『まめだ』


 東京の友人がこんなことを尋ねた。「君。さっきから『まめだ』と云ってるが、その意味は何かね?」。わたしは『まめだ』が完全な共通語と思って使っていたのに、相手に通じていないと知って驚いた。帰宅して広辞苑を開くと、なるほど『まめだ』という項目はなかった。
 われわれ年代の者は、こんな童謡を唱ったものだ。

  雨(アメー)がしょぼしょぼ降る晩に 『まめだ』が徳利(トックリ)もって 酒買いに

 子供心に、親狸のために仔狸が傘もささずに酒屋へ急いでいる姿を想像したものだ。 仔狸→豆狸→まめだ、と変化したのだろう。 

 狸の化かし方はキツネと違って、どことなく間抜けたところがあるらしい。丸顔なところが愛嬌があって、そんな感じになったのだと思われる。



 落語『まめだ』は昭和四〇年代に、桂米朝師匠の求めに応じて、三田純市氏によって書き下ろされた。しかしいまでは古典落語に準ずる秀作として定着している。
 三田純市氏は道頓堀の芝居茶屋の息子として生まれた。慶応大学卒業。芝居関係・花柳界はもちろん、大阪の古今についての造詣が深く、演劇脚本・随筆などを多数執筆した。惜しくも四十二歳の若さで早世した。

 この噺、秋も深まった落ち葉の季節の設定である。しっとりした情感が漂い、わたしはこの噺をO.ヘンリーの短編になぞらえている。
 落語であるが笑いをとる部分が少なく、人情噺にも似ている。だから、年期の入った噺家でないと語れないように思う。

 市川右団次の弟子で、市川右三郎という大部屋役者がいた。この男、主役が舞台の真ん中で見得をきってるときに、桜の枝かなんかを持って、主役に絡む。ポーンとトンボをきる。これが役どころである。給金の少ない下っ端役者なので、まだ嫁さんはいない。
 道頓堀から近い三津寺の向かいで、母親と二人暮らしをしている。母親は家伝の膏薬を売って、家計の足しにしている。そんなつましい生活である。 

 秋でございます。舞台が終わって、さあ帰ろと思うたら、時雨がパラパラ降り出した。芝居小屋から三津寺はんは近いんですけど、ようけもない着物を濡らすのもつまらんので、心やすい芝居茶屋で傘を借りて、太左衛門橋を渡ります。
 宗右衛門町。お茶屋が並んでて、行灯や提灯の明かりで華やかなもんでございました。ひと筋北の三津寺筋ちゅうと、ひと筋入っただけで、いっぺんに暗ぁいとこになりました。いまは昼か夜か分からんほど明るおますが、右三郎のその時分は、そんなんやったそうで。

黒の矢印が三津寺
緑の矢印が太左衛門橋
「中座」。右三郎が出演していたのは、おそらくこの中座であろう。
道頓堀通りと道頓堀の間に芝居茶屋があった。いまは一軒もない。

 三津寺筋を左へとって、家へさして行きますと、傘の上がズシッと重とうなった。
「なんじゃいな」と傘をすぼめても、何もない。「おかしいな」と歩き出すと、またズシッ。見ると何もない。
「ははん。まめだが悪さしてよるな。しょうもない悪戯をしくさると、今度はえらい目に合わしたる」
 呼吸を図って歩きます。ズシッときた。傘をすぼめんと持ったなりで、ソクに立って、ポーンとトンボをきった。
 ダーッと叩きつけられて、「ギャーッ」ちゅう声がして、黒い犬みたいなんが、向こうへツツーッと逃げていきよった。

「いま、帰ったで」
「おお、今日はえらい遅うなったな。お腹すいてるやろ、ちゃんと支度したあるさかい、さ、食べかけてんか。お汁(オツイ)すぐに温めるさかい」
 薄暗い行灯の明かりですが、親子水入らずで、遅い晩ご飯をとります。箸を置くなり、朝から働きづめやったんで、すぐに寝てしまいます。
「ただいまぁ」「ああ、お帰り」
 見ると、母親が畳の上に膏薬の貝を並べて、横に銭函を置いて、思案してなはる。
「お母はん。何してんねや」
「いいえなぁ、膏薬の貝の数と、銭函の銭(ゼゼ)が合わんのんや」
「ウチほど銭勘定の楽なとこはないで。膏薬ひと貝が一銭。十貝売れたら十銭、五つやったら五銭や」
「さあさそれやがな、これまで一回も間違うたことなかったのに、今日に限って勘定が合えへんね。おかしなことに、銭函に銀杏の葉が一枚、入ったぁる。おかしやないか」
「見いな、いま、どこもかしこも落ち葉だらけや。ウチかて三津寺はんの銀杏で、屋根も道も黄色うなってる。落ち葉の一枚ぐらい、紛れ込むわいな」
 その晩は、それですみました。
 翌くる晩も母親が銭函の前で思案してなさる。
「不思議ななぁ。今日もお銭、合わん。それにおかしなことに、昨日も来たんやが、絣の着物の陰気な子が膏薬買いに来たんや。一銭銅貨をちゃんと持ってな」
「…」
「その子が帰ってから銭函調べたら、銀杏の葉が一枚や。おかしやろ」
「おかしなことやな、そやけど、わし、腹ペコやね、早う晩ご飯の用意しておくれ。話は、後でゆっくり聞いたるさかい」
 これが毎日続きます。しまいに「ただいま」やのうて「今日も銀杏の葉か」「そうや」が挨拶になります。
 ある朝のことでございます。表で大勢の声がしてます。
「おおい、見てみ、三津寺はんで、まめだが死んでるで、身体にいっぱい、貝殻つけた、けったいなまめだや」
 これを聞いた右三郎、「ちょっと見てくるで」。
「どれでおます?」
「これや。見てみなはれ、小さい身体にいっぱい貝殻つけて死んでますやろ」
「そや。これ、ウチの膏薬の貝や。ああ、分かった。この狸、わいが殺したようなもんだす」
  右三郎は一部始終を話す。
「可哀相なことしたな。こいつ、ほうぼうが痛いもんやさかい、銀杏の葉で、膏薬を買いに来てたんや。云うてくれたら教えてやんのに。お前。膏薬は紙に薄う伸ばして貼るもんや。そやのに、こんなふさふさした毛ぇの上に、貝のままつけたかて、痛いのん、治れへんわ。ちょっと尋んねてくれたら教えたるのに」
「お母はん、線香、もってきて。どなたはんも、関わりや思うて、この可哀相なまめだに、線香の一本もあげてやっとくなはれ」
「住職さん(オッサン)、すんまへん。後で、気持ちだけのことはさせてもらいますよって、安物のお経でよろしまっさかい、お経、あげたっておくんなはらんか」
 住職も話を聞いて、哀れに思い、お経を唱えてやり、境内の隅っこに小さな穴を掘って埋めてやりました。
 そこへ一陣の秋風。境内一面に敷き詰めたような銀杏の落葉が、さぁーっと吹き寄せられてきて、まめだを埋めたとこに集まった。
「お母はん。見てみ。まめだに、香典、ようけ集まったわ」
……。

[三津寺]

 大阪人は三津寺を「ミッテラ」と呼ぶ。松屋町を「マッチャマチ」、戎橋筋を「ハッスジ」というように。

 わたしは、大阪生まれの大阪育ちながら、三津寺さんの境内に入ったのは、この写真を撮ったときが始めてである。
 とにかく。土一升金一升のド真ん中の土地柄、空地は本堂の正面にあるだけで、寺院以外の建物がぎっしり建て込んでいる。

 御堂筋側から心斎橋筋方向を写した。右三郎の家はどの辺りにあったのだろうか。「ラーメン」の看板を掲げた店の辺りだったのだろうか。


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