赤手拭稲荷




 『ぞろぞろ』の舞台は赤手拭稲荷である。
 そのお稲荷さんはJR環状線芦原橋駅から北へ、地下鉄なら千日前線桜川駅から南へ、それぞれ徒歩十分ぐらいのところにある。


 芦原橋駅前の「太鼓正」にお邪魔した。各種各様の太鼓があって、ちょっとした太鼓博物館のおもむきさえある。
 気になるお値段だが、店先に並べてあるもっとも小さい太鼓でも二万円に近い値札がついている。演奏会用の太鼓にいたってはン十万円の値段がついていた。
 太鼓は、その直径が大きくなるにつれ、値段が幾何級数的に高くなるのだろうから、ン百万円もの大太鼓もあるのだろう。
 写真の右端のモニュメントは太鼓を模した石像だった。


 各地にふるさと太鼓チームが誕生している。わたしの街にも和太鼓演奏グループがあり、地域のイベントには彼らの演奏が人気を集めている。和太鼓愛好する者として嬉しいかぎりだ。
 この日も、そうしたグループを支えるPTAのお母さん方だろうか、店内であれこれと物色していた。かなりの予算を用意して来店したのだろうと想像した。

 すこし早かったが、近くの大衆食堂で昼食をとった。ご主人を相手にとりとめのない会話を試みる。
「事業所や工場がよそへ移転してしまい、お昼時も淋しうなりました。跡地はマンションになって人口は増えたんでっけど、あそこらの奥さん方は、うちらのような店に来てくれまへん。困ったもんです」
 今どきの若嫁さんは、お昼も外食する人が増えているが、陳列ケースのサンプルが埃まみれになっているような店は、敬遠されるのだろう。
 話題が湿っぽくなったので、お稲荷さんの話に方向転換した。
「いやあ、どうでっしゃろ。あのお稲荷さんはお祭りなんかないのと違ゃいまっか。私らはここで二十年商売してまっけど、それらしい行事なんか知りまへんな」
「初午でっか。ああ、初午いうたらお稲荷さんの日でんな。子供が太鼓を鳴らして町内を回るのんは見たことおまへん」
「信者さんは居はりまっしゃろ。でも、お詣りしている姿を見かけたことないですな」
「え?『ぞろぞろ』?何です、それは」
「落語の演目ですが…」
「知りまへんなあ。落語はあんまり聴かんもんでっさかい」
「あのお稲荷さんが噺に出てくるのですが…」
「へえ、そうでっか。あのお稲荷さん、有名でんねんなあ。ちっとも知りまへんでしたわ」

 若者がドヤドヤと入ってきた。彼らが何も注文しないのに、大盛りの日替わり定食が食卓に並べられた。
 タオルの鉢巻きをした現場監督風の男客は、ジョッキのビールを一息に飲んで、わたしを見てニャリと笑った。就業規則違反なのであろう。小ジョッキを一杯だけにとどめたのが良心的に思えた。スーツ姿のセールスマンは、カウンタではなく奥のテーブル席で賑やかに話し出した。
 にわかに賑やかになったので、わたしは嬉しくなって店を出た。

 稲荷神社の向かいに町工場がある。そこのご主人にも尋ねてみた。
「落語の『ぞろぞろ』というのはご存じですか」
 藪から棒の奇問にとまどいつつ、「いや、一向に知りませんな」とのことである。
 天満天神繁昌亭がオープンし、連日満員札止めという嬉しいニュースが伝わっているが、その一方で、目と鼻の先にあるお稲荷さんに関係する噺でも、あまり知られていないことに複雑な思いをした。

 地域の方々が落語をご存じないのはいたしかたがない。
 ただ、地域の方からも忘れられようとしているお稲荷さんが心配なった。
 案じることはなかった。一人前の立派な鳥居があり、色鮮やかな赤い社殿だった。わたしはホッとした。




 赤手拭稲荷の門前で、老夫婦が茶店を営んでいた。茶店だけでは生活が心許ないので、荒物屋も兼ねていた。夫婦はお稲荷さんへの朝夕のお詣りは欠かさなかった。しかし、どういうわけか、次第に店が寂れて、お客のない日が何日も続くようになった。
 爺さんは婆さんに愚痴った。
「向かいのお稲荷さんも薄情な神さんやで。わしが朝夕に拝んだってるのに、近所つきあいの悪い神さんや。ちょっとは気を利かして、お客の一人や二人をまわしてくれてもええと思うけど、誰一人として寄こしてくれよらん」
 婆さんは優しくなだめた。
「拝み方が不十分やったんと違いますやろか。真剣にお願いしてみたらどうですやろ」
 爺さんは、これまでのええ加減な拝み方でなく、水垢離をとって心身を清め、一心不乱にお祈りするようになった。
 しかし、神さまはなんのご利益も与えてくれなかった。おまけに大雨を降らせた。
「向かいの神さんはしょうむない神さんや。お客を連れて来んと、雨を連れて来よった。そやのうてもお客がないのに、こんなジャジャ降りでは、今日もお客は一人もないわ」
 そうぼやいているとき、一人の男が駆け込んできた。
「へいへい、草鞋ですか。ここに一足だけ残ったのが御座います。これでよければどうぞ。へい、ありがとさんでござります」
 そのお客の姿が見えなくなると、また次のお客が現れて、同じように草鞋を求めた。
「お生憎さまでござります。一足だけ残ってたのが、ついいましがた売れてしまいました」
「おやじさん。意地悪したらどもならんで、そこに草鞋がぶら下がってるやないか」
 見ると不思議なことに真新しい草鞋がぶら下がっている。
「すんまへん。歳をとって呆けてきましたんやな。気がつきまへんでした。これでよければどうぞ。へい、ありがとさんで」
 お客が立ち去ると、不思議なことに、天井から新しい草鞋がぞろぞろと降りてきた。こうして、売っても売っても新しい草鞋が降りてくるので、次第に裕福になった。

 爺さんの近くに床屋があった。ここもだんだんと寂れていたのだが、茶店の一部始終を見てとって、床屋も同じようにお稲荷さんに日参を始めた。
「どうか、私にも茶店と同じご利益を給わりますように」。
 お稲荷さんは床屋にもご利益を与えてくださった。いままで暇をもてあましていたのに、早速にお客が現れた。床屋は大張り切りで髭剃りにとりかかった。
「はい。出来上がりました」と、手拭いを取りのけると、青々とした剃り跡から、新しい髭がぞろぞろ……。



 「赤手拭稲荷」とは珍しい名前である。次のような話が伝わっている。
 この辺りは漁村だった。海岸線に姿のよい松が並んでいた。漁師たちは、海から帰ってくると、汗にまみれて色が変わった手拭いを松の枝にかけて乾すのだった。松の根元にお稲荷さんが祀られていた。垢に汚れた手拭いがお供物になった。後になって、垢のついた手拭いを奉納するのは神さまに失礼というわけで、赤い手拭を供えるようになった。

 別の話もある。
 堺から魚を売りに来る源助さんは、住吉街道よりもこっちが近道なので、お社の前の道をよく利用していた。ところが、ここに住んでいる悪い狐がそれに目をつけ、源助を騙して魚を横取りするようになった。源助はお稲荷さんに「悪さをしないように」とお願いしたところ、「赤い手拭いで魚篭を包めばよい」とのお告げがあり、以後、悪戯をされなくなった。源助はお礼に赤手拭を奉納した。それが広く伝わり、誰いうとなく赤手拭稲荷と呼ばれるようになった。

 お社の脇に手水舎がある。昔ながらの赤手拭が奉納されていた。


 この写真の、お社の向かいに、淡水色のモルタル塗りの家が写っている。噺の中の、天井から草鞋が「ぞろぞろ」と降りてきた茶店は、この位置にあったのだろうな、そうしたら後追いの床屋はどのあたりだったかな、とそんなつまらぬ想像をした。


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