室町三条下る


 京都は三条室町に誉田屋という縮緬(チリメン)問屋がござりました。当主を忠兵衛といい、そのつれ合いはお常と申しました。誉田屋は問屋仲間でも指よりの大店でござります。ご夫婦の間にお花という一人娘がありました。このお花さん、たいへんな器量よしで、歳が十八、近所でも室町小町という評判でござります。
 蝶よ花よと、手の中の玉のように可愛がって育てられましたが、満つれば欠くる世のならい、ふとした風邪から病の床につきまして、やれお医者さんや、やれお薬や、はては加持祈祷まで、いろいろ手を尽くしましたがどうしてもようなりません。
忠「これお花、そんな気の弱いことでどないすんねんな、一日も早よ良おなっとぉくれ。…。そや、何ぞ思うてることがあんのと違うか。あんねんやったら、お父っつあんに云いなはれ、胸のつかえを吐き出したら元気が戻るちゅうこともあるそうな。どんな事でも聞いてやるさかい」
花「お父っつぁんおおきにありがと。よう言ぅてくれはった。それやったらお父っつぁん、お願いがおますねん」
忠「何なと聞いてやるで、願いて何や」
花「わたしがもしも死んだら、どうぞ頭の髪おろさんようにしとくれやす」
忠「分かった、髪は長いままでええちゅうのんか」
花「それから…、えらいすんまへんねんけど、綺麗にお化粧しとくれやす。ベベもわたいの一番好きなベベ着せて頂きとうございます。それから、焼かれるのん嫌やよって、土葬にしとくれやす」
忠「分かった、お前の言ぅ通りにしてやる。ほかに望みはないか」
花「それから、わたいの好きな簪、櫛、笄も全部つけとくれやっしゃ」
忠「分かったぁる」
花「それから、もうひとつお願いがおますのん」
忠「何や」
花「すんまへんねんけど、お金をば三百両持たしとくれやす」
忠「三百両も大金を持ってどないすんねん?あの世へ行ったらな、三途の川の渡し賃、六文あったらええねんで」
花「そうかて三百両欲しおますのん」
忠「三百両持ってどないすんねん」
花「閻魔さんに三百両渡して、お父っつぁんやお母はんがいつまでも達者で暮らしはるようお願いしますのん」
妻「何ちゅう優しいこと言ぅてくれるねんな…。お父っつぁん、お花の言う通りしてやっとくなはれ」
忠「よっしゃ、分かった。お前の言ぅ通り三百両入れてやるで」
花「それからお父っつぁん、も一つお願いがおますのん」
忠「何や?」
花「すんまへんねんけれど、食べたいと思てた物がおますのん」
忠「いったい、何が食べたいねん」
花「四条新町の滲ン粉屋新兵衛のン粉が食べとおます」
忠「滲ン粉みたいなもん、元気になったらいくらでも食べられるがな」花「そやかて、いま、滲ン粉が食べとうおますねん」
忠「三百両を承知しておいて、滲ン粉をいかんというのも、おかしな具合やな。それに、いままで食が細るばっかりやった。欲しいちゅうもんを食べたら、それがきっしょで、食べつくや分からん。よっしゃ。これからすぐに買いにやるさかい、ちょっと待ちや…。これ、子ども。四条新町へ行ってきてんか。向こうへ行ったらすぐに分かる。ン粉屋新兵衛はんちゅうン粉屋さんがあるさかい、その店でン粉、買うてきとぉくれ」
忠「さぁ買ぉてきたで、食べなはれ」
花「お父っつぁん、えらい無理言ぅてすんまへん。お母はん座らしとぉくれやす」
妻「そんなことしたら体に悪いがな、無理せんと寝たままで、お母はんが口入れたげるさかい」
花「勝手なこと言ぅよぉでっけど、おんなし頂くねんやったら美味しゅう頂きとおますのん。寝てたんでは美味しいおまへんよって座らしとぉくれやす」
忠「あない言ぅてるんやさかい、起こしたげなはれ」
妻「ほならお花、後ろから支えてあげるさかい起きなはれ」
花「…お父っつぁん頂きます、お母はん頂きます」
忠「食べなされ、食べなされ。味おうて食べなされや…。しかし、ン粉てなもんコナレが悪いよってな、ぎょ〜さん食べたらあかんで」
花「あぁ〜おいし。ほな、もひとつ頂きます……ウッ」
忠「これ、お花どないした!」
妻「お花ちゃん、どないしなはってん」
花「うん〜〜……」
 そのうちにお花さんの顔の色が変わってきて、唇の色が紫になって、その場へコトッと倒れてしまいます。さぁ、お医者さんの来たときにはもう手遅れで、
「えらいことをした、三つも食べささなんだらよかったのに…」
 愚痴こぼしても仕方がございません。親類へ知らせまして皆が寄ってきまして、その晩はお通夜をいたします。
 明くる日、言われた通り頭を綺麗に結ぅて、顔へは紅白粉をつけ、一番好きやと言ぅてた着物を着せて、もちろん頭の物は立派なもんを差しまして、三百両のお金をば棺桶へ入れ、寺町四条の大雲寺の墓地に土葬します。
 ひとくちに三百両と申しますが、いまのお金にしたら四千万円にもなろうかという大金で御座います。

 ……。あれからこちい、ずっと立ち動いておりましたので、奉公人もみな疲れて寝てしまいましたが、夜中に番頭の久七がふと目が覚めましたんで……
久「さぞかし旦さんもお家はんも今時分、泣きの涙やろなぁ…、ご大家のお嬢さんとは言ぃながらえらい事しはったで、ええ着物きせてもろて、櫛、簪、笄、立派なもんやなぁ。
 おまけに三百両ちゅうお金持って……、天下の通用金を埋めたりしたら、お上に知れたらえらいお咎めになるがな。…。お家の一大事や、いまからでも遅うはない、お墓へ行って掘り返そう」
 皆が寝静まってるのんを見定めてから、そっと外へ出ます。

 久七がお花の墓を掘り起こします。お花の首に巻いてある紐をゆるめて、袋の中の小判を取り出そうとしたとき、
 「ふーっ」と大きな息がしたかと思うと、お花が「そこに居るのんは誰や」
久「うあわっ、出たぁ。どうぞかんにんしておくれやす。化けて出てくるのんだけは、どうぞご勘弁…」
花「そう云う声は久七やないか。わて、なんでこんなとこに居てんねんや」
久「(ことの次第を説明する)こういう訳で、お家の一大事ですよってに、三百両のお金をば掘り起こしにまいりました」
花「そぉか…、実はわたしなぁ、お父っつぁんやお母はんに無理言ぅて滲ン粉食べてて、三つ目が喉へ詰まったらしぃねん。気が遠おなってしもてん。いま、お前がわてを抱き起こしてくれたときに、喉がすうーっとして、急に眼がさめたん」
久「そらえらいこってございます。さぁ、お店へ帰りまひょ。旦さんやお家(エ)はんが喜びはります」
花「一旦、こんな姿になって帰ったら、向こうの娘はいっぺん死んで蘇ったんや、死に損ないや、そう世間に評判が立つのん嫌や。ええ具合にお金もこんだけある。久七すまんけど、わてを連れて逃げとくれ」
 えらい娘はんがあったもんで、お墓の中で男を口説いていなはる。 
 久七も久七で、かねてより、叶わぬ恋ながらお花はんを思い焦がれていたもんでっさかい、いやもおうもございません。二人が手に手を取って駆け落ちしてしまいます。
 
 誉田屋忠兵衛さん、大事にしてたお嬢さんが死んでしもたといぅので、つくづく世の中が嫌になってしもた。店の者にはそれぞれ相当のお金をやって暇を出してしまう。お店の方は親類へ預けまして、娘の冥福を祈るために、年寄り夫婦が西国巡礼に出ます。西国から四国、ずぅ〜っとお遍路いたしまして、今度は坂東の方を回わろちゅうのでやって参りましたのが江戸でございます。
 あちらこちら巡礼いたしまして、なんぼお金があるちゅうたところで巡礼姿、ええ宿屋に泊まるわけにはまいりません。毎晩木賃宿風の汚い宿屋に泊まっておりますが、忘れられんのは娘さんのこと。宿屋の汚いせんべぇ布団の中で寝よぉとするがなかなか寝付けんもんで、

 明くる日、浅草の観音さんへお参りしまして、浅草近辺をばずぅ〜ッと歩いておりまして、出てまいりましたのが並木町。

忠「お婆さん、世の中には同じ屋号の店があるとみえるなぁ」
常「ホンに、暖簾に〈誉田屋〉と書いておますなぁ」
忠「さっきから、なんのご商売なさるかと思て見てたら、うちとおんなじ縮緬問屋さんや。ひとつお願いして、ここで休ましてもらおか」
常「これも何かの縁でおまっさかい、そうさしてもらいまひょ。おんなじ休むねんやったら、うちとおんなじ屋号の〈誉田屋〉はんで休ましてもらいまひょ」
忠「ごめんやす」
番「へい、いらっしゃい」
忠「すんませんが、ちょっと軒をお借りして休ましていただきます」
番「どうぞ、ようがすよ。お休みになってください」
忠「えらいすまんこってございます」
番「お弁当を召し上がるのなら、お茶をさしあげましょうか」
忠「もうどうぞ、お構いなく」
番「いえいえご遠慮なく。これ、丁稚。お茶さしあげなさい」

 夫婦がそこでお弁当をとります

番「ちょっとお尋ねいたします」
忠「はい、わたしですかいな」
番「間違がっていたら失礼でございますが、あんさん方お二人、お言葉の具合からみて、ひょっとして京都のお方と違いますかな」
忠「分かりますかいなぁ、わたしら夫婦は京都からまいりましたもんで」
番「重ね重ねお尋ねいたしますが、京都はどちらにお住まいでございますか」
忠「室町で商いをしておりました。お宅様とご同業の縮緬問屋でござります」
番「(あっと驚き、丁稚になにやら耳打ちします)…。しばらく、お待ちを願います…」

 丁稚が内へ入りますと、しばらくすると出てまいりましたのが当家の主人。

久「えぇ、先ほど手前どもの丁稚から、京都のお方と承りましたが、さいでございますかいな」
忠「いかにも、わたしら京都のもんでおますが、軒をお借りしてお弁当つかわせていただいとります」
久「あんさん、わたくしの顔をお見忘れでございますか」
忠「??…… そういうたらどこかでお見掛けしたようなお顔でおますが……、お婆さん、このお方をどこかでお見掛けしたように思わんか?」
妻「ホンに、よぉ見たお顔やが…、あんさん、いったいどなたさんでござりますかいなぁ」
久「お見忘れはごもっともでございます。わたくし、ご奉公しておりました久七めにござります。誉田屋の旦さんでございますな」
忠「へ?何かいな、うちに居てなさった番頭の久七とん。……ホンに、そうやがな。お婆さん、久七どんがこない立派になって、ここのご主人。〈誉田屋〉の暖簾を上げて…」
久「訳は後ほど申し上げます。ともかく、ここは端近(ハシヂカ)奥へお通りくださいませ」
忠「わたしら巡礼の身の上、奥へなど…」
久「何をおっしゃいます旦さん、今日からそんなことしていただかんでも結構でおます。どうぞ、どうぞ、奥へお通り下さいませ。…。ぜひ、お目にかけたいものもございますので」
忠「お目にかけたい?何を見せてくださるんかいな」
久「ともかく奥へお通りを」
忠「そぉですか…、ほんならお言葉に甘えてそうさしてもらいまひょか」

 奥へ通りますと、そらもう大層なもてなし方。二人が奥の間で待っております。しばらくいたしますと、久七、紋付の羽織を着まして、袴はいて出てまいりました、

久「旦さん、先ほどはえらい失礼をいたしまして」
忠「何をおっしゃる、これこれ、そんなとこで頭下げてんと、こっちへ入っとぉくれ。何やわたしらに見せたいものがあるちゅうてなさったなぁ」
久「へぇ、ぜひ見ていただきたいものがございますので、ただ今こちらへ呼びますで…。こっち入りなはれ」
 久七の言葉が終わるか終わらんかに、転ろこぶようにして入ってきた。
花「お父っつぁん、お母はん、お久しゅうございます…」
忠「お、お花やがな!」
常「ホンに、お花。幽霊と違うのんか、あんた」
久「ご不審の点はごもっともでございます。何もかも申し上げます……。わたくし、あの晩お店を飛び出しました」

 久七がそれからそれへと委細を申し上げます。

久「そんな訳で、この江戸へ嬢はんと一緒に出てまいりました。無断で「誉田屋」の暖簾を上げまして、慣れた縮緬問屋をやらしていただきましたところ、お蔭で近頃では奉公人も七、八人置けるようになりました。

久「お二方のお許しも頂戴せずに、まことに相すまんこってすが、お花と夫婦(ミョウト)になりました。いえ、ちゃんと仲に立つ人を入れ、大神宮さんの前で、杯事もしての夫婦でござります。子どもも二人も授かりました。……旦さんとお家はんの孫さんが二人できました。一生懸命にこしらえましたんです…一生懸命」
忠「そぉか……、ようこしらえてくれた。わしも婆さんも孫の顔が見とぉて、それだけが心残りやったんやがな、よぉこしらえてくれた。決して叱りゃせん。お前さんがあの晩に墓を掘り起こしてくれなんだら、お花がこないして無事に居られへんねん。お前さんはお花の命の親や。助けの親や。おおきに、おおきに…。孫はどないしてる、どこにいてますのんや」
久「ただ今、よぉ寝とりますんで明日必ず会ぉていただきます」
忠「……良かった、良かった。お花、お前幸せか」
花「はい、お蔭で幸せに暮らしとります。今までえらい苦労させましてすまんこってございました。お便り差し上げよと思たんですけれども、かえってビックリなさったらあかんさかい、折があったらといつも久七と言ぅとりましたんです」
忠「ちょっとでも早よ知らしてくれたらよかったんや。それがために、わしも婆さんも、四国から西国へとお前の冥福を祈って巡礼してたんやがな」
久「今晩のところはお疲れでございまっしゃろさかい、どぉぞお休みを。離れに床がとってございます」
忠「積もる話もあるけど、明日ゆっくり話もしょ〜。孫ともゆっくり会えるなぁ、婆さん」
常「ホンマやなぁ、お爺さん。こんな嬉しいことないなぁ」
忠「こんな嬉しいことない」
久「旦さん、ここにずっと居てくれはりますか」
忠「当たり前やがな。お花がこないして元気で居てて、お前さんと夫婦になって孫までできてんねや、わしゃもうどこへも行けへん。なぁ、お婆さん」
常「そらえぇけど、店の方どないすんねん?」
忠「あんなもん要れへん。人にやってしもたらえぇがな。こないしてええ婿と孫がいっぺんにできてしもたんや。こんな嬉しいことない」




 地図の説明。黒矢印:室町三条。〈誉田屋〉のあった処。
         青矢印:四条新町。滲ン粉屋新兵衛のあった処。
      赤矢印:寺町四条。大雲寺のあった処。



[帯の誉田屋]


 『はてなの茶碗』の取材で、衣棚町へ行っての帰りだった。何気なく、室町を下っていたら、〈誉〉の字を丸印で囲んだ暖簾が眼に入った。間口の広い、黒壁の重厚な町家だった。折しも展示会をやっているらしく、半被を着た社員が出たり入ったりしていた。お客の一人が帰るらしく、何人かの社員が見送るなかをベンツが颯爽と走り出した。
 表札には〈誉田屋源兵衛株式会社〉とあった。思い切って、社員の一人に「中を拝見したいのですが」と頼んでみたら、こころよく「展示会でバタバタしておりますが、どうぞ、ご覧になってください」と言ってくれた。

 
 広い玄関の土間に、〈帯匠 誉田屋〉とあり、この写真には入っていないが〈元文年間創業〉の文字が誇らしげだった。
 大切なお客は内玄関から座敷へ招き入れる。開け放たれた二間の向こうは庭になっており、柴折り戸が見えるところからすると、茶室があるらしい。
 内玄関を抜けると、さらに奥へ土間が続いており、竈(オクドサン)や井戸がある。煙出しの高い吹き抜け構造になっている。
 さらに進むと手入れのよい庭があって、白壁の蔵が二棟並んでいた。
 あとで伺った話によると、この家の建材はすべて木曽檜を使っているという。黒く燻(イブ)されているが、なにかの拍子に芯の檜材から香しい匂いがしてくるそうである。とにかく、すばらしい町家であった。

 誉田屋さんで頂いたパンフレットに、誉田屋の簡単な歴史があったので紹介しておく。〈帯の誉田屋〉さんと〈噺の誉田屋〉との関係についてのヒントになるだろう。

 1736:(徳川吉宗の頃)、初代・矢代庄五郎創業。誉田屋を名乗る。
 1868:(明治維新)、六代目庄五郎より、山口源兵衛が七代目庄五郎を譲られた。後に初代源兵衛を名乗る。
 1905:御所の近くから、現在地に移転する。
 1981:現十代目が襲名。

[四条新町]


 室町通りから二筋西の通りが新町である。この四条新町に〈滲ン粉屋新兵衛〉という滲ン粉屋があった。
 「四条新町の滲ン粉屋新兵衛」という部分、噺の中の軽口めいたくすぐりとして使われたと思っていたら、どうやらこれも実在した店らしい。

 四条通りの新町西入るに甘党の店があった。
 京町家の古い面影をそっくり残している。たまたま小学校の社会見学の授業であったらしく、店の前で先生が説明されていた。
 まさか滲ン粉屋新兵衛の後裔ではないと思うが、念のためにショーケースを覗いてみた。滲ン粉餅は売っていなかった。
 急いで注釈を入れるが、〈滲ン粉〉と書くのは誤りである。サンズイではなくコメ偏が正しい。しかし、コメ偏ではCPによっては文字化けする模様なので使えない。さりとて、シン粉などと書くのは感じが出ないのでサンズイの〈滲〉を使った。筆者の我が侭として許されたい。
 滲ン粉餅:白米を天日干しして、臼で粉にしたのを丸めて蒸しあげる。醤油味もよし、甘味にてもよい。
、 

[四条寺町]

 お花は十八という若い身空でこの世を去った。亡骸は四条寺町の大雲寺に葬られた。
 大雲寺は近年まで四条寺町にあったのだが、時流のために祇園町へ移転したそうである。しかし、縁者がそれを惜しんで「ここの大雲寺があった」という標柱を立てたそうである。噺の重要な舞台だけに、その標柱を探しに歩いた。
 四条寺町は新京極と並ぶ繁華な商店街である。四条寺町の辻を中心に、東入る、西入る、上る、下る、目をこらして探したが見つからなかった。

[大雲寺]


 寺町で見つけられないのが口惜しくて、移転先の祇園まで足を延ばした。われながらご苦労に思いながら、円山公園を抜けてお寺まで行ってきた。
 お寺は、格式も見識も高く、非公開になっており、簡単には拝観できない。門は開け放たれていたが中へは入れなかった。
 このお寺には織田信長父子の墓の他、石川五右衛門の墓もあるとのことである。

[石川五右衛門]

 石川五右衛門なんて、芝居か講談に登場するだけの架空の存在と思っていた。実は、あの当時、京の町を震え上がらせた実在の大盗賊であった。一説では、十五人を1チームとし、30チームほどの盗賊団を編成し、五右衛門はその統括者であったという。
 秀吉の直々の命令により、彼らの一統は捕らえられ、三条河原で釜茹でにされた。
 スペインの宣教師で20年ほども日本に滞在していたアビラ・ヒロンは、「頭目は生きたまま、油で煮られ、妻子、父母、兄弟など五親等までもが磔にされた」と書き残している。(日本王国記)
 山科言郷による『言経郷記』には、「盗人、すり十人、また子供一人、釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条河原にて成敗なり」と記録している。

 信長父子の墓はどうでもよいが、五右衛門の墓はどんなものか野次馬的ながら見てみたかった。しかし、このお寺は、そんな不純な願望を許容してくれそうにない。ただ、写真で見た限りではなかなか立派なお墓みたいである。

[再び大雲寺]

 祇園の大雲寺はそれまでとして、寺町四条にあったという跡地は確かめておきたかった。なんでも大雲寺の由来などを詳しく書いた高札があるとのことである。そうと知ると、これはどうしても探し出したくなる。そう腹をくくって探し始めたのだが、なかなかの難敵で探し出すのにひと汗かかされた。場所は河原町四条。下図の赤矢印〈大雲院〉とあるのがそれである。もうお分かりになっていると思うが、寺域はすべて高島屋になっている。昭和四十七年に、すったもんだの攻防を経て、高島屋が買収に成功したのである。 

 地図の説明をしておく。
 〈真丁〉〈御旅丁〉〈四条〉とあるのが、現在の四条通り。
 文字の天地が逆だが、〈中之丁〉〈貞安丁〉〈大文字丁〉とあるのが寺町通り。
 〈いなり丁〉〈風呂や丁〉〈米や丁〉〈塩や丁〉とあるのが、河原町通りである。
 その右、水色は高瀬川。それから東へ木屋町、先斗町、賀茂川になる。
 それぞれの町名は、嬉しいことにそのまま残っている。

 もうお分かりのように、大雲寺の旧境内は高島屋の敷地になっており、どこにも面影は残っていない。したがって、あの噂の標柱もいまでは無くなっているのかも知れない。

 もうこうなれば意地である。納得のゆくまで標柱探しをしてやろうと決めた。
 結論を云うと、標柱ではなく標石であった。この石を探し出すのに、ご苦労にも高島屋の周囲を二回も回って歩いた。(苦笑)

 高札はすぐ後ろに見える神社のもの。
 大雲寺の標石は手前の植え込みにおいた黒御影石。
 右の道路は高島屋への納品車両のための道。突き当たりが高島屋。

 これも聞いた話だが、高島屋がこの土地に社屋を増築したとき、無数の人骨が出てきたそうである。

[浅草・並木町]

 
並木町という地名は戦前になくなった。いま雷門一丁目と二丁目になっている。
 雷門と駒形橋の間が並木町である。昔、浅草観音の参詣道に桜の並木を植えたところから、その名前がついた。

 それにしても、まだ若い京の駆け落ち者がが、このような一等場所に店舗を構えたのは、相当な出世といえる。

 江戸名所図会に並木町の一部が描かれている。地名の元になった桜並木はとっくに無くなっており、図会には店屋と往来の人たちだけが描かれている。
 当時の並木町は大きな店屋が並び、人の往来が頻繁だった様子が見てとれる。
 この図のすぐ左が雷門である。雷門の前に『銘酒隅田川』とあるのは、当時、評判高かった酒である。浅草寺の門前に造り酒屋があったなんて、いまの浅草からは想像もできない。 



 噺の構成や、〈帯の誉田屋〉と〈噺の誉田屋〉との関係など、書くべき事項はあるが、落語行脚は、落語に登場したその場所を訪問するのが主旨なので、深くは立ち入らないでおく。[帯の誉田屋]の項に、略年表があるので参考にされたい。
 
 


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