The Rain Leaves a Scar
昨夜から降り出した雨は止む気配を見せない。この分だと今夜には雪に変わるかもしれない。
雨のせいか、今日は客足が鈍い。騒がしい吠舞羅の連中の姿もなく、店内に雨音が響く。
草薙は一人、紫煙を燻らせた。どれだけ煙を吐き出しても、胸の内の靄が晴れることはない。年の瀬の忙しなさが遠くに感じられた。
絶え間ない雨音が草薙の思考を遮断する。それが今はありがたかった。けれど、心の澱を洗い流してはくれない。
気怠げにソファーに座る姿も、カウンターで頬杖をついて微笑む姿もない。
草薙だけが残された。
今夜はもう店を閉めてしまおうか。そう考えていた時だった。
カラン――
高く響いたドア・ベルが雨音を遮った。
「久し振り、草薙くん」
「穂波先生……」
開いた扉から顔を覗かせたのは、櫛名穂波だった。
草薙と周防の高校時代の恩師でありアンナの叔母でもある彼女は、今も時折Bar HOMRAに顔を見せる。勿論、ウサギによって消されたアンナに関する記憶は戻っていない。アンナが吠舞羅に入るきっかけとなった事件が起きる前と同じように、周防の元担任教師として元生徒の様子を見に来るのだ。
「今日は随分静かなのね」
「この雨のせいで客足がさっぱりなんですわ。先生が来はらへんかったら、もう店仕舞いしよかと思てたとこです。ご注文は?」
カウンターのスツールに腰掛けた櫛名に草薙が問うと、櫛名は店内を見回して、奥の扉に目を留めた。
「周防くんは?」
櫛名の口から出た名前に、草薙は動きを止めた。
「………アイツは………ふらっとどっか出掛けてしもて………」
「まさか、また喧嘩? 戻って来たらお説教しなきゃ」
言い淀んだ草薙を、櫛名は周防が自分に知られるとまずいことをしていると解釈したらしい。眉間に皺を寄せて怒った表情をして見せる。
「……いや……今日は…戻らんと思うわ………」
「そうなの? しょうがないわね。じゃあ、今度会ったときに倍にしないとね」
何の疑いもなく朗らかに笑う櫛名に、草薙は罪悪感に苛まれた。動揺を悟られてはいないだろうか。おっとりして少し抜けたところのある櫛名だが、それでいて鋭いところがある。普段よりも濃い色のサングラスがそれを隠してくれていればいいのだが。草薙は、どうしても櫛名を正視することができず、手元の作業に集中する振りをして視線を下げた。
「そういえば、今日は十束くんもいないのね」
「ああ……えっと……そやねん。俺がお使い頼んで……ちょっと遠いとこまで……」
「そう。残念ね」
「……嫌やなぁ、先生。俺だけやと不満ですか?」
「あら、そんなことないわよ。こんなに素敵なバーテンさんを独り占めできて光栄です」
声の震えを悟られないように、草薙はわざとおどけた風を装った。それに応えて悪戯っぽく笑った櫛名が、不意に笑いを収めて草薙の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、草薙くん。あなたどうかした?」
「え……? 何が…ですか……?」
「何かあったんじゃないの?」
「……何にもありませんよ……」
「本当に? なんだか見たことのない顔をしていると思ったんだけど……。あなた、高校生のころから器用で大抵のことは一人でできてしまう人だから、何でも一人でこなそうとして抱え込むところがあるでしょ? 実は先生、ちょっと心配だったの。周防くんもそんなあなたに甘えて任せきりでしょ? 草薙くんはもっと周防くんに厳しくしてもいいと思うわよ。じゃないと周防くん、ますます草薙くんがいないと何もできなくなっちゃうもの。本当は何だってできるはずの人なのに」
そうしていれば、結末が変わっていたのだろうか。
草薙が周防に対する言葉を失わなければ、周防を繋ぎ止めることができたのだろうか。
周防も十束ももういない。
草薙だけが一人残された。
――お前らだけ先に逝んでまいよって……
櫛名にもいつかは事実を話さなければいけない時が来る。
けれどまだ、草薙自身がそれを伝えることができなかった。
櫛名を見送った草薙は、閉店にはまだ早い時間だったが看板を下ろした。
灯りの落ちた店内に、小さな足音が響く。
「イズモ……」
周防が定位置にしていたソファーに座った草薙の頬に、小さな掌が触れた。
「イズモ……泣いてもいいよ……」
アンナの腕が、草薙の頭をそっと包み込みむように抱いた。
草薙の頬を一筋の滴が伝う。
幼い腕の中で、草薙は初めて涙を流した。