和光寺


 大阪人は「あみだ池」と聞いただけで、「ああ、あのお寺やな」とすぐに分かる。逆に「和光寺」と正式な山号を云うと、「そんなお寺は知りまへんな」といなされてしまう。現に「あみだ池筋」というのがあるが「和光寺筋」というのはない。

 和光寺は、地下鉄千日前線西長堀駅から東へ歩いてすぐのところである。
 地図に「新町」「堀江」とあるが、戦前までは粋な姿の芸者さんが歩いていた色町である。そのせいでもあるまいが、和光寺は昔から尼寺であった。
 『あみだ池』は上方落語の古典として、米朝や春団治をはじめとして多くの噺家によって高座にのせられている。噺のなかに『過ぎし日露の戦いに、私の夫・山本大尉は胸に一発の銃弾をうけ、名誉の戦死を遂げられた』という一節がある。米朝師匠によれば、この噺は明治四〇年ごろに書かれたものらしい。いまや立派な古典になった。

 町内の若い者が兄貴分と無駄話をしている。
「……。今時の若い者は新聞ぐらい読まんとあかんで」
「わたいかて、新聞ぐらい読んでまっせ。堀江で火事があったんも、汽車が転覆して十三人も死んだとか、うどんが二銭に値上げしたんも知ってまっせ」
「お前、それいつの事や。もう何年も前のことと違うか」
「そやかて、今朝もその新聞、読んで来ましたんや」
「どこで」
「便所のなかで。長屋の便所の壁に穴があいてるんで、新聞紙で貼ったある。それ、読んでま。もう、全部、覚えてしもた」
「おいおい、ええかいな。新聞いうたら、毎日、新しいのんを読むのが値打ちや。お前ら、世間のこと、なにも知れへんのは、新聞読めへんからや」
「新聞みたいなもん読まんでも、わたいら、世間のことはなんでも分かってま」「ほう。そんなら尋ねんが、角の米屋に賊が入って、おやっさんが切られて死んだこと、知ってるか」
「ええっ!米屋のおやっさん、死んだ!ちっとも知らなんだ」

 兄貴分の云うことには、米屋のお親爺は剣術の心得がある。強盗が忍び込んだのをとがめて、自慢の剣術でやっつけようとした。強盗も必死で立ち向かい、勢いのあまり、米屋の首を切り落として、そこにあった糠箱の中へ放り込んで、逃走してしまい、行方知れずになっている。
「へえっ!そんなエライことがあったて、ちっとも知らなんだ」
「知らんはずや。ヌカにクビや」
「?!?!」
 見事に騙されたと気がついたのも後の祭り。彼は口惜しくてならない。誰かに、同じ話をして、うさをはらそうと思いつく。

「ごめん」
「なんや、喜ィ公か。ま、寄っていき」
「あのな。角の米屋に賊が入ったこと知ってなはるか…(と、自分がかつがれた話をする)」
「何に!?お前、いま、何いうた?米屋がどうしたちゅうねん」
事態は、喜ィ公が思いもしなかったとんでもない方向に進んだ。
「よう知らしてくれた。ちっとも知らなんだ。よう知らせてくれた。米屋いうのは、嬶の兄貴やねん。えらいことが出来てしもたな。どないしたらええやろ」
「……?!」
「おい、嬶ぁ、びっくりしたらあかんで。落ち着きや。米屋の兄さんが死んだんやて。お前、すぐに米屋へ行ってお悔やみ云うてこい。わしは郵便局へ走って、田舎へ電報打ってくる」
「……」
 思いもつかなかった大変な展開に、喜ィ公は大慌てする。
「待った、待ったぁ、電報打つの、待ったぁ。姐さん、米屋へ行かんでもよろし。米屋の大将、げんきにしてはりま」
「何ィ、元気やと?首、斬られて元気とはどういうこっちゃね」

 喜ィ公はひたすら平謝りに謝って、ようやくその場が収まる。
  
[和光寺]

 和光寺の門は大きく開け放たれているのだが、門前の鉄柵が固く閉じられている。境内へ入ろうとしても入れない。表でうろうろしていると、本堂から一人の男が出てきた。手真似で「どこから入ればよいのか?」と尋ねた。男は、大きく手をまわして「横の道に迂回しなさい」というジェスチャーをした。なるほど、横には車でも通れるような入口があった。
 男は親切にもわたしが入ってくるのを待ち受けていた。てっきり、お寺の関係者と思って彼に「寺の由緒書はどこで頂けるか」と問うた。彼はお寺の人ではなかった。やけに馴れなれしく、天候の話とか何処から来たのか、などと話しかけてきた。彼は近所に住み、時折、散歩の途中でお詣りに立ち寄るのだという。
 彼は、わたしの肩を抱くような具合で近づき、挨拶のつもりなのだろうか、わたしの尻ポケットのところを軽く叩いた。「おかしなおっさんやな」と思ったが、その時は適当にはぐらかしておいた。

 本堂は堂々たる伽藍である。付属の建物も多く、どうやら信者の集会所もあるみたいだった。とにかく、大きなお寺である。

 本堂の横に池があり、中央に朱塗りのお堂がある。お堂へは石橋が架かっている。

 高い石碑が立っていて、立派な字で、
『阿弥陀池 三国伝来 信州善光寺如来 出現之霊池』
と彫ってある。

 石橋の手すりが、なんとも粋な造りになっている。見ると、寄進者が新町廓の楼主になっている。くずし方が見事すぎて、よく読めないが遊女の名前もあるらしい。墓地には不幸な一生だった遊女の墓もあるのかもしれない。

 和光寺の由来はおそろしく古い。遠く飛鳥時代にまで遡る。
 日本に仏教が伝来したとき、新しい思想に傾倒した進歩派と、旧来の神々を祀り続けようとする保守派に二分された。進歩派は聖徳太子であり、保守派は物部守屋である。両派の対立は武力衝突にまで発展した。この戦いは、じつは政治権力の争奪戦だった。聖徳太子は勝った。負けた物部守屋は。腹いせに、百済から献上された阿弥陀像を池に放り込んだ。
 それから何年も経った。本田善光という男がこの池の横を通りかかった。見ると、池の底が光り輝いている。驚いて拾い上げると、それは金色に輝く小さな阿弥陀像だった。
「ヨシミツ。わしを拾い上げてくれた礼を言うぞ。汝の親切を見込んで頼みたいことがある。このわしを、信州とやらいう処へ運んではくれぬか」
 尊い仏様のお告げである。善光は、阿弥陀さまを背負って信州を目指して走った。不思議なことに、夜になると、小さかった阿弥陀さまが大きくなり、昼間の代わりに仏さまが善光を背負って駈けてくださった。
 長野の地までやって来た。背中から声がした。「ヨシミツ。わしはこの土地が気に入った。ここで住もうと思う。ここで降ろしてくれぬか」
 善光は、そこに祠を建て、阿弥陀さまをお祀りした。これが信州・善光寺の由来である。



 あの不審な男に話を戻そう。彼はいつしかわたしの傍を離れたのだが、池のぐるりを囲んでいる墓場の中をうろうろしては、遠くからわたしの様子をうかがっている。庫裡の横の扉を開けようとして失敗し、こちらを見ててれ笑いを浮かべた。なんだか気味が悪い。さっき、背中を叩くフリをしたのは、尻ポケットの具合を探っていたのに違いない。ひょっとして彼は賽銭泥棒なのかも知れない。そこへ都合よくわたしがやって来たものだから、狙いをこちらに変えたのかも知れない。そう思うと、よけいに気味が悪くなってきて、早々にお寺を辞した。


[和光寺周辺の史跡]

 某月某日。調べものが思いの外早く終わったので、市立中央図書館を辞して、近くの史跡巡りをした。

 まずこの図書館の敷地自体が史跡である。
 江戸中期の大坂の文人・木村兼葭堂(通称坪井屋吉右衛門)の屋敷跡である。兼葭堂は、大坂というより当時の日本を代表する文化人である。彼の屋敷には、文人墨客がひっきりなしに訪問し逗留した。当時の一大文化サロンであった。
 彼の友人には、本居宣長・上田秋成・蕪村・野呂介石などなど、当時の錚々たる芸術家・学者・文化人が名をつらねている。
 図書館の裏手に「土佐稲荷」がある。土佐稲荷は次に紹介する落語『稲荷俥』にチラッと登場する。

 土佐稲荷は昔から夜桜の名所だった。夕刻にもなると、あちこちの雪洞に灯りがともり、市内の遠くからも花見客が訪れた。
 幼い頃、わたしも連れてもらった記憶がある。ただ、わたしは桜よりも夜店が並んでいたことしか覚えていない。

 社殿は、赤手拭稲荷とくらべて数段も上の立派な建築である。
 それもそのはず、この神社は三菱グループ企業がこぞって賛助しているのである。
 この地に土佐藩の下屋敷があった。下級武士だった岩崎弥太郎は、早くから政商の道を歩んでいた。明治維新の後、土佐藩がかかえていた借金を肩代わりし、その代償に藩の汽船二艘の払い下げを受けた。これが後の日本郵船に発展し、さらに三菱財閥に成長した。
 土佐稲荷は、もとはといえば土佐藩の守護神として祀られていたのだが、この後は三菱グループの尊崇を集めるようになった。

 境内および周囲の石垣には、わが国のトップカンパニーである三菱グループの社名が刻まれている。

 この石碑は明治初期のものだが、早くも三菱のスリー・ダイヤのマークが刻んである。

[おまけ・新町廓]


 和光寺から北へ行くと新町である。江戸の吉原・京の島原と並ぶ幕府公認の廓があった。
 上方落語を語るとき、新町の廓は欠かせない。井原西鶴や近松門左衛門の作品の舞台にもなっている。上方歌舞伎の大名題の「夕霧・伊左右衛門」で知られた夕霧太夫は、ここ新町の吉田屋の名妓であった。

 地図の矢印が「新町公園」である。その北西隅に「九軒桜」の石碑がある。
 米朝師匠によれば、九軒町には格式を誇る大店が軒を連ねていた。

 写真の左に「大阪厚生年金会館」がある。開演を待つ大勢の若者がたむろしていた。
 後で調べたら、わたしがシャッターを押した場所が、夕霧・伊左衛門で有名な「吉田屋」の跡であることが分かった。

 新町の廓では、桜の季節になると、花魁道中がもよおされ、それを目当ての見物衆が押しかけた。ことに「新町九軒桜」が有名で、夜もあかあかと燭台が灯され、人々のざわめきが朝まで続いたという。

 俳人・千代女が一句、
『だまされて 来てまことなり 初さくら』

写真左側の古びた石碑が、千代女の句碑

 この句碑は、新町廓を描いた浮世絵にも描かれている。

 下図は、摂津名所図会にある九軒町の賑わいである。



 初代中村雁治郎は、この一角に生まれた。
 生家跡は洒落たレストランになっているが、その敷地の片隅に「誕生の地」の石碑が建っている。


 米朝師匠の本には、新町のお茶屋の写真があり、芸者さんが料亭の玄関を入るところが写っていた。
 あれから四十年の歳月が流れた。現在の新町には往時の華やかな面影は失われている。
 この料亭が、新町最後の店ではなかろうか。

 近くの花屋さんで話を聞いた。
「一軒だけ、まだ営業している料理屋が残ってます。そやけど、肝心の芸者が年寄りばかりになって、お座敷を務めるのが大儀になった、と云うてます」
「バブルがはじける前まではそりゃ華やかでした。最盛期は芸者も百人ぐらいいてたのと違いますか。わしらの若いときですよって、正確なことは分かりまへんが。…。サントリーの社長がジャガーに乗って来てはったのを覚えてます。それが羨ましくて、涎ながしながら見てました。いまだにジャガーはおろか、クラウンにも手が出まへんわ」


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