蛍火
「なぁ、俺の地元に行ってみいひん?」
そろそろ梅雨に入ろうかという六月の初め。唐突に忍足が切り出した。忍足の部屋で窓の外を睨みつけ、はっきりしない空模様に不機嫌さを隠そうともしない跡部は、もちろん一蹴した。
だが、今こうして跡部は、忍足に手を引かれて忍足の地元を歩いている。
「見せたいもんがあるんや」
そう言って差し出された手に引き寄せられた。
「おい、どこまで行くんだよ」
忍足の家を後にしてから十分ほど歩き続けている。言葉少なに、ゆっくりとした歩調で。
「もうちょっとや」
時々、焦れたように跡部が問いかけるが、一歩先を歩く忍足は、その度にのんびりとした口調で同じ答えを返す。それを幾度か繰り返していた。
二人が歩いているのは水辺で、黒く闇と同化した水流を目で確認することはできないが、ちろちろと流れる微かな水音で跡部にもそうと知れた。時折、小さな虫の音も聴こえる。忍足は来慣れた場所なのか、足元が見えない中をしっかりとした足取りで進んでいた。
「景ちゃん、足元気ぃつけて」
家を出てから一度も振り返ることのなかった忍足が、初めて跡部に顔を向けた。繋いだ手と反対のもう一方の手も差し出されその手を掴むと、自然と二人は向き合うかたちになる。
「ほら、着いたで」
だが、そこはただ闇に包まれているだけで。訝しげな目で忍足を見れば、ゆっくりと忍足の顔が近づいてきた。
「見てみ」
耳元で促されて、視線を向けるとそこには――
「えっ…」
初めは闇の奥に小さな光が一つ。眼を凝らして暗闇を見つめていると、その光は二つ三つと増えていき。やがて眼が慣れてきたころには、そこに小宇宙が広がっていた。
「綺麗やろ?」
跡部は、頷くことすらできずに呆然と眼を奪われていた。
淡い黄緑色の光が仄かに灯っては消え。それを惜しいと思う間もなく、また別のところで瞬く。辺り一面、あちらこちらで繰り返される。その幾重にも重なる瞬きは、天の星座のような図を描き、天然のプラネタリウムのようだった。
跡部は、吸い寄せられるように光の中に近づいて行った。この光景は、二人だけの宇宙だった。
「これをな、見せたかったんや。景ちゃんはきっと見たことないやろと思って」
背後から忍足の声がした。
「ここな、ガキんころにようおとんに連れられて来てん。姉貴や謙也も一緒に甚平さん着てな。流石にもうおらんやろ思てたら、こないだ電話で話した時にまだおった言うからな。そしたらどうしても、景ちゃんに見せたりたなってん。無理矢理連れて来てしもうたけど、お姫さんのお気に召したかな?」
「ああ…悪くねぇ。気に入ったぜ」
「そらよかった」
振り返った跡部の極上の笑みに、忍足もまた柔らかく微笑んだ。
辺りは闇が支配し、微かに聞こえる水音と小さな生き物が時折発する声の他に音はない。
「蛍の光はな、求愛行動なんやで。メスはオスを光で誘って、オスはその光を探すんや。お互いにたった一度の相手を見つけるために光るねん」
傍らで忍足が紡ぐ言葉を、跡部はその闇に馴染む低い声音を心地よく感じながら聞いていた。
「俺も、もっと好きやって言ったら景ちゃんに伝わるかな」
独り言のような呟きだった。闇に紛れた忍足横顔から、表情を窺い知ることはできない。
「でもな、景ちゃんは俺には眩し過ぎんねん。景ちゃんの光は俺の眼には眩し過ぎる」
放たれる強い輝きを前に、自分の光は届かない。
「もっともっと強く、相手に想いを伝えるために光りを放つ蛍みたいに、俺の全てを賭けて気持ちをぶつけたら伝わるんやろか?」
短い一生の全てを賭けて愛しぬき全てを捧げ、そしてその形を遺し息絶える。蛍の小さな体が放つ淡い光に、儚さと同時に力強さを感じるのはその為だろうか。
蛍は圧倒的にオスの数が多く、ほとんどのオスは想いを遂げることができないという。報われないかもしれない想いに健気にも全身全霊を込めて光を発する蛍の姿に、忍足は自分自身を重ね合わせていた。
「それやったら、力尽きてもええわ」
静寂に消えるほどの小さな囁きは、辛うじて跡部の耳まで届いた。
「バーカ。力尽きてどうすんだよ」
闇の中から伸ばされた白い手が両側から忍足の顔を包み込んだ。ぐいっと強い力で引かれて触れ合うほどに間近に迫った跡部の顔が、暗闇の中でもはっきりと見えた。
「その胡散臭ぇ伊達眼鏡外して、テメェの眼でこの俺様をしっかり見ろよ」
闇夜に浮かぶ青い瞳が、闇に同化する忍足の瞳をまっすぐに見据えていた。
「もう伝わってんだよ」
そう言って勝ち誇った笑みを浮かべる跡部の表情は、やはり神々しいまでに眩しい。思わす細めた瞳をなんとかもう一度見開いて、夜と相反する色を湛える跡部の瞳を見つめ返した。
「テメーは、俺の隣で見劣りしないように光ってろよ」
この光に惹かれた――