吸血鬼と詐欺師

 重苦しい音と共に開いた扉の隙間から微かに光が漏れて、すぐに再び暗闇に戻る。この室内に、部屋といえるのかどうかさえわからないが、とにかく此処に光が差し込むのは日に二度だ。男が入って来る時と、出て行く時。窓の一つもない閉ざされた空間では、時間の感覚など疾うに失った。だた、男が出て行って戻ってくると、また一日が経ったのだと思う。
 一瞬の光が太陽のものなのか、それとも隣の部屋を煌々と照らす人工的な明かりによるものなのか、其れさえもブン太にはわからない。恐らくは重い鉄でできているであろう扉の向こうに、外の空間が広がっているのか、此処に続く別の部屋があるのか、そんなことですらわからないのだから。
 カシャリと鉄が固い床に擦れる。此処に来てから最も多く耳にしている音だ。次いで、重い扉が軋む音と、周囲の空気震わせてバーンと闇を閉ざす音。そして、カツカツと近づく足音。光のみならず外部から音までもを遮断された空間で、ブン太の耳に届くのはそれくらいのものだ。

「いい子にしとったか、丸井?」

 嘲る様な男の声音と、自分の声を除けば。


「随分とご機嫌斜めのようじゃの」

 拘束されてからかなりの日数を経てもなお光を失わない瞳が、キツイ視線で睨みつけてくる。だが、それを気にする風もなく、仁王はおもむろにブン太の目の前にしゃがみ込んだ。

「腹が減ったんじゃろ?」

 そう言うと、手に提げていたビニール袋の中から取り出したものを次々に床の上に並べていった。ガサガサと音を立てて仁王が一つ一つ順にそれらを並べている間、ブン太は袋と自分の目の前を往復する仁王の手元を、中身を全て出し終えて袋が空になるまでじっと目で追っていた。

「…腹減った」
「だったら、早よ食えばええ」

 からかうような仁王の口調に、ブン太は更に睨みつける視線を強くする。それでも仁王は怯む様子もなく、むしろ楽しそうに口元を歪めた。

「わかっちょる。お前が欲しいのはコレ、じゃろ?」

 クツクツと喉の奥を鳴らしながら、自らの手首を掴んで見せる。見せつけるように赤い舌を這わせるそこにブン太の瞳は吸い寄せられ、思考よりも先にコクコクと頷いていた。
 闇の中で鈍い光を放ち仁王の皮膚を滑る刃先に瞳を奪われる。間を置かず沸々と紅い玉が浮かび上がり、それは一筋の線になる。ブン太は、一瞬たりとも眼を逸らすことができなかった。ゴクリと喉を鳴らし、待ちきれずに手を伸ばす。が、すっと上げられたそれには僅かに届かない。左足に繋がれた枷がそれを阻んだ。幾度繰り返しても、鼻先を掠めるように寸前で逃げていくそれを捕らえることは叶わない。まるで、掴み所のないこの男そのもののように。
 触れるか触れないかの距離でこれ見よがしに掲げられる腕を伝う紅い筋。焦れてあがけばあがくほど、足元の鎖がガシャガシャと耳障りな音を立てる。だが、本来なら苛立たしいばかりのその音も、この時既にブン太の耳へは届いていなかった。騒々しいまでに、何もないただ広いだけのガランとした空間に響くそれを気に留める余裕さえ完全に失っていた。

「早く寄こしやがれぃ」

 強気の姿勢も次の瞬間までだった。仁王の腕を伝った紅い雫がポトリと床に落ちたその瞬間、強靭な精神力でなんとか繋ぎ止めていた細い糸がブン太の頭の中でプツリと音を立てて千切れ、最後に残っていた理性を手放した。瞳にはもはや、紅い血溜まりしか映ってはいない。ジャラジャラと鎖を引き摺って一直線に紅に向かって這いずって行ったブン太は、床に触れるほどに顔を近づけ舌を伸ばした。
 そんなブン太を見下ろしながら、仁王はフッと笑みを漏らすと、僅かに瞳を細め、それまでとは表情と口調を一変した。

「お行儀が悪いですね」

 突如として変化した仁王の口調に、小さな体をぴくりと震わせて動きを止める。恐る恐る視線を上げた表情は、この日初めて怯えた色を浮かべていた。

「人にものを頼むときはどのようにすべきか、ちゃんと教えて差し上げたはずですが、丸井君」

 穏やかで言い聞かせるように丁寧な口調ながら、有無を言わせぬ迫力と威圧感のある語り口。ブン太の体は小刻みに震え出した。この声音には強制力が働いているのか、条件反射のように、まるで金縛りにでもあったかのように一寸たりとも身動きが取れなくなる。指の先はおろか、視線を動かすことさえできない。

「どうしたんですか」

 どこまでも口調だけは優しい残酷な声に促され、痙攣する喉を叱責して無理矢理力を込め、なんとか震える声を出すことに成功する。

「…く、れよ……」

 だが、振り絞るようにして出した精一杯の声にも許しは貰えない。

「何が欲しいんですか?」

 追い討ちをかけるように、その声は益々ブン太を追い詰める。

「ソレ…が……」
「ソレ? ソレではわかりませんね」

 喉がカラカラに渇いて、弱々しく震える声は掠れ、辛うじて仁王の元へ届くかどうか。早くこの乾きを潤したい。
  ブン太は、狂おしいまでの飢えに苛まれていた。脳裏を赤一色が支配し、全てを紅く染め、目の前がチカチカと点滅する。この絶望的な飢餓感から逃れる術は、眼前の男に縋り、恐怖に飲まれるしかない。どんなに抗ってみたところで、この男から逃れる術など持ち得ないのだから。

「ちゃんと言えますね?」
「ち…が……お…まえ…の…血…が……」

「仁王の血が欲しい…」

「よぉ言えました」

 ブン太の赤い髪を撫でながら手首を差し出す灰色の瞳は、冷たく嘲笑を浮かべていた。


 詐欺師は手段を選ぶ。
 より楽しめるように、退屈しないように。


「そんなにがっつきなさんな」

 ピチャピチャと音を立てて、目一杯舌を伸ばして湧き出る鮮血を舐めとる。血が滲み出てこなくなると、唇を密着させて吸い付いた。
 牙は疾うに失った。
 舌も唇も淫らに紅く染め、我を忘れて、ただひたすらに、貪るように、一心不乱に、目の前の血液だけを求めていた。黒一色の空間に、緋色しか眼に入らない。
 囚われているのは、自分なのだから。
 自らの手首に吸い付くブン太を、仁王は面白そうに見下ろしていた。夢中になっているブン太は、自らが立てる水音も、仁王の嘲笑も耳に入ってはいない。

「ホンマに飽きんのう、丸井は。いや、」

「ブン太」

 愛しむような声音が闇に響いた。仁王の指先が、まるで愛撫するかのようにブン太へと繋がる鎖を這う。首輪に繋がる鎖を引かれ、無理矢理顔を仁王の正面に向けられる。てらてらと紅く濡れた唇が艶を放つ。

「鎖がよう似合っとる」

 ブン太の口の端から零れた紅い筋を、仁王の舌が顎から辿って舐め取っていく。重なった唇の間で、朱の混じった唾液が交わされる。

「…ッ」

 ブン太の唇から離れた仁王のそれから流れる新たな鮮血。

「この詐欺師が」

 噛み切った時に付着した血を舐め取り、仁王の唇から流れる筋に吸いつく。
 強引に割って入った仁王の舌が、自らの血を味わうかのようにブン太の口内を蹂躙した。それはまるで、吸血鬼のように――


 吸血鬼より詐欺師の方が性質が悪いというお話。