Embers 〜Another story〜

 オーブンからパンの焼ける甘く香ばしい匂いが漂う。あと5分もすれば焼き上がるだろう。毎朝のパン作りが、すっかり草薙の趣味になっている。今朝はクロワッサンだ。近ごろでは、近くの農園で分けてもらった果物で、ジャムの手作りまでしている。
 夏野菜たっぷりのスパニッシュオムレツ、カリカリのベーコンと水菜のサラダ、よく冷えたビシソワーズ、ラズベリーのジャムを添えた自家製ヨーグルトがテーブルに並ぶ。挽き立てのコーヒー豆の香ばしい匂いを立ち上らせながら、コポコポと音を立てているサイフォンと、その脇に置かれた手動のミルは、一時期コーヒーに凝っていた十束が使っていたものだ。
 通話を終えたタンマツをキッチンのカウンターに置き、草薙はリビングの奥の扉に向かった。
 窓を開け放つと、心地よい風が部屋の中を取り抜ける。青々とした木々が目に眩しい。さほど遠くない場所で鳥のさえずりが聞こえる。リビングのテレビは連日の酷暑を伝えているが、ここは都会の暑さとはまったくの無縁で、別世界のようだ。
 白いカーテンがふわりと風に舞い上がる。木漏れ日に眩しそうにしながら、ゆっくりとまぶたが開いた。

「おはようさん。気分はどうや?」

 ベッドに上体を起こした周防が、まだ眠たげに目を瞬いた。下ろしたままの前髪が目元の印象を和らげ、やや幼く見せる。草薙には十束を入れた3人で馬鹿をやっていた高校時代が思い出されて、懐かしさを覚える。
 草薙は周防の前髪をかき分け、額に口付けた。

「朝食できてるけど、起きられそうか?」

 時刻は午前10時を過ぎている。朝食というにはやや遅く、ブランチに近い。こちらへ運ぼうかと言う草薙に、周防は首を振った。
 避暑地として知られるこの場所に移り住んで半年ほどになる。草薙が購入した別荘に、アンナと3人で暮らしている。
 周防と草薙は、すでに吠舞羅から身を退いている。吠舞羅は≪赤のクラン≫ではなく、チームができあがったころに戻った。
 周防のあとを引き継いだのは八田だ。鎌本と共に残った仲間たちをまとめている。
 先ほどの電話は、その八田からだった。

「さっき八田ちゃんから電話があってな。今日こっちに来るって。伏見や鎌本も一緒や」
「店があんだろ…」
「1日2日閉めたところで問題あらへん」
「オーナーがそんなんでいいのか」
「かまへん、かまへん」

 草薙が不在の間、Bar HOMRAの留守は彼らに預けてきた。実質的に店を取り仕切っているのは伏見だ。
 八田が吠舞羅を引き継ぐことを耳にした伏見は、突然草薙の前に現れ、セプター4に辞表を出してきたと言った。直接八田のところへ行かないところがまったく伏見らしい。よくあの≪青の王≫が許したものだと思ったが、そこはしっかりと条件をのまされたらしい。辞表を受理するかわりに、室長の要請に従いセプター4の業務に協力するという嘱託契約を結ばされたという。伏見は渋面に満ちた顔で舌打ちを繰り返していた。
 伏見の吠舞羅復帰(吠舞羅時代の伏見を知る者たちは"出戻り"と言う)は、主に八田との間に一悶着あったものの、本心では八田も伏見が戻って来たことを喜んでおり、草薙としてもかつて自身が望んでいた形でもあり、歓迎できることだった。
 草薙の見立てでは、伏見はバーテンダーとしての筋も良く、経理にも明るい。愛想がないのが難点だが、なにしろ八田に任せると女性客のあしらいができないし、バーが居酒屋になってしまう。
 ここまでの経緯は想定外だったが、結果として吠舞羅は、いつだったか草薙が十束に話した通りの姿になった。

「昼過ぎには着くて。なんや他にも大勢来るらしいわ」

 周防が眉間に皺を寄せた。だが、その表情は以前よりもずっと穏やかだ。草薙は、立ち上がる周防に手を貸しながら口元を緩めた。

「みんなお前に会いたいんや」

 後に学園島占拠事件と呼ばれるようになったあの日、3振りのダモクレスの剣が消失した。第1王権者≪白銀の王≫アドルフ・K・ヴァイスマン、第7王権者≪無白の王≫、そして第3王権者≪赤の王≫周防尊――。3人の王が失われるという、迦具都事件を上回る前代未聞の事件だった。
 あの日、確かに周防尊のダモクレスの剣は墜ちた。≪白銀の王≫諸共に≪無白の王≫を手に掛け、すでに限界を迎えていた周防の剣は王殺しの負荷に耐えきれずにダモクレス・ダウンを引き起こし、≪青の王≫宗像礼司の手で幕が引かれた。≪赤の王≫のヴァイスマン偏差は確かに消失した。
 だがしかし、周防尊は生きていた。「不死の王」たる≪白銀の王≫の「不変」の力によって、辛うじて命を繋ぎ止めていたのだ。
 1ヶ月後、意識を取り戻した周防が言葉少なに語った内容から國常路が推察したところによれば、周防が伊佐那社の身体を貫いた瞬間に≪白銀の王≫の力が流れ込み、その影響を受けたのではないかということだった。ヴァイスマンのことだから意図的にそうなる様に仕組んでいたのかもしれない、とは國常路の弁だが、真相は不明のままだ。周防自身はその時の状況をあまり覚えておらず、≪白銀の王≫ヴァイスマンは未だ眠りから目覚めていない。すべては推測の域を出ないが、周防が命を留めたことは確かだった。
 事件のあと、周防は≪黄金の王≫直轄の七釜戸化学療法研究センター付属病院に運ばれた。ようやく退院を許されたのは、意識を取り戻してから更に1ヶ月後のことだった。ただ、治療ができたのは外傷だけだった。長年、石盤の巨大な力を身に宿し続けた周防の身体はボロボロだった。≪黄金の王≫により才能を引き出された研究者たちをもってしても、そればかりはどうすることもできなかった。 
 周防は≪赤の王≫の力を失い、ただの人に戻った。
 退院後も周防は横になっていることが多い。それは以前から見慣れた光景だが、力の暴走を抑えるためにそうしていたのとは訳が違う。一日中ベッドで過ごすこともある。
 それでも草薙は、「前と大して変わらんわ」と笑う。
 周防が戻ってきた。
 それだけで充分だった。

 開け放したままのドアの向こうからパタパタと足音が聞こえてきた。

「ミコト、おはよう」

 少し背の伸びたアンナが、そっと周防の腰の辺りに抱きつく。こちらに来てから、アンナは以前よりも表情を見せるようになった。

「イズモ、パン焼けた」
「おおきに。そしたら朝ご飯にしよか」
「ミサキたち近くなってる。サルヒコもいる。いっぱい赤が集まってきてる」

 アンナによれば、かつての鮮烈な赤こそ失われたものの、周防を取り巻く色は今もなお赤く、「ミコトの赤が一番綺麗」だという。

「久々に賑やかになるな。張り切って仰山ご馳走を用意せんとな。アンナも手伝ってくれるか?」
「うん」

 赤いドレスの裾を揺らしてアンナがキッチンへ駆けて行く。
 今夜は大宴会になるだろう。元はペンションだったというこの別荘には空き部屋がいくつもあるから、ガキ共が酔い潰れても心配はない。
 いつかアンナを看板娘にして、ワインの楽しめるペンションを始めるのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、周防が草薙を呼んだ。

「おい、草薙…」
「なんや? ああ…髪の毛か。久々に上げるか?」

 腕に縒りをかけて男前に仕上げてやる。寝癖のついた頭をかき混ぜて、草薙は笑った。

「誕生日おめでとうさん」

 周防の温もりを感じながらこの言葉を口にできる幸せを噛み締めた。