この章では近江の国・柏原宿へ出かける。 中山道は、草津の宿で東海道と分かれ、彦根の城下を過ぎ、番場宿(米原)で北国街道を分岐する。番場の次の次が柏原宿である。近江と美濃の国境にある宿場で、中山道ではもっとも大きい宿場のひとつに数えられていた。 |
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この宿場が舞台になった噺があるにはある。『亀佐』という噺である。わたしは、その噺を録音でしか聴いたことがない。それも、この落語行脚を書き始めて、落語全集などを調べていてみつけ出したのである。 しかし柏原宿は、『亀佐』以前から訪ねてみたい処だった。理由はふたつある。 ひとつは広重の浮世絵の一枚に惹きつけられたことである。広重は『東海道五十三次』の大成功をうけて、『木曾街道六十九次』を描いた。そのなかの柏原宿では、伊吹艾(モグサ)で有名な『亀屋佐京』の店先を描いている。『亀屋』の家は、広重が描いたそのままが今に残っており、先祖伝来の暖簾を守っておられる。 もうひとつは、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』シリーズの『近江散歩』に刺激を受けたからである。司馬氏はその中で『寝物語の里』を取り上げておられる。そのような雅びな名前の村があると知って、じっとしていられなくなった。 |
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![]() これから、司馬遼太郎氏の散歩を追いながら、わたし達も中山道を歩むこととしよう。 関ヶ原宿から柏原宿まで約7kmの行程である。あちこちに残っている旧跡をたどりながら、のんびりと歩こう。 この図は『近江散歩』から借用した。 |
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[関ヶ原宿] |
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関ヶ原は江戸から数えて五十八番目の宿場である。「名ぶつ さとうもち」の提灯がさがっている。左の床机に座っている男は、そのきな粉餅を食べている。馬子が「馬はいかが」と声をかけている。茶店の看板には「そばきり うんどん」とある。「五三」とも書いてあるが、その意味はわからない。壁に掛かっているのは、売り物のわらじ・菅笠・雨傘などである。 |
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JR関ヶ原駅を降りたのはわたし達二人だけだった。駅前に観光案内所がある。わたし達の姿を見つけて、陣羽織みたいな半被を着た人が現れた。観光客の案内をされているボランティアの方々だった。わたしが「古戦場ではなく中山道を訪ねるのが目的です」というと、皆さんは拍子抜けされた様子だった。観光客には関ヶ原の戦いが人気みたいで、町が出しているパンフレットもそっちのことばかりである。それでも、ボランティアの方は、わたし達を「国道を歩かれるときは、くれぐれも車に注意なさって下さい」と笑顔で送り出して下さった。 |
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なるほど国道21号線の交通量はすごかった。大型トラックがうなりをたてて走っている。これが昼夜をわかたず続いているのだから、沿線の住民はたいへんな思いをされているに違いない。 しばらくの処に「西首塚」があった。天下分け目の決戦で命を失った人達を葬った処である。「西」とあるからには「東」もあるのだろう。合戦は十数時間で東軍の勝利になったのだが、その僅かな時間に大変な数の戦死者をだしたのである。 |
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ほどなく旧街道は21号線と分かれた。嘘のように静かになる。 |
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[不破の関] |
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北国街道の「愛発(アラチ)の関」、東海道の「鈴鹿の関」とならんで、日本の三関とよばれる。627年の壬申の乱で、最初の戦闘がくりひろげられた。壬申の乱の話となると、わたしは脱線してしまう可能性がある。そうならないように用心しながら書くが、日本の古代史のなかで、あの事件ほど手に汗を握るものはない。大海人皇子が吉野離宮を脱出して、大宇陀・名張を経て東国に出奔する。それはまさに危機一髪の脱出劇だった。 |
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![]() かろうじて脱出に成功した大海人は、東国の兵を集め、不破の陣を固めた。これに対抗した大友皇子は兵力の結集にてまどり、決定的チャンスをみすみす見逃したのだが、かき集めた軍勢を派遣し、両軍が最初に衝突したのが此処である。砦の下に藤古川が流れている。写真に見るように10〜13mの段丘になっており、岡の上に陣取った東軍は、下から攻め立てる西軍をさんざんに射て、壊滅的打撃を与えた。 たいした段差ではないが、当時にあってはこの高低差が両軍の運命を分けた。 昭和四十九年、伝承に従って岐阜県が発掘調査したところ、みごとに不破の関跡を掘り当てた。小さな小学校ほどの広さがあったらしい。その地に町立の資料館がある。精緻な模型があったが、それからすると、瓦葺きの堂々たる関所だったようである。 |
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壬申の乱が収束した後、勝利した天武天皇(大海人皇子)は、ここに関所を構え、武器庫を設け、軍勢を常駐させた。 面白いことに、その後、藤古川の東側の村民は天武天皇(大海人皇子)をお祀りし、西側の村では弘文天皇(大友皇子)を氏神さまとして祭るようになった。 |
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[常磐御前] |
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![]() 常磐御前は、源義朝の側室であり、牛若丸(源義経)の母である。都で絶世の美女の評判が高かった。彼女は数奇な生涯を送った。源平の戦いで義朝が戦死し、常磐とその子三人が捕らえられた。彼女は子ども達の助命を嘆願する。平清盛は、子ども達を出家させることを条件に、一命だけは助けてやる。また、常磐の美しさに惚れて、彼女を妾にする。 その後、誰だったかと結婚し子どもも生まれる。正史で分かっているのはそこまでである。 平家の滅亡後、頼朝と義経が対立し、義経は陸奥へ逃亡する。伝説では、常磐はそれを追って、陸奥へと向かうのだが、その途中で、この場所で盗賊の手にかかり殺されてしまう。(常磐伝説は多くあり、その墓所と伝えられているのも、群馬県・埼玉県・鹿児島県などにある。) |
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[今須宿] |
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![]() 今須(イマス)は美濃の国の最後の宿場。 山と山に挟まれた狭い空間に、新幹線、21号線、東海道線、名神高速と、いずれも物流の最重要路線が併走している。 手前のトンネルは21号線、いましもクラウン物流の大型トラックが走り抜けようとしている。そのすぐ向こうの円形のトンネルは東海道線。おかげで、お寺やお墓に参るのもトンネルを潜ってゆかねばならない。 振り返った山の中腹には新幹線がすごいスピードで往き来している。 さらにその向こうは名神高速である。昼夜を分かたず長距離トラックがびゅんびゅん走っている。 夜になってあたりが静まると、これらがまき散らす騒音が、山々にこだまして今須の村に降り注ぐのではあるまいか。 |
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[車返しの坂] |
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![]() 今須の村の出口に『車返しの坂』というのがある。 文明年間(1469-1487)というから、都では応仁の乱がなお闘われていた頃である。都の貴族(二条良基)が、「不破の関が荒れ果てて、板ひさしからもれてくる月の姿が哀れである」と聞きおよび、この地へ下ってきた。 村人は尊いお方が来られるのに粗相があってはならぬと、総出で草を刈り、壊れた屋根庇を修理した。一方、良基は、あと少しで不破の関という此処まで来て、関跡が美しく整備されたのを聞き、それではものの憐れを観賞できないと、車を引き返してしまったという。 その時代は、日本史で習ったように下克上の時代であった。旧来の権威なんかは糞くらえという世相であった。しかし、草深い田舎の庶民からは、京の貴人は、依然として尊い存在と目され、丁重にお迎えせねばならぬという気風が残っていたらしい。 |
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[寝物語の里] |
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「江濃両国境」とした標柱を旅人が見上げている。はるばると来たものだなあ、と思い入れをしているのだろう。標柱は、家と家の間に立っている。つまり、家と家の間が国境線らしい。 手前の家に「寝物語由来」とした看板がぶら下がっている。そいう題名の冊子を売っていたのだろう。 二人の男が煙管の火をやりとりしている頭上に「仙女香 坂本氏」との貼り紙みたいなのがある。これは江戸・新橋にあった仙女香本舗(化粧品屋であったらしい)の宣伝である。この家にそんな看板がかかっていたわけではない。広重と仙女香とは関係があったらしく、彼の東海道五十三次の絵にも、これと同じ趣向のが描かれている。いまも東京には仙女香本舗が存続しているのだろうか。 同じく「不破の関屋」として、その下に小さな文字でなにやら書いてあるのは、寝物語由来と同様に、不破の関を解説した看板のように思える。 |
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以下は、司馬氏の文章を抜粋しようとおもう。 |
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近江路のなかで、行きたいとおもいつつはたしていないところが多い。 そのひとつに、寝物語がある。 そこは美濃と近江の国境(クニザカイ)になっている。山中ながら、溝のような川(?)が、古い中山道の道幅を横断していて、美濃からまたげば近江、近江からまたげば美濃にもどれるという。 『近江輿地志略』によれば、 近江美濃両国の界なり。家数二十五軒、五軒は美濃、二十軒は近江の国地なり。 と、戸数まで書かれている。両国のさかいはわずかに小溝一筋をへだてているだけだという。壁ごしで、近江の人と美濃の人とが寝物語する、というところからその地名ができた。 |
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杉木立をくぐりぬけると、道は平地におりる。そのあとガードをくぐったり、踏切をこえたりして、再び広重の絵に描かれているような古街道らしい道に出た。両側に家々が並んでいる。小さな町家ふうの家もあれば、農家ふうの家もある。ガレージもある。じつはここが寝物語の里だったのだが、気づかずゆきすぎた。 | ||
見過ごした理由のひとつに「国境の川」という先入主もあった。いかに「小溝」とあっても、橋くらいはあるだろうと予断していたのがよくなかった。道路の下に、下水道のようにして幅50cmほどの溝がある。それが国境線だった。 | ||
(往時は広重の絵のように、両側に家が並んでいたので)軒下に立てば、両国の人は小声で世間話をすることができる。あるいは真夏の寝ぐるしい夜、軒下に縁台さえ出せば、互いにうとうとしつつも物語ができるはずである。 | ||
![]() 左の石碑には「旧跡寝物語 美濃国不破郡今須村」とある。それに対する近江側には、そのような石碑はなかった。 滋賀県側の車も、岐阜ナンバーのが多かった。皆さん、生活的には岐阜県の人のようである。 |
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![]() これまで自制してきたが、そのタブーを破ってわたしの写真を見ていただく。右足は岐阜県、左足は滋賀県。 |
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[柏原宿] |
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柏原宿は昔の宿場の風情は乏しかった。先入観なしに見れば、普通の村落である。しかし、村に知恵者がおられたらしく、それぞれの住宅に、その家の昔の屋号とその内容が板書されていた。たったそれだけで、平凡な普通の村が、道中合羽の旅人が往来する往時の柏原宿がよみがえってきた。 「梅本屋万吉・旅籠屋」、「惣左衛門・坂田郡内取締大工」、「助三郎・蝋燭屋」、「西川漱右衛門・造り酒屋・年寄」、「源助・煮売屋」。 煮売屋が三軒ほどあった。宿は素泊まりだけにして、食事は煮売屋でとる旅人が多かったのであろう。ついでに言い添えるが、江戸・大坂などの都会ではこの煮売屋が多かった。職人たちは煮売屋で買ってきた品で食事をすましていた。普通の所帯でも、煮売屋の方がバラエティもあり、かえって安くつくといった理由で、これらを利用する家もあった。 |
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![]() べんがらの色が残っているこの家は問屋をしておられた。「問屋役・杉野重佐衛門」とある。 街道に面した部分は改造されているが、往時は、広い土間があり、馬つなぎの柱なんかもあったはずである。 問屋というのは、荷物の中継を行うのが任務であった。誰でもがつける仕事ではなく、村の有力者が藩の許しを得て、その業についた。 荷物は馬の背中に結わえられて来る。荷札を改め、封印を確認し、その旨を書き記した上で、新しい馬に乗せて運び出す。 このように次々に中継しながら遠方まで、安全確実に送られるのである。問屋場は当時の物流の要(カナメ)であった。 |
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[亀屋佐京] |
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柏原宿・亀屋佐京の賑わう様子。 駕籠が二挺とまっている。これはどうやら荷物を運んでいるとみえる。担ぎ棒に荷札を掲げている。 左から説明していこう。 「酒さかな」の看板の向こうに結構な庭がある。屋根越しに築山の緑もみえる。それを眺めながら一服しているのは、かなりの上客ではないか。 上がりかまちにわらじのまま休んでいる人の右に据えてあるのは、伊吹山の模型である。それに商品の艾(モグサ)の袋を並べてある。柱の陰になっている男は、ここの手代であろう。お客にお灸のすえ方なんかを教えているのだろうか。 菅笠をもち、道中の振り分け荷を肩にかけている男は、買い物をすませて出立しようとしている。衝立看板をはさんでその男を見送っているのは番頭であろうか。金看板には「薬艾」とある。 その右が、この家の大看板である福助の人形である。いまもその現物が残っている。 |
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伊吹山麓は上質のヨモギが自生し、古くから艾の生産が行われていた。なかでも伊吹の艾は高級品とされ、全国的に売られていた。伊吹艾がこのような地位を獲得できたのは、六代目亀屋七兵衛の功績が大きい。 いまは、お灸なんてごく一部の人だけのものなったが、わたしの子ども時分までは、多くの人が灸を据えていた。銭湯へいくと、背中がお灸の跡だらけという人も珍しくなかった。艾はどこの家にも常備されていた。艾の生産は、伊吹地方の主要産業になっていた。 |
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七兵衛は、大きな艾の荷を積んで、全国各地を行商して回った。(近江商人はいずれも行商から身を立てた)。七兵衛はかなりの金を得て、お江戸の地に入った。彼は江戸市中を売り歩き、さらに大金を得るに至った。 七兵衛はこの金を懐にして、吉原へあがり、連夜の豪遊を続け、得た利益をほとんどをはたいてしまった。これには七兵衛の深い目論見があったのである。 ある夜、花魁連中を呼び集め、このように告げた。 「わしは、江州柏原宿のもぐさ屋じゃ。艾を売って儲けた金で、いままでお前たちと遊び続けた。こんどは、お前たちが儂にお返しをしてくれないか」 「よろしゅうございますとも、どんな事でしょうか」 「簡単なことじゃ。お前さん方がお客をもてなすときに、こんな唄を歌ってはくれぬか。 江州柏原 伊吹山のふもと 亀屋佐京の切り艾 江州伊吹山のほとり 柏原本家 亀屋佐京の 薬もぐさ これだけの唄じゃ」 「お安いご用ですこと。よろこんで歌いましょう」 |
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吉原発のこの俗謡は、たちまち江戸中で流行した。 七兵衛の工夫はそれだけではなかった。この俗謡が大流行した機会を捉えて、多数の売り子を雇い、次のような口上で町中を回らせた。 ええ、名物伊吹艾で御座い。 この艾でお灸をすれば、病の神は逃げてしまい、 万病かならず全快は受けあいでござります。 七兵衛の商売熱心はそれだけではない。京・大坂では、浄瑠璃作家に依頼して、伊吹艾を題材にした脚本を書いてもらい、道頓堀などで上演させた。 かくて、柏原宿の亀屋佐京の切り艾は、全国ブランドになった。 |
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七兵衛は柏原で五十三ヶ所の田畑を手に入れた。経済的安定基盤を確保したといえる。その費用は八百九十五両にもおよんだ。 彼は屋敷地に大きな庭園を造成し、それを旅人に無料開放した。参勤交代の大名は奥座敷に招き入れて休息させた。 旅人も、大名や付き添いの侍たちも、故郷の土産に亀屋の艾を買った。艾は軽くて荷物にならず、手土産にはもってこいの品物だった。 |
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![]() わたしもお土産に買った。艾を持って帰ったとしても、家で灸(ヤイト)をすえるわけでもない。いうならば、この写真を写すために買ったようなものである。中味はどうでもよく、この袋を買ったようなものである。 店においてある商品は、新しい感覚のデザインの外装だったので「古風な袋のはありませんか」と頼んだ。すると、わざわざ店の奥から出してくれたのがこれである。 せっかくの品だから、表に記されている文字を書き写しておこう。 「伊吹堂正本家元祖 亀屋佐京」 「江州伊吹山麓柏原宿」 「無類七年晒」「効能顕著」 「伊吹御蓬艾」 なんでも艾はたいへんに手間がかかるものらしい。だからかなりの値段がするものと思っていた。ご参考までに申しておくと、実際はそうではなく千円札でおつりがあった。 |
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広重の絵に描かれている福助だが、これも多大な宣伝効果をもたらした。いまだに、この福助を見るだけの目的でやってくる人も多い(わたしもそのひとり)。 亀屋に福助という名の番頭がいた。頭の大きい、背の低い、福々しい顔つきの人だった。この番頭が、上下(カミシモ)姿で道行く旅人を招き入れて商った。彼の死後、福助の恩を忘れぬように、特大の福助像をこしらえた。これがいまに伝わっている。 大きな頭、いわゆる福耳、やや前屈みな感じで正座し、視線は自分の膝元にむいている。もうすこしで頭が天井につかえそうな大きさである。 一見してグロテスクなようだが、実物はけっしてそうではなく、愛嬌たっぷりである。 |
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![]() 挿入したこの写真だが、ハレーションが入り、画像もひずんでいる。失敗作のような写真を使ったのには訳がある。 亀屋では店内での撮影をきつく謝絶している。店の人は商品の管理をしているというより、カメラを構えるお客を管理しているようなものである。どうしてそこまで厳しいのか、その理由は定かではない。とにかく撮影厳禁なのである。 写真を撮れないのは残念至極である。読者の皆さんに亀屋の雰囲気を伝えたいが、それが叶わない。ようやくこの一枚を手に入れたので、ご覧に入れることとした。 この写真は、町立の柏原宿歴史資料館にあった写真である。額縁のままを写したので、カバーに映っている光がハレーションのようになった。察するに、地元の資料館も店内の撮影を許してもらえず、しかたなしに、誰か素人が隠し撮りしたのを掲示したらしい。 |
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作家でありテレビタレントでもある荒俣宏氏は、なぜか福助に興味をもっていて、その研究成果を著書にされた。「福助さん」(筑摩書房)。そのなかで、荒俣氏はこう断じている。 「亀屋の福助は、その大きさに圧倒され感動する。亀屋の福助をおいて、福助を語ることはできない。私は、柏原宿亀屋の福助に第一位の折り紙をつける」 なお、荒俣氏の推す第二位は、衣料品の福助(株)のマークになった社宝のを挙げている。第三位が何んだったかは忘れた。 |
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[亀佐] |
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肝心の落語の紹介を忘れるところだった。 噺に入る前に、七兵衛さんの唄の文句を復習しておかねばならない。 江州 伊吹山のあたり 柏原 本家 亀屋佐京の 薬 もぐさ |
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お寺で有り難いお説教が始まっている。 そのさ中、堂内に響きわたる大音量の鼾(イビキ)の男がいる。 説教をしている和尚さんが、「誰じゃいな、えらい大きないびきをかいてるのは」 ○「亀屋の佐兵衛さんでおます」 和「佐兵衛さんといえば、頭、禿げらかして、ええ歳になんなさる。そんなお人が鼾とは、お念仏の邪魔になる。これ、誰か早よとめなはれ」 ○「佐兵衛さん、和尚さんが、お念仏の邪魔になる、ちゅうてはりまっせ」 佐「グオーッ」 ○「佐兵衛さん、あんた、講中の偉いさんでっしゃろ、早よ起きなはれ」 佐「グオーッ」 |
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いっこうに起きないので、 ごうしゅう いびき じゃまの あたり かしら はげ あんた本家じゃ 本家亀屋 佐兵衛さん これっ ゆすり おこすえ |
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○「まだ起きまへんわ」 和「いまのんで、ひとつ、大きなのんを すえなはれ」 |