江戸中期になると、民衆の懐に余裕が生まれてくる。幕府による統制がゆるみ始め、それまで禁制だった旅行が可能になってきた。寺社への参詣という名目だったが、実質的には物見遊山の旅であった。全国的に「道中案内記」が出版され、いずれもベストセラーになった。男性だけではない。九州久留米の女性三人が信州善光寺への旅をするかと思えば、出羽・鶴岡の女性も負けてはおれぬと、伊勢・大坂・京への旅にでている。 |
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庶民の代表であるわれらが喜六清八もお伊勢さんへと旅立った。帰りは鈴鹿峠を越えて草津・京を回り、三十石船で大坂八軒屋に戻るという、当時のお定まりコースを辿った。 久留米と鶴岡の女性は、いずれも裕福な商家の妻だったが、長屋住まいの喜六清八は、往復で十〜十三日ほどの旅ができるご身分ではない。けれども旅には出てみたい。そんな庶民は『講』という相互扶助制度を編み出した。近所とか仕事仲間など気の知れた者が何人かで「講社」または「講組」を組み、毎月いくばくかを積み立てる。相当額になったとき、順番で代表者を選出して送り出すという仕組みである。 |
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落語『東の旅』は、こうした喜六清八の旅の滑稽話である。わたしの落語行脚では、そのなかから『発端』と『七度狐』の二つを取りあげる。 |
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ウマの合いました二人の大坂の若い者、黄道吉日を選んで赤いご飯のひとつも炊いてもらいます。親類や友達、近所への挨拶もすませ、大勢の者に見送られて、安堂寺橋をば東へ東へとってまいります。風体がよろしゅうございますな。 中道、本庄、玉津橋から道を深江へと出てまいります。「笠を買うなら深江が名所」てなことを申しまして、笠が名物でございます。名前は深江笠でも、その実は浅い笠を一かいずつも買い求めます。 高井田から藤の茶屋、 二十五町下りまして、やれやれと思う間もなく 尼ケ辻から道が追分になっておりまして、道しるべの柱が立っております。右が大和の郡山、左が南都、奈良でござ います。 「古の奈良の都の八重桜 今日九重に匂いぬるかな」、面白い歌がございま す。 奈良には印判屋庄右衛門、小刀屋善助という二軒の大きな旅篭がございます。 |
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[安堂寺橋] |
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安堂寺橋をご記憶だろうか。『饅頭こわい』で、橋のたもとの「往来安全」の灯りで、身投げ女の横顔がおぼろげに見えた…、あの安堂寺橋である。長編落語の『東の旅(発端)』は、この安堂寺橋からはじまる。 昔の旅人は、早朝、まだお星さんがまたたいている時刻に出立したものである。喜六清八の二人も同じように家を出た。丼池の長屋連中とは、この橋のたもとの辻堂で別れる。うっすらと東の空が白んでくる。飲み友達の暇人は、なおも別れを惜しんで玉造まで同道する。 |
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![]() 大坂(オサカ)離れて早や玉造…。 この口上からすると、玉造は大坂市中とは見なされなかったらしい。 古地図を見ると、お城の周りは武家屋敷が建ち並び、その先(東)は玉造まで人家がなく、一面の桃畑だった。玉造村は小さな集落だった。 JR玉造駅のすぐ東に「二軒茶屋跡」の石碑がある。 喜六清八は「酸(ス)い酒」を酌み交わして友人と別れる。おそらく、農家が副業に造っていた濁酒(ドブロク)だったのだろう。 JR玉造駅のすぐ東に「二軒茶屋跡」の石碑がある。高架線を走っているのはJR大和路快速である。 |
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[深江] |
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玉津橋からすぐのところに「高麗橋より一里」とした道標がある。市教委の説明文、「古くは芭蕉もこの道を通った。彼にとって最後となる旅だった。…。幕末、おかげ参りがブームの時は、一日で七万人が通ったという記録がある」。七万人もが通過したというのは本当だろうか。数字が大きすぎると思うが、市教委のお説ゆえ、そのままをお伝えしておく。 | ||
中道、本庄、玉津橋から道を深江へと出てまいります。「笠を買うなら深江が名所」てなことを申しまして、笠が名物でございます。 |
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玉造・今里の付近は、街道以外は区画整理されて整然とした街であるが、暗越奈良街道は昔の道らしくうねうねと曲がっている。戦災を免れた旧家も散在している。 古街道の両側は一段低くなっている。街道部分は土手状に土盛り工事がしてあったのである。 上町台地から生駒山麓までは、古大和川の氾濫に悩まされる低湿地だった。所々に島状の高い場所が村落になっていた。低地はほとんど水田になっていたが、農作業は「田下駄」を履かねばならなかった。街道の部分だけは幕府の直轄工事で、浸水のおそれがないように嵩上げしてあったのである。 この地域には、深江・菱江・片江・若江などという地名が多いが、往時の名残である。(江:広辞苑は「海や湖の一部分が陸地に入り込んだところ」とある)(なお、深江地区の海抜は2mである。) |
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![]() 水田にならない低湿地は一面の芦原だった。農家はこの芦を刈りとり、菅笠を編んで生計を立てた。これが噺に出てくる「深江笠」である。 この写真は、深江稲荷社にある石碑である。左「深江菅笠ゆかりの地」。右「大阪府指定史跡・摂津笠縫邑跡」とある。 深江笠の由緒を辿ると、遠く神話の時代にまで遡る。 深江村住民の先祖は大和・笠縫邑に住み、菅笠を編んでいた。伝承によれば、垂仁天皇の御代にこちらへ移住してきた。朝廷の認可を受けて、移住後も独占権を保持していた。 いまはどこを探しても芦原はないが、笠造りの伝統はいまも受け継がれており、伊勢神宮の正遷宮、および天皇の即位大礼に用いる笠は、この地の人々が編んだものに限定されている。 |
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菅笠編みの労働歌がいまに残っている。 笠を買うなら 深江でかやれ 馬の足形 これ名所 笠をせいだして 笠倉 建てて 村の庄屋どんに 負けぬよに 「馬の足形」とあるが、深江笠は円形ではなく、馬蹄形に編んであった。 |
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街道沿いの茶店の様子。笠だけでなく蓑や合羽も売っている。玉造の二軒茶屋だけでなく、深江まで出てきて別れることもあったらしい(中央の四人)。女性だけで旅立つ人もいた(左側の四人)。 |
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[豊浦] |
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高井田から藤の茶屋、御厨、額田、豊浦、松原越えて、やってまいりましたのが暗峠でございます。 |
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![]() 東大阪市教委の説明。「大昔、行基が諸国行脚の途中、この近くの旧家に泊まった。その家の主婦が難産で苦しんでいた。行基が加持祈祷して無事に生まれた。家の主はおおいに喜び、行基に頼んで地蔵を彫ってもらった。後に子安地蔵と名付けられ、永く村人から尊崇された」 わたしの六十年来の友人にまつわる伝説なので特記した。 |
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![]() 「菊の香に くらがり登る 節句かな」 |
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![]() この写真は奈良側から写した。右:TV鉄塔が林立しているのが生駒山。そこから左へ下り、もっとも低い鞍部が暗峠。 |
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[むろのき峠] |
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二十五町下りまして、やれやれと思う間もなく榁の木峠、上りが雀の茶屋で、下りが砂茶屋でございます。 |
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![]() 雀の茶屋というのは、小瀬にあったのだろうが、新興住宅地になっていて見つけようにも、その手がかりもない。 「むろのき峠」は、国道308号線として立派に生きていた。れっきとした国道でありながら、一車線の細い道で対向もままならない。わたしは峠の登り口まで中型タクシーを走らせたのだが、運転手に「ここから先は勘弁して下さい」と断られた。国道といっても、地域住民だけの生活道路というのが実態である。 しかしそれだけに、茂った緑の中を歩く気分はよかった。 |
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[砂茶屋] |
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![]() 上の地図で、暗越奈良街道と富雄川が交差するあたりが砂茶屋である。 県道7号線は広い二車線だが、ご覧のように国道308号はいかにも田舎道である。 バスを待っている人と話した。その方は、この写真にある右側の古い家のご主人だった。明治以前は旅籠であったという。古文書なんかもたくさんあったが、大学の先生が持って帰った。 家の間取りは昔のままに残っており、廊下に面して小部屋が並んでいるとのことだった。 旅商人相手の旅籠屋は、いまのビジネスホテルみたいに、シングルルームが多かったらしい。 |
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[印判屋] |
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奈良には印判屋庄右衛門、小刀屋善助という二軒の大きな旅篭がございます。幾日逗留いたしましても、夜具と家具とが変わるのがここの自慢やそうでございます。 |
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![]() 印判屋も小刀屋も実在していた。猿沢池のほとりにある。「天平ホテル」というのがそれである。 印判屋は奈良で屈指の宿屋だった。最大で五百人もの客が収容できた。噺にある『逗留を重ねても夜具は毎晩別のを出した』というのは、いまでは確かめようがない。 明治時代の引札(宣伝ビラ・奈良県立図書館蔵)には、こんな文句があった。 「わたしどもの宿は、奈良で随一の景色のよい場所にあります。大仏さんにも近く、奈良見物にはもっとも便利です。昔から諸国のお客さんが宿泊してくださっています。奈良でお泊まりの節は、ぜひぜひ、印判屋にお泊まりなさい」 印判屋は『宿屋敵』という噺にも出てくる。伊勢参りの兵庫の二人連れが、大坂・日本橋の宿で泊まるのだが、「紀州屋源助ちゅうのはこの宿か。奈良の印判屋から差し宿されてるねんけど…」という具合にさりげなく登場している。印判屋は当時の落語家に幾ばくかの礼金を渡して、このようなCMを高座にのせてもらったらしい。商魂たくましい熱心さである。 赤い鳥居のお社が写っている。『采女社』という。天皇の寵愛をうけていた采女が、天皇の心変わりを嘆いて、猿沢池に身を投じた。哀れに思った天皇が社をたてて後生を祈った。社が池に背を向けているようになっているのは、はかない命だった采女の想いに配慮した結果だそうである。 差し宿:旅館で、お客に次の宿を指定して紹介すること。(広辞苑) |
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![]() 興福寺の五重塔が池に映るこのアングルは、絵葉書にもよく見られる図柄である。 天平ホテルのお客は、この景観を眺められるであろう(と、わたしは想像する)。 印判屋--いや天平ホテルになり代わり宣伝する次第。 |
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[おまけ] |
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印判屋の引札の写真を入手したので収載する。引札は、明治時代によくなされていた店屋の宣伝ちらしである。石判印刷の雅拙な味わいがある。画面中央から右へかけて木造三階建てのが印判屋である。小さく采女社の赤い社殿も描いてある。左下には興福寺の五重塔もみえる。 上部には奈良の名所案内が書いてあり、その終わりの部分に「御入来を奉希上候」と結んでいる。なお、同じ図柄で、宣伝文句が「伊勢参宮奈良巡遊の旅人にして当家を知らざる者なく、古来頗る(スコブル)有名なり」というのもある。 |
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![]() 大阪ユースホステル協会が、毎年末に「伊勢迄歩講」というのを催している。伊勢本街道を三泊四日で踏破するという企画である。今年で36回になるそうだ。毎回たいへんな人気で、募集から一週間ぐらいで満員になるそうである。 現代の喜六清八は二軒茶屋が起点ではなく、玉造稲荷神社から歩き出す。 奈良・初瀬・御杖に宿泊するのだが、これが伊勢本街道である。伊勢へは青山越えのコースもある。足弱な者や女性はこちらを通った。 「伊勢迄歩講」の人たちは、大晦日は夜行軍になり、元旦午前零時に伊勢内宮に参拝するそうである。 |