Home 〜Another story〜
「ただいまー! ワガハイだよっ!」
勢いよくドアを開け放ったネコは、玄関に靴を脱ぎ散らかしながら室内に身を躍らせた。
「おいネコ。誰に言ってるんだ?」
顔の近くまで飛んできた右の靴を片手で受け止め、狗朗は嘆息した。下駄箱にぶつかってひっくり返ったもう片方を拾い上げ、きちんと揃える。
「え? 別に誰でもないけど!」
ベッドに飛び乗ったネコは、きょとんとした顔で狗朗を振り返り、何でもないことのように言った。
「おまえな……」
相変わらずネコの行動は狗朗には理解しがたい。ネコと行動を共にするようになってしばらくたつが、事あるごとに言い聞かせてもネコの振舞いが改善される兆しは見えない。それでも口を出すことを止めないのは、それが狗朗の性分だからだ。
ベッドの上でぴょんぴょんと身を弾ませはしゃいでいるネコのことは放っておいて、狗朗は部屋を見回した。室内はリフォームが施され、爆破によって壁に大きく空いた穴も焼け焦げた跡もきれいに消えている。破損した家具は新しい物に入れ替えられているが、それらはすべて前にあった物と同じ物で、以前の部屋がそっくりそのまま再現されている。何もかも元通りだ。それなのに、狗朗は違和感を覚えた。見知った場所のはずなのに、違う場所のようだ。
何かが足りない。
ここには一番大切なものが欠けている。
「ズガタカイ」
部屋の真ん中で立ち尽くしている狗朗を嘲笑うかのように、お掃除ロボットが前を横切って行った。はっとして我に返れば、ネコが狗朗の足下にしゃがみ込んで見上げていた。
「でも、おうちに帰ったらただいま、でしょ?」
「……!」
不意をつかれたように狗朗は言葉に詰まった。その時、狗朗の背後でカチャリと音がした。
「新しい部屋はどうかね? お二人さん」
「ククリ!」
ドアの隙間からのぞき込むようにして顔を出したのは菊理だった。彼女は、葦中学園高校の新生徒会長として学園の復興に尽力していた。彼女たちの奮闘と≪黄金の王≫の助力もあって、新入生を迎える季節に間に合わせることができたのだ。
「スッゴイでしょー? 前と一緒でしょ?」
「うん! ぜーんぶいっしょ! おんなじ!」
「ふふん、これはもう見たかい?」
菊理が指差したのは、キッチンに備え付けの食器棚だった。
「あー! ワガハイのお茶碗っ!!」
「いやぁ、実はこれ、同じものを探すのにちょっと苦労したんだよねえ」
「ククリすごーい!」
「えへへへ…そうでしょう、そうでしょう!」
腰に手を当て、菊理が得意げに頷く。何もかもすべて元通り。ただ一つを除いて――。
「あとはシロくんが帰ってくるのを待つだけだねえ」
シロは未だ目覚めない。≪黄金の王≫の元で、ヴァイスマンの中で眠り続けている。
あの日、体内に取り込んだ≪無色の王≫諸共に、伊佐那社の身体は≪赤の王≫周防尊に貫かれて消滅した。
シロは狗朗とネコの前から姿を消した。狗朗とネコは、シロを捜して旅に出た。
二人の前に≪黄金の王≫の使いである"ウサギ"が現れたのは、桜の蕾が綻び始めるころだった。御柱タワーに招かれた二人は、コールドスリープの中に横たわる≪白銀の王≫アドルフ・K・ヴァイスマンと対面した。
初めて目にする≪白銀の王≫の姿に狗朗は戸惑った。だが、ネコは違った。わずかの躊躇いも見せずにケースに飛び付き、ガラスに頬を押し付けるようにして縋り付くネコの姿に、狗朗は確信した。姿形が変わろうとも、これはシロに違いないと。
伊佐那社の身体から抜け出た魂は、本来の器であるヴァイスマンの身体の中に戻っていた。國常路の説明によれば、≪無色の王≫のヴァイスマン偏差の消失からほどなくして、仮死状態だったヴァイスマンの身体に赤みが差してきたという。心臓の鼓動、≪白銀の王≫のヴァイスマン偏差も確認された。驚いたことに、死亡したと思われていた≪赤の王≫周防尊も、王の力を失いながらも一命を取り留めていた。どちらも「不死の王」たる≪白銀の王≫の「不変」の力が作用したのではないか、というのが國常路の見解だった。
だがしかし、未だ意識は戻っていない。事件から1ヶ月後に周防は意識を取り戻したが、ヴァイスマンは一度も目覚めていない。≪黄金の王≫直轄の七釜戸化学療法研究センター付属病院の医師によれば、医学的には何ら問題がない状態だという。一向に目を覚まさないまま冬が過ぎ、春を迎えた。当初は意識が戻るまでこの事実は秘することとされた。しかし、目覚める気配を見せぬまま時間だけが過ぎ、白銀のクランズマンである二人に知らされることとなった。
『シロ、シロ、ワガハイだよ! ネコだよ! ワガハイ、シロを迎えに来たよ! ねえシロ、起きてよー! シロー!』
長い銀糸の睫毛に縁取られた瞼を閉じて横たわる姿は、ただ眠っているだけのようだった。けれど、ネコが何度呼び掛けてもその瞳が開くことはなかった。
『ヴァイスマンの身柄はこの≪黄金の王≫國常路大覚が責任を持って面倒を見よう。儂はもう長くはない。だが、儂が去った後も永続的な保護と安全を保証する』
シロがいつ目覚めるかはわからない。このまま目覚めないかもしれない。最悪の場合、≪白銀の王≫の「不変」の力で肉体は生き続けても、意識が戻らぬまま永遠に眠り続けることもあり得る。あるいは目覚めたとしても、肉体を入れ替えられたシロがヴァイスマンとしての記憶を忘れてしまったように、伊佐那社としての記憶が失われている可能性もある――。
最後に國常路は二人に問うた。
『それでもお前たちは、いつとも知れぬこれの目覚めを待つことができるか』
「そうそう、二人にこれを届にきたのだよ」
菊理が紙袋から取り出したのは、男女それぞれ1組ずつの制服だった。
「わーい、制服だー!」
真新しい制服を胸に当て、ネコがクルクルと回り出す。紙袋には、他にも学校指定のタンマツなどが入っていた。
「タンマツは登録済みだからね。今日から使えるよ。使い方は大丈夫かな?」
「何から何まですまない。恩に着る」
「いいって、いいってー。相変わらずクロくんは大袈裟だねえ」
「そうだー、クロスケは頭カチコチなの! クロスケの石頭―!」
この4月から狗朗は葦中学園高校の3年に、ネコは2年に編入する。今回はネコの能力ではなく、≪黄金の王≫の助力を受けて正式な手続を踏んでいる。
シロは3年に進級し、休学扱いになっている。
「兎にも角にも、おかえり。クロくん、ワガハイちゃん」
狗朗とネコは顔を見合わせた。二人で小さく笑い合う。
「たっだいまー!」
床を蹴ってネコが菊理に飛びついた。
「ほら、クロスケも!」
狗朗とネコは、ここでシロの帰りを待つと決めた。
「…………ただいま」
ここが3人の「家」だから。