As if in a dream
夜も深まった鎮目町の一角。Bar HOMRAの扉は今宵、閉ざされている。
「えーお休みなんだぁ。草薙さんの顔が見たかったのになぁ」
「十束くんに話聞いてもらいたかったのに。残念」
店の前で足を止めた二人連れが、「CLOSE」の看板を目にして残念そうに立ち去る。
Bar HOMRAに定休日はない。それは道楽で店をやっていた先代オーナーの頃からで、現オーナーの草薙が店を引き継いでからも変わらない。バーの経営は、趣味と叔父への義理から続けているようなものだ。生計はしっかりと別のところで立てている。端から採算を度外視してBar HOMRAを営業している理由は、別のところにある。Bar HOMRAは、≪赤の王≫周防尊の王権者属領であり、≪赤のクラン≫吠舞羅のたまり場になっている。仲間たちの集う場であり、より所だ。草薙はここで、仕事のない若いクランズマンたちにアルバイトをさせるなどして面倒を見ていた。故に、草薙が酒の買い付けで留守にする以外は、店の休業のほとんどが吠舞羅絡みの理由によるものだ。たとえば、草薙自身が赴かねばならない場合などがそうだ。そんな時は、店内の灯りが落ち、人の気配もなく、一目で休業だということが分かる。
だが今宵は、窓に煌々と灯りが映り、賑やかな声が聞こえる。Bar HOMRAには、月に1、2度こういう日があった。馴染の客には、貸し切りなのだと理解されている。
店の中では、大勢の若者たちが賑やかに騒いでいる。インテリアの中に多少おかしなものが混じっているものの、草薙がこだわり抜いた洒落た雰囲気の店内は、手作り感たっぷりに飾り付けられていた。
「10、9、8、7……」
床を踏み鳴らす足音に合わせて、カウントダウンが始まった。カウントがゼロになり、時計の針が頂点で重なった瞬間、盛大にクラッカーの音が鳴り響く。
「ハッピーバースデー!!」
喝采の中、あちこちから弾幕のように紙テープが降り注ぐ。
「……ゲホッ…ゴホッ……アホかお前ら! クラッカー幾つ鳴らしとんねん!」
「えー、多い方が派手でいいじゃない」
「限度っちゅーもんがあるやろ! 見てみぃ、店ん中が煙で真っ白になっとるやんか。浦島太郎ちゃうねんぞ! はよ窓開けぇ」
店の中央では、紙テープの山の中から八田が発掘されていた。肩から掛けたタスキに書かれている文字は「本日の主役」。達筆なそれは、一時期、書道に嵌っていた十束のお手製だ。
「八田さ〜ん、お誕生日おめでとうございます!」
吠舞羅の夏の風物詩、すっかり痩せて夏仕様の鎌本が、特大サイズのケーキを運んで来た。十束と鎌本が土台を作り、アンナがデコレーションを手伝った大作だ。
「八咫烏もようやく大人か」
にやにやと笑いながら、千歳が八田の肩に腕を回した。「チッ」と、どこからともなく聞こえた舌打ちに、たまたま近くに居た数人の背筋が寒くなった。
「背は小さいままだけどな」
「テメーに言われたかねーんだよ、坂東!」
「……チワワ」
「エリック、今なんつった!? テメー、オレより年下だろーがっ!」
「誕生日プレゼントに女紹介してやろうか? プロのお姉様に童貞卒業させてもらったらどうだ?」
「ううううっせぇ! よっ、余計なお世話なんだよ」
瞬間湯沸かし器のように、八田の顔が耳まで赤くなる。「チッ、チッ」と、さっきよりも5割増しの舌打ちが響いた。哀れにもその音を耳にしてしまった犠牲者たちの顔面は蒼白になった。
八田が仲間たちの輪に埋もれてもみくちゃになっている様子をカウンターの中から眺めながら、草薙は紫煙を深く吐き出した。
「八田ちゃんももう二十歳か」
サングラスの奥で目を細め、しみじみと言う。
「早いもんやなぁ。初めて会うたときはまだ中坊やったんになぁ。俺らも歳取るはずやわ」
「草薙さん、なんか爺臭いよ」
「ほっとけ」
十束の額を軽く小突いて、草薙は八田を呼んだ。
「八田ちゃん、ちょっとおいで」
手招く草薙に応じて、八田が体重を感じさせない軽い動作で駆け寄って来た。その仕草は、カラスというよりも忠犬のそれだ。
「なんすか?」
カウンターに座って酒を飲んでいた周防が、自分の隣をコツコツと指で叩いた。ここに座れということだ。
緊張した面持ちでいそいそとスツールに座った八田の前に、草薙は空のグラスを置いた。そこへ周防が、草薙から受け取ったボトルから琥珀色の液体を注いだ。ラベルに七面鳥が描かれたそれは、周防が好んで飲んでいる銘柄だ。
指一本分の高さまで注がれた琥珀色の海が、グラスの中でキラキラと波打つ。じっと見詰める八田の目の前に、周防は自らのグラスを掲げた。。
「い、いいんすか!?」
八田は、弾かれたように草薙の顔を見た。草薙が笑って頷くと、八田は瞳を輝かせた。
「オ、オレ、尊さんと酒飲むの夢だったんすよ!」
「なんかええなぁ。成人した息子と親父が酒を酌み交わすて……なんか涙出てきそうや」
「草薙さんオカンだねぇ」
「…誰が親父だ」
高い音を響かせてグラスが重なる。
「いただきます!」
両手で持ったグラスに鼻先を近づけると、意外にも甘い香りがした。煙草の匂いに混じった甘い香りはこれだったのか。周防の匂いだった。
八田は、その甘い匂いに誘われて、一気にグラスをあおった。
「グエッ…ゲホッ…ゲホッ……」
喉が焼けるような熱さに襲われ、八田は激しくむせた。アルコールが通った順に、食道や胃の中まで熱くなる。
「そんな一気に飲んだらアカンて。ほら、お水飲みや」
周防は、クツクツと喉で笑いながら自らのグラスを空けている。
「あーあ。キング、笑ったら可哀想だよ」
草薙から手渡された水を飲み干して涙目になっている八田の背中をさすってやりながら、十束は先ほどからこちらの様子を窺っている視線を辿った。馬鹿騒ぎをしている仲間たちから一人離れて、定位置となっているカウンターの端に座っている。
「伏見もそんな端っこにいないでこっちにおいでよ」
「いや…俺はいいです」
ふてくされたように、ふいと横を向く。
小さく肩を竦めた十束と視線を交わして、草薙は新しいグラスを八田の隣に置いた。
「伏見、コーラ飲むやろ」
伏見は、渋々といった風に立ち上がった。そこへ、先ほどの失態の照れ隠しもあるのか、少し復活した八田が噛み付いた。
「お前はまだ酒はダメだぜ。オレより3ヶ月半年下なんだからなっ!」
「酒もまともに飲めないお子様が何言ってんだ。お前はまったく成人しているようには見えないけどな、美咲ぃ」
「っんだと、猿っ!?」
「二人ともそのへんにしとき。まったく、誕生日くらい仲良ぉできんのか?」
椅子から立ち上がろうとした八田の頭を、草薙が押さえ付けた。呆れ顔の草薙に凄まれて、八田と伏見は大人しく並んでカウンター席に収まった。
「伏見ももうすぐだよ。そうしたら伏見もキングと乾杯だね」
「……俺は遠慮しときます」
人生初のアルコールに酔い、八田はカウンターに突っ伏したまま眠っていた。夏場だからそうそう風邪を引くこともないだろうが、どうしたものかと思案していると、草薙がタオルケットを投げて寄こした。
「家まで運ぶんは流石にしんどいやろ。これ掛けといたり」
雛鳥を起こしてしまわないようにそっと、真綿を扱うような手つきで八田の肩にタオルケットを掛けてやると、伏見はその隣に腰を下ろした。相変わらず面倒臭そうな表情をしているが、八田の側にいる伏見は、楽に呼吸ができているように見える。
その様子を眺めながら、草薙が独り言のように言った。
「そろそろ俺らも、若い者に少しずつ譲っていけるとええなぁ」
「それって昔言ってたこと? 八田が中心になって、鎌本がまとめて、伏見がサポート、だったっけ?」
「何の話だ?」
「吠舞羅の将来について。そうなったら俺たちは晴れて隠居だよ」
「ほぅ…そいつはいいな」
「やろ?」
重たく鈍い音をたてて扉が開いた。長らく響くことのなかったドア・ベルの音も、心なしか錆び付いてくすんだような音をたてた。
ドアの隙間から僅かに街灯の明かりが差し込み、薄闇の中を白い靄のように埃が舞う。板張りの床を踏む度に、ブーツの踵の音が思いのほか大きく響いた。
やはり八田はそこに居た。
七面鳥のボトルを抱えるようにして、カウンターに突っ伏したまま眠っている。
「美咲」
肩を掴んで揺り起こすが、僅かに身動ぎをしただけで目覚めない。
こちらを向いた八田の口元が、むにゃむにゃと動いた。
「……み…こと……さ……」
目尻を伝った一筋の涙に、伏見は気づかない振りをした。