高津の黒焼屋




 大阪人は高津宮を「高津さん」とか「高津はん」と親しみを込めて呼ぶが、このお宮さんを舞台にした上方落語は数多い。この章では『いもりの黒焼』をとりあげる。
 

 ミナミの宗右衛門町を東へ行くと、上町台地の崖下にぶつかる。そこの石段を上がったところが高津宮である。このお宮さんの絵馬堂からは大坂の町並みが一望できたので、庶民の夕涼みの場所になっていた。
 『崇徳院』で、船場の若旦那とご大家の嬢(イト)はんが、なれ初めの恋に陥ったのはこの絵馬堂であった。あの噺では、ここに茶店があって、厚く切った羊羹を出してくることになっている。

 高津宮は、わたしのデートコースのひとつでもあった。須磨の山や淡路島などが見通せて、西に沈む夕日がとても素晴らしかった。いまは正面に高いマンションが建ちはだかってしまい、眺望もなにも台無しになってしまった。

 これは表参道の入口である。さきに紹介した『稲荷俥』で、車夫が金縁眼鏡の紳士を乗せたのはこのあたりであろう。
「向こうに『山吹』のうどん屋の提灯が揺れている」と描かれているうどん屋は、この手前の道を左へ下がった松屋町筋の辻にあったらしい。 

 本殿の右に高倉稲荷社がある。本殿はいたって静かな雰囲気に包まれているが、こちらは幟が林立していて賑やかである。
 ここのお狐さんは、どれもこれも眼光鋭くいかつい様子であった。
 『高倉狐』という噺がある。東京落語では「王子の狐」として演じられている。
 高倉稲荷に参詣に来た男と女が、たちまち意気投合して、お茶屋で食事を共にする。男は女と一緒に食事ができたので有頂天になって喜ぶのだが、じつは彼女は女狐だった。それとは知らぬ男は上機嫌で湯豆腐の食事をする。
 いまも表参道に、瀟洒な数寄屋建築の家がある。この家が藤壺という名代の店であった。惜しいことに、かなり以前に暖簾を下ろしてしまった。米朝さんによれば、「名物の湯豆腐は、つけ汁が秘伝で、なかなかオツな味だった」そうである。

 高津さんには隠れた名所がある。「陰陽石」という。崖にある岩石が、見ようによってはそれらしく見えるという他愛のないものだが、それぞれの岩石に注連縄がはってある。余計なことになるが、男根の石は注連縄だけなのに、女陰の方は、小さいながら鳥居もあり、祠もある。北新地の某からは立派な灯篭が寄進されていた。わたしは男の一人として、これはなんだか、不公平な扱いに思える。(写真も撮ってあるが、たいしたことはないので省略しておこう。)

 社殿の左に、以前は神主さんの住居だったと思われる建物がある。「高津の富亭」の提灯がぶら下がっている。地域寄席が催されているらしい。
 『高津の富』(東京落語の「宿屋の富」)は、皆さんもよくご存じの大ネタである。想像するに、昔はこの場所で、「一番のおん富ィ」と声を張り上げての富興行が開かれていたのであろう。


 絵馬堂の横に町へ降りる石段がある。「縁切り坂」という名だそうだ。以前は、石段が三回半ほど屈曲していたので、三下り半の離縁状と結びつけて、そんな名前になったらしい。(冒頭に掲げた図には屈曲の様子が描かれている)

 この石段を降りきったところに、これから紹介する有名な高津の黒焼屋があった。大坂の町には数多くの漢方薬の店があったが、なかでも「高津の黒焼屋」は特に有名で、摂津名所図会にも大きく取り上げられた居る。この店ではとくにイモリの黒焼きが名代であった。惚れ薬なのである。だから落語の題材になった。

 黒焼屋は石段下に二軒並んでいた。一方は「元祖本家黒焼屋 津田黒焼本舗」を名乗り、片方は「高津黒焼惣本家 鳥屋市兵衛」を名乗っていたそうである。
 鳥屋市兵衛さんのご子孫は、戦後もしばらくは漢方薬を商っておられた。わたしにはその記憶が残っている。学生時代、あの付近はわたしのデートコースだった。店の前を何度か通った記憶がある。なんだか陰気な感じのお店だった。表を通ると異様な匂いが漂っていた。
 当時のわたしは、その店が古い暖簾であることも、まして「いもりの黒焼」の効用も知らなかったので、表を素通りするだけだったが、黒焼の効用を知っていたら、わたしの人生は変わっていたかも知れない。
 

[いもりの黒焼]

 
 町内の若い者が甚兵衛さんとこへ相談にきた。
「どんな相談か知らんが、ま、話してみ、ええ知恵でるかわからん」
「あのぉ、なんぞ、女ごが惚れてくれる工夫がおまへんやろか」
「お前になぁ。女ごはんかぁ。ま、そら難題やな」
「昔から、一見栄二男三金四芸五精六おぼこ七せりふ八力九肝十評判、てなこと云うたぁるな。一見栄いうたら、格好、ナリのことやが、お前、それなんちゅう格好や」
「婆さんの帯、四っつに折ってしめてま」
「そらあかん。そんなナリをしてたんでは女ごはんはとてもやないが惚れてくれんなぁ」
「二はなんでしたかいな」
「二男、ちゅうて男前や。これもあかんわ。ハナから問題にならん」
「そうでんな。わたいも、そない思いま」
「三金、金の力はえらいもんや。金があったら、女ごはいっぺんに惚れよる」
「金やったら、わても、ちょっとは貯めたぁりま」
「なんぼ貯まってんね」
「そんなこと、うかつにいえまへんわ」
「ええから云うてみ」
「そんなら云いまっけど、誰にも喋りなはんなや。もう十八枚も貯まってま」
「十八枚て、まさか金貨やないやろし。五十銭銀貨で十八枚か」
「違いま」
「そやろな。穴あきの十銭白銅にしても、お前にしたら上出来やけど」
「違いま」
「(馬鹿にした口調になって)二銭銅貨で十八枚かいな」
「違いま」
「(あきれ果ててしまう)」
「ただの銅貨で十八枚。どうでっしゃろ、十八銭もあったら南の芸者、いうこと聞きよりますやろ」
「あほか。お前。もう去ね。わしも忙しい仕事が残ってンね」
「なんとか、ええ知恵出しとくんなはれ。拝みまっさ」
「わいを拝んでどうすんね。…。そやな、とっておきの手がある。いもりの黒焼きや」
「それ、ほんまに効き目ありまっか」
「まぁイモリの黒焼も使いようによっては、効き目はあるわい」
「イモリの黒焼て、あんなもんが効くんやったら、世間で泣く男も女もおりまへんで」
「さぁさぁ、そこや。あれもホンマもんとごく普通のイモリと二手(フタテ)あるな。ホンマもんやないと効かへんで」
「ホンマもんだっか」
「そや。ただのイモリを捕まえてきて黒焼にしたら、そら普通の黒焼や。それでは薬の効き目がないねや。ほんまに効かそぉと思たらやなぁ、オスとメスとのイモリが、こう、交わってるところを捕まえなあかんね。そのところで無理に引き離す。イモリといぅのは、淫情の強いもんやいうな。引き離そうとしても必死になりよる。そいつを無理矢理に引き離して別々に素焼の壷へ入れて、これを蒸し焼きにする。ほな、オスはメスのことを思い、メスはオスのことを思いながら、蒸し焼きにされよる。パッと蓋を取った時にス〜ッと立ち昇る煙が、山一つ越してでもこれが一つになるといぅぐらいや。そないして作ったイモリの黒焼、そのオスの方を自分の体に付けてやで、メスの方の黒焼を相手の女ごはんに振り掛けたら、向こうから慕い寄って来るっちゅうねや。これがホンマのイモリの黒焼や」
「向こうから慕ってくる!?わい、それ買いま。どこへ行ったら売ってま?」
「高津の黒焼屋やったらあるやろ。大きな看板上がってるさかい、すぐに分かる。ホンマもんやないとあかんで。少々高こうつくとは思うけどな、それやったら効き目があんねや。」




[摂津名所図会]


 説明文に「高津宮の下、黒焼屋の店には虎の皮、豹の皮、熊の皮、狐・狸までも軒に吊り、…、黒焼きに使う鉄鍋も飾り立てて商っている」とある。これでは評判になるのも無理はない。驚くことに、豹の毛皮が飾られていたという。虎は朝鮮にも生息していたのだから、その毛皮が日本に伝わっていても不思議ではないが、アフリカにしか生息していない豹の毛皮となると、それだけで人を呼び込んだと思われる。中国を経由したものか、それともオランダの交易船で長崎から入ってきたものか、その由来は分からないが、当時の日本は鎖国とは云い条、結構、いろんな物が到来していたのだなと思う。これでは黒焼を買わずに、珍しいものを見物に来るだけの人もいたに違いない。

 石段を降りてきた子供が、母親に「早くあのお店を見せて」とせがんでいるのが描いてある。なにしろ豹の毛皮を店先に吊してあるのだから、子供だけでなく大人にとっても見たくなったであろう。店先はたいそうな賑わいぶりに描かれている。お客なのか、それともたんなるひやかしなのか、三人の男が壁に吊ってあるのやら棚に並べてあるのを品定めしている。

[惚れ薬]

 さて、いもりの黒焼がなぜに惚れ薬となったのか、それには以下のような伝説がある。
 もともと守宮(イモリ)の交尾は激しいものと知られていた。交尾しているイモリを無理に引き離し、竹筒の両端に入れておくと、イモリは双方向から相手を求めて、節を食い破って再び合一するという。
 夜中の丑三つ時に、交わっているイモリを捕らえて引き離し、山を隔てて蒸し焼きにする。イモリの執念はすさまじいもので、そのときの煙が山を越えて、中空で再び合一するという。このようにして作った黒焼きを、片方は自分が持っておいて、その片方を思い焦がれる相手にそっとふりかけると、相手は知らず知らずに好意を寄せるようになり、ついには晴れて夫婦にになれるという。
 ただし、惚れ薬になるのは、上記を厳密に守って造られたものしか効用はなく、したがって本物はすこぶる高価であった。

 この章の取材の一環として、某漢方薬店で聞いたのだが、黒焼きの製法は非常に難しいそうである。ご主人は薬学科の学生時代に実習されたそうだが、適当な火加減を維持するのが本当に難しかったと述懐された。

 先に書いたように、戦前までは二軒だったが戦後に復活したのは一軒だけだった。二百年の伝統を保ってきたその一軒も、昭和三〇年代前半についに暖簾をおろした。しかし、ご子孫はその地に住んでおられる。

 現当主のお話によれば、先代は「いもりの黒焼」を売ることにかなりな精神的負担がおありだったらしい。しかし一方で二百年の伝統を担っている。イモリが効くと信じてやってくるお客が、昭和になってからでもまだ存在していたそうである。心の底から思い詰めて、最後のよりどころと思って買いに来られる。そのお客に、効くかどうか判らぬものをかなりの値段で売ることに、心を痛めておられたらしい。だからといって、二百年の家伝の品を自分の代で消滅させることもできず、迷いつつ商売を継続されていたらしい。そうしたお客に「効くか効かぬかは、ご本人の心がけ次第です」と何度も念を押されていたとのことだった。

 薬事法の改正により漢方薬の販売も薬剤師免許が必要になり、それがきっかけで暖簾を下ろされたのだが、先代にしたら、いうなれば天の助けとの思いだったのだろう。


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