Angel dust

 ピチャピチャと響く水音が、雨の音と重なり交じり合う。それが自分の下肢から響く音でなければ、雨音と錯覚していたかもしれない。
 足下に跪く淡い栗色の髪を、ぼんやりと手塚は見下ろした。いくつかの水珠を弾いている。
 頭の芯が鈍く痺れている。全身をぬるま湯に浸しているような心地がした。
 柔らかな毛先が手塚の肌の敏感な部分に触る。
 あたたかななかに包まれたまれたそこは熱を持ち、苦しいような切迫感が脚の付け根から背筋を通って脳へと抜けていく。

「不二っ…もう……」

 咄嗟に伸ばした手が不二の髪を掴んだ。上目遣いの瞳と視線が重なる。
 窄められた口で吸い上げられる。白い喉が上下した。
 顔を上げた不二はその口元を不確かな笑みで形づくり、濡れた唇を舐めた。白い舌が覗いた。


 はじまりも雨だった。

『支障が出るのならボクを…団体戦のメンバーから外してくれ』

 それは手塚にとって思いもかけない言葉だった。そんな考えが僅かでも頭を過ぎったことは一度としてなかった。
 手塚と不二のテニスに対するスタンスが異なっていることは前から感じていた。それでも、不二がどのような姿勢で試合に臨もうと、それがたとえ手塚のそれとは正反対であろうと、手塚にとって不二は最も信頼を置くメンバーだった。
 不二自身もそれはわかっていたはずだ。
 手塚が不二を外すわけがないとわかっていて不二は賭けたのだ。
 不二が望む意味で手塚に必要とされているのか。
 ふたりともがこの状態に焦れでいた。そして、不二のほうが少しだけ早く限界に達した。
 その点で少し手塚は不二のことを見誤っていたのだ。手塚が思っていたよりも不二は堪え性がなく、独占欲が強かった。
 いや、手塚は知っていた。不二のそういった一面は、おそらくテニス部の中で誰より手塚が最もよく知っていた。不二は、手塚の前でだけそれを隠そうとしなかった。
 手塚は、不二のそんなところも理解をしていて、耐えきれなくなった不二が一線を踏み出すのを待っていた。

『濡れたままでいると風邪をひくよ』

 不二の手が別の意図を持って手塚のユニフォームに触れたとき、手塚はその手を拒まなかった。
 濡れたユニフォームから白い肌が透けていた。
 手塚の抵抗がないことを悟り、不二は跪いた。ひんやりとした指が、手塚自身に触れた。その冷たさに手塚は身を震わせた。それとも歓喜によるものだったのかもしれない。あるいは背徳感故か。
 口元に微笑を湛えたその表情は手塚がよく知る不二のものではなく、何か別の生きもののようだった。
 熱に浮かされたように潤んだ瞳、濡れて艶めいた光を放つ唇。
 手塚の腕の中で、白い背中が朱に染まっていく。

『キミが望むのなら、ボクは全力で戦うよ。ボクを全部あげる。その代わり――』

 キミをちょうだい――

 雨とも互いの汗とも判別のつかない露に濡れた肌が重なる。吐息が窓を曇らせた。
 けれどそれは、互いの体温を与えあうものではなく、奪い合うものだった。
 確かにそれはふたりが求めたものでありながら、ふたりが望んだ形とは違っていた。
 ふたりはひとつところにありながら別個のものだった。
 最も近くにいながら、背中併せて真逆を向いているかのような。


 雨のヴェールが秘め事を覆い隠す。
 決め事があったわけでもないのに、ふたりの逢瀬は雨の日が多かった。
 引き返す機会を逸したまま、危うい均衡を保ってふたりは歪な関係を繰り返した。
 立ち上がった不二が手塚に背を向け手をつく。手塚はいつも後ろから不二を抱いた。それがふたりの間で暗黙の了解となっていた。

「――どうしてこんなことをする」

 薄闇に白く浮かび上がる滑らかな曲線から手塚は顔を背けた。

「……もうやめよう」
「……ボクはもういらないということかい?」
「違う!」
「必要ないのならいってくれ。そういったはずだ」
「そうじゃない! ……これ以上おまえを汚したくはない」
「ボクは、キミが思っているような綺麗なものじゃないよ。ほら、見て。キミに欲情している。キミと同じ人間だ。男だよ」

 身体を起こし振り返った不二の中心には、手塚と同じ印が兆していた。

「ボクを汚いと思う?」
「そんなことを思うはずがない…!」
「セックスが嫌?」
「……こんなことは間違っている」
「男同士だから?」

 手塚が頭を振る。
 どこで間違えたのか。
 はじめからこれはどこか歪な関係だったのだ。
 そして、答えを出せぬままに繰り返した。
 いや、答えを出せなかったのではない。結論を出すことを避けていたのだ。
 そうすることでふたりが変わってしまうこと、すべてが終わりになるのではないかと恐れていた。

「不二、すまない。俺がおまえを追いつめた――」

 手塚はその腕に不二を抱き寄せた。

「もっと早くこうするべきだったな」

 雨音が遠くなる。
 はじめて不二を腕に抱いたような気がした。