三輪明神

 ものの本によると、素麺は奈良時代に遡る古い食べ物だそうである。うどんや蕎麦よりも古いらしい。素麺の産地は全国に分布しているが、どうやらその源流は奈良の三輪にあるらしい。
 わたしはご飯党で、麺類はそんなに好まない。日本人はお米を食べて歴史を築いてきた。わたしも日本人の端くれ、お米が大好きである。巷には、そば屋・うどん屋・ラーメン店・スパゲティの店などが数知れずあるが、自慢ではないが、この年齢になるまでそれらに入ったことは、ただの一軒もない。スパゲッティなんぞは、洋食の添え物にしてあるのを食べるぐらいのものである。
 困ったことに、家内は麺類が好きである。一度でよいから、おいしいうどん屋で、おいしいうどんを食べたいという。その望みを叶えるのは容易(タヤス)いことだが、不思議なことに麺類の店の前に来ると、わたしの足は速くなってしまう。われながら不思議でならない。
 そんなわたし達のために、世には中華料理の店という都合の良いのがあって、わたしはご飯を、家内は適当な麺類を注文する。そうすることでお互いの調和を図っている。
 ウチにお米を配達してくれるお米屋のご主人は、米屋のくせして麺類党なのだそうである。ことに夏は素麺につかりきりだそうである。一度に間違いなく十把はゆがくのだそうである。『素麺くい』という噺は、そんな男の滑稽ぶりを描く。


甚「そこへ行くのは清八やんやないか。ちょうど、ええとこやった。ま、ウチへ寄りいな」
清「毎日、暑いこってんな。ご隠居はんは、そうしてなさるけど、どうです、わたいら、この通り汗だらけだすわ」
甚「いやな、いま、ウチで素麺を食べてるのやが、ぎょうさん、ゆがいてしもうてな、どうしたもんやろ、そう思うてたところや。お前(マ)はんは大の素麺好きやったな。お前はんの姿をみかけたよってに、声をかけたんや。よかったら、食べていっておくれでないか」
清「素麺でっか。素麺と聞いたら素通りはできまへん。よばれまっさ」
甚「そうか、食べてくれるか。すぐに用意するわ」  
 素麺を浮かした盥(タライ)を出してきて、
甚「こんなに、ゆがいてしもたんや。助けてくれるか」
清「なんや、素麺、素麺、云うさかいに、どんだけあるのんかいな思うたら、こんだけだっか。盥にチョロチョロと泳いでるだけでっしゃないか」
甚「それでも、これ十把もあんねんで」
清「わたいに、十把やそこらで素麺食べるかなんて、云わんといておくんなはれ。せめて三十把ぐらいでないと、わたいの前では素麺やなんて云わせしまへんで」
甚(むっときているのを、ぐっと押さえて)「えらい悪かったな。いまは、これだけしかないねんけど、食べておくれか」
清「ま、好きな物やさかい、よばれまっけどな。ツツツー。たったこれだけか。食べた気ぃせんなぁ。もっと、ぎょうさんな時に呼んでや。ご免」
と、帰ってしまいよった。
 この清八,だいたいが高慢ちきで、ちょっとくらいでは有り難うなんて云わない男である。加えて知ったかぶりが嵩じて、なんやかやと勿体ばかりつけるので、甚兵衛さんも、普段から腹にすえかねていた。
 いまも、素直に「ごっつおになりまっさ」と云えばよいのに、「もっとぎょうさんの時によんでや」である。なんとかして、この腹いせをしてやろうと、喜六に相談をかける。喜六も、普段から清八の云い草にむかついているので、甚兵衛はんと一緒になって、敵討ちの段取りを考える。
 考えついたのが、特注の長い長い素麺を食わせて、清八を困らそうという結論になった。幸い、甚兵衛はんに、三輪で素麺を作っている親戚があったので、事情を話して、長い長い素麺を作ってもらった。
 作る方も面白がって、長い長い素麺を特別にこさえてくれた。しかし、出来た素麺を運ぶのが大変だった。折ってしまうといけないので、これも特別に、長い長い車を造ってもらい、それに乗せて、難儀しながら大坂まで運んできた。
 素麺を運ぶ道中では、この長い長い車が人目をひいた。
○「あれ見てみなぁれ。えらい長い車を引っ張ってきましたで」
●「あんた、あの車を知らんのでっか。先頭に『三輪大明神』の幟がありまっしゃろ。あの長い筒に巳ぃさんが入ってまんねんが」
○「巳ぃさんて、あの白い蛇のことでっか」
●「そうでんがな。三輪のお山の奥の方で、うわばみみたいな大きな蛇が見つかりましたんやろ。これから大坂へ運んで、出開帳しやはんのとちゃいまっか」
 皆んな、勝手なことを言い合ってます。

 この写真は、大神神社拝殿の前にある「巳の神杉」である。根本にある木洞に棲むという神様のお使い(巳さん〈白蛇〉)を祀ってある。この日はお供物の酒・生卵は少なかった。多いときは棚にのりきらないほど捧げてある。

 「神杉に生卵を投げつけないでください」との注意書きがしてある。熱心な崇拝者のなかには、棚の上にお供えするだけではもの足らず、卵を投げつけて、確実に巳ぃさんのもとへ届けようとするらしい。
 なお、その立て札の右横に四角い穴があいているが、そこに白蛇が棲んでいるということである。

 三輪から長い長い素麺が甚兵衛さんとこへ届いた。
 次に、長い長い素麺をゆがくのが問題になった。「お寺から、大釜を借りる」案もあったが、いくらお寺の大釜でも、そんな長い長い素麺は茹でられない。
 とどのつまり、大屋根の雨樋をはずして、それで茹でることにした。鋳掛け屋を呼んできて、仕切りをつけ、ついでに穴のあいたのも修繕してもらった。地面に長い長い穴を掘って、炭をざらーっと流して、何人もかかって団扇であおいで炭をいこし、樋をそうっと置いて、長い長い素麺をゆがいた。
 瀬戸物町を探しまわって、やっとのことで見つけた特大の碗に、素麺が千切れないように渦巻きみたいにしていれる。そら、たいへんな騒動で。
甚「よし、あいつを呼んできなはれ」
清「甚兵衛はん、こないだみたいなのと違いまっしゃろな」
甚「今日は、たっぷり用意してあるよってに、堪能するほど、食べておくれ」
清「ほんならよばれまひょか」
甚「よっしゃ、おーい、素麺、こっちへ運んでおいで。こぼさんように、気ぃつけなはれや」
清「うはっ。大きな丼鉢やな、こんなん、どこに売ってましてん」
甚「そんなこと、どうでもよろし。おツユはどうする?辛いめがええか、それとも甘いめか?」
清「わいら、素人やおまへん。辛いめをちょっとだけでよろし」
 これから清八のお得意の講釈がはじまる。
「素人はんは、おツユの中へ素麺を沈めて、それを食べまっけど、そら素人のすることだ。わたいらみたいな玄人は、そんな下品なことはしまへん。上品に、素麺の先だけをちょっとツユにつけて、それで一気に食べま
「素麺ちゅうものは、咽喉こしを味わうものでっせ、口のなかでクチャクチャやるのんは、あれは下品な食べ方だ。あれでは素麺の味が消えてしまいま
「ツルッと咽喉を通るのが醍醐味だんな。なんだっせ、ご隠居はんも知りはれしまへんやろが、醍醐味ちゅうのは舌で感じるもんやおまへんで。醍醐味いうたら、咽喉の奥で感じるもんだんねんで
「ツユのつけ方でも、玄人と素人は違いまんな。わたいら、玄人の仲間内で申し合わせがありましてな。二尺くらいの長さの素麺やったら、五寸五分ぐらいまでツユにつけてもよろしい、素麺が一尺五寸やったら、ツユは三寸五分までつけて食べてもよろしい、そうなってまんね
「それになんだっせ、素人は素麺をお箸でつまむのに、苦労してまっけど、わたいらほどになると、お箸の持ち方が違いまんね。こうして、力を入れるような、抜くような、七分三分のかねあいで、浮かすように挟みまんね
「ま、こんなこと云うても、素人には分かれしまへんやろ。箸の持ち方ひとつにしても、年期が入らんと、でけんこってすわ
甚「食べ方の勉強は、あとでじっくり教えてもらう。それより、早う食べてんか。素麺がのびるがな」
清「へい、それでは、お言葉に甘えてよばれまっさ」
 素麺を引っかけて、ツユ椀に入れようとする。清八が七分三分のかねあいで挟むのだが、そこはあの親戚が苦心して作っただけあって、あとからあとから素麺が続いてくるので、清八はとうとう立ち上がってしまう。
 それでも素麺はまだ続いている。
清「すんまへんな。そこの襖、開けとくんなはれ」と、次の間へ行く。それでも素麺はまだ続いている。
清「ご免やっしゃ。はしご段に登りまっさ」
 とうとう、はしご段の中途まで登りよった。七三の力のいれ具合がおかしいになって、変な具合に身体をねじったもんやさかいに、その拍子で清八が転ろこんで落ちてしまいよった。
 素麺だけが、はしご段にザーッと垂れさがった。


 よく似た小咄がある。
 蕎麦通をもって任じていた男。臨終のまぎわにつくづく語ったそうである。「俺も、一度でよいから、たっぷりツユをつけて蕎麦を喰いたかった」。
 文豪・夏目漱石も『吾輩は猫である』のなかで、迷亭をして、こんなことを語らせている。
「奥さん、蕎麦を食うにもいろいろ流儀はありますがね、初心の者に限って、むやみにツユをつけて、口の中でクチャクチャやってますね、あれじゃ、蕎麦の味はないですよ。この長い奴へツユを三分の一つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛んではいけない。ツルツルと咽喉を滑り込むところが値打ちですよ」。迷亭はそれを実演して見せ、目を白黒させたあげく涙を落とした。

 片や東京の教養人、片や大坂の長屋の住人、それがまったく同じことを言っている。蕎麦や素麺を食べるのに、こうもうるさく云われると、おちおち気楽に喰っていられない。
 通が、通であることを証明するためには、なみなみならぬ苦心が要るものである。『酢豆腐』におけるあの伊勢屋の若旦那の七転八倒の苦しみを見よ。

 素麺ではなく鰻の話になるが、こんなことを経験したので報告しよう。
 東京・上野の池之端に『伊豆栄』という名代の鰻屋がある。話の種になるという口実で、食べに這入った時のことである。
 見るからにれっきとした老紳士が、上等のステッキを突いて入ってきた。彼は、わたしの傍のテーブルについた。チラと、わたしのお重を見てから、すくなくともわたしにはよく聞こえる音量で、給仕にこう告げた。
「ぼくは、ここの鰻しか喰わないんだが、いつものお重を。○○○○円のいつものお重だよ。あ、それから、ご飯は少しにしておいてください。無くってもよいくらいだけど」
 彼は、もう一度、わたしの注文したお重に流し目を送って着席した。わたしのは△△△△円のうな重だった(たしか、あの店はうな丼はなかったように思う)。
「なんという嫌味な奴なんだ」と心の中でつぶやいた。
 彼のお重が運ばれた。彼は、驚くような早さで、上に乗ってる鰻だけを食べ、さっさと席を立った。粋な江戸っ子なのかどうか、いまだに彼の正体が謎のままである。

 どうも食べ物にこういう手合いが多いようである。「おれは、どこそこの寿司しか食べない」「築地のなんとか寿司は絶品だ」などとうるさいことだ。
 その点、わたしはギャル曽根ちゃんが好きである。彼女はそんなうるさいことを云わず、なにを食べても「オイヒーッ」と、さも美味しそうに大口を開けて食べている。おおらかで結構である。ただ、彼女の排泄について他人事とは思えず心配している。


 じつは、『素麺くい』の噺をわたしは聴いていない。米朝師匠の著書(桂米朝集成第二巻・岩波書店・・米朝ばなし・毎日新聞社)にある「あらすじ」と「オチの部分」およびその解説を読んだだけである。
 米朝師匠は、『素麺くい』を四代目桂文枝から教わったそうだが、あまり高座にのせたことはないらしい。それでも、あらかたの内容は書いておられるので、それをもとに大いにふくらませたのが上記である。
 清八が素麺の食べ方について、くどくどと講釈するあたり、落語ではあんな具合になるんだろなと想像しながら書いた。また、素麺を運ぶのに、長い長い車を造らせたり、その運搬途中で○や●などの暇人がええ加減な思いつき話をしたりする部分も、まったくわたしの創作である。
 したがって、文責の大方はわたしにある。米朝師匠ならばは、もっと洒落た形で演じられたと思う。


[素麺屋二軒]

 三輪村(現・櫻井市三輪)の素麺屋さんを二軒ばかり紹介する。
 本場だけあって、素麺を作る家、販売している店は数多いが、古風な構えの家となると、探すのに骨が折れた。

 この粋な構えの素麺屋は、三輪明神鳥居前にある。三輪でも老舗とされている。自家製の素麺を食べさせてもらえるそうである。店内で干素麺も売っている。

 このお家は三輪村きっての旧家である。昔は名代の素麺屋であった。いまはその面影を残すだけである。屋根にあがっている古風な看板は、保存のためガラス板で覆ってあり、反射光の関係で文字が読み取れない。辛うじておわりの三文字だけが判読できた。「索麺司」とあった。昔は索麺とも書いた。
 なお、ここの当主はすでに隠退されているが、もとは桜井市長をされていたそうである。

 三輪明神の北に「茅原」と「箸中」という集落がある。
 この付近に、大小の素麺生産業者が集まっている。
 近代化された工場の横で、昔ながらの手作業を守っている素麺農家があったりする。

 素麺も大量生産の時代になって、ほとんどの工程は機械化されている。シーズンになるとTVが風物詩として放映する天日干しの有様は、古来の手法を守る特定の人のを写しているとばかり思っていた。
 それはわたしの邪推であった。村の人に教わったのだが、あの天日干しだけは機械化できないらしく、大手の素麺業者もそれだけは農家に頼んでいるらしい。
 石油の熱で乾燥させるのでは、どこかに具合の悪いことが生じるのであろう。

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