この噺では、『食(メシ)の旦那』および『鴻池のご本宅』が登場する。また、地名では、北の新地・十丁目筋・今橋などが出てくる。落語行脚を楽しむ者としては、『莨の火』は見落とせない噺である。 |
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住吉大社の社頭で、駕籠かきが客待ちをしている。そこへ堺の方から上品な老人がやってきた。 服装からして、相当なお金持ちらしい。噺ではそれを次のように描写する。 |
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結城の着物に、博多帯をきりっと締めまして、節織りのぶ厚い羽織を柔らかにはおって、大尽かぶり、風呂敷包みを首に巻いて、白足袋の雪駄ばき、その雪駄の音をチャーラ、チャラとさせまして、こちらへやってきた。 | ||
噺家からこのように説明されても、着物に疎いわたしには、いまいち判りにくいが、詳しい方なら、この表現だけで、相当な上物を着こなす人物だなと、お分かりになるのだろう。 雪駄(草履の一種・風流人が好んで履いた)の音を「チャーラ・チャーラ」と表現しているのが効果的である。 |
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上客が来たと、駕籠かきが老人に愛想笑いしながら、駕籠を勧める。「それでは乗せてもらいましょかな。大坂の町中までやっておくれ」。 |
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老「大坂の名高いお茶屋で、ゆっくり遊ぼうと思うんじゃが、どこが好いじゃろか」 駕「お茶屋でしたら、新町の吉田屋、北の新地では綿富いうのが一流中の一流で」 老「一見でも遊ばしてくれますかいな」 駕「綿富の女中頭を知ってますよって、わたいからそう云いますさかい、大丈夫でおます」 老「そんなら、その綿富とやらへやっとくれ」 |
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駕籠が綿富の玄関先に停まる。駕籠かきが女中頭に耳打ちし、女中頭が手代の伊八に伝える。 伊八、玄関に飛んで出てきて老人をお迎えする。 |
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老「伊八。さっそくで恐縮じゃが、この駕籠かきに一両立て替えておくれかな」 伊「帳場はん、お客さんが一両のお立て替えを言うてはりま」 帳「一両やな。持っていき」 老「これ、駕籠の人。これは駕籠代じゃ。取っといておくれ」 駕「なんです、一両!!。おい、相棒、お礼を申さんかい。いまどき、一両も頂くなんて、なんとお礼を申してよいやら。いや、家の母親が寝付いております。柔らかい布団を買うてやりたいと思いつつ、わてらの稼ぎではそれもならず…。帰ったら、この一両で旨いもんを喰わして、柔らかい布団を買うてやりま」 |
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老「ほう、親孝行、結構やな。ああ、伊八。すまんが、もう二両、立て替えておくれ」 伊「帳場はん」 帳「なんや」 伊「あのう。旦さんが、二両、お立て替え、…」 帳「二両?、…、そうか、…、持っていき」 老「駕籠かきの人。これはあんたにあげるのじゃない。お母はんに美味しいものを食べさせておくれ」 駕「駕籠賃の一両だけでもえらいことやのに、二両も余分に頂戴して…」、(駕籠かき、泣き出す) |
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「部屋はどこじゃな」 「へい。こちらで御座ります。へーい。鶴の間にお通り」 老人はでんと、床の間の前に座ります。お茶が運ばれます。 「さすがに北の綿富。見事なもんじゃな。造りといい、建具といい、立派なもんじゃ。」 「衝立の陰から手やら足やら見えるが、なんじゃいな」 「旦那さんに、えらいものをお見せしました。あれは見習いの子供衆でおます」 「ああ、そうか。遠慮せんとこっちへお入り。」 |
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「おおきに。おおきに」 「可愛いもんやな。こんな小さい時から行儀作法を仕込んでなさる。ええ芸者さんができるはずじゃ。伊八、子供衆は全部で何人かな」 「十人でおます」 「そうか。伊八、すまんが十両、立て替えておくれかな」 |
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伊「(揉み手をしながら)お帳場はん」 帳「なんや」 伊「えっへっへっへっ」 帳「なに笑うてんね」 伊「旦さんが十両のお立て替えを…」 |
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帳「なに、十両、そないに立て替えて大丈夫かいな」 伊「わたいの目に狂いはおまへん。あの旦那はんは大丈夫でおま」 帳「ふうん。…。お前がそう言うなら、…。よっしゃ。…。十両、持っていき」 |
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次に芸者が二十人。 | ||
伊「帳場はん。えっへっへっへっ」 帳「お前が笑うてきたら、ろくなことないで。なんや」 伊「二十両のお立て替え」 帳「二十両も。なんぼなんでも、一見の客にそない立て替えできるかいな」 伊「わたいに免じて、そこのところを」 帳「しゃあないな。もうあかんで。これで終わりやで」 |
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次に幇間衆が三十人。 | ||
伊「帳場はん。えっへっへっへっ」 帳「笑うても、あかんもんはあかんで」 伊「三十両のお立て替え」 帳「アホなこと云うのやないで。えぇ加減にしいや。三十両も立て替えが出来ますかいな」 伊「えっへっへっへっ」 帳「笑うても、あかん、ちゅうのに。…。どうあっても三十両?…。云うとくけど、これで終わりやで、これ以上はもう、あかんで。…。よっしゃ、持っていき」 |
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次に奉公人が四十七人。 | ||
伊「帳場はん。えっへっへっへっ」 帳「もうないで」 伊「えっへっへっへっ」 帳「なんぼ笑うても、あかん。もう無い」 伊「五十両のお立て替え」 帳「ええ加減にせな怒るで、ほんまに。五十両も立て替えられますかいな。旦さんに、こう云うといで『帳場では、手元に御座いまへんので、どうか、ご辛抱のほどを』、そない云うて断っといで」 伊「今度は、わてらが貰いまんね」 帳「なんぼ、おまはんらが貰うにしても、五十両もできるかいな。あかんもんはあかん。お断りしといで」 |
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帳場から立て替えを断れれて、老人は預けておいた風呂敷包みを取り寄せる。 行李の中から、まぶしいほどに輝いている小判がぎっしり。 |
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「伊八。さっき、駕籠屋さんに一両、立て替えてもらいましたな。それでは、二両にして返しましょ。それから、布団を買うお金に二両でしたな。それは四両にして返しましょ。子供衆には十両やったな、それは二十両。芸者衆の二十両は四十両。幇間衆の三十両は六十両」 「そうや。伊八。あんたにはまだやったな。さ、これで幾らになるか知らんが、ま、わしの気持ちじゃ。取っておいとくれ」とつかみ金を渡す。 「小判がまだこんなに残ってるな。持って帰るのも面倒じゃ。これから、小判撒きをしましょ。小判の欲しい人を座敷に呼んでおくれ」 |
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老人は小判をまき散らし、争って拾う連中の大騒ぎを、愉快そうに眺め、 | ||
「ああ、ああ。面白かった。今日は思う存分に遊ばせて貰うた。この次も、今日みたいに気分よく遊ばせとくれ」と、ツイと立ってお帰りになった。 | ||
帳場「あのお客さんは只者とは思えん。伊八。おまはん、あの旦那をつけておいで」と命じる。 伊八が見え隠れについて行くと、老人は、チャーラ、チャラと雪駄の音をさせながら、北の新地から、十丁目筋、それから天神橋を渡って、今橋。北浜を通り過ぎて、鴻池のご本宅へツイと入られた。 伊八「あのお方は誰やろ。鴻池の旦さんは、うちにも来られてお顔は存じてる。あのお方は何方さんよろ」 |
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大戸を叩いて、鴻池の番頭を呼び出す。 | ||
番頭「あの旦那がお前の店に行きはったんか。喜び、伊八。福の神のご入来やで」 伊「?。?。」 番「なんぞ立て替えしたやろ」 伊「駕籠賃の立て替えを一両」 番「二両になって戻ってきたやろ」 伊「駕籠屋の親孝行を賞めて二両」 番「四両になったわナ」 伊「十両、二十両、三十両」 番「二十両、四十両。六十両になって戻ってきたやろ。よかったなあ。それからどうなった?」 伊「わてら奉公人に、そない仰って、五十両」 番「立て替えたんやろな」 伊「それが…。帳場がお断りせえ、云うて」 番「断った!。なんちゅうことしたんや、そこで腹をくくって立て替えしてたら、綿富は肝がすわってると、ご贔屓にしてもらえるのに。伊八。おまはんにしたかて、そやで、次のお座敷で、真ん中に樽をでんと据えて、おまはんをその中へいれて、ぐるりに小判を詰めて、云うたら、おまはん、小判で漬物にされるとこやったのに。惜しいことしたな」 |
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伊「いったい、あの旦さんは何方はんでおますのやろ」 番「旦さんを知らなんだんかいな。泉州佐野の食(メシ)の旦那やないかいな」 伊「え!?あのお方が食の旦那!。泉州の暴れ大尽でおましたか!」 |
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逃がした獲物は大きい。食の旦那といえば、文字通りの超一級の富豪である。綿富は総力を挙げて、食の旦那のご機嫌を取り結ぼうとする。次に来られた時、お立て替えに、万一にも支障のないようにと、大坂中の両替商から千両箱を取り寄せ、庭に積んで、旦那の入来を待ち受けた。 ある日。鴻池の本宅から食の旦那が出られたとの一報が入った。綿富では亭主以下が紋付き羽織袴に改まり、千両箱を点検し、ことに伊八は、一両、二両、十両、二十両、三十両を握りしめ、さらにあの時の失敗の原因になった五十両をも懐に納めて、旦那のご到来を待ち受けた。 チャーラ、チャラ。雪駄の音は近づいた。……。 |
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[綿富] |
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![]() 綿富の所在地を、噺では「北の新地」としているが、正しい表記は曾根崎新地である。 ものの本によると料理茶屋の綿富は実在したが、その場所までは突き止められなかった。ただ、個人的には、いまの曾根崎警察から東寄りのどこかだったと想像している。 写真は、ネオンに彩られた北新地(=曾根崎新地)。 |
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![]() 綿富は格式ある料亭で、一見の客は謝絶していた。もっぱら商売上の接待に使われていたらしい。各藩の大坂駐在の武士(経済官僚)たちの情報交換にも使われていたらしい。 いまの曾根崎新地には、綿富にふさわしい構えの料亭はないので、その代わりとして天満宮にほど近い料亭の写真を掲載しておく。 この料亭は、ノーベル賞作家の川端康成氏の生家として知られている。 |
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![]() ここで、食の旦那の足跡を現在の地図上でトレースしてみよう。 黒矢印が「曾根崎新地」。 わたしの想像では、大阪駅から東へ扇町に近いどこかにあったのではないかと考えている。 旦那はチャーラチャラと、東へ進み、天神橋筋で右折する。青矢印が「十丁目筋(=天神橋筋)」である。 赤矢印が鴻池本宅。 旦那はこの道を気分よく歩いたのであろう。 |
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![]() 天神橋筋は、日本一長い商店街として知られている。昔は「十丁目筋」と呼ばれていた。いまの地番では、天神橋北詰が一丁目で、北へ二丁目三丁目と続く。商店街は六丁目までで、そこを大阪人は「天六」という。このように地名を略するのは、どうやら大阪だけらしい。上本町六丁目を「上六」、谷町九丁目を「谷九」、日本橋筋一丁目を「日本一」。 天神橋筋は八丁目まである。天八が終点で、その先は淀川になってしまう。 昔は一丁目二丁目という呼称はなく、宮前丁、又次郎町、綿茎丁などと呼んでいた。ついでに書いておくが、「天八」は長柄村であり、大坂の町には数えられなかった。長柄村の対岸が毛馬村で、かの与謝蕪村が生まれた村である。 しからば、どうして十丁目筋などと呼ぶようになったか。今回、古地図をしっかり見ていて、その謎が解けた。『千両みかん』で取り上げた天満の市、これが東から西へ一丁目二丁目とすすみ、天神橋のところが十丁目だった。この十丁目から始まる通りだから、十丁目筋と呼ばれるようになったらしい。天満地区の中心地なので、商売屋などが集まっていたものと思える。 |
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![]() 各地の商店街がシャッター通りになっているが、わが天神橋筋は健在である。庶民の生活と密着した商店街である。店主とお客の間に交わされる会話にも生活の息吹が感じられる。道行く人同士が交わす挨拶の言葉に、地域の連帯感がこもっている。 |
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天神橋(黄矢印)を渡った南詰めを西へ行くと、すぐのところに、東横堀に架かる今橋がある。それを西へ直進したところに、鴻池本宅(赤矢印)があった。 | ||
![]() 今橋と鴻池本宅の中間に「十兵衛横町」というのがある。大阪人としては見落とせない史跡である。 ここに、天王寺屋五兵衛および平野屋五兵衛という両替商があった。合わせて十兵衛となる。彼らは、鴻池が台頭するすこし前の巨頭で、当時の日本を代表する金融業者であった。 わたしなんか、今橋と聞くと、大金持ちの住んでいた町という印象を拭いきれない。 |
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![]() いまは大阪美術倶楽部になっているが、ここに鴻池本家の本宅があった。 |
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![]() 昭和初期まで、実際に鴻池家が住まいしていた。その頃の絵図があったので紹介しておく。 鴻池両替店を回想して描かれた図である。左に結構なお庭があり、ひときわ高い大屋根に火の見櫓があがっている。 正面ほぼ中央に黒い漆塗りの駕籠が停まっている。共侍の様子からして、相当な高位にあった武士が訪問してきたらしい。 食の旦那が叩いた大戸も、この場所であったに違いない。とすると、伊八もこの辺りで呆気にとられつつ様子を窺っていたことになる。 |
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[食の旦那] |
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泉州佐野(現・泉佐野市)にとてつもない富豪がいた。家伝では楠木正成の子孫だという。佐野の港を本拠に全国に舟運をめぐらし、廻船問屋として大をなした。家業が盛大になるにつれ、新田の開発、金融業としても成功し、三井・鴻池に匹敵する大富豪となった。 海運業者としての規模は、最盛期には北前船(千石船)を百二十艘以上所有し、北海道から琉球に至る津々浦々に寄港している。 噺にも出てくるが、鴻池とは縁組で結ばれていた。 |
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「食(メシ)」という珍しい苗字について、俗説は以下のような因縁を伝えている。 紀州の殿様が、お忍びで佐野へ来られた。お忍びといっても、そこは御三家の一である。お供が助さん・格さんだけとはいかない。なんやかやで四十〜五〇人ぐらいになっっていたのだろう。話によっては一千人も居たというが、いくらなんでもそれはないだろうと思う。 お殿様が言われた。「忍びの散策じゃ。なんの用意もして来なかった。供の者に茶漬けなと与えてくれぬか。いや、別儀には及ばん。冷飯に番茶をぶっかけるだけでよい」 佐野の長者が答えた。「お殿様が直々のご所望ゆえ、お言葉通りにいたしましょう」 五十人のお供は屋敷内で、冷飯ながら美味い昼食を堪能した。 お殿様が驚かれた。佐野の長者のことである。すぐさまご飯を炊くぐらいのことはなんでもない。しかし、たちどころに、冷飯で五十人前の接待をするとは、なんという懐の大きさであることか。殿様が言われた。「今後は食(メシ)を名乗るがよい」。 後に「食野(メシノ)」と云うようになるが、なんとも豪儀な逸話ではある。 |
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真面目な郷土史家は、上のような俗説は否定し、正説として、もともとは大饗(オオバエ)氏を名乗っていたが、いつの時代からか「郷」を取り去って「食」だけになった、と説いておられる。多分、それが真実なのだろうが、わたしなんかには俗説を信じたくなる。 | ||
食野氏の豪商ぶりをいまに伝えるものとして「いろは蔵」がある。(泉佐野市発行の観光地図には必ず記載されている)。 最盛期の食野氏邸宅は、敷地面積6000坪、部屋数195、総畳数1500畳だったと記録されている。こんな大屋敷をかかえ、海運業者でもあった食野家には、常時、五十人ぐらいを賄える食事の用意があっただろう。さっきの紀州の殿様の逸話は、まんざら根拠のない話ではない。 紀州の殿様に関して、佐野にはこんな民謡が残っている。 紀州の殿さん なんで佐野こわい 佐野の食野に借りがある 食野氏のもう一つの顔は大名貸しであった。これはたいへんな利益をもたらしたが、同時にはなはだ危険な商売であった。大名は、自分が困り果てると幕府と相談したうえで、難癖をつけて踏み倒したからである。じじつ、食野家は大名の踏み倒しによって急速に没落するのである。 |
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食野氏の没落は大名貸しだけが理由ではなかった。第10代次郎左右衛門の、『莨の火』同様のとんでもない享楽が家運を傾けたのである。噺にも出てくる「泉州佐野の暴れ長者」という異名は、この第十代次郎左右衛門に対して大坂の花柳界があたえ、後に地元に伝わったものらしい。 | ||
明治八年、食野本家の最後がきた。6000坪の家屋敷を売り払った。買ったのは当時の佐野村だった。村には食野家をはじめ唐金家などの金持ちは居たが、村自体は貧乏であった。食野の家屋敷は、村が全額借入金でまかなった。七百五十円であった。 明治の人は偉かったとつくづく思う。佐野村としては大変な借財であったが、それは屋敷跡を小学校の用地にするためであった。苦しい中で教育に投資したのである。 |
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![]() その学校を訪問するため、某月某日、泉佐野へ出向いた。だんじりで有名な岸和田の先に位置する。大阪から急行電車で四十分ぐらいだった。 赤矢印が目的の小学校。その右斜め下に「泉」の文字だけ見えているのが泉佐野駅。 地図の左に高速道路のインターチェンジがあるが、そこから海上に出ると関西国際空港になる。 |
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![]() 地図に「元町」「本町」とある辺りは、明治以来の旧村がそっくりそのまま残っていて、狭い入り組んだ路地になっていて、うかうか歩いていると迷い子になりそうである。 駅前の案内所で道順を聞いたのだが、係の人が苦笑しながら「××から先は、近所の方に尋ねて下さい」と言ったのだが、あの輻輳した路地だと、それは無理のないことだった。 なんとが学校へたどり着けたのは、写真に写っているリンクウタウンの高層ビルのお陰だった。 |
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近年続いて発生した不幸な事件によって、学校・幼稚園での警備が厳重になった。なんという嫌な世の中になりはてたのか、つくづく嫌になる。 あの日も、まずは正門前の警備員に来訪目的を注げることから始まった。幸い、警備員はボランティア的に務めているという地元に人だった。泉佐野の過ぎ去った栄光を尋ねるための来訪と知って、たちまち全面的に協力してくださった。 「食野家本宅跡」の石碑は判りにくい場所にあるから、自分が案内してあげようと仰る。彼には不審者の乱入を防ぐという重要な任務がある。よくよくの事情でもない限り、持ち場を離れることは出来ないはずだ。有り難い申し出だったがそれはお断りした。 |
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![]() なるほど、判りにくい場所だった。広い学校敷地なのに、どうしてあんな場所に記念碑を建てたのか理解に苦しむ。不要品置き場をすり抜けて、職員室の裏側に回る。校舎の脇を通る道路との狭い空き地にポツンと立っていた。 栄華の跡の寂寥というべきだろうか。それは淋しい光景であった。 |
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忠君愛国の義士ではなかった。もちろん学術上の功績もない。優れた芸術作品を生み出したわけでもない。ひたすら金儲けに徹した私人である。教育の場にはふさわしくない人物と判断されたのだろうが、食野家は佐野の歴史を語るのに避けては通れない存在である。その旧跡を示すのにふさわしい場所を提供してもらいたいものだ。 | ||
学校を辞するとき、警備員にご挨拶した。彼は、「いろは蔵」と氏神さんの神域に奉納されている常夜灯も見てくるようにと助言して下さった。そして、こんな話を添えてくれた。 「屋敷の解体を請け負ったのは地元の業者だった。名のある建物をこぼつとき、その雨樋などが余得になる。銅が使われており、それを地金屋に売るだけでかなりの儲けになるからだという。食野家の場合、樋だけではなかった。屋根瓦の下が銅板だったのである。業者は思わぬ大儲けに浴した。その儲けを資本にして建設業に転じ、いまも市内有数の業者になっている」 |
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![]() 事前に調べたところでは、食野家本流は瓦解したが、分家筋はいまもあちこちに住まわれている。どこかでその家に出会わないかとうろついてみた。あてもなく歩き回ったのでは探し当てられない。引き上げようかな、と思った矢先、集金人らしい女性を見かけた。この方にお尋ねして、それでも判らなければあきらめるつもりだった。 関西電力の検針員だった。じつに親切な方で、わざわざかなりの距離を後戻りして、「ここが食野さんのお宅です」と教えて下さった。 何世代も閲してきた旧家である。敷地も群を抜いた広さである。これで分家なのだから、本家は如何ばかりであったろうと思わせる。 掲載したのは門に掲げた表札である。全容の写真もあるにはあるが、ご迷惑になるだろうから、この写真だけにとどめておく。 |
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![]() 「いろは蔵」やお宮さんにあるという石灯篭は割愛して帰路についた。 その途中、とある銭湯の前を通った。後で調べるとこの建物は、風呂屋建築の名人を遠くから呼び寄せて建てられたらしい。近年、「わが町を知ろう運動」が盛んになっているが、食野家本宅跡と並んで、かならず案内される処らしい。たしか「大将湯」という屋号だった。このお風呂屋さんだったら、浴室には三保の松原のペンキ絵があるのにちがいない。出来ることなら浴槽にどっぷりつかって、地元の人たちの話し声に耳を傾けたい。 もし、わたしが泉佐野近傍に住んでいたら、そして、海外から関空へ帰ってきたら、何をさしおいても、まずはあのお風呂屋さんへ出向き、のびのびと湯につかるだろうとおもう。 |