I'm so happy
開店直後だというのに、Bar HOMRAの店内はほとんどの席が埋まっていた。今日は、いつもよりも女性客の割合が高い。そわそわとした、どこか落ち着かない空気が流れている。
店内には、アルコールの香りに混じって甘い匂いが漂っている。客のグラスの隣には小さな金色のトレーが置かれ、キューブ型のチョコレートが2粒載っている。アルコールにも合うようにチョイスされたビターな味わいは、開店前に1粒味見をさせてもらった十束には苦く感じられた。チョコレートの黒とトレーの金色とのコントラストも大人っぽく、草薙らしい趣味だった。
チラチラと遠慮がちな視線がバーカウンターの中へと向けられる。美しく着飾り頬をピンク色に染めた彼女たちを、十束はカウンターの端からにこにこしながら眺めていた。
「何をニヤニヤしとるんや?」
「いやぁ、恋する女の子はかわいいよね」
草薙には怪訝そうな顔をされたが十束は構わなかった。愛する人に気持ちを伝える日。今日はなんて素晴らしい日なのだろう。
十束は様々なものに興味を持ったが、中でも人間観察は最も金のかからない趣味だった。一人で何時間でも時間を潰すことができる。十束は、幸せそうな人の笑顔を見るのが好きだった。幸せな笑顔を見ているとこちらまで幸せになれる。幸せのお裾分けを貰った気分だ。だから今日という日が十束は好きだった。
草薙が忙しく立ち回るカウンターの奥には、綺麗にラッピングされた小箱が積み上がっている。どれもこれも十束でも知っているような高級ブランドのものばかりで、一目で本命だと判るところが流石は草薙だ。
「草薙さん、学生のころすごーくモテたでしょ?」
「すごーく」を強調して問うと、草薙は意味ありげに微笑んだ。
「さぁ、どうやろなぁ」
飄々とかわしながらも否定はしない。口元に小さく浮かべた笑みが大人の余裕を感じさせた。これは相当にモテたに違いない。十束は瞳を輝かせた。
「ねえねえ、キングは? キングはモテてた?」
「尊はなぁ…モテへんわけやないのに怖がらせてもうてなぁ。勇気出してチョコ渡しに来た子がおったのに……」
「わお! それはすごい勇者だ!」
思わす声を上げた十束の隣で、カウンターに突っ伏していた周防がのそりと体を起こした。
「…くだらねぇこと話してんじゃねえよ」
「せやかてお前、『何だこれ?』言うて泣かせてしもて…」
「うわぁ…それは可哀想だよキング」
「おい…草薙」
十束に非難がましい目を向けられた周防が恨めしげに草薙を睨め付ける。肩を竦めて苦笑した草薙は、周防の視線から逃れるようにカウンターの奥に引っ込んだ。
少しして戻って来た草薙は、四角いプレートを手にしていた。直径10cmくらいのガトーショコラが十束の前に置かれる。ホイップクリームが添えられ、白いプレートにはチョコレートで文字が書かれていた。流れるような筆記体で書かれたそれを読み取った十束は、不意を衝かれた表情で草薙の顔を見た。
「草薙さん、これ…?」
プレートの端に添えられていた数字の形をしたロウソクに草薙がジッポで火を付けると、花火のように炎が弾けた。
「おめでとうさん」
隣を見れば、頬杖をついた周防がニヤリと口元に笑みを浮かべていた。
ふたりの視線を感じながら、十束はガトーショコラを口に入れた。お洒落に盛り付けられたそれを崩すのが勿体なくて、端っこからそっとフォークを入れた。口の中でほろほろと生地が崩れて、甘いチョコレートの味が広がる。草薙の手作りなのだろうそれは、大人っぽい見掛けに反して中学生の十束の口に合う甘さだった。
「すごく美味しいよ草薙さん、ありがとう!」
「どういたしまして」
「キングも味見してみる?」
「俺はいい。お前のなんだから全部食え」
「尊はこっちな」
草薙がカウンターの下から小箱を取り出した。草薙が手にした小箱を周防は繁々と眺めている。
「言うとくけど、貰いもんとちゃうで」
「…酒入りか?」
「あほう。未成年が何言うとんねん」
赤いリボンが掛かった小箱で草薙が周防の頭を小突いた。
ふたりの遣り取りを眺めながら、十束はどっかの若大将の台詞を高らかに叫びたい気分だった。大好きな人たちの幸せがすぐ側にある。なんて幸せなのだろう。
十束は思った。やっぱりこの日が好きだ。
この日に産んでくれてありがとう。十束を捨てた両親に感謝をした。