孫・嫁・家内に「ザコバ」て何か知ってるか、と尋ねてみた。孫はたちどころに「テレビに出てくるオッチャン」ときた。落語家のざこば師匠のことである。嫁も家内もそれに同意見であったが、わたしの様子をみていて気がついたらしく、「雑魚のことですか」と訂正した。 「大坂の魚市場や。東京の築地みたいなもんや」と説明してやった。悲しいことに「築地」を引き合いに出さないと分かってもらえない。嫁は「ああ、魚河岸のことですね」と補足した。大阪人でありながら、「魚河岸」が分かっていて「雑喉場」を知らないのはなんたることか。 |
||
![]() |
||
そうはいうものの、落語のなかで雑喉場が顔を見せるのは、わたしの知るかぎり、つぎの一節だけである。 |
||
伊勢参りの帰り、大津の宿までやってきた二人連れ。食事の献立はいかように、と気遣う番頭に、この二人は大層なことを言い放つ。 |
||
「ご馳走(ゴッツオ)てな言葉は、伊賀や大和の薬売りに云うたれ。わしら、大坂の人間やで。大坂は食い倒れちゅうねん。旨いもんは大坂で喰い飽いてるわい。大坂の雑喉場へ来てみ。活きのええ魚がずらーっと並んどるぞ。朝トレトレの鯛を手鈎(テカギ)でひっかけて、鱗をバリバリとおこして、三枚におろす、ぶつ切りにしたぁんのを、山葵(ワサビ)のぶっかけで飯喰うてみ、翌くる日の朝、糞が涙流して出てきよるで、ほんま」 | ||
![]() |
||
摂津名所図会にある雑喉場の状景である。二挺艪の舟で勢いよく魚が運ばれてくる。浜小屋の前は到着した舟でぎっしりである。いましも浜小屋に、大きな鮪を四人がかりで担いで運び入れようとしている。 |
||
![]() |
||
この絵は、競り落としの情景である。右頁中段に上半身裸でねじりはちまきの男が、篭に入れたタコを示している。その周りを囲んだ競り人が肩と肩をぶっつけながら、競って値段をつけている。沸き立つような活気でムンムンしているのが伝わってくる。 |
||
![]() その雑喉場跡を探しに出かけた。地下鉄阿波座駅の北西にそれはあった。 マンションに付属する幼児の遊び場みたいな空間の横である。モニュメントは立派だが、なにしろ場所が悪い。周辺を探し回らないと、見つけられないだろうと思う。 地図の黒矢印が雑喉場跡の正しい位置。 「雑喉場魚市跡」とあるのは間違っている。 赤矢印が靱・永代浜跡。 水色矢印は地下鉄阿波座駅。 地図のブルーの書き込みは、往時の水路。いまは埋め立てられてしまった。 |
||
![]() 木津川橋の袂に、『旧雑喉場橋』の欄干が保存されている。ガス燈の柱が昔を偲ばせる。 |
||
[靱(ウツボ)] |
||
大坂には雑喉場と並ぶ重要な市場があった。靱の海産市である。塩干魚、鰹節、昆布、海苔などを扱う問屋が靱に集まっていた。経済的には雑喉場よりも影響力が大きく、ここで決められる値段が全国的な標準価格になった。干鰯(ホシカ)に至っては、大坂商人の資本によって独占支配された。 |
||
![]() |
||
かますに入ってる干魚が無数に陸揚げされている。右頁には鮮魚らしいのも見える。思うに、鰹が水揚げされ、鰹節の製造元へ送られるのだろう。 説明文にはこう記してある。 「干魚は北国より積み来たり、この問丸(=問屋)にて市を立つる。これをまた諸国へ商ひ、農家の手に渡って細末とし、灰に合せ、田畑の養ひとす」 農業が商品経済に組み込まれ、ことに綿作が普及すると、干鰯はそれに欠かせぬ肥料となった。その集散には莫大な資本が要り、ついには大坂商人が全国の干鰯市場を独占支配するに至った。 |
||
![]() 驚くことに、靱の商人は自らの力で運河を掘削した。上図に描かれた水路がそれである。彼らは、陸揚げ場を「永代浜」と称した。 写真は、昭和になってから、彼らの子孫が先祖の心意気を偲んで建てたものである。 |
||
![]() これは住吉大社に「うつぼ干魚仲間」が奉献した常夜灯である。他を圧する見上げるような堂々たる石灯篭である。 彼らの強大な経済力を見せつけられる。 住吉大社は、古来、海の神さまとされてきた。航海の無事を祈って奉納されたものである。 |