Stray Dog

 バー『HOMRA』へ向かう道すがら、頬に冷たさを感じて見上げると、雲が垂れ込めた薄暗い空から雨粒が落ちて来ていた。
 やはり傘を持ってくるべきだったか。
 家を出るときにはすでに雲行きが怪しかった。店に着くまでは持つだろうと楽観して手ぶらで出て来たが、そう都合良くはいかなかったようだ。
 フードを引き上げてふと見ると、道の少し先に犬がいた。ゴミ置き場に顔を突っ込んで、しきりに臭いを嗅いでいる。
 立ち止まって見ていると、犬が藤島に気付いて立ち去って行った。
 食事の邪魔をしてしまっただろうか。
 何気なく犬がいた場所へ視線を遣ると、山積みになったゴミ袋の陰に大きな塊が横たわっていた。
 人、だ。
 フードを被った男が、ゴミ袋に埋もれるようにして倒れている。
 酔っ払いだろうか。見た所まだ若そうだ。

「おい」

 声を掛けてみるが返事はない。

「おい、あんた」

 近付いて再度呼び掛ける。やはり反応はない。最悪の事態が頭を過ぎった。
 千歳などは面倒な事にならないうちに放っておけとでも言うだろうが、藤島はどうにも捨て置くことのできない性分だった。
 藤島は、行き倒れの傍らにしゃがんで顔を覗き込んだ。
 フードからこぼれた前髪が雨粒をはじいて光っている。肌は薄闇に浮き上がるように白く、色素の薄さは生来のものであるらしかった。
 思っていた以上に若い。おそらくまだ未成年だろう。

「大丈夫か?」

 頬を2度3度叩く。

「…っ……」

 少年が小さく声を漏らし、身じろぎをした。
 とりあえず息があったことにほっとする。
 さて、これをどうしようか。
 雨脚は次第に強まり、少年に降り注ぐ。
 傘を持ってくれば良かった。
 藤島は再びそう思った。
 どうやら今晩はやみそうにない。だいぶ温かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷える。このままここに放置しておくわけにはいかなかった。
 警察や救急車を呼ぶ考えはなかった。何か訳ありなことは察しがつく。
 連れて帰ろうにも、生憎と藤島は実家暮らしだ。意識不明の見知らぬ人間を連れ帰ることはできない。
 藤島は、ほとんど迷うことなく『HOMRA』に連れて行くことにした。
 草薙の渋い顔が目に浮かぶ。だが、文句を言いつつも必ず受け入れてくれるという確信があった。
 まだ幼い頃、藤島はしばしば捨てられたり傷ついたりした動物を抱えて家に帰った。
――幸助、あんたまた拾って来たの。早く元の場所に返してらっしゃい。
 動物嫌いの母親は、家で飼うことを許してはくれなかった。
 仕方なく帰って来たばかりの道を引き返して拾った場所まで戻ったものの、どうしても置いて行くことができなくて、校庭の隅や公園で密かに世話をしていたこともある。
 今でこそ母親もただ動物が嫌いという理由だけではねつけていたわけではなく、生き物を飼うことの大変さも理解できるが、彼らを置いて帰るときに向けられた瞳をいつまでも忘れることができなかった。
 藤島はよく犬猫を拾ってくると仲間内で言われているが、それは受け入れてくれる場所があるからだ。
 吠舞羅の仲間たちは、なんだかんだと騒ぎながら店の裏手で誰かしらが世話をして、しばらくすればどこからか引き取り手を探して来てくれる。
 藤島は少年を抱き起こした。
 少年の肩は細く頼りなかった。
 傾いできた頭を肩に乗せる。

「…Mamma……」

 耳元で少年のうわ言を聞いた。
 藤島は少年の頭を抱いて、あやすように背中を叩いた。
 小刻みに震えていた少年が、小犬のような仕草で藤島の胸に擦り寄ってきた。無意識に藤島の服を掴んでいる。
 抱き起こした弾みで落ちてしまったフードを被せ直してやろうと首元に目を遣った藤島は、少年の首にまるで首輪のような痣があることに気付いた。赤黒く変色した痛々しい痕に顔を顰める。
 藤島は少年を背に負ぶった。
 少年は手足が長く、思っていたよりも長身だった。それにもかかわらず、背に掛かる重みは驚くほど軽い。
 藤島は再び顔を顰めた。
 一体どんな暮らしをしてきたのか。
 このとき藤島は、なぜだかわからない憤りを感じていた。
 この感情の正体に藤島自身まだ気付いていない。