柳馬場押小路


 幸助さんというのが主人公である。この人、十三才の時に丁稚奉公に上がり、真面目ひと筋に働き通して、いまでは身代を息子に譲り、楽隠居のご身分である。若い時から趣味も娯楽も知らないままに過ごしてきた。ただひとつ妙な道楽がある。それは、喧嘩とみると、中に入って仲直りさせ、双方から「おやっさんのお陰で大事にならずに済みました」と持ち上げられる気分がたまらないらしいのである。
 いましも、一件の喧嘩を取り鎮め、双方から「おやっさん」「親方さん」とおだてられ、「うん、うん」と鷹揚にうなずいてみせて、手打ち会場の小料理屋から出てきたばかりである。
 隣町のある家の前に人だかりがあるのに気づいた。その家は稽古屋であったが、幸助さんは稽古屋のなんたるかを知らないまま「何事かいな」と立ち止まった。
 稽古屋というのは、いまのカラオケ教室とかピアノのレッスンに相当するが、その頃のは町内の若い衆なんかが習いに通ったものである。通行人が稽古風景を覗けるように覗き窓があいていた。暇人が「あいつは上手だ」「いや、まだまだ」などと品定めをするという、いわば、町内の「素人演芸会」的役割も担っていた。

 その稽古屋では、いましも浄瑠璃の『桂川連理柵(カツラガワレンリノシガラミ)』をおさらいしている最中であった。これは、帯屋長右衛門(三十八才)と、隣家の娘・お半(十四才)の心中物語である。加えて貞女のお絹と、意地悪な義理の姑お登勢がからんでくる。略して『お半長』と呼ばれる。歌舞伎や文楽でよく上演される演目である。
 幸助さんが覗いたとき、稽古屋の中では「帯屋の段」の、お登勢が嫁いびりをしている稽古の最中だった。

姑「わしゃ、親じゃわい。親のいうこと聞けんのかえ。わしゃ親じゃぞえ」
絹「ちーっ。そりゃあんまりじゃわいなぁ」
 これを窓の外で聞いた幸助さん。立ち見の連中に
幸「えらい喧嘩みたいじゃが、どうかしましたんかいな」
○「そうだんね。いまもこの人と話してたとこでんね。後添いに来た女やけど、お登勢婆ぁいうたら、憎たらしい婆だんね。長右衛門の嫁はんのお絹さんが憎くていじめ倒しよりまんね」
△「そうだす。ほんでまた、このお絹さんがえらいお人でな。日本一の貞女だんな。お登勢の無理難題をじーっとこらえてなはる」
○「お登勢婆は、相手がこらえるほど余計に憎くなりまんねんな。これでもか、これでもかといじめよる」
(稽古屋の中で)「親じゃわいな」
「ちー、あんまりじゃわいな」
幸「中で、あんな騒動になってるのに、お前ら、仲裁に入ってやらんのか」
○「この家のことやおまへん。京都のことだんが」
幸「京都のこと?ひまな奴ばっかりやな。京都のことを、皆よって、ワイワイさわいでるのんか」
○「京都の話で、お半長いうたら、誰でも知ってま」
幸「誰でも知ってることを、儂が知らぬでは、どもならん。京都であれ、どこであれ、そんな立派な貞女をいじめる奴がおるのんか。黙っておられんな。京都の何処や」
○「柳馬場押小路虎石町西入る、ちゅうとこだす」
幸「主が長右衛門やな」
△「その男に隣のお半が懸想しましてな。二人がええ仲になって、お半のお腹が大きなりましてん」
幸「そんな貞女を嫁にしながら、なんちゅう男や、長右衛門は」
△「お半は、まだ十四の小娘だす」
幸「長右衛門は幾つや」
△「歌の文句に『四十に近き身をもって』と云いまっさかい、三十八・九になってまんねやろな」
幸「ええ年齢してて、なんちゅう男や。そんなら、貞女のお絹はんがよけいに可哀相や、一刻も早う助けてやらんと。京都は柳馬場押小路虎石町西入る、やったな。わし、これから行ってええ具合に治めて来たる」
○「待った。待った。あんた、どう聞いたんやな。その話、浄瑠璃でのことだっせ」
幸「ジョウロリでも、なんでも、儂が知ったからには治めてやらんといかん。儂ゃ、これから行ってくる」
△「とうとう走って行ってしもうたがな。あのおやっさん、どうする気やろ」

 その頃、大阪と京都にはすでに陸蒸気(=汽車)が走っていたのだが、昔気質の幸助さんは石炭の煙がかなわんので、三十石船で京都へ上った。、
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 『お半長』の話は明治以前のことだが、幸助さんが駆けつけた明治時代にも、拍子の悪いことに、柳馬場押小路虎石町西入るに帯屋があったそうな。そこへ幸助さんがやってきた。こんな男に入ってこられた帯屋さんこそ大迷惑である。

幸「ごめんなはれや」
番「お越しやす。どうぞ、座布団(オザブ)をあてておくれやす」
幸「ちょっとおりいってお話したいことがあって、参じました」
番「へい、へい」
幸(ゆっくりと煙草を詰め、芝居かかりに大きく吸って)「聞くところによると、こちらさんでは、近ごろ、ごじゃごじゃともめてなさるそうな」
番「なんぞのお間違いと思いまっせ。ウチは、いたって円満に過ごさせてもろてます」
幸「お隠しになると、チト、困りまんね。あんさん、忠義なお方やな。お家の恥を出そまいとなさるのは感心なこっちゃ。……。そやな、あんたを相手にするよりも、ご主人の長右衛門はんをここへ呼んでおくんなはれ」
番「やっぱり、お話が間違うてはりま。ウチの主は多兵衛でして」
幸「いやいや、お隠しなさらんでも。噂は大坂まで拡がってます。ちゃんと調べはついてま。……。ま、長右衛門さんは、ちょっと出にくい事情がありますわな。ややさんを孕ましたりして。…。ほんなら、お内儀のお絹さんを出して下さらんか」
番「どうしても、やっぱりお間違いです。ウチのお内儀はんはお花と申します」
幸「あんたはん、ええ加減にしたらどうでんね。そんなに隠し回りはるのなら、近所の信濃屋さんへ先に行かんならん。そしたら、こちらさんの方が都合の悪いことになりまっせ」
番「ちょっと待っておくんなはれや。どうも、話がおかしいと思うてましたが、…、長右衛門、お絹、信濃屋、…、あんさんの言うてなさるのは『お半長』と違いますか」
幸「そや、その『お半長』や」
番(大笑いして、皮肉まじりに)「この忙しい折に、あんさんもまたご苦労はんなこってすな。お半長やったら、とっくの昔に桂川で心中してますがな」
幸「えっ!死んでもうた?!しもた。三十石やなしに汽車で来るのんやった」



[柳馬場押小路]



 ここに掲げたのは、明治時代の京都地図である。文字が逆さまになっているので読みにくいだろうが、矢印のところにたしかに「丁石虎」と読める。ここが噺の舞台である。

 虎石町を北上すると御所の堺御門に出てくる。また南西に「六角堂」も見える。
 虎石町は京の中心に位置する町である。

 虎石町のいわれだが、昔、ここに親鸞上人が住んでいた寺があった。庭に虎が伏せているような石が据えてあった。上人はその石を愛され、考え事をなさるとき、縁側に座ってその石を見つめておられたという。
 そのお寺は無くなったが、石の名前だけが残って町の名前になった。

 なお、虎石は五条の大谷本廟に保存されていたが、今は洛北のなんとかいうお寺に移されたということだ。

 柳馬場押小路西入る。お半長の帯屋があったその位置に「茨木屋」という蒲鉾の老舗がある。なんでも京の町で蒲鉾を買うなら茨木屋といわれるほどの名代の店である。

 お半ちゃんの信濃屋は、自転車でゆく人の前方にある家ということになる。
 隣同士で、二十五才も年の違う小娘と、ただならぬ関係になったとなると、長右衛門ならずとも身の縮まる思いになるだろう。
 茨木屋さんの向かいは、写真のように理髪店になっている。もし、その昔も同じ場所に床屋があったとすれば、この前代未聞の色事話はたちまち格好の話の種になり、町内で話題が沸騰したことであろう。

 お半長の話には異説があって、二人は心中したのではなく、通り魔による殺人事件だともいう。しかし、これはおかしい。お半・長右衛門の二人が、虎石町から遠く離れた桂川で、通り魔か物盗りかに襲われるというのには、どうも無理がある。やはり心中だったのだろう。
 なんにしても、事件は二百五十年も昔の宝暦年間の出来事である。すべては時の流れによって洗い流されている。

 これまで噺の中味について詮索がましいことはしなかった。落語の矛盾点をとりあげて論議することこそ、ナンセンスの極みだからである。しかし、この『どうらんの幸助』に限ってはそうもしておれない。茨木屋さんという現に今も商売をなさっているお家に関するからである。

 噺では、幸助が柳馬場押小路へ乗り込んできたのは、大阪=京都に汽車が走り、その一方でまだ三十石船が伏見まで通っていた頃と、設定されている。
 東海道本線の京都=大阪間が開通したのは明治十年だった。新橋=横浜間の開通と同じように、この時も明治天皇が開通式にご臨席なされた。
 三十石船は初めのうち、鉄道に対抗して運行していたが、スピードの上で勝負にならず、早々に廃止になった。
 以上からすると、幸助さんが京都に現れたのは、明治十〜十一年のことになる。
 一方、茨木屋さんは明治二年にあの地で創業された老舗である。噺では『…。拍子の悪いことに、その頃、あそこに帯屋がありました。…』とあるが、これはまったくの嘘になる。

[誓願寺]


 河原町四条で降りて、新京極を三条近くまで上ると、アーケードが途切れて明るい日差しがさしこむ空間がある。そこには京都市による「新京極の由来」の高札が立っている。東側に誓願寺という古刹がある。盛り場のド真ん中のお寺ではあるが、なかなか格式の高い寺院で、なんとか宗なんとか派の本山となっている。本堂とはすこし離れているが、誓願寺の墓地があり、そこにお半・長右衛門のお墓がある。

 誓願寺には、「落語行脚」としては是非とも書いておかねばならないことがある。安楽庵策伝の事跡についてである。
 彼は慶長十八年(1623)に誓願寺の第五十五代法主となり、後に勅許により紫衣を賜った。たいへんに偉いお坊さんだが、『醒睡笑』という本を著した。小咄を集めた本で、これが落語の原型になった。また、誓願寺境内に日本で最初の寄席が設けられたという。(京に寄席ができたのはずっと後の江戸後期である)


[三十石船]

 幸助さんは、京へ行くのに三十石船に乗った。ここでその三十石船について書いておこう。


 これは広重による三十石船である。
 子細にみると、かなりの船客がつめこまれている。おそらく膝と膝がくっつくぐらいではなかったか。
 粗末な屋根に、お客の道中笠を置いてある。
 別の船が一艘、接舷してきて、乗船客に暖かい食べ物を売りに来ている。

 

 大坂・八軒屋船着場の光景。京からの下り船が到着し、大方のお客は上陸した。この船は荷物も混載していたらしく、左側にそれらの荷物を運び出す馬が待っている。正面に船宿が並んでいる。供を連れたお客を宿の番頭が出迎えている。その左は宿の調理場らしく、お膳が積まれてあり、二人の男が下ごしらえをしているみたいである。
 往来をいろんな人物が描かれている。神主さん、お坊さん、巡礼風の格好をした鉦叩き、道の真ん中で三人の女が、どうやら弁当を売っているみたいである。その後ろの男は犬に吠えられている。
 石段の上で、二人の女が「お泊まりやす」と手招いている。

 三十石船は、京・伏見と大坂・八軒屋を結んでいた。
 天保八年の『増補発船独案内』に、当時の船賃などが記載してある。
一:上り船。一人にて船賃百八十文。但し、かこまし賃は別の事。
二:下り船。一人船賃八十四文。
但し、上りは途中より乗り候ても船賃は同じ事なり。下りは、途中より乗り候へば一人前百文。
三:ふとん借賃は一畳につき十八文より段々あり。下りは同断二十四文より段々ある也
(かこまし賃:余分のお金を払えばいくらでも大きいスペースを占領できた)

 当時の平均的な宿賃は、一泊二食つきで三百文内外だったから、三十石船の運賃はかなりの金額だった。
 参考までに書いておくと、夜泣き蕎麦は十八文だった。


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