逝く夏

 この時間になってようやく、ゆっくりと陽が落ち始めようとしていた。西日が差し込みオレンジに染まった窓辺は、冷房が効いた室内でも暑い。温まったフローリングに、汗で湿った背中が張りつく感触が気持ち悪い。
 八月も終わろうというのに、まだまだ残暑は厳しかった。
 世間の大多数がそうであるように、溜まりに溜めた夏期休暇中の課題を片付けるのに必死になっていてもおかしくない学生の身分だ。勿論、そんな羽目に陥ったことは未だ嘗て一度としてないが。今頃、青い顔をして焦っている同級生の顔ならいくつか容易に思い浮かぶ。
 今もまた、ガラス製のローテーブルの向こう側で、床に落ちた携帯電話が着信を知らせていた。低く響く振動音は、どちらのものともわからない。今朝から繰り返し交互に鳴り続けるのに辟易して、バイブにしたまま放置していた。テーブルの上にあったはずのそれは、自らの振動で少しずつ移動をしているうちに落下したのか、それとも何かの拍子にテーブルの脚を蹴り飛ばしていたのかもしれない。フローリングの床と擦れ合う音が酷く耳障りに聴こえた。
 留守番電話のメッセージに切り替わり、バイブレーションが一旦途切れた。だが、またすぐに再開する。いい加減、諦めの悪い奴らだ。
 ふと、この男はどうなのだろうか、と思った。課題を出しているところを見たこともなければ、手を付けている様子もなかった。こと今に至っても、焦った様子もない。
 薄く目蓋を開けると、黒曜石のように冴えた暉を放つ眸と視線が合った。それがフッと微笑む――と同時に、腰を高く持ち上げられ背中が浮いた。肩甲骨と後頭部を床に押しつけられる姿勢になり、顔を顰める。上から伸し掛かる圧力に髪が滑り、少しずつ上へ上へと押されていく。見下ろす眸は、おおよそ熱というものを感じさせない。
 烏羽色の髪は、照りつける太陽の熱を嫌というほど吸収しているだろうに、まるで涼しげな態度を崩さない。むしろ、目元を隠すように垂れ下がった前髪が作り出す影が、触れたら冷たいのではないかとさえ思わせた。
 この男の眸に表れる欲は、研いだ黒曜石の切っ先の鋭さ。それは、ライオンのような哺乳類のそれではなく、爬虫類のそれだ。

 一匹のつくつく法師は狂い鳴いた
 こんなにも激しい声を知らない
 往く夏を惜しんでいるのか
 つくづく惜しい、惜しい、と
 それとも、愛しい雌を呼ぶのか
 恋しい、恋しい、と――

 たった数週間の地上での生、そのすべてを自らの血脈を次代に繋ぐためだけに費やす。
 力の限り叫び続け、遺伝子を残すことに成功すると力尽きて逝く――
 冷房の効いた室内で、じっとりと汗ばむ肌を重ねている自分たちはどうだろうか。
 助けを求める仲間たちが鳴らす携帯電話も無視して、生を希求する声を聴きながら非生産的な行為に耽っている。宿題に追われている方がよっぽど健全だ。
 つくつく法師の鳴き声が一層高まるのに合わせたかのように、内部を抉る忍足の動きが激しくなった。
 夕日を受けて赤くなった背中に爪を立てる。
 熱い塊が爆ぜたとき、つくつく法師の声は止んでいた。