あなたのいない世界で

――墜ちる

 頭上を見上げた伏見は、即座にそう悟った。
 猛り狂う炎が渦を巻いて上昇し、地上には風が激しく吹き荒れている。膨れ上がったエネルギーを孕んだ中心から円状に熱波が押し寄せ、これ以上は近づくことができない。立っているのがやっとの状態で、伏見は目を凝らした。
 空中に巨大な姿を浮かべる赤の王・周防尊のダモクレスの剣には、幾筋もの深い亀裂が走っている。その裂け目から腐食したように剥がれ落ち、今まさに崩壊の時を迎えようとしていた。
 その真下に悠然と立つ周防は、煙草を咥え、うっすらと笑みすら浮かべている。

「――周防!」

 伏見の横合いから青い光が一閃した。
 青い光の円を連ねた階段を駆け上り、青の王・宗像礼司が炎の塊の中に飛び込んで行く。
 その姿は炎に包まれ、すぐに見えなくなった。

「室長!」

 伏見のすぐ近くで悲鳴が上がった。
 淡島が、燃え盛る炎に向かって手を伸ばしていた。
 伏見は舌を打つと、淡島の前に回り込み、淡島の体を押し止めた。
 勢いを増した炎が伏見の背中を焼く。
 伏見たちを飲み込もうとする炎は、しかし次の瞬間、その矛先を弱めた。
 赤く輝くエネルギー体を包み込むように、青い光が半円状に広がっていく。

「…宗像…室長……」

 淡島の声に伏見が振り返ると、周防の傍らに立つ宗像が左手を高く掲げていた。
 遠目に宗像と伏見の視線が合う。
 放心状態で地面に座り込んだ淡島を抱える伏見を一瞥し、宗像は満足げに頷いた。
 青い光は、二人の王諸共に爆発寸前の熱量を封じ込め、球体を形作った。
 赤く揺らめく炎を宿した青い結晶体は、こんな状況下にあって目を奪われる美しさだった。
 やがてそれは、二人の王と共に上空へと昇っていく。

「尊さん! 嫌だ! 嫌だ……尊さん!!」
「美咲っ!」

 少し離れた所から聞こえた叫び声に伏見は我に返った。
 青い結晶体に魅せられたように、八田がその後を追おうとしていた。
 伏見の背中を冷たいものが流れる。

「秋山! 淡島副長を頼む」

 近くに居た部下に淡島を預け、伏見は地面を強く蹴った。
 もつれる足がもどかしく、必死に後を追う。

「美咲、行くな!」

 腕を掴んで引き寄せた八田の体を背中から抱き込んだ。

「離せ、猿っ! 尊さんが……尊さんが!!」

 巨大なエネルギーに引き込まれるように、周囲の木々が地面から抉り取られていく。両足に力を入れ、巻き込まれないように踏み止まるのが精一杯だ。
 伏見は、暴れる八田を押さえ込む腕に力を込めた。

「頼む…美咲……行かないでくれ! お前の居ない世界なんて何の意味もない……俺を置いて行くなよ……俺を一人にしないでくれ美咲………お前がいなくなったら俺は………」

 嗚咽するように絞り出した声も、しがみつくように八田の腰に回した腕も震えていた。
 八田の目から零れた涙が風に流され伏見の頬を濡らす。
 二人の王が伏見と八田を見下ろしていた。その口元には笑みが浮かんでいる。

「伏見。草薙に伝えろ。すまねぇな、とな」
「伏見君、後は頼みましたよ」

 八田が周防の名前を叫び手を伸ばす。
 次の瞬間、天高く寄り添うダモクレスの剣が閃光を発し、辺りは白い光に包まれた。 


 赤の王・周防尊の王権暴発事例≪ダモクレス・ダウン≫から5年。
 学園島の上空に出現した二振りのダモクレスの剣は、二人の王を飲み込んで消滅した。その被害の程度は、迦具都事件と同程度もしくはそれ以上の規模になると懸念されたが、その予想を大きく下回り、学園島の一部にその痕跡を残すに留まった。
 青の王という大きな犠牲を払いながら、セプター4は、宗像の掲げた大義を遂行すべく存続していた。

「例の件ですが、確認が取れました。やはりドレスデン石版から力を引き出した痕跡があります」
「そうか……わかった」

 投影されたグラフを一瞥し、気怠げに返した伏見は、椅子から立ち上がった。

「ちょっと出てくる」
「どちらへ?」

 部下の問いには答えず、伏見は執務室を後にした。

 ドア・ベルがカランと音を立てる。開店前の店内には他に人がなく、カウンターの中で一人、草薙が準備をしていた。

「……珍しいお客さんやなぁ」

 伏見の姿を認めた草薙は僅かに目を見開き、次いで笑みを浮かべて伏見を招き入れた。

「ホンマに久し振りやな。忙しそうやもんなぁ、セプター4の司令代行さんは」

 伏見の前にコーヒーカップを差し出しながら言う草薙に、伏見は小さく舌打ちをした。そんな伏見に、「そういうとこは変わらんなぁ」と草薙が笑う。

「副ちょ……淡し……」
「もう副長でも淡島でもないけどな。今はちょうど保育園に娘を迎えに行っとる」
「そうですか…」
「何か用やったか?」
「いえ…今日は草薙さんに話しておきたいことがあって寄っただけです」
「そうか。まぁあいつは勘弁したってや。そっちに戻るのは……な」
「わかってますよ」
「娘ももう3歳や。早いもんやなぁ。可愛ええ盛りなんやけど、おしゃまさんでな。口調なんか世理にそっくりで参るわ。味覚まで似てもーたらどないしよ…」

 天を仰いで深い溜息を吐く草薙に、伏見は何とも言えない表情を浮かべた。

「まぁ、アンナがよぉ面倒見てくれるから助かっとるんやけど」

 5年前の事件後、宗像を失い茫然自失となった淡島を支えたのは草薙だった。
 伏見が伝えた周防の最期の言葉に、草薙は一言「あほが…」と呟いた。
 心の空洞を埋める術を欲していたのは草薙もまた同じだった。二人は、最も大切な人を守れなかったという同じ傷を抱えていた。そんな二人が寄り添い合ったのは、自然な流れだった。
 事件の後にセプター4を退職した淡島は、草薙の子を産み、アンナを含めた4人で暮らしている。草薙は、一線を退いた後もBar HOMRAを経営しながら吠舞羅に残った者たちの面倒を見ていた。

「で? 俺に話って何や」
「……新しい赤の王のこと……草薙さんの耳にも入ってますよね」
「…やっぱりその話か。うん。噂には聞いとるよ。お前が来たってことは、ホンマやったんやな」

 神妙な面持ちで伏見は頷いた。

「…吠舞羅はどうするんですか?」
「……俺らの王は尊だけや。まぁ、俺は一線を退いてるし、若い者がどうするかやけど」
「あいつは…?」
「あいつも同じやろ」
「…でしょうね」

 解りきっている答えに、伏見は小さく笑った。

「お前が心配しとるんは、新しい赤の王が手っ取り早く勢力を拡大するためにウチの子らを無理矢理自分のクランに入れようとすることやろ。確かに、そうなったら抗争は避けられんやろうな」

 草薙が煙草に火を付け、紫煙を吐き出した。
 王を失った吠舞羅が新たな王と戦えば、その結果は目に見えている。
 伏見は、冷めかけたコーヒーを飲み干すと席を立った。

「わかりました。こっちはこっちの仕事をします」
「…昔同じ台詞を聞いたわ」

 懐かしそうに目を細める草薙に見送られ、伏見はBar HOMRAを後にした。


 マンションの一室に人気は無かった。
 室内を見回して、伏見はほっと息を吐いた。セプター4の職務に忙殺される中、この部屋が伏見にとって息を吐ける場所だった。

「あいつはいない……か」

 テーブルの上には食事の跡が残されていた。ちゃんと食事を取っているらしいことに安堵する。
 5年前、事件後の一時期を伏見はこの部屋で過ごした。かつて伏見が吠舞羅に居たころ、八田と共に暮らしていたのがこの部屋だった。
 事件の直後のセプター4は、青の王を失い、多くの隊員が負傷するという多大な損害を受けながら、事件の後処理に追われていた。ナンバー2の淡島は指揮を執れる状態にはなく、伏見にお鉢が回ってきた。

――面倒なことを人に押しつけて、自分はさっさとトンズラかよ。

 一方的に後を託された伏見は、元上司に対して何度恨み言を吐いたかわからない。それこそ呪詛のごとく繰り返した。
 それでも伏見がその役割を放棄しなかったのは、八田の言葉があったからだ。

 周防を目の前で失い茫然とした八田を、伏見はこの部屋へ連れ帰った。
 八田にとって周防は誇りだった。周防に与えられた力と吠舞羅の徴を誰よりも誇りに思っていた。中学時代に伏見とふたりぼっちだった世界を開いてくれた周防を失うことは、八田にとって信じていたすべてを抉り取られたに等しかった。
 虚ろな瞳で周防が消えた空を焦がれるように見つめる八田は、話すことは疎か食事も口にしようとしなかった。瞼を閉じればあの時の光景が蘇り、周防の名前を呼んで涙を流し、眠ることさえ拒絶した。
 ダモクレスの剣に心を持って行かれたように、目の前に居る伏見の姿も目に入ってはいなかった。
 目の前に居ながら自分の姿を一切写さない八田に対して、以前の伏見ならば我慢ができなかっただろう。けれど、あの時に感じた八田を失う恐怖に比べれば、ただ八田が居ること、それだけで良かった。
 伏見は、責任者として長く現場を離れることもできず、八田を部屋に残して仕事に出掛け、合間を縫って部屋に戻り八田の世話をする生活を続けた。

 事件から1ヶ月が過ぎた頃、特務隊を中心に残った隊員たちでセプター4の新たな体制が整い、漸く事件の後始末に目処が付いた。
 事件以来、久し振りに早く帰宅できた夜だった。部屋に戻ったばかりの伏見のタンマツが着信を知らせた。ディスプレイを確認せずとも屯所からの呼び出しであることは明白で、伏見は盛大に舌打ちをした。

『……俺だ。ああ……わかった。すぐに戻る』

 通話を終えた伏見は、深い溜息を吐いた。

『美咲。俺はちょっと本部に戻ってくるから、先に寝てろよ』

 返事がないことはわかっていて伏見は八田に声を掛けた。この1ヶ月の間に、一人で居るときには口にすることのなかった「おはよう」や「ただいま」といった言葉や、日々の何気ない出来事を自然と話すようになった。八田から反応が返ってくることはなかったが、それでも伏見は八田に話し掛け続けた。
 一人では何もすることが出来ない八田を残していくのは、やはり気掛かりだった。後ろ髪を引かれる思いで八田を振り返り、玄関へ向かおうとした伏見の背に、小さな声が届いた。

『猿…比古……』

 肩を揺らして足を止めた伏見は、信じられない思いで振り返った。
 床に座った八田が伏見を見上げていた。

『美咲…?』

 恐る恐る問い掛けた声は掠れていた。
 八田の瞳が伏見を写していた。
 伏見はまろぶように八田に駆け寄ると、その体を抱き締めた。

『美咲! 美咲、美咲、美咲……』
『猿比古…』

 1ヶ月振りに聞く八田の声だった。
 腕に掻き抱いた八田の体は細く、折ってしまいそうだった。けれど伏見は、抱き締める力を緩めることができなかった。
 何度も何度も八田の名前を繰り返す伏見の背中に八田の腕が回った。

『行けよ…。行ってこい。お前はお前のやることがあんだろ? 俺も俺にやれることをやる。尊さんにもらったこの力で。尊さんの遺した吠舞羅を守る。だからお前も行け……』
『美咲…』
『待っててやるから。全部終わったら、この部屋で待っててやるから……』


「来てたのかよ、猿比古」

 玄関で扉の開く音がし、八田が帰宅した。
 かつての周防を思わせるファーの付いた黒いフードを被った八田は、少年の面影が消え、裏社会を統べる者に特有の凄みを備えていた。
 思えば今の伏見と八田は、5年前の周防と宗像の年齢に達していた。
 この5年の間に、周防という大きな抑止力を失った鎮目町周辺は、吠舞羅が結成される以前のように治安が悪化し、集団同士の抗争が頻発するようになっていた。
 そんな状況に歯止めをかけたのが八田だった。
 自分を取り戻した八田は、周防の遺した吠舞羅と彼らを頼りにする者たちを守るために、残った仲間たちを纏め上げた。
 王亡き後も吠舞羅には多くの若者が残り、彼らによって鎮目町の均衡は保たれている。

「なんだよ、セプター4は暇なのか?」
「なわけないだろ。そっちこそどうなんだよ?」
「まぁ、ちょくちょく小競り合いはあっけど、問題ねぇな。新しい赤のクランも今のところは大人しいもんだぜ」

 八田が新たな赤の王について言及したことに伏見は目を見開いた。
 そんな伏見の様子に、八田はしてやったりと口角を上げた。

「どうせ、その話で来たんだろ?」
「ああ……赤の王にはもう会ったのか?」
「いや。向こうから挨拶もねーし、わざわざこっちから会いに行く必要もねーだろ」

 新たな赤の王について八田がどんな反応を示すか危惧していたが、それはどうやら伏見の杞憂だったようだ。八田にこだわりはないらしい。八田にとって大切なのは吠舞羅であって、吠舞羅に関わりがない限り興味はない様子だった。

「そっちはまだなんだろ?」

 青の王は未だ不在だ。
 羽張迅の死後、宗像が青の王に選ばれるまで10年以上の歳月を要した。次の王が選ばれるまでにも果たして同じだけの時が必要なのか。王がどれくらいのサイクルで選ばれるのか、ドレスデン石盤の謎は未だに解明されていないことが多い。

「でもさ、赤の王が選ばれたってことは青の王ももう直ぐなんじゃねえの?」

 赤の王の抑止力となるように青の王の存在がある。周防と宗像の最期の姿を目にした伏見自身も感じたことだ。新たな赤の王が誕生した今、八田が言うように遠からず青の王が選ばれる可能性はあった。けれど、その保証はどこにもない。

「まっ、それまで頑張れよ、猿比古」

 まったく軽く言ってくれるものだ。その言葉のお陰でどれほど苦労をしていると思っているのか。伏見は、恨めしい気持ちで舌打ちをした。質が悪いのは、八田のそれが確信犯だということだ。

「全部終わったら俺がこの部屋で待っててやるから」

 周防尊と宗像礼司にとって互いがどれほどの存在であったのかを伏見が推し量ることはできない。けれど、互いの存在に世界を見出していたとしたなら、伏見にも理解ができるような気がした。
 八田がいる世界。
 それが伏見のすべてだった。