銃爪-GUNLOCK-
濃密なように見せかけて、薄っぺらな闇だった。
身に纏わりつく闇の手を払いのけ、ビルの間を駆ける。入り組んだ路地は、何年も前に人が絶えたかのように人気がない。まるで廃墟だ。暗天から降り注ぐ激しい雨音が世界を遮断する。
失敗した――
噛み締めた奥歯から、苦いものが込み上げる。
簡単な仕事だった。闇に乗じて
音もなく雨を切り裂いた弾道が
今宵は新月。この時を待っていたかのように降り出した雨も、流川の姿を消してくれるはずだった。
(ちくしょう――)
背後から銃声と怒声が聞こえる。追手は3人。その距離は、徐々に縮まっていた。
雨を吸ったジーンズとバッシュで脚が重い。縺れる脚を必死で前に運ぶ。
路地の片隅に身を潜め、壁に背をつく。ぐらつく膝に手を置き、崩れそうになる両脚を叱咤した。
逃げる途中で肩を撃たれていた。流れ落ちた鮮血が流川の居場所を教えているのかもしれなかった。
手の中で黒光りする銃身がずしりと重い。手に馴染んだそれをこんなにも重く感じたのは初めてだ。
雨とも汗とも知れぬ滴が目に染みる。雨脚は強くなる一方だ。叩きつける雨が、容赦なく体温を奪っていく。
目が眩み、頭が傾ぐ。途切れそうになる意識を辛うじて繋いでいるのは、皮肉にも撃たれた肩の焼けるような痛みだった。
(くそっ…!)
水を掻き乱す複数の足音が近づく。追跡の手はすぐそこまで迫っていた。血眼になって流川を探す奴らの荒い息遣いが聞こえてきそうなほどだ。
足下にできた血溜まりが、筋を描いて雨に流されていく。血液とともに、生命力までもが流川の身体から流れ出ていく。目の前が霞んできた。
「こっちだ!」
不意に腕を掴まれ、失いかけた意識を引き戻された。誰何の間もなく、強く腕を引かれる。流川は、つんのめるようにして長身の背中を追った。
手を引かれるままに走り、今は使われていないらしい老朽化したビルの中に入った。湿った空気と、堆積した埃の臭いが鼻を突く。数時間ぶりの雨を凌げる場所に、流川はずるずると腰を落とした。途端に、急激な眠気に襲われる。手放しそうになる意識と格闘し、重たい瞼を抉じ開けて、窓の外を窺う男を見上げた。全身黒ずくめで、雨に濡れても天を向く髪の男が振り返った。
「助けてやろうか?」
流川は頷いたかもしれない。男が薄く笑ったような気がした。
意識を手放す瞬間、2発の銃声を聞いた。
闇の奥から、闇よりも深い瞳が流川を見つめていた。本物の闇を湛えた、深淵を知っている瞳だった。
目を開けると、見知らぬ天井があった。『組織』の白い天井ではない、コンクリートの高い天井。窓に掛けられた灰色のブラインドの隙間から光が漏れていないところを見ると、どうやらまだ夜が続いているらしい。遠くに和らいだ雨音が聞こえる。
「気がついたか?」
反射的に飛び起きた流川は、肩を貫いた痛みに身を折った。右手はグロックの在り処を探して彷徨う。
「おまえの銃ならそこだよ」
部屋の中を見回せば、確かに流川の拳銃が、ちょうど流川と男の間にあるガラステーブルの上に無造作に置かれていた。
「弾は貫通してた。抉り出すことにならなくてよかった」
手慣れた仕草でナイフを揺らしながら、なんでもないことのように笑う男に、思わず顔を顰める。
肩には包帯が巻かれていた。
「撃たれたのは初めてか?」
「てめー何者だ」
「人に名前を聞く前にまず自分からって習わなかったか?」
「んなもん知んねー」
「まっいいけど」
肩を竦める男は、恍けた態度で、間の抜けたように見える。だがしかし、只者ではない、と流川の直感が言っていた。あの場に遭遇して取り乱しもせず、拳銃を目にしても動じないばかりか、銃傷に的確な処置を施した。なにより、こうしている今も、のんびりしているように見せかけて、まったく隙がない。
意識を失う前に聞いた2発の銃声。追手は、この男が始末したのだろう。男からは、雨のにおいに混じって、硝煙のにおいがした。
何者なのか。いずれにせよ、同業者であることは間違いない。
夢の狭間で流川を見つめていた瞳がそこにあった。
流川は、睨めつけるように男を見返した。次第に男の輪郭がぼやけてくる。肩の傷から発熱したらしい。再び睡魔に襲われる。
男の瞳の奥の闇に誘われるように、流川は再び眠りに落ちた。
次に目覚めたとき、男の姿はなかった。ブランドから薄い光が差し込み、雨音は止んでいた。
出掛けている間に勝手に出て行けと言うように、流川の銃はテーブルに置かれたままだった
男がいつ戻ってくるのかわからない。コンビニにでも行っているのかもしれないし、何日も帰らないかもしれない。あるいは、二度と戻ることはないかもしれない。
改めて部屋を見回せば、生活用品のすべてが揃い、生活の痕跡もあり、男の匂いも残っているのに、なぜか生活感が感じられなかった。あの男がここで生活しているところは容易に想像できそうなのに、そのすべてが虚構のように思える。さあ調べろと言わんばかりに多くの証拠を残しておきながら、いくら探してもあの男の真の姿を捉えることはできないだろう。
男が誰で、何者なのか。流川にとってはどうでもいいことだった。もう二度と会うことはない相手だ。もし再び顔を会わせることがあれば、その時がお互いにとって最後だ。三度目はない。
なぜ自分を助けたのか。それを聞きそびれたことが少しひっかかった。だが、単なる気まぐれだったのだろう。
着せられた男のものらしいシャツが一回り大きいことに舌打ちをする。
銃を掴むと、流川は一晩を過ごした見知らぬ男の部屋を後にした。