Key 〜Another story〜
画面に表示された送信完了のメッセージを確認し、伏見は息を吐いた。眼鏡を外して眉間を揉む。下ろしっぱなしのブラインドの隙間から漏れた日差しが目の奥を刺激し、顔をしかめた。徹夜明けにこの日差しはきつい。伏見は忌々しげに舌を打ち、眼鏡を掛け直した。
複数台のパソコンなど、いくつもの情報処理機器に囲まれたこの部屋は、Bar HOMRAの2階にある、前はアンナの部屋だった場所だ。元は物置だったというこの小さな部屋に、伏見は自ら機材を組み上げて作業部屋にしている。その処理能力は、小国の国家機密を易々と丸裸にできるレベルのもので、部品の調達と組み立てを手伝った機械オタクの榎本が、興奮して3日間語り続けるほどの代物だ。
昨日からここに缶詰状態になっていた伏見は、実に20時間振りに部屋を出た。
コキコキと首を鳴らしながらバーに降りて行くと、カウンターの中で洗い物をしていた八田が伏見に気付き手を止めた。
「よう。終わったのか?」
「ああ…」
伏見がカウンターのスツールに座ると、八田は腰に巻いた黒いギャルソンエプロンで手を拭き、マグカップにコーヒーを淹れた。そこへ冷蔵庫から取り出した牛乳を温めずにそのまま注ぎ、伏見の前に置いた。なんとも八田らしいがさつなやり方だが、冷たい牛乳で温まったそれは猫舌の伏見には丁度いい。
伏見は、普段はコーヒーをブラックで飲む。ミルク入りの茶色いコーヒーは、伏見の好みではない。だが伏見は、出されたコーヒーを黙って口にした。ほとんどカフェオレに近いそれは、徹夜明けの伏見の胃を気遣ったものだ。
「そういえば、酒の発注はどうした?」
ちびちびとコーヒーをすすりながら、洗い物をする八田の手元を眺めていた伏見は、今日がアルコール類の発注日だったことを思い出した。確か、いくつか在庫が切れかかっているものがあったはずだ。昨晩、店を閉めた後に在庫の確認をして、今朝にでも注文しようと思っていたのだが、開店前に急な仕事が入ったせいで店は八田に任せきりになっていた。
「それなら昨日、鎌本が調べてったぜ。今日の開店前には届けるってよ」
「そうか…」
「他には何か必要な物あったか?」
「いや…」
差し当たって不足している物はなかったはずだ。頭の中で店内の在庫を一通り確認すると、八田が思い出したように言った。
「あぁ! アレは? 例のヤツ」
「例のヤツ? ……ああ…アレか……。いや…アレはいいだろう……」
八田の言わんとすることに思い至り、伏見はげんなりとした。徹夜明けのせいだけではなく顔色を悪くする。そもそもアレは本来バーには不要なものだ。
「でもよ、一応昔からの常連だし、草薙さんからも言われてっし」
八田に言われ、Bar HOMRAを預かる際に草薙から言い置かれた引き継ぎ事項の一つを思い出す。
『ええか。人間、諦めと受け入れることも時には必要や……。俺も最初は戦こうてみたけどな、アレは逆ろうたらアカンやつやったんや……。伏見はよぉ知っとるやろ?』
遠い目をして薄く微笑む草薙の顔には、戦いに敗れ去った者の悲哀と哀愁が漂っていた。
重い沈黙のあと、葛藤の末に伏見は諦めたように深い溜息を吐いた。
「……わかった。1袋注文しておけ……」
「おう。大入りのヤツな。……1袋じゃ足りなくねーか?」
「…………3袋」
「……5袋にしとくわ」
洗い物を終えると、八田はエプロンを外してカウンターから出てきた。
「そんじゃ、俺はちょっくら見回りに行ってくっからよ。お前は寝るんだろ? 飯作っといたからその前に食えよ」
丁度そこへドア・ベルが響き、八田を迎えに鎌本が顔を出した。
「八田さん! そろそろ行きましょうか」
「おう、今行く。じゃあな、猿比古。開店までには戻っから」
「ああ」
「ちゃんと食っとけよ。行ってくる」
再びドア・ベルが響き、鎌本と連れ立って八田が出て行った。
一人になった伏見は、八田が作り置いたチャーハンのラップを外しながら、時計を確認した。営業時間は午後6時から。これを食べ終えて、店の開店準備までに3時間ほどは眠れそうだ。
夕刻になり、仮眠をとった伏見が開店準備のために再びバーに降りてきた。
バーの経営を任されるようになってから生活はすっかり夜型になったが、元々朝が苦手な伏見にはこの生活が合っている。シフト制の勤務だったセプター4に比べれば、むしろ規則正しいくらいだ。セプター4にいた頃は、有事の際には勤務時間外、休日、深夜を問わずに容赦なく招集が掛かり、連日の徹夜も当たり前だった。
伏見は現在、Bar HOMRAの2階で生活している。けしてセプター4の寮を出て住む所がないからではない。理由は一つ。八田がそこに住んでいるからだ。
吠舞羅を引き継いだ八田は、周防に対する憧れからか責任感からか、何もかも周防と同じようにしなければならないと思い込んでいるところがある。草薙からバーを預かったときも、ここに住むものだと決めてかかっていた。
伏見は、ズボンのポケットから1本の鍵を取り出した。伏見の部屋の鍵だ。
寮生活だったセプター4時代は忙しさで金を使う暇もなく、ほとんど丸々貯金していた給料と退職金、株で儲けた金で、2人で暮らすには充分な広さの部屋を購入していた。
手の中で真新しく輝く銀色の鍵を見詰め、短く息を吐く。未だ渡せずにいるそれをカウンターの端に置き、伏見は開店準備に取り掛かった。
カウンターに入った伏見は、八田と揃いのエプロンを着け、店で出す料理の仕込みを始めた。とはいっても、草薙のように手が込んだ料理を出しているわけではない。精々つまみや軽食程度だ。だから開店前の準備といっても、それほど大変なものではない。料理の担当は主に八田で、出掛ける前に店の名物であるカレーの仕込みも終えてあった。
一通りの準備を終え、棚に並んだボトルを磨いていると、ドア・ベルが鳴った。八田が戻って来たにしては少々早い。気の早い客かと思い、内心で舌打ちをしながら入り口に目を向ければ、予想外の人物が立っていた。
「よう、やっとるか?」
「……来るなら言っといてくださいよ、草薙さん」
「ちょっとこっちに用があってな。一人か?」
伏見の前に座った草薙は、カウンターの木目を愛しげに撫でながら店内を見回した。
「何飲みますか?」
「コーヒー貰えるか? 今日は車で来とるから」
吠舞羅を退いた草薙は、周防の療養のために田舎に引っ込んでいる。会うのは周防の誕生日以来、3ヶ月振りだ。
「で、何しに来たんですか?」
「オーナーが自分の店の様子を見に来たらあかんか?」
「…どうせそれだけじゃないんでしょ」
草薙から視線を外してぼそっと呟く。単に店の様子を見るだけの理由で、草薙が周防とアンナを置いてわざわざ来るはずがない。事実、鎮目町を離れて以来、店のことは伏見に任せきりで、時折電話を寄越す以外は一度も様子を見に来ることはなかったのだ。
「まぁそう言いなや」
草薙は苦笑しながら、脇に置いていた封筒を手に取った。
「今日はな、これを渡しに来たんや。お前にやるわ」
草薙が差し出すそれを、伏見は訝りながら受け取った。どうせ草薙が入手した情報か何かだろう。面倒なことでなければいいが……そう思いながら中身を取り出した伏見は、思いも寄らない物に絶句した。
珍しい伏見の様子が見られた草薙は、したり顔で笑みを浮かべた。
それは、店の権利書だった。
「……何で俺に」
「誕生日プレゼントや」
「……こんなもんもらっても困るんですけど」
「八田ちゃんと二人で好きにしたらええ。昔からの常連さんもおるし、吠舞羅の若い者らのためにも、できればこのままバーとして続けてくれたら叔父貴も喜ぶやろけど、お前らの好きにしてええで」
そう言うと草薙は席を立った。
「さてと。そろそろ俺は行くわ」
「美咲に会って行かないんですか?」
「急いで帰らんと、腹すかせたのが2人待ってるからな」
草薙はサングラスの奥の瞳を細めた。その表情は、かつて草薙の顔に張り付いていた諦念感のようなものが剥がれ落ち、すっきりと穏やかだ。
「あぁ…せや伏見、言い忘れとったわ。来月の7日と8日は店休んで予定開けとけや。うちのペンションのプレオープンで、アンナの誕生日パーティーするから」
「ペンションって……本気だったんですか」
「いろいろと腰を据えようと思ってな。アンナも向こうの生活が合っとるみたいやし。それで今日は、手続とかこっちを引き払ったりとかな。もう一つ、俺が使とった部屋もやろうかと思っとったんやけど、必要なかったみたいやな」
草薙が視線をやった先には鍵があった。
何もかも心得ている、そんな笑みを残して草薙は帰って行った。
伏見は"椿門"の前にいた。
東京法務局戸籍課第四分室、通称≪セプター4≫の屯所。
ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、伏見は古巣の門をくぐった。
建物の中は、やけに人の気配が少なかった。何か大きな事件でもあって、隊員たちが出払っているのかもしれない。時折制服を着た者とすれ違うが、私服姿の伏見を見咎める者はない。
伏見は迷いない足取りで、隊舎本棟の宗像の執務室へ向かった。
「伏見です」
「――どうぞ」
ノックをして呼び掛ければ、宗像の声で返答があった。
室内には、副長である淡島の姿もなく、執務机に宗像の姿があった。
「伏見君。わざわざ出向いてもらってすみませんね」
「そう思うなら呼び出さないでもらえますか」
相変わらずの食えない笑みを浮かべた宗像は、両肘をついて指を組んだ姿勢で伏見を迎えた。机の上には作りかけのパズルが広がっているが、ばらばらに置かれたピースからは全体図が見えてこない。
「わざわざ呼び出して何の用ですか? 送ったデータに問題はなかったはずですが?」
「ええ。伏見君の仕事は完璧でした。急にお願いしてすみませんでしたね」
申し訳なさの欠片も見えない顔で宗像が言った。
昨日の急な仕事の依頼主は宗像だった。
伏見は、東京法務局戸籍課第四分室の非常勤職員という立場にある。本人はまったく望んでいなかったのだが、伏見の辞表を受理する際に宗像が条件として出したのが、嘱託契約を結ぶということだった。
Bar HOMRAの2階にある伏見の作業部屋はセプター4のサーバーと繋がっていて、室長の要請に従い、主に特務隊<情報班>の業務を行っている。元部下たちに泣き付かれることもしばしばだ。伏見としては甚だ不本意だが、伏見の稼ぎが吠舞羅の貴重な資金となっていることも事実で、無下に断ることもできない。
「実は、少々立て込んでいましてね。手の空いている者がいなかったものですから。相変わらず君は仕事が早くて助かります。まったく君は優秀で得難い人材です。どうですか、またここへ戻ってくる気はありませんか?」
冗談か本気かわからない宗像の物言いに、伏見は舌を打った。
「そんな下らないことを言うために呼ばれたんなら帰りますよ。室長と違って俺は暇じゃないんですよ」
「帰る前に伏見君、特務隊の部屋に寄って行ってください。みんな伏見君に会えるのを楽しみに待っています」
「俺は忙しいって言ってるでしょ。帰って店を開けなきゃいけないんですよ。あんたらだって忙しいんじゃないのかよ。さっき立て込んでるって言っただろうが」
「それならば問題ありません。あちらも準備に時間が掛かるでしょうから、その前に少しくらい我々と過ごしてもいいでしょう。みんな昨日から張り切って準備をしていたんです。さあ、伏見君――」
宗像に強引に連れて行かれた伏見は、飾り立てられた特務隊の室内に唖然として呟いた。
「お前ら……仕事しろよ」
伏見がセプター4から解放されたのは、すでにバーの営業が始まっている時間だった。吠舞羅に戻った伏見は、バーの扉を開けるや否や、目の前に広がる本日2度目の光景に呆然と立ち尽くした。
「……何だこれは」
「何って、お前の誕生日パーティーだろーが」
「……店は」
「休みにしたに決まってんだろ。仲間の祝い事はみんなで盛り上がるのが吠舞羅の絆なんだよ! ほら、ぼさっと突っ立ってねーでさっさと入って来いよ」
「………チッ」
何もかも仕組まれていたのか。
見抜けなかった悔しさと戸惑いから、伏見は小さく舌を打った。だが、伏見自身にも意外なことに、そんなに嫌な気はしなかった。鬱陶しさに変わりはないが、あんなに疎ましかったのに今は前ほどではない。
「ほら伏見、飲めよ!」
伏見の過去の裏切りを忘れたかのような賑わいに、
――こいつら馬鹿なんじゃないのか。
と悪態をつく。
――ただ騒ぎたいだけだろ。
とも。
けれど、そんな奴らの稚拙な企みに気付かなかった伏見も随分毒されている。伏見は、自嘲めいた笑みを浮かべた。だが、そんなに悪い気分ではない。
深夜を過ぎて、ようやく酔っぱらいたちが全員帰って行った。騒がしい連中がいなくなり静かになった店内に、伏見は八田と二人になった。
カウンターに隣り合って座った八田が、傍らに置かれていた封筒を指差した。
「これ何だ?」
「ああ…草薙さんが置いてった」
「ふーん」
八田は、封筒の中身には興味がなさそうに返事をした。自分の範疇にない書類か何かだと思っているのかもしれない。
「で、こっちは?」
「それは……」
八田が手の中で弄んでいたのは、見覚えのある鍵だった。はっとしてポケットの中を探るが、勿論そこには何もない。カウンターの上に置いたままになっていたのだ。迂闊すぎる失態に、伏見は数時間前の己を呪った。
「……やるよ。いらないなら勝手に捨てろ」
伏見は観念したように、八田から目を背けて言い捨てた。やけに騒がしい鼓動を鎮めるように、火傷の跡が残る徴に爪を立てた。
伏見の内心の動揺を他所に、八田は迷う素振りもなく鍵を掌に握り込んだ。
「わかった。もらう」
「ちょ、お前それが何かわかってんのかよ!?」
「あぁ!? なんだよ、やっぱり返せってのか? ふん、返さねーよ」
「……意味わかってんだろーな」
「……わかってるよ」
わずかに顔を背けて、八田が小さく頷いた。髪からのぞいた耳が赤く染まっている。
伏見は信じられないものでも見るように、まじまじと八田の顔を見詰めた。
「まぁ…俺は狭いベッドに二人で寝るってのも気に入ってたんだけどな」
「……!」
屈託なく笑う八田に、伏見は心臓を鷲掴みされたように言葉を失った。
「……シングルに買い換える」
「はぁっ!? 折角買ってあるのに買い換える必要ねーだろ!」
伏見はようやく自分の居場所を見つけられたのかもしれない。