亀井堂



 左図は天王寺さんの境内にある『亀井堂』である。
 参詣人は、先祖の戒名をしたためた経木を「亀ノ井」に流して、先祖の供養をする。
 四天王寺以外のお寺さんにも、同じような風習があるのかどうかは知らない。

 経木をもった信者が長蛇の列をなしている。なにがしのお布施を渡して、経木をお坊さんに預ける。亀井堂の奉仕会の人が、経木を長い柄杓の先に入れて、水盤の中の霊水に浸す。堂内は線香の煙でもやっている。

 天王寺さんの説明による亀ノ井の縁起は、こうである。

 聖徳太子がこの井戸の水を汲まれたことがあった。水面に映ったご自分の姿を絵にされて、その絵図を井戸に沈められた。それ以降、井戸の水は太子のお姿を浮かべる有り難いお水となった。経木をこのお水に浸すことで、ご先祖の霊は浄められる。

 天王寺さんの説明とは異なる俗説が流布されている。わたしは、この俗説の方がはるかに有り難く感じられる。

 天竺にある無熱池の水が、竜宮城を経由して、銀の管を伝わって、はるか日本のここ亀ノ井に届く。この世に現れ出たお水は、ふたたび地中に潜り、十万億土の向こうの極楽へ流れゆき、阿弥陀如来がいらっしゃる蓮池に注ぎ出る。戒名に記された先祖の霊は、この有り難いお水と共に、極楽浄土へ運ばれる。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

[天王寺さんの点描]

 春秋のお彼岸およびお盆のお寺参りには、木片をごく薄く削いだ経木に、先祖の戒名をしたため、お寺にお供えして読経してもらい、先祖の菩提を祈る。
 縁日になると、天王寺さんの参詣道には「戒名書き」のテーブルがずらっと並ぶ。いまはすっかりセルフサービスになったが、ひと昔前までは、各テーブルに戒名書きがいて、その人に頼んで書いてもらったものである。彼らは年に数回の縁日にだけこの仕事に就く。露店やなんかと違って、戒名書きの人々は、素人の小遣い稼ぎみたいな感じだった。それでも競争原理は働くらしく、宗匠頭巾をかぶったりして、いかにも「自分は書道家なり」といったいでたちの人もいた。

 お彼岸になるのを待って天王寺へ行ってきた。普段は見かけることのない、戒名を書くテーブルが至る所に用意されており、参詣者がセルフサービスで書いていらっしゃる。
 わたしは、どこかに昔ながらの「戒名書き」の人がいないか、探して回った。ふたりだけ、居られた。どうやらご夫婦であるらしく、少し離れたところに座って客待ちをしている。繰り返す。噺に出てくるような「戒名書き」は、この夫婦二人だけになってしまった。男の方は筆に自信がおありなのか、「過去帳の書き換えもいたします」とあった。

戒名書き

 この噺は天王寺詣りのひと駒を、おもしろ可笑しく描写したもので、他愛のない話である。書き手が道端に並んでお客を待っていた、そんなのどかな時代の噺である。

「戒名書きまひょう。戒名書きまっせ」
「ああ、これこれ、ひとつ、戒名を書いてくださらぬか」
「へえ、おおきに。書かせてもらいま」
「ごりがりまから童子じゃ」
「けったいな戒名やな。それ、後回しにして、他のんを書きまひょ」
「まいまいちんしゃん童女」
「おたくの戒名は、けったいなんばっかりでんな。どんな字、書きまんね」
「護璃峨莉摩迦羅童子。舞毎珍紗無童女」
「そんな難しい字、わたい、書けまへんわ。俗名で書くのん、おまへんか」
「俗名やったら、おまはん、書けるねんな」
「俗名やったら、まかしといておくんなはれ」
「せんしゅうさかい、だいどうくけんのちょう、ほうちょうかじきくいちもんじしろうふじわらのかねたかほんけこんぽんかじわらへえべえ先祖代々過去帳一切の霊」
「なんだんね、それ、お経と違いまっか。お経やったら、わたい、書けまへんで」
「いいや、お経やない。俗名や」
「そんな長いのん、この経木に書けまへんで」
「それを工夫して書くのんが、おまはんの商売やないか」
「ほなら、書きまひょ。ゆっくり云うとくんなはれ」
「泉州堺、大道九軒町、包丁鍛冶、菊一文字四郎、藤原兼隆、本家根本、梶原平兵衛、先祖代々過去帳一切霊」
「せんしゅう、さかい、だいどう、……。かこちょう、いっさい、の、れい。…。へい書かしてもらいましたで」
「お代はいかほどじゃな」
「そうでんな。八十銭ほど、いただきまひょか」
「そら無茶な。戒名書きいうたら、どこでも、一銭か二銭やがな」
「戒名書き、ここにぎょうさん並んでるけど、こんな戒名、書けるのん、ま、わたいぐらいだけでっせ。えらい書き損じも出たこっちゃし、八十銭は安いと思いまっせ」
 わたしは、この戒名書きのおっさんが、お客にからかわれているのも知らずに、汗を流して懸命に書いている姿を想像して、深い同情の思いを抱くものである。

[大道九軒町]

 大道九軒町の梶原平兵衛さんは、『三十石舟』にも登場する。あの噺は何度も聞いているので「本家根本うんぬん」の部分は、いつしか覚えてしまった。そうなると妙なもので、大道九軒町がどんな処なのか訪ねてみたくなった。
 米朝師匠の本に、大道九軒町には本物の包丁鍛冶が居られるとのことである。われながらご苦労と思いつつ、その地へ行ってきた。

 大阪にもチンチン電車が走っている。天王寺から浜寺公園に至る阪堺電車である。懐かしい思いいっぱいで乗ってきた。車内の自社広告に「顔なじみ 今日も乗ってる 阪堺電車」というのがある。名キャッチコピーだなと感心した。たしかに一緒に乗っているお客は、スーパーで今夜のおかずを買ってきた小母さんとか、そんな気易すい人たちであった。

 堺市内に入ってすぐのところに「神明町」という停留所がある。そこが大道九軒町だった。道路が拡幅されて面影が失われたが、チンチン電車は往時の紀州街道を走っているのである。道路の東側は、戦災にもあわず、拡幅の対象にもならなかったので、昔ながらの古い民家が残っている。


 信田氏の屋敷はそのうちの一軒である。うだつの上がった堂々たる家だった。軒先にかかげた古風な看板に「堺刀司 文化二年創業」「堺打刃物 信田」とある。惚れ惚れする旧家であった。


天王寺界隈

 お彼岸やお盆のとき、天王寺さんに匹敵する参拝者のあるのが一心寺である。昔から納骨のお寺としてよく知られ、菩提寺が遠い故郷にある家では、お骨を一心寺に納めたものである。一心寺では、このお骨で仏像を造り、本堂にお祀りしている。そんな背景があって、天王寺さんに負けず劣らずの参拝者を集めているらしい。

 このお寺を有名にしたものが、もうひとつある。境内の中に本田出雲守のお墓があるのだが、このお墓に参ると酒を断つことが出来るという。
 世の中には、悪い酒癖に悩む人が多い。それらの人が熱心にお詣りしているらしい。

 なんと、お寺が立てた説明板に英語のがあった。目の青い人にも酒で悩む人はいる。そんな人々がこのお墓に参詣するらしい。以下、その英文を訳してみよう。
 「イズモノカミ・ホンダハ、有名ナ将軍デアルトコロノ、イエヤス・トクガワノ部下デアリマシタ。彼ハ酒ニヨル失敗ガ多カッタノヲ反省シテ、世ヲ去ルトキ、死後ハ自分トオナジ悩ミヲモツ人ヲ救ウト誓イマシタ。禁酒ヲ願ウ人ハ、ソノ誓イヲ『シャモジ』ニ書イテ、墓ノマワリニ吊スヨウニナリマシタ」


 なるほど、数々のしゃもじが所狭しと並んでいる。なかには同じ人が三枚も四枚も納めていた。お酒というものは、なかなか断てないものらしい。
「酒は止めて、ビールだけにします」というのもある。
「一日、一本だけはカンニンして下さい」という気ままな願いもある。
「愉快な酒になりますように」とあるのは、酒乱の傾向がある人と思える。
 真剣に祈っている人に対して失礼なことだが、しゃもじの文言を読むとさまざまな人生模様が窺えてくる。


[摂州合邦ヶ辻]


 一心寺の坂を下ると、逢坂の辻になる。昔はここに閻魔堂があった。
 右に農家らしいのがあるだけで、あたり一面は田圃である。でも、ここは野遊びの場所であったらしく、家族連れで遊びに来ている。乞食がお椀を差し出して、施しを求めている。

 この閻魔さんは、後に近くのお寺に納められた。ことのついでに、そのお寺にも立ち寄ってきた。
 堂守がすこぶる面白い人だった。言葉の継ぎ穂に、面白いほど何度も「
摂州合邦ヶ辻」を連発する。
 近松の名作「摂州合邦ヶ辻」はここが舞台である。堂守のいうところでは、あの演目が上演されるときは、かならず主演の役者がこの寺をお詣りするそうである。「先日もNHKが撮影に来ました。摂州合邦ヶ辻」と得意げである。

 堂守の話によると、閻魔さんは、人間として初めてあの世へ行ったそうである。人間は誰彼なしに罪を犯した存在である。それを悟った閻魔さんは、亡者があの世へ来たとき、その罪をぬぐってやることを誓った。閻魔さんが、亡者を極楽行きとか地獄行きなどと選別するというのは、とんでもない俗説だそうである。だから、後生を願うのなら、いまのうちから閻魔さんにお詣りするのが、極楽往生への近道になるのだそうである。摂州合邦ヶ辻

 彼は「幸福になれるおまじないを伝授しましょう。摂州合邦ヶ辻」と云って、わたしを表へ連れ出した。
「摂州合邦ヶ辻。照手姫遺跡」との石碑がある。「あなたの右の手を、照手姫の『手』の字の上に置きなさい。はい。手と手を合わせてシアワセー。摂州合邦ヶ辻

 わたしの記憶によれば、たしか照手姫は苦難に継ぐ苦難を担った悲劇のヒロインだったはずである。その人と、手と手を合わせて、果たして幸福がもたらされるのだろうか。摂州合邦ヶ辻


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