ヒーローとホットケーキ
もうすぐ日付が変わる。
鎌本は手にしたタンマツを見つめた。本来、鎌本が持つタンマツとは別のタンマツ。
自身のタンマツは、鎮目町を出るときに置いてきた。
このタンマツのナンバーを知るのは一人だけだ。定期連絡と緊急時の必要最小限にしか使用されることはない。
あの人からの着信を知らせることはない――
吠舞羅のキング≪赤の王≫周防尊を失った学園島占拠事件から5ヶ月。鎌本は、鎮目町から遠く離れたとある町にいる。
見知らぬ町でしばらく滞在した後、また次の町に移動する。それを繰り返して、もういくつ目の町になるだろうか。
傍らには小さな少女の姿がある。厳つい男と愛らしい少女の二人連れは、年の離れた兄妹のように見える。
『感じる……ミコトの赤……まだ温かい……』
テーブルの上の赤いビー玉を見つめてアンナが呟いたとき、その場にいたのは草薙と鎌本だった。
その数日後、Bar HOMRAの2階にあるアンナの部屋が荒らされた。幸いアンナは草薙の部屋にいて無事だったが、明らかに異能者の仕業と見られる痕跡が残されていた。
何者かがアンナを狙っている。周防の存命を示唆するようなアンナの発言と無関係だとは思えなかった。
草薙はすぐに動いた。吠舞羅は解散したと見せかけてアンナを逃がし、敵の正体と周防の消息を探ることにしたのだ。
アンナを託されたのは鎌本だった。草薙の真意をすべて打ち明けられ、軍資金とタンマツを手渡された。タンマツは、草薙が用意した盗聴や追跡される恐れのないものだ。
草薙一人に見送られ、鎌本はアンナの手を引き鎮目町を後にした。
敵の目を欺くにはまず味方からと、吠舞羅の仲間たちの誰にも知らせずに出発した。
八田にさえも――
最後まで草薙に吠舞羅の存続を訴えていた八田の姿が浮かび胸が痛んだ。
ただ一つ八田のことだけが気掛かりだった。
吠舞羅を放って姿を消した鎌本のことを八田は怒っているだろう。
いや、傷ついている。
鎌本までもが自分を裏切ったのだと――
鎌本の家は自営業をしている。両親は朝から晩まで忙しく働き、あまり子供に構うことはできなかった。
その日は鎌本の誕生日だった。学校から帰宅した鎌本は母親におやつを強請った。けれど母親は客の応対に忙しく、『今忙しいから外で遊んでおいで』と息子を店の外に追い出した。
誕生日のケーキを楽しみに一日を過ごしていた鎌本は絶望し、ふらふらと横にばかり大きな体を揺らしながら近所の公園に向かった。
悲しみと空腹でしゃがみ込んでいると、数人の子供たちに周りを取り囲まれていた。いつも鎌本に意地悪をするいじめっ子たちだ。
『なにやってんだよデブ!』
『デブがこんなところに座ってたら邪魔なんだよ!』
口々にひどい言葉を投げつけながら鎌本の周りをぐるぐる回る。
鎌本は丸い膝の間に顔を埋め、べそをかいた。
丸い体をできる限り縮めて石のようになって耐えていると、そこへ救世主が現れた。
『なにやってんだテメーら!』
『うわっ、八田だ!』
途端にいじめっ子たちが焦り出した。
『弱っちい奴をいじめてんじゃねーぞ。さっさと散れ!』
蜘蛛の子を散らすようにいじめっ子たちが逃げて行く。
『八田さぁん…』
鎌本を助けてくれたのは八田美咲だった。鎌本よりも一つ年下で体も小さいのに、ケンカが強くていつも鎌本を庇ってくれる。
『おまえもあんな奴らに泣かされてんじゃねーよ』
『だってぇ…』
『だってじゃねーよ。ったくおまえのこと探しに来てみれば……ってそうだった、オレおまえのこと呼びに来たんだった。おっちゃんとおばちゃんが店終わるまで家で待ってろよ。母ちゃんがホットケーキ焼いてくれるってよ』
『ホットケーキ!?』
『おう。今日おまえの誕生日だろ? 年の数だけホットケーキ重ねよーぜ!』
悪戯っぽく笑って走り出した背中を鎌本はよたよたと追いかけた。
前を行く小さな背中が鎌本のヒーローだった。
八田は一度、手酷い裏切りを受けている。
八田は裏切られることを酷く恐れていた。
『八田ちゃんは馬鹿正直ですぐ顔に出るからあかん。可哀想やけど』
敵の目を欺くためとはいえ、信頼していた草薙や鎌本にまで裏切られたと思い、八田は深く傷ついたに違いない。
その小さな身体に比例して八田の世界は狭い。
自分と身内だけで世界を構成している。
中学で別れてから吠舞羅で再会するまでの間の八田を鎌本は知らない。だが中学生の八田にとって、周防と彼を取り巻く世界はとてつもなく大きく映ったことだろう。
周防尊と吠舞羅は八田にとって絶対的な世界となり、八田のすべてになった。
周防を失い八田は世界を失った。
周防を失った八田の嘆きは深かった。
誰よりも吠舞羅を誇りに思っていたのが八田だ。八田にとって周防にも等しい吠舞羅まで失うことは、二重の喪失だった。
一層小さくなった背中を震わせ「どうすればいい…」と弱々しく呟く声に、鎌本は掛ける言葉を持たなかった。
八田の隣を歩くのは鎌本ではない。
子供のころからそうだったように、鎌本は小さな背中を追い掛けることしかできない。寝食を忘れて十束殺しの犯人捜しに奔走する八田に、食事をとらせることすらできなかった。
鎌本にはせいぜい小さな背中が倒れたときに抱え上げて運ぶことしかできない。
八田の隣を歩けるのはただ一人――
鎮目町を発つ前に鎌本は伏見を訪ねた。
『あの人のことを頼む』
頭を下げる鎌本の上でチッと舌を打つ音が聞こえた。
「テメーに言われるまでもねーんだよ、三下ァ」という声が聞こえてきそうな心底嫌そうな表情で伏見は顔を背け、稍あって小さく頷いた。
デジタル数字のゼロが並び日付が変った。
あの人は眠れているだろうか。
「……リキオ?」
傍らで眠っていたアンナの瞼が開き、赤い瞳が鎌本を見ていた。
「目が覚めちまったのか。トイレか?」
アンナは頬をシーツにつけたまま首を振った。
「ミサキは大丈夫……きっと……」
何もかもを見透かすようなアンナの瞳を鎌本は見返した。
「リキオ、寂しい?」
「いーや、寂しかねーよ。オレはアンナを守らなきゃなんねーからな」
「……」
「さぁ、もう寝ちまいな」
掛け布団を肩まで引き上げてやり、ぽんぽんと頭に手を乗せる。
離れていく鎌本の手をアンナが掴み、両手でぎゅっと握り締めた。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとよ。なぁアンナ…目が覚めたら朝食はホットケーキにしようか」
「うん。おやすみ…」