『へっつい幽霊』という噺がある。竈のことを大阪では「へっつい」、それを丁寧に「へっついさん」、さらに丁寧な人は「おくどさん」という。この言葉のニュアンスはいかにも大阪弁らしくて好ましい。 「へっつい」は一軒の家になくてはならぬ道具である。造り付けの借家もあったが、長屋によっては、店子が自分で買うものであったらしい。この噺は、「へっつい」を売っている道具屋に始まる。 |
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道具屋が仲間内の市で仕入れたきた「へっつい」だが、店に並べるとすぐに客がついて売れてしまう。それはよいのだが、翌朝、そのお客が表の戸をドンドン叩き、せきこむ調子で「昨日、買うたへっついやけど、いますぐ引き取ってくれ」という。 「いかにも手前の店の物ですよって、引き取らしてもらいま。そやけど、道具屋仲間の決めがあって、損料として五十銭だけは差し引かせてもらいまっせ」 「ああ、五十銭でも一円でもええから、すぐ、引き取って」 「それやったら、損料を一円にしまひょか」 「いや、やっぱり五十銭にしといて」 |
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引き取って店に並べておくと、これがすぐに売れる。そして翌る日になると、血相を変えて客が駆け込み、引き取りを求める。次の日も、その次の日も同じことが続いた。なにもしないで五十銭ずつ儲かるのだから、はじめのうちは道具屋はホクホク顔だった。 ある日、同じく引き取りを求めにきた男にそのわけを尋ねた。 |
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「わけ云うたら、引き取らんちゅうのと違うか」 「そんなことはしまへん」 「夜中の二時頃やな。へっついから陰火がポーッと出たかと思うと、そこへさして幽霊がズズーッと出てくるねん。悲しい声で『金、返せ』、云いよんね。あんな怖い目に二度と遭うの嫌や。いま、すぐ引き取って」 「こんな夜中にそんなことできまっかいな」 「そんなら、お前とこに泊まらして」 「泊めんことおまへんけど、寝るとこおまへんで」 「ほんなら、お前、どこかで泊めさせてもらえ。わい、お前の嫁はんと一緒に寝る」。 えらい騒ぎになった。 |
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そうこうするうちに、「あそこの道具屋の品物は、なんや怪しい物らしいで」との噂が立って、他の物が売れなくなってしまった。道具屋の夫婦が相談した。「こうなったら仕方がない。あのへっつい、一円の金をつけて、誰かに押しつけてしまおう」 | ||
これをひそかに聞いていたのが「脳天の熊五郎」だった。「よし。ええこと聞いた。へっついは壊して、木は焚き付けにしたらええ。土は路地の水溜まりに埋めたら、長屋の者も喜びよる」。 | ||
同じ長屋に、船場の若旦那で作次郎というのが、親から勘当されて住んでいる。この作ボンと組んで、一円の金儲けを企んだ。二人して、へっついを担いで長屋へ運ぶ途中、重い物をもったことのない作ボンが、よろけてしまって、へっついの角をどこかにぶっつけた。しっくいが剥げて、中から布に包んだ財布が出てきた。なかに三百円という大金が入っていた。 | ||
濡れ手に粟の大金を手にした二人。作ボンは百五十円を懐に、新町の小里のもとで居続け。脳天の熊は賭場へ。二人とも、あっというまにすってんてん。 | ||
その晩、作ボンが青い顔をして熊さんの家にかけこんできた。話を聞くと、幽霊が「金、返せ」と迫ってきたという。熊「よし、分かった。俺が段取りをつけたる」と請け負った。 | ||
熊さんは、作ボンの家へ行き、母親に理由を告げ、「三百円の金がないと、作ボンは幽霊に取り憑かれて、どないなるやら分からん」という。母親は、子供の命を思う一念で、その金を都合した。 | ||
熊五郎が寝ないで、幽霊の出てくるのを待ち受けている。丑三つ時。案の定、幽霊が出た。 | ||
「金、返せ」 「よし、ここに三百円を用意したある。返してやるが、お前、そのわけを聞かせてくれ」 「よう尋ねておくんなはった。わたい、福島の羅漢前に住んでる『空っ欠の八蔵』という者でおます。恥ずかしながら、博打が好きでよう遊んでました。えらいツキが回ってきて三百円という大金を手にしましてん。そのままにしてたら、またすぐに費うてしまうよって、へっついの隅に埋めましてん」 「その晩は、河豚を手料理して祝い酒をやりました。ところが、素人料理はいけまへんな。河豚にあたっていちころだ。こんな姿になりました」 「へっついに隠した金に未練が残って、行くとこへ行けまへん。仕方がないにので幽霊になって出まんねんけど、皆、怖がって、話を聞いてくれまへんのや」 |
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「わかった。わしも、その道が好きなほうや。脳天の熊ちゅう者や」 「え?!あんさんが脳天の熊はんでっか。お名前はかねがね聞いとりま。生きてる間に、いっぺん、勝負がしとましたな」 |
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「この三百円、俺が都合して来たんや。お前、おれに礼をせなあかんわなあ」 「へいへい」 「どや、礼金として折半しよやないか」 「大将、そらえげつないな。拾得物の礼は一割が相場でっせ」 「そんなら、この金、ドブに捨ててしまおか」 「しゃあないな。よろしま。半分ずつにしまひょ」 |
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「お前、いま、道楽してるというたな。生きてる間に俺と勝負したいと云うたな。どや、この金で、勝負しよやないか」 | ||
かくて、世にも奇妙な博打が始まった。 |
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[羅漢前] |
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幽霊になった空っ欠の八蔵が、「わたい、福島の羅漢前に住んでましてん」と自己紹介するのだが、この羅漢前というのが何処なのか分からず、長年、気になっていた。 |
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![]() 大坂の古地図を眺めていて、福島村に妙徳寺という寺があり、五百羅漢と書き添えてあるのをみつけた。 察するに、いまのJR福島駅か野田駅の近くになるように思える。 これを手がかりに調べを進めると、羅漢前の状況がいろいろと分かってきた。 |
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江戸時代、妙徳寺の五百羅漢が有名になって、大坂の町衆が参詣に詰めかけるようになった。当時、大坂の町には五百羅漢さんがそろっているお寺がなかった。五百体の羅漢さんのなかには、自分とそっくりな姿のがあるといわれている。そういう理由から、この妙徳寺のお詣りする人が多かった。 人が集まると、それをねらって店屋がやってくる。料理屋がくる。料理屋のなかには遊女を置くのも出てくる。すると、よけいに人が集まる。そんなことで妙徳寺の門前は享楽の場になった。 明治以降、羅漢前は一転してスラム街になった。 だから明治大正の人は、噺に出てくる人物が「羅漢前」の住民と聞いただけで、その人物がどんな人なのか、およその見当はついたのだろうと思う。 |
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大正時代になって、国道2号線の拡幅にともない、周辺の整備が進められ、妙徳寺は立ち退きを命じられ福島を離れた。いつしか、郷土史家にも妙徳寺の行方が判らなくなってしまった。 |
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わたしは「羅漢前」の正確な位置が知りたくて、妙徳寺跡と思われる付近を探し回ったが、それらしい痕跡はどこにもなかった。 「この辺の古いことは、あの散髪屋のお婆さんが詳しいです」と教えられて、散髪屋さんを訪ねた。 |
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あいにくお婆さんは不在だった。理由を述べると、ご主人は同情してくれた。散髪中のお客も鏡を通して、「あそこのお寺がそうではなかろうか」と参加してきた。奥さんは、「まあ、どうぞ」と熱い蒸しタオルを渡してくれた。あの日は暑かった。親切に差し出された蒸しタオルはじつに有り難かった。 (いくらなんでも、散髪屋さんには「この辺が貧民窟だった」などと余計なことは言い出せなかった。) |
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![]() ついに正確な位置は分からずに終わった。なんでも跡地は公園になっているというので、その公園へ行った。公園を取り囲むように高級マンションが並んでいる。その住人の若奥さんが、赤ちゃんを乳母車に乗せて散歩に来ている。 堂島川の対岸はビジネス・センターであり、高層ビルだらけである。写真をご覧いただきたい。大阪を代表するロイヤル・ホテルが写っている。とてもじゃないが、ここがその昔は貧民窟だったとは思えない。 |
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近くに『野田藤』の旧跡がある。歴史的には妙徳寺よりも野田藤の方が有名である。室町時代、足利将軍が藤の花を尋ねて、わざわざ京都から此処までやってきた。秀吉も、妻妾や曽呂利新左衛門などを引き連れて、花見に来ている。これらから野田藤の名は全国的に有名になり、野田藤の子孫は全国に広がった。 |
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![]() 当時の庄屋だった藤氏の子孫が保存されていた藤は、大阪市の手によってさっきの公園内の藤園に移植されている。わたしは、藤氏の屋敷跡を訪ねた。地域のライオンズ・クラブが大切に手入れしている。屋敷跡の井戸もそのままの姿で残っていた。 |
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判からないままに過ごすには、思いが残る。ひとつ徹底的に調べてやろうと決めた。調べれば判るものである。図書館にあった福島区に関する小冊子に、妙徳寺は東大阪市額田に移転した、との記事があった。 |
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![]() 近鉄奈良線額田駅で下車して、坂をたらたらと下がったところに妙徳寺はあった。 貫禄のある堂々としたお寺だった。 |
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![]() 屋根瓦に「妙徳禅寺」「五百羅漢」とあった。わざわざ額田まで来た甲斐があった。納得して帰路についた。 |