仏隆寺

 われらが喜六清八の二人は、奈良の宿を出てから、三輪明神や長谷の観音さんを参詣してから、西峠を越えて榛原で二日目の夜を迎えた。
 翌日、二人は山の中で道に迷い、たまたま見つかった古寺に泊めてもらうのだが、そこでさんざんな目にあう。
 深い山中で道に迷い、お寺かどこかに泊めてもらうというのは、お伽話にもよくでてくるが、実際には、そう都合よくお寺があるものではない。お寺というのは村の中か、または村とつかず離れずの場所にあるのが普通である。
 ところが、この噺にうってつけのお寺があった。立地条件が噺にぴったりなのである。あたかも作者がこのお寺を知っていたみたいである。
 わたしは、仏隆寺というそのお寺を訪れることにした。

 お寺にはタクシーで往復するのが、いろんな意味で便利なのだが、わたしはバスで行くことにした。それには訳がある。
 念のためと思って、事前にバスの時刻を問い合わせたのだが、電話に出てくれた娘さんが、「ありがとうございます!」と心底からの嬉しそうな挨拶をしてくれた。わざわざ、発着時刻まで問い合わせて、乗ってくれる有り難い客と考えたらしい。なにしろ二時間に一本というローカルバスである。こんな便数では、地域住民にしても、マイカーかタクシーにするのではなかろうか。朝夕の高校生を除くと、バスの利用客はほとんど無いのであろう。そんな路線に乗ろうというお客である。会社としたら大歓迎なのだろう。(そんな大層な思いではないと思うが、あの娘さんの弾んだ声を聞いて、わたしはそう思ったのである。)
 こんなに丁寧にかつ嬉しそうに応対してもらうと、いやでもバスに乗らねばならない。もしバスに乗り損ねたらその日の計画はおじゃんになる。二時間に一本のバスに乗るために、家を出る時刻も榛原行きの電車もなにもかも、早い目早い目のを選ぶ羽目になった。おかげでバスの始発駅の榛原には余裕たっぷりについた。ことのついでに、榛原に残っている昔の旅籠の写真を撮りに回れた。 

 喜六清八は〈油屋〉という旅籠に泊まった。この宿は喜六や清八には過ぎた宿屋だったが、奈良の印判屋から差し宿をうけていたのだった。

 榛原は、山間地と平地を結ぶ人と物資の集散地として栄えた町であり、旅籠も多かった。
 「油屋」は往時の旅籠の姿がよく保存されている。正面の壁にも〈うだつ〉にも、しっくいで「あ婦らや」と書いてあり、玄関には「本居宣長御定宿」の看板がかかっている。
 本居宣長は江戸中期の国学者で松阪の人。『古事記伝』を著した有名な学者である。京・大坂への行き帰りにここで宿泊したのであろう。

  油屋の前の辻が、伊勢本街道と青山越え街道との分岐点でもある。「札の辻」という地名からすると、高札場があったと思われる。


 札の辻に、
文政十一年(1828)の年号が入った道しるべがある。

「右 いせ本か以道」
「左 あをこ江みち」

 御室御所(仁和寺?)の寄進によるものだそうである。道理で彫りの深い立派な道標である。

 すぐ横に、すこぶる立派な太神宮灯篭がデンとある。この先、伊勢までの要所要所にこうした伊勢燈籠が立っている。

 本街道沿いに「池田家住宅」がある。旅人相手というよりも、近郷近在の人々のための商家であったのだろう。明治四年だかに改築されたらしいが、昔の商家の機構がよく残っているので写させてもらった。

  案の定、バスは閑散としていた。乗ったのは、お爺さんとお婆さんがそれぞれ一人ずつだけだった。わたしも入れると白髪頭が三人である。ついでに運転手も六十に近い白髪交じりのお年頃だった。
 いまの日本を象徴するような高齢者バスは、三つ目の停留所で、運転手とわたしだけになってしまった。わたしは決意した。帰路もタクシーではなくバスに乗ろうと。 
  バスを選んだのは正解であった。タクシーなら呆気なく目的のお寺の前まで運ばれてしまうが、バスにしたお陰で、3kmの野良道を、路傍のお地蔵さんにご挨拶したり、谷川の瀬音に耳を傾けながら、気分よく歩けた。



 伊勢本街道は、地図の〈榛原高井局〉で現国道と別れ、赤矢印のあたりで〈三郎岳〉方向への山道になり、峠を越えてから〈専明寺〉へ下る。仏隆寺(青矢印)への道は、さらに進むと右上の室生寺へと向かう峠道になる。
 赤の破線が伊勢本街道である。三郎岳の南付近のジグザグ部分は石割峠である。道中最初の難所である。

 写真は地図の赤矢印の地点。
 伊勢本街道は右側の道で、すぐに急勾配の坂になり尾根にとりつく。
 左は川沿いに進み、仏隆寺へ至る。
 ご覧のように、二叉の地点に道しるべはない。うっかりしていると伊勢本街道ではなく室生山道の方に進んでしまう。

 喜六清八の二人は、ここで道を間違えたらしい。


喜「おい、清やん、なに思案してんねん…」
清「いや、道を間違うたんかいな、思うてんね」
喜「頼むで、おい。あんたは、前にもお伊勢参りしてんねんで、わいは初めてや、お前を頼りに歩いてんねやで。…。そやけど、道を間違えるようなとこ、なかったように思うねんけどな…」
清「さぁ、そこや。わいも、道、間違うた覚えはないねんけどな」
 そう云いながら、ドンドンどんどん道をとって行きますと、こう、道幅が段々だんだん狭もうなって、登りになってくる。片一方は山が迫ってきていて、こっち側は切り立ったような崖になる。いつの間にか日が暮れて、暗ぁい中を二人が並んで、トーボトボ……。


喜「清やん。今度こそ道に迷たんと違うか」
清「そうやなぁ、今度はどうやらホンマに道を間違えてしもたらしぃなぁ」
喜「どないすんねん、人に聞くちゅうたかて家も何もあれへん、思い切って引っ返えそか」
清「引っ返すちゅうたかて、とっぷり日ぃ暮れたやないか。よけい迷うてしまうで。ちょうど、ここにお地蔵さんがあるがな。風が吹き抜けやけど雨だけはしのげそうや。ここで野宿しょうか」

 その時、二人は前方にかすかな灯りをみつけた。見上げるような高い長い石段の上に灯火がチラチラまたたいていた。
 近づくと確かに人家の灯りだった。這うようにしてその門前にたどり着いた。そこは人家ではなくお寺だった。
 



清「(トントン)ちょっとお頼の申します。今晩わ」
尼「はい、どなた?」
清「伊勢参りの旅のもんでございます。道を取り違えまして行き暮れて難渋しとります。すんまへんけども一晩泊めていただけまへんやろか」
尼「それはお気の毒な、しかし当寺は尼寺でございますのでな、殿方をお泊めするというわけにはまいりませんので、下の村のお庄屋(オショヤ)はんの所へでも行て、泊めておもらいなさったらいかがで」
清「それが下の村も上の村も、もう、歩きくたびれてまんねん。お庭の隅でも軒の下でも結構でございます、雨露さえしのげましたら結構なんで」
尼「人を助けるは出家の役、と申します。いまも云いましたように尼寺。男のお方をお泊めするわけにはまいりませんが、本堂でお通夜をなさるというのなら雨露だけはしのげますでのう」
清「へい。そういうことで、ひとつよろしゅうお頼の申します」
喜「おい、なに云うたはんね。あの人」
清「ここは尼寺やねん、女の坊さんが居たはる尼寺や。男を泊めるわけにはいかんっちゅうてはんね。しやけどな、本堂でお通夜するんなら泊めたげる、ちゅうてくれたはんねやないか」
喜「ほな、本堂でオツヤさえしたらええのんか」
清「そや」
喜「お艶はんといぅのは別嬪かい?」
清「お前何を考えてるねん…。お通夜いうのはな、夜通し寝んと仏さんのお守をするんや」
喜「嫌やで、わい、そんなん。夜通し寝なんだら何にもなれへんやないか。あした道中が……」
清「それは表向きや、ホンマは寝てもえぇねん」
喜「ほぉ、表向きお通夜、裏向きは布団寝か」
清「…、どうぞひとつよろしゅうお頼の申します」
尼「掛け金もなにも掛かってございまへん。こっちへどうぞ、お入りを」


清「どうもえらいご無理なことをお願い致しまして」
尼「いやいや、何のおもてなしも、できゃいたしません。あのう、お二人とも空腹そうなご様子で」
清「ちょっと減っとりますようなこって」
尼「そこに雑炊(ゾウスイ)が炊いてございますので、よろしかったらおあがりを」
清「雑炊、わたし好きでんね、フグ雑炊、カキ雑炊、マッタケ雑炊…」
尼「いやいや、寺方にはそのような贅沢なものはございませんが、今日は当寺の開山のお上人の忌日にあたりますので、月にいっぺんずつ炊きます『ベチョタレ雑炊』というのができてございます」
清「ベチョタレ雑炊?あんまり聞ぃたことがおまへんな」
尼「そこに茶碗も箸も出てますんで、勝手によそおて、勝手におあがりを」
清「ほな、遠慮なしに…、手ぇ出しないな、わしがよそたるちゅうねん、ちょっと待ち。ウワァ〜ッ、湯気が立ってるなぁ、さ、よばれよ…、ほな遠慮なしにいただきます」
清「フウフウ、ズルズル、ちょっとお尋んねしますが、この舌の先にザラザラしたもんが残こるのんは何が入ってまんねん」
尼「それは味噌が切れたんで、山の赤土が入れてございます」
清「え、そんなもんが食べられますか」
尼「赤土は体に精をつけますでなぁ」
清「赤土で精ぇつけんねやてぇ、なんや盆栽みたいになってきたなぁ」
喜「この一寸ぐらいに切ってあって、噛みしめると甘い汁が出まんねけど、この藁みたいなもん、こら何でんねん」
尼「それは『藁みたいなもん』やのうて、藁でおます」
喜「聞ぃたかおい。言ぃ様(ヨウ)があるもんやなぁ、『藁みたいなもんやない、藁』やねんて。藁が食べられますか」
尼「あれは体をホコホコと温めますでな」
喜「ほいほい、藁食うて、土食うて、これで左官(シャカン)呑んだら、腹ん中に壁が出来る」
清「この草みたいなもんが出て来ましたが」
尼「それはゲンゲン花の陰干しで」
清「たしか体毒を下すやつやで、ゲンゲン花いうたら」
喜「もうし、カエルみたいなもんが出て来ましたが」
尼「出すのん忘れとりました。ダシを取るのんにイモリを入れておましてん」
清と喜「おおきに、ごっつおはんでございました」
尼「遠慮せんと、どうぞぎょうさん…」
清と喜「いやいや、いまのイモリでぐっとお腹がふくれましたような具合で、ありがとさんでございました」

尼「町のお方のお口には合いますまい、明日になったら麦飯なと炊いて進ぜましょ。……。お泊り願う早々に、こんなことお願いして何でございまんねやが、実はちょっとお二人に留守番がお願いしたいんで」
清「え〜っ、こんな寂しぃ山寺で留守番やなんて、どんなご用か知りまへんけど、こんな時刻からどこへお出かけになりまんので」
尼「実は下の村にお小夜後家といぃましてな、金貸しのお婆さんが住んどりまして、貧乏なお方に高い利子でお金を貸し付けては厳びしゅう取り立てる、あんまり評判のええお方やなかったんですが、今朝ほどポックリとお亡くなりになられましてな、村の衆が棺桶に納めてお勤めをしてましても、貸してあるお金に気が残ってますねやなぁ、またしても棺桶のふたをポ〜ンと跳ねのけては「金返せぇ〜、金返せ」、出て来るんやそうで。悪い人でも 死にゃ仏、これから行てありがたいお経を上げて成仏さしたげよと思いますので、ちょっとお二人にお留守番を」
清「そんな気色の悪い話、聞かしなはんな。こう見えても、われわれ怖がりでんね。そんなん、かなわんがな」
尼「いえいえ、このお寺も宵の口は寂しゅございますが、夜が更けると賑やかになります」
喜「ケッタイな寺やなぁ。宵が寂しゅうて夜が更けると賑やか…、そうか、庵主(アンジュ)さん、あんさんがまだ若こうてお綺麗ぇなさかい、夜中に村の若い衆が遊びに来たりしまんねんな」
尼「そのようなことはございませんが、この本堂の真裏が墓場になっとります。夜中になりますと骸骨がぎょうさん出て来て、角力をとって遊びます。『八卦よい、残った残った、骨がガチャガチャ、ガチャガチャ』まことに賑やか…」
喜「なんの賑やかなもんか、わてら骸骨の相撲なんか嫌いでっせ」
尼「それに夜が更けて、丑満つ時という頃になりますとな、ご本尊の真後ろに新仏の墓がございます。上の村のお庄屋(オショヤ)はんの娘さんがよそへ縁づかはって、間なしに亡くなってでおましたんやが、お腹にややさんができてるのを、そのまま土に埋ずめたところが、土の温気(ウンキ)で、どうやら赤子が産まれたような具合で」
尼「雨がしとしと降る晩など、そこの障子にポ〜ッと明かりが差しますと、お庄屋はんの嬢(イト)さんが、髪を乱して、こう、赤ん坊を抱いて『ねんねんよぉ、お寝やれやぁ』とあやして歩かはります。そらもうホンに情があって」
清「なんの情なもんか、そんな情はまっぴらご免ですわ。そんな話聞ぃたら、とても、わたしら留守番なんかできまへん。その夜伽(ヨトギ)の日延べちゅうわけに…」
尼「仏さんのお灯明がともってるあいだは、骸骨も庄屋のお嬢も出てきやしまへん。…。ほな、私、これから行てまいりますので、どうぞお二人さん、よろしゅうお頼申します」
清「ちょと待った、行ったらあかん、ちょと待ったあ…、あ、行ってしもた。どないしょ」

 庵主がツイと出てしまった後、入れ違いみたいな具合で、村人が棺桶を担いでやってきた。彼らがいうには、おさよ婆はよほど金に執念があるらしく、棺桶の蓋を釘付けにしても、それをバリバリ破って立ち上がり「金、返(カ)やせ」「金、返やせ」というのだそうである。これでは夜伽にならんので、皆で相談して、一晩早いのだがお寺へ運び込もうと決まった、という。
村「尼はんじきにこっち戻ってもらいまっさかい、これ預かっといて…」
喜「あかん、あかん。そんなん持って来んかて、こっちは『寝んねんよぉ』やなんか、いっぱい居てんねんさかいな。そんなもん置いていったらあかん…、おぉ〜い、戻って来ぉい」
喜「おい、清ぇやん、こんなんまた一つ増えたがな、どないしょ」
清「隅の方へやっとけ、隅の方へ。こっちもって来たらあかんぞ」

 ガタガタ、ガタガタ、二人が震えておりますうちに、次第しだいに夜が更けてまいります。夜嵐というやつが、ビュー、ゴォーと鳴りますと、置いてある棺桶がメリメリ、メリメリ、ミチミチミチミチ…、鳴り出したかと思うと、かけてあった縄がバラリ、蓋がポ〜ンと飛ぶと、中から老いさらばえた老婆が白髪振り乱して、それへズ〜ッ!

婆「金返やせぇ、金返やせぇ」
喜「出た、出た、出た…、わたしらあんたにお金お借りしたもんと違います。伊勢参りの旅のもんや、旅のもんや」
婆「金かやせぇ」
清「金 借りたもんと違います。顔見とくなはれ」
婆「旅のもん?こっち出て来て顔を見せ。出て来て顔を」
清「よぉ出ていかん。もぉ怖い」
婆「来なんだら、そこへ行く」
喜「来たらあかん、顔見せます。怖いさかい目ぇつぶってまっさかい、よぉ顔見たっとくなはれ、あんさんから金借りたもんと違いまっしゃろ」
婆「伊勢参りか?」
清「伊勢参りの旅のもんでございます」
婆「伊勢音頭を唄え」
清「そんなアホなこと言ぃなはんな、この最中に伊勢音頭なんか唄えまっかいな」
婆「唄わんかぁ〜」
喜「唄う、唄う、唄う。こっち来たらあかんで、唄います」
清「お伊勢へ七度(ナナタビ)、熊野にゃ三度」
婆「ヨーイ、ヨーイ」
喜「あんたは黙ってなはれ、あんたは。相の手はいらん、相の手は」
清「愛宕さんへはナァ、月詣り」
五「田吾作どんやーい」
田「おう、五郎八つァんか。なんじゃいな」
五「お前の後ろをちょっと見てみぃ。さっきの旅人が、今度は畑の中で伊勢音頭を唄とぉてるぞ。あいつら何をやっとんのじゃ、よっぽど狐に騙されとんのじゃな……。これ、旅の衆、これ!」
喜「ヤァトコセー、ヨーイヤナァ」
田「なにが「ヤァトコセー」じゃ」
喜「あっ、ここにあったお寺どこへいきました?」
五「まだあんなこというてるがな。寺も何もありゃせん、畑の真ん中じゃ。しっかりしなはれ





 二人が迷いだした分岐点から、少しだけ本街道を歩いてみた。急な坂道をゆくと、はるか遠くに山々が連なっているのが見えた。

 伊勢街道のレポートにはこう書いてあった。「いよいよ伊勢本街道の最初の難所である山越えになる。坂がきつくなる。あえぎあえぎ細道を登って、ようやく石割峠についた」。その石割峠が小さく写っている。

 伊勢へはまだまだ遠く険しい道が続く。二泊三日の山旅である。前編で紹介した「伊勢迄歩講」グループは、榛原から伊勢までを一泊二日半で踏破する。この場合、一二月三一日は一五時間以上も歩き続け、元旦の午前0時に内宮に到達するのだそうである。

 わが喜六清八はそんな強行軍はしないだろう。お互いにふざけあいながらお伊勢さんを目指し、講中や近所の人へのお札や暦を買って帰るのである。帰路は有名な鈴鹿峠を越える道になる。こんどこそ、狐に化かされぬように、気をつけてもらいたい。


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