the Fourth Avenue Cafe
日本はそろそろ梅雨入りの時期だろうか。テニス部の部長をしていたころは、日々の空模様に眉を顰めたものだ。だが、この地に居る跡部には、そんなことは関係のないことだった。
こちらに来てから開拓した居心地の良いカフェ。その通りに面した席で、食後の珈琲を楽しむ。指定席となっているこの席に座り、朝食をとった後にゆっくりと一杯の珈琲を飲むのが毎朝の習慣だ。
本来なら珈琲よりも紅茶を好む跡部であったが、こちらに来てからは珈琲を飲むようになった。満足のいかないものを口にするよりは幾らかマシだろうと思ったのが最初だったが、今では思いの外気に入っている。日本に居たころにはどうしても馴染めなかった苦味も。子供舌だと揶揄されるのが嫌でミルクも砂糖も入れないアイツに対抗してブラックで飲んでいた、その味にもいつしか慣れた。それは、東京の朝、微睡みの中に漂ってきた香りと同じだったからかもしれなかった。
頬杖をついて、窓の外に視線をやる。そうして時折、思い出したようにカップを口に運ぶ。そんな風にして時間を過ごすのが、いつものスタイルだ。
苦味のある黒い液体は、ゆっくりと冷ましながら少しずつ口にするのが猫舌な跡部には丁度いい。通りを行き交う人々をぼんやりと眺めながら、次第にカップを口に運ぶのが間遠になっていることに跡部自身は気づいていない。そして遂には、カップはソーサーから動かなくなる。
窓の外を流れる、肌も髪も瞳の色も異なる様々な人種。その向こうから、あの黒を纏った男が歩いてくることはないのに。
以前は好まなかったものを口にするようになったのも、アイツが好んで飲んでいたからだとか。苦いのを我慢してミルクを入れないのは、あの男の色だからとか。もし傍に居れば、ヤツに影響されたことをこの上なく腹立たしくも忌々しくも思っただろうが。離れている今は、口元に笑みが浮かぶことも許すことができた。
ようやく思い出して口をつけたそれは、すっかり冷めてより苦味を増していた。それを一息に喉へ流し込む。
黒くて苦い。
それはアイツそのもののように思えた。
目の前に立ち上る白い湯気をぼんやりと見つめる。運ばれてきたそれに手をつけることなく、眼鏡のレンズが曇らないように、近づきすぎないよう注意しながらしばらく眺めているのが忍足の癖になっていた。猫舌な彼の人のために、淹れたての紅茶を冷ましているうちに身についてしまった癖だ。
講義の空き時間を、忍足はよくここで過ごす。学園近くのこのカフェは、跡部とも度々来たことがある場所だ。紅茶の味には煩い跡部も、ここの紅茶は気に入っていたようだった。
ティーカップの上を覆っていた湯気が落ち着いたところで、ようやく華奢な取っ手に指を掛け、薄い縁に口づける。冷めたそれは、忍足には温く感じた。
琥珀色の液体は、アイツの髪の色を思い起こさせる。
跡部と付き合う内に、随分と紅茶に詳しくなった。どちらかといえば珈琲を好んでいた忍足の部屋に紅茶の香りが漂うことが増えていき、最初は散々酷評されていた淹れ方も、及第点を貰えるまでになった。
跡部と過ごすようになって忍足の部屋に常備されるようになった数種類の茶葉は、今でもキッチンの戸棚の一角を我が物顔で占めている。けれど忍足は、一人の部屋でそれを淹れようとは思わない。あの部屋に用意されている紅茶は、彼の人に淹れるためのものだから。彼と過ごした部屋から、紅茶と彼の人の香りが絶えて久しい。
大学部のキャンパスとは通りを挟んで反対側に位置するカフェの前は、ちらほらと見知った顔が通り過ぎていく。けれど、その中に思い描く顔はない。正面の空席に、溜息が零れる。
カップの底に残った茶色の水面に浮かぶ顔が現れることはないと知りながら、それでも人の流れの中に探している自分に苦笑し、すっかり冷め切ってしまった最後の一口を口に含む。
遠く離れた地で同じ香りに包まれていることを望みながら。