腐れ縁の恋

 そろそろベッドに入ろうかというときだった。タンマツが着信を報せた。時刻は午前1時を10分ほど過ぎている。出羽は溜息を吐き、タンマツを手に取った。
 画面を確認した出羽は、先程よりも深く嘆息した。

『今夜泊めて』

 出羽は指先を忙しく動かし、もはや定型文と化している文面を打ち込んだ。

『来るな! 俺はもう寝る。来ても鍵は開けないからな』

 こんな時間に突然やって来るような非常識な奴を誰が入れてなどやるものか。メールを送信し終えると、出羽は寝室へ向かった。
 しかし、その30分後。深夜に鳴り響いたインターフォンの音に、ドアロックを解除している出羽がいた。

「起きててくれたんだ」
「……帰れ」

 薄く開いたドアの隙間からヘラリと軽薄な笑みを覗かせる千歳に、出羽は顔を引き攣らせた。

「そんなこと言わないで聞いてくれよ。俺、今夜泊まるとこなくてさー」
「そんなの俺の知ったことか。その辺の路上で寝てろよ」

 閉め出そうとしたドアを強引に押し開いて、千歳が身体を滑り込ませる。

「俺とおまえの仲じゃん。親友だろ?」

 アルコールに混じって香水と化粧の香りが出羽の鼻を掠めた。

 勝手知ったる出羽の部屋に上がり込んだ千歳は、酔いも手伝って出羽を相手に愚痴り始めた。

「今まで楽しかったわ。ありがとう、さよなら。っていきなり部屋追い出されてさー。ヒデーと思わねー?」

 女にフラれた千歳が出羽に泣きついてくるのはこれが初めてのことではない。千歳はモテるかわりに、付き合った女の数だけフラれる。まるで渡り鳥のように女のところを点々と渡り歩いている千歳は、寝床がなくなると出羽のところへやって来て、数日するとまた新たな寝床を見つけて出て行くのだ。そんな千歳を出羽は突き放そうとするのだが、どうしても見捨てることができない。
 腐れ縁。千歳との関係を言い表すならば、この言葉以外にない。
 腐り落ちるのを待つしかない関係。むしろ、腐りきって千切れてしまえばどんなに楽か。

「泊まるなら風呂入れよ。あと、おまえはソファーだからな」

 せめて不快な臭いを落としてこいと言外に込めれば、千歳はほっとしたように笑い、風呂場へと向かった。

 千歳も最初から女にだらしなかったわけではない。むしろ昔は純粋で一途だった。
 千歳が今のように変わったのは、初めて付き合った女が原因だった。
 年上の、腰まで伸びた黒髪が綺麗な女だった。千歳は、自身の誕生日に別の男と一緒に居る彼女を目撃するという手酷いフラれ方をした。信じていた女に裏切られ、それ以来千歳は一人の女と真面目に付き合うことができなくなった。
 来る者拒まず、去る者は追わず。それでいてただ一人、自分だけを愛してくれる女を探している。
 千歳は、本当は誰よりも信じさせて欲しいのだ。軽く付き合っているように見せ掛けて、フラれる度に本気で落ち込む。実は誰より傷つきやすくて優しい、そんなバカを出羽は放っておくことができない。
 寝室の窓に出羽の顔が映る。
 千歳が付き合う女はどこか似通ったところがあった。年上だったり、黒髪だったり、髪が長かったり。
 眼鏡を外した自分の素顔に出羽は顔を顰めた。ガラスに映った出羽の顔も歪む。出羽は乱暴にカーテンを引いた。

 バスルームから聞こえていたシャワーの音が止み、しばらくして寝室のドアが開いた。ごそごそと千歳がベッドに入り込んでくる。
 素肌のままの千歳の身体はしっとりと湿り気を帯び、出羽を不快にさせる臭いが消えたかわりに出羽と同じボディーソープの香りがする。
 すぐに千歳は寝息を立て始めた。
 出羽は眠れずに、千歳の寝顔を見詰めていた。
 どれくらいそうしていただろうか。不意に千歳の瞼がうっすらと開いた。ぼんやりと焦点の合わない瞳で出羽を見詰め、頬に手が伸びる。

「まさ……み……」

 全身を強張らせた出羽に千歳が覆い被さり、顔が近付いてくる。

「おい、バカ千歳、寝ぼけるな!」

 千歳の唇が出羽のそれに重なった。最初に触れた唇はひんやりと冷たく、次いで歯列を割って入ってきた舌は熱かった。
 出羽の咥内を余すところなくなぞった千歳は、出羽に覆い被さったまま再び寝入った。
 出羽の顔の横で千歳の寝息が聞こえる。
 暗闇の中、出羽の顔が泣きそうに歪んだ。
 千歳が寝言で呼んだのは、出羽と一字違いの名前を持つ出羽のよく知る女――出羽の姉の名前だ。

「いい加減に吹っ切ってくれよ……」

 出羽は千歳の胸に額を預けて、懇願するように呟いた。
 いや、いつまでも引きずっているのは千歳だけではない。
 千歳を見捨てることができなかったのは、身内の不始末故だった。女絡みのトラブルがきっかけで吠舞羅と関わることになった千歳について吠舞羅にも入った。
 けれど、それだけではない後ろめたさが出羽の心を苛む。親友面をしていつまでも引きずるなと口にしながら、出羽自身が最大の妨げになっている。
 熟んだ果実が枝から落下するように、いつかこの腐りきった縁が千切れる日が来るのだろうか。

 出羽を抱く腕と千歳が口にした真の名前に気付くまで、果実が甘く熟すにはまだ少し――