麻布絶口 釜無村


 落語・講談の語り口のひとつに「道中づけ」というのがある。街道の道筋とか地名を、テンポよく一気に言いたてる型のことである。その一例を『池田の猪買い』から紹介しよう。猪肉を食べたくなった喜六が、ご隠居の甚兵衛はんに教わって、丼池から池田へでかけるジーンである。

 うちを表へ出ると、これが丼池(どぶいけ)筋じゃ。これをド〜ンと北へ突き当たるなぁ。すると、この丼池の北浜には橋が無い。左へ少ぉし行くと淀屋橋といぅ橋があるなぁ。淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡る。お初天神の西門のところに「紅卯」といぅ寿司屋がある。この寿司屋の看板が目印や。こっからズ〜ッと北へ一本道じゃ。十三の渡し、三国の渡しと、渡しを二つ越える。服部の天神さんを横手に見て、岡町から池田じゃ。

 なんだか阪急宝塚線に乗ってるみたいな感じになる。

 その場所を知らない人でも、「紅卯」とか「服部の天神さん」とか、このように語られると、噺に親近感を覚える。紅卯にぶら下がっていた提灯は何色だったのだろうか。天神さんの梅はさぞかし美しかったのだろうな、などと想像してしまう。

 この道中づけのなかで、もっともよく知られているのが東京落語の『黄金餅』の道中づけである。志ん生の十八番だった。この道中づけをやりたいばかりに『黄金餅』を高座にのせる噺家もいるそうである。上手に調子よく語りきると、演者としてもさぞかしいい気分になるのであろう。

(リズミカルな速いテンポで)。下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下ィやってまいりまして、三枚橋を渡って上野広小路へ出てまいります。あれから御成(オナリ)街道をまっつぐに五軒町へまいりまして、その頃、堀様と鳥居様のお屋敷の前(マイ)をまっつぐに、筋違御門(スジカイゴモン)から大通り、神田須田町へ出てまいりまして、
(テンポ、次第にアップする)。新石町(シンコクチョウ)から鍛冶町(カジチョウ)、今川橋を渡って本銀町(ホンシロガネチョウ)石町(コクチョウ)から本町(ホンチョウ)室町(ムロマチ)を抜けまして、日本橋を渡って通四町目(トオリ4チョウメ)、中橋から南伝馬町(ミナミテンマチョウ)を抜けまして、京橋を渡ってまっつぐに、尾張町へまいりまして、新橋を右に切れて土橋(ドバシ)から久保町、新シ橋(アタラシバシ)の通りをまっつぐに愛宕下(アタゴシタ)ィ出てまいりまして、天徳寺をくぐって西の久保から神谷町(カミヤチョウ)から飯倉六町目。坂を上がって飯倉片町へかかって、狸穴(マミアナ)の通りへきて、右に上杉様のお屋敷を見ながら、左に、その頃、おかめ団子という評判の団子屋の前(マイ)をまっつぐに、麻布の永坂を下りまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、一本松から麻布絶口釜無(アザブゼッコウカマナシ)村の目蓮寺(モクレンジ)へ着いたときには、みんなずいぶんくたびれた。……。あたしもここでくたびれた」

 「目蓮寺に着いたときには、みんなずいぶんくたびれた」で客席からどっと拍手がくる。「あたしもここでくたびれた」で、客席は笑いと拍手の渦になる。



[西念]

 上野の山崎町に西念という乞食坊主がいた。江戸中を貰いに歩き回っている。汚い頭陀袋を胸にかけて、「南無阿弥陀、なむあみだ」とお経を唱えて、幾ばくかの金をめぐんでもらい、隣の家へうつり、「ああこの家は法華だなな」と思うと、頭陀袋をくるっと返すと『南無妙法蓮華経』としてある。背中には十字架を書いてあったりする。まさか、それはないだろう。(この部分は志ん朝のくすぐり)

 この西念が急病になって、もう何日ももたない状態になった。
 西念の隣家は金山寺味噌を売って歩く金兵衛という男である。隣のよしみで、西念を見舞うと、西念は「あんころ餅」を食べたいという。あまり強くせがむので、金兵衛が買い与えると、「すまないが一人きりで食べたい」という。金兵衛は仕方がないので自分の家に戻り、壁の穴から西念の様子を窺う。
 誰にも見られていないのを確かめた西念が、懐から汚い胴巻きをだして、逆さに持ち上げると、中から小銭がザラザラっとでてきた。西念はこれを、あんころ餅にくるんで、なんと、その餅を食べ始めた。
金「あいつァ、食うものも食わず、爪で火をともすような暮らしをしてたから、あれだけの金を貯めやがったんだな。あれ、あれ!あの餅を食べだしたぞ。ああ、分かった。あの金に気が残って死ねないんだ。金をあの世に持っていくつもりだな」

 西念は、あっけなく餅を喉に詰めて死んでしまった。


[金兵衛]

 西念や金兵衛が住んでいた当時の上野・山崎町というのはたいへんな処だったらしい。貧乏暮らしに事欠かなかった志ん生が(大正か昭和の初めのこととして)「あの頃、山崎町は昼でも歩くのが怖いくらいだった」と述懐している。

 お互いに貧乏暮らしをしている金兵衛が、ここで考えた。西念の死に様は誰も知らない。ならば、なんとか工夫して、西念が腹に収めた金を俺のものにしてやろうと。
 まずは家主に西念の死を報告し、長屋の連中を集めて、西念の弔いの真似事でもしてやろうと図った。金兵衛が言うには、「西念が死に際に、自分には身寄りがない。金兵衛さんの寺に葬ってくれと。…。ウチのお寺は少し遠いが麻布にある。みんなは明日の仕事もあることだから、今夜の内に西念を寺に運んでしまおうと思う。寺に運びさえすれば、あとは俺が一人でなんとかするから。どうだ、手伝ってくれるか」
 長屋の連中は、お通夜だ、葬式だと、毎日、呼び出されるのはかなわない。貧乏所帯なので、仕事に出ないとその日が暮らしてゆけないのである。だから、長屋連中は金兵衛の提案を一も二もなく受け入れた。かくて、上野から麻布への貧乏葬礼になった。
 金兵衛の胸の内には、たいへんな計画があった。それは、西念を自分の知り合いの焼場へ担ぎ込み、お骨になったところで、西念の腹中にあった金銀を盗もうという企みだった。
 このように書くと、金兵衛という男は、とんでもない悪者に思える、志ん生の高座では、これがあっけらかんと描写されるので、陰惨な感じにはならない。話芸のもつおもしろさであろう。

[ご同輩]

 山崎町から麻布まで、約11km、休みなく歩いたとして3時間という見当らしい。考えてみると、いくら江戸時代の噺であっても、3〜4時間もかかる葬列があったとは思われない。しかし、噺がこうなっているのだから仕方がない。
 『黄金餅』の道中づけに刺激されて、そのコースを歩いてみようという変わった人たちがいる。わたしは、江戸の古地図を広げて、歩き回っている中高年の男女の写真を見たことがある。落語好きもここまで嵩じてくると、立派なものだ。
 ある報告では、全コースは12.56kmだったとのことである。いったい、どのようにして計測したのだろうか。お江戸にも妙に熱心な人がいるものだ。 

 島岡先生という方がおられる。肩書きは埼玉大学名誉教授とあるから、たいへんに偉い先生に違いない。『落語〈黄金餅〉の経済学外論』という論文を書いておられる。さらに『志ん生〈黄金餅〉の貨幣の資本への転化』という大論文もある。それらの論文によれば、葬列は11.5kmの道のりだったらしい。島岡先生は車の走行メーターで測られたのではないか。察するに交通量の少ない深夜に走らせたのではなかろうか。なにしろ都心部でのことである。測定自体も困難が多かったとご同情申し上げる。
 余計なことだが、論文名が「経済学概論」ではなく『外論』とされているのも奥ゆかしく微笑ましい。

 もとより、わたしも志ん生は好きである。東京落語ではあるけれど、落語行脚を始めた以上、黄金餅の道中づけを放っておく訳にはいかない。いささか嵩じているなと思いつつも、新幹線に飛び乗って、一泊二日の東京行脚をしてきた。もっとも、山崎町からの全コースの踏破は東京の人に任せて、浪速の落語狂としては、後半の新橋から麻布絶口釜無村までにご遠慮申し上げた。
 ありていに告白すると、上野・神田・銀座・新橋などの道筋は、そんなに興味がわかないが、後半はわたしにとって未知なので歩きたかったのである。

 いつもの宿から在京の友人に電話をした。お江戸へ出てきた挨拶を申し上げ、上京した理由を話すと、彼は面食らったみたいだった。それはそうだろう。挨拶もそこそこに、いきなり「落語がどうとかこうとかで、…。西念という乞食坊主が死んで、…。上野から麻布までの葬式がどうとかこうとかした」などと聞かされたら、誰だって驚くだろう。いったい何事だと怪しんだに違いない。
 それでも、松井さんは「その辺はぼくの散歩コースです。久しぶりにお目にかかるのだから、ご一緒にお寺探しをしましょう」と、嬉しい返事を頂いた。




赤線がわたしの歩いた道筋

[田村町]


 朝のラッシュの余韻が残っている新橋駅(地図の右上)から歩き出した。噺の道順はイイノホールへ向かうのが正しいらしいが、その道は純然たるビジネス街でビル群の下を歩くことになる。それでは面白くもなんともないので、3〜5階建てのビルで、一階が食事処の店で、最上階にビルのオーナーが住んでいる、そんな生活の匂いの漂う道を選んで歩いた。

 〈切腹最中〉の看板が目についた。そうだ。このあたりは浅野内匠頭が切腹した田村屋敷跡なのだ。見回したかぎり、どこにも標石らしいものはなく、それらしい雰囲気のものはなにひとつなかった。日比谷通りに出た。そう遠くない位置に日比谷公園の緑が見えた。すると、その先は皇居である。

 江戸城松の廊下で、内匠頭が吉良上野介を斬りつけたのは、元禄十四年(1701)三月十四日午前十一時頃だった。簡単な取り調べがすむと、式服のまま網をかぶせた駕籠に乗せられ、江戸城の不浄門から出された。田村屋敷に着いたのは午後四時だった。江戸城から移送中に将軍綱吉の裁決が出た。〈その身は切腹、お家は断絶〉というきわめて厳しい判決だった。田村屋敷に着いた内匠頭に、昼の食事が出された。彼は湯漬けを二杯だけ食べた。食後、彼は酒と煙草を所望したが、それは許されなかった。午後六時頃、検使の見守るなかで切腹した。三十五才だった。事件発生から、わずか七時間後に死んだのである。

というわたしは田村町方面へ向かった。忠臣蔵のあの事件で、浅野内匠頭が切腹に及んだのがこの辺りである。日比谷公園の緑はそんなに遠くない。

 元禄十四年(1701)三月十四日。殿中松の廊下で、吉良上野介に斬りつけたのは午前十一時頃だった。午後一時に田村屋敷にお預けが決定された。午後三時に、内匠頭を乗せた駕籠が、不浄門とされていた平河口から出た。駕籠には網が掛けてあったという。午後四時に田村邸に到着。田村屋敷では、昼の膳を用意し、内匠頭は湯漬けを二杯食べた。「酒を飲みたい」と頼んだがそれは断られた。つぎに煙草を所望したが、これも断られた。午後五時、城中から検使役が到着。ただちに切腹が執り行われた。事件発生から僅か七時間であった。

 

[愛宕下]


 愛宕神社の石段は見上げるような急勾配だった。この石段を乗馬のまま登り降りした男があった。
 寛永年間、家光が増上寺参詣の帰途、愛宕下まで来たとき、神殿の前に咲いていた梅を見て、「誰か馬に乗ってあの梅をとって参れ」と命じた。歩いて上り下りするのも怖いような急傾斜である。乗馬したまま登降するのは危険きわまりない。旗本連中は皆、押し黙っていた。一人の男が登りだした。梅を手折り、静々と降りてきた。見事な手綱捌きだった。男は旗本ではなく丸亀藩の侍だった。家光から「そちは日本一の馬術の名人なるぞ」とのお言葉を賜り、これが彼の出世の糸口になった。  

 この写真で見るよりも、実際の石段はもっと急傾斜である。歩いて登るのがやっとのことだろう。なんとか登れたとして、降りるのはもっと怖いだろう。手すりを握りしめて、一歩ずつ慎重に足を運ばないと、転倒するのは間違いない。転倒すれば、下まで真っ逆さまである。大怪我は間違いない。それを馬に乗って敢行したのだから恐れ入る。いまのオリンピック選手でも難しいのではあるまいか。

[天徳寺]

 愛宕神社の下はトンネルになっていて、楽に向こうへ抜けられる。金兵衛たちの時は、トンネルなんてなかったのだろうから、棺桶を担いであの岡を越えたことになる。さぞかし難儀したことだろう。
 トンネルを出たすぐの所を左折すると天徳寺の木立が見える。(地図の青矢印)


 天徳寺は由緒のあるお寺みたいである。境内も広く、都心にあるのに緑も濃い。この一画は戦災にあわなかった模様で、昭和初期の木造住宅が残っている。とても懐かしい風景が残っていて、気分よく歩ける。
 山門の前に「西之窪観音」の標石が立っている。道中づけに「
天徳寺をくぐって、西の久保から神谷町へ」とあるが、天徳寺の一帯を西の久保というらしい。

[ロシア大使館]


 神谷町を過ぎて、飯倉まできた。道中づけでは「
その頃、おかめ団子という評判の団子屋」とあるが、団子屋は明治初期に廃業した。いまは大きいビルになっていて、面影もなにもまったくなくなっている。(地図の赤矢印)
 飯倉片町から右折して、狸穴方向へたどる。

 写真中央にこんもりとした楠の樹影が見えるが、あそこがロシア大使館である。手前に警視庁のバスが駐まっている。警備要員を運ぶ車である。
 辻々に防弾チョッキをつけた警官が立っている。パトロールの警官がしょっちゅう巡回している。それだけではない、私服の刑事も目を光らせている。ものものしい警戒ぶりである。
 だから、わたしも、それまでのようにあちこちをキョロキョロ見回したり、やたらとカメラのシャッターを押したりするのは控えめにした。職務質問でもされて、「大阪から来た落語マニアです」なんて答えようものなら、たちまち怪しまれて「本署まで同行願います」なんてことになって、パトカーで警視庁まで送られる、というのは嫌である。
 普段でもこのような厳重な警備を行っているのだろうか。とすれば、東京には外国大使館がわんさとある。それらにも、そこそこの警備をしているとすれば、警視庁も大変にご苦労なことだと、へんな同情を申し上げた。
 それにしてもこの厳重な警戒は、ただごとは思えない。おそらく本国から相当なVIPが来ているのだろう。
 

[松井さん]

 松井さんは高輪に住んでおられる。ご夫妻ともちゃきちゃきの江戸っ子である。わたしはお二人のことを、心密かに、かなり身分の高い旗本の後裔ではないかと思っている。その松井さんが、麻布一帯は自分の散歩エリアであると言われた。「曹渓寺というのは知らないが、とにかくご案内しましょう」とも仰って下さった。
 落ち合い場所は、わたしが指定した。大阪人が生粋の東京人に落ち合い場所を指定するというのも変だが、とにかく、わたしがきっちり辿り着ける場所を選ぶのが先決である。東京人がその場所を探し当ててくれれば、万事が目出度く解決する。
 わたしが指定したのは、地下からの出口のすぐ横にお稲荷さんがある場所だった。これなら誰にでも分かるだろうと見当をつけたのである。後で分かったことだが、麻布十番は地下鉄の交差駅で、出口が20ヶ所ぐらいあるような複雑な構造の駅だそうである。そんな捜し物みたいな場所にもかかわらず、松井氏は定刻に姿を見せた。さすがに江戸っ子だけのことはある。
 時分どきになっていたので、とりあえずお腹になにかを詰めようということになり、彼の案内でとある名代の蕎麦屋へ入った。「大阪の人はうどんの方が良いのでしょうが…」としきりに言い訳をしていた。落語行脚のどこかに書いたように、わたしは生粋の米飯党である。ご飯でないのなら、蕎麦であろうが饂飩であろうが、はたまたスパゲッティであろうが、五十歩百歩である。郷には入れば郷に従えともいう。ここはひとつ江戸っ子の顔をたてて、お蕎麦を賞味させていたかねばならぬ。彼は天麩羅蕎麦を注文したが、わたしはつつましくざる蕎麦にしておいた。

 大黒坂を一本松まで上がる。〈881〉ナンバーの白い車の向こうにヒョロヒョロと高いのが〈一本松〉だった。そこはこの辺の最高点らしく、いくつかの道がここを目指して登ってきている。


 暗闇坂を通して六本木ヒルズの高層ビルが望めた。かの有名な六本木ヒルズだが、あとにもさきにも、これが初めての出会いだった。

[麻布絶口 釜無村]

 絶口坂というのは、少々入り組んだ所だったが、松井さんのお陰で、そんなに迷わずに曹渓寺にたどりついた。それというのも、彼のご先祖伝来の嗅覚のなせる技だったのだろう。

 区役所が立てた標柱の説明に「曹渓寺の初代住職・絶江和尚は名僧であった。その名前が地名になり、坂の名前になった」とあった。
 落語の速記本には絶口になっているが、絶江というのが正しいらしい。

 噺では、曹渓寺はきわめつけの貧乏寺として登場する。しかし、実際にはなかなかのお寺であったらしい。
 区役所としては書きにくいことがある。「釜無村」の由来である。曹渓寺は丘の上にあり、それなりの格式があったが、お寺の下にあった町は貧乏人の集まりだった。お釜のない家が多いので、いつしか釜無村とか釜無横丁と呼ばれるようになった。ここの住人は、朝ご飯をすませると、釜を質屋へもってゆき、いくばくかの金を手にする。その金で、一日の要り用をまかない、亭主が日銭を稼いで帰ってくると、それを持って質草のお釜を取り戻し、夕食を炊くのである。文字通り〈その日暮らし〉をしている底辺の人たちであった。
 そんな貧乏村の傍にあったから、曹渓寺が噺の目蓮寺にされたのだろう。


和「誰だーあ、夜遅く、ドンドンドンいわせてるのは。ははん、酒屋の小僧だな。目蓮寺の和尚は一升や二升の酒で、夜逃げはせん、そう、親爺に言っとけ!」
金「酒屋の小僧と間違えてらァ、俺だ、金山寺屋の金兵衛だよっ」
和「なにっ?金山寺?ちょうどいいや。早く持ってこい」
金「違うよ。弔いをもってきたんだよ」
和「その声は山崎町の金兵衛だな。分かったよ。…。門を、そう、ドンドン叩いちゃいけねえよ。この前の風で倒れたのをつっかえ棒で起こしてあるだっけなんだから。むやみに叩くとまた倒れるぞ」
金「じゃあ、どこから入んのよう?」
和「塔婆垣の先に銀杏の木があるだろ。その根方、見るてぇと穴が空いてらァ。犬が出たり入ったりしてるから、そこからもぐって入って来い」

 弔いの値段の交渉は、天保銭六枚で話がつく。
 和尚は法衣の代わりに風呂敷をかぶり、埃たたきを払子(ホッス)にみたてて、ええ加減なお経を読み、それでお仕舞いという、たった六文にふさわしい弔いになった。
 和尚から、焼場へ差し出す切手を書いてもらった。切手がないと焼いてもらえないのである。切手をもらったところで、葬列は解散になった。棺桶を担いできた連中への振る舞い酒もないままだった。金兵衛にはこれからが肝心の大仕事になるのである。長屋の連中はぼやきながら山崎町へ帰って行った。
 連中を追い返した金兵衛は、今度は自分一人で棺桶を担ぎ、焼場へ運ぶ。うまく言いくるめて、適当に焼いてもらい、死骸の中の金を取り出す。

 凄惨な状景なのだが、志ん生の語り口はあっけらかんと、底抜けに明るい。そこが話芸の不思議なところで、志ん生に心酔している客席は無邪気な笑いに包まれれるのである。

[釜無横丁にて]

 
 曹渓寺、いや目蓮寺(噺では、あくまでも目蓮寺である)の周りをひと回りしてきた。
 写真の左、石垣の部分が目蓮寺である。写真の電柱の下辺りで左折して細い道に入った。
 その昔はいざ知らず、いまは小奇麗な住宅街になっている。

 そのなかに一軒だけ町工場があった。たまたま休憩時間だったのか、従業員が煙草を一服やっていた。
「落語の黄金餅はご存じですか」
「ああ、よく知ってるよ。ウチの上にある寺が、あの噺に出てくる寺だよ」
「というと、ちょっと、言い難いですが、この付近が釜無横丁ということになりますね」
「(笑いながら)そうだよ、事実、昔はこの辺は貧乏人の住まいだったらしいよ。いまは、すっかりマンションだらけになって、いまこの前を通っていった女性みたいな上品な人の住む街になりましたがね」
「わたしは、大阪から来たのですが、どうですか、落語マニアが尋ねてきませんか」
「おや、大阪からですか。ご苦労さんですね。この前は広島の人が来ましたよ。その前は山形の酒田の人だったな」


 松井さんと一緒に品川へ出て、駅ビルで冷たい飲み物をご馳走になり、そこで別れた。『黄金餅』行脚は無事に終了した。


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