今吉と忍足を入れ替えてみた
平凡な日常はいとも簡単に崩壊する。
退屈な授業を終え、今吉は教室から部室までの通い慣れた道のりを歩んでいた。窓の外には空が高く広がり、穏やかな日差しが廊下に差し込んでいる。
それはありふれた日常だった。
そう、その扉を開けるまでは――
「ウィース」
部室の扉を開いた今吉は固まった。ドアノブを手にしたまま3秒間思考を停止し、それから2度瞬きをした。
今吉が何かに動じるということは非常に希なことである。もしこの場に諏佐がいれば、今吉の異変に驚き、保健室に連れて行かれたかもしれない。だが、不幸にも今吉のほかにこの状況を共有する者はいなかった。
今吉は勢いよくドアの外を振り返った。そこはさっきまでと毛ほどの変化もない桐皇学園部室棟の廊下だった。青い空をうろこ雲がのんびりと泳いでいる。
恐る恐る首を戻した今吉は、もう一度確かめるように部屋の中を一瞥し、無言でドアを閉めた。パタンと乾いた音の後に静寂が訪れる。
物言わぬ扉と対峙した今吉は、わずかに視線を下げた。
『桐皇学園男子バスケ部』
ドアに取り付けられたプレートには、間違いなくそう書かれている。眼鏡を掛け直して再度見てみたが、やはり見間違いではない。
自分は夢でも見ているのだろうか。
ベタな方法ではあるが、今吉は右頬をつねってみた。ここに若松でもいれば遠慮無く後輩の頬を使うところだが、あいにく今は今吉しかいない。
「イッタ!」
今吉は力一杯ねじり上げた頬を掌でなでさすった。
ちゃんと痛い。
夢を見ているわけでも眼鏡の不調でもなさそうだ。
今吉は意を決して再び扉を開けた。
「……ここどこやねん?」
そこには見知らぬ景色が広がっていた。思わず出た心の底からの呟きが、無人の部室に空しく響く。
『平凡な日常はいとも簡単に崩壊する』
あれはまだセミが鳴いている季節だった。あの日得た教訓を、今吉は身をもって思い知らされることとなったのだった。
部室の扉が今吉の知らぬ間にどこへでも行けるドアに変わっていたらしく、ドアの向こうは見たこともない場所に繋がっていた。だが、一見したところ、その部屋はどうやら部室であることは確からしかった。
部屋の前で立ち尽くしていてもいっこうに事態の好転はみられない。今吉は中の様子をうかがいながら室内に足を踏み入れた。
正面には巨大なスクリーンが鎮座していた。その対角の位置を見上げると、最新鋭のプロジェクターが設置されている。これだけの設備があれば、さぞかしスカウティングがはかどることだろう。全国から有望な選手を集めているだけあって、桐皇もそれなりに設備が整っている方だが、流石にこれには及ばない。羨ましい限りだ。
壁際に設置された棚には、きちんと背ラベルの貼られたファイルが整然と並んでいる。ラベルに書かれている文字を確認しようと棚に近づいたとき、突然背後から声が掛かった。
「オッス、侑士!」
――侑士?
いぶかりながら振り返ると、小柄な少年が弾むように現れた。
前髪がV字カットになった特徴的なおかっぱ頭。何となくどこかで聞いたような声だと思った。
「んなトコに突っ立ってどうしたんだよ?」
少年は軽い足取りで近づいてくると、背伸びをするようにして今吉を見上げた。
今吉はずいぶんと低い位置にある少年の頭を見下ろした。実はこの時、今吉はここがどこであるのかすでに見当が付いていた。
先ほど少年が口にしたのは従弟の名前だった。少年が着ているブレザーにも見覚えがある。学校帰りに待ち合わせた際に、従弟が着ていたものだ。
今吉は従弟との会話を思い返し、ある名前に辿り着いた。
「……ガックン?」
「なんで疑問系なんだよ」
やはりそうだ。
少年は今吉の母方の従弟である忍足侑士の相方、向日岳人だった。
そして、今吉は確信した。
ここが氷帝学園中等部男子テニス部正レギュラー専用部室であることを。
「オッス」
「忍足先輩、早いですね」
次に現れたのは、帽子の少年とやたらと笑顔が爽やかな長身の少年の二人組だった。
――確か飼い主とその忠犬、もとい侑士の同級生の宍戸君と後輩の鳳君やな。
どうやらこの二人も今吉のことを侑士と見間違えているようだ。
「いや、ワシ侑士とちゃうで」
「あっ!? 何言ってんだ? テメーが忍足じゃなきゃ誰だっつーんだよ」
宍戸がつり目勝ちな目を更につり上げた。
「いや、だからな、ワシは侑士の従兄で今よ――」
「ジジイみたいなこと言ってんじゃねーよ。激ダサだぜ!」
「なっ、ジジイ!? ダサい!?」
軽くショックを受けている今吉を置いて、宍戸はさっさと隣の部屋へ入って行ってしまった。
「忍足先輩……大丈夫ですか?」
鳳には気遣わしげな視線を向けられた。
「ワシこれでも高校生なんやで……そら中学生から見たらオッサンかもしれんけど、まだ18歳やねんで……侑士やって中学生には見えへんやん……」
一人取り残された今吉は、ボディーブローのように効いてきたダメージをやり過ごしながら、宍戸たちが入って行った扉とは別の、奥に続いているドアへと向かった。
今吉がこれまでに会った3人は、全員が今吉のことを従弟の名前で呼んだ。確かに今吉と侑士は、祖父譲りの容姿が兄弟と間違われるほど似ている。だが、彼らは一瞬の見間違いではなく、今吉のことを侑士と思い込んでいるようだった。
奥の扉を開けると、そこはトレーニングルームになっていた。ランニングマシンやベンチプレスといったトレーニング器具が並んでいる。
壁の一面は鏡張りになっている。今吉はこれ幸いと鏡の前に立ち、全身を映した。そこには桐皇学園の制服に身を包んだ今吉の姿が映っていた。
今吉はほっと息を吐き、両手で自分の顔を触った。撫でるようにして輪郭を確認する。間違いない、確かに自分の顔だ。
青峰や日向の時は外見や記憶に変化はなく、性格だけが入れ替わっていた。今回は記憶ごと中身がそっくり入れ替わってしまったのかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
では、なぜ彼らは今吉のことを侑士と勘違いしているのか。もしや他人の目には今吉の姿が侑士に見えているのだろうか。
「おい忍足、何をしている」
今吉が思索にふけっていると、後ろから聞き覚えのある声がした。顔を上げると、トレーニングルームの入り口に立っている人物の姿が、鏡に映り込んでいた。
金髪に青い瞳、右目の下の泣きボクロ。ただ立っているだけなのに目を奪われる圧倒的な存在感。一目で分かった。
――この子が噂の跡部様か。
透き通るような白い肌と真っ黒に日焼けした肌、育ちの良さがうかがえる品のある物腰と粗暴な態度。青峰とは似ても似つかない。ただ唯一、声だけはよく似ていると思った。青峰の口調から気怠さを除いたら聞き間違えそうなほど、二人の声質は似ている。
――なるほどな。もしかしたらこれが性格入れ替わりの条件なんかもしれん。
今吉は思わず吹き出した。
「何笑ってやがる、アーン?」
「いや、スマン……ちょっと思い出し笑いが……」
跡部の性格になった青峰の言動は、桐皇バスケ部を混乱に陥らせた。他方、氷帝テニス部でも同様であったことは想像に難くない。侑士から一部始終を聞いていた今吉は、その光景を想像し、笑いを抑えることができなかった。西洋の絵画にでも描かれていそうな容姿の跡部が、虫取り網を振り回してセミ捕りに走り回っていたとは。
笑いが止まらない今吉に跡部は冷たい一瞥をくれると、踵を返した。
「さっさと着替えろ。今日は監督が見に来る」
「ちょ、待ってや――うわっ!」
なんとか笑いを引っ込め、慌てて跡部を追った今吉は、トレーニングルームを出たところで壁にぶつかりそうになった。
こんなところに壁なんかあっただろうか。
今吉が見上げると、壁だと思ったのは巨体だった。2メートル越えを見慣れている今吉でも見入るような立派な体躯は、身長以上に大きく見える。中学生でこの体格なら、さぞかしいいセンターに育つだろう。バスケ部にスカウトしたいくらいだ。
「ス、スマンの」
「……」
無口な巨人は今吉に小さく首を振り、跡部に続いた。
跡部たちはスクリーンの前を横切って、隣の部屋に入った。宍戸たちが入って行った部屋である。
跡部の後を付いて行った今吉は、またしても入り口で立ち尽くした。
そこはロッカールームであるらしかった。辛うじて更衣室だと分かったのは、部屋の両脇にロッカーが並んでいたからだ。
今吉は自身のロッカールームに対する認識を打ち砕かれた。
部屋の中央には、楕円形のガラステーブルとソファセットが置かれている。カウチソファは今吉が楽に横になれる大きさだ。豹皮のカバーが掛けられた一人掛けのソファは、たぶん跡部専用なのだろう。床は絨毯敷きだ。今吉はいまだかつて、絨毯が敷かれた部室にお目に掛かったことはない。高級感あふれる洒落たデザインのインテリアの数々は、おそらくイタリアの某高級家具ブランドのものだ。
さらに窓のある壁面には十台弱のパソコンが設置されている。侑士から話には聞いていたが、想像を超えたゴージャス振りだ。とても中学生の部室とは思えない。
「何をチンタラしいてやがる。さっさとしろ」
惜しげもなく白い肌をさらして着替え始めた跡部が、肩越しに今吉を振り返った。
「あの……跡部君?」
「なんだ、忍足」
「いや、ワシは侑士やのうて侑士の従兄の今吉翔一や。ほら、ワシの方が身長高いし、顔も似とるけどよう見たらちゃうやろ?」
今吉が自らの顔を指差すと、跡部はじっと見つめて小首を傾げた。
「どこか違うか……?」
「ええーっ!? 制服やって同じブレザーやけど色とか全然ちゃうやん!」
「そういや眼鏡の形が少し違うか?」
「そこっ!? 俺と侑士の違いは眼鏡だけかい! いや、もっとあるやろちゃうとこ!」
声を上げて今吉が抗議すると、跡部はフッと息を吐き、得意げに口の端を上げた。
「俺様の
跡部は左手の人差し指と中指を眉間に当てるようなポーズで今吉を見据えた。内部まで見透かされるような鋭い眼差しに、今吉はゴクリと息を呑んだ。
「わかったぜっ! その糸目は青学の不二周助を意識してのものだな! そうして羆落としだけでなく他の技までものにしようとしているとは、やるじゃねーの。さすがは氷帝の天才だ!! ハァーッハッハッハッ!」
唖然とする今吉を置いて、跡部は高笑いと共に樺地を従えて部室を出て行った。
一人になった今吉は、よろよろとカウチソファーの肘掛けに手をついた。
「なんなんここの子らは……ボケばっかか? みんな目悪いんとちゃうか……」
今吉がブツブツ言っていると、セクシーなバリトンボイスが響いた。
「もう練習が始まっている時間だぞ、忍足」
またか。
溜息をつきながら顔を上げると、アルマーニのスーツにスカーフを巻いた、ただならぬ風貌の中年男性が、ロッカールームに入ってきた。
――何者やこのオッサン……
だが今吉は、それは聞いてはならないことだと察していた。
謎の男はテーブルの上に分厚い皮の長財布を置いて、出て行こうとした。
「ちょ、アンタ財布――」
「忍足、行ってよし!」
慌てて引き留めようとした今吉に、かざした2本の指が向けられた。
今吉は訳も分からずロッカールームを後にした。これ以上ここにいても解決策は見つかりそうにない。幸いにも最初に入ってきた扉の向こう側は、桐皇学園の廊下に繋がっている。さっさとここを出て桐皇に戻ろう。
ドアを開けた今吉は、三度立ち尽くした。通い慣れた桐皇学園の校舎は霧散し、見たことのない景色が広がっていた。
乾いた笑みを漏らしながら、今吉は悟っていた。おそらくここは氷帝学園の敷地内だ。
「氷帝から
今吉はおもむろに携帯電話を取りだした。
「もしもし、ワシや。ああ、わかっとる。皆まで言わんでもええ……。ワシも今な――」
電話の相手は、目下今吉と同じ目に遭っているはずの従弟である。自分と入れ替わった侑士に対するチームメイトたちの反応が容易に想像できた今吉は、深々と嘆息を漏らした。