さよなら、初恋
ねえ、テツ君。
テツ君は信じてくれないかもしれないけど……
それでもあなたが、わたしの初恋でした。
「わたしね、アメリカに行くことにしたの」
音になった言葉は、さざ波のように震えていた。スマートフォンを握り締める力が、電波に乗って伝わってしまうんじゃないかという気がした。
永遠とも思える一瞬の空白の後、電話の向こうで小さく笑う気配がして、「そうですか」と静かな声が耳に届いた。
久し振りに聞く声は何も変らない。優しくて落ち着いた、大好きなテツ君の声。澄んだ空気みたいにすっと身体の中に入ってきて、たった一言で緊張が柔らかく解れていく。
きっと彼は今、穏やかに微笑んでいる。
『ついて行くんですね?』
「うん……。初めてね、ついてこいって言ってくれたの。初めてだったの……。だから、わたし……」
『よかったですね』
何もかも分かっている、そんな響きの声だった。
わかっていたけれど、そんな風にあっさりと祝福されてしまうと、ちょっと悲しい。
「わたしね……テツ君のことホントに好きだったんだよ?」
『はい。ありがとうございます。とても光栄です。けれど、ボクはきっとこうなることは分かっていました』
「やっぱり信じてもらえてなかったんだね、わたしの気持ち」
がっかりした気分で声を落とすと、「そうではありません」とやんわりした声が否定した。
『けれど、桃井さんが最後に誰を選ぶのかは分かっていました』
「そっか……。テツ君には全部お見通しだったんだね」
『二人を見ていれば分かりますよ』
「さすがテツ君だね。わたしなんて、自分でも気づいてなかったのに……」
『近すぎるとかえって気がつかないものです』
まるで先生が生徒を諭すみたいに丁寧な口調で語り掛けられると、自分の中で引っ掛かっていたことがすっと溶けて、不思議とそういうものかと納得できた。
こうなることは最初から決まっていたのかもしれない。自分でも気づいていなかっただけで、大ちゃんと出会ったときからきっと――。
『ついていってあげてください。青峰君一人では心配ですから』
「アイツほっとくと何しでかすか分からないもんね。アイツがアメリカに行ったら、やっと肩の荷が下りる、これでせいせいするって思ってたのにな……」
『青峰君には桃井さんが必要です』
テツ君は、わたしの中の最後の迷いを吹き飛ばすように、一番欲しかった言葉で背中を押してくれた。そして、冗談めかした言い方で付け加えた。
『青峰君があまりにグズグズしているようなら、ボクがさらってしまおうかと思っていましたが』
「ふふっ……優しいね、テツ君」
冗談は苦手だと言っていたのに、たとえ嘘でもそう言ってくれたことが嬉しかった。
子供の頃、外に遊びに出ると大ちゃんはいつも先に走って行ってしまって、わたしは大ちゃんの名前を呼びながらその後を追いかけた。大ちゃんは「遅いぞ、さつき」と文句を言いながら、それでも追いつくまで待っていてくれた。
中学に入って、「キセキの世代」と呼ばれるようになった頃から、大ちゃんはわたしを置いて一人で行ってしまうようになった。振り返ってくれることもなくなった。
わたしはそんな大ちゃんを放っておくことができなくて、遠くなった大ちゃんの背中を追いかけた。
ついてこいって言ってくれるのをずっと待っていた――。
だけどね、わたしが自分から好きだと自覚したのは、テツ君が初めてだったんだよ。
だからね、やっぱりあなたがわたしの初恋の人です。
『お幸せに』
「……ありがとう」
さようなら、テツ君。
あなたのことが好きでした。
「お幸せに」
桃井との通話を終えると、近くでバニラの甘い香りがした。顔を上げると、マグカップを手にした火神が立っていた。
「ありがとうございます」
火神が左手に持っていた水色のカップを受け取る。中身は、バニラシロップを垂らしたバニラ・ラテだった。
「よかったのかよ?」
隣に腰を下ろした火神の重みで、ソファーと一緒に黒子の身体も沈んだ。火神はソファーに深く腰掛けて、自分の分の赤いマグカップに口をつけた。火神のカップからは、コーヒーの香ばしい薫りがしている。
「今の電話、桐皇のマネージャーからだろ?」
「はい。桃井さんからです。青峰君についてアメリカに行くそうです」
「へー。それで、お前はいいのかよ? 元カノなんだろ?」
「……まだその話を信じていたんですか」
「だってよっ、彼女お前のことが好きだってずっと言ってたじゃねーか!」
「彼女が好きだったのは、ずっと青峰君ですよ」
「なんだよそれ」
火神は仰向いて、ソファーの背もたれに頭を乗せた。
「だったらなんでお前が好きだって言てうんだよ? 女ってわかんねーな」
宇宙の謎にでも遭遇したような顔でぶーたれていた火神だったが、思い出したように頭を上げた。
「ああ、そういやあの子、青峰追っかけて桐皇に入ったんだったよな? 青峰に嫌われたーってお前に泣き付いてきたこともあったし」
「ええ、そういうことです。それがすべてですよ。彼女が誰を追い掛けていたかなんて、気づいていなかったのは当人たちくらいでしょう」
「ふーん」
火神は再び天上を仰いで、納得したのかどうか分からない声を出した。
「まぁ、ようやく収まるべきところに収まって、当て馬になった甲斐もあるというものです」
「そういやお前、先週青峰と会ってたよな? 何かしたのか……?」
「ええ、まぁ……少しだけですけどね」
「オレ、アメリカ行くことにしたわ」
突然電話を寄越して呼び付けた青峰は、ちょっとそこまでストバスをしに行くような口調で、アメリカ行きを告げた。
「そうですか。おめでとうございます」
「おう、サンキュ」
店のソファーに腕を回して踏ん反り返った青峰は、ズルズルと音を立ててアイスコーヒーをすすっている。
「ところで、桃井さんにはもう話したんですか?」
「まだ言ってねーけど?」
「まったく君は……話す順番が間違っています」
黒子ほとほと呆れ果て、わざとらしく肩を竦めて溜息をついた。
「いいですか? 桃井さんにも都合というものがあるんです。急に言われてほいほい外国までついていけるわけがないでしょう。高校の時とは違うんですよ。大体、桃井さんがついてきてくれるとは限らないですしね」
わざと意地が悪い言い方をすると、ストローを咥えたまま青峰がポカンと口を開けた。口からこぼれたストローが、グラスの縁を滑って止まる。
「……なんて顔をしてるんですか」
黒子は今度こそ本気で深い溜息を漏らした。この元相棒ときたら、図体ばかり大きくなって、中身はいつまでたってもガキ大将ままだ。まったくもって世話が焼ける。
「桃井さんがついてこない可能性を微塵も考えてなかったという顔ですね」
ばつが悪い顔をして、青峰が視線を逸らした。だが、ここで逃す黒子ではない。テーブルに手をついて身を乗り出し、無理矢理に青峰と視線を合わせた。
「いいですか? 桃井さんがいつまでもついてきてくれると思っていたら大間違いですよ。彼女が側にいるのが当たり前だと思っているなら、それは思い違いです。桃井さんのことを失いたくないのなら、ちゃんと言ってあげなきゃダメです。桃井さん、待っていますよ」
「……んなこと言ったってよ……今更なんて言やーいいんだよ……」
青峰は、まるで捨てられた犬のようにうなだれた。これがバスケットボールの本場に殴り込みをかけようとしている男の姿だろうか。
「そんなことは自分で考えてください」
すがるような視線を寄越すのをあえて突き放し、黒子は椅子に座り直した。
「でなければ、ボクが桃井さんをもらいます」
弾かれたように青峰が顔を上げた。こんな青峰の顔はなかなか見られるものではない。
黒子はひそかにほくそ笑みながらバニラシェイクをすすった。
「青峰のその顔、見てやりたかったな」
「ええ。あの顔は見物でした」
事の顛末を話し終えると、火神は悔しそうに言ってソファーから体を起こした。
「彼女がボクに寄せてくれていた好意を疑ったことはありません。けれど、彼女が最後に誰を選ぶかは初めからから分かっていたことです。高校の時もそうです。彼女はいつだって青峰君を選んでいた。彼女は最初から青峰君を選んでいましたよ」
「なるほどね。桃井の気持ちはわかったけどよ」
火神はソファーの背もたれに肘をつき、頬杖をついて黒子を見ると、核心をつくように言った。
「結局、お前は彼女のことどう思ってたんだよ? 本当は好きだったんじゃないのか?」
「さあ……どうでしょう」
黒子は火神の視線に気づかないふりをして、マグカップに口をつけた。甘いはずのバニラ・ラテが、今日はほんの少しだけ苦く感じられた。