野漠


[〈らくだ〉の奇妙な登場]

 この噺の影の主人公は〈らくだ〉とあだ名された男である。この男、町内の誰からも嫌われていた。仕事もせずに酒浸りで、家賃は踏み倒したまま、長屋のつきあいもろくすっぽしない、という厄介者だった。この男、上方落語では「らくだの卯之助」、東京落語では「らくだの馬」という名前になっている。
 「影の主人公」とか「厄介者だった」と過去形で彼を紹介したが、それはこの男は死んでいたからである。〈らくだ〉の訃報を聞いて、町内の一統はこぞって大喜びする。いかに嫌われていたかがよくわかる。
 長屋へ出入りしている紙屑屋が、〈らくだ〉の死を皆に伝え、なにがしの香典を集めようとするのだが。長屋の月番も、家主も、漬物屋も、皆んな香典の拠出をこばむ。
 
以下は長屋の月番の言い分。

「屑屋はんか、今日は多分何も……」
「いえ、今日は商いに来たわけやおまへんので。夕べ長屋のらくだはんが死にはりましてな」
「えッ?〈らくだ〉が死んだ? 紙屑屋はん、それ、まさかわしを喜ばそ、そう思うていうてんの違うやろな。わしが喜んで『ヤッタァ』いうたら、『嘘や』と云うつもりしてんのと違うやろな。
「えッ、ホンマに死んだ、生き返れへんか、今のあいだに、頭潰しといた方がえぇのん違うか。〈らくだ〉が死んだ……、そうか、よう知らしてくれた、さっそく長屋の連中に云うてやるわ、そらみな大喜びする で。
「あいつが引っ越して来た三年ほど前やったかいな、奥の家で子どもが生まれたんや男の子、
「皆で人形でも祝おちゅうてな、まあわずかの金やけど、近所のつなぎに持って行たわけや。ほんであいつとこへ、そのつなぎの金を 取りに行ったら、『いまは銭がないさかいに立て替えといてんか』、そない言いよるさかい、わしが立て替えといた。
「祝いをしたら、必ず「タメ」が戻ってくるやろ。そのタメの割り前を持って行たら、ラクダは『おおきに、はばかりさん』ちゅうて受け取りよっ た。
「ここあんじょう聞ぃといてや。それから催促に行ったら、『今度もって行く』と、こない言いよる。その次に行たら、『ついでに持って行く』。三回目に行たら『わずかの銭で、どびつこいガキなぁ、ド頭、割ったろか』ちゅうて、追いかけてきよる。わずかの銭で殺されたらどもならん。せやから、長屋のもん、みな言い合わして、そういう付き合いはせんことになってるね」

家主の言い分。

「えッ、〈らくだ〉が死んだ? どないして? フグ食べて、フグに当たって? えらいフグやなぁ、うちでフグ祀ってやらないかんなぁ……、婆さん聞いたか、〈らくだ〉が死によった。そうか、紙屑屋、よう知らしてくれた、おおきにはばかりさん。
「わしもいろんな借家人持ったで、無茶な奴もぎょうさん居った。せやけど、入った月の家賃ぐらいは、みな納めるもんや。そやけど〈らくだ〉の奴ときたら、三年前に入って来てから今まで、一文も払ろたことあれへん。
「そらわしも催促に行くわいな、ほなら『今度持って行く』と、こない言いよる。
「その次行ったら『ついでに持って行く』、
「わしゃ、腹くくって、『今日は、 家賃もらうか、お前が出て行くか、どっちかせんと、わしゃここ動かん』と 言うたら、〈らくだ〉何とぬかしたと思う?。『どっちもでけん』とこない言ぃよる。
『そうか、ほな、わしゃここへ座り込むで』と言うたら、『あぁ、ずっと 座っとれ』。
「そんで、わしの後ろで押入れへ首突っ込んで、ゴソゴソゴソゴソしとおる。何しとんのかいなぁと思てフッと後ろ振り返ったら、こんな長い鉄の棒もって来て、『長いあいだ人間の血の匂い嗅いだことないさかい、一発ド頭……』
「わしゃ、這うて逃げたもんやさかい、買いたての下駄忘れたんや。そんなら、あいつ、その買いたての下駄を履いて、うちの前通って風呂屋へ行きよるねんで」。
 
漬物屋の言い分。

「あのなぁ、何でわしがそんなことせんならん。あの〈らくだ〉にはな、えらい目に遭うてんねやで。そら、物はぎょ〜さん買うてもろた。味噌や醤油や塩、買うてもろたで……。けど銭はもろたことあれへん。そやからな、死んだ人にこんなこと言うたらなんやけども、あの〈らくだ〉のためにやったらワラスベ一本やることできんわ」。


 〈らくだ〉が死んだとは知らずに、彼の兄貴分で、〈やたけたの熊五郎〉というのがやってきた。熊は「人並みの葬式は無理としても、せめて、葬礼の真似事ぐらいはしてやりたい」と考えた。
 たまたま、この長屋へ出入りしている紙屑屋が「屑や、お払い」と入ってきた。熊五郎が呼び止めた。「〈らくだ〉が死によった。葬礼(ソウレン)の真似事をしてやりたい。家財道具一切を買い取ってくれ」という。
紙「そらあきまへん。〈らくだ〉はんのことやから、もともとこの家にあった物でも、無理矢理はがしてもうて、無理に押しつけて、なんぼかの金をせしめはりまんね」
 
紙屑屋は、いまのリサイクル屋みたいな存在だった。紙屑を買い取るの主な仕事だが、最下級の古道具屋ともいえる商売だった。
紙「大将。みとくなはれ。障子も襖も骨だけになってますやろ。そこに転がってる鍋にしても底に大きな穴があいてま。ま、金になる云うたら、その鍋だけですやろ。地金だけの値段にしかなりまへんけど」
熊「ほなら、しゃあない。おい。紙屑屋。お前、長屋の月番を知ってるやろ。そいつとこへ行って、長屋のつなぎを集めるよう、云うて来い」
「大将。かんにんしとくなはれ。まだ、なにひとち商売ができてまへんね。家に、つばめみたいに口を開けて待ってる子供がおりまんね。商売に行かしとくなはれ」
「月番を納得させたら、商売にいかせてやる。早う行ってこい!」
月番は前記の如くにつなぎの金を出すのを拒否する。
紙「あんさんの云う通りだす。そやけど、いま来ている〈やたけたの熊〉ちゅうお人は、〈らくだ〉はんよりなおえげつない人でっせ。今晩あたり、長屋から火が出るかも知れん、云うてまっせ。あの人やったら、『火つけ』ぐらいのことは平気でやりまっせ」
月「そんな無茶な奴か。しゃあないわ。香典、集めたるわ。貧乏長屋のことや、そないぎょうさんはでけへんで」
熊「もひとつ、用事を頼みたい。家主とこへ行って、夜伽(ヨトギ)の酒と食い物をせしめてこい。もし、嫌と云うねんやったら、家主は親も同然、店子は子も同然。死人(シビト)の引き取り手がないので、死骸をかつぎこみます。ついでに、死人にカンカンノオ踊りをさせてみせます。そない云うてこい」
家主は当然の如く拒否する。
家「わしは並の家主やないで。この辺では因業家主でとおってるねん。面白いやないか。わしも、冥土へのみやげに、その死人のカンカンノオ踊りを見させてもらおうやないか」
 熊は紙屑屋に〈らくだ〉の死骸を背負わせて、家主の家に乗り込む。

熊「聞きますれば、こちらさんでは〈死人のカンカンノオ〉をご所望らしいでんな。それではひとつ、踊らせてみせましょ。おい。紙屑屋。お前、死人の股ぐらへ頭入れて、うまいこと担げ。わしが手を持って踊らすさかいに。おい。紙屑屋。お前。カンカンノオを唄え」
 紙屑屋はなかばやけくそで、しかし、情けない声を張り上げて、
「カンカンノオ キュワキュレス キュワキュワレンレン キュワレンス…」と唄う。
家主。腰を抜かさんばかりに驚き、煮しめと酒を届けることを約束する。

熊「もひとつだけ頼みがある。これでしまいや。角に漬物屋があったな。あそこへ行って、漬物樽をもろうてこい。仏を千日の火屋(=斎場)まで運ぶんじゃ」
漬「えっ?もう家主とこでカンカンノオやってきた?。それ、早う云わんかい。持っていき、持っていき。どれでもええから持っていき」
紙「こら、おもろなってきたな。カンカンノオで脅かしたら、なんでも手に入るで。そや、ウチの米櫃、もう底になってるな。米屋へ行って、カンカンノオで、米、五斗ほどせしめたろか」

熊「おう、ご苦労はんやったな。いま、家主から煮しめと酒が届いた。ちょっと味見したら、なかなかええ酒をもって来よった。お前も一杯やれ」
紙「大将、かんにんしとくなはれ。さっきも云うたように、家に口あけて待ってる子供がおりまんね」
熊「わかってる。死人を担いだりして、身体が穢れてるやろ、酒で浄めてから商売したらどや、わしの云うこと、きかれへんのか」
紙「そんなら、一杯だけでっせ。あ、あ、こんな、なみなみと注いでしもて、お酒がこぼれまんがな、もったいない」
 熊は、紙屑屋に「飲みっぷりがええ」とか「かけつけ三杯」とかなんとか、無理矢理に酒を勧める。紙屑屋は、商売が気になっていたのだが、酒が入るにつれて、そっちのことは忘れて、今度は自分からグイグイやりだす。
紙「何い?!商売に行けちゅうんか。わいは、お前らと違うて、10日やそこら、商売休んでも、家族に心配させぬだけの用意はしたあるんじゃ。この酒かて、いうたら、わいが都合してきたようなもんや。お前に言われんでも自分で呑むわい。おい、熊、酒注がんかい。ぼやぼやすんな」
と、攻守が逆転する。

 この部分が噺の圧巻である。先年、亡くなった松鶴師匠の『らくだ』は絶品だった。
 師匠自身が無類の酒好きで、自分の経験を織り交ぜて、素面から酔っぱらうまでの描写や、気の弱い男が転じて無頼漢をやっつけるあたり。それはそれは見事な高座であった。

 ぐでんぐでんに酔っぱらった二人は、〈らくだ〉を押し込んだ漬物樽を担いで、千日前の火屋(ヒヤ)にむかう。紙屑屋が「そうれんや、そうれんや。ら くぅ だぁぁ のそうれん(=葬礼)や」と、大声を張り上げて歩く。
 なにしろ酔っぱらいが担いでいるものだから、漬物樽は前後左右に激しく揺れていただろう。〈らくだ〉が生きていたら悲鳴を上げたに違いない。
 〈らくだ〉の葬礼は、野漠から九之助橋を渡り、堺筋を南へ、宗右衛門町から太左衛門橋、そこから千日の火屋に至る。
 なんと、この間に、漬物樽の底が抜けたのか、中に入っている仏さんを落としてしまい。あわてて拾いに戻る。拾い上げたのは、〈らくだ〉に似た願人坊主(=乞食)だった。火屋に連行された願人坊主は、危うく焼かれてしまいそうになる。

[らくだ]

 わたし達は、〈らくだ〉というと、砂漠に住んでいるあの優しそうなラクダを思い浮かべる。それがどうして卯之助という嫌われ者の綽名になったのか、おかしなこともあるものだ、そんな疑問を抱いていた。
 ものごとは、やはりきっちり調べなくてはならない。「らくだ」という言葉の意味を、江戸時代の人は、いまのわれわれとはまったく逆の意味を感じていた。
 『日本国語大辞典』(小学館)によれば、〈らくだ〉には、こんな意味もあるのだそうだ。1.江戸時代、男女が連れ立って歩くこと。2.江戸時代、形ばかりで品質の劣るもの。3.僧侶が戒律を破り、放逸にふけること。落堕。4.炭・蝋燭などの下等品。どれもこれも悪い意味がついている。
 あの綽名は、動物の〈らくだ〉ではなく、「落堕」または「堕落」の〈らくだ〉なのである。
以上は、小賢しい詮索ではなく、噺を正しい語感で味わってもらいたいので追加した。

[野漠]

 「野漠」とは耳慣れない地名だが、明治時代の大阪人は誰でも知っている場所だった。


 右上の赤矢印の付近が、〈らくだ〉が住んでいた「野漠」である。いまの空堀商店街を中心とする一帯である。読みにくいかも知れないが、「瓦土取場 御代官支配」とある。大坂夏の陣で、東軍に貢献した褒美として、寺島氏が家康から拝領した土地である。寺島氏は、この土地の粘土で瓦を焼き、独占販売した。瓦を焼いていた処はいま「瓦屋町」として残っている。寺島氏の子孫は、戦後も同地で瓦屋を営んでいたが、今回、その店を探したがついに見つけられなかった。

 粘土を取り尽くした跡地は、そのまま放置されたので、雑草が生え茂る荒地になった。その有様から誰いうとなく「野漠」とよばれるようになった。やがて、低家賃の長屋が建ち並ぶようになり、大火にもあわず、戦争中は奇跡的に空襲から免れた。いまも昔のままの長屋街になっている。

 わたしはずいぶん以前に、ある全国調査のお手伝いで、この地区をくまなく歩いたことがある。長屋から長屋へ入り組んだ路地があり、迷路みたいになっていた。いまは、すっかり無くなってしまったが、長屋ごとの共同便所があり、昼間も電灯がついていたのを思い出す。


 先日、この取材のために、ひさしぶりにあの地区を訪れた。
 現に人様が住んでいる家である。あけすけに写して回るのは遠慮せねばならない。さりとて、あの町の雰囲気はお伝えしたい。その苦心の結果がこの一枚である。
 上町台地から急な段差があって、その下側に長屋町が広がっている。左の朱色のは台地にあるお稲荷さんである。
 こうしたお稲荷さんは、長屋町のいたるところに祀ってある。あの地域全体では百ちかいお稲荷さんが勧請されているように思われる。それらのお稲荷さんは、長屋の親睦を取り結ぶための重要な装置なのに違いなく、どの祠にも美しい花が供えてあり、祠や鳥居が色鮮やかな朱色に塗ってあった。

 ふとしたことから、そこの住人と話せた。わたしと年齢が近いこともあって、打ち解けた話が交わせた。
・お祖父さんの代に島根県から移り住んでいる。先祖の墓はあっちに残っているらしいが、ながらくお参りしてないので、いまでは無縁墓になっているだろう。
・(ということは、祖父から三代七十〜八十年はこの地区に住んでいることになる)
・わしの息子は、一部上場会社の課長になって、郊外の一戸建てを購入し、同居しようと云ってくれているが、自分も家内もその気はない。
・此処はほんとに住みやすい町だ。歌の文句みたいに、味噌・醤油の貸し借りはもちろん、何事も親戚つきあいの間柄だ。
・近所との付き合いができなければ、この地域には住めない。しかし、付き合いのコツをのみ込めば、こんなに住みよいところはない。此処で住んでしまえば、余所へ出て行く気にならない。

[やたけた]

 完全な死語。紀伊水道を挟んだ徳島・和歌山両県の一部と大阪地方にしかない方言。前田勇氏の『上方方言辞典』によれば、無考えでがむしゃらなこと、無軌道な乱暴者のこと、とある。
 言葉を大切にされている米朝師匠も、「やたけた」を捨てて「能天(ノウテン)の熊五郎」と言い換えられている。

[九之助橋]

 なにか謂われがありそうな名前だが、どうやら橋棟梁の名前らしい。大阪には、このほかに太左衛門橋、太郎助橋などと人名のついた橋がある。
 落語『帯久』にもこの橋が登場する。帯久の主な舞台はこの橋の東側にある町である。

[千日の火屋]

 江戸時代、千日前に刑場があったことも、死者をあの世へ送る斎場(火葬場)があったことも、ともによく知られている。
 上の地図で青矢印がそれである。地図には「火坊」と書かれている。
 大坂三郷は此処までで、この南は田畑が広がっていた。
 急速に繁華街になったのは明治以降である。坪当たり何銭かという安値で売られたのだが、なかなか買い手がつかなかったという。興行師が買ったのだが、人を寄せ集めるのに大変な苦労をしたという話が残っている。
 千日前は、年がら年中、朝から夜遅くまで人の往来が賑やかである。ここに刑場があったなどといっても信じられないだろう。
 火屋は向こう側の車線にあったらしい。

[カンカンノオ]

 「カンカンノオ」の歌を、実際に聴いたのは東京落語の高座であった。
 あれは誰であったか、とぼけた声で、間延びした調子で「カンカンノオ…」とやったときは、お腹の皮がねじれてしまうくらいに笑いこけた。
 なんでも、あの歌は華南地方の流行歌なのだそうだ。江戸時代、中国人は比較的自由に入国できた。長崎あたりにやってきた中国人が、仲間内で「カンカンノオ」と歌い踊っていたのを、日本人が耳で聞き覚え、意味も分からないまま、宴席でやりだしたのだろう。
 お断りせねばならない。速記本なんかでも「カンカンノオ キュワキュレス」までしか書いてない。どうもそれだけでは物足りないので、わたしが「キュワキュワ レンレン キュワレンス」と勝手に付け加えた。


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