First Bite

 頭の上で電子音が鳴り響く。
 少し前から目を覚ましていたものの諦め悪く布団にしがみついていた日向は、アラームを止めるために伸ばした手をそのまま横にずらし眼鏡を手にした。眼鏡を掛けたところでようやく目を開け、スマートフォンの画面を確認するという一連の動作の後、日向は溜息を吐いた。
 いつも通りの起床時間。何時に寝ても同じ時間に目が覚める。
 どんなに疲れていても寝足りなくても、念のために設定しているスヌーズ機能の世話になることも近ごろではない。
 眠るのにも体力がいる。そんな年齢になった。
 体力も落ちたし、疲れが取れにくくなった。髪の毛にはポツポツと白いものが混じる。下の毛に1本の白髪を発見したときには本気で凹んで、風呂場で膝をついた。
 画面に表示された日付は、5月16日。
 もはや誕生日を楽しみにするような年齢ではない。歳を数えるのも億劫になり、たまに年齢の記述を求められたりすると咄嗟に迷うくらいだ。
 日向は気合いを入れてベッドから起き上がった。
 誕生日だからといって今日も普通に仕事がある。誕生日も365分の1日に過ぎない。

 家を出る直前に母親からメールが届いた。年甲斐もなく妙に可愛らしい絵文字と、後に続く小言に苦笑が漏れた。
 満員の電車に揺られていると、自分は一体何をやっているのだろうとの思いがふと頭を過ぎった。自分は何のために生まれてきたのかなんて馬鹿みたいに哲学的なことを考えそうになって、生きるためには働かなければならない、生きるには金がいる、金を得るには稼がなければならない、故に満員電車に耐えることは生きることだと自分を納得させ、両足を踏ん張り電車の揺れに身を任せた。
 午前中の会議を終え、昼休みに日向は昼食をとるため外に出た。いくつかローテーションしている中から適当に選んだ店に入る。誕生日だからいつもよりも高いものをとも思ったが、結局いつものメニューを注文した。
 注文を待つ間に、ポツポツとメールが届いた。高校時代の部活仲間たちからだ。
 まだ学生だったころは、日付が変ると同時にこぞってメールが送られてきた。一番乗りは大抵、小金井だった。
 社会人になってからは深夜を避け、それぞれが思い思いの時間に送ってくる。昼休みの時間帯に送ってきているのは、日向と同じく会社勤めをしている者たちだ。
 就寝するまでには馴染の名前が受信ボックスにずらりと並ぶ。この歳になって未だに男友達同士で誕生日メールを送り合うというのもなかなかなのではないだろうか。

 食事を終えて社に戻る途中、スーツのポケットでスマートフォンが震えた。
 メールの差出人は木吉だった。

『誕生日おめでとう。また週末に』

 一応、恋人同士という間柄の木吉とは、週末に会う約束をしている。
 互いに会社勤めの身では平日の約束は難しい。急な残業で約束が潰れることもしばしばで、翌日の勤務を控えて羽目を外すこともできない。だから平日である誕生日当日に会うのは避けて、週末にゆっくりと会うことになっていた。
 高校のころ、誕生日の午前0時に携帯電話が鳴り、窓の外を見ると木吉がいたことがあった。誰よりも先に顔を見て「おめでとう」が言いたかった。そんな無茶ができたのも若さ故だった。
 徹夜をしても平気だった学生のころと違って、今ではすっかり無理が利かなくなった。確実に翌日に響いてしまう。平日は何よりも仕事が優先で、体調の維持に努めなければならない。そうしなければ自分がしんどい目を見ることになるし、何より仕事に穴を開けるわけにはいかない。
 幸い男同士だからか、「仕事とわたしとどっちが大事なの!?」というような面倒なことにはならなかった。勤めている会社は違っても互いの置かれている立場はよく理解できる。たまに木吉が拗ねてみせることはあったが、戯れのようなもので本気で言っているわけではないことは日向にもわかっている。
 歳を重ねるにつれ、木吉は聞き分けがよくなった。
 高校時代から続く木吉との付き合いも10年以上になる。
 同性同士で明確なゴールの形がないからか、ずるずると関係を続けてきた。終わらせる切っ掛けもなく、今ではすっかり落ち着いてしまっている。
 もう今更ほかの誰かと一緒になろうとも思わないが、この先もずっと一生を共にするという覚悟もできていない。なんとなしに中途半端な状態だった。


 午後6時。
 まっすぐ縦に一直線になった時計の針を見上げ、日向は投げ遣りな笑みを浮かべた。
 こんな日に限ってなぜ定時に上がれるのか。
 別に社蓄というほどではないが、いつもなら残業にならないことの方がまれだ。たまに定時に帰宅できた日には酒を飲みながらゆっくり過ごすのだが、なんだかそれは侘びしい気がする。
 木吉との約束は週末だ。木吉の部屋に行って待っていようかとも思ったが、木吉の勤務先も日向のところと似たり寄ったりで、定時に帰れることはほとんどない。
 他の誰かを誘うのも、誕生日ということがネックになって気が引ける。誕生日に一人で寂しい奴(実際にその通りなのだが)だと思われては堪らない。
 誕生日というのを妙に意識してしまって、不意に降って湧いた時間を日向は持て余すことになってしまった。

 結局、日向は帰宅することにした。
 最寄り駅から自宅までの途中でコンビニに寄り、酒と適当なつまみを購入して帰宅すると、マンションのエントランスに大きな人影があった。
 手に提げたコンビニの袋が膝に当たりガサガサと音を立てた。その音にエレベーターに乗り込もうとしていた男が振り返った。

「……木吉。なんで…」
「ああ。日向も早かったんだな」

「お帰り」そう言いながら木吉がエレベーターのドアを押えた。

「今日はたまたま早く上がれてさ。せっかく日向の誕生日だから来てみたんだ」

 日向が乗り込むのを待って木吉が言った。

「…俺が何時に帰るかなんてわからなかっただろうが。早く帰らなかったらどうするつもりだったんだよ」
「その時はこれを置いて帰るつもりだったけどな」

 木吉は手にしていた紙袋を掲げて見せた。

「それにしても日向の会社はいいな。誕生日には早く帰らせてくれるんだな」
「ダァホ。俺もたまたま早く上がれただけだっつーの。つーか去年も一昨年も残業だっただろーが。そんなシステムねーわ」

 部屋に入り紙袋を受け取ると、中に入っていたのはケーキの箱だった。相変わらずのボケた発言をする木吉にツッコミながら箱から中身を取り出す。
 会社の近くのケーキ屋で買ってきたという苺のショートケーキには、ご丁寧に「HAPPY BIRTHDAY JUNPEI」と書かれたチョコレートプレートまでついていた。紙袋の底にはきっちり年齢分の本数のロウソクも入っていたが、ケーキの上で炎上しかねないので辞退した。(木吉は残念そうにしていたが)
 それにしても、いい歳をした男へ贈る誕生日ケーキを購入する成人男性をどう思われたのだろうか。「お名前はどうされますか? ロウソクは何本おつけしましょうか?」という店員の問いに馬鹿正直に答える姿が思い浮かび、頭痛がした。せめて苗字にしておけばいいものを。
 勤務先の近くの店でそんな真似は、日向にはとてもできない芸当だった。
 木吉との関係を恥じているわけではない。様々な葛藤はあったが、日向とて受け入れている。そうでなければ10年以上も一緒にはいない。
 だが木吉は、さらけ出すでもなく隠すでもなく、自然な態度で鷹揚にかまえている。
 そこに日向は、若干の引け目を感じてしまうのだ。

「こんなでかいの買ってきてどうすんだよ?」

 木吉が買ってきたのは、ふたりで食べるには大きすぎるホールケーキだった。

「せっかくだし大きい方がいいだろう? プレゼントも用意してあるんだけど、家に置いてあるからまた週末にな」

 ケーキナイフなんて洒落たものはないから台所から包丁を持ってくると、柄を持つ日向の手に木吉のそれが重なった。切り分けてくれるのなら任せようと手を離そうとすれば、木吉の大きな手が握り込んできた。
 ふたりで柄を握ったまま、包丁の刃先がケーキに入る。
 これではまるで――

「日向、誕生日おめでとう」

 切り分けた欠片を木吉が指で摘み日向の口に運ぶ。

「……甘ぇよ」

 真っ赤に染まった耳に唇を寄せ、木吉が囁いた。

「日向からは食べさせてくれないのか?」
「うっせえ! これは俺の誕生日ケーキなんだから全部俺が食う」

 やに下がった木吉を無視して、日向はショートケーキを手掴みし口に入れた。
 そして、そのまま噛み付くように木吉に口付けた。
 日向の舌に押されてスポンジの欠片が木吉の口の中に入る。

「うん…甘いな」

 日向の口の端についた生クリームを木吉が舌で舐め取った。

「黙れ…ダァホ……」

 ふたりの唇が再び深く重なる。
 生クリーム混じりのキスはどこまでも甘やかだった。