世界が終わるまでは

 小惑星が落ちてきて地球が滅亡する。
 そんな使い古された映画のシナリオみたいな予告を真面目に語られたって、現実味なんてありはしない。
 けれどそれはデマカセでも予言でもなく、紛れもない事実として迫っていた。


 地球滅亡の報から5年が過ぎ、大騒ぎをしていた連中が粗方いなくなり、諦めと共に終末を受け入れた者が残った。残った者は疲れ果て、街は小康状態を保っている。
 地球滅亡まであと3年。
 嵐の前の静けさとでも言うのだろうか。不気味な沈黙を保ちながら、見せかけの平穏を取り戻していた。
 少し前まではあちこちで暴動が起こり、暴漢に襲われる危険があって表に出ることさえ命がけだった。今は日中であれば通りを歩くこともできる。買い物ついでに散歩をするのが、ここ最近の仙道の習慣になっていた。
 道の端には崩れた塀が瓦礫となっている。風が吹く度に土埃がたち、昼間なのに煙ったように薄暗く感じられる。
 この辺りは新興住宅地で、若い家族が多く、夕方ともなれば子供の声で賑やかだった。今は一人の子どもの姿もない。その殆どが、多額のローンで購入して数年しか経っていない家を手放し、どこかへ逃げて行った。今もまだ人の気配があるのは数軒に1軒で、家主がいなくなった家の窓はことごとく割られ、世紀末の様相を醸し出している。仙道が暮らすマンションも、仙道の他にあと2部屋しか残っていない。僅かに残った者たちは、固く閉ざした扉の向こうでひっそりと息を潜めている。
 仙道の両親は東京にいる。小惑星の衝突が発表されたとき、仕事で海外にいることの多い父親がたまたま日本にいたことが幸いだった。そうでなければ、さすがの仙道も母親の元へ戻っていた。
 ようやく通じた電話の向こうで、両親、特に母親は一人息子にすぐに帰って来るように言った。仙道とてここに残ったことに特別な理由があったわけではない。交通網は麻痺し、実家のある東京は、存在しない安全な場所を求めて脱出を試みる人で溢れ、入ることは容易ではなかった。落ち着いてから帰る。そう言って何となく機会を逃したまま時が流れ、仙道は今も鎌倉の部屋に一人暮らしている。
 途中で何台か乗り捨てられた自動車を避けながら進む。小惑星落下の報が駆け巡った直後には、この道も街を脱出しようとする車で溢れた。ガソリンが抜かれ、錆びた鉄の塊から、ポタポタと赤茶けた滴が落ちる。
 争うように街を出て行った人たちがどうなったのかは知らない。今残っているのは諦めた者たちだ。諦め、逃げる術を持たなかった者が生き残っているなんて皮肉だ。
 こんな世の中になっても生きている限りは最低限の生活を維持しなければならない。健康で文化的な最低限度の生活なんてもう誰も保障してはくれない。自力で何とかするしかない。生活能力ではなく生存能力が試されている。
 週に1度くらいの割合で、仙道は食料と細々とした日用品を買いに出る。今年に入って、近所の元スーパー跡地に露店が出るようになった。
 元スーパーは、地球の滅亡が現実として認識され街がパニックに陥ったときに、食料の確保に群がった民衆によって無残なまでに荒らされた。生きる糧を奪い合い、あちこちで乱闘が起き、人混みに押し潰されて命を落とした者もいる。店主夫妻は、店を諦めて逃げたとも暴徒に襲われたとも聞いた。
 適当な布や段ボールを敷いただけの露店には、田舎の方で仕入れてきた野菜やどこかから手に入れてきた日用雑貨が並ぶ。品揃えは限られていたが、それでもこうして物が買えるようになったのはありがたい。人という生き物はそれなりに頑丈で逞しくできている。
 買い物に出掛ける以外は、海で一日を過ごす。有り余る時間でのんびりと釣り竿を垂らす。暇潰しと食材の調達を兼ねた一石二鳥だ。
 海は沢山の釣り人で賑わっている。誰もが趣味ではなく生きるために魚を捕る。毎日のように顔を合わせる何人かとは、言葉を交わす仲になった。
 日がな一日ぼんやりと座っていても、うるさく呼びに来る声もない。怒りっぽい元チームメイトの小言が懐かしい。
 地上で人間がどんなに混乱していても、海の中では粛々と食物連鎖が維持されていて、魚たちは3年後の運命など知らずに悠然と泳いでいる。小惑星が衝突して人類が滅亡したとして、また新たな生命が生まれるのも海からなのだろう。次に生まれ変わるなら魚もいい仙道は思う。


 あの夏、高校最後のインターハイを控えていた。
 インターハイはおろか高校へ通うどころではなくなり、結局、仙道にとってインターハイは縁のないものになってしまった。天才と騒がれていても所詮はそんなものだ。
 高校は休校になったまま夏休みが終わっても再開されることはなく、綾南バスケ部の連中がどうなったのかもわからない。
 手にすることのなくなったボールは、部屋の隅に転がっている。
 薄暗い部屋に一人でいるとき、浮かぶ瞳があった。
 激しい光を湛えた漆黒の瞳が凄んでくる。
 インターハイ神奈川予選を翌週に控え、ストバスコートで対峙したのが最後になった。

『テメーを倒してアメリカへ行く』

 そう言った男は、今どうしているのだろうか。


 買い物を終えた仙道は、当て所なく歩き出した。気の向くままに歩を進めて半時間ほどが経っただろうか。見覚えのある通りに出て、仙道は足を止めた。
 この先を行けば公園がある。その奥にはストバスコートがあった。
 公園を斜めに抜けると、その奥にゴールが見えた。

「無事だったのか…」

 高い位置にあったお陰か、暴徒の襲撃を免れたゴールは、まるでそこだけ時を止めたかのように存在していた。
 その場に立ち尽くし、ネットが朽ちて丸い輪だけになったゴールを見上げていた仙道の耳に、ボールが弾む乾いた音と強く地面を擦る音が届いた。
 太陽を背にした黒い影が仙道の視界に浮かび上がる。
 次の瞬間、大きな音を立ててオレンジ色のボールがゴールに叩きつけられた。
 リングを激しく揺らして、影は悠然と降り立つ。

「――流川」

 あの夏にインターハイを目指していた、あの日のままの流川がいた。
 あぁ、こいつはまだ諦めていないのだ。
 インターハイもアメリカも、バスケも。
 明日も、明後日も、その先も世界が続くと一片も疑っていない。
 ただ一つのボールとゴールだけが存在する世界。
 バスケさえあれば彼の世界は続いていた。
 その瞬間、唐突にイメージが浮かんだ。
 迫りくる小惑星を背にゴールに向かう流川の姿が。
 世界が終わるその瞬間、流川と1 on 1をしていられたらいい。
 そう思った。

「よう、勝負しろい」

 振り向いた流川は、昨日の続きのようにボールを投げて寄こした。