源蔵町


 前章で天満の青物市をとりあげた。次はなんといっても堂島の米市場になる。
 米市場が舞台になる噺としては『米揚げいかき』がある。(いかき=笊(ザル)

 噺の導入部に『源蔵町』というのが出てくる。仕事もなしにブラブラしている男に、仕事を世話する 人があり、彼の紹介で「天満の源蔵町」へ仕事を求めにゆく。
 この源蔵町の所在が分からなかった。地番改正とやらで、古い町名がなくなっていたのである。
 よくいわれることだが、地名にはその土地の歴史が刻まれている。一種の文化財である。それなのに、郵便局の便宜のためなのかなにか知らないが、行政が一方的に地名を変更するのはけしからぬ、という意見が多い。わたしはこの意見を全面的に支持する。


 源蔵町を探し求めようとしても、その手がかりがないのである。
 あきらめていたが、古地図を見ていて偶然にみつけた。
 天満の天神さんの表門の道を西へ行ったところが源蔵町であった。

 あの日は大安らしかった。天神さんの境内には、晴れ着の家族が何組かきていた。そろって赤ちゃんをだっこしている。どの顔も幸せそうでニコニコしている。


 天神さんへ行ったら、繁昌亭を覗かねばならない。上方落語界あげての思いが叶って、天満宮の一角に『天満天神繁昌亭』が誕生した。
 落語専門の寄席らしく小ぶりで、聞きやすく、親しみやすい小屋である。
 嬉しいことに連日、満員札止めの盛況らしい。なんでも、大阪以外の遠隔地から貸し切りバスを仕立ててくる団体客も多いそうで、日によっては当日売りの補助席もふさがってしまうという。

 天神さんを西へ行き、もとの源蔵町にやってきた。ここが源蔵町に違いないことが分かっていたのだが、近所の住人・通りかかりの人・現場で働いている人などに、わざと「源蔵町というのは此処ですか?」と尋ねてみた。「ここは、以前にはそういう名前でした」と正しく答えてくれたのはたった一人だけだった。源蔵町を大阪市は「西天満三丁目」という無味乾燥な名前をつけた。

 わたしが見て回った限り、源蔵町を偲べるのはこのビルだけであった。オーナーの名前が源蔵さんではないだろう。オーナーは昔の町名を懐かしんでこの名前にしたのだろう。
 このビルの真正面に、洋食屋があった。サービスランチを食べながら「源蔵町はどこですか」「落語の『米揚げいかき』を知ってますか」、定番の質問をした。ともに「知らない」という返事だった。



 ブラブラ遊んでいる男のことを案じて、丼池(ドブイケ)の小父さんが仕事の世話をしてやる。「天満の源蔵町に笊屋十兵衛さんというのがいやはる。わしから聞いてきたと云えば悪いようにせんから訪ねて行きなはれ」
 笊屋の十兵衛さんは仕事を与えてくれた。若い男はその日から、いかきを担いで売り歩くこととなった。
 江戸時代の経済は米本位制である。堂島の米市場は、実体経済を担うと同時に、先行きの相場をにらんで先物取引も盛んだった。

 男が堂島の米問屋の前にやってきた。「米を すくって揚げる 米揚げイカーキ」と声を張り上げている。旦那がその声を聞きつけた。
「なに。米、揚げ、笊。『米揚げ』ちゅうのんが気に入った。番頭、あの男を呼びなはれ。
「番頭どん、見ましたか。暖簾を頭ではね上げて入って来よったで、嬉しいやないか。笊、全部(ゼーンブ)買うてやんなはれ。
「あれあれ、いまの見ましたか。笊を家の中に放り上げよったで。番頭、財布から小判一枚、その男にやりなはれ。
男「小判を貰うて、飛び上がるほど嬉しい」
旦「小判、二枚にしてやりなはれ」
男「二枚も貰うたら飛び上がる」
旦「飛び上がるちゅうのが嬉しいやないか。この男に、財布ごとやんなはれ。あんた、お金は大切に使うのやで」
男「財布は家の神棚に上げて、拝み上げます」
旦「番頭、着物を三枚ほど、こしらえたってんか。お前さん、兄弟はいやはるのんか?」
男「兄弟は上の者ばっかりでおます」
旦「上ばっかり?番頭、米を五斗ばかり運んでやりなさい」
男「兄貴は淀川を上へ上がった京都に住んでます」
旦「淀川の上ちゅうのんが嬉しいなぁ。借家を十軒ほどやりなはれ」
男「兄は、高田屋高助と申しまして、背ぇの高い、鼻の高い、気位の高い男でおます」
旦「須磨の別荘をやんなはれ」
男「姉は上町の上汐町の上田屋上右衛門(カミエモン)という紙屋の上女中(カミジョチュウ)」をいたしております」
旦「たまらんなぁ。この男に、大坂のお城をやっとくれ」

 噺家が、相場師の表情を大袈裟に演じ、彼の言葉をたたみかけるようなスピード感で矢継ぎ早に演じると、この噺は想像以上に可笑く、寄席中が大笑いしてしまう。

[堂島浜]


 米市場は、全日空ホテルの敷地にあった。いま、モニュメントが建っている。
 ホテルのコーヒー・ラウンジからこの銅像を見ることができる。
 当時の日本経済および政治を左右した米価格は、ここの米市で決まったのである。各藩は、国でとれた米を大坂へ運び、米市を通じて売りさばいた。したがって、どの藩も、ここでの相場の上げ下げを固唾を呑んで見守っり、国元へ急報した。

 日本中の米の値段を決めるとあって、堂島の旦那衆の権威はすごいものだった。
 銅像の台座に彫られた『濱』の文字。旦那衆は、公式な寄り合いの席に、この『濱』を染めた羽織を着て出席したという。

 年の暮れになると、役者・相撲取りなどのごく主立った者だけに、堂島連中からこの羽織を配ったそうである。貰った者が、この羽織を着用して旦那衆のもとへ正月の挨拶にうかがうと、渡されるご祝儀がえらい金額になったそうである。
 また、お茶屋や料亭などでも、この羽織を着てゆくと、それだけで扱いが違ってきたのだそうだ。

 [摂津名所図会]


 「大坂の北、中之島に諸侯の蔵屋敷があり、それぞれの国から送られてきた米を点検し、蔵へ納める。運搬の者を仲衆という。その中に大力自慢の者がいて、三俵も五俵も曲持ちするのがいて驚かされる。」

 人が集まるのをめがけて、煮売り屋が来ており、しゃがんでうどんか何かをすすっているのがいる。
 女が路上にこぼれた米を集めている。これはご禁制だったが、彼女らはおかまいなしに、堂々と拾い集めている。


 市のあちこちに人が群れている。そこで相場が生まれる。若い衆が打ち水しているが、おそらく熱気を冷やそうとしているのではないか。
 浜に面した小屋では、羽織姿の者を囲んで話し合いをしている。蔵屋敷のお役人と商人の真剣勝負が交わされているのだろう。


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