十一世紀がどうかということになると、ある意味ではお手上げで、手持ち材料をもたずに、むしろゼロの状態で考えたほうがいいんではないかということで、今日のところは計数的なものを一切抜きで考えさしていただきました。
 そうしますと、マクロの判断、マクロの視点は一体どうなるのかということになります。二十一世紀がどうなるかは、同時に二十一世紀をただ単に推測するだけではない。推測の中に我々の意思、いまの状態、現状をどう克服するかという意思が自ずから入ってこなければ意味がない。だから、将来がどうなるかを客観的に見つつ、しかも、その中に現在の我々の意思を入れていく。そうしますと、いまの現状の中で、遠い将来に花が開いていくような小さな芽、将来ものになる根がなければならない。そのことをどうとらえ、育てていくかが、結局我々がマクロな判断をしていく場合の一番基本になるものではなかろうかと思います。

       二十一世紀と一九九○年代

 二十一世紀について通常いわれるのは、二十一世紀の百年間がどうかということよりも、一九九○年代が二十一世紀に到達するということで、二十一世紀に入るテーマは一体何かといった、二十一世紀の幕開け的なとらえ方が通常されています。京都のしょぼくれた私に話をせよということは、私なりのオリジナリティーのある話を、それは間違っていてもせよということだと思いますので、お役に立つか立たないかはわかりませんけれども、できるだけ私のオリジナルにつながるような話の仕方をさしていただきたいと思います。しかし、一般的な問題整理も多少ははからなければならないということで、すでにおわかりとは思いますが、前段で少しそれに触れていきたいと思います。
 二十一世紀の自治体がどうあるべきかについては、たまたま自治省が地方自治法施行四○年・自治制公布一○○年の記念論文集を出しています。ここで「二十一世紀における都市自治の確立」ということで、全国市長会の会長中村時雄さんが幾つかの問題を提起したり、自治省消防庁次長片山虎之助さんが「四全総と地方自治」として何点かの問題をあげておられます。
 それをご紹介しますと、「二十一世紀における都市自治の確立」では、第一点としては府県制度の合理的あり方の検討がなされています。これは事務配分を中心にして、基礎的な自治体を充実するということになろうと思います。二点目には大都市制度の拡充です。現在、政令指定都市は一○○万都市を基準に考えていますが、法そのものでは五○万を基準に考えています。この際、五○万以上の都市に拡大すべきではないか、ということです。それから三点目に市町村という基礎的な自治体の規模の問題が再検討されています。それなりの実力を備えた市町村にしていく必要があるということです。もう一つおもしろみのある問題提起ではなさそうですが、そういうことがいわれています。
  それから「四全総と地方自治」では、五点ばかりあげられています。第一点としては地方とのパイプの強化が、結局東京への集中を加速することによってさらに地方が置いてきぼりにされるということになるのですが、最近になって逆に地方への回帰現象が強まっているのではないかということです。今日、居住の流動性が高くなっている中で、セカンドハウスとかいろいろあるわけですが、交通網が発達して、どこにでも住め、どこにでも働けるということから、逆に地方への居住の回帰性が強まるのではないかということです。それにあわせて、二点目として地方自治が従前にもまして身近なものになっていく。そこで真の市民意識が、地域エゴを乗り越えて育っていくのではないか。三点目に、名実ともに地方政府、自治体が地方政府らしいものに育っていき、中央、地方の関係が分担と協力ということで、合理的な関係として固まってくるのではないか。四点目は、地方行政そのものの役割がハードな施設整備中心から、ソフトなサービスの提供に重点が移ってくるのではないか。五点目としては、そういった中で地方財政はより充実していき、事業選択をめぐって、受益と負担との関係が直結するシステムとなるだろう。我々にとっていい部分もあれば、もう一つというものもあるんですが、こういうことがいわれております。
 個々に問題をあげていきますとそういうことですが、やはり「二十一世紀」となると、さらにこういうことを越えてマクロ判断をしていく必要がある。その判断にあたっては、先ほど言いましたように現状の何を育てるかを考えなければならない。そういう意味では、現状分析もしっかりとやる必要があるということです。そこで、今日、この場ではあまり重点は置かないとしましても、現状分析について多少おさらいをさしていただきます。
 一九九○年代の日本はどういう課題を担うか、これを整理しますと、大体八点ばかりにまとめられるのではないかと思います。これは多極化する世界の中の日本の位置、特にその中では二点目に国際社会の中の日本経済がどうあるべきか。三点目には第三次産業革命、これは第一次産業革命はご存じのとおりで、二次がエネルギー革命です。そこから第三次産業革命は情報化社会ということになりますが、その進行の中でどうするのか。四番目に長寿社会、高齢社会をどう乗り切るか。五点目に女性の社会進出にどう取り組んでいくか。六点目に若者文化にどうかかわり、あるいはどう育てていくか。七点目には都市の成熟があります。ここ二○年間の間に、日本全体が農村社会から都市社会に変貌していった。そういう都市の成熟にどう備えていくか。八点目には、政治的に見れば自民党の長期政権、これがどういうふうに多党化現象の中で変わっていくのかというふうなことを合わせて考えていけば、現状分析の中の課題が浮かんでくるのではなかろうかといことです。

      水平的視野と垂直的視野

 そこで、マクロ判断を求めていく場合の手法ですが、ここにも書いておきましたように、現状分析の中で何が将来に結びつくか、何が結びつかないかという振分けをしなければなりません。同時に大局判断ということで触れましたように水平的視野、今日の段階で全国の各自治体が何をしているか、さらにはヨーロッパや東南アジアを含めて、世界的に地方自治にどういうものが問われているか。水平的な、視点を横に据えるという問題が一つあります。それに加えて垂直的視野というものもあるわけです。わが国の地方自治は、京都なら京都、高槻なら高槻なりの歴史を持って今日があります。こういう縦の歴史的な視点、歩みの中で、過去、現在、未来を見通していく必要があるだろうと思うわけです。
 とりわけ、今日までの日本のありようは、後でもう一度触れたいと思いますが、やはり欧米をモデルにして諸問題を考えてきたし、それなりに、いまの日本が欧米の水準に到達してきたということから考えますと、巷間いわれますように欧米にならうのではなしに、自ら明日の課題をみつけ出さなければならない。その限りでは、教科書のない時代にわが国も入ってきたということになります。いま一度自らの歴史を振り返る中で、今後の課題を探らなければなりません。
 私はよく言うんですが、一年先を見通そうとすれば十年ぐらいは振り返らなければ、対策は出てこない。一○年先を見通そうとすれば、やはり百年ぐらいは振り返っていかなければならない。そういう垂直的な視野が、やはり独自の発想としてやろうとすればいるんではないかということです。他に見習うだけなら、歴史的な考察は必要ないわけですけれども、自ら答えを出していこうとすれば、やはり自らの作業が必要だと思います。それが歴史的な振り返りではなかろうかというふうに考えているわけです。そういう意味で、今日のところは日本の地方自治体をマクロに振り返りながら、二十一世紀の自治体のありよう、あるいは私達の応対の仕方を考えさせていただきたいと思うわけです。

 

 二 これまでの地方自治体 −マクロな回顧−

     欧米の民主主義と伝統的地方自治  

 そこで、これまでの地方自治体がどうであったかということに進みたいと思うのですが、大きく分けますと、戦後の民主化のありようは欧米の民主化をモデルにしてきたわけです。しかし、それとは別に、いま申しましたようにわが国に伝統的な地方自治体は、はたしてあったのかなかったのか。戦後の民主化は戦前の日本的なものをすべて否定し、ある意味で思想的に日本をサラ地にした中で、欧米の理想像を日本に植えつけようとしてきたのではなかろうかというふうに考えるわけです。戦争のダメージがあまりにも大きかったがために、それまでの日本的なもの一切を否定し、欧米を見習っていこうとしたわけです。

      市制一○○周年  

 日本のマクロの自治を考えていきますと、今年の四月に市制一○○周年を迎えられる市が、全国で三十一ぐらいあります。つまり、日本に近代的な自治制度が施行されて、今年が一○○年目になるということです。そういう一○○年前の時点と昭和二○年(一九四五)の敗戦という一つの時点それから昭和四十六年のドル・ショック、オイル・ショックの時点、大きくわけますとこの三つぐらいの時点で、大きな転換が行われてきているのではないかと考えています。そのへんの大きな転換を、ひとつ見てみたいと考えるわけです。
  いまからちょうど一○○年前、一八八八年に市町村制が公布され、その翌年に市制町村制が施行されて、市が誕生したわけです。このときの市制は非常におもしろいもので、大きな特徴は、市長は存在しましたけれども、参事会というものがありまして、数名ないし一○名前後の合議制による執行機関が市政を運営し、その議長役が市長でした。今日のような大統領制のシステムではなかったわけです。そういう意味では、わりあい民主的な装いがあったわけです。しかしその後は中央集権制が強まる中でだんだん地方自治制が形骸化していく。最後には戦争に突入して敗戦を迎えていくわけです。

       戦後民主化と地方自治

 敗戦によって、先ほど申し上げましたように戦前の地方自治のありようの一切が否定され、新しい民主化が誕生した。戦後の民主化というものを特徴づけるものは、一口に言いますと機能集団的な民主化で、実は地域民主主義的な考え方がなかったわけです。昭和二○年の十月十一日に、日本民主化に関するマッカーサー元帥の見解というものが出されています。これが戦後日本の民主化の一つの骨格を形成しました。一点目は婦人解放、二点目は労働組合の結成促進、三点めは学校教育の自由化、四点目が、ごくかいつまんでいうと、秘密警察の解体。それから五点目が財閥の解体につながるような産業民主化これが日本の戦後の民主化の柱になるわけですけれども、地方自治の問題はあまり入ってこなかったのです。
 日本の民主的運動に携わる人々にも、そういう意識があまりなかった。ですから、憲法の中で地方自治制ができたけれども、これはアメリカの影響によるところが大きかったわけで、わが国の中ではそのことがあまり意識されてこなかった。つまり、わが国の民主化は、我々の運動も含めて国の民主化はさんざん問題にしてきたわけですけれども、ローカルな場面、地域における民主化はほとんど問題にしてこなかった。これが大きな反省占としてあげられると思います。それがようやく問題になってきたのが、ご存じのように一九六三年、第五回統一地方選挙のときに、横浜の飛鳥田さんが革新首長として誕生した。ここに至るまでにも、全国的に見れば革新首長はそこそこの数では誕生してきているわけですけれども、この第五回統一地方選挙は、とりわけ地方自治にとっては大きな意味を持っていたわけです。
 なぜ大きな意味を持ったかというと、地域民主主義を正面から問題にして、しかも、民主主義の手法として直接民主主義を実現する、これを課題に掲げて政治の舞台に踊り出てきたわけです。この点で、それまでにも革新自治体がそれなりにありながら、およそ質的に違う意味を持ってきたことになるわけです。そういう意味では、一九六三年が地方自治にとって大きなエポックを画することになるわけですしかも、このときには革新自治体が大量に生まれました。このへんのお話はすでに何回か前に「地方自治の明日を考える」ということで、お話を聞かれていると思いますので重複を避けますが、それのきっかけになったのが、やはり高度成長下の地域の問題ではなかったかと思います。      

      経済構造の転換と地方自治

 そこで直接民主主義を志向しながら、対話から参加へというコースをたどってくるわけですが、「参加についてのきめ手を持たないまま革新自治体は後退していきます。後退していくのが次の転換期になるわけですが、これが一九七一年のドル・ショック、七三年のオイル・ショックのときではなかったかと思っています。この時点で、日本の経済が欧米を参考にしながら、とにかく経済至上主義で稼ぎまわってがんばってきた。その高度成長を支えてきたのは、労働組合もそうですし、財界も自治体も、政府も、一切合財がある意味で支えてきたわけです。それが大きな壁にぶちあたって、この時点で自治体政策はもちろんのこと、経済のあり方についても一通りの問題が出されてきたわけです。
  その出されてきた中では、いまいわれている内需の転換、福祉経済、労働分配率の是正、経済の民主化など、一通りのものがあります。けれどもそれがいわれていたようには転換せずに、経済界の合理化、大企業を中心とした合理化、減量化へと動いた。振り落とせるものはすべて振り落として、身軽になって、経済界はより国際的に競争力の強い形で乗り切っていった。
  それに成功したのと同様に、財界は今度は国と自治体に振り向けて第二臨調という形をつくらせて、行政の合理化、行財政の改革という方向に向かってきたのが、それ以降ではなかったかと思います。その中で行政が受け身になり、革新自治体も受け身になって、なすすべもないままズルズルと後退して、現在となってきています。各自治体を見てみますと、行政官的な首長が出てくるという状態に変わっていったわけです。
  我々が戦後民主化を掲げ、しかも六○年安保の後の第五回統一地方選挙で直接民主主義の旗を掲げながら、革新自治体を前面に押し出して「地方の時代」を国政的な課題にしながら、結局後退を余儀なくされてきた。そういう反省をどういうふうに受けとめていくかということが、つまるところ二十一世紀を自治体の時代にすることができるかどうかの、大きな分かれ目になるんではないかと考えるわけです。

       歴史的断絶の中の地方自治  

 直接民主主義を志向しつつ、我々は地方自治の時代をつくろうとして後退した。ですから、なぜ高揚し、なぜ後退してきたのか、その「地方自治」とは一体何であったかということを考えてみたいと思うわけです。それは地域民主主義、あるいはコミュニティーとか、いろんな言い方をしてきましたけれども、冒頭にも申しましたように、そのモデルはほとんど欧米のモデルであったのではないかと考えるわけです。我々が地域民主主義をいうときには、上から植えつけるような民主主義しか問題にしていなかったのです。それを私流の言い方でいいますと、街づくりにしても、地域の民主主義にしても、サラ地が一番ベターであって、既存の古いものがあったら困るという発想があったのではなかったかということです。
  街づくりを考えてみますと、都市工学を中心にした考え方からいけば、既存のものはないほうがいい、いったんサラ地にして設計図を書いていい街をつくる。そこに古い何かがあれば、反対や何かがあってうまいことできないということで、否定的になる。民主主義も同じように、昔からの在来の組織がそれなりにあるところでは敬遠されている。神戸みたいに新開地の場合は、近代的な民主主義や市民運動も起こりやすいということで、そういうところをモデルにしようとした。いまのところ、我々は我々にとって自信のある地域民主主義というものを考えていなかったから、結局、ある程度以上を越えることができなかったんではないかというふうに、一つの仮定を置いてみたいと考えるわけです。
  とすると、一体、わが国の場合に地域民主主義というものがあったのかなかったのかという点が問題となってきますので、これをひとつ考えてみたいと思います。それと街づくりの問題とを最後につなぎ合わせて、それなりの方向を考えたいと思うわけです。私の場合、京都しかいまのところわかりませんので、京都の問題を例として考えてみます。ある意味では、全国的にも何らかの形でこういうことがあったろうというふうに思うわけです。
 過去を振り返ってみますと、ヨーロッパの地方自治といいましても、地方自治の完成した姿というのは、ヨーロッパでも自治都市は中世に生まれているわけですね。中世に生まれた自治制度が、近代に及び現代にまで至っている。そこには断絶がないわけです。ところが、わが国の場合には中世、近世を経て現代に移行するにあたって、近代での断絶を経ているわけです。わが国の場合一切合財そうですけれでも、明治維新によって一回断絶した。それから昭和二○年、敗戦によってもう一度断絶している。そのつど既存のものを否定して、サラ地でものを考えてきた。
  明治維新では、欧米に追いつけということで、殖産興業というような形で、日本的なものを否定して、ヨーロッパをとにかく見習った。昭和二○年の敗戦では、そうやって一瀉千里に進んできた日本の近代化のあり方を全面的に否定する中で、戦後民主主義を築こうとした。ですから、この百年をたどってみますと、常に否定することでしか前に進んでこなかった。そうすると、日本の場合には歴史の蓄積というものが、生かされてこなかったのではないか。せっかくある歴史を否定すること、ざんげすることによってしか前に進んでこなかった。ところが、歴史というのはそういうふうに一切合財が否定されるものではなくて、克服されるべき問題と、継承されるべき問題の両面があるわけです。第二次世界大戦というものの負債があまりに大きかったがために、一切を否定することによってしか、前に進むことができなかったわけです。
 ヨーロッパの場合には、中世的なものがいろいろ姿を変えつつ継続して、現在の地方自治に継承されている。日本を振り返ってみますと、皆さん方もそれなりにあちこちで聞かれているように、日本の中世では自治都市というものが堺にも、京都にもありました。全国的にも、農村部でも総村という形で、ヨーロッパに匹敵するような組織があるわけです。ところが、我々の場合には、それを現代的な問題として結びつけて考えてこなかった。

 

 三 京都の歴史的住民自治行政

     自治組織の概要

 これを京都にあてはめてみますと、中世の京都には上京、下京という二つの実態的な都市があります。これはヨーロッパに匹敵するような自治都市であったわけです。その基礎は、「町」というものが共同体を構成して、「町」の憲法を実は持っていたんです。区役所でやるような仕事は、ほとんど町共同体がやっていた。幕府だとか、いろいろございましたけれども、それらは統治機関ではありますが、行政機関ではほとんどなかった。行政機関としては住民自治行政組織といえるものが住民自身の組織としてあり、そこで日常的な行政を行っていた。そういうものが中世ではあったわけです。はなはだしいときには武力も自から備えて、裁判権も含むという地方自治行政組織を持っていたわけです。
 それが中世では行われて後はなくなったというのではなく、近世に至ってもずっと存続していて、明治にも至るわけです。町共同体があり、それぞれ独立して自治行政を行っていた。これが二○から三○ぐらい集まって、一つの町組をつくる。これはイメージとしては、現在の小学校区ぐらいの区域にできていた。町が集まって「組」になり、組長が三○ぐらい集まって、一つの上京、下京という都市組織をつくっていた。これはすべて住民自治行政組織で、代表を選んで、この代表が行政を進めていくというふうなあり方が生まれていたわけです。

       近代化と伝統の解体及び復活  

 このへんの事例はたくさんあるわけですけれども、そういう中で明治維新を迎えるわけです。明治維新では、歴史的にでき上がってきたそういう組織が近代的に再編成されます。中世から近代に至っては、そういう組織が自然発生的に住民自身の力でできていったわけですから、地域が必ずしも連続せずに、Aという町組がBという町を含むというときには、地域的に離れて結びついていることがあった。そういうことから、明治に至って一定規模の町組というものを画一的に整備していった。先ほど言いましたように、二○から三○ぐらいの町のかたまりをつくり、小学校区的な規模にしていった。そういう近代的な再編成を行って、そこが住民の行政組織として力を持って、京都の場合には、小学校を明治二年、一年ぐらいの間に全部つくったというふうなことがありました。小学校区域が自治行政区域とイコールしていったわけです。
 そういう過程を踏みつつ、住民自治行政組織を、今度は政府がだんだん吸収していくわけです。政府というのはもともと統治するだけでしたから、住民自治行政組織の役員を政府の役人、官僚化していって、最後は役員と住民自治組織を分離して、市制の施行と同時に住民自治行政機能を全部市役所に吸収し、組織を解体してしまったというようなことが起こります。大ざっぱにいいますと、実は明治の頃までは日本でもヨーロッパに比定されるような自治組織はそれなりに続いてきた。ところが、明治二十二年の市制の施行によって、その仕事を行政が吸い上げて、近代的な市制町村制が敷かれたわけです。
 京都の場合には、それでは行政がうまくいかないということで、その後一○年ほどして町単位に共同体がもう一度復活しまして、公同組合というものが生まれるわけです。それが学区レベルでさらには全市的レベルでまとまりを見せ、住民相互の組織をつくって、それなりに行政を補完する組織として機能しながら、昭和の初頭ぐらいまで続くわけです。最終的には、第二次世界大戦を目前にして、戦前の挙国一致というふうな中で、これが町内会として政府の手による国家総動員体制の中で解体していきますけれども、昭和の初頭まで、結局は住民組織は継続しました。       

     自治都市の伝統  

 それが戦後、一担解体された町内会は実態的には復活継続し、それなりの影響力を持って、京都独特の住民組織をつくり上げるわけです。京都の場合はいまでも小学校区単位について、現在の小学校とはちょっと違うんですけど、自治行政組織の伝統をそれなりに継承した組織ですから、元学区という言い方をしています。結局、中世来続いてきた組織を背景にした小学校区段階での住民組織−元学区レベルの自治連合会という言い方をしますが、町内会やいろんな団体を網羅した、小学校区単位の住民組織があるわけです。そして、この組織と無関係にいろんな街づくりはできないという状態にあるわけです。
 京都は学校区域は行政区域と切っても切れない関係にある。明治の後半までは、小学校が同時に行政機関であり、そこで市役所でやるような仕事をやっていたという時代もあり、それが非常に長いわけです。その名残りとして、いまだに旧市街地では小学校の中に集会室があったり、あるいは消防分団の施設が置かれていたりするわけです。
  ところが、こういう自治行政組織というものを戦後否定することになります。
 軍国主義体制を支えた挙国一致体制の基盤として町内会、部落会があったことから、これは全面的に否定すべきだという、我々の「進歩的」な考え方があります。しかし、今もいいましたように町内会は実態的に存続しています。この現在ある町内会をま正面からとらえることができず、しかも無視することができないというジレンマの中で、いろいろ実態的に四苦八苦しながら、結局はその実態の影響を受けて、現在あるわけです。
  考えてみれば、京都の場合には大きく言えば中世以来の住民自治行政組織があって、それをどういうふうに位置づけていくかということを考えなければ、これからの民主化、ヨーロッパ的なコミュニティーを幾ら植えつけようとしても植えつけることができないという問題に、実はぶち当たっているわけです。

 

 四 ニ十一世紀の自治体と都市づくり

     京都と神戸

 そこで、(演題からは)距離の遠いことばかり申し上げるわけですけれども、集約的な問題展開をはかってまいりたいと思いますが、そういう意味で京都は参考にならない都市ではあるわけですけれども、ある意味では、いずれ京都は大きな教訓の材料として、皆さん方に提供できる素材になると考えることのできる部分もあるわけです。それは何かというと、神戸方式というまちづくりがあります。それの対極にあるのが、非常に計画性のない京都という街です。一体、それは何かというと、神戸は、やはり常に新しい街づくり、近代的な開発型の都市づくり、ある意味で永遠に高度成長を続けていく都市です。神戸は山を削って海を埋め立て、削ったところと埋め立てたところの両方に領土が拡大していくという、領土拡大を常にはかっていく都市経営の巧みな都市であります。他方、京都市は山に囲まれ、海が全くなく、昔から開発されて開発余力のない都市であります。  ですから、神戸と京都の違いは、近代的な都市開発型の都市と、すでに開発され尽くしたところをどう再開発していくかという意味での調整型の都市、ということになります。開発型の都市は、非常に街づくりとしてはおもしろいし、やりがいがある。ところが、調整型の都市は常に右往左往して、既存のものと新しいものとをどう調和させるかというジレンマに陥りながら、四苦八苦して日々を過ごしている。一体、将来計画を考えているのかいないのかという疑問を常にぶつけられながらやっていくことになるわけです。

     関東型と関西型

 なぜそうなるかといいますと、神戸の場合には近代一○○年の中でつくられてきた都市で、京都は一二○○年という尺度の中で、常に既存の大都市という形で続いてきた都市ということになるわけです。これを少し普遍化し、私は街づくりについて、関東型と関西型があるんではないかと、それなりに考えてみたいということで、少し作業したことがあります。地方自治法に基づく基本構想、自治体の一○年計画がありますが、この基本構想の作業について、革新自治体がまだ元気だった頃、地方自治センターにお願いして、アンケート調査をやっていただきました。そこの中で、関東と関西の違いがあるのかないのか、ちょっと付属的にそういう作業をしてみましたら、やはりそれなりの違いはあったわけです。
 その特徴を見ますと、関東の場合には首都に近いということで、非常に政治的な感度が高い、政治感覚が高い。そういう意味で、国との関係では非常に意識が強い。関西の自治体になってきますと国との関係は少し距離があって、かわりに住民との関係が非常に強く出ています。関東では住民との関係は非常に合理的です。関西では土着性が高いから、わりあい複雑で苦労しています。
 これを先ほどの神戸と京都との違いにあてはめてみますと、関東はサラ地型の都市になり、関西は伝統型の都市であるということになるわけです。神戸の場合には関西といってもサラ地型ですから、関東的な色彩が強い。高槻さんの場合には、この両面がおそらくあろうかと思います。

     二十一世紀はソフトサービスの時代

 話が飛びますけれど、結局、ヨーロッパの地方自治が中世、近世、近代と続いてきたのには、やはり中世でつくられた骨格の中で調整作業を続けながら今日に至ってきたからです。ところが、わが国の地方自治のメインとなるところは、冒頭に言いましたように、何らかの形でサラ地にすることによって現代に来ているわけです。農村部の田畑をつぶして、あるいは丘陵地をつぶしてベットタウンを建設する、これがサラ地型ですね。あるいは海を埋立てる。そういうやり方で近代一○○年、あるいは戦後の高度成長の中で、急速に進んできたということからしますと、新興住宅地はサラ地型です。
  サラ地型は広いキャンパスの上で、都市工学者を中心に非常に自由に描ける。在来型のところは調整型で、そうはならないということになってくる。ところが、これから先一○○年を考えてみますと、いま、公共的な設備投資が非常に日本は薄い。ストックが少ないからフローに行くんだというふうなことをいろいろ聞きますが、やはり一○○年先を考えれば、いま、いろいろやっている公共投資で一○○年とはいわず、ここ一○年、二○年でかなり整備されてきた。公共投資が一通り整備され、開発が進んできた後の地方自治体とは一体何かということを考える必要が出てきます。いまの場合、あまりにも公共投資が遅れているわけですから、再開発、サラ地を前提とした都市開発ということで幾らでも仕事があるように思いますが、早晩これが一通り行き渡ってくると−すでに関東では、一○年ぐらい前から、下水道をはじめ完備し尽くして、これまでの高度成長期にやってきたような行政の仕方は成り立たなくなって期待されない。そういうことが現実に起こりつつありますが、そうしますと、開発型の自治体というのは二十一世紀を考えると、なくなってくる。そこではハードな都市建設を中心にした自治体から、ソフトサービスを中心にした自治体に変換していかざるを得ない。何かやろうと思えば、従来あるものとの調和の中でどう問題解決をはかっていくか、新旧とりまぜた中での問題の処理の仕方を考えていかなければならない。となりますと、いま京都でやっている苦労が、いずれ皆さん方の参考になってくるのではないか。そういう意味で二十一世紀になると、いまは京都はあかんといわれていますが、京都が参考にしていただけるのではないかと思うわけです。
 そうなりますと、そこで要求される自治体の職員の能力は一体何なのかということになってくるわけです。こういうスタイルとか、ああいうスタイルというのは、マクロな判断で映像を描ききってしまうと、やはり問題は間違うと思います。映像はマクロ的に描いてはいかんのではないかと考えるわけです。そのへんで京都なりの一二○○年の歴史から、ごく乱暴に何を学ぶかを考えますと、ハードな都市建設は常に必然的ななり行きによってつくり替えられてくるということが、大きな問題としてあります。京都はサラ地型ではないと言いましたけれども、平安京の時代につくられたものが、戦争などによってつぶされる。それからまた再建され、応仁の乱を迎えて、焼野原になる。また再建される。つぶされ再建され、つぶされ再建されるということを繰り返してきた。なぜ再建されてきたのでしょうか。
 不思議なことに、一二○○年前の街の骨格と、現在の中心部の京都の街と、骨格が変わってないんですね。だから、戦争やいろんなことでいったん無茶苦茶に壊れているけれども、結局、道路の区画は平安京でつくられた区画が、現在まで続いている。これは物質的な行政の側面では絶対にはかれないものです。なぜ、そうなるかというと、住民の自治組織、これは別の言葉で言いますと地域社会というものが、京都の場合にはそれなりの力を持っていたからです。地域社会がつくられて力を持っていたがために、いったんは崩れても住民自からの力でそれをつくり出す作業ができたということではないかと思うのです。
  もう一つ、街が絶えず再生されていくときには、それまでの何らかの要素が新しい時代には空白地として存在した。たとえばブロック型の四角い街の区画であれば、まん中を空白地として残しておく。そこに小学校がつくられる。江戸時代にはそこが武家屋敷であったり、明治維新以降になると小学校になっていく。街づくりの中に、不作意ではあったにしても、空白地があった。
 長いスパンで考えますと、人為的にやったハードな都市建設は必ず無理が出てくる。自然のなり行きによって住みやすいものにつくり替えられてくる。そのつくり替えていく力が地域社会であり、住民の組織であった。我々は行政にいるわけですから、行政の計画性だとかリーダーシップだとかを非常に強く考えますけれども、長いスパンで考えますと、行政の力や、街づくり屋さんの力は、住民の自治社会、地域社会の力に対しては、とてもではないけれども及ぶものではなく、無理があれば必ずつくり替えられることになります。
  そういう経過を考えた場合に、やはりハードな街づくりは計画をし尽くしてはいけないのではないか、必ず将来に対して開発余力をもった、未開発地を残した形での開発を考えていくべきではないかというふうに考えるわけです。そういう融通性に富んだ自治体職員、実態的に物事を考えることのできる自治体職員というものの能力が、これから先は要求されるのではなかろうかと思うわけです。
  もう一つ余談ですが、なぜ、そういう形で歴史の教訓があるかということです。平安時代の街づくりは、今日考えても驚くほど計画性に富んでいるわけです。道路が一つずつあれば一丁目、二丁目、一番、二番と、すべて番号で物事を考える。平安京の街に全部番号をふって、ブロックで分けてある。番号とブロックで、縦の一番、横の三番というたら、ビシャッと場所がわかる。そういう意味では、いま考えられる以上に合理的につくられている。しかし、それは日ならずして全部住民によってつくり替えられていく。道路にはそれぞれ名称がついていきます。合理的に画一化することは行政的には一番便利がいいのですけれども、住む人間が定着してくると、その地域、その地域の独自の顔、個性を持ってくる。個性を持ってくると、個性に見合う名称がつけられる。そうなると結局行政がつけた名称が克服されて、個性がある名称に変わってくる。そういう意味で、長いスパンで見ればあまりに合理的にやり過ぎることも、やはりつくり替えられていくことになってくるわけです。京都については、そういうあたりが、非常に参考になってこようかと思います。

     自治体職員に問われる能力

 自治体職員の能力を別の面から申し上げますと、参考までにちょっとお配りさせていただいた資料の「任意行政と人材養成」という文章があります。これは七、八年前に書いたものですが、役所の人間、役所の仕事がどういうことで決まっていくかということです。これは皆さん方には釈迦に説法ですが、役人というのは、まず法律にたけております。これが一番です。そういうことから、仕事はまず法律に根拠があることが第一条件です。次には、法律に準拠する、国のそれなりの指導に基づくもの。それと表裏一体の問題として補助金がついているもの。三番目に首長の公約がある。それから住民要求として出されたもの。それ以外のことというのは、いくら必要でも、行政施策としてはなかなかのぼってこないということになるわけです。
 ですから、有能な役人は、いま言いました順序で物事が考えられる、それにたけている者が有能である。市役所から一歩外に出て、市民レベルの感覚が高ければ高いほど、かえって役所の中では受入れられてこない。これは革新自治体であろうと保守自治体であろうと、ある程度長期になれば同じことになってきます。そうすると、役所の仕組みからなかなか役人は社会問題、外に強い人材が養成しにくいシステムになる。だから、どうしても社会に対して手遅れになってくるわけです。  しかし、これからの自治体職員は、社会変化に常に即応していくことが必要となってきます。そのため社会状況を自らの目や耳で確かめ、社会状況を正確に把握して、そこから行政課題を見出し、その行政課題から施策をつくり出す、こういうコースで問題を考えることのできる人間が要求されるようになります。これは、「現実から行政課題を汲み出す能力」ということになります。あらかじめ何かがあるのではなくして、地域社会、都市社会を実際の目で見る中から帰納法的に、結果として行政施策を生み出していく能力が、これからは要求されてくるのではないかと思います。  これはもちろん現在でも必要なことですけれども、結局はハードな施策からソフトな施策へ、あるいはスクラップ・アンド・ビルドということで再開発をやっていくときに、サラ地型の再開発でなくなった段階では、やはりそういう社会状況に対応し得る市役所をつくらなければならない。そういうことからすれば、そういう社会状況から市役所の課題を見出していく人材を、自治体職員がつくり出していかなければならないのではないか。
 巷間いわれていますように、コンピュータが駆使されていく中で、単純な仕事はもう事務屋としてはいらんといわれるような中で、そういうものを越えた職員が必要になってくるということです。いってみれば、都市行政の専門家になるということです。これは民間の企業では養成できない。都市というものの総体から課題を見出していくような専門家が必要になってくるだろうし、これはまた可能ではないかと思います。
 同時に、これは行政のテクノクラート化、技術者化、そういうことになるわけですね。いまの我々はまだ保守革新の対立の中で、えてして政治的価値感を強くもちます。しかし役人というのは本来自治総体、住民総体を問題にすることであって、直接的に政治を問題にするわけではありません。我々がいま考えています政治とは、やはり政党を核にしているわけですが、この政治そのものが、二一世紀になると変わってくるんではないかということも考えられます。政治というのは、政党を過度に意識したものではなしに、もう一歩掘り下げていきますと、結局、多様な市民の多様な要求、多様な市民の利害を、その地域ごとに集約して利害調整をはかっていくことが政治ではないかと考えられるわけです。政治はもっと合理的なものでなければならない。政党エゴをぶつけていくものではなくて、市民の要求を集約していく作業が実は政治なんだ。そういう意味で、行政そのものは実は政治の中の一過程であり、そのことを担う自治体というものも政治の中の、ある意味で最後的な過程でなければならない。市民の利害を調整し、統一していく、実現していくことが、自治体の仕事ではないのだろうかということです。
 そうしますと、職員はそれを担うわけですから、政治的に、政党セクト的に何らかの価値意識を持ち、それを生かすためにあるのではなく、市民の利害をどう調整していくかという技術者として我々はあるということが、二十一世紀の政治であると同時に、それを担う我々の仕事ではなかろうか。これが二十一世紀を通して、我々が生き残っていく条件になるのではないかというふうに考えます。  

 

  結びにかえて
    −地域における自由・平等・民主主義の発達

 ということで、時間がちょっとオーバーしましたので、最後にまたご質問の中で申し上げたいと思います。結びの言葉をちょっと格好をつけさしていただければ、一貫したテーマを二十世紀から二十一世紀にかけて考えるということになれば、自由・平等・民主主義の発達、きわめて抽象的ですが、これを地域レベルでどう考えていくか。模倣ではなしに、その地域、地域の独創的な発想でどう考え、発達させていくかということが、つまるところ自治体に課せられてくるし、それを担う自治体職員に課せられてくるということになるのではないでしょうか。ですから、現状の開発型の都市で、ハードプランニング中心の都市行政として考えていく限り、二十一世紀の我々は非常にみじめなことになっていくのではないか。非常に政治的に争うた時代もありましたけれども、二十一世紀はもうちょっと腰を落とした中で、政治というものをもう少し合理的に考え、市民の政治を近代的な利害関係に置き換えて、それを調整し、実現していく行政のプロが自治体職員であるというふうな形での考え方をつくっていかなくてはいけないのではないかということを、集約的な問題提起にさしていただきたいと思います。二十一世紀ということですので、ちょっと抽象的なことを問題にさせていただきました。どうもありがとうございました。 (拍手)


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