つぼ善

 大坂は、もともと淀川の河口の湿地を埋め立てて広がった。だからきれいな水の出る井戸はごく限られていた。町の人々は水屋が売り歩くのを買い求めた。上水道が敷かれるまでは、水屋の売り声は町から町へとひびいた。わたしの祖父母も水屋の売り声を覚えていると云っていた。したがって、どこの家でも水を蓄える壺は必需品だった。『つぼ算』の背景にはこうした事情があった。



 喜六の家の一荷入りの水壺が割れてしまった。嫁はんが「この際、ひと回り大きい二荷入りの壺が欲しい」という。瀬戸物町(セトモンチョウ)へ買いに行くことになった。嫁はんは付け加えてこう云った。「あの徳さんは悪賢いだけに、買い物が上手や。徳さんをうまくおだてて、一緒に行ってもらいなはれ」と云う。なるほど、徳さんはすこぶる上手だった。瀬戸物屋の番頭をうまくたらし込んで、安く買うのに成功した。
 番頭の言い値は一荷入りのが三円五〇銭だった。徳さんは、強引に、
「三円に負けとき。五〇銭も負けるのはつらいやろけど、後を楽しみにしとき。こいつの嫁はんいうのんが、長屋で一番の喋りや。それが『あの瀬戸物屋は親切や。三円五〇銭のんを三円にしてくれはった。皆も、瀬戸物を買うのやったら、あそこの瀬戸物屋にしときや』。そういう具合にシュッ、シュッ、シューと触れて廻りよる。あの嫁はんの触れはすごいで、そのうちに、大坂中に知れ渡って、そらもう、押すな押すなの繁昌になるのん、間違いなしや。俺が請け負うとく」
「あんさんの買い物上手はかなわんな。よろしま。三円にしまひょ。後の楽しみのシュッ、シュッ、シューいうのんを忘れんといておくんなはれや」
 番頭はうまくのせられて、一荷入りの壺を五〇銭の値引きで売る。
 壺を担いだ二人は、辻を四回曲がって、あの瀬戸物屋へ戻ってくる。
 徳さんの弁舌が始まる。

「あ、いまのお客さん、なんぞ忘れ物でも」
「こんな阿呆はどもならんわ。あのな、番頭。こいつの云うには二荷入りの壺が欲しかったんやて」
「二荷入りがご要り用でしたんかいな。二荷要りやったら後ろに並べておます」
「値段はいくらやな」
「へい、一荷入りの倍でおます。一荷が三円五〇銭ですよってに、二荷は七円」
「さっき、これ三円で買うたな」
「あっ、あっ、あっ。あんさん、上手やなぁ。七円のが六円に負けんならん。しょうおまへん。六円にしときま。けどなんだっせ。後のシュッ、シュッ、シューちゅうのをお願いしまっせ」
「分かってるがな。…。それでな、番頭。この一荷入りの壺やけど、持って帰ってもええねんけど、なんぼかで下取りしてもらいたい」
「いま買うてもろたばっかりですよって、三円で引き取らせてもらいま」
「さっき、三円、渡したな」
「へえ、まだ此処に置いたままです」
「ほなら、下取りに取ってくれる三円の壺と、ここにある三円で、ちょうど六円になるな。勘定が合うな。そんなら、この二荷入りのん、貰うていくで」
「へい、へい」
「ちょっとお戻りを、ちょっと戻っておくれやす。なんや勘定が……」
「勘定が合わん?勘定は肝心や。しっかりしてかんと、どんならん。どうしたんちゅうね」
「いや、なんでおます。二荷入りやったら六円でおますねんけど、ここ見たら三円しかおまへんね」
「金が三円、あるねんやろ」
「へえ、へえ。ここに三円、ちゃんとあります」
「この壺、三円で引き取ってくれたんと違うのんかい?」
「さよで。三円で引き取らしてもらいました」
「ほなら、ちゃんと勘定、合うやないか。おまはん、ソロバンおいてみ」
「ソロバンまでおかんでも、これくらいの勘定、…」
「ま、俺の云うようにソロバン、置いてみ、ちゅうねん」
「金が三円あるわな。ソロバンに三円入れてみ」
「三円。へい、入れました」
「この一荷入りの壺、いつか三円五〇銭で売れるのんとちゃうか。ま、それはええわい。三円の値打ちあるわな。いまは壺やけど、いつか三円になるのんと違うか」
「あ!この壺のこと、ころっと忘れてました。そうでおます。いつかは三円になる壺です」
「そんなら、ソロバンに三円入れてみ。六円になるやないか」
「そこのとこだんね。分かるようで分からんのは。…。おーい、丁稚、大きい方のソロバン、持ってきてぇ。」
「三円と三円で六円。それくらいのソロバン出来へんのんか。お前。何年、番頭してんね」
「ポンポン言いなはんな、ポンポン。わたい、三日前から通じがおまへんね。頭がモヤモヤしてまんね。三円と三円で六円。ここにお金が三円。二荷入りは六円。そない横からポンポン云わんといておくれやす。…。下取りが三円。…。なんやわからんようになった。ええい、その壺、持って行っておくんなはれ」
一荷、二荷というのは、水売りが天秤棒にぶら下げている桶ひとつが一荷。

 こうして文字で読むと、論理の誤りがすぐに分かるが、これが高座で噺家によって語られると、番頭と同様に誤魔化されしまう。話芸とはえらいものだ。

[つぼ善]


 瀬戸物町を歩き回っていて、この看板をみつけた。『つぼ算』の取材にうってつけの店だった。しかし、営業中のお店に、落語の話題みたいな暇事で入るのは気が引ける。うろうろしていたら、薄暗い店の奥で座っているご老体と目があった。思い切って店内に入った。
「落語の『つぼ算』にまつわる話を聞きたくて、やってきました」と正直に挨拶した。

 とっつきにくい頑固者というのが第一印象だった。話の接ぎ穂に困って、とりとめのない質問をして時間稼ぎをしていたのだが、意外なことにそれが彼の心に響いたらしい。これが彼と意気投合するきっかけになったのだから、出会いとは不思議なものである。いったん、うち解けると、頑固一徹の彼の口から、瀬戸物町の歴史の数々が語り出された。

 最盛期は、瀬戸物町を中心にして、北は肥後橋から南は堀江まで、卸問屋・小売り商・窯元の出張所などなど、同業が二百五十軒もあった。
 備前・信楽はいうまでもなく、有田・九谷・益子など遠方の窯元も、ここに支店や出張所を設置した。流行の動向、新技術の探り合い、販路の開拓、それらは大阪へ出てこないと入手できなかった。大阪・瀬戸物町は、情報の中枢であり、商取引の中心だった。
 明治以降、洋風の食生活が浸透するにつけ、洋食器の需要が高まった。海外の窯元は日本市場へ参入するにしても、大阪・瀬戸物町を経由するしか方法はなかった。三越や高島屋などの百貨店も仕入れは瀬戸物町だった。当時の瀬戸物町はそれくらいの勢力があった。

 祖父は十六歳で大阪へ出てきて、腕一つで身代をつくった。祖父は無学だった。独学で勉強し、とくに瀬戸物町の歴史を深く追究した。祖父が収集した膨大な原史料は貴重なものである。祖父の遺産が、戦火で焼失するのをおそれて疎開した。大阪のみならず日本の近代商業史の貴重な史料になるだろう。
 祖父は子供や孫の教育に熱心だった。おかげで、自分は神戸高商(いまの神戸大学)を卒業し、アメリカやイギリスを相手に商売が出来た。

 戦後になって商習慣がごろっと変わった。年々、瀬戸物町の勢威は衰え、ついに現状のように寂れてしまった。戦前の繁栄を知っている者として淋しい限りだ。

 屋号の『つぼ善』が時代遅れであることは承知している。しかし自分としては、祖父が残してくれた暖簾を守りたい。
 店の前へ壺を並べてあるのも、その気持ちからだ。壺を置いていることが『つぼ善』のプライドなのだ。近所の店は、みな時代にマッチした改装を施したが、自分はこの古い瀬戸物屋の姿を守りたい。

 この古風なところがマスコミの注目するところとなり、テレビの撮影にやってくる。はじめのうちは協力してやった。しかし、テレビクルーの尊大な態度が気にくわないので、以後、一切の取材を断っている。彼らは、さも写してやっていると云わんばかりの振る舞いをする。そのくせ、タレントには平身低頭だ。タレントも同様で、カメラが回っているときは営業用の笑顔だが、それが終わると挨拶もせずに行ってしまう。
 そんな話をしている矢先に、東京の雑誌社から取材の電話があった。彼は一応は向こうの話を聞いているようだったが、なにが気に入らなかったのか、「そんなことなら、こっちがお断りです」と、すげなく受話器を置いてしまった。「この電話も、さっきの話と同じだ。やつらは、取材に協力するのが当たり前みたいな態度だ。向こうからお願いされるのだったら分からんでもないが、協力するのは当然という態度がみえみえで、そんな相手には承知できない」と息巻いていた。
 わたしは時間の経つのを忘れて、彼の話に聞き入った。彼の時流におもねない頑固な生き様に敬意を覚えた。

 以上は、つぼ善さんの話を元に、わたしがまとめたものである。誤りがあるとすれば、それはわたしの責任である。


 帰途、この町の氏神である『陶器神社』へ立ち寄った。
 瀬戸物町の最盛期に、同業組合が奉納した陶器の灯篭と、拝殿の格子天井にはめてある絵皿を見るためである。
 素人目にも豪華で素晴らしい逸品だった。


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