煙
ベッドの中で瞳を開けると、隣に忍足の姿はなかった。
どうしようもなく心細さを感じてしまうのは、単に温もりが足りないからだろうか。
包まっていた毛布から顔を出して室内の様子を伺うと、微かに漂ってきた香りで忍足の居場所が知れた。僅かに開いた窓の隙間から、煙が一筋、室内に入り込んできていた。
離れている2年の間に、忍足は煙草を嗜むようになっていた。元々、跡部は煙草の臭いが好きではない。高等部のころ、煙草を吸い始めた忍足に、「俺の前では絶対に煙草を吸うな。俺に会う前も吸うな。俺は煙草が嫌いだ。服や髪に臭いが移るのも我慢ならねぇ。止めねぇなら別れてやる」と宣言すると、忍足はあっさりと煙草を手放した。「景ちゃんと嗜好品やったら、景ちゃんを取るに決まってるやん」そう言って笑っていた。
2年間、煙を吸い込み続けた肺は最早それなしではいられないらしく、忍足は赤い箱を手放さない。流石に跡部がいる前では吸わないが、会えば必ず苦い臭いがした。
「跡部、起きてたんか」
外の冷たい空気と共に、忍足が部屋へ戻ってきた。途端に、臭いが強さを増す。髪にも、身に纏うシャツの布地にも、すっかりと染み付いている。跡部を愛撫する忍足の指にも、まるでオペ用の薄いゴム手袋がぴったりと空気が入り込む隙間もなく密着するように纏わりついていた。
跡部にはそれが嫌だった。跡部がいない2年間に忍足に馴染んだ煙草の臭いは、跡部の知らない忍足を主張しているようで、離れていた空白の時間を思い知らされるようで、それが堪らなく嫌だった。
もうお前の知っている忍足じゃないんだ。そう言われているような気がした。
跡部が好きな少し骨張った長い指が頬に伸び、鼻先に臭いが掠めた。
この指で触れられるのが好きだった。キスをするときにそっと頬に触れてくるのも、優しく髪を梳くのも。この指に与えられる愛撫の全てが好きだった。この指は跡部のものだった。
跡部は、忍足の指に絡みつく臭いを消し去ろうと、それを口に含んだ。舌を絡めると、苦い味がして顔を顰める。鼻腔を抜ける香りは、どんなに舌で舐めとっても消えない。
自分の知らない時間、もの、人。2年の間に忍足を取り巻いていたもの、忍足を通り過ぎていったものたちの残り香のような気がして癇に障る。
すべてを消し去りたかった。
跡部の知らない忍足のすべてを。
クチュと音を立てて跡部の口内から忍足の指が引き抜かれ、跡部の赤く染まった唇と忍足の指先との間に透明な糸を引いた。その糸を断ち切って、艶々と光る指は跡部の肢体を辿り後口へと進入する。跡部自身の唾液によって充分に濡らされたそれは、先程までの行為の跡が残るそこへ容易に入っていく。隙間なく合わさった唇から強い香りが入り込み、慣れない味に一瞬眩暈を覚える。くらくらした感覚の中、なんとか意識を留めると、途端に自分の中を犯す指が誰か知らない別人のもののように思えた。
こんな指は知らない。
覚えのない指に掻き回される感覚に、嫌悪感を覚え吐き気すら感じる。
気持ちが悪い。
気づけば、目の前に覆い被さっていた忍足の胸を強く押し遣っていた。
「跡部?」
「煙草の味がするキスなんざしたくねぇんだよ…」
どないしたんや、と窺う瞳から顔を背け、吐き捨てるように呟いた。
「なんで、んなもん吸ってんだよ」
白いシーツに顔を伏せた忍足は、額の下で組んだ腕の間からくぐもった低い声を漏らした。
「俺な…おまえと別れて耐えられんかってん。こんなモンにでも頼らんとアカンくらいに、どうしょうもなかった。コレ吸っとったらまた跡部が怒ってくれるんちゃうやろか思て…気ぃついたら手出しとった」
情けないな、そう呟く中に含まれる苦しげな声音と唇の端を自嘲的な笑みで歪ませた表情に跡部は瞳を見開き、そして忍足の告白を聞き終えるころにはその瞳を細め口元に艶やかな笑みを浮かべていた。
「…バーカ。医者の卵がそんなもん吸ってんじゃねぇ」
「せやな。おまえとキスできへんくなるなら、止めんとしゃあないなぁ」
「もう必要ねぇだろ」
「じゃあ、代わりにキスしてくれる?」
「しょうがねぇな…」
しなやかな腕を首に回し、掠めるように触れるキス。
最高級の嗜好品。