跡部様と青峰の性格を入れ替えてみた
氷帝学園中等部男子テニス部は戦慄していた。
正レギュラー専用コートのネットを挟んで、二人が対峙している。
一人は、言わずと知れた氷帝学園テニス部部長、跡部景吾。ジュニア選抜経験者にして全国屈指のオールラウンダー。部員数200人を越える氷帝テニス部を率いる
もう一人は、正レギュラーの一人、宍戸亮。一度は正レギュラーから外されながら、血の滲むような努力で復帰を果たした不屈の人である。
コートを遠巻きにして部員たちが固唾を呑んで見守る中、にらみ合う二人は、まさに一触即発の様相を呈している。
「宍戸さん……止めてください!」
「長太郎、止めんな!」
腕をつかんでいる鳳の手を宍戸が振り払った。
「俺はな、こいつの部長としての姿勢を言ってるんだ! これが部長のすることかよ? 俺は……オマエがそんなヤツだとは思わなかった。見損なったぜ、跡部!」
宍戸は語気を荒げ、怒りと失望に満ちた眼でキッと跡部を見据えた。
「これが氷帝テニス部部長の姿かよ!?」
ヒュンと空気を斬る音が鳴り、宍戸がラケットを跡部の眼前に突きつけた。
――っ!!
その瞬間、氷帝テニス部が息を飲んだ。シーンと静まり返る中、部員たちはおそるおそる跡部を見た。彼らは、今まさに果たし合いが始まらんとすることに戦慄していたのではなかった。二人が言い争うのは日常茶飯事で、見慣れた光景だった。本気で心配しているのは、宍戸の傍らでおろおろしている忠犬くらいのものだ。
では、部員たちは一体何に戦慄していたのか――。
200人の視線が跡部の右手に集まった。
跡部の右手にはラケット――ではなく、虫取り網が握られていた。
事の始まりは、10分前。鳳の何気ない一言から始まった。
「跡部部長、遅いですね」
練習開始の5分前になっても跡部の姿が見えなかった。
生徒会長でもある跡部は多忙で、しばしば部活に遅れて来ることがある。そんな時は事前に練習メニューの指示があるのだが、この日はそれがなかった。
「部室にもいませんでしたよ」
日直だったため部活に来るのが少し遅れて、最後に部室を出てきた日吉が言った。
「樺地、跡部は?」
コートの隅で所在なげに立ち尽くしていた樺地は、宍戸に問われ、無表情のまま首を振った。従者のように跡部に付き従う樺地が跡部の動向を把握していないということは、常にないことである。正レギュラー一同は顔を見合わせた。
「ねぇ樺地、跡部部長のクラスに迎えに行ったんだよね?」
鳳の言葉に樺地は無言で頷いた。
「跡部部長はいなかったの?」
樺地は再び頷いた。
「とりあえず電話してみよか」
忍足が携帯電話を取り出した。だが、いつまでも呼び出し音がむなしく響くだけだった。
「ったくどこほっつき歩いてんだ跡部はよっ!!」
宍戸が苛立たしげに帽子を脱ぎ、頭を掻いた。
仕方なく先に練習を始めようとした時だ。
「あっ、あそこにいるの跡部じゃね?」
頭上から声がした。高く跳び上がり空中で一回転した岳人が降りてくる。
「どこだ!? どこにいたんだよっ!?」
「校舎の裏の森の方に歩いてったぜ」
「なんでそんなトコ歩いてんだ、あのヤローは! 部活ほっぽり出してどこ行く気だよ!!」
言うが早いか、宍戸が走って行く。
「宍戸さん、待ってくださいよー!」
その後を鳳が続いた。樺地は宍戸の先を行っている。
そして、5分後――。
怒り心頭の宍戸に手を掴まれて現れた跡部は、半袖半パンの体操着に麦わら帽子を被り、首からは虫かごを提げ、右手には虫取り網を持っていた。
「俺は絶対に認めねーからなっ! 部活サボってセミ捕りだぁ!? 激ダサだぜ!!」
宍戸の絶叫がコート中に響き渡った。
――宍戸さん、わかりますっ!
準レギュラー以下の部員たちは、心の中で首を何度も縦に振った。彼らは皆、氷帝テニス部部長・跡部景吾のカリスマ性に惹かれ憧れていた。
――跡部部長のこんな姿、見たくなかった!!
彼らは胸の内でさめざめと涙を流していた。
そんな部員たちの心情も知らず、跡部は指を突っ込んで耳を掻きながら、気怠げに言った。
「っせーな。練習したら上手くなっちまうだろーが」
「はぁっ!? 何言ってんだテメェ……」
宍戸のみならず、この場にいた誰もが耳を疑った。氷帝テニス部の一員であれば、跡部が誰よりもストイックで、誰よりもハードな練習を積んでいることを知っている。その跡部の口から出た言葉だとは信じられない、いや信じたくなかった。
「っざけんな! だったら今から俺がテメーをぶっ倒してやんよっ!!」
握り締めたラケットをわなわなと震わせて宍戸が叫んだ。
「……フッ、悪いがそりゃムリだ。オレに勝てるのはオレだけだ」
かくして、跡部 vs 宍戸の1セットマッチが始まった。
「ゲーム跡部。4−0(フォーゲームストゥラブ)」
宍戸のラケットを弾き飛ばし、跡部の強烈なスマッシュが決まった。お決まりのセリフこそないものの、跡部の得意技「破滅への円舞曲」だ。
試合は終始、跡部が宍戸を圧倒している。中身がガキ大将みたいになっても、テニスの腕前はまったく衰えていないらしい。つまり、身体も記憶も元の跡部のままで、なぜか性格だけがおかしくなっている。
試合の行方を見守りながらしばし考え込んでいた忍足だったが、思うところあって携帯電話を取り出した。
「侑士? どこにかけるんだ?」
「ちょっとな……」
とはいえ、向こうも部活中だろうから出られない可能性が高い。それならそれで仕方が無いと思いながらコールを待つこと数回、電話が繋がった。
『もしもし、侑士か? こんな時間にかけてくるなんて珍しいな。どうしたんや?』
「ちょっと翔一兄ちゃんに相談したいことがあってな」
電話の相手は従兄の今吉翔一だった。3歳年上の従兄は、バスケットボールで都内の高校にスカウトされ、親元を離れて寮生活をしている。現在は、桐皇学園バスケ部の主将だ。互いに都内に住んでいることから、休みが合えばときどき顔を合わせている。
翔一は母方の従兄で、母親同士が姉妹の間柄だ。よく兄弟と間違われるそっくりの風貌は、母方の祖父譲りだ。
祖父は孫の目から見ても少々変った人で、古今東西のあやかしや民族学にも通じた博識の人だった。その祖父の資質をより強く受け継いだのが従兄で、子供の頃から人の心を読む力に長け、妖怪じみているとさえ言われていた。祖父を除けば心を閉ざした忍足を看破できる唯一の人でもあり、この異常事態を相談できそうな人物として真っ先に思い浮かんだのが彼だった。
「実は……ウチの跡部がおかしなってしもて」
跡部のことはこれまでに何度か話したことがある。同級生に面白い奴がいると話して聞かせると、従兄も面白がって跡部に興味を持っていた。
忍足が目の前で起きていることを話すと、電話の向こうで従兄が押し黙った。
「……翔一兄ちゃん?」
『ああ……スマン。それで跡部君やけど、口癖いうか、台詞がいつもと違ってたりせえへんか?』
「そうやねん! って翔一兄ちゃん、なんで分かったん?」
『……跡部君はなんて言うてんの?』
「オレに勝てるのはオレだけや、とかなんとか? いつも通りと言えばいつも通りなんやけど……」
従兄がまた無言になった。短い沈黙の後、驚いたことに心当たりがあると言う。
『ちなみに、俺様の美技になんちゃらって聞き覚えないか?』
「それ、跡部の決め台詞や。……なんで翔一兄ちゃんが知ってんの?」
『うん……今な、目の前で後輩が言うとる』
忍足の耳に従兄の乾いた笑い声が届いた。
コートに視線を戻せば、ちょうど試合が終わったところだった。
「オレに勝てるのはオレだけだ」
コートを叩いて悔しがる宍戸に言い放ち、跡部はラケットを虫取り網に持ち替えた。
「なになに跡部、セミ捕りすんの!? マジマジすっげぇーっ! 俺も行くー!!」
いつの間にか目覚めていたらしい慈郎が、ウキウキと跡部の後を付いて行く。
「なぁ……翔一兄ちゃん。これ、いつになったら元に戻るんやろ?」
『さぁなぁ……勝手に入れ替わったんやし、放っといたらそのうち戻るやろ』
「早く戻したらんと、途方に暮れてる後輩が可哀想なんやけど……」
忍足は、肩越しに気遣わしげな視線を向けた。コートの隅に樺地が呆然と佇んでいる。心なしか巨体が小さく見えた。
『まぁ……アカンかったら魔王様の力を借りるしかないやろな』
「せやな……魔王様か……」
忍足はある人物の顔を思い浮かべた。できるならば、その前に跡部が元に戻ってくれることを願いながら。