Alles Gute zum Geburtstag!

 炊き上がった白飯から立ち上る甘い蒸気の香り、パチパチと皮が爆ぜる音を立てながら焼き上がる魚の匂い。白米はふっくらと炊き上がり、干物も絶妙の焼き具合だ。トントンと小気味よい音を立てるのは、ぬか漬けの胡瓜だろうか。自家製の味噌でこしらえた味噌汁の香りも漂ってきた。出汁のきいた卵焼きとお浸しを添えれば、完璧な朝食だ。
 一日の始まりに美味しい朝食を口に出来ることこそ、この上ない幸福だ。
 夢の中で微笑んだ狗朗は、だが次の瞬間、布団を蹴り飛ばす勢いで起き上がった。

「――――!?」

 急ぎ寝間着を着替えると、肩まで伸びた髪はそのままに、土間へと駆けて行く。

「一言様!」
「おはよう、クロ。いい朝だね」

 たすき掛けでかまどに向かい味噌汁の味を見ていた狗朗の主、三輪一言が穏やかな笑みを浮かべて振り返った。

「おはようございます、一言様。申し訳ございません。寝過ごすとは何たる不覚。一言様お一人で食事の支度をさせるなど、臣下としてあるまじき失態……」
「もう支度は済んだからいいよ。ちょうどご飯も炊き上がったところだ。クロは座っておいで」

 深々と頭を下げる狗朗の前で、一言は炊き上がったばかりの白飯を茶碗に盛っていく。釜で炊き上げた白飯は、米の一粒一粒が艶々と輝き、釜底についたお焦げの具合も完璧だった。
 流石は一言様。心の内で主を賛美しながら、狗朗は己の不甲斐なさを恥じ入った。
 俯く狗朗の頭を、一言の温かな手が優しく撫でる。

「クロ。今日くらいは寝過ごしてもよいのだよ。今日は、食事の支度もその他の家事も、何もしなくてもいいよ。さあ、座って。朝食にしよう」

 戸惑う狗朗を促して囲炉裏のある部屋へ移動すると、一言は膳の前に座った。それに倣って狗朗も一言の正面に正座する。
 狗朗が座るのを見届けて、一言が口を開いた。

「クロ、誕生日おめでとう」

 狗朗は、きょとんとした表情で主の顔を見詰めた。狗朗にしては珍しい年相応の幼い表情に、一言は笑みを深くした。

「おや? クロは自分の誕生日を忘れていたのかい?」
「いえ、あの……はい」

 一言が朗らかに笑う。

「クロは何がしたい? 今日はクロのしたいことをしよう」
「……一言様と一緒に居たいです。一言様のお仕事の邪魔でなければ……」
「なんだ、そんなことでいいのかい? いいよ」
「…本当によろしいのですか?」
「勿論だよ。今日は二人でのんびりと一日を過ごすことにしよう」
「はい! ありがとうございます、一言様!」


「――夢……か」

 まだ夜も明けきらない時刻だった。鮮やかな緋色が目に入る。
 目覚めたのは、堅いコンクリートの上だった。シャッターの降りた店の軒先で、辛うじて雨風が凌げるだけの場所だ。
 夢に見たのは、亡き主と過ごした幼いころの幸せな記憶だ。狗朗を慈しみ、この世に生を享けたことを共に祝ってくれた人はもういない。
 狗朗の隣で、ネコが身動ぎをした。冬の冷えた空気の中にあって、傍らで丸まって眠るネコの体温が温かかった。
 世間は新しい年に浮き立ち、犬と猫という珍しい組み合わせに目を止める者はいない。

「シロ……」

 ネコが寝言を口にする。
 年が改まっても、二人の探し人の姿はどこにも見当たらない。
 白銀の王、アドルフ・K・ヴァイスマンこと伊佐那社との出会いは、ほんのひと月程前のことだ。いつもへらへら笑って口を開けばホラばかり。一週間にも満たない共に過ごした時間の中で、シロの口から出るのは嘘偽りばかりだった。

『うわ〜クロの誕生日ってもうすぐなんだね! だったら、3人でお祝いしようよ!』

「もうすぐ」というわずかな期間の約束すら反故にされた。

『大丈夫。僕は不死の王だ』

 白銀の王の言葉も、狗朗は信じてはいなかった。あの状況にあっては、たとえ王権者といえども無事では済まない。そして、シロは姿を消した。
 だが、シロを信じきったネコの姿を見て、狗朗も信じることにした。
 一つくらいあいつの言葉を信じてやってもいい。
 狗朗は、第一王権者・白銀の王アドルフ・K・ヴァイスマンの臣だ。狗朗の心は定まった。この先、余人に膝を折ることはない。

「ネコ、起きろ。そろそろ人が起き出す。その前に移動するぞ」

 広げていた和傘を畳んで、ネコの体を揺さぶる。狗朗の手を尻尾で叩いて、ネコが抗議の声を上げた。

「シロを探しに行くんだろ? 今すぐに起きるなら美味い飯を作ってやる。さもなくば朝食は抜きだ」
「ご飯―!」

 突然、人の姿に戻ったネコが跳び上がる。狗朗は、溜息を吐いて立ち上がった。
 シロを見つけ出したら、約束を反故にしたことに文句を言い詫びさせる。そして、次こそ3人でという約束を果たしてもらう。
 たった二人の白銀のクランズマンたちの王であり友を捜す旅は続く――