稲荷俥


 『稲荷俥』という噺が好きである。明治中期から大正へかけての時代色がよく出ていて好きな噺のひとつである。また、実在する場所とか店屋の名前が出てきて、なんとも懐かしい雰囲気につつまれる。その味わいもうれしい。
 噺の冒頭に、高津宮付近の夜が描写される。時候は時雨模様の初冬のころだろうか。すごく季節感があって、聴いていてその雰囲気に引き込まれてしまう。

 高津神社の表門のところに、俥夫がよう客待ちしてたもんでございます。
 ちょうど時刻は夜の九時を回ったかなぁというぐらいで、いまにも雨が降りそうな、どんよりした空模様で、月も星もございません。
 通りがかりましたのが、年の頃なら五十を少し過ぎたかというぐらいの、金縁の眼鏡をかけて、茶色の中折帽子をかむって、黒の二重回しのマント姿の、その時分は、まあ、立派な紳士でございました。
 『山吹』という饂飩屋(ウドンヤ)の灯りだけが、ぼーっと見えてるいうような。
 俥夫が蹴込みに腰掛けて、客待ちをしております。

 金縁の眼鏡をかけて、茶色の中折帽子をかぶって、黒の二重回しのマント姿の紳士がやってきた。「金縁眼鏡に中折帽」、それが当時に紳士に共通する服装だった。「黒の二重回しのマント」、これも懐かしい。襟にラッコの毛皮でもあると、すこぶる上級に見えた。あの頃は、男は皆、同じようないでたちだった。幼かったぼくが、初詣に連れてもらったとき、参道を行く誰彼が同じ姿なので、父親と他人さんの見分けがつかなくなって、よその小父さんの手にぶら下がってしまったことがあった。
 『山吹』といううどん屋は実在していた。高津さんの坂を下った松屋町(マッチャマチ)の角あたりにあったらしい。高津さんの表門からだと、うどん屋にぶら下がっている提灯が、ほんのりと見えたことだろう。
 金縁眼鏡で黒のトンビ姿の紳士は、俥夫に「産湯までやってくれ」と命じる。産湯と聞いて俥夫は尻込みする。

「産湯?産湯やったら、堪忍しとくなはれ」
「あっちは方角でも悪いのんか」
「いえ、そやおまへん」
「そうやったら、なんで行けへんね」
「怖いでんね」
「怖い?ははぁ、あの辺に追い剥ぎが出るちゅう噂でもあるねんな」「いいえ、盗人なんか怖いことおまへん。いざとなったら、なにもかも放っといて逃げたらしまいですよって」
「ほたら、何が怖いねん」
「産湯いうたら、お稲荷さんの近所だっしゃろ。あの辺、悪い狐が出よりまんね」
「俥屋してて、狐が怖いのんか」
「俥屋かて牛乳屋かて、怖いもんは怖いでんがな。仲間も、ぎょうさん、えらい目に遭うとりまんね」
「そんなことないがなぁ。わしは、あの辺に古うから住んでる。狐や狸は親戚みたいなもんや」
「あんさんはそうでっしゃろけど、わては、そやおまへん。産湯へ行くのは堪忍しとくなはれ」
  結局、お金で話がついた。
「えっ!三十銭もくれはりまんのか。こんな晩、二十銭でもお金になったら有り難いのに、三十銭やったら上出来だ。三十銭。行かしてもらいま。そのかわり、産湯楼まででっせ。お稲荷さんの中へ入れ、云われても、それはあきまへんで」。
 話がついて俥は東へ向けて走り出した。道々、俥夫が問わず語りに身の上話をする。高津四番町の長屋住まいのこと、自分の稼ぎだけでは心許ないので、女房は、シャツのボタン付けや帽子のリボン付けの内職をしてる、などなど。
「うっ。なんや、どないしたんや。急に俥を停めたりして」
「旦那。あの黒々してるの、産湯の森でんな。すんまへんけど、ここから歩いてもらえまへんか」
「どないしてん」
「ここからが怖い場所でんね」
「お前、えらい怖がりやなぁ」
「……」
「……。おい。俥屋。わいが、ここで目ぇをギョロっとむいたら、お前、びっくりするやろな」
「頼むよってに、怖がらさんといておくんなはれ」
「いや、怖がらんでもよい。わしゃ人間やない。わしは産湯稲荷の使いの者や。お狐さんじゃ。わしを乗せてたら誰も悪さをせえへん」
「それもそやな。……。旦那、産湯楼につきましたで」
「よし、ご苦労かけたな。しかし、俥屋、お前、稲荷の使者から三十銭とるつもりか」
「もう、三十銭なんか、どうでもよろしま。わて、早よ、帰りたい」「よし。わしは、ここで降りる。降りたら、正体をあらわす。もし、わしの姿をちょっとでも見たら、たちまち、目ぇ、潰れるぞ」
「へい、わかりました。しっかり目ぇつぶってま」
「お前は正直な奴や。それを愛でて、近々、褒美を下してやる。楽しみに待っておれ」
 くだんの紳士、いや、産湯稲荷のお使いは姿を消した。俥夫は三十銭を損したものの、命からがら逃げ帰った。帰宅して、女房にこんな怖い目にあったと話した。女房が俥の後始末をしてくれた。
 俥のなかに財布が落ちていた。見ると、なかに百五十円もの大金が入っていた。夫婦は腰を抜かさんばかりに驚いた。俥夫が思い出した。紳士が降りるときに、「近々、福を授けてやる」と云ったのを。「眷族さまが、早速に福を授けて下された。これを自分とこで独り占めするのは勿体ない」と、長屋の連中を呼んで、飲めや歌えのドンチャン騒ぎになった。……。

[産湯稲荷]



 JR鶴橋駅で下車する。駅から一歩出ると、そこは全国的に有名になった焼肉街である。

 JR鶴橋駅で下車する。駅から一歩出ると、そこは全国的に有名になった焼肉街である。この一帯は戦後の混乱期に闇市だった。区画整理もないまま現在に至ったので、狭い路地が交錯し、大小の店々が入り組んでいる。そこへ、肉の焦げる匂い、タレの匂い、アルコールの匂いがごちゃ混ぜになって、まとわりつくのだから、なんとも形容しがたい街になっている。
 加えて、呼び込みの声、チラシを配る声、ガイドブックを手にした若い女性の笑い声などなどが交錯している。さらに、青い目の観光客まで右往左往しているのだから、街は活気に満ちている。
 下味原交差点を渡ると、産湯稲荷へは十分とかからない。


 いまの下味原交差点付近に、大正の頃まで大きな池があった。地図に「古味原池」とあるのがそれである。

 その下に、四角枠で「ウブユ○」と記してある。その横に木立があって、赤い枠に「ウブユ イナリ ホコラ」と読める。

その斜め右下に「ここ、俗に桃山と云」とある。いまの「大阪赤十字病院」の辺りである。

  上町台地の東斜面一帯は桃畑であった。遠くに生駒連山を眺め、春には桃の花が咲きほこった。緑が乏しい大坂の町人にとって、このあたりは手近な行楽地だった。花見どきは葭簀ばりの茶店も出た。

 味原池の畔に、噺に出てくる『産湯楼』があった。産湯楼は著名な料亭だった。江戸末期の記録に産湯楼が登場する。ご存じのように、大坂には諸藩の蔵屋敷があり、藩の経済をとりしきる武士が常駐していたが、産湯楼は彼らの情報交換の場とか、両替商人(金融業)との交渉の場として、よく利用されたらしい。


 文久三年(1863)の地図をみると、この付近は「小橋(オバセ)村」と呼ばれていた。小橋村はとても歴史が古く、伝承をそのまま信用すると神代の昔にまで遡る。

 なお、この地図には「産湯清水」とあるが「産湯稲荷」は記入されていない。お稲荷さんはそんなに古い社ではなかったのである。

 村に伝わる伝承は以下のようなものである。
 この地は、大国主命の御子の「味□高彦根命」が、高天原から天降り給うた霊地である。味□高彦根命の十三代目のご子孫に大小橋命と申すお方がおられる。大小橋命のお誕生の時、ここの玉井坂に湧く水を産湯とされた。大小橋命が住まわれたから小橋村になった。玉井坂の清水を産湯清水というようになった。

 「この水は飲めません」との注意書きがあったが、ひと口含んでみた。冷たく、クセのない美味しい清水だった。

 産湯清水から一段高いところに、産湯稲荷が鎮座している。多くの信者さんがいるとみえて、色とりどりの幟が奉納されている。神前には怖い目つきの狐がにらみつけている。

 お社の横に、いくつもの石碑が置いてある。台地の斜面には、狐や狸の巣穴がたくさんあったらしい。その幾つかがお稲荷さんとして祀られた。開発が進んで人家が建ち並んでくると、それらのお稲荷さんは、この地に宿替えして来られた。それがこの写真である。

 安政年間(1854-59)に出版された『街談文々集要』(石塚豊芥子著)に面白い記事がある。
 『近くの村の知恵者が、この辺りにある狐穴を利用して、金儲けを企んだ。桃の花を愛でようと集まる人々が目当てだった。藪の中の狐穴を広げ、扉を造りつけ、鳥居を立てて祠をまつり、さらに「今年は神宝をお披露目する」などと宣伝した。
 座敷にあげて、そこから狐穴を拝ませ、横に坑道を掘り抜き、六文の賽銭をとって坑道に入らせた。
 野遊びの人は多かった。小屋がけの煮売り屋が出るほどに賑わった。しかし、この目論見は失敗に終わった。煮売り屋は大損したとのことである』
 どうやら、これが産湯稲荷のそもそもの始まりのようである。せっかく掘ったのだから、奥になにか特別な仕掛けをするとかすれば、そしてもっと上手に宣伝したら、煮売り屋も赤字を出さずにすんだのかも知れない。

[高津四番町]

「わたいの家は高津四番町でんね。高津橋の北詰、あそこに大浦ていう古うからの大きな米屋がありま。その前の路地を入ったとこです。「俥夫の梅吉」いうて尋ねてもろたら誰でも知ってま。遠いとこでも安う走りまっさかい、覚えといておくんなはれ」

 わたしは、ご丁寧にも、その高津四番町へ行ってきた。うろうろ探したがそれらしい所は見つからない。うまいぐあいに不動産屋があったので尋ねると、「そんな昔のことは知りませんけど、高津は三丁目までで、高津四丁目というのはありません」とのことだった。

 江戸時代、この辺に幕府直轄の米蔵があった。そこへ米を運ぶために「高津入堀」が掘られた。後に米蔵は難波へ移転したが、入堀だけは戦後まで残っていた。俥夫の梅吉が住んでいたという高津橋は、その堀割に架かっていた。いま、堀割は埋め立てられて道路になっている。探しやすい。

黒の矢印が高津橋。
ブルーの矢印が高津神社。正式には高津宮という。
高津橋の西に、南へ延びているのは堺筋(住吉街道)。
 その西は一面に田圃が広がっていた。左隅に「難波御蔵」とあるのが、いまの「なんばパークス」付近になる。 

 大浦の米屋も、その前の路地もとっくになくなっている。ごくありきたりの住宅や事業所があるだけだった。

 写真は、あの辺にただ一つ残っていた路地である。両側は押し合うようなアパートである。この建物も早晩なくなるにちがいない。


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