フォトグラフ
幾重もの夜を塗り重ねた赤褐色の扉。鎮目町の夜を見続けてきたそれは、昨年末以来閉ざされ、「CLOSE」の看板がかかったままだ。
赤の王の王権者属領、赤のクラン・吠舞羅の本拠地としての顔も持つBar HOMRA。
いや、すでに「元」赤のクランというべきか。
学園島占拠事件の後、吠舞羅は事実上の解散状態で、今は店を訪れる者もいない。唯一、何度も草薙の元を訪れては吠舞羅の存続を訴えていた八田の姿も近ごろでは見かけなくなった。八田が完全に諦めたとも思えないが、今は八田には大人しくしていてもらった方が都合がいい。
人の気配の絶えた店内で、草薙はひとりカウンターに座りグラスを傾ける。グラスの中身は琥珀色をしたバーボンだ。周防が遺したボトルから拝借した。
草薙の座った位置から、壁のコルクボードに飾ったままの写真が目に入る。
「お前らはいつまでたっても若いまんまで、俺だけ歳をとるなんてずるいわ…」
草薙の呟きに、写真の中の十束が笑う。
前髪が下りた学生服姿の周防は、草薙と出会ったころの面影に近い。この写真が撮られた少し前、草薙と出会ったばかりの周防は、まだ中坊っぽい幼さを残していた。制服のポケットに両手を突っ込んで、つまらなそうな顔をした新入生。この年ごろにありがちな、どこか別の世界を探している風でもなく、なにもかもがくだらないと暴走するエトセトラを持て余している風でもない。ただ退屈そうに世界を少し冷めた目で見ている眠たげな瞳。興味を惹かれちょっかいをかけたら、意外にも後をついてきた。
最初は人慣れない野良猫(同じネコ科でも野生のライオンみたいな大物だったわけだが)を慣らしているような気分だった。その内に、人懐っこい野良猫(後に猛獣使いの才能を発揮する)が周りをちょろちょろするようになった。
周防と草薙と十束。三人で男子高校生らしい阿呆なことばかりやっていた。淡島世理に馬鹿なのかと呆れられたくらいだ。草薙にとっては黒歴史ともいえるが、消し去りたいとは思わない。
それが8年前のことだ。たった8年。ついこの間のことのような気がする。あのころは、まさか8年後も三人で連んでいるとは思わなかったし、自分が一人残されることになるとは思いもしなかった。
目を閉じると、十束がいたころの店内の喧騒がよみがえってくる。八田や坂東や千歳が馬鹿騒ぎをして十束が笑い、草薙が声を張り上げる。まだほんの3ヶ月ほど前。思い出と呼ぶにはいまだ生々しく、懐かしいと振り返るにはまだ早い記憶だ。いつしかその騒々しさが心地よくなり、静まり返った店内に居心地の悪さを感じる。まったくおかしなものだ。草薙はふっと息をつくように小さく笑った。
一人の王と二人のクランズマン。たった三人からはじまった吠舞羅は、いつの間にか仲間を増やし、大きく膨れ上がっていた。それにより背負わなければならないものが増え、ただの友達(ダチ)だったころとは変ってしまったこともある。それでも、思い返せば楽しかった。楽しかったのだ。
草薙は、カウンターの脇に置いていた封筒を手に取った。真っ赤な封筒。今朝、草薙の自宅に届いていたものだ。差出人の名前はない。
ペーパーナイフを当てると、紙の裂ける乾いた音が思いのほか大きく響いた。中から数枚の写真が出てきた。すべて風景を写したものばかりで、人物が写ったものは一枚もない。
映像などタンマツで撮ってデータを送ればいい。わざわざ写真に焼いた上、今時珍しい手紙で送ってくるというアナログな手法が、いかにも十束が好みそうなやり方だと思った。周防の次に彼女と一緒に居ることの多かった十束の影響を受けてのことだろう。
十束は仲間たちに多くの影響を与え、映像が残っていなくても仲間の中に残っている。きっと十束自身、思いも寄らなかったことだろう。今ごろあちらで面はゆく思っているかもしれない。
草薙は、ゆっくりと時間をかけて写真の一枚一枚に目を通した。
夕焼けに染まった空や、沈む太陽を映した海。旅先の風景を切り取ったような写真たちは、しかしどこで撮影されたものなのか、場所を特定できるものは一枚もない。ただ切ないくらいに美しく、ほのかな温かみを感じ、けれどどこか寂しく、そこにはない『赤』を探している――
草薙のタンマツが音もなく振動を伝えた。普段メインで使っているタンマツとは別の、もう一つのナンバーだ。まだ誰にも知られていない、つまりは盗聴の恐れのないタンマツ。このナンバーを知っているのは、草薙のほかに二人だけだ。
「もしもし。元気にしとるか? ちゃんと食べてるか?」
今どこにいるのかは聞かない。タンマツ自体の通話記録を調べられる恐れがなくとも、どこに耳があるかわからない。特殊な能力を持つストレインがいるかもしれない。たとえば脳内の情報を読み取るストレインでも現れれば、これまでに労したすべての算段が無駄になる。
「ほうか。それならよかった。――うん、届いたで。おおきに。……大丈夫やで。寂しないよ。ほな、気ぃつけてな」
短い通話を終え、草薙は最後の一枚を手に取った。
赤い花。
幼い文字でメッセージが添えられている。
『おたんじょうびおめでとう』